オオクボ 多文化と多様性のまち


外国人居住者が37%を占め、マルチエスニックタウンとして知られる新宿区大久保。
多様な文化が混在・共生し、めまぐるしく変容し続けるまちには、昨今の韓流ブームに留まらず、都市の力がみなぎっています。
それは、にわかにできたものではなく、常に移民を受け入れてきた歴史的風土がありました。マイノリティを否定的にとらえるのではなく、文化的多様性こそがまちを面白くしているのです。
20年にわたり大久保でフィールド調査をし続け、『オオクボ 都市の力』をまとめられた稲葉氏に、ダイナミックに新陳代謝するまちの魅力を語っていただきました。


2010.11.26
オオクボ 多文化と多様性のまち

稲葉 佳子

大久保とは、どんな街か
これだけ小さなエリアに各国の様々な人々が暮らし、働き、エネルギッシュに変わっていく街は、世界中を探しても少ないだろう。
20年ほど前に都市コンサルの仕事をしている当時、東京ではバブルの地上げに伴う高齢者の住宅問題を調べていた時に、留学生や出稼ぎ外国人の住まいを巡るトラブルが多いことを知り、そこで実態調査を始めることにしたのが、大久保に関わるきっかけ。
80年代以降に来たニューカマーと呼ばれる外国人が集住していた大久保をフィールドに調査を始めたのだが、どんどん変わる大久保という街を追っていくうちに、20年が経っていた。
31万人の新宿区民の11%が外国人で、若い世代ほど、外国人の比率が高い。新宿区の外国人人口は80年代のバブル期に増加し、2000年以降も伸びている。実に110カ国以上の人が新宿には住んでいる。
なかでも大久保は外国人の集住地域だ。人口の3割が外国人(実際はもっと多いだろう)。最も多いエリアに住んでいる住民の実感では6割程度ともいう。
大久保の街区は縦に細長く、道が走っている。これは江戸時代の下級武士屋敷の敷地割りに基づいている。この歴史を継承する街区が、人々が雑居するチマチマ空間の襞を形成する要素となっている。歌舞伎町に隣接する立地であることや、外国人留学生の増加に伴い、住宅地の中にラブホテルや専門学校が出来てきて、それらが混在して雑居空間をつくりだしている。
よく知られるコリアンタウンは東側にあり、西側は多国籍な街だ。
地域の中心軸となる大久保通りには、外国語の看板も並び、異国の雰囲気。職安通りは、ここ10年で韓流観光地となった。他にも、中国・台湾やイスラムの店や空間が混在している。

大久保の歴史的な変遷
歴史をさかのぼると、大久保は江戸初期に下級武家地として計画的に形成された。
南北に細長い街区は、当時の敷地割りを現在に残しているものだ。
そもそも大久保は、江戸から郊外へ抜ける西の端。東京市の外れであった。
明治40年代、「郊外生活」が流行し、大久保に新住民が移り住んできたため貸家が激増。小泉八雲、徳田秋声、幸徳秋水、内村鑑三なども暮らしていた。外国人や軍人の住まいもあり、毛色の変わった人々が住んでいたという。その当時から、場末の新開地であり、移民の街だった。
大正末から昭和初期は、大久保通り商店街を中心にハイカラな街として発展するが、終戦後、住民の大半が入れ替わる。
歌舞伎町は戦後、新たに区画整理事業によってつくられた街だが、そのベッドタウンとして大久保では木造アパートが増加、昭和30〜40年代には木造アパートや住宅が密集する市街地を形成した。高度成長期のなか、地方から流入してきた人々も住むようになる。
このように、常に新しい人が入ってくる街だったことが、移民都市のDNAとして受け継がれ、80年代のニューカマーの登場につながる。
第1期(1980年代末〜90年代中頃)は、アジアを中心とした外国人ホステスの寮が増える。また日本語学校も林立し、留学生が街に多く住むようになる。それに伴い、彼らが日常的に利用する母国の食堂・食材店や美容院が増えた。そうして外国人に住みやすいということで、同胞が増えていった。

第2期(90年代中頃〜2000年初頭)は、エスニック・ビジネスの拠点形成期である。
外国人居住者の日常的な店に加え、旅行会社など業務が多様化し、一大エスニックビジネスの拠点として成長した。日本人向けの店もできてくる。

第3期(2000年代初頭〜)は、ニューカマーのなかからビジネス成功者が誕生し、大きな店が出現するようになる。韓国とのワールドカップ共催、韓流ブームなどを通して、韓国系店舗が増加するとともに、東南アジア系のおしゃれな店舗も増えて、大久保はエスニックタウンとして、知られるようになる。やがて日本人経営者によるエスニックマーケットへの参入も進み、あらゆるものが交錯した街になっていく。
以前は控えめな在日コリアンの店も、むしろ積極的にハングルをアピールし始めたり、チェーン店が韓国から参入してきたり、西側地域では中国勢が、ムスリム横丁ではイスラム教徒のための食材を売るハラールフード店が増えたり、新しい店が入れ替わり立ち替わり、大久保は日夜変化し続けている。それが「オオクボ」だ。

データでみるエスニック・タウンの成長と発展
5年ごとの店舗の変遷をみる。90年頃はちらほらと韓国系店舗が見られた程度だったが、徐々に、職安通り、東エリアを中心に韓国系店舗は急増、現在ではコリアンタウンというに相応しい集積となっている。
西エリアには、中国系や多国籍の店舗が目立つ。
また、業種としては、当初飲食業が成立し、90年代後半からサービス業の成長と業種の拡大、2000年代中頃からは韓流による飲食業の増加がみられる。
このような中で、大久保の人々は、どのように新たな住民たちと向き合ってきたのか。
90年代当初はニューカマーへの接し方に戸惑いが見られる。「外国人お断り」という不動産業者が地区内の9割を占めていた。外国人居住者はゴミを分別しない、知らないうちに友人と同居している等々のトラブルがあった。
最初は単身者が多かったが、徐々に家庭を持つようになり、保育園・小学校での親同士のつき合いが広がるようになる。今や、6、7割は外国にルーツをもつ子どもたちだという。歌舞伎町が近いこともあり、シングルマザーやいろんな家庭環境の子どもがいる。それに対応して24時間保育・夜間学童保育などもあるが、実は深夜遅くまで働く霞が関官僚の子どもたちも通っていたりする。
商店街はどうだろうか。地元商店主の高齢化で廃業が続き、そこが外国人の店に置き換わっていく。
今では、外国人なくしてこの街の経済は成り立たないようになっている。

多文化・多様性とは
地域の人にとっては、「多文化共生」というよりは、気が付くとこうなっていた、という状況。
そんななか、ニューカマーと地元住民が話し合いれ、率直に意見を言い合える関係が築かれている。大久保では、こうした人と人の顔が見える関係がお互いに交錯し、時にはぶつかり、そういう中から生まれてきた。境界が曖昧になる中で、地域の人とニューカマーは、相互に影響し合い、相互に変容しているのだ。
大久保の多文化は、平面・立体的に混在する都市空間に表出される。混在は空間だけでなく、時空をも越えている。ラブホテル街とエスニックタウンで、歴史を継承する鉄砲百人隊のパレードが違和感なく行われていたりする。
また、国籍だけでなく、シングルマザーや大学教授など、多様な人々が混在している。そんななかで不動産業者も「外国人お断り」から「外国人歓迎へ」となるなど、外国人を受け入れ、自分たちも変わることでうまく関係を築けるようになってきた。
多様性は生易しいものではなく、それなりの覚悟がいる。マイノリティを排除するのではなく、凝縮したエネルギーによって、日々オオクボは更新しているのだ。
 すべてを受け入れてこそ多様性
 軋轢なくして交感なし
 変化に終わりはない
これがオオクボから得られるメッセージだ。
元気のない今の日本の街へのヒントが、ここにあるのではないだろうか。
撮影:稲葉佳子 撮影:稲葉佳子 撮影:金沢祐吉


質疑応答

Q:ビジネスの参入がしやすく、マーケットが拡大しているということだが、新しく日本人、とくに若者がビジネスに取り組む萌芽はあるか?
A
不動産業者は外国人対象にビジネスチャンスを拡げている。商店街の二世世代でがんばっている人もいる。
本当の意味での国際都市になれるのではないか。
オオクボが多文化共生のモデルになりうるのではないかと期待する声もある。しかし韓流の影響は大きく、現時点では外国勢の勢いが圧倒的に強い。
わりと賃料が高いので、日本人の若い人が入りにくい。外国人はチャンスと見ればすばやく参入し、引く時はさっと引くというビジネススタイルが日本とは違うようだ。
日本の若者にも、これからオオクボで新しいチャンスをつくる人がでてくることに期待している。

Q:オオクボは特殊か。
他の都市でも同じように外国人がどんどん入ってくるのだろうか。
グローバル化しているから外国人は増えるだろうが、政策として対策ができているかは疑問。
賃貸・不動産の問題など、対応する制度・法律は整備されているか?

A
オオクボは必ずしも特殊解ではないと思う。東京は、江戸時代から流動性の高い土地であったし、オオクボは象徴的ではあるが、そのひとつにすぎない。
ここまで特徴的ではないにしても、新宿区にはいくつか外国人コミュニティがある。高田馬場には今、ミャンマー人が増えてるし、神楽坂にはフランス駐在員が多い。そういう場所は後続者が入って来やすいのではないだろうか。
もうひとつの不動産については、取得が進んでいる。
バブル崩壊後、不良債権として売却されている物件を外国人が買い取るケースもあった。

Q:関東大震災の影響は?
A
関東大震災の影響はほとんど受けていない。むしろ明治・大正期の人口増加が目立つ。

Q:オオクボの生活や、日本人・他の外国人との関係について、ニューカマー自身はどう語っているか。
A
例えば韓国人の場合、80年代後半に来た第一世代(現在50代)は、オオクボがコリアンタウンと言われることに批判的な人もいる。
彼らは時間をかけて日本人との関係を作ってきた世代なので、日本人の街が韓国人の街と呼ばれることに対して、それは地域住民の気持ちを考えると失礼だという人もいる。
一方、韓人会という、主に韓国人経営者らで構成される団体には、コリアンタウンを売り出したいという人もいる。しかし自分たちの意識と地域の意識との間にギャップがあることを感じて驚いた。そして、日本人との関係づくりに努めるべく、今、清掃活動などを行っている。
もっと若い世代には交流を深めようとしている人も多いのではないだろうか。
世代やその人の環境によって、考え方は違うだろう。個人的には、フレンドリーな人が多いと思う。

Q:多文化の人が集積した場合、住み分けがあることが一般的だが、オオクボは違うように思う。
ニューカマーがたくさん集まるオオクボでは、生活習慣や文化背景が異なる人が一緒に暮らしているが、そこでは、住まい方の工夫はあるのか。
A
ここには大学教授もいれば、ホステスもいる。新宿は多様な人が住んでいる雑多な街で匿名性が高い。
都市的なコミュニティが存在し、他者との距離の取り方がうまい。
そこが、いろんな人が入りやすいことにつながっていると思う。

Q:住まいのハード面での変化はあるのか。
A
店舗のリニューアル、コンバージョンが顕著に見られる。
韓国から改装業者が入ってきているようで、日本では考えられない奇抜なデザインが目立つ。
賃貸借についてはソフト面での対応が見られる。普通、又貸しはご法度だが、ここでは常習的にみられる。業界ではそれなりの対応方法を身につけている。家賃は絶対に振り込みにさせないなど、コミュニケーションが取れるよう、大家が工夫をしている。

Q:中心市街地で大事なことは、雑居・雑踏、そこはジャパニーズドリームを実現させる場所だと、藻谷浩介さんもおっしゃっていたが、オオクボはそれを体現している場所だという印象を受ける。
日本には、本来の都市性を失って、多様性を恐れる街が多いのではないだろうか。オオクボの特殊性についても話があったが、日本の他の街と比べて、どう感じておられるか。

A
地方都市の状況にはあまり詳しくないが、先日、浜松で聞いた話にショックを受けた。浜松は日系人が多い街だが、元町役場を日系人など外国人のための日本語学校にする計画が、近隣住民から猛反発を受けているというのだ。まわりに人家もない場所なのだが、外国人=犯罪というイメージがあるようだ。
これだけいろんな国からいろんな人が来ている現状において、あいかわらず日本は閉じた世界であるというギャップを感じた。


参加者アンケートより

多様性=多国籍というだけでなく、様々な家族の形態、ライフスタイルをも受け入れる懐の深さがあるという点が非常に興味深かった。
  *
長い時間をかけて身につけた(人との)距離感覚というのは、今後、外国人を受け入れていくべき日本にとって非常に参考になると思った。
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大久保=コリアンタウンというイメージが強かったので、様々な国籍の人々が居住していることにまず驚きました。また、日本人居住者との地域交流が想像以上に成立していることも興味深かったです。
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「雑」多様性・多文化を許容するフレームの秩序に関心が向きます。とても面白かったです。
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“街のDNA”というフレーズが大変印象に残りました。近年“共生”のまちづくりでは、とかく短期的な問題、目標にばかり関心が向けられがちですが、歴史的に培われてきた地域の“パワー”の偉大さが伝わってきました。
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大久保の韓流ブームに乗って人の押し寄せる現在の状況しか知らなかったので、歴史的な地割りや空間的(平面的・立体的)にも混在していることを説明していただいて参考になりました。
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本当の国際化とは何か?を考えさせられた。言葉上の共生という美句とは違う、経験を踏まえた多文化の居住のあり方、接し方に説得力を感じた。「シングルマザー、ゲイなど、様々な家族のあり方も含めた多文化」という言葉が印象的であった。
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閉鎖的な日本における特殊な街とも言えるが、今後の日本の方向を考えさせられる内容であった。

以上、ありがとうございました。

(まとめ:編集N)




『オオクボ 都市の力』
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