ベトナムで可能な理想の都市づくり

兵庫県  難波  健

 
 ◇稲作文化圏に住む人々は、都市居住においても農地との関係を意識することが大切
 ◇ハノイの都市開発において、開発に農地を組み込むことを考えることが必要ではないか
 ◇日本の都市開発での失敗から学んでもらいたい

理想の都市に向けて-----------------------

 東南アジアの密林と、滔々と流れる幅広い川を眺めていると、理屈抜きに安らかな気持ちになる。そこにどんな人が住んでいるかを考えるまでもない。高床の家、床下につるされたハンモックにゆらりとゆられる人。こういったゆったりとした風景が都市に活かせないものだろうか。日本にも昔はこういった風景が随所にみられた、それは郷愁でも回顧でもない厳然たる理想の住まいであったと評価できる。
 高度経済成長が理由かどうかわからないが、日本は多くのこういった風景を切り捨ててきた。それは日本の成功ではなく、失敗であると私は思う。今、日本では、中心市街地の活性化、都市農地の活用、高層マンション問題、計画不在の施設づくり偏重、といった数々の都市施策の課題が言われている。新たな都市づくりでは、経済成長に付随して生じる同じ間違いを繰り返さないでほしい。
 日本の都市に関わる者は、その経緯を丁寧に説明して、理想の都市に近づく方法をともに考える義務と責任を持っている。

都市に農地を組み込む

 我々の大きな失敗の一つに、都市に農業を組み込み損ねた計画の誤算があったと思う。
 都市がだんだん大きくなり、その中で生活する人間は、金を稼いで生きていく。しかし、都市生活の中で、本来人間は食物生産のサイクルの中で多くのネットワークと関わりながら生きていくのが望ましいと思うようになってくる。農地から都市用地への急激な変化は、一部の人間には経済的に望ましいことであっても、多くの人間の生活、生産、コミュニティ活動にとっては必ずしも好ましいことではない。悠久の時間の流れの中で、大地とともに過ごすことを実感できる幸せが感じられる都市が、我々稲作文化を持つ民族にはふさわしいのではないだろうか。


ベトナムの原風景

 今回のハノイセミナーに向けて、私はラオスのビエンチャンからカオチェオの国境を経てベトナムに入り、山の中腹を縫う道路をバスで駆け下り、日本の谷間の集落に酷似した民家を抜けて広々とした稲原を走った。稲を刈る人、運ぶ人、籾を処理する人を車窓から眺め、人家や沿道施設が混み合ってきて自転車やバイクが多くなり、家並みと家並みの間隔が次第に短くなり、やがて大都会ハノイの喧噪に入り込む。
 セミナーで案内していただいたハノイ郊外には、まだ大きな稲原が広がっていたが、それは都市化をめざし、宅地への転換を図るべき用地であるとのことであった。


都市と農地

 土地利用区分というと、大きくは宅地と農地と山林に分ける。ここまではいいのだが、宅地を構成する住宅用宅地と工業用地、商業用地のそれぞれの必要量というのが、日本ではどうもはっきりしない。開発者がいて開発したいと言えば、その能力を信じ、やりたいところでやりたいように開発を許してしまう。かろうじて、開発用地内の道路や公園、下水や敷地の安全性などを基準に照らして見る技術の適用は行うが、本当にその場所が開発に適しているのか、面積は、時期はということになるとそれを総合的に審査して許認可する権能を持つ組織がないのが実情である。
 私は農業の専門家ではないが、あえて農地について感じるところを言えば、稲作に工夫を加え、生産技術を向上させた結果、日本では減反を余儀なくされてきた。これによって生じた非耕作田の土地利用というのは一体なんなのだろう。我々が想定している農地は、日本の基本的なランドスケープを構成する美しいものであったはずである。
 日本の研究者の一部では、都市計画と農村計画を一緒にするべきだとの議論が高まっているが、これは至極当然のことと思われる。


理想の都市ハノイ

 ベトナムの原風景を都市の中で感じられる理想の都市ハノイのために、都市生活者に魅力ある悠久の空間をつくるためには、都市住民が居住しながら、私が感じたベトナムの田園風景が体感できる都市づくりはできないものだろうか。 

  目次へ  


水のある美しい首都の景観づくりを!!

大阪大学 山本 茂


 ◇水のある風景を大切にし、都市の無制限な拡大と高層化を制限する必要がある
 ◇新住宅開発地の中に人々の交流の空間や支え合いの仕組みをつくる必要がある

ハノイを印象づける水のある風景

 ベトナムで撮った約300枚の写真を改めて見ていて、「ああ、いいな」「ベトナムらしいな」と思う写真は、人々に住み・使い続けられてきた伝統的な町家やVilla、公共建築、活気のある市場などとともに、川や湖、池、水田などの水のある風景です。
 ハノイの歴史を記した冊子によると、ハノイの旧市街地は、Red riverの近くの多数の湖や池のある地区を開発して出来たとのこと。この意味では、ハノイは水との戦いによってつくられたとも言えますが、ハノイの真ん中には市民の憩いの場所であるホアンキエム湖があり、また郊外には多数の湖が存在し、農業生産や環境の維持に貢献しているだけでなく、心なごむベトナムらしい景観を形づくっています。現在のハノイは、水と戦いつつ、水と共存していると言えるのではないでしょうか。


水のある風景を大切にする

 しかし、今後はどうでしょう。市の都市計画担当者の話しによると、人口の増加に対応するために高層住宅の建設が緊急の課題とのことであり、現に外国資本によって超高層〜低層の住宅地が次々に開発されており、中には湖を埋め立てているものもあると聞きます。
 急速な経済的発展を遂げているベトナムでは、今後、都市の拡大が間違いなく進むでしょう。そして、これまでの世界の近代都市、いや日本の都市が歩んできた歴史から推測されるのは、高層・高密度な、息の詰まるような空間と個性の感じられない景観です。ハノイは東京や大阪のような街になるのか、あるいはこれを回避できるのでしょうか。
 今回訪問したJUDIのメンバーの多くが住む大阪は、かつては川と水路が張り巡らされた「水の都」と呼ばれましたが、戦後の埋め立てによって街の風景や風情が大きく変わりました。そして、都市のアイデンティティを失ったことに気づき、「水の都」を復活させるさまざまな努力をしているのです。人々に「行ってみたい」「もう一度行ってみたい」と言われる魅力的な街をつくるためには、水のある風景を大切にすること、都市の無制限な拡大を抑え、超高層建築の許可地域を制限することなどが重要ではないでしょうか。

ハノイのシンボル−ホアンキエム湖 湖に浮かぶようなイエンソの村

村の維持管理と交流のための場所−Dinh

 ハノイとその郊外を視察した中で感銘を受けたものに、旧集落の中心にある集会所(Dinh)があります。ボクニン(Boc Ninh)のDinhは、煉瓦葺き・入母屋の建物が太い柱に支えられて、村の中心的な場所にどっしりと建っていました。中に案内されると、宗教的な雰囲気をもった吹き抜け空間の両側に、寄り合いのスペース、歴代の村の指導者や記念式典の写真、ベトナム戦争の時に村の人々が戦った場所を示していると思われるボードなどが掲示されたスペースがあり、この建物が村の共同体の維持管理や交流の場所として、人々によって大切に守られてきたことを伺わせます。さらに、入り口にあった義援箱は、助け合い・支え合いの精神や仕組みを伺わせます。
 このような人々の交流の場所は、ハノイの街の中では、さまざまな公共施設、あるいはレストランや喫茶店、屋台などが果たしているのでしょうか。これに加えて、細長い敷地に複数の建物が、通路や中庭、階段などによって、分節されながら連続して建っているハノイ特有の奧行きのある伝統的な町家(Shop House)は、複数の家族が都市の中で共に住むために、長い歴史の中で生み出した、優れた空間構造であると感じました。


都市開発の中に人々の交流の空間と支え合いの仕組みづくりを

 ハノイ郊外のBinh ComgやLingdomなどの新住宅開発地には、都会的な生活を求める人々のニーズを満足させるような、近代的な住宅群と美しいまちなみが見られました。しかし、人々はどこに集まって話をしたり、笑ったり、助け合ったりするのだろうと、少し気になりました。
 ハノイでは、今後、住宅地の開発が進むと考えられますが、住宅の量的な確保とともに、旧集落のDinhや伝統的な町家に見られるような、人々の交流の空間や支え合いの仕組みづくりを同時に進めていくことが重要ではないでしょうか。

Boc Ninhの集会所 Binh Comgの新住宅開発地

                 

▲ 前へ   目次へ   


『21世紀、世界で最も美しい市街地の夜景』

関西大学/現代計画研究所大阪 江川 直樹

 水と緑にあふれるハノイの市街地は、他の近代国家の首都にはないヒューマンなスケール感にあふれている。この市街地の構造は、継続・維持すべきである。今は、車やオートバイであふれているけれども、もう少しそれらが減った状態を想像できるならば 、他の国にはない魅力にあふれた中心市街地の姿を思い描くことができる。アメリカや日本、中国の首都とは違ったハノイが重要だ。僕は、この秋のハノイで、そのことを想起させるいくつかの姿に出会った。

 市街と郊外の様々なシーンを見て回ったハノイセミナーの後、難波さん、横山君、木村君とローカル鉄道でハイフォンへ。ミニバスに乗り継いでバイチャイ迄。翌日、奇岩と筏住居の湾クルーズを終え、3人が帰った後は一人旅。翌朝ハロンベイの朝陽を楽しんだ後、3時間半のミニバスでハノイ、ザーラムバスターミナルへ。バスを降りた後は、市内のホテルでアフターヌーン・ジン。16:30の開店を待ちわびるようにそこからタクシーを飛ばし、ソフィテル・プラザ・ハノイの20階サミットラウンジへ。エレベーターを降りたオープンエアーのテラスの正面にはタイ湖の向こうに真っ赤な夕陽、左手にはハノイの市街地。物思いにふけりながら、イブニング・ジンを楽しんでいると、知らぬ間に陽は沈み、ハッと我にかえると目の前には驚くような美しい夜景が。『21世紀、世界で最も美しい市街地の夜景』がそこにあった。少なくとも僕にはそう思える美しい夜景だった。明るすぎず、暗すぎず、水面にほのかに反射し、森影にちらちらゆれる街灯り。穏やかで目に優しく、心に気持ちよい最高の夜景との遭遇だった。

水と緑にあふれる低層の街、首都ハノイの市街地

▲ 前へ   目次へ   


20世紀化の過程において−−知的な社会発展を展望して   

アルパック 堀口 浩司

 急速な社会経済の発展によって、無意識のうちに魅力的な景観が破壊されている。下の写真は2001年(左)と2004年(右)に2 カ 所ともほぼ同じ場所で撮影したものである。2カ所ともにハノイの郊外であるが、明らかに左の写真の方が魅力的な風景である。 

2001年5月 2004年9月

  ハノイという名は中国語の「河内」が語源であると聞いたが、この都市の発展と水との関わりは極めて重要であり、水資源の賢い活用こそ、この都市の生命線となるだろう。中国の雲南省から発する紅河(ソン・フォン)では、下流部だけの努力では水質の改善ができないが、この流域の大都市は昆明とハノイぐらいなので、総合的な水管理の努力を期待したい。
  ドイモイ以降、急速な「近代」化を進めているのは、大いに結構なことである。その一方で隣国中国やベトナムの都市地域では環境悪化(特に大気汚染と水質悪化)がすすみつつある。このような環境問題の深刻化が都市の成長の限界となることは20世紀に先進的都市地域で体験したことである。
  そのため、失われつつある風景を惜しむという意味だけでなく、水のある環境を重視し、有効な利用という視点で都市の発展を考えて欲しい。水資源の利用を治水・利水というだけでなく、農業や製造業、あるいは観光業などの総合的な産業政策や土地利用と結びつけた、21世紀的な都市発展のモデルを追求していくできであろう。日本がヨーロッパの産業革命以降の都市計画を参考とし、戦後のアメリカ型の市民や企業とのパートナーシップ・システムを学んできたことを振り返れば、今後はモンスーン地域における環境と調和する都市および社会発展モデルを検討することが必要である。

▲ 前へ   目次へ   


周辺環境に応じた建築の『形態』

関西大学大学院 横山 大樹

 ◇個々の状況に対応していくことで多様性のある開発をする事
 ◇既存の周辺環境と関係付けて、建築レベルで『形態』を議論する事

 車中からハノイを眺めていると、色々な場所で湖のある豊かな風景が目に飛び込んできた。旧市街地区のキエム湖をはじめ、社会主義時代の団地など、訪れた先々でも湖のある風景が我々を迎えてくれた。見学者にすぎない私には具体的に首都ハノイと湖の結びつきがどのようなものであるかは知りえないのだが、湖が数多く存在することはホーチミンや他の世界中の都市とも異なるハノイという都市の特徴である。
 
 水はどこでも神聖なものでとして扱われるものである。しかし、ハノイ周辺の中でも、それぞれの湖ごとにその周辺の人にとって湖に対する扱い方はそれぞれ異なったものである。その扱いの違いがそのまま風景に多様性をもたらしている。それぞれが異なったものであるから、どの湖を眺めていても飽きる事はなかったし、ときおり車窓に現れては消える湖や川のリズム感がハノイの街を単調なものにさせていない要因であると感じた。
 
 急成長を遂げるベトナムの首都であるハノイでは新しい建築や都市開発が進み、その様相は大きく変化しようとしている。そのような状況下で最も恐れる事は、市内、郊外など個々の状況に隔たりなく同じようなものを造ってしまうことである。残念ながらその兆候を郊外で見る事となった。
 湖地区の農業、魚養殖から住宅開発地への転換が行われているイェンソでは、新たに学校が建設されたのだが、それが造られたのは湖の風景が見渡せる場所であった。その湖の一部を埋めたてて出来上がったのは日本でもおなじみのコンクリートでつくられた画一的な大きな箱の学校であった。そこに新しい学校をそこにつくる必要があったとしても、その状況に対応して、例えば、湖の水上に浮かせて、周辺の環境に合わせてボリュームを分散した校舎を造り、水辺が子供の遊び場になるようにしてやる事もできたはずである。その環境に適した新しい建築物ができることは、そこから見える風景を変えてしまっても、校舎と子供の遊ぶ風景が新たにそこに生まれるのである。
 また、湖に囲まれた高層型のニュータウン、リンドンも周辺が湖であることと関係なく造られている。ニュータウンを造るにしても立地を考えれば、高層ではなく周りを取り囲む湖との親水性が高い空間を持つ集住体を建設することができたはずである。
 
 都市の発展を考える上で重要なことは、新しいものを造るのか造らないのか、古いものを残すのか残さないのかだけが問題なのではない。個々の事例、個々の環境に対してどのように造るのか、どのように残すのか、その状況に応じた具体的な建築の形態のレベルで議論することである。湖ごとに湖に対する扱い方の違いが多様な風景を造り出してきたように、新しく建設されるものもそれぞれの状況にあわせた形態で、多様性を作り出す事が次の時代にも受け継がれる都市を造る上で求められるのべきではないだろうか。

▲ 前へ   目次へ   


Vietnam〜光と影の記憶〜

LEM空間工房  長町 志穂

(タイトルをクリックするとパワーポイントで表示されます。更に拡大してご覧になる方はIEで、PPTボタンをクリックしてください)

▲ 前へ   目次へ   


水と緑に映える美しい歴史都市ハノイづくりに向けて

                      (株)都市空間研究所  松山  茂 

◇紅河のデルタ地帯に築かれた古都ハノイでは、湖沼などの水辺空間を保全し、経済的にもうまく活用して、「水と緑に映える美しい歴史都市ハノイ」を維持する方法を検討すべきである。
◇Yen So地区などの「水辺と共存した美しい集落景観」の保全は、国際観光資源等の湖沼が生み出す多様な資源としての価値を再評価し、その機能を強化するとともに、農業の付加価値の向上等による農村地域の活性化の観点から検討すべきである。

○水と緑に包まれた都「ハノイ」

・ハノイは、古くから大河川「紅河」のデルタに築かれた交易地で、河川や水路、及び湖沼が多く、水や緑と調和しヒューマンスケールで歴史を感じる美しいまちである。
・今回訪れた農村部のYen So地区では、湖の周辺に集落が形成され、水面や田園の緑と調和した美しい風景を形作っており、ベトナム人の集落づくりの感性の高さを感じさせ、農村地域の貴重な文化遺産となっている。
・都心部では、街路樹等公共空間の緑とプライベート空間の緑が大きな視野を占めて樹陰をつくり、新旧の建物が密集するにぎやかな町並みを被覆して、潤いのある都市の雰囲気を醸し出している。

豊かな緑に覆われた旧市街地 ホアンキエム湖畔 湖と調和したYen So集落景観

○急激な都市化や経済発展に伴う水との共存関係の悪化

・ハノイはフランス統治時代に約15万人の都市として設計されたと言われているが、今では人口300万人超まで膨張し、都市への人口集中や郊外開発等に伴い、交通問題が深刻化すると共に、地下水に頼る上水の不足や、河川や湖沼等の水質が悪化し、本来の美しさが失われ、環境衛生上も大きな問題となっている。
・農村部のYen So地区では、学校用地の確保など新たな宅地創出のために湖沼の埋め立てが行われ、美しい集落景観が失われ、湖沼などの水辺と共存してきた環境、景観が一変し、農村地域の魅力を失いつつある。

下水化した郊外の湖沼の風景 湖の宅地化で一変した集落景観 農村集落の湖畔の風景

○水や緑と調和した美しいハノイ都市圏づくりへ

提案1.市街地部の湖沼を多面的に利活用して、美しく潤いのある都市ハノイの保全につなげる。

@湖沼を活かした公園づくり・・・・・湖沼の周辺部は旧市街地のホアン・キエム湖のように、市民の憩いの空間や観光名所として一体的に整備する。
A 湖沼を豊かな水資源として利用・・・・・早期に供用できる生活排水や汚水処理システムを導入して、水質を改善し、湖沼の水を水洗トイレなどの中水道等として利用し、水資源の循環システムを作り、地下水に頼っている上水資源を補完する水資源として活用する。
B 湖沼を利用した環境都市づくり・・・・・湖沼には、バイオマス燃料となる水生植物を栽培し、富栄養化の防止を図る。また、バイオマス燃料をバイクや自動車の燃料として利用し、都心の排ガスの改善を行い、環境に優しいまちづくりを促す。
C 湖沼の保全による防災まちづくり・・・・・湖沼を環境資源や景観資源として利用する他、平時は水位を下げて、大雨時の洪水調整池としての機能を持たせ、水害の防止に活用する。

ホアンキエム湖畔の公園 水と緑に映えるYen So集落 水面に映えるデンド寺院境内

提案2.湖沼と共存した美しい集落景観の保全は、都市との交流の活発化等による経済基盤づくりから

@ 市民のリフレッシュ空間づくり・・・・ハノイ都市圏の都市化が進むほど市民のリフレッシュの場が必要となる。広々とした農村での農業体験や、水や緑と調和した美しい集落景観は、市民の憩いの場としての価値が高まる事から、都市との交流の活発化とリフレッシュ空間としての魅力づくりを促す。
A 国際観光資源づくり・・・・・水や緑と調和した美しい集落景観は、欧米諸国や日本には少ない特徴のある景観であり、農村の文化資源である。旧市街地の歴史文化的な魅力と共に、今後、ハノイの有望な国際観光資源の一つとして保全し、農村型観光地として付加価値を高めるべきである。
B 生鮮野菜等の供給基地づくり・・・・・大都市ハノイの食を支える生鮮野菜の供給基地として、生産技術の向上、産地直売システムなど流通開発、農畜産物の加工製品開発等により、農業の付加価値を高め、農村集落として自立できる経済基盤の確立を促し、湖沼の安易な宅地化を防止する。
C 湖沼の水質改善による水資源としての多面的利用・・・・・生活排水や汚水処理システム、及び畜産排水処理システムの整備により、農業用水や日常生活用水として利活用出来る水質の保全を促す。

▲ 前へ   目次へ 


ハノイ印象記  ハノイ花村 

大阪大学 鳴海 邦碩

花の好きなハノイの人たち
  ベトナムの人びとは花が好きなようだ。露店や振り売りなどの花屋さんが目に付く。花ばかりではなく、鉢物にするような植物や、庭木の苗木も売っている。市内で目にするのは、皆、自分で採取してきたようなものばかりだ。主として女性が売り歩いているのをよく目にする。ベトナム戦争の最中でさえ、ハノイの町には花が飾られていたというから、よっぽど花好きの文化なのだと思う。
  ハノイの人は、バラの花、それも赤いバラの花が好きなようだ。インドネシア、とりわけバリの人びとも花が好きである。しかし、バリでは、熱帯の花だ。それに対して、このハノイでは、「紅薔薇」、何ともヨーロッパテーストである。フランスの影響なのだと思う。

 写真 街角の花売り  写真 近郊農村から来たらしい花売り

花の村
  ハノイの都心からそれほど遠くないところに、「花村」と呼ばれる地区がある。つい最近まで、園芸の中心的な地区であったが、市街化の波に洗われ、大きく変貌してしまった。密集市街地が形成されている一方で、フラーワー・ビレッジと呼ばれる高級住宅街が開発されたりしている。しかし、その片鱗は少ないながら残っている。花の栽培園や、園芸商の存在が、そうした過去を思い出させてくれる。
  テト(旧正月)に飾る鉢物の桃の花は、ここで栽培されたといわれるが、その産地も含め、園芸地区は、西湖の北側の地域に現在は移っている。移った先も、今は開発ラッシュで、そこでの存続も難しくなっている。

写真 花村に残る花卉の圃場
写真 花村に開発されたフラワービレッジ 写真 花村に残るお寺
写真 花村辺りに形成された密集市街地 写真 花村に残る園芸商

ハノイの特産村
  ハノイの周辺には、特別の産物を生産する村が分布している。青銅器類を作る村、綿織物の村、絹織物の村、薬草の村、果実の村、園芸の村などである。そうした村は、急速な市街化の影響で、住宅街に変貌したものが多く、産地は他所に移転してしまったといわれる。但し、絹織物の村の存続は確認できた。
  このような村では、それぞれ地場産業と密接に結びついた神が信仰されており、それらの神々が各村にいると信じられているという。専門家も開発一辺倒ではなく、農村的な環境も大事にするべきだと、次のように述べる。「ハノイ周辺には、1000年の歴史を持つ村もある。新しい都市を造りながらも、昔の仕事や歴史・環境を残していく必要があると考える。郊外の発展は必要であるが、古い伝統や神話性というものも大切にしたい」。

村の環境を現代に活かす
  花村に見られるような圃場は、いわば市街化区域内農地、生産緑地である。日本の経験から考えれば、公園の一種のような緑地として活かしていくことが考えられる。
  そうした緑地として、環境の質的な向上に役に立つと同時に、歴史性を感じさせる場所にもなる。伝統的な村には、池と菩提樹と寺という三点セットがあるといわれ、このことも併せて、市街化にメリハリを付けるのが重要である。

ハノイ市街化図と花村  1925-1996
1997年作成の地図から。
航空写真の基づいており、航空写真はもっと以前に撮影されたと考えられる。
濃い部分は市街地。その後、市街化はさらに進んでいる。

▲ 前へ   目次へ 


ミセとミチとの関係に都市のダイナミズムを見る

−人間の顔の見える都市

大阪大学  澤木昌典

   ベトナムの都市では、ミセとミチとの健全な関係が生きている。そこに都市の活気と賑わいの源泉があり、モータリゼーションの    進展や郊外化などでそれを失ってしまった日本の都市の二の舞となることは避けて欲しい。

  都市を成立させ、特徴づける大きな機能のひとつに商業(店=ミセ)がある。ミセは、商人が商品を定常的に保有しそれをミセに訪れる客に売ることで成り立つ。現代では商品の購入はインターネット上でもできるが、商人から客へと直接商品をやりとりする行為が都市に存在すること、そして商品を買う客たちが都市を行き交うことで、都市には可視的なアクティビティや活気が生まれる。そのような客がミセへとやってくる空間がミチ(=道)である。モノを買うという明確な目的をもたなくとも、単にミチを歩いている人がたまたまミセに並ぶ商品を見てそれを購入するといったこともしばしば生じる。ミセの側ではいかに客の目を引くかが腕の見せ所となり、買う方も品定めや値踏みに目を光らせ、双方での言葉によるコミュニケーションも生じる。
 このような都市のダイナミズムは、そこにミチとミセとの間のしっかりした関係があることから生じる。それはミセがミチに向かって開いている関係であり、商人と客とが直接的に目線をかわし会話をかわすことができる関係である。現代のわが国の商業空間、とくに再開発ビルなどではこのような関係が希薄になっている。ミセとミチの間はショーウィンドーであったり、セットバックした駐車場であったりすることが多い。
 ところがベトナムの都市には、都市成立の原点ともいうべきこうした関係が力強く残っている。写真1はハノイ郊外の田園地帯にある沿道店舗である。ミセはミチに接するという原型が見える。写真2はハノイの歴史的街区36番街、写真3は同地区の敷地割り図である。ミセにとってはミチに接することが死活問題であり、ミセが間口の確保を競い合いながら各敷地が狭長なウナギの寝床のような形に分割されている様子がよくわかる。このような街区の内側には住居があり、写真4のような狭く長い路地がミチとの間を結んでいる。

写真1 沿道店舗 写真2 36番街の店舗 写真3 36番街の敷地割 写真4 街区内部への路地

 ミセに人がやってくれば、その人を狙った商売も起きる。その客が通るところはミチであり、ミチの上にもミセが開かれる。写真5はハノイ滞在中のホテルの窓から窓下の店舗付近の午前7時頃の様子を撮ったものである。写真上右奥の店舗周辺に野菜や果物、豆腐、鶏肉などを売る露天商が、各家庭の朝食材料を売りに集まってくる。また、写真6はハノイの集合住宅の5階建ての住棟間の通路の様子である。通り(ミチ)に面して1階部分が両側からせり出してミセになっている。こうした増築はあちこちの集合住宅団地で見られる。人が通るミチがあれば、商売(ミセ)が成り立つ。町中に人が住み、こうした関係が濃厚に成立している限り、中心市街地の衰退などは心配無用である。

写真5 店舗付近の路上で展開される商売   写真6 集合住宅団地住棟間の店舗

 ホーチミンの集合住宅では、ミセが住棟内にまで入り込んでいる光景に出会った。写真7は集合住宅1階部分の住戸、写真8は同住宅の2階部分の住戸がそれぞれ共用の通路に向けて、自らの戸口に日用品や食品を扱うミセを開いている風景である。写真9は、別の集合住宅の4階部分の共用廊下に洗剤などの商品陳列棚を並べている風景である。商魂たくましい。一方、客(集合住宅の居住者)からすれば優れて実用的である。

写真7 集合住宅1階の戸口店舗 写真8 同2階の戸口店舗 写真9 4階部分の戸口店舗

 ハノイの36番街では、南北に貫くハンダオ通り〜ハンガン通り〜ハンドゥオン通り〜ドンスアン通りにかけての延長約700mの区間を金曜日〜日曜日の週末の夕方から24時までの間、歩行者専用とする試みが2004年10月から始まった。写真10・11はその初日の風景である。初日なのでセレモニーが開催されていただけであったが、道路中央には露店の位置を示すと思われる区画のマークがあり、今後は露店なども出てより一層賑やかな通りになるのだろうと思われた。両側がガードレールや柵でおおわれた日本の街路で行われる歩行者天国では人は場違いなところを歩いている感に襲われるが、ミチとミセとの生きた関係があるハノイで行われるこうした試みでは、まさに「都市の中のミチとは本来こういうものなのだ」ということを実感させてくれるのである。

写真10・写真11 ハノイ36番街での道路の歩行者専用空間化初日の様子

▲ 前へ   目次へ 


都市名「ハノイ」の意味は「河内」

−水網都市としての湖や池の保全と活用 

                                                                                大阪大学 澤木  昌典

ハノイは川の中の都市という意味だが、その自然地形の特徴であり環境資源であるはずの湖や池・川が下水の流入、個別開発による埋め立てやゴミ投棄などでないがしろにされている。下水道整備と湖・池・川の周辺整備を急ぎ、人々の都市生活に潤いと憩いを提供するこれらの環境資源の早急な保全を図るべきである。

 ハノイは紅河デルタに立地する都市である。「ハ」は川・河、「ノイ」は内側を、即ちハノイ=河内を意味する。ハノイ市内にはかつての氾濫原の名残ともいうべき、多くの河川や湖、池が残っている。市の中心部にあるホアンキエム湖は周辺が公園として整備され、市民の憩いの場となっている。また中心北部にあるタイ湖(西湖)は市内でもっとも美しい湖として市民から愛され、別荘開発やヴィラ形式の住宅開発などの整備が少しずつ進んでいる。このような比較的大規模な湖・池については公園整備が進められている。
 一方で、小規模な湖・池には、次の2つのタイプがある。一つは、下水道の未整備から流入河川を通じて生活排水の流入しているタイプで、これらの河川や湖・池では水質の悪化が甚だしく、水面や堆積した汚泥が悪臭を放っている(写真1・2)。もう一つは、生活排水の流入が少なく、野菜(空芯菜)の栽培に利用されているタイプである(写真3)。

写真1 汚染のひどいキムリエン湖 写真2 川に生ごみを投棄する住民 写真3 ハオナム湖での野菜栽培

 そしてこれらの小規模な湖・池の多くでは、ガレキやゴミの投棄による水面の埋め立てが進んでおり(写真4・5)、これらが湖・池の環境悪化を助長している。やがては水面を埋めた部分に住宅などが建設され、市街地の一部として湖や池は消滅していくのである(写真6)。このように埋立て乱開発された場所では、建物の地盤が不同沈下している。このような湖・池は住民にとっては環境資源ではなく、ゴミ捨て場であり、臭くて夏には蚊が発生する迷惑な場所であり、早く埋め立てて開発されてしまう方がありがたいのである。まさに「クサいものにはフタ」の世界である。

写真4 リンクォン湖と投棄ゴミ    写真5 ガレキで埋まる川岸   写真6 埋まってしまったレンキュ湖  

 大阪大学の研究チームは、2002年にベトナム国立大学ハノイ校と共同で3地区215名の住民に意識調査を実施した。調査の中で地区にある池の評価を尋ねたところ、ほぼ全員が「湖沼がゴミ・土砂の捨て場となることは仕方がない」と回答した。これには驚かされた。一方で、多くの住民が「湖沼は地域にとって重要な空間である」とも答え、地区の湖・池に下水が流入していない地区の住民は多くが「湖沼が周辺の空気の浄化に役立つ」「湖沼が地域イメージの向上に役立つ」とも回答していた。湖や池の環境的価値は認めつつ、現状のように保全の術がない状況に甘んじている様子が読み取れた(詳細は文末の文献を参照)。
 このように不法な埋め立てで小規模な湖・池は消滅し水面の面積は減少しているのだが、ハノイ市の7行政区の水面面積の1983年から1996年までの変化を土地利用図から計測すると、水面面積は19.14kuから28.41kuへと増加している。この増加に貢献しているのが、ハノイ市南東に位置するエンソー地区である(写真7)。エンソー地区では、魚の養殖が軌道に乗ったことで、かつての農地を養殖池へと変えていった。これにより、水面の中に浮かぶ集落という特異な景観を有する集落へと変身した。私はこの新しく造られた集落景観(ランドスケープ)を高く評価するとともに、観光資源ともなりうると感じている。ところが今回のJUDIセミナーで訪れて非常にショックを受けたのは、写真7にある水面が埋め立てられて、写真8のような小学校が建設中であったことだ。現在のエンソーの人々にとって、村が豊かになるとはつまりこういうことなのだろう。

写真7 エンソーの集落景観 写真8 水面を埋め立て建設中の小学校

 以上のように、水網都市ハノイを構成する水辺空間の資源はかなりひどい状況に追いやられている。人々の意識の中からも、次々とこれらの環境の価値に対する認識が抜けていってしまうことも恐ろしい。このような水辺空間の保全のためになすべき都市政策、空間整備は山積している。これらに早急に着手し、ハノイのもっとも重要な空間資源とそれとともに生きる人々の都市生活文化、水環境への意識を保全しなければならない。

(引用文献)加藤大昌・澤木昌典(2003):「ハノイ市(ベトナム)における湖沼の開発および利用に関する研究−代表的な3地区を主事例として−」環境情報科学論文集17

▲ 前へ   目次へ 


ハノイ:水辺は市民の憩いとレクリエーションの場

大阪産業大学 金澤 成保


ホアンキエム湖畔

 市の中心に位置する。湖に棲む亀から授かった宝剣で明軍を破り、その剣を湖に奉還したと伝えられることから、ホアンキエム(還剣))と呼ばれる。
 湖畔には、日の出とともに、老若男女が集まる。水辺はジョギングや散歩、軽い運動をする人でにぎわう。欧米の観光客もいっしょに楽しんでいる。7時あるいは7時半から始まる仕事や登校の前に、あるいは朝食前に早朝のひと運動。サッカーのボールけりやフットサルサをおこなう若い男性たち、若者だけではなく老人もグループでバドミントン。
   
体の線が気になる年頃のご婦人たちは、集団でエアロビクス 湖に向かって体操。新鮮な空気と「気」を取り入れる?

ベンチを使って腹筋を鍛える人や老夫婦そろって体操する姿も見られる。水辺の散策路はそぞろ歩きをする人たち。車道はランニングをする人たち。早朝からモノ売り。古着、サンダル、スポーツシューズ、花の座売り。マッサージ屋も登場する。

三聖人を祀った湖上のデン・ゴックソン(玉山祠)にお参りする人も多い。湖畔からこの社殿をつなぐ橋は棲旭橋、すなわち朝日の差す橋と呼ばれている。

7時を過ぎると潮が引くように人が少なくなり、周囲の道路はバイクや車のラッシュで喧噪に包まれる。

日中は気温が上がり、老人や仕事のない者、アベックが水辺のベンチや木陰で時間つぶしたり涼んでいたりする。
午後の5時を過ぎると夕涼みの老人たちに加え、学校を終えた子供たちが湖畔にやって来る。路上で将棋をする者もあらわれ、そのまわりを野次馬が囲み、勝者に賭けている。家族が体の不自由な祖父母を車椅子で散策に誘う姿も多い。夕食後、家族連れや老人が散歩。
そしてベンチや芝生の上で夕涼みとおしゃべり。シートを敷いて家族や友人同士で食事をする者もいる。
ダンスの発表帰りの少女たち
7時を過ぎると、湖上に浮かぶ「亀の塔」がライトアップされる。
夕暮れになるとアベックも多くなる。散策路を通る人に背を向け、湖畔のベンチに座り、湖面と対岸の夜景を望む。
こうして、8時から11時頃まで、ホアンキエム湖畔は、再び人が多くなる。

▲ 前へ   目次へ 


ベトナム 〜都市の色彩〜

日本ロレアル 吉川 久代

 今回ベトナムを訪れ私の思い描いていたベトナム像の半分は間違いであったことに気付かされた。旧市街地、郊外の廟や古い家屋は私の想像を裏切ることはなかったが、新興の集合住宅、家屋は私の想像を超えたものであった。その理由はその都市の持つ特有の“色彩”である。ベトナムの固有の色は失われつつあるのだろうか?

写真1 写真2

上の写真(1、2)はハノイ郊外の新興住宅である。まるで日本の地方にあるレジャーランドかディズニーランドのIt’s a small world館もどきの“作られた感”“不自然さ”を感じてしまうのは私だけであろうか?これらはベトナムの郊外に唐突にしかも堂々とたてられつつある。個人の家であるので外壁をどのような色にしようと規制はできないかもしれないが、全く隣家とのハーモニーもなく、彩度明度ともに高い色が並んでしまう配色感覚は受け入れ難い。各住人は満足かもしれないが、決して美しい町並みになっていない。この彩度の高い色調への憧れはなんなのか?ベトナムの経済をリードするプチブルの求める、豊かさの表現の方向に不安を感じてしまう。

 写真3の家並みには一定のトーン、色彩がある。それは共通の素材(壁、瓦、など)が使用されたことなど技術的な背景があると思われるが、写真1に比べて落ち着いた感じをうける。また旧市街など古い町並みは決して豊か、洗練、清潔感を感じさせるものではないが、ベトナムの色、らしさが強烈に感じられる。市街地は雑然とごったがえしていて、むしろ建物そのものの印象はなく人々の生活感が全面にでているのだが、それはそれでひとつ都市のイメージを作っている。それらの個性を活かしながら残しつつ、現代の生活に適応した未来のベトナムの都市、建物の形、色はなんなのか考えさせられた。

写真3

 しかし、ベトナムの湿気のある気候はこのような新興地域の明彩度の高い色調も時間とともに風景になじむようにしてしまうようである。写真4。すべてをグレートーンに変化させていく、風化、これもベトナムの風土からくるひとつの解決であろうか?新築時に比べて風景に溶け込んでおり、ベトナムらしいように思える。

写真4

総括
 日本流行色協会のセミナーで都市の色を3色で表わすことがあった。日本の代表としての東京の色は白、黒、グレーの無彩色で表現され、ヨーロッパの国はカラフルで彩度の高い色で表わされることが多かった。無彩色もひとつの個性ともいえるが、日本もできれば色のある、美しく個性のある都市でありたいと思ったものである。
 人それぞれ都市について思い描く色は多少の違いはあっても、都市の色はその風土や気候、歴史に根づいた固有のものではずである。私個人的には都市はその特有の色、個性を見失わず、しかも景観が人々に違和感を与えない様、美しくあってほしいと願う。ベトナムもこれから人々の生活が変わり、経済的に発展し、どんどん都市開発が進んで行くであろうが、どこかの借り物のような街になってしまうのではなく、住む人にも訪れる人にも快適で美しい景色、町並みが残るよう、色彩面からも真剣に考える時に来ていると思う。

▲ 前へ   目次へ 


ハノイらしい生活のできる集合住宅計画

大阪大学 岡 絵理子

 社会主義下に建設された集合住宅団地は、生活する人々により増改築がされたり、窓から緑があふれ出していたり、とても魅力的に見える。一方、近年新たに建設された集合住宅団地の無国籍、無機質な景色はなんともさびしい。ハノイらしい生活のできる集合住宅計画で、既存集合住宅団地のリノベーションを考えてはどうか。

  社会主義時代に建設された集合住宅団地は、共用空間として担保されていた土地の転売や、集合住宅の住棟の増築により、密度が増しているためもあり、多くの人々が行きかい、活気あふれる生活の場となっているように見える。一階部分を増築して店舗にしていたり、露天商が出ていたりと、見て歩くだけでも楽しい。さらに、各住戸が、個別に増改築されているさまは、間口いっぱいに吊るされたカラフルな洗濯物と植木鉢からにょきにょき生える緑豊かな木々とともに、どんなデザイナーにも創造不可能なベトナムらしい景色を作り出している。
  しかし、その面白さは興味本位に楽しむものではない。老朽化した集合住宅にしがみついた増改築は、トランプをそっと積んで建てたようなもので、もしちょっとした地震がきたら、あっという間に崩れ去る可能性が高い。地震がなくともある日崩れるかもしれない。やはり即刻建て直しを検討すべきものである。

写真−1 集合住宅にあふれ出す生活の色

写真−2,3 4層分一斉増築(工事中と完成品)

  ところで、ハノイの集合住宅に多く見られる増改築のやり方にこの一年で変化が見られた。一年前に訪れたときには、各住戸が個別に増改築しているものが目に付いた。その増改築のやり方は、住戸により明らかにお金のかけ方が違い、早い者勝ち、その場しのぎが見て取れた。いくつかの住戸の居住者にたずねてみると、同じ住棟にも、住戸を買い取って住んでいる方から、ずっと家賃を払わずに住み続けている人まで、さまざまな人が住んでいた。ところが、今年はちょっと違う光景を見ることとなった。4階建ての住棟の一部が、1階から4階まで一斉の増築されているのである。それも、裏も表も一斉に、である。これまでの増改築は、元の集合住宅の骨組みを利用してそこにぶら下がるように行われており、危なっかしさが見て取れ、それが余計興味深かった。しかし今年の増築は違う。元の建物は位置を示しているだけで、増改築が完成してしまえば、元の建物の骨組みをそっと抜いてしまってもそのまま建っていること請け合いである。それなのにやはり今までの増改築と同じように住戸毎に窓の位置、形、壁の色はそれぞれに異なり、その上、屋上に上がる階段のついたもの、ベトナムの人々が大好きな屋根のついた屋上テラスがついたものも見られる。1階から4階まで、それぞれの階の人が、同時にお金を出して増改築している。一見コーポラティブ住宅のようである。これは、この一年間の経済的成長の現れか?居住者の成長振りが見て取れる。
  これに引き換え、新しい高層集合住宅の並ぶ集合住宅団地はなんとさびしいことだろう。どこにもハノイらしさは見られない。かつて、ソビエトの集合住宅が導入されたのと同様、アジアの各都市に見られる超高層集合住宅がそのまま導入されている。かつて、ある留学生が言っていた。日本のマンションは、ちゃんと日本の家を取り入れていると。どこが?と不思議に思い尋ねてみると、玄関がある、畳があるという。そういえば、韓国でオンドルつきの集合住宅を見たことがあるが、台湾や中国など、他のアジアの国は、集合住宅のつくりと一緒にライフスタイルも受け入れてしまっている。中国では、朝食を外食するのではなく、家族と共に揃って食べることが流行だと言う。それでも、中には朝食を外で食べるのが豊かさだと考えられる人々も出てきている。
 ハノイ市内に50箇所以上もある集合住宅団地の再生は、ハノイの都市計画的課題である。あの場所に住みたい人に、どのような住宅を供給できるか?
 町が好きな人々は、町のライフスタイルを捨てることはない。今なら、居住者の声をよくよく聞けば、本当のハノイモデルが生み出されるだろう。

写真−4 寂しい高級住宅団地 写真−5 狭いベランダでせせこましく

▲ 前へ   目次へ 


ベトナムの道

  大阪大学大学院 博士後期課程  徳勢  貴彦

ベトナムの道は面白い。それは道の曲折や凹凸に見られるような空間的な面白さもあるが、とりわけ道の利用のされ方が興味を惹く。

◇道空間の利用(セミプライベート空間としての道)

  道は元来空地であり、そこでは商売・情報交換・娯楽等様々な行為が繰り広げられていた。ベトナムの都市部では、バイクや自動車の増加により、歩車道の分離が進み、車道は交通のみの空間となってきている。しかし、都市部の歩道や周辺村落などその他地域の道では現在もなお多様な使われ方が見られ、空地としての性格が強く残っている。かつては日本でもこのような多様な利用が見られたことは周知のとおりである。このような多様な利用や、それによって生じる魅力は、未熟な都市、発展途上の都市に内在するものであり、それは近代化と共に消滅していくものが多く、現在のハノイの都市部はその過渡期にあるといえる。
  空地(自由な空間)としての性格は、その空間に明確な境界がない(認識されていない)ことが前提となっていると考えられる。歩道空間や村落などの道空間において休憩する場所、物を売る場所といった目に見える明確な境界はなく、自由な空間となっている。そのため、道端や街角、線路上にバイクを止めて休憩する風景(写真1)、行商が道端に腰掛けて物を売る風景(写真2)も見られる。一方、この考え方による弊害も出てきているように思われる。都市部の殆どの歩道上にはバイクが止められ、歩行者が歩道上を通行できないような場所さえある。電柱の下や道路の真ん中にゴミが放置されている風景(写真3)もよく見かけられた。信号が青の時でさえ道を横断するのに一苦労であることの要因のひとつもこれにあると思われる。交通手段の変化、製品のプラスチック化(昔はそのまま捨てても土にもどっていたのでは?)などの時代の流れの中で、「道は自由な空間である」という考え方だけでは通用しなくなっていることも事実である

写真1 写真2 写真3

  このような、道は自由な空間であるという概念は、建物と関連付けられるとまた違った性格の空間となってくる。自由な空間という認識をもとに、自分の家の前は自分たちの空間という意識に発展していくと考えられる。沿道店舗から商品が溢れ出している風景、家や店からプラスチック製の椅子を出して食事や談笑する風景、歩道上で作業をする風景などがそのことを物語っている。さらに、家の前の道を掃いている風景(写真4)、街路樹に箒が立てかけてある風景(写真5)も見られる。しかし、写真3で取り上げたように、自分の家の前を一歩外れると、そこは外部の自由な空間なのだと思う。住民の意識の中には、建物の前のスペースは自分の家の一部であり、そこを一歩出ると、外部空間という境界認識をもっているのかもしれない。

写真4 写真5

◇道から公園へ

  都市部の道は現在もなお多様な空間利用はされてはいるが、交通手段の変化に伴う車道の整備やバイクの歩道上への駐輪などにより、その空間が減少してきたことは事実である。また、外部からの流行や文化の移入もあり、道空間だけでは人々の欲求に十分対応しきれなくなっていることも事実であり、現在、公園がその役割を担っている状況にある。道から公園へと人々の中心となる余暇娯楽スペースは移りつつあるように思われる。バイマウ湖公園を早朝に訪れると、多くの人がバドミントンやエアロビクスを楽しんでいる姿を見ることができる(写真6、7)。このこと自体、新しい文化・流行の受け皿として公園がうまく機能しているということから評価できることであると考えられるが、それ以上に良いと思われることは、早朝の公園利用者を目当てに、公園内や公園入口付近での商業活動が行なわれていることであると思う。これはごくごく自然な流れなのかもしれないが、自由な利用が可能だからこそ生まれてくることなのかと思う。新しい文化・流行を受け入れながらも、自分たちの文化は守られ、適応していけていることがとても健康的な都市の状態なのだと思う。自由に使用することが可能な空間が多い都市は健康的なのだと思う。

写真6 写真7

◇雑然から整然へ

  都市部におけるバイクの駐輪問題の解決のために、現在バイクの停車線なども引かれている(写真8)。また、行政により線からはみ出して駐輪しているバイクが撤去されている風景も見られた。このように雑然さの中に整然さを取り入れることも安全性などの面から必要である。しかし、全てを整然にしていくことはハノイの魅力を消失させていく恐れがあるのではないかと考えられる。ハノイ郊外に立地する新規住宅地は、整然と区画割りされ、整備された環境を有している。住宅地としての用途純化や居住者層の違いなどもあるのかもしれないが、人々の外での活動はあまり見られない。外で道を掃いている姿は見られず、その代わりに、清掃員がゴミを回収して回っている(写真9)。そのような中でも、道に洗濯物を干したり、植木鉢を道路にコンクリートで固定したり(写真10)といった、道路は自分の空間であるという認識の断片が見られる。

写真8 写真9 写真10

◇最後に

  近代化の中で道空間が変化していることはひとつの流れとして受け入れ、認める必要があることは事実である。しかし、現在の日本のように整備されすぎること、そして、法律や条例で規定していかなければ良い景観すら作り出していけないような状況になってしまっていることは、決して健康的な都市の状態ではないと思われる。現段階でどこまでの変化を許容していくべきか、行政がやるべきこと、住民がやるべきことの境界を認識しておく必要があると考えられる。そしてその境界は法制度などによる固定的なものではなく、地域に対応した、また時代の流れに対応した可変的なものである必要があると考えられる。そのためにはまちのあるべき姿に対するビジョンを行政がしっかり認識し、住民や開発業者と共有していく必要があると考えられる。住民の自治意識さえしっかりしていれば、まちづくりには法や行政は必要ないという極論もあり、過度に行政が手を加えることは危険であると考えられる。近代化の中で、いかに現状の道意識、空間の自由な利用という考え方を持続し、時代の流れに適応させていくかもひとつの課題であると考えられる。

▲ 前へ   目次へ 


アジアの近代都市、成功の最後のチャンス

  京都造形芸術大学  井口 勝文

ハノイの平和

写真1:HOAN KIEM湖畔の朝。

 ベトナム戦争の記憶から逃れられない私たち世代にとってハノイは、心の傷であり、ある種の聖地でもあります。
 私と同年代と思われる年輩の男がHOAN KIEMの湖畔で休む姿を見ました。その友人もやってきて静かに挨拶を交わしました。
 戦争では第一線で戦ったかもしれない。あるいは空爆から街を守っていたのかもしれない。言葉には出来ない悲惨な経験が、おそらく彼の中には秘められているのだろう。そう思わずにはおれませんでした。
 静かでやさしい、和やかな後ろ姿でした。
 湖畔ではエアロビクスに汗を流す人、ジョギングする人、わき目も振らずに歩く人、ゆっくり散歩する人、そんな人々で込み合っていました。
 朝露に濡れた清々しいハノイの朝でした。
 街はまだ動き出してなく、緑の巨木に覆われて佇んでいます。
 ずっとこのままでいて欲しい。そう思わせられた素晴らしく美しい、平和なハノイの朝でした。
 

 ハノイに見る都市の奇跡

写真2:清々しい HOANKIEM地区の朝。巨木の並木道に今、街の賑わいが始まろうとしている

 都市と自然の共生は可能か。答えは無論、「否」である。森林を食い潰してきた5000年の都市の歴史がそれを証明しています。都市とは本来そういうものです。
 都市と自然とは対置されるものであり、それを前提にしたうえでどうするか、というのが都市と自然の関わり方を考える正しい出発点であります。
 安易に共生のデザインを口にする輩が、在り得ない夢を描いて見せて、その結果スプロールを助長し、自然を破壊侵食することに手を貸しているのです。
 というのがハノイを訪れるまでの私の思い込みだったのですが、ハノイでは事情が違っていました。
 ここでは自然がめっぽう強い。
 自然が都市の猛威としっかり互角に戦っている。そしてしばしば勝っている。
 30メートルに達するのではないかと思う巨木の並木が街を覆っています。
 ただ一本の巨木があるだけで雑駁な下町の市場がしっとりと治まっています。
 フランスが建てた素晴らしい建築物が木陰に佇んでいます。
 キーワードは「巨木」です。
 ハノイの巨木は世界遺産に登録しなければならない。
 まだ都市に殺されていない森の、稀有な例がここにあります。
 東南アジアの森林の旺盛な生命力と社会主義によって抑制されてきた都市の成長力。都市と森との、おそらく極限のバランスがここには残っています。
 このバランスを保存すべきです。

ハノイ都市計画マスタープラン・私の修正案 

 確信をもって素敵な修正案を提示させて頂きます。

 中心市街地HOAN KIEM地区は凍結保存します。HUNG VUONG 通り、DIEN BIEN PHU 通りの街並みも同じです。
 少し手を入れるだけで立派に使える魅力的な建物が並んでいます。無論、巨木の並木も貴重です。これらの魅力は最大限に利用すべきです。
 フランスやイタリアなどヨーロッパの旧市街の整備には学ぶべき成功事例がいくつも在りますが、ハノイにはそれらの街と肩を並べることの出来る優れた都市の資産があります。それは多くのアジアの都市が失いつつある貴重な資産です。

それが幸いにもハノイには殆んど手付かずで残っているのです。
 まずその恵まれた現状を認識して、最大限に活用すべきです。
 仮にもスクラップ アンド ビルドの過ちを犯してはなりません。
 過ちを犯すとどうなるか、良い事例があります。
 HOA LO収容所(ハノイヒルトン)跡地です。
 どの街にいっても見られる平凡でつまらない超高層建築の街が完成しています。
 ハノイの街がこんな風に変わってしまう事を想像すると吐き気がします。
 環状、放射道路と超高層建築で整備されるというハノイの現在のマスタープランはそんな吐き気のする街を想像させます。
ではハノイに超高層の市街地を造ってはならないのか。
 そうではありません。そのための最適の候補地がちゃんと在ります。HOANG DIEU通り東の軍事地区です。
 ここに50ヘクタールの新都心を建設します。軍隊には郊外に移転してもらいましょう。パリのデファンス中心部に匹敵する規模で、世界で最も新鮮な未来都市がここに誕生します。
  美しく保存された市街地とTAY HO湖に囲まれた新都心です。
写真3:カフェの表で客を待つ店員。こんな豊かな街の風景が他の何処で見られるだろうか。
  優れた伝統と未来が生きつづける、世界で最も美しく魅力的な都市ハノイを造るチャンスを逃さないで下さい。スクラップ アンド ビルドが大好きな日本人の私にはこんなことを言う資格は無いのかもしれませんが、、、、。

▲ 前へ   目次へ 


ベトナム二題

武庫川女子大学  角野 幸博

ハノイのセンベイビル

  30年程前に、京都市内でそっくりな風景を見たことがある。センベイビルといった。うなぎの寝床状の敷地いっぱいにビルを建てるから、センベイみたいに見える。
  伝統的な町並みは破壊されるが、建替えた本人は快適だったと思う。床面積は増え、眺望も採光も得られるから。そこで商売を続け、その気があれば住み続けることもできたから。
  その後、京都はどうなったか。センベイビルが増えつづけ、その谷間に町家が取り残された。とても住みつづけられないから、そこもセンベイビルになる。しかももとの居住者がセンベイビルに住みつづけることは無かった。
  バブル景気の間は地上げされ、マンションになった。センベイよりもっと大きな塊である。こうした動きが一段落して(?)、かろうじて残っていた町家を町家として活用する動きがでてきた。希少性が商品価値をもつ。住まいというより、商業施設としての利用である。これは町家本来の姿かもしれないが。
  さて、ハノイのこと。経済成長のなかで、うなぎの寝床の町割の上で、ハノイの町家はどう変わるのか。極端に間口が狭いなかでの限界住宅のような試みもあるが、住み手や都市にとって最適の答えとは思えない。かといって街に背を向けたオートロックマンションでもないだろう。
  町並みとして保全する区域を明確にする。それ以外のところでは、賑わいのある快適環境を担保する共同建て替えのルールを今のうちから考える。そうすれば京都の二の舞は防げる。

写真1 ハノイのセンベイビル 写真2 ハノイの限界住宅の光庭


記憶の継承方法

  ベトナム戦争が終わったのが今から30年前の1975年。太平洋戦争が終わってちょうど30年目だった。その年、僕は京都で2年目の学生生活を送っていた。戦災を免れた京都には、もちろん目に見える形での太平洋戦争の記憶はなかった。いや、広島と長崎は別にして、日本全国で町の中に戦争の記憶を鮮明にとどめようとする意図は感じられなかった。
  ベトナムにはそれがある。その迫力に、とまどいすら覚える。でもまだ記憶の定着の方法は模索中のようだ。戦争博物館はまだあまりに生々しい。再開発プロジェクトの一角に組み込まれた刑務所は、やはり違和感がある。ベトナム戦争を都市の記憶にどう定着させるのか、今からの課題である。これが何10年後かのバグダッドやエルサレムの参考になればよいのだが。

写真3 戦争博物館 写真4 再開発地区内の旧刑務所


▲ 前へ   目次へ