日本の原風景の源流を探る
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概 説
ブータンに明治の日本を視る

北摂コミュニティ開発センター 難波 健

 

1 何故ブータンか

 2005年度の海外セミナー委員長を仰せつかって、視察地としてブータンを提案した。
 当時、日本の原風景とは何かを考えていた。緑が大切、景観が大切といわれ、景観法により良い環境を守ろうという動きが顕著だが、われわれは一体何を守ろうとしているのか、日本の原風景をどう考えるのかの答えがほしい。私は昭和生まれであるが、江戸から明治時代の日本に類まれな優れた景観、環境があったことには、当時日本を訪れた多くの外国人が言及している、これは丸茂先生から紹介された「逝きし世の面影」を読んで知ったことである。  平成の今、明治の美しかった日本をブータンに観てみたいという発想での提案であった。  日本の景観の原型は、照葉樹林と稲作にあると思うのだが、東南アジアの国々をいくつか廻って感じるのは、いずこも上昇志向が激しく、明治の日本の面影を見ることは無理なことであった。そんな中で、ブータンは、1974年に鎖国を解除し、独自の農業空間と景観を持っていたという。
 ブータン行きの賛同者は数人おられたが、結果的に4人のツアーとなったが、期待に十分応える収穫があった。
 事前に、JICA(国際協力事業団)の事業の一つであるJOCV(青年海外協力隊Japan Overseas Cooperation Volunteers)でブータンに行かれた西宮市の上河潔史さんから貴重なお話と資料の提供をいただき、彼の紹介で現地では現JICAの向井純子さんからお話を聞くことができた。また、帰国後、ブータンから観光をテーマに留学して勉強されているテンジンさんにお話を伺い、これらの情報を踏まえてこのメモを作成した。

2 ブータンへの道

 ブータンの特殊性の一つに、アクセスの仕方がある。1983年にパロ空港ができたのだが、国内にはこの空港のみで、しかも国営のドゥルック・エアーのみが就航している。我々は、関空からバンコクで1泊し、早朝カルカッタ経由でパロに降り立った。カルカッタではパロの天候不良で3時間半、飛行待ちをした。飛ばなければ滞在日が減る、祈る気持ちでフライトのアナウンスを待った。
 パロの空港で甲斐甲斐しく働く人々は皆民族衣装のゴを着用している、紛れもないブータンであった。国内の移動は全て車であるが、東ブータンはなかなか道が厳しく、インド廻りで北に入る方早いという話も聞いた。
 ブータンでの旅行は、移動の車と運転手、宿泊、食事、そしてガイドが全て日本で手配され、料金も支払う、従って現地では飲み物代以外お金を使わずに旅をすることも可能である。

3 ベースとなる風景を形成する田園とファームハウス

 ブータンの経済ではGDPの4割以上は農業畜産業であり、1次産業人口は9割近くになるというように、農業中心の国土が継承されていることがブータンの風景の基礎にあるのだと思う。

農村集落

 われわれが風景をみる視点として集住の形態に興味を持つ。出発前に上川さんにお聞きしたら「基本的に集住する意識がない、山の中腹に集落をみつけて行ってみたら、ウォンディ・ホダンのゾン工事のために昔インドから来た鉄の職人達が永住したものだった」ということだった。
 向井さんのお話でも「ブータン人の意識はものすごい個人主義で、共同作業がないわけではないが、日本のような共同所有はない。だれかの持ち物を借りることはあっても共同所有はしない。集まって住もうと思わないが、個人的つながりはあり、モノを売ったり交換する時は契約をした家の人、旅をするときは決まった家に泊まるといった家レベルでの協力体制はある。」とのことであった。
 我々は農家住宅が散在する田園や山の風景を確認することとなる。
パロ郊外 ウオンディ・ポダンのまち ティンプーの丘から望む住宅地

農家住宅

 散在する農家住宅は、1家族1住宅で、親戚、従兄弟、などが一緒に住むが、最近は農村の人口が減り、大家族が減少しているという。我々がパロで泊まったクンガ邸は夫婦と女の子2人が住んでいた。現在道路から住宅に降りてくる道の工事中で、1階の倉庫部分に工事に携わるインド人が数人泊まり込んでいるようであった。
 農家の規模は大きく、美しく、木材には彫刻やカラフルな絵がほどこされ、統一的なかたちとデザインが、壁の色、窓の形、建物の形そして屋根の形にみられる。
 1階は基本的に家畜小屋だが、道路に沿った家では政府が衛生面から家畜をそとに出すよう指導しているそうである。キッチンは2階かベランダに出し、トイレの原型は2階から張り出していて、排泄物は下の階に落ちて肥料となるらしい。
 屋根は切り妻がベースで、方形に近い寄せ棟もある。チベット建築の天井板の上に土が乗る陸屋根に勾配屋根をつけており、もともと木で葺いて石が載せられているかたちで、天然スレートの採れるウオンディではスレート瓦が使われているが、現在はトタンがほとんどである。この遠目に美しく整ったかたちの屋根がトタン葺であることはちょっとしたショックであった。屋根裏は素通しで物置と、もの干しに使われている。秋のこの季節には、赤い唐辛子が屋根の上を彩っていた。
 1階部分は、石積みか版築で築かれている。日本の古建築でも馴染みの工法だが、向井さんのお話では、版築の工事の材料費はただに近く、型枠を組む人が2人いればあとは人件費のみで、巾600×500×1800に4人で1日半かかるとのことであった。田舎ではご飯を出せばすむが、都会のティンプーでは人件費が発生するので伝統的技術が高くつく、従ってコンクリートへの移行がみられることとなる。
 1階はほとんど壁で、ここに家畜が飼われているため、昼間は外に出て悠々と草を食べ、夕方に帰ってくる。よく車が牛に止められたが、牛飼いがいる風でもなく、牛のかってに任せているようであった。2階から上の木造部分はハンギングウオールと呼ばれるはねだしがあるが、コンクリートではプロポーションがつくりにくく、直壁になってしまうことになる。木材はブルーパインの柔らかい木で、これを挽き割って使うということであった。
民家 フォークミュージアムの農家 パロの民家
宿泊したクンガ邸、完全な農家 屋根に唐辛子が干してある 屋根とその下部

田園

 みごとに広がる田園では、赤米がつくられている。コンターを生かした棚田で、畦は土で処理されている。田園、果樹園、そして野菜畑はわれわれに懐かしい景観を形成している。照葉樹林帯というが、日本のそれとは違って明るい感じで、平地はなく、どこにも谷筋だから必ず水が流れている。
刈り取り後、ウシが寝ている コンターに沿った棚田 農作業風景


4 ファームハウスの延長線にある都市住宅

 ファームハウスのファサードが敷衍されて都会の建物がある、そういう意味では全国統一された(民俗の違いはあるが)様式美といえるのではないだろうか。

首都

 ティンプーが首都と定められたのは1955年ということで、それまではジャングルであったそうだ。私の習った地理ではブータンの首都はプナカと記憶している。1960年にチベットとの国境が閉鎖され、1974年に鎖国を解除した理由は、中国からの侵略に対抗するためということであった。
 ティンプーはここ4年、プライベートの建物ラッシュである。ブータン各地から人が集まり、高値で土地(所有権)が売買されるが、田舎では登記もない山が多い。
 規制一杯の5階建てにしたいので、壁厚が最低600必要な版築ではなく、柱梁をコンクリートにする。
ティンプーのまちなみ 建築中のホテル、インド資本という 2階建を5階建に再開発して新たな町並みをつくるそうだ
信号はなく、警官による交通整理 パロのまちなみ ウオンディポダンのまちなみ

建築規制

 美しい景観を守るための規制は、我々に最も関心のあるテーマである。

・ティンプーの建築基準(1999年)
 住宅地区、商業地区、公共施設地区、工業地区、と2種類の建築禁止地区の計6種類の土地利用があり、それぞれ細かい基準が設けられている。
  @ 外観はブータンの建築様式であること。
  A 外壁には必ずブータンの伝統的な模様を描かなければならない。
  B 最高5階建(2階、3階を限度とする地区もある)
  C 家の周囲に土地を残す(地区により異なる)
 建築に際し、シティコーポレーションに申請し、建築基準の書かれた書類を受け取り、それに従って建築しなければならない。また、外国人が建築することは認められていない。(「ブータン 雷龍王国への扉」より)
 シティコーポレーションのない区域は、国王が任命する県知事の管轄であるが、ほっておいても伝統的建物様式になるのであまり気にしていないようで、知事により様式を守る意識に温度差があるということであった。
 行政の建築家は、建設省にあたるPWDと教育省におり、建築部門の一般的な構成は、建築家、シビルエンジニア、ドラフトマン、サーベイヤーで、建築家がいない場合はシビルエンジニアが代役を勤める。みなインド若しくは欧米で勉強してきた人だが、インド人が仕切っている感じだという。民家は地域の共同体が参加して作るが、RCの建築物はインド系のゼネコンが施工することが多いとのことであった。
RCによる入り口のデコレーションの作成過程、きれいに仕上がるものだ
窓かざり

彫刻

 ゾンには彫刻が多く施されており、一般の住宅でも需要は多く、作業速度も早い。建物のドラフティングはその専門家がいる。古いものは土壁に直接描いているが、最近はキャンバスに描いたのを貼る、印刷ではない。白い部分は漆喰ではなく石灰を塗ってある。

5 行政と宗教の砦ゾン

 ゾンは、城、Castleと訳されているが日本の城とはかなり異なり、僧院と行政がゾンの中に一緒にある。しかし、我々がよくみたのは僧院で遊ぶ?僧侶や少年たちで、行政らしき人はほとんどみなかった。

ゾン

 ウォンディ・フォダン、プナカ、タショ(ティンプー)、パロの4つのゾンを見学した。ゾンに入る時は、ガイドはカニムという白い布を肩に巻く、色は階級により違う。
 タショ・ゾンでは、丁度国王が来られているということで、おられる間は入所できず、ほかで時間を潰した。国王はゾンには住んでおらず、執務のためにゾンを訪れるということだが、全国を移動して町中でみかけることもあり、みんなの尊敬を集めている。
 ゾンの内部を見せてもらうためには政府の許可証が必要で、地元の人はほとんどいない、外人オンリーの観光地という感じだった。
ウォンディ・フォダン タシチョ・ゾン内部 プナカ・ゾン
タシチョ・ゾン タシチョ・ゾン パロ・ゾン

ブータンの仏教

 チベット仏教から派生したドウルック派が国教となっており、国民すべてが敬虔な仏教徒である。旅行中の9月23日はブレイスレイニーデイという雨季が終わった祝日で、ティンプーのメモリアルチョルテンでは多くの市民がお参りをし、建物を巡り、五体投地でお祈りをしていた。
 パロ郊外のタクツアン寺院は、一生に一度は必ず拝観しなければならない聖地ということで、赤ん坊を背負って山道を参拝する家族に幾組も会った。
 パロのキチュ・ラカンは6世紀の法隆寺と同じ時代背景を持つ最も旧い寺院と言われており、我々はいずれも中に入ることができた。
メモリアルチョルテンで五体投地で礼拝する人 タクツアン中間点の水マニ 読経する若い僧侶たち

生死感

 敬虔な仏教徒はご先祖様をお祀りしているのかと思いきや、ファームハウスにある仏間は、仏を祀るもので、ご先祖の遺骨、位牌を祀る習慣がない。死ぬと川辺の斎場で遺体を焼き、遺灰を川に流す。頭蓋骨の一部をツアツオという焼き物に塗り込めてお寺とか山の聖なる場所に奉納する。

ダルシンとルンタ

 よく見かける旗竿は、ダル(旗)シン(竿)といい、聖なる場所にはためいている。5色の旗はルンタといい、白が精神、青が空、黄が土、赤が火、緑が環境を表し、お経がプリントされていて、橋や見通しのよい丘などに祀られており、日本の神社の幟のようなものとも思われ、ブータンの景観の一つの要素でもある。 
ダルシン ツアツオ ルンタ

6 豊かな衣食住

 着衣は男がゴ、女性がキラで、結構高価なものだった。安いものはインドから入るらしい。食事は基本的に家で食べるようで、アジアによくある屋台はみあたらない。

食物・飲み物

 主食は赤米で、我々のホテルやレストランでは白米が出た。長粒米はインドから入るし、日本の農林11号がつくられているそうだ。市場では様々な種類の穀物が売られていた。
 水は、インドからミネラルウオーターが入っているということだったが、我々はブータン産のペットボトルの水を飲んだ。水道水は基本的に飲用はダメ、というのが砂濾過だし、水源のいかに上流でも家畜の糞がおちているので湧き水以外は飲めないと考えた方がいいと言われた。どこでも川の水が引かれて豊かな水を使ったマニ車も各所でみた。
 酒は、醸造酒(チャン)があり、これを蒸留するとアラとなる。インドビール、タイビールにブータンのビールもあり、ウイスキー(ブラックマウンティン、スペシャルクーリエ等5種類位)、ブランデーもつくっているそうだ。
 バター茶(スージャ)は結構つくるのが手間らしく、我々のいく食堂ではなく、クンガ邸で一度飲んだだけであった。
 ティンプーで一般の人が食材を買うのはサブジバザール(ヒンディ語で野菜市場)で、金曜の朝から日曜までやっているところに連れて行ってもらった。工芸品の類も売っており、肉売場は圧巻であった。 
ザブジバザール(ティンプー) 肉売り 道端で干し肉をつくっている

食事

 観光客用は基本的にからくないが、ブータンのローカルフーズはチリを使った辛いものが定番である。クンガ氏は赤米のごはんを手でこねて唐辛子をつけて食べていた。彼は菜食で、肉は食べないという。
 油をたくさん入れるほどご馳走で、カロリーは高いが太った人はいない。キノコも売っていたし、まつたけもあるが、取れるところの人がいやいや食べるのだという。
 普通の人は町では食べる習慣がなく、公務員が昼食を食べる安い食堂はあるが、おべんとう組もいるし、食べない人もいるという。我々の昼食はいつも外人ばかりの食堂だった。
 一夜、現地の食堂に連れて行ってもらった。干し肉がおいしかった。果物は、インドから入っているマンゴー、ライチ、バナナ、パイナップル、スイカ。ブータンで生産しているのは、リンゴ、オレンジ、桃などで、きゅうりもフルーツとして食べる。
外人向けの昼食(バイキング方式) 現地食の食堂 現地の人が食べる食堂で宴会を開く

労働と生活

 公務員は9時から5時で土日が休み。上の人ほどよく働くそうだ。医者がいるのは県庁所在地のみで、村レベルでは看護士がいる程度というが、平均寿命は1985年に男46歳、女49歳だったのが、1998年には男66歳、女66歳となっている。
 裁判は民主的だが、弁護士はおらず、自分で弁護をし、とおらなければ国王が通りがかった時に直訴することもあるという、明治以前の日本を彷彿とさせる。
 労働者はインド人の出稼ぎで、ネパール人も多い。数を制限しているが足りないので、プライベートセクターが入れている。下級のインド人はインドで働くより儲かる。ブータン人は同じ値では働かないという、豊かさの現れか。
パロでの洗濯風景 ティンプーの公務員住宅、下は作業所 朝、労働に出るネパール人

7 人と風景

 向井さんは、ブータンの一番いいところは「はじめてあった人にうち解けること、山道ですれ違っても親しげな笑顔で接すること」と言われたが、明治の日本もきっとそうであったのだろう。また、日本のいいところはという問いに「社会が人を育てるところ」と応えられた、日本を離れて生活する視点からの貴重な視点だと思う。
ブータンヒマラヤを望む 学校帰りの子供達
 個人主義のブータン人というのは、自分の責任は自分が持つということだろう。このことと、ゴ、キラの服装の統一、宗教の統一が、伝統を変えない習慣を生んでいて、それがブータンの豊かさの意味だと思う。
 技術はないのかというと、他国の飛行機を受け入れない空港、道路も延びつつある。不便さを残しながら、それでも近代化が進んでいることは感じられる。上河さんは、ブータンに工業団地の導入を検討する仕事をしたそうだが、大規模造成は止めた方がいいという結論になり、計画はなくなったと言われていた。
 スローライフに通じる豊かさは、人間の考え方から生まれる風景と景観を創り出していると考えたい。残したい景観を守るために、どの文化を大切にするのか、田園風景を残すためには輸入小麦に頼る食生活ではなく、お米を食べ、日本酒を飲む生活なくしてはその風景だけを切り離して守ることはできないのではないか。自然環境に対する視点、リサイクル思想など、日本は決して悪い方向には行っていないと思うが、それが明治の日本への回帰であるなら、我々はかなり遠回りをしていることになる。

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