宜しくお願いします。
今日は、 豊中市で私たちが続けているまちづくり支援についてお話しします。 大体まちづくりに携わる人は都市計画とか建築畑の人が多いようですが、 豊中のまちづくりでは私は産業・社会計画の立場からアプローチしてきました。 これは一言で言うと、 人と人との結び付きをしていくことが主な活動なのですが、 つまり形を作ることが究極の目的ではなく、 まちの活動を支えるために建物とか事業計画があるということです。 人々がそういう方向に向かっていくようなエネルギーをどう作っていくかが私の仕事で、 “夢を形にする力”を市民の皆さんの力を借りて作っていこうと思っています。 まちづくりが都市計画や社会計画、 産業計画を含むものならば、 私もまちづくりに関わる人間の一人に加えてもらえるのではないでしょうか。
豊中市内のまちづくり協議会の一つが、 昨年6月に市長に対して「まちづくり構想」を提案しました。 そんな市民の活動を、 市が応援するというシステムになっています。
具体的には「まちづくり支援室」が行うのですが、 専門家がまちづくりを推進していくのではなく、 市民自らがリスクを負いながらもまちづくりをしていくのをバックアップしていくものです。 そのバックアップ組織の一つが「まちづくり支援室」という市役所の中にあるセクションです。
この組織の役割は主に3つあって、 (1)市民が様々な活動をする際の相談窓口、 (2)いろんな活動内容に従って役所内の部局への交通整理をしてあげる、 (3)「体力づくり」と言っていますが、 技術的支援とともにわずかですがお金を出して活動の支援をすること、 です。
3番目の支援には技術的な支援もあり、 それは専門家を派遣してアドバイザーやコンサルタントを務めてもらうことです。
また市の各セクションから職員が出ている「まちづくり支援チーム」という制度があり、 関連部局の選抜職員が地元に出向き、 支援活動を行ないます。 まちづくり支援室は、 そのプレイング・マネージャーの役割をしています。 市民の相談を受け付けて、 専門的なセクションに行く前の交通整理をするわけです。
財政的な支援の内容は、 まず条例上の研究会の位置付けになると2年間で30万円(活動費全体の4分の3が限度)、 本格的なまちづくり協議会になると3年間で150万円(活動費全体の4分の3が限度)の助成金が出ます。
市民が主体となってちゃんとしたまちづくり活動をしていれば支援があるので、 これを「シェーン・カムバック」とも言います。
ただ、 商業地と住宅地では、 すこしまちづくりの内容が違って、 商業地は「攻め」、 住宅地は「守り」の姿勢になるようです。 住宅地の場合はルールを作っていくことが多いようです。 しかしどちらも市民が主体になっていることは同じです。
支援対象は、 地域にこだわったまちを作ろうとする市民によるまちづくりの初期活動です。 市民自らリスクを負うことを前提としているので、 「陳情要求型」の市民活動は支援対象としていません。 そういう市民には直接、 その担当セクションに行ってもらいます。 また、 地域にこだわることを基本にしていますので、 環境や福祉など全市レベルに関わるような要求も、 我々のセクションでは扱っていません。 それとすでに担当するセクションが決まっているまちづくり活動なども我々の担当ではありません。 つまり、 方向が決まっている市民活動ではなく“迷える小羊”が対象ということで、 まちづくりの立ち上がり・初期活動にとまどっているような市民を応援して、 活動を始めていただくことが主な仕事になります。
一例をあげると、 豊中駅の西側はかつて阪急電鉄が開発した地域で、 今、 世代交代が始まっています。 その相続で街並みが壊れそうだ、 どうすれば街が活性化するのかという問題が発生しています。 そこで、 我々のところに相談に来られれば、 建築協定や景観協定をどう活用するかの話が出てくるわけです。 しばらくつき合って方向が決まり担当の専門セクションが決まれば、 我々はそこから外れます。 しかし、 市民と接点をもつのは簡単そうで案外難しいもので、 専門セクションから我々の方にもう一度戻ってくるというケースもあります。
当時の商業計画としては珍しくコミュニティとまちづくりをテーマにしていて、 石原舜介さんや服部圭二郎さんからも評価を受けた今から見てもいい計画だったんですが、 不幸にして担い手となる人々、 計画の実行主体が十分には形成されてなかったんです。 計画をいかに作ってもその担い手がいなかったら計画は実現しません。 だから、 計画実現のために大事な事は、 計画の内容が立派であることの他、 それを実現するために誰と手を結ぶかということ、 そしてその内容を誰に言わせるかということだと思いまして、 まず計画の実行主体者に対しては計画策定活動を共有しようと考えました。 また、 計画づくりに携わる関係者メンバーに関しては、 策定過程を公開していこうと考えました。
それはどうしてかと言うと、 商業の側から街との関りを見ると、 (1)個人の店、 (2)商店街や小売市場という団体の関係、 (3)街との関係という3つの段階があるのですが、 その3つ目の段階が大事だということです。 また、 小売商業を左右する5つの要因として(1)景気の変化、 (2)消費者の変化(女性の社会進出、 車社会への移行など)、 (3)競争相手の存在、 (4)商業者内部の問題(高齢化、 後継者難、 核家族化現象に伴う営業時間短縮、 商店街に商業者が住まなくなった)、 (5)街の変化(街の重心がよそに移る)があります。 (5)の問題については、 商業者と街の人、 商業者と行政が連携と役割分担をして対応していかなくてはならないと思っています。
そういうことで、 産業とまちづくりの一体化、 市民・事業者・行政の連携と役割分担が始まり、 豊中のまちづくりシステムが出来上がっていきました。 キャッチコピーが「快適な都市に新しい産業が育ち、 新しい産業が都市の生活を快適にする」というテーマです。 その戦略的なプロジェクトとして「商業活性化と街並み形成」が策定され、 まちづくりが始まったのです。 ただし、 今は商業地だけでなく住宅地も含めたまちづくりを行なっています。
事業を進めるにあたっては、 ネックとして行政の対応のまずさと権利者の合意形成の難しさがよく言われることです。 これを打破するためには、 ひとつは行政の改革が必要だと思いますし、 もうひとつは市民の訓練が必要だと思います。
「市民の訓練」などと言うとよく怒られて「それは役人の発想だ」と言われるんですが、 私はやっぱり市民のまちづくり活動の訓練は必要だと思うんです。 そのことは、 自治体の職員が市民と一緒になって活動を始めることによってやっと分かってもらえると思うんで、 口先だけで「市民の訓練」と言うわけにはいかんだろうと思います。
今私はこういうタイプのまちづくりの定義をこんな風に考えています。 まちづくりというものが行政と市民が連携しあうものだとすれば、 連携とはお互いにパートナーを探し出していくものではないか。 そして活動の中でお互いが育っていくものであり、 最初から完璧なものではない。 どうせ未熟なんだということを認めて、 連携をとっていくことが大事です。
またもうひとつ大事なことは、 それぞれの属している組織を改革し続けていく姿勢です。 生活と仕事の場であるまちを変えていく、 更新していく仕組みを育てていくことです。 こういう姿勢がなければ駄目だと実感しています。
庄内の住民参加型のまちづくりも、 今回の地震で相当な被害を受けました。 議会や行政側から「やはり住民参加で、 ゆっくりとまちづくりをやっていては駄目だ。 行政主導できちっとしたまちづくりをすべきだ」と声があがり、 今そういう雰囲気になりつつあります。 だけど、 本当に行政主導でいいのかという声はまた職員の間からも出ています。
試行錯誤しながらいろんな声が出てくるんだと思いますが、 しかしお金、 補助がたくさんついて都市計画の線が引っ張ってあれば、 本当に住民は土地を差し出して建物や道路を通しても良いという考え方になるんだろうか。 そんな議論が行政の中ではしきりと行なわれています。 私は、 そういう過程を経ながら、 豊中のまちづくりでの意思決定の仕方のプロセスを作っていければと考えています。
1986(昭和61)年、 豊中駅前地区に豊中駅前青年協議会ができ、 青年協のまちづくり勉強会が1988(昭和63)年から1989(平成1)年まで続いています。 スタート段階でのメンバーは商業者の7人ほどでしたが、 毎週千円ずつお金を出し合って、 まちづくり支援室の前身である市の職員との共同の学習会が1年弱行われました。 この間に、 豊中駅前地域のビジョンの素案がつくられ、 それをもとに1989年の秋から「まちづくり研究会」がスタートしていったんです。
研究会が出来上がってきた、 1991(平成3)年に府の地域商業再構築支援事業が開始され、 同時に第2期まちづくり研究会がスタートしました。 その時の研究会には、 商業者だけでなく、 住民・企業も運営に参加しています。 これを経て、 1993(平成5)年にまちづくり協議会が設立されました。 この時、 これらの活動を制度的に保障するために市の方でも「まちづくり条例」を制定しています。
通常はまちづくり条例ができてから担当セクションがつくられ、 「市民の側に下ろそう」と計画が実行されていくのですが、 豊中のまちづくりの場合は条例が一番最後にできているのですね。
1991(平成3)年からはまちづくり研究会の輪が広がっていって、 1992(平成4)年には第1期まちづくり構想をもとにして研究会が始まっていきました。
そのほかの活動では、 構想の検討の進め方をどうするかとか、 アイボリーホテルでコンサートをやってみたり、 大和銀行建て替えの説明会や、 アンケートをとって駅前交通の問題点を探ってみたり、 高齢者対策として地域で仲間と暮らすシニアハウスの試みを行う、 将来イメージを作っていくための検討会、 大池小学校の建替え問題に関する議論、 街並みに音を組み込むとか、 グループごとに将来イメージを考えていく、 また能勢街道の意味付けについて学者に講演会をしてもらうなど、 さまざまな活動をしています。 また、 震災後は再建をするため共同建替えの研究会や、 建築士による建替え相談などもしています。
こうした作業をしている中で、 ワークショップというデザインゲームのようなものを幾つか採用したこともあります。 しかし、 本来何も基盤のないところでワークショップをしても、 うまくいきません。 地域の問題や資源が分かっていて自分たちでやらなければという意思決定があり、 メンバーに力量がついてきているかどうかが運動の成否を決めるようです。
また、 ワークショップでできたことを計画に持っていけるようなシステムや仕組みができていることも大事なことで、 もしそれがなかったら単なる遊びに終わってしまいます。 役人が組織の中で戦わないで外で遊んでいるのと同じことです。
イベントは、 活動の雰囲気や企画力を高めたり地域のイメージアップ、 共同行動を起こしてイベントの担い手を街の人に知らせることが目的で、 イベントそのものに全力投球してしまうと主催者たちがとても疲れてしまって、 1〜2ヵ月ぐらいはリーダーがエネルギーを失って次の行動に移せないことが多くあるんです。 イベントで町おこし、 地域おこしをしているところもあるから言いにくいんですが、 私はイベントは次の行動を起こすための作戦や力をためるための試みにすべきだと思っています。
たとえば古本市をするために、 古本を集めに行くわけです。 その時にまちの人たちにまちづくり協議会の存在を知ってもらうことも出来れば、 顔繋ぎができ本当に協力してもらいたいことをお願いしに行く時にも訪ねやすいのです。 そういう戦略のもとにイベントをやらなければならないということです。
初期活動の時は特にそうなんですが、 参加する人はお金を儲けたい、 権力を握りたい、 有名になりたい、 いい論文を書きたい、 美人あるいは男前に誉めてもらいたいという「ヨコシマ」な気持ちの人間がまず集まるものなのです。 また、 そういうヨコシマなエネルギーがないと運動にならない、 「街のために頑張りましょう」の前に「自分が気持ちいいこと」があるから行動できるわけで、 気持ち悪くなるんだったら参加するわけがないんです。
しかし、 そういう「自分勝手なエネルギー」だけではすぐバラバラになってしまうので、 まとまるために必要なのが「タテジマ」のユニフォームというわけです。 これは、 フィランソロピーとかメセナ、 社会貢献等々というタテジマユニフォームです。
ただ、 それだけでは窮屈で仕方ないので、 「ナガシマ」します。 つまり、 誉めるんですね。 長島監督のように。
自分たちのことがマスコミに載ったり、 表彰されたりということです。 そうすると、 みんな気持ちよくなって、 しんどかった作業でも「もう1回やってみよう」ということになるんです。 「大事にしてくれるんだったら頑張らなアカンな」と。
たとえば協議会でも表彰状を出しています。 協議会のために本当に良くやってくれたある証券会社の支店長が転勤になった時にも表彰状を出しました。 もう戻ってこない人ですから、 どうでもいいとも言えるのですが、 狙いは「頑張ってくれた人はこんなに大事にしているんだよ」とみんなにアピールすることなんです。 表彰状はお金がかかりませんから、 どんどん誉めるんです。
ライトアップ作戦というのもありました。 駅前が暗いから明るくしようというので、 まずある銀行に話をしました。 なんとか協力してくれることになったので、 次の銀行には○○銀行さんは10時までショーウィンドウの明かりを付けてくれるそうですが、 と話を持ってゆきます。 そうするとまた協力してくれるんですね。
しかし、 そういった根回しだけでは駄目なんです。 それはそれとして、 協議会からきっちりお願いをしてもらいます。 それを快く引き受けてくれるわけですから、 今度は大々的に表彰してしまうのです。 協議会から感謝状を出すわけです。
そういったことを、 うまくマスコミに話をして記事にしてもらいます。 表彰もされるし、 記事になるし、 協力した方も気持ちがいいし、 お願いした協議会も気持ちがいい。 同じことでも、 やり方によってみんな楽しく気持ちよく参加できるのです。
要するにまちづくりなんて気持ちよく参加してもいいんですよ。 水飲み場に馬を連れていって水を飲ませるのは難しいと言いますが、 あれは嘘で連れていけば水は飲むものなんです。 しかし、 水飲み場があるかどうか分からない所から、 水飲み場まで連れていくのは難しい。 だから、 連れていくために必要なのは小さな心配りで、 それがあればいいんじゃないかと思っています。
条例をつくってからは協議会が認定され活動が本格化していくという過程を踏みますが、 まちづくりの初期活動はそう簡単に動くものではありません。 そのため、 豊中市では協議会の前段階として研究会活動から始めています。
研究会は地域の過半数の組織率がなくても成立できますが、 協議会は地域の過半数の加入が必要です。 よく自治会、 社会福祉協議会、 婦人会の長を集めて協議会を作ることが多いのですが、 そういうタイプの協議会ではリーダーとメンバーの間の乖離が大きくて、 リーダーが納得してもメンバーの大半が知らなかったということがあります。 しかし、 地域での連携と役割分担ができてないとまちはうまく動かしていけないものです。 ですから、 メンバーそれぞれが自分の意志で動くことを意識してもらうためにも、 豊中市のまちづくり活動体は個人加入を原則としています。
こうしてできた協議会の活動実態を言えば、 地域ではスタッフミーティングを週に何回か繰り返しますし、 アンケートを実施したり、 公開討論会、 企画委員会を行なっています。 それぞれ部会があり、 豊中を例にあげると、 調査研究部会、 音楽部会、 広報部会、 環境部会、 まちづくりセンター部会、 地区別まちづくり検討部会、 などの部会があります。 各部会では専門家の助言を受けながら進めています。
夜の9時半から始まる所もあって、 終わった後スタッフの悩みごとを聞くために飲み屋に行くこともしばしばで、 そういうことを繰り返しながら進んでいるのが実態です。
現在あるのは豊中駅前で空き店を借りて運営していますが、 岡町にも作る予定です。
まちづくりセンターは他都市の場合、 行政が運営していることが多いのですが、 豊中では自分たちの拠点として市民が運営しています。 そこでは各種広報紙広報誌、 まちの模型、 構想のパネル、 まちづくり関連のビデオなどのまちの情報提供の他、 建替え相談、 もののリサイクル、 知恵のサイクル(年配の人がいろいろ教えてくれる)などをやっています。 また、 その他、 パソコン教室、 阪大の院生によるまちづくり教室、 おいしいケーキの店紹介とか、 実になんでもありです。
現在はブロック別の研究をやっており、 再開発とか共同建替えの研究、 またサロンコンサート、 地域間交流なども行なっています。
ユニークな研究としては運輸省のモデル研究として「共同配送の研究」があります。 この共同配送は豊中駅前の各地区にとっても重要なテーマで、 交通渋滞と環境問題をクリアしようというものです。 研究会で検討しているのをマスコミに掲載され、 それを見た運輸省がこちらに声をかけてきたという経緯があります。 運輸省も共同配送からみたまちづくりを考え始めたんですが、 その時組織があることが研究の受け皿になり、 モデルになってくれと頼まれました。 そこでまちづくり協議会のリーダーが委員になって、 地元のホテルアイボリーで研究会を開くことを条件に研究を進めました。 ですから1年間運輸省から助成金が出たのですが、 たった1年で終わらせるのはもったいない、 2年目以降はトラック協会のお金も使わせてもらいながら研究を続けています。
この研究で、 一方ではまちづくりのためにイメージを構想して合意形成を図りながら、 もう一方でまちづくりリーダーたちが入れる組織を作って、 そこで科学的データに基づいた議論を進めることが出来ました。 運輸省、 建設省、 通産省、 自治省へも情報発信をし続けることによって成功するかどうか分かりませんが、 面白い実験をしているならそこに施策や助成金を出してやろうという方向性に持っていけるようなやり方を今後も続けていこうと考えています。
このようにまちづくりセンターは夜遅くまで活動していますので、 一時はオウム真理教の道場みたいとも言われてしまいましたが、 どんなことがよかったかと言えば、 ひとつには地域の人たちの信頼を集めることができたことです。 地震後、 まちづくり協議会で相談にのってくれるからとセンターを訪ねるお年寄りがかなりあると聞きました。 例えば、 空地になった土地にいろんな業者がやってきて判断がつかないと頼ってこられた人やワンルームマンションを作ろうとしたけど、 新しい都市計画があるならちょっと待とうとキャンセルした人など。 こういった相談事を通じて、 まちの仕組みづくりを彼らが知ったこともよかったのではと思っています。
これは、 コンサルタントを中心とする専門家が集まる、 条例設置の審議会です。 地域の活動家のためにいろんな助言をするというスタンスで臨んでもらって、 それを受け止めるべき行政に対してはちゃんとした応援をしなさいと言ってもらうために専門家会議を置いています。
ですから、 主な役割としては、 まちづくり協議会の認定、 まちづくり協議会提案の「まちづくり構想」を施策に反映させるという役割を果たしてもらっています。 豊中駅前まちづくり協議会やまちづくり構想もここを経て誕生したものです。 おかまちまちづくり協議会は今構想提案の段階に来ていまして、 来年3月に構想を提案し、 専門家会議で行政側の役割について勧告してもらう予定です。
政策推進部というのはよその自治体でいう企画調整部といったところですね。
支援の仕組みと活動についてですが、 現在まちづくり支援チームにはいろんな担当セクションから来た23名が在籍しています。 その23名とまちづくり支援室の人数と合わせて30数名が地元に出かけるメンバーになっています。
市民で作る豊中まちづくりネットワークとまちづくり支援チームが一緒に缶ビールを飲みながら話をしますと、 「役所の人間は頭が固いと思っていたけど、 柔らかいやんけ」とか「市民や住民はエゴイストばっかしと思うてたけど、 そうでないやつもおんねんな」という風になります。 こうして役所の中に相手の側に立てる人、 即ち“スパイ”をおき、 住民側にもスパイを置いて連携していけば、 お互いに分かりやすい仕組みが出来上がっていくのです。 だから私はよく、 「スパイを探せ」と言います。 ただし、 情報を自分の利益のためにだけ利用したりしてはいけない。 そして地域社会のために頑張っている活動のためには制度をうまく利用するノウハウを教えることも必要なんじゃないかと思います。
支援の制度としては、 コンサルタントやアドバイザーの派遣制度があります。 基本的には地元で雇ってみて良いと思う人を、 行政に推薦してもらうという仕組みにしています。 というのは、 自分たちでやりたいという意志の人が集まらないと核にならないし、 そのためにはまず自分たちでお金を出してもらうことがポイントになるからで、 「役所がお金を出してくれるんだったらやってもいいか」という受け身の姿勢では初期活動にならないんですね。 そういうことを通じて核が出来上がっていくんです。
地元が雇うもう一つの理由としては、 役所から派遣したコンサルタントだと「役所の回し者」という気持ちがあってなかなか信用してもらえないということがあります。
翌年には、 「リーダー」抜きの「産業フォーラム」と名称変更、 しかし「産業だけなのか」と言われますので、 「地域活性化フォーラム」としました。 ところが「静かに暮らしたいんや、 活性化はイヤ」という人のために「とよなかフォーラム」とまた名称を変え、 今は「とよなか・まちづくりフォーラム」という名前に落ち着いています。 このフォーラムは、 ひろく一般市民に公開しています。 参加する人の3分の1以上はいつも市外から来てくれるので、 その人たちとも交流を図って豊中市民はいながらにして情報収集ができるんです。 まちづくりの専門家が来ている時は、 名刺交換をしながら自分たちのパートナーを探すこともあります。
この名前を変えることでも、 最初は躊躇するんです。 一度決めた制度ですから。 しかし、 一度変えてしまうと、 名前なんて変えてしまってもいいんだなと思いました。 講座も同様で「まちづくり実践講座」→「まちづくり市民大学」→「まちづくり実践大学」と名前を変えています。 制度にこだわらずに実態に合った制度を作っていく方が良いように思います。 制度にこだわりすぎていると「せいどは事を仕損じる」とも言いますしね。
この研究会の内容は、 専門的な内容を研究していくもので、 メンバーは研究者、 行政のメンバー、 まちづくりのリーダーたち、 マスコミの人々です。
先ほど述べた「共同配送」はここから情報発信したものです。 マスコミがうまく取りあげてくれることで社会的に認知された活動であるとメンバーも自信が持てますし、 次の展開にあたってはいろんな人が協力してくれるというメリットもこの研究会は持っています。
“Enjoy Communication and Have Our vision”の略で、 自分たちでコミュニケーションを楽しんで一つの方向性を作っていきましょうという意味です。
このほかフォーラムを記録にまとめた「フォーラム・レポート」(月刊)を発行していますが、 これだけ欲しいという人もたくさんいて、 いま有料化も考えているところです。
庄内のやり方をまちづくりの1期目だとすれば、 我々のやっていることは2期目と言ってもいいでしょう。 同じ住民参加と言ってもパターンが違うんじゃないかと思うんです。
庄内の住民参加のスタイルは、 協議会の区域や委員の選び方も組織の代表を行政が決めてお願いに行っていますし、 役員もそういう形で決めています。 それから優秀な専門家がきちっと絵を描いて、 それでどうするかという意見を聞くという形になっています。
しかし、 地震後に聞いた話では、 そういう協議会組織とは別の住民コミュニティが存在し「自分の家はもう避難所から出て行ける状態だけど、 知り合いのおばあちゃんがまだ残ってはる。 一人残しては出ていけない」というような話がかなりあって、 避難所から人数が減らなかったんですね。 そういう古くからのコミュニティをまちづくり組織に十分生かせていたかどうか疑問ですね。
また、 産業抜きの住宅だけをリニューアルの核にしてまちづくりを進めるのでは、 民間事業のポテンシャルが高まるのかなという疑問もあります。
ただ地震後の変化としては、 今までは建替え問題について行政からアクションを起こしてもさほど反応はなかったのに、 地震後はやはり危機感が出ているようです。
豊中市でインナーシティ問題が発生している阪急沿線の古くから電鉄が開発した所です。 そこを大まかな方向付けをしており、 それにコミュニティのレベルで出てくるものを整合したような結果が出れば良いと考えています。 ゾーンの計画はそれほど地域を無視していませんから。
それと、 まちづくり協議会の人たちもいろいろ勉強してそのゾーン計画の妥当性が分かったということかもしれません。 しかし踏み込んだ言い方をすれば、 総合計画どおりでなくても良かったのかも知れない。 そりゃバブル真っ最中の1986(昭和61)年に作った総合計画がいまだに生きるはずがない。 価値観が変わったと言っている時期に総合計画を生かしながらやらなきゃいかんという話ではないと考えるのも一理あるのかも知れません。 都市計画道路も、 ここはお休みにして道を回したらいいんじゃないかということを中で議論するようになっていますから。
格好よく言えば、 下位の計画が上位の計画を少し修正し始めるということがあるのかなという感じがしないでもありません。
この公約は、 市民が計画を作っている所に役所が入っていってそれを手伝うということで、 市民参加と言うより、 「市民活動への行政参加」と言う方がいいでしょう。 出来上がった計画を公民の連携と役割分担で、 役所がその実現に努力してくことを基本姿勢としています。
(2) 制度のつくられる順番が他都市と違うのが豊中市の特徴です。 条例→組織→計画→実践というのではなく、 ボランティアのような職員がまずまちに出ていってまちの人との連携を作り、 支援チーム、 支援室ができました。 まちづくり条例が出来たのはその後です。
条例ができるときもすでに市民の活動があるわけですから、 政治家としてもつぶすわけにはいかなくて、 議論はあったもののすんなりと条例ができました。 政治家にとっても、 まちづくり研究会・協議会の中ではあらゆるテーマが出てきますから、 それを公約にすれば当選しやすいわけで彼らにとっても得なんです。
(3) そのまちづくり条例には、 1)連携と役割分担を果たす基本姿勢、 2)支援活動の制度化、 3)建築協定・地区計画が3つの柱となっています。 もともと建築協定はすでに条例としてあったのですが、 分かりやすくするため、 廃止してこちらの条例に入れ込みました。 ですから、 前は自治省、 後ろは建設省と変な条例ですが、 まあそれでもいいだろうと思っています。
(4) また、 特定の事業を最初から想定していないことも、 このまちづくり支援の特色です。 事業の単位としては、 豊中駅前の再開発や共同建替え、 道路の問題などいろいろあります。
しかし、 今役所の中でワーキンググループで行なっているのは、 面積が広くても地域を一つのものにしておいて、 構想をどうやって事業に分解していくか、 担当セクションに渡せるかということです。 最初から事業目的と範囲が決まっている方が早いのかもしれませんが、 それだと途中で計画がマズイと思う時でも、 引き返すことができません。 そうなると、 まちの人にとっては不幸な結果となってしまいます。
(5) オープンな議論の場を設定しています。 オープンにしているということは、 特定の人の利権にもとづいて予定調和的にものごとを決められることを防ぎます。 市民参加といいながらオープンにしてないとそういうことがよく起きると言われています。
そうならないために一つの例としては、 チラシだけでなくポスターで告知します。 すると誰が行っても構わないんだという風になり、 商業地の場合、 権利者だけでなく利用者も公開討論会に入ってこられます。 大池小学校の地下駐車場問題の場合も、 行政と権利者の立場だけの話でなく、 利用者から「防災上からもあった方がいい」という意見が出て、 ああそういう発想もあるんだなと納得できるわけです。 震災前の事ですが……。
(6) まちづくり支援室があることも豊中市の特徴です。 いろんなことの総合窓口となっています。 そして市職員によるまちづくり支援チームがあり、 まちづくり協議会の前段階として研究会を用意しています。 協議会は個人加入を原則としていますから、 自治会と違って「守り」ではなく「攻め」の組織になるわけです。 もちろん親組織(既存組織)になる所を無視するのではなく、 ボスタイプの人に顧問とか相談役をやってもらいます。
(7) 市民の活動資金に市が全額を出すのではなく、 4分の3を限度に出すことにしています。 これは原案としては半額にしようと考えたのですが、 長年の考え方である団体への全額補助の考え方を少し改めるということで妥協した結果です。 それでも全額とは全く意味が違うと考えています。
以上、 私達の活動を紹介しましたが、 研究者やマスコミの人にとっては理解しにくい活動のようで、 うまく伝えるにはどうしたらいいかなと思いながら今までやってきました。 今後、 みなさまの参加と協力をお願いして終わりにしたいと思います。
まちづくり支援とは?
豊中市の芦田です。まちづくり支援室の役割
支援の対象は活動の初期活動
かつては商業地におけるまちづくり支援がメインでしたが、 まちづくり条例ができてからは住宅地も支援の対象にしています。支援制度誕生のきっかけ
そもそもこの支援制度が誕生したきっかけは、 1975(昭和50)年に「商業近代化計画」という商業のマスタープランを作ったことにあります。産業活性化とまちづくりが一体化したわけ
私が企画の仕事をしながらひょんなことから商業のセクション、 産業のセクションへ行った時に、 「産業とまちづくり」が大事だということを感じたんです。市民と行政の連携
「まちづくり実践大学」という施策もやっていますが、 その中ではまちづくりリーダーを育てて、 町内会と言う枠を離れてまちづくりに取り組んでいる例がたくさんあります。組織を変えていく姿勢
実はまちの中に入って仕事をすることよりも、 行政の中で従来の伝統的な考え方の人を相手に仕事をする方がはるかに疲れますし、 考え方に抵抗を感じることが多いものです。まちづくり協議会ができるまで
まちづくり協議会に話をもどします。まちづくり研究会の活動
1988(昭和63)年にまちづくりビジョンの素案勉強会が行われ、 1989(平成1)年にシンポジウムが開催されました。活動を育てていくポイント
イベントを行う場合、 そのイベントを目的としてしまうと、 大変疲れてしまうということがあります。まちづくりのヨコシマ・タテジマ・ナガシマ
また、 活動を育てるポイントを別の言い方で、 「まちづくりはヨコシマ・タテジマ・ナガシマ」だと言うことがよくあります。協議会は個人加入を原則とする
もうひとつ活動を支えるポイントとして、 自分たちがやりたいという人がグループの核にならないと実のある活動ができないということがあります。まちづくりセンターの活躍
今、 まちづくりセンターが協議会の手でつくられています。まちづくり専門家会議
行政がどんな関わり方をしたかを示す一つの例として、 「まちづくり専門家会議」(1992(平成4)年に設立)があります。まちづくり支援活動
この支援組織の歴史は、 1987(昭和62)年の産業経済課分室(ビジョン策定室)から始まって、 ビジョン推進担当室、 まちづくり支援係を経まして、 1992(平成4)年からは政策推進部まちづくり支援室となって現在にいたっています。交流フォーラムおよび講座
1987(昭和62)年に「産業界リーダーフォーラム」という名称で豊中市の交流フォーラムが始まりました。産業・まちづくり研究会
講座のひとつに「産業・まちづくり研究会」があります。発行物
情報誌として「エコー(ECHO)」を隔月間で発行しています。従来型「市民参加」との違い(庄内との比較)
豊中のまちづくりと言えば、 庄内の再開発のことだけと思っている学者がいます。総合計画との関係
まちづくりと総合計画との関係ですが、 総合計画のゾーン計画で「豊中都心ゾーンの形成」というものがあります。まとめ-豊中のまちづくり
以上、 いろんなことを話しましたが、 豊中市のまちづくりの特色をまとめると次のようになるでしょう。
(1) 林市長の政治姿勢として「みんなの計画、 役所の支援」という選挙公約を打ち出し、 今2期目を務めています。
都市環境デザイン会議関西ブロック JUDI Kansai