景観には、 これらの異なった観点があるが、 それぞれが別個のものではなく、 これら全体がひとつの概念を形成しており、 その総体について論じていかねばならない。 特に、 景観のクオリティは、 それがいかなる景観であっても、 総体の首尾一貫性によってもたらされる。 したがって首尾一貫性があってこそ、 美観の質、 エコロジーの多様性、 用途の適合性といった多面的な問題が解決できる。
ここで私が景観という際には、 ヴィジュアルなイメージやそれぞれの場所の価値を規定している要素の総体を意味している。 つまり、 ある個別の地域を、 全体的に反映している形態ということである。
貴重品扱いの景観や物理的にアプローチできない特定の場所は別にして、 景観は、 一般的には作られたものであることを我々は理解している。 田園部も生産と労働の場である。 全く手付かずの自然のままの景観は存在しないし、 未来先取り型の日本の都市でさえも、 日常的に生命を与え、 人間性を付加していく人間が生活をしていることを考えれば、 完全に人工的な景観もまたない。
今日、 都市計画専門の建築家が景観問題を手掛けようとしているのは、 地域のすべての関係性が危機的状況にあるという本質的な認識に裏付けれたものであると思う。
そして景観は、 ずたずたに切り裂かれて、 そのクオリティ、 特に一貫性を失いつつある。 近代都市の危機を取り沙汰するのであれば、 もっと全般的に地域の危機についても語らなければいけないのではないだろうか。
地域の危機について語ることにより、 (近代的及び歴史的)都市の危機を理解できるよに私には思える。 地域の様相は、 時代の経過の中で、 経済・生産・社会活動などの状況との絡みで引き受けた、 都市と田園部の関係の限定された形態の影響をたえず受けてきた。 しかし、 今日、 進化したと言われている我々の近代世界では、 両義的意見合いをもつ要素を抱えた複合的な関係の多様性として、 この歴史的対置は解体しつつある。 そして、 都市と田園部の対置は、 農村部世界と、 田園部にまで侵食してきている広域な都市化フレームをもつ高密度の都市組織と、 都心部に分節されようとしている。
第一に田園部はもはや田園ではなく、 第二に大都会の郊外都市は未だ都市ではなく、 将来的にも完全に都市たり得ることもなく、 第三に都心部は政治・経済・金融機関がおかれているという都市的特徴を希薄にしていっているといった、 この三つ巴の関係が危機の要素を決定している。 先に今日的であると表現したこの危機は、 我々に、 都市や地域を作ったアイディアの総合的な見直しを迫っている。
この関係の第一の要素は都心部で、 イタリアでは、 歴史的街区と呼ばれているヒストリックセンターを指す。 歴史的街区は今日的危機にはあまり巻き込まれてないかのように思えるが、 逆に反動が起きている。 中世ヨーロッパの中心であった中世都市の都心部は、 商業・宗教・学問・政治・生産・住宅の中心として出来上がっていた。 つまり、 都市社会と様々な空間使用方法の融合したものを合成させていた。 現在、 イタリアやヨーロッパの歴史的街区は高い価値をもつ消費物になってしまっている。 使用価値は交換価値に取って代わられ、 このような意味で価値を見いだし得ない所は、 見捨てられていく運命にある。
第二の要素は、 田園部を侵略しながら拡大していく近代都市である。 農村世界の都市化の拠点となる様々な方向に、 都市の断片を撒き散らしながら、 都市は爆発している。 そこで都市化を成し遂げようとしているようにみえるが、 多分完結することは不可能なようだ。 “爆発する”都市は、 農村地域や周辺の孤立地区の残渣を吸収する。 その結果、 農村でも都市でもない、 混乱した市街化連担地区が生まれている。
第三の要素は、 都市に同化しながら変容する田園部である。 農村集落は都市の郊外になり、 農家は、 住宅地の不格好な模倣に変わり、 あらゆる方法で隠すことによって、 生産地区としての特性を否定している。 生活モデルや価値システムも、 都市型のものがより一層取り入れられていく。
都市の危機、 地域の危機という時代にあるイタリアでは、 この三つ巴関係の合成は、 都市や農村のアイデンティティの相乗的な喪失を生み、 これらの現実の要素の総体を再統合するにふさわしい形態の消失をもたらしている。
ウルビノのケースでも、 小規模な形ではあるが、 前述の危機の要素を見ることができる。 ウルビノは、 あらゆる矛盾した面をもつ変わった街である。 (歴史上もそうであったし、 都市装置や建築物が整い、 名門大学などもある点で)偉大な首都に典型的な様相と、 (一万五千人ほどの人口規模、 高齢化人口比率の高さ、 大学と、 住民の中で最大数を占めるそこに在籍する学生によって支えられている経済基盤の脆弱さ、 歴史・文化・環境資産を維持する資源の乏しさ)といった小村的な様相とが重なり合ってできている。
実際にはもっと広範囲にわたる地域関係の、 複合性を凝縮したようなウルビノの事例は、 研究室規模であるが、 小規模な中に問題が顕在化している特殊性ゆえに、 地域政策の新たな道の実験と言うことが可能なように思う。
前述した危機状況に対して、 地域政策や都市計画的実践は大きな影響を及ぼす。 そして近代的な都市計画はこの危機プロセスを、 むしろ深刻にしている。 なぜなら、 歴史的街区、 郊外都市、 インフラ、 農業活動等などに個別化された専門性を使ってこの現実に立ち向かい、 “アプリオリ(先験的)”に機能する規則やモデルを設定して、 直面する数多くのあらゆる問題解決にあたろうとしているからである。 がしかし、 これでは地域のコンテクスト(脈略)の複合的な首尾一貫性を回復するどころか、 逆に悪化させてしまうことになるのである。