セミナー委員 中村伸之
8月のJUDIセミナーは、上野泰氏を招いて、氏の仕事を多角的に紹介・解剖します。
ご存じのように上野氏は、多摩ニュータウン、港北ニュータウンのランドスケープアーキテクトとして「都市構造から水飲みまで」の、膨大かつバラエティに富んだデザインを担当されてきました。
今回は単なる作品紹介ではなく、原風景、発想、手法、海外体験、裏話等を引き出してみたいのですが、(3回ぐらいのシリーズになるかも知れません)、どこから、どう料理したものか、攻略法が思いつきません。
できれば皆様の関心事をお聞きして、企画を進めていきたいのです。
1. 上野氏の仕事に対する質問、あなたの感想・意見
2. 上野氏と語ってみたい街づくりのテーマ
3. 21世紀のランドスケープデザインの課題 等々
について、下記までメールをお送りください。
ランドデザイン/中村伸之
E-mail: nnnet@mbox.kyoto-inet.or.jp
セミナー委員 中村伸之
先日、メールにてお願いしました『上野泰氏への質問』の中間報告です。
少数ながら面白い質問が届きました。
また上野氏本人からも「こう料理してくれ」という注文も届きました。
さらに突っ込んだ、ご意見・方向付けを待っています。
(E-mail mailto:中村<nnnet@mbox.kyoto-inet.or.jp>中村伸之まで、よろしく)
【これまでに届いた質問・意見】
・上野さんのような仕事をしていくためには、やはり建築などの大学を 出ていないとできないのでしょうか?
・人々が暮らしやすい街、働きやすい環境を整え、誰もが快適に、心から落ち着けられる空間、安らぎを得る事の出来る空間のある街を作りたいと思っています。
このような事が出来る仕事とは、何でしょうか?
・海外で行われている景観対策など、具体的に行われている事を知りたい。
・街づくりの際に、街の色など、どのような事に配慮しているか。
・歴史的な町とニュータウンの、ランドスケープの違いについて。
この2つのタイプの町には明らかに差があるのですが、果たしてニュータウンは歴史的町になり得るのでしょうか?多摩ニュータウンのパルテノン神殿を似せて作った広場の入り口の建築物は、時間がたてば歴史的価値として社会権を得るのでしょうか?
もし、ニュータウンが歴史的な町をして残る事を許されないなら、ニュータウンは常に変化をしていなければならないのでしょうか?
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【上野氏よりの注文】
上野氏からは「UNBUILD UENODESIGN」はどうだろうかというメッセージが来ています。
「出来たもの」を云々するのではなく、「あいつは何を考えているのか(あるいは考えていたのか)」というところに焦点を合わせようという提案です。
そして、UNBUILDの3つのカテゴリーを提案されています。
第1は、具体化するプロジェクトに関するもので実現しなかったケース、つまり“ボツ”になったもの。
第2は、具体的プロジェクトの中での”イメージ“等として示されたもの。
第3は、まったく“個人的”なスタディであるもの。
【大学院でニュータウン計画について研究を進めているAさんからのメール】
・ニュータウンに対しての問題意識。
近代以降生まれた「郊外」は、歴史的な都市に対して人工的・計画的に作られた街である。
計画されたところに「人が突っ込まれていること」そのものに何か疑問を感じる。
・日本のニュータウンは「変化」に対応できないのではないか。
入居した世代に偏りがあるため、全体的な高齢化が進んでいる。
そうした変化に、街がついていくことができないように見える。
例えば、老人ホームなど新設するのは困難。
・コミュニティセンターなどを設けているが、そもそも計画時に想定した「コミュニティ」の定義が不明瞭なのでは。
それがニュータウンづくりの難しさの原因のように感じられるのだが、意見を聞いてみたい。
・人間は時間がたつと変わる。ライフスタイルも年齢によって変化する。
またそれぞれの人間によって暮らし方は多様である。
しかし、ニュータウンのライフスタイルは、働き盛りの都心通勤者、また専業主婦、小中学生といった若い核家族世代以外は寄せ付けないような 気がする。
・一貫した疑問は、人間の変化に街がついていけない、ということです。
セミナー委員 中村伸之
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上野氏と、8月セミナーの進め方について若干のやり取りをしました。
その中で、基本的なこととして、計画フレーム(事業計画)にかかわる事項と、イメージ、デザインにかかわる事項は、明確に交通整理しておいたほうが良く、セミナーは「具体的なデザイン」を、主に取り上げたほうが良いということになりました。
(“そもそも論”としてニュータウンのあり方を論ずることと、具体的空間デザインを論ずることをごっちゃにしては、議論がすれ違うだけになる)
“ニュータウン論”については、この場(ホームページ上)である程度展開するのも良かろう、とのことです。
l また、以下の「事前情報」を受けました。
1.
彼は、これまで住んでみたい、住んでも良いと思えたニュータウン(関わったものを含んで)に出会ったことがない。
つまり、関わったものについては、住みたいと思えるものには“出来なかった”、ということになる。(ただしこの問題は“そもそも論”の問題であるが。)
これまで見たニュータウンで唯一食指が動いたのは、ウェルウィンNTの最も古い一画であった。
2.
彼は、ニュータウンの役割は“終わった”と考えている。
ニュータウンに変わる新たな郊外の経営のあり方を模索しなければならないと考えている。
それが「郊外の再構築」である。(結局それは単純に農業に戻るということになるのかもしれないが。ただし担い手は代わるだろう。)
(4月22日)
さて、皆様からニュータウン問題についてのご質問・ご意見のメールが多くありましたが、これについての上野氏からのコメントを長文でありますが、以下に掲載します。
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「人工都市と歴史都市」
今日歴史的な都市と呼ばれている都市にせよ、歴史的に見て、都市とは政治的、宗教的、あるいは経済的な“外挿的”な力により、よそ者の集まりとして“人工的”に造られたものである。
ギリシャ、ローマの植民都市しかり、平城京、平安京しかり、江戸しかり、香港、シンガポールもまた然りである。そして、これらの都市はその初期において、いずれも一種の“奇形都市”であったといって良いだろう。例えば香港やシンガポールは初期の人口の殆どが“出稼ぎ”の男性であった、といわれている。そしてそのことが今日の「ホーカーズセンター」のような外食文化の基礎を造ったのだといわれている。
このような“人工的な”都市が“歴史的”都市になるためには、人々が継続的にそこに集中する何らかの戦略拠点としての“メリット”が持続する必要がある。
このようなメリットを持続できなかった数多くの都市が歴史のなかに消えていった事はよく知られていることである。つまり、政治的にせよ、宗教的にせよ、経済的にせよ、なんらかのメリットを持続できた都市のみが、こうした“人工的”都市から“歴史的”都市へと成長できるのである。そして、その初期における“奇形性”は、人々が定着し、時間が経過することによって是正されて行くものと考えることができる。
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「ニュータウンは終わったか?」
このような視点に立ったとき、歴史の浅い今日の“ニュータウン”が(特に“ベットタウン”として形成されてきたわが国のニュータウンが)、”歴史的”都市と多くの点で異なるということは、当然でもあり、また、多くのハンディキャップを背負っていることも事実である。問題は、“ニュータウン”が、これからも持続的に人々を引き付けて行けるメリットを保持して行けるのか、ということである。おそらく幾つかの“ニュータウン”は歴史の中に消えて行くものと思われる。
そして、もうひとつの問題は、現に存在する(それなりに歴史を持った既成市街地との)ハンディキャップをどう克服してゆくのか、ということである。このことは“ニュータウン”のリフォーメーションおよび、郊外のリストラクチャリングという問題としてとらえるべき事柄である。すなわち、“ニュータウン”は時と共に変わってゆく都市をめぐる情況の中で、“変わって行く”ことによってのみ(メリットを)持続することができるということである。(かつては、土地の使用価値よりもそれによるキャピタルゲインを期待したマーケットにとって、既成市街地に比してその質の割には安いという、“割安感“がメリットの一つであった)
したがって“変わる”ことができない“ニュータウン”は見捨てられ淘汰されて行くことになるだろう。郊外ニュータウンに限定して考えてみると、これらニュータウンは郊外地域において、最も投資が集約的に行われている所であり、この投資をどう生かして行けるのかが、今後の大きな課題になるものと思われる。
今日、「都市膨張期」に多くの未利用地、遊休地、生産性の低い施設等、「キャピタルゲイン」を当て込んで“水脹れ”状態となった都市が、土地バブルの崩壊とともに「収縮期」に入り、都市は“スリム化”へ向かおうとしている。
このような情況の中で、多くのハンディキャップを背負っている“ニュータウン”が、今後どのような可能性を持っていけるのかということは、大きな問題である。
ただ一つ明確なことは、“ニュータウン”は(少なくともわが国では)“戦略的地位”を失いその歴史的使命を終わったということである。
そしてそれにとって代わるべき新たな戦略的地位を獲得することができるか否かが、(すでにつくられた)ニュータウンのこれからの課題である。
第2次大戦後、わが国が工業立国をめざして産業構造の転換を図るとき、“労働力の流動性を高める”という目的のために、人口の大量移動の受皿として造られてきた“ニュータウン”はその役割を終えたといって良い。もはやかつてのような短期間、大量の人口移動は(当面)ないものと考えられる。そして、短期間に大量の住宅を供給する、という目的のために構築されてきたシステムもその役割を終えたというべきである。 おそらくこれからは、(時と共に変わって行く)個別のニーズに向き合う開発が求められて行くことになると思われるが、それが“ニュータウン”であるか否かは、わからない。 恐らくこれからは大規模開発はなくなって行くのではないだろうか。
少なくとも“見込み“開発による、画一的大量供給の時代は終わったといえる。
そして、個別のニーズに向き合うということは、結果としてエンドユーザーの“参加”を求めるということになるだろう。そしてエンドユーザーの参加ということは、街のハードの問題だけではなく、街をどのように運営して行くのかということへとつながって行くのではないかと思われる。
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「双方向的な街づくりへ」
これからの街づくりは、かつての“ニュータウン”のように“顔のない、労働力としての人間”を対象とするのではなく、“顔の見える生活者”を対象とした街づくりへと変わって行くことになるだろう。そして、そのプロセスも“造って、与える”という形から、個々のエンドユーザーがどのようなライフスタイルを望み、どのような街を望むのか、(そしてどう運営して行くのか)ということを反映させながら進めるという“双方向的”なプロセスへと変わって行くものと考えられる。
例えばインターネットを使ったユーザー参加型の“街づくり”等はごく当たり前の形となるだろう。このようなプロセスは、開発者側にとってもユーザーをあらかじめ“囲い込める”というメリットを持ち、ユーザー側はより自分たちの価値観、ライフスタイルに即した街を実現できるというメリットを持つ。そしてこのような方向は、行政に対しても、これまでの画一的なあり方から、よりきめの細やかな、柔軟なあり方への転換を要請することになるだろう。ネット上で、ユーザー、ディベロッパー、行政が新しい街のあり方について議論し、それぞれの役割を確認し、権利と義務、ギブ・アンド・テイクを明確にしながら街づくりを協働するという“受注“開発のプロセスが街づくりの普通の姿になるだろうと思われる。
話をすでに造られたニュータウンに戻すと、これから求められる変化に柔軟に対応することができるか、そのプロセスのなかにこうした“双方向的“なプロセスを含むことができるのか、そのために制度的な諸制約を見直し、柔軟な運営システムを構築してゆけるのか、ということが既存「ニュータウン」が生き残って行けるか否かのポイントになると思われる。そして、「計画」そのものもこれまでの固定的な“最終形”をめざす、硬直した「線形計画」から柔軟な展開性を持ったものへ変わる必要があるはずである。
およそ「計画」というものは全て“リミットデザイン”であるといって良い。さらに計画という「概念」そのものもまたリミットデザインであるということを理解する必要がある。これまでうまくいっていた事が、これからもうまく行くとは限らないということは言うまでもない。
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「新しい都市計画の可能性」
先に都市は“人工”の所産であると述べたが、人工的であるということは,そこに“一元化”された“全体的”意志が介在しているということを意味するものではない。全ての都市の物的、社会的形成において、“部分的”にせよなんらかの主体の意志が介在していることは、当然のことである。また、それら意志の介在のあり方によって、都市の形態が変わるということもまた明らかなことである。したがって、どのような意志の介在のあり方が、どのような都市形態を生み出すのかが分かれば、求める都市を生み出すためには、どのような意思決定システムを取るべきであるかが、大まかにせよある程度推測できるものと考えられる。
都市は多様な人々の集合によって形成されている。したがって都市は“等質”な単体ではない。むしろ「細胞内共生」にも比すぺき多様な役割を持った主体の生命活動の共生体として捉えるべきものであるといえる。そこには多様な歴史を背負った、多様な主体の多様な意志があり、都市の様々な“部分”を形成しているととらえることが出来る。したがって、都市が“活性”であるためには、このような多様な意志が生かされ、反映されていなくてはならないはずである。その一方で、都市がアナーキーな状態に陥り、それによるリスクが発生するようなことがあってはならない。
そのためには、“部分”に対して常に“全体”という問題を意識する必要がある。
我々には、わが国の「高度成長期」における、経済効率優先の開発の中で、より効率を高めるための“総合化“、“全体化“という意思決定の一元化の過程の中で、これまで歴史の中で育んできた多様性が、失われてしまったという、苦い思いかある。
その事が「計画」一般に対する否定的立場を生み出すとしたら、それは不幸なことといわなければならない。我々は、高度成長期にとってきた意志決定システムが、何を産みだし、何を産みだすことが出来ないのかについて、多くの体験をしてきた。
そして、我々が、これまでとは違った都市を求めるとするならば、当然これまでとは異なった「意志決定システム」を、構築しなけれぱならないということを意味する。
「計画」は多様でありうる。
高度成長期の都市“開発”は、それぞれの“部分”にとって、生活の場としての意味を持っていた土地を、まるで貨幣か債権のような、抽象的経済価値に置き換えることによって、都市を“解体”してしまった。これからの「計画」は“部分”の復権にその重心を置かなければならない。恐らくこれからは、個々では実現することが出来なかった事を、実現するために集まって暮らす、それをペースとした“部分”のアイデンティティーの獲得といったことが、これまで以上に重要視されるようになろう。
そして、“自律性”を持った部分の再構築ということが、不可欠となるだろう。
アメリカ、ディズニー社のCEO、マイケル・アズナーはこう述べている。
「私たちはだれでも目分たちの生きている時代にとりつかれている。そして一つの時代が過ぎると、次の人たちが新しい時代をつくり、それからまた、次の世代にとって代わられる。」
「すべてに通用する法則なんて、実はないのだ」 (朝日新聞000427)
不幸にして我々は、かつて“とりつかれていた”「土地本位制」とまで言われた、“土地所有を前提”とする計画にとって代わるべきシステムをまだ見出だせないでいる。しかし、それに代わる“土地利用を前提”とする計画は、恐らくまったく異なった可能性を我々にもたらすのではないだろうか。 (4月25日初稿、5月8日改定、未完)
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以上は、セミナーへの「前置き」として問題整理をしたものと言えましょう。
セミナーは具体的なデザインを中心に進行する予定です。(中村)
ご意見ご感想ありましたら、下記まで
(nnnet@mbox.kyoto-inet.or.jp)
【Iさんからのメール】(5月2日)
>「人工都市と歴史都市」
>「ニュータウンは終わったか?」
>「双方向的な街づくりへ」・・・・・・・
【上野氏からのコメント】(5月11日)
「コミュニティの再建は可能か」
l 「双方向的」な街づくりという考え方の根底にあるものは、生活者がその身近な環境あり方について、目らの手で決定することができる(無論責任も負うが)社会のあり方、街のあり方を求めるということである。
l すなわち「環境の自治」という考え方である。生活者が自らの手で身近な環境を選び、造るということは、生活者がその依って立つ「場」(空問的領域)を持つということが前提となる。そしてこのことは、“自律性”を持った「単位」という概念を惹起する。このような「単位」は、生活者自らの手でコントロールするという性格上なるべく“小さな”、“手のひらにのる”スケールであることが求められる。
l 社会単位が自律性を持つためには、社会単位形成の“動機”としての共通性、あるいは“目的”としての共通性を必要とする。このような共通性が、これからの“地縁社会”の再構築に不可欠な要素であると考えられるからである。今日の我々の社会が、開かれた“非地縁”社会に急速に向かいつつあるとしても、我々が都市という情況の中で、物的存在として生活している以上、ある一定の空間領域に必然的に“物的”に関わっているわけであり、その意味においてなんらかの“地縁的”関係を否定することは出来ない。すなわち、ある環境を“共有“しているという事による、共通の利害、責任を生み出すからである。このことは、結果的に“地縁”社会の再評価、再定義、さらには再構築へと向かうことになるだろう。
l 共通関心事を持つ集団の形成は、“参加”というプロセスによって初めて成り立つ、故磯村英一は、「“まちづくり”は人間づくりが基礎である」(都市問題読本/ぎょうせい1991)と指摘している。住宅地開発における“もの”から“ひと”ヘの転換である。参加のグループ形成が、それぞれの関心事毎になされるとすれば、その形成過程で共通関心事を媒介とした“事前交流”が可能となり同好者のグループが形成され、共通した価値観、生活像を持つ人々の集落が,形成されることが可能となる。(このことは、年令層や、世帯構成、収入等によるこれまでの入居資格と言うグルーピングより、はるかに多様性に富んだグループ形成が可能であるということを意味することになるだろう。)そして、この“事前交流”を通じて、将来の隣人を知り、選択することが可能となる。磯村も指摘する通り、街づくりの基礎は人であり、人と人との関係が良い街をつくれるか否かのカギを握っている、といっても良い。例えば隣近所の人々との“相性”ということも、快適な住生活を左右するものである。住まいはそれ一つで完結しているものではない。ある環境のなかにあって初めて住まいとしての性能を発揮することができるのである。そして、街は一人では造ることが出来ないものなのである。ある一定の空間領域を“共有“している人々とのコラボレーションが不可欠なのである。“事前交流”によって、将来コラポレーションをしてゆく人々を確認することができるシステムがぜひとも必要であり、日常的な社会形成においてこのことの意味するところは決して小さなものではない。
l このことは、これまでの入居にあたって(籤引き等により)まったく見ず知らずの人々と、馴染みのない土地に移り住むという、不安とストレスの多いプロセスとはまったく異なる、街づくりのプロセスの可能性を期待させるものである。このようなプロセスの基礎となる“共通の関心事”は、個々の居住者が持つよりは、共通でもったほうが(例えば経済的に)有利であるもの、あるいは一人では達成できないもの等であって、日常的なもの、非日常的なもの、実用的なもの、趣味的なもの、社会活動的なもの、あるいは身の回りの生活環境のあり方そのものに関わるもの等、様々であろう。このような“共通関心事”をキーとした新たな“地縁的”単位の形成ということが、これからの街づくりの大きなテーマとなるものと考えられ、今日の課題としてこれからの地縁的社会のあり方、形成のプロセスを考える必要がある。無論、現代の我々の社会において“地縁社会“は万能ではなく、むしろ我々の生活の中での重要性が減リつつあることも確かである。またそのことによって、近隣間のトラブルやストレスが増大していることも指摘されているところである。しかしいずれにせよ、我々がある場所となんらかの関わりを持っている限りは、その“場”を媒介とした“社会”とは無縁でいられるわけではない,その意味で、今日でもなお日常生活における近隣の“対話”は重要である。このことは、さらにその意味を拡大して、当然これからの開発(再開発)における地元地域社会との対話、連携の重要性をも意味する。すなわち、これまでの地域社会との連続性を持たない「植民地型」の開発からの脱却である.
l このような、より積極的にある共通する価値観、共通のライフスタイルを持った人々がその共通して持っている目的をより高度に実現するために、力を合わせることができるような街づくりのあり方、“目的的居住”という住まい方を支援する街づくりのプロセスヘの転換を目指すべきではないだろうか。このことは決して“閉じた”地縁社会の再建を意味するものではない。今日我々は開かれた多様な“ネットワーク社会”を形成している。それを前提として、我々が“同時的”、“重層的”に持っている社会の一つとして、このような「地縁社会」のあり方を考えても良いのではないか。
l 今日我々は“ようやく”このようなプロセスを実現できる情報システムを手にすることが出来た。これからの街づくりは、ネット上で共に住む人々を選び、住む環境のあり方を考えながら、幅広い対話、調整の中で進めてゆくという“双方向的”なプロセスによる、“目的的居住”の実現という方向に進むものと期待される。
l そのようなプロセスの中で、生活者はもとより、ディベロッパー、行政、コンサルタントは、その役割を大きく変えてゆくものと考えられる。
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近代産業社会以前の街の色は、文字通り「地域の色」であったといって良いだろう。街の色を決定していたものは、少数の例外を除いて、その地域で共通して使われていた素材の色であり、またその地域が共有してきた文化の文脈に基づいた色であった。しかし工業社会への移行と共に、素材は地域を離れて“グローパル”な商品となり、もはや特定の地域の特性を表すものではなくなってしまった。また、情報システムと物流システムの発達は、様々な地域の文化の垣根を取り払いつつある。そして素材の選択は、多くの選択肢の中から各個々人が選ぶという時代になった。
その結果、かつては「地域の色」であった街の色は、ばらぱらな「個の色」となり、また世界中工業製品の行き渡るところはみな同じような形、色の街に変わりつつある。現代はこのような「地域の色」の時代から「時代の色」の時代へと移行した時であるといって良いだろう。
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このような変化は、街の色ばかりではない。モータースポーツの頂点であるF1レースのマシーンは、かつてぞれぞれのチームが属する国の「ナショナルカラー」に塗られていた。イギリスはグリーンに、フランスはブルーに、イタリアはレッド、ドイツはシルバー(もしくはホワイト)、アメリカはブルー&ホワイトといった「ナショナルカラー」が決められていた。無論同じ国でも、それぞれのチームの色は微妙に異なり、チームのアイデンティティを表していた。例えば、同じ“プリテイッシュ・レーシング・グリーン”でも、ロータスとBRM、ブラパム、クーパーでは異なった緑色であった。こうした例はイギリスばかりではないが、ナショナルカラーという「地域の色」とチームカラーという「個の色」を、うまく両立させた例といえる。
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しかし、1960年代の終わりに、チーム・ロータスが、スポンサーのタパコ会社の色(ゴールドリーフのパツケージの色)をマシーンに塗り始めてから、事態は一変する。以来フェラーリを唯一の例外として、マシーンの色は「スポンサーの色」になってしまった。すなわち「地域の色」から「企業の色=個の色」ヘの転換である。
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このような変化は「街の色」にも見ることができる。現代は、「地域の色」からグロ一バルな商品と化した素材と、商業主義が生み出す「個の色」の時代である。その結果、街は様々な「個の色」が氾濫し,風景の混乱に拍車を掛けている。
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このような風景の混乱に対処すべく、地域の「基調色」等を決ある等の様々な試みがなされているが、そもそも”文化の共有”が崩壊している情況のもとでは、多くを期待することは出来ない。このようなコントロールは多くの場合“上から”の指示という形でなされる事が多いことも、あまり成功していない原因であると考えられる。そもそも、様々な価値観が“個”にばらばらになっている情況の中で、特定の色(あるいは色のグルーブ)に人為的にある意味を付与しようとする事は、きわめて難しいことであるといわねばならない。
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それならば、「基調色」といった風景の“安定装置”の考え方が無意味であるかといえば、必ずしもそうとは言えないだろう。問題は、それを“人為”に求める事にあるのではないかと考えている.今日多様な価値観を持つ人々の“共有できる物差し”として、人為的な「色」に優劣を付けることはほとんど不可能といって良いだろう。
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すなわち、人為による色は今日共有できる、風景の安定装置としての「基調色」とはなり得ないのではないかと考えている。裏返せば、「自然の色」のみが今日の街の風景の安定装置となり得るのではないか、ということである。具体的には木々の緑こそ様々な価値観を越えて、地域が共有できる「基調色」となり得るのではないか、と考えている。豊かな“緑”の中に様々な「個の色」が展開する、それがこれからの「時代の色」の様相であり、風土に根ざした植物の色が「地域の色」となる事を期待している。“街にもっと緑を”、これがこれからの街の色を考える基礎になるだろう