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サンフランシスコ:まちの話題第10号 2001年1月

聖フランシスのまち

 

改行マーク新しい世紀の新年を迎えた今回は、 サンフランシスコの歴史を振り返ってみたいと思います。 皆さんの中には、 自分の住んでいる町がどのように始まったのか、 最初にできた道はどの通りなのか、 あるいは一番古い建物や住宅はどれか、 などについて疑問を抱き、 調査したことのある方もおられることと思います。 私も今まで興味を持っていろいろと調べてきましたので、 その中でも案外一般に知られてなさそうな側面をここにご紹介します。 一部の史実については、 Rand Richards著 "Historic San Francisco"(Heritage House)を大いに参考にしたことをお断りします。 サンフランシスコの歴史に興味のある方には是非お奨めしたい優れた本です。


ミッションの設立

改行マーク昨年暮れのクリスマスの朝、 私は市内にあるミッション・ドロレスというカトリック教会を訪ね、 ミサをのぞいて来ました。 もう何年も当地に住んでいながら、 たまにこの教会の前を通り過ぎることはあっても、 訪れるのは今回が初めてです。

改行マーク私はクリスチャンではありませんが、 学生時代にアーバン・デザインの実習で訪れた聖地エルサレムの複雑な魅力や、 以前読んだアウグスティヌスの「告白」の真摯な迫力には心を打たれるものがあります。 また先日、 「デイスカバリー」という優れたテレビ・チャンネルで、 モーゼとその一行がエジプト脱出に際して「海水を分けて陸地となした」という旧約聖書の記述について、 サントリーニ(エーゲ海の島)の火山の大爆発による津波が引いてそれを可能にしたことの実証を試みていたのも印象的でした。 それに何といっても、 多くの米国人の人生観を理解するには、 キリスト教の精神を少しでもよく理解する必要があるのではないかと思っています。

 

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写真1 ミッション・サンフランシスコ・デ・アシス(左)とミッション・ドロレス
 
改行マークところで、 このミッション・ドロレスというのは、 スペイン系住民の比較的多いミッション地区に1913年に建てられたスペイン風バロック様式の教区教会です。 そして、 その隣にスペインの統治時代1791年から建っているアドービ風のミッション(伝道教会)が、 ミッション・サンフランシスコ・デ・アシスと呼ばれ、 実はサンフランシスコに現存する最古の建築物なのです(写真1)。 アシスとは、 カトリックの僧侶聖フランシスが13世紀の初頭にフランシスコ派修道会を創始したイタリア中部の町、 アッシジのスペイン読みです。

改行マークサンフランシスコ・ミッションそのものは、 カリフォルニア州の21のミッションの第6番目として設立されました。 スペインの軍人ホセ・ホアキン・モラガが、 フランシスコ派の修道士フランシスコ・パロウをはじめ、 軍人や入植者を引連れて要塞(プレシディオ)とミッションを建設するためにモントレーの要塞を出発し、 サンフランシスコに上陸したのです。 一行は、 要塞の建設予定地を定め、 さらに内陸を南へと探検し、 穏やかな立地にある湖を発見してそれを「悲嘆にくれた(=ドロレス)聖母」と命名しました。 そこに木造の掘建て小屋が建てられ、 最初のミサが行われたのは1776年6月29日、 米国の13州の独立の5日前のことです。 カリフォルニアにおける伝道の立役者フニペロ・セラ神父がやって来るのは、 それから少し後のことです。

改行マークこれらの伝道教会と教区教会は、 一般には混同されてどちらもミッション・ドロレスと呼ばれているようです。 教会の説明によると、 正式にはミッション・サンフランシスコの方がサンフランシスコ最古の歴史建造物で、 カリフォルニア州の歴史建造物指定の標識にもそう記されています。 この建物は市の歴史的ランドマーク(後述)の指定も受けており、 プランニング・コードの第10章「歴史建造物の保存」の付表Aに定められた225件(1999年4月時点)の歴史的ランドマークの第1号として挙げられています。 このリストには「ミッション・ドロレス」という名で掲載されていますが、 その土地台帳の番号は、 教区教会であるミッション・ドロレスを含んでいません。 現在では、 どちらの施設もパロコという司祭を長とする組織によって管理されています。

改行マークミッション・サンフランシスコのアドービ建築は、 日干しレンガをしっくいで塗り固めたもので、 間口方向のスパンが約6.6mと短く、 階高も低く抑えられていることと、 壁厚が1.2メートルもあることから、 1906年の大地震にもよく耐え、 現在も教会の一部として使われています。 1920年に地元の建築家ウィリス・ポークによって、 屋根に鉄骨トラスを加えるなどの改築が行われました。 また南側に広がる美しい庭園には、 市内で例外的に2ヶ所だけ今も残っている墓地のひとつがあります。 初代のアルタ・カリフォルニア(メキシコ統治時代の現カリフォルニア州)の知事ドン・ルイ・アントニオ・アルゲーヨや初代の市長ジョン・ホワイト・ゲーリー将軍(いずれも大通りの名に残っている)などの有名人が眠っています。

改行マークこのように、 サンフランシスコはイタリアの聖人を記念して名付けられたまちです。 それ以前はイエルバ・ブエナと呼ばれる村(プエブロ)でした。 イエルバ・ブエナとはスペイン語で良い草(薬草)を意味します。 この草は、 当地で自然にはびこっていた雑草で、 ミントの香りのするお茶として愛用されたそうです。 私は「クールミント」というハーブ茶の一種の主成分であるリコリス(カンゾウ)ではないかと思っているのですが、 真相をまだつきとめていません。

改行マーク時代をさらに遡って、 サンフランシスコの地を最初に発見した西洋人は、 バーハ・カリフォルニア (現メキシコ)とアルタ・カリフォルニア(前述)の両州の知事を兼任していたスペインのガスパール・デ・ポルトーラです。 面白いことに、 彼は帆船に乗って航海してきたのではありません。 バーハ・カリフォルニアからスペイン兵やフランシスコ修道士と共にロバに乗って北上してモントレーに到り、 さらに北上して、 今のサンマテオ郡の山からサンフランシスコ湾を発見したのです。 1769年のことです。

改行マークその後サンフランシスコの地を初めて訪れたのは、 やはりバーハ・カリフォルニアから帆船サン・カルロス号でやってきたスペインの軍人ホアン・マニュエル・デ・アヤーラです。 今は橋の架かっているゴールデンゲートという海峡に突き出した岬、 フォート・ポイントに停泊して地図を作るための測量を行いました。 当地の地名のいくつか、 たとえばアルカトラス島(現在のイエルバ・ブエナ島に付けられた名だが、 後世の地図作成者が誤ったため現アルカトラス島の名となった)やエンジェル・アイランド(ロス・アンジェルス島)などはその時に命名されたものです。

改行マークこれらの探検時代以前から、 当地にはミヨック族、 オーローン族などのネイティブ・アメリカンが住んでいました。 西洋文明に同化しないで自然に暮した部族の中で、 米国最後の生き残りとして、 1916年に亡くなったヤヒ族の男イシの物語は有名です。 私も、 サンフランシスコ郊外の墓地の町コルマに建つ霊廟で、 彼の骨壷にお参りをしたことがあります。

改行マーク一方、 西洋文明に同化したネイティブ・アメリカンは「ネオファイト」と呼ばれ、 カトリックの洗礼を施されてミッションの建設、 農業、 牧畜などの労働に従事しました。 ネオファイトの人口は一時1200人以上に達したましたが、 生活習慣の激変によるストレスやスペイン人によって持ちこまれた疫病などで、 彼らの多くが亡くなったそうです。

改行マーク1821年メキシコがスペインから独立すると、 スペイン国王の所有であった土地は、 メキシコ政府によって次々と民間に払い下げられ、 「ランチョ」という農場が各地にできました。 サンフランシスコも10余りの広大なランチョから成っていました。 そして1830年代に入ると、 ランチョの農作物や酪農製品、 なめし皮、 ランプに使う獣脂などを求めて、 東海岸からスクーナと呼ばれる帆船がイエルバ・ブエナの港に入港し始めました。 イギリスの水夫ウィリアム・リチャードソンがメキシコの国籍を得て東海岸との貿易に活躍したのはこの頃です。


ゴールド・ラッシュ前夜

 
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図1 ゴールド・ラッシュ直前のイエルバ・ブエナ村(サンフランシスコ市立図書館の資料からのイメージ・スケッチ)
 
改行マーク図1は、 ゴールド・ラッシュの直前1846年頃のイエルバ・ブエナ村をサンフランシスコ湾から太平洋に向って見た鳥瞰図です。 海岸線は、 現在の位置より6ブロックほど内陸に湾入しており、 帆船の停泊に適した入り江を形成していました。 現在ダウンタウンの金融街であるモンゴメリー・ストリートのあたりが、 港に面する埠頭だったのです(図2)。 1835年、 リチャードソンはこの埠頭の近くに船の帆を利用したテントを張り、 木造の掘建て小屋を増築し、 翌年アドービ建築に建て替えます。 サンフランシスコの町はミッションを中心として発展したわけではありませんから、 この位置が「町の起源」と言えるのではないでしょうか。

 

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図2 今日のダウンタウン街区と元の海岸線
 
改行マーク数年後リチャードソンの住居兼オフィスの周辺には建物も増え、 人口数百人の集落が形成されました。 そして港から岡を少し登ったところに初めて道路らしい道路が建設されます。 もちろんダート・ロードです。 これが、 現在チャイナタウンを南北に貫通しているグラント・アベニューで、 当初カーイェ・デ・フンダシオン(「最初の道」の意)と名づけられ、 その後デュポン・ストリートと改名されました。

 

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写真2 サンフランシスコ最古の広場ポーツマス・スクエア
 
改行マークまもなく、 メキシコ政府はスイス人の測量家ジャンジャック・ヴィオジェに街区の区画割りを依頼します。 彼はチリに住んでいたので、 スペインの伝統的手法に基づきvaraという単位(1 varaは約836mm)を使ってグリッド・パターンの道路を敷き、 中央にプラザを配置します。 この位置が、 現在もチャイナタウンの人々に愛用されているポーツマス・スクェアです(写真2)。 後にヴィオジェのプランを延長すると共に、 ダウンタウン街区を斜めに横切るマーケット・ストリートやその南の街区を計画したジャスパー・オファレルは、 初期のプランナーとして有名ですが、 サンフランシスコの都市計画はこの時に始まったと言えます。

改行マークメキシコに帰化したイギリス人が初めてビジネスを興した地で、 チリからやって来たスイス人がスペインのまちづくりを、 後のチャイナタウンの場所で始めたというのは、 サンフランシスコの生来の国際性を物語っていて面白いですね。

改行マークところで、 1846年にテキサスの領有権をめぐって勃発した米国とメキシコの戦争(米墨戦争)は、 1848年始めに米国の勝利に終わりますが、 USSポーツマスで渡来したキャプテン・ジョン・モンゴメリーは、 すでに1846年7月、 先のポーツマス・スクエアに米国国旗を掲げました。 米墨戦争の緒戦であるパロ・アルトの戦いが1846年の5月ですから、 その直後にこの地の領有を宣言したことになります。

改行マークこうして、 メキシコの寒村イエルバ・ブエナは、 米国の主要都市として発展してゆくことになります。 1848年にサクラメントの東方コロマで金鉱が発見され、 1849年からのゴールド・ラッシュによってサンフランシスコが急激な発展をとげた経緯は、 あまりにも有名なのでここでは割愛します。


ボストン・コネクション

改行マーク前節でサンフランシスコと東海岸との交易の話に少し触れましたが、 市内に現存する最古の住宅は、 実はサンフランシスコの住宅建築を代表するビクトリアン様式ではなく、 ニューイングランド様式なのです(写真3)。 ニューイングランド・ファームハウスにもやや似ており、 東海岸特有のピューリタンの伝統を感じさせる極めて質素な建築で、 装飾はほとんどありません。 現在、 たまたま私達家族の家になっているので、 この歴史建築物をもう少し詳しく紹介したいと思います。

 

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写真3 サンフランシスコに現存する最古の住宅スタニアン・ハウス(右隣のビクトリアン建築は、1892年にスタニアン家が建てた賃貸住宅)
 
改行マークこの住宅は、 ボストンから部材が船積みされ、 チリの南端ケープ・ホーンを経由してサンフランシスコに運ばれ、 1852年に今のジャパン・タウンの近くに建てられました。 初期のプレハブ建築だったわけです。 当時この敷地はちょうど町はずれの位置にあたり、 ここから西のローン・マウンテンという墓地までは、 葬儀馬車のための有料道路が続いていました。 この家がその料金所になっていたそうで、 料金を保管するニューヨーク製の古い金庫が、 今でも壁に造り付けで残っています。 1852年といえば日本では嘉永5年、 ペリーが浦賀に来航した1年前です。 当地では、 後にケーブルカーを発明したアンドリュー・ハリディがちょうどロンドンからやって来た年にあたります。

改行マーク当時、 同じニューイングランド様式の住宅は何軒かノブヒルの界隈にも建っていたのですが、 そのすべてが1906年の大震災で焼失し、 現在この家だけが生き残っています。 初代のオーナー、 チャールズ・スタニアンは、 アルメニア系移民の子孫で、 ニューイングランドでは造船業に携わっていたといいます。 サンフランシスコに移ってからは、 市の郊外土地利用委員会の議長をつとめ、 ゴールデンゲート公園の土地取得に一役買いました。 以後、 スタニアン家が5世代住んでいたので「スタニアン・ハウス」と呼ばれており、 市の歴史的ランドマークの第66号に指定されています。

改行マーク1992年の暮、 私はこの建築物のルーツを調べようと思って、 仕事でニューヨークを訪ねたついでに、 ボストンに立ち寄ったことがあります。 ボストンの市立図書館に予め調査の趣旨を手紙で知らせて助言を求めたところ、 キュレータから大変親切な返事をもらって感激したのを覚えています。 参考になりそうな図書、 月2回発行のボストン港の船積みリスト、 それに1852年前後の新聞のマイクロフィルムなどについて教えてくれました。 そこで、 ボストン市立図書館にまる一日潜って調べたのですが、 やはり一日だけの予定では大きな発見はできませんでした。 しかし、 当時のボストン港からサンフランシスコ港への人と物資の輸送の状況がいろいろと分り、 いつか再びこの調査に挑戦しようと思っています。

改行マークその時調べた「ボストン・デイリー・アドバタイザー」という新聞に掲載されていた帆船航路の1852年3月2日付の広告には次のようなことが記されています。 「サンフランシスコゆき、 エレガントな新型帆船スタッフォードシャー号。 船長アルバート・ブラウン。 リバプールからの二度目の航海にあたり上記の港に向けて近々出航。 登録トン数1900トンの本船は、 東ボストンで建造され、 その本格的な帆船装備と広い船内は、 米英両国で注目の的。 リバプールから13日半の快速で到着。 1、 2等ともこれほど快適な船室は、 他のカリフォルニア航路には皆無。 ロウズ・ワーフより出航。 貨物輸送のお客様にも、 万全の設備を提供。 お問い合わせはゴールデン&ウィリアムズ社まで」。

改行マークチリの南端を回って、 この快速帆船が何日でサンフランシスコに着くか、 ということが書いていないのは何とも可笑しいですが、 思わず夢を掻き立てられる広告です。 サンフランシスコのボストン・コネクションは、 意外と根が深いようです。 では次に、 サンフランシスコの歴史建造物がどのように保存されているかを見てみましょう。


歴史的建造物の指定と保存

改行マークサンフランシスコの歴史建造物には、 大きく分けて歴史的ランドマークと、 それに次ぐ資格の建築的重要建造物があります。 歴史的ランドマークはプランニング・コードの第10章「歴史的、 建築的、 美観的なランドマークの保存」にその存在価値をはじめ、 保存、 指定、 増改築の手続きなどが定められています。

改行マーク一方、 建築的重要建造物の方は、 同コードの第11章「C-3地区における建築的、 歴史的、 美観的に重要な建造物と街区の保存」として、 その歴史的意義がランドマークには及ばずとも、 保存、 修復、 改修、 新用途の再利用などに際して、 細心の注意と許認可を要する建造物と街区が指定され、 その扱いが定められています。 C-3地区とは、 ゾーニング上最も高度利用の商業地区で、 ダウンタウンとその南側の広大な地域を含みます。 「建築的に重要な建造物」がC-3地区に限られているのは、 この地区にそのクラスの建造物が圧倒的に多いのと、 その他の地区における歴史的建造物はすべて歴史的ランドマークに指定されているからです。 いずれのカテゴリーも、 建築物と街区がリストで指定されています。

改行マーク歴史的ランドマークは、 前述のミッション・サンフランシスコが第1号として1968年に指定を受けたのに始まり、 69年までに20件、 70年代86件、 80年代91件、 90年代28件の合計225件が現在指定されています。 例えば、 市内随一の美しい大空間を持つパレス・ホテルが第18号、 市庁舎が第21号、 ギラデリ・スクエアは30号、 オペラ・ハウス(サンフランシスコ講和条約で有名)は第84号といった具合です。 指定物件の半数以上は商業ビルですが、 住宅が約50件、 教会(シナゴーグやモスクを含む)が約25件のほか、 劇場、 レストラン、 学校、 消防署、 車庫など建物の用途は多彩です。 中には噴水や時計といった記念碑も含まれています。

改行マーク面白いのは、 市のシンボルとも言える金門橋が1999年になってようやく第222号として指定されたことです。 実は、 この橋は市の管轄ではなく、 ゴールデンゲート・ブリッジ・ハイウェイ&トランスポーテイション・ディストリクトという独立の行政区が所有・管理しています。 従来プランニング・コードの第10条には、 他の官庁の所有する建造物に同条の規定は適用されないと記されていたことにより、 歴史的ランドマークからは除外されていたのですが、 1998年にこの除外条項の改正案が都市計画委員会より建議され、 市議会で採択されたのです。

改行マークこれらの225件の建造物のほかに、 歴史的ランドマークの指定には10件の歴史的街区が含まれています。 なかでもダウンタウンに近いジャクソン・ストリート歴史街区は、 1906年の大地震による火災を奇跡的に免れた場所で、 ゴールド・ラッシュの時代に建てられたレンガ造りの低層商業建築がよく保存され、 現在はアンティークの店やデザイン事務所などが軒を並べています。 サンディエゴのガスランプ・クォーターやダラスのアーツ・ディストリクトといった歴史保存地区ほどの規模ではありませんが、 それらに匹敵する由緒ある街区と言えましょう。

改行マークランドマークの指定は、 所有者が申請して審査される場合とランドマーク保存諮問評議会が都市計画委員会に助言する場合がありますが、 いずれも公聴会の後、 市議会の議決を必要とします。 ただし、 連邦政府指定の歴史建造物(national register)のように保存、 改築のための税制優遇策や固定資産税の減免その他のインセンティブは全くありません。 所有者は開発上の制約と管理義務の負担を被るだけなので、 所有者による申請はむしろ例が少ないのが現状です。 京都の町屋など民間の歴史建造物の保存についても、 同じような問題があるのではありませんか。

改行マークまた、 指定物件のリストは、 建造物だけではなくその敷地全体を指定しているので、 増改築はもとより、 敷地の分筆や敷地内の建増しなどに際してもランドマーク保存諮問評議会の指導のもとに都市計画局に申請を提出し、 公聴会を経て都市計画委員会による審査を受けなくてはなりません。 内装に特別なディテールがない場合は、 外観の保存だけで許可される場合もあり得ます。 ただし、 焼失したものは別として、 取り壊しが許可された例は未だ聞きません。

改行マーク歴史的重要建造物は、 歴史的ランドマークに次いで最も重要度の高いものからカテゴリー1、 2、 3、 4に等級付けられ、 1と2は建築的に重要(significant)な建造物、 3と4は町並みに貢献する(contributory)建造物に分類されています。 いずれも築後40年以上で一戸の建築として価値があり、 町並みとの関係において優れたものであることが条件です。 カテゴリー1と2の違いは、 カテゴリー2では既存の建築に重大な影響を与えない範囲での増築または敷地の裏側における上階の増築が許されていることです。 カテゴリー3と4はそれぞれ保存地区内と地区外で町並みに貢献する建造物で、 建築デザイン上の価値がカテゴリー1と2より低いものです。

改行マーク歴史的重要建造物でも、 震災を被った結果、 構造的に危険であると認定された場合や、 近隣住民の高まるニーズに押され、 新しい開発の犠牲となって取り壊されることがあり得ます。 たとえば次に紹介する例は、 都心における開発と歴史保存の葛藤を象徴する事件と言えましょう。

 

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写真4 コロンボ・ビル(左)と旧トランスアメリカ・ビル(ランドマーク第52号)
 
改行マークサンフランシスコの歴史建造物は、 多くの場合「建築遺産財団」(略称「ヘリテージ」)という民間の非営利団体によって調査が行われ、 その保護と保存に関わる支援を受けています。 そのヘリテージが長年取り壊しに反対したコロンボ・ビルという準歴史建造物が前述のジャクソン・ストリート歴史街区内にあります(写真4)。 市の指定は受けていませんが、 歴史街区内の特徴ある建築物ということで、 ヘリテージはランドマークに次ぐB級の指定を独自に与えて、 その保存に尽力してきました。 コロンバス・アヴェニューで斜めに切り取られたこの三角形の敷地は、 幕末にこの地を訪れた咸臨丸の一行が宿泊したインターナショナル・ホテルもジャクソン・ストリート側に建っていたという由緒ある場所です(現在は空地)。

改行マークここに民間ディベロッパーが市長室住宅局の指導のもと、 150戸の低所得者用シニア・ハウジングをはじめ、 中国人コミュニティのための学校と文化センターを含む複合施設を15年来計画してきました。 このシニア・ハウジングの建設を支持する近隣および市当局の決意は固く、 都市計画委員会がコロンボ・ビルの取り壊しをついに許可したのです。 ヘリテージはやむを得ず取り壊し反対の申し立てを取り下げ、 その代りに、 今後同様の住宅開発については、 初期の段階で歴史建造物の保存に関する処置を協議するという取り決めを市長室住宅局との間で交したのです。

改行マークこのように、 開発と保存のバランスという普遍的な問題は、 程度の差こそあれ常に個別の計画につきまとってきます。 建造物の歴史的価値の評価という、 多少主観的な要素も含む作業が、 いかにして公共的な支持を得て、 空間のコンテキストを時間のそれの中に置くことに成功するかは、 計画関係者と住民がどこまで公共の遺産を理解できるかに大きく依存するのではないでしょうか。

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