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講演「いま、 取り戻すもの−神戸のまちの歴史から」

有井基

 

司会

改行マークそれでは、 オープニングの講演として、 元神戸新聞編集委員で、 現在『歴史と神戸』という雑誌の編集をやっておられる、 有井さんにお話をしていただこうと思います。

被災地を歩いて

有井

改行マーク私は歴史の専門家や、 建築あるいは都市問題の研究家でもありません。 しかし、 神戸が好きで、 神戸にいて、 神戸の人が好きで、 それが今回の震災で壊れた。 その直後から、 三年経たずに人の気持ちまで変わってきたという状況です。

改行マーク与えられた時間の中、 神戸の歴史を足早にしゃべることができませんので、 たまたま、 まちを歩いていて感じたことと、 その周辺のお話をして、 枕に代えたいと思います。

改行マークまもなく震災後三年になりますが、 仮設住宅には、 なお四万七千人の人が住んでいます、 というか、 耐えています。 このうち、 孤独死が県警の調べで百八十二人。 誰にも看取られずに、 命を失っていく、 これが震災地、 被災地の現実です。 これは歴史とか風景という問題とはまったく切り離された、 人間の悲惨な事実です。 私もよく北区、 西区の仮設住宅へ参ります。 皆さん、 帰りたいとおっしゃる。 帰りたいのは、 震災前の自分の地域、 自分の家があったところ、 自分の仲間がいたところ…人と風景なんですね。

改行マーク長田の南部にお住まいの七十二才の婦人が、 「私の近所にはお風呂屋さんがあった。 もう行かれへんのやな。 あそこへ行ったら皆と会えたのに」と涙を流された。 銭湯というのは、 皆が約束をしないで集まってきて、 大抵同じ時刻に近所のかたが入っておられる。 朝早くからの仕事に疲れて帰ってきて、 汗を流す人や、 これから出勤するという夜のお勤めの人もいる。 そういう人たちと会えるという、 そのご婦人にとっての唯一の慰めが、 まずなくなった。 それから、 家の路地から大通りへ抜ける道が、 石畳だったそうです。 「歩きにくい石畳やったけど、 でこぼこでもうあかんやろな」と。 たぶんこれは六間(道)のところやと思いますが、 そういうかたがいらっしゃるんですね。

改行マークそれから、 一人の視力障害者のかた。 家は全壊したけれども、 このかたは戻られました。 六十七才です。 男の人で、 奥さんが六十一才。 お二人とも体が不自由です。 現在はマッサージで生計を立てておられますが、 震災で右肩から左腰を打撲して、 マッサージの作業が非常に辛い。 だけど、 休めない。 「私にとってのまちは、 音と人のぬくもりしかない」といわれるんです。 目の見えるかたは見えるものが風景です。 この人にとっての風景というのは、 音と人のぬくもり、 人の言葉です。 それが聞けない。 この人が、 「どんどん日が経っていって、 回りの人の気持ちは冷え込むばかり。 それをしみじみ感じる」と言うんです。

改行マーク心の風景そのものが、 だんだん荒れてきた。 震災がなくても、 この世紀末の日本では、 人間の心の風景はもっと荒れているかもしれません。 けれども、 たまたま免れて家へ戻れた人は、 取り残された仮設の人たちのことをだんだん忘れて、 思いやる気持ちもない。 ここには、 震災直後の何とか助け合おうという人間のぬくもりと全く異質の、 人間のエゴをむき出しにしたような心の状況があるわけです。 こういう心の風景から昔を取り戻さないと、 神戸の本当の復興というのはありえないと思うんです。

改行マークいろんな外国人のかたがいます。 ベトナムからケミカルシューズ工場に働きに来ていた人が、 震災後、 南駒栄公園に行った。 でも、 不法入国でビザがない。 もし救済を申し立てていけば、 確実に捕まって送還される。 だから、 誰も行政に援助を求められないし、 自分の周辺も援助をしてくれるようなゆとりがない。 救援のボランティアがその人たちと一生懸命コミュニケーションを取っていました。

改行マーク神戸にはいま、 九十七ヵ国の人がいます。 九十七ヵ国の人がいて、 しかも、 グルメと称する人たちは神戸へ行けば各国の料理が食べられるとしきりに宣伝しますけれども、 ことアジアの人に対しては、 非常に冷たい。 その心の中には、 どこかでアジア人を蔑視する気持ちがある。 明治の開国以来の教育の歪みが、 いまもろに、 我々自身の頭の中を蝕んでいる。 そういう状態が依然として残っているわけです。

改行マーク「在宅介護者ネットワーク」を主催している私の友人、 西脇創一さんがこういうふうに書いています。 「この国に人権は認められないのか。 憲法の基本的人権は絵空事です。 行政は何の痛みも感じていない。 行政批判は無駄と言われるが、 人間らしい生活を保障される権利をもっと主張しないと、 人間らしい社会にならない」。 まさにその通りです。 一体、 いつからこんな状態になったでしょうのか。

イマジネーションの大切さ

改行マーク今日、 前から三人目に私の元神戸新聞の同僚の大谷成章君がいます。 この人が、 『神戸、 その光と影』(鹿砦社刊)という本を出しました。 この本の中に、 私の言いたいことのほとんどの問題が見事に整理されています。 私の師匠であった落合重信さんが、 庶民の目線で歴史を語ろう、 ということを絶えず言っておられた。 行政の目じゃなく、 庶民の目でものをきちっと見て、 そこから行政のあり方なり、 あるいは問い直しをする。 それを大谷さんはこの本の中でごく普通にやっています。 実は、 そういう目線が、 我々自身に欠けていたんです。

改行マークと言っても、 今日は神戸の歴史というタイトルをいただいているので、 少しあらましをお話したいと思います。 確かに神戸には、 縄文、 弥生からのあらゆる事象が綿々と流れています。 これは、 神戸に限らず、 阪神間、 日本全国どこでもそうです。

改行マーク神戸の場合なら、 皆さんご承知のように、 奈良平安からの大輪田の泊。 ここでは、 日宋貿易の拠点にするため、 中国や朝鮮半島との交易を目ざして清盛が一回二回、 宋との取引をしたという記録もあります。 源平合戦もあれば、 太平記の舞台になった摩耶山、 新田義貞の東求女塚など、 いろんなところで歴史的な伝承も残っています。 けれども、 やはりそういう歴史をいま、 後追いしようとしても、 なかなかしにくいものなんです。

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琵琶塚(手前)と清盛塚(兵庫区切戸町)
改行マークたとえば「兵庫津の道」というネーミングの会に出て、 近世のあるいは中世の兵庫の清盛塚、 琵琶塚、 築島寺、 萱の御所、 そういうところを見て、 イメージを持てるか持てないかというのは、 ある程度、 想像力の問題なんです。 想像力がなければ…想像力を喚起するような学習が前提としてなければ、 その土地に立ってもイメージはふくらまないし、 イメージすることができないんです。 そういう基本学習を本当に神戸の人たちが、 あるいは現在の子供たちがやってきたかどうか。 想像力の世界…イマジネーションをかき立たせるような学習の必要性を非常に感じます。

改行マークそれより、 いま、 目に見えるのはやはり近代ですね。 近代の神戸開港にあたっては、 外国からの圧力で開港しますが、 兵庫津の保守的な人たちが、 それを嫌って結局、 港はいま現在の神戸港のところへ持ってこられるんです。 そこでは、 早くから外国人居留地の造成がされます。

改行マーク一八六八年の一月一日に開港するんですが、 この居留地の百二十六区の中で、 イギリス人が四十人、 ドイツ人が十一人、 オランダ人、 フランス人、 アメリカ人もいますが、 いずれにしてもイギリス人が圧倒的に多かった。 アイルランド系の人もいましたが、 現在は非常に少ない。 居留地そのものの行政権は明治三十二年に返還されるわけですけれども、 それまでのあいだ、 いろんな外国の人たちによって、 神戸のビジネスと取引の原形が作られてくる。 日本人はそれを学びながら、 まちづくりのノウハウも学んでいく。 とにかく、 神戸市というのは、 港を拡充しよう、 すべて港、 港、 港。 港にあらゆる外国船を入れて商いをしよう。 要するに、 儲けようということですね。

改行マークこういう経過のなかで、 神戸市立博物館では《東西文化の接触と変容》というのを基本テーマにしました。 東西文化が接触をして、 日本的にアレンジされて、 アレンジされたものがどういう状況で市民生活に根づいていくか。 そういうことを研究しようというのが、 市立博物館の基本テーマです。 ただ、 外国人による国際的な神戸、 歴史の国際性というのは、 残念ながら欧米中心で、 アジア諸国に対しては、 全く目を向けていない。 だから、 アジア人蔑視というのは、 一向に改まらないのです。

人と人とがふれあう空間を

改行マーク先日も、 大阪の川口の居留地あたりに行きました。 これは淀川尻にあるのですが、 キリスト教会が修復中でした。 でも、 あたりはほとんど変わっていない。 非常になつかしい風景でした。

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川口教会(大正9年竣工、 設計:ウィルソン)
改行マークその川口の居留地というのは、 二十六区画あったんだけれども、 この区画が神戸よりも高くて、 神戸へ汽車が通ったとき、 どんどん大阪にいた人たちが神戸へかわってきます。 かわっていっても、 やはり大阪のほうがどこか居留地の匂いがするんですね。 震災前の神戸の居留地を歩いていても、 そういう匂いは非常に薄かった。 けれども、 大阪の居留地へ行くと、 周辺が開港当時から何回か建て替わっているにしろ、 いまは、 教会しか残っていませんけど、 まちなみそのものは変わっていませんからね。 まず、 川尻でありながら、 海の匂いがする。 神戸では海の匂いがしない。 きれいだから、 立派な建物があるから、 このまちはいいまちなんだとか、 美しいまちなんだというよりは、 そこで暮らしている人たちが、 本当に潮の香りを嗅いで、 みな何となく助け合って、 やっていけるようなまちでありたかった。

改行マーク確かに、 二十六区と百二十六区というと区画の大きさは違います。 スペースの大きさは違いますけれども、 その中に残っている人間らしい下町の魅力。 これが、 神戸には実はなかったものなんです。 もし、 これから居留地が再生されるならば、 人と人が触れ合えるような空間であってほしいと願っています。

「自由さ」「したたかさ」神戸の
まちの気風

改行マークさきほどの大谷君の『神戸、 その光と影』という本のなかで、 開港されると同時に、 西日本を主として、 農山村の次男三男坊が労働を求めて神戸にやってきたと書いてあります。 次男三男坊というのは、 非常にフリーですよね。 長男みたいな家の手枷足枷がない。 どんなことでも冒険できる。 そんな自由な気風が神戸を形作ったと書いています。 その通りだと思います。

改行マーク出身者別の統計が神戸市史の第三集に出ています。 出身者別のグラフを見ると、 昭和五年(一九三〇年)に、 二四・四%。 四人に一人は、 中国、 四国、 九州から神戸へ来ておられた。 これが二十年後の昭和二十五年になってくると、 少し減って一四・三%という数字が残っていますが、 この時でも、 神戸で生まれた人というのはだいたい三分の一なんです。 いわゆる出稼ぎや神戸で一旗あげようとやってきた人たち、 そういう人たちの非常に意欲的な、 フリーな精神が神戸にはあった。 またそれが、 神戸を前へ押し進めてきたということが言えると思います。

改行マーク神戸の良さというのは、 そういう自由な精神と同時に、 非常にしたたかな雑草性、 雑居性にあったと思います。 みんながとにかく集まってきて、 隣近所で味噌なり醤油なりの貸し借りをやりました。 これは、 昭和二十年代まではあったんです。 隣の人に味噌を借りに行ったり、 醤油借りに行ったり。 あるいは、 「余り物やけど食べへんか」と言って持っていきました。 だんだんそれが、 よその人になってきた。 番町地区が改良住宅を建てる時に、 いややと、 反対がありました。 横で同一の平面で住んでいたらいいけど、 二階と三階になったら、 顔を合わされへんやん。 祭りにでも行かへんかいう声かけられへんやんと。 で、 高層住宅になって上と下に住むようになってくると、 どうしても上の音がやかましいというような苦情も出てくる。 それが、 習い性となってくると、 だんだんお隣りとの交流が疎遠になってくる。 この辺が、 非常に問題なんです。

神戸のまちを動かすもの

改行マーク神戸市役所なんですけど、 当初、 明治二十年には東川崎町一丁目、 現在の橘通一丁目、 つまり裁判所の東隣にありました。 兵庫と三宮と神戸を結ぶために、 いまの大倉山からJR神戸駅をつなぐラインのところに市役所を持っていったんですね。 ちょうど神戸と兵庫の接点が中心軸だったわけです。

改行マークその後、 明治二十二年に神戸市が市政を施行します。 で、 昭和三十二年まで、 人口の増加に追っつけずに、 間借りをしたり、 蛸の足みたいに分散したりしてやっていきます。 戦後になると三宮が中心になる。 これは、 まちのすう勢といえばそれまでですが、 昭和三十二年に市役所は三宮に移ってくるんです。 いま現在は、 神戸にはハーバーランドができて、 活性化していますし、 兵庫の新開地も一応は新開地らしいにぎわいが戻りつつある。 この辺は私らにとってはうれしいのですが、 今後、 まちの中心軸がどのように移動していくか。 私も三宮中心でことが進んでいくとは考えていません。

改行マーク神戸の場合は、 戦争太りしたとよく言われます。 明治十年の西南戦争では、 兵站基地になったため、 人も物も神戸に集まって、 それが発展の基礎になった。 あるいは、 明治二十七〜二十八年の日清戦争、 明治三十七〜三十八年の日露戦争、 大正三〜七年の第一次大戦。 第一次大戦になってくると、 いわゆる造船ブームで、 船成金が出たり、 日清戦争後は、 とにかく日本は鉄鋼、 造船をやらなければいけないということで、 そういう工場が海岸線に並んでくる。

改行マークこのようにいろんな発展の基礎要因はあります。 けれども、 それはあくまで表面上のことで、 神戸というのは女性の力で発展したまちです。 神戸の中小企業というか、 地場産業の当初の再製茶、 マッチ、 ゴム、 ケミカルシューズ、 あらゆる地場産業の中で、 主要な労働力になったのは、 女性なんです。 あるいは、 十四才以下の子供も参加しています。 そのあいだ、 男は何をしたかと言うと、 港湾労働とそれに関連する仕事に就いて、 港湾の発展に多少はプラスになっていますが、 これはほとんど行政主導です。

改行マーク大谷君の本にもあり、 私も前に落合さんから教えられて同じことを書いていますが、 例の生田川の付け替え。 これは明治四年ですから、 一八七一年です。 いまの市役所の南側にある東遊園地の西側が外国人居留地でした。 布引の滝から、 いまの新神戸オリエンタルホテルのところへ入って、 フラワーロードを流れていた生田川は、 氾濫するたびに居留地のほうが水浸しになりました。 あまりにも外国人からの要請が強くて、 付け替えをすることになります。 その付け替えをしたところが、 現在の新川=新生田川です。 布引の滝から新神戸駅の前を通って、 直接海へ落とし込もうという計画です。 当時、 その辺にあまり人がいない全くの村でした。 また何もなかったから、 地価が安かった。 地価が安かったから、 低所得労働者がそこへ住み着き、 そしてスラムを形成していくわけです。

改行マーク同じように明治三十年、 一八九七年に湊川の付け替えをします。 これは河口のところに川崎造船がありました。 ここへ濁水が流れ込んだらいかんというので、 湊川を西へ振ります。 このときのいきさつについて、 西へ振るにも外側へ振りたい。 そのために兵庫の北部の湊村、 長田区の池田村、 林田村を神戸市に編入して、 神戸市域の中でやったらええやないかという既成事実を作ってしまう。 付け替えられた新湊川の流域というのは、 本来なら、 川が流れてくるんだから、 水が引きやすくなるので土地は潤うわけです。 けれども、 土地の所有権が生じて、 小作が賃借権でしかなくなる。 水を引く権利をなくす。 当然それでは農作ができません。 農作ができないから、 そこに宅地開発が進んでいく。 だから、 大谷君が書いています。 「河川改修や耕地整理などでは、 神戸市が大地主と企業とを結びつけた開発集団によって進められた」と。 現在もかつても、 行政主導ということがパターン化されているんです。 これは、 福祉の問題でも、 絶えずそう思います。

改行マークでも、 なぜ、 行政主導がいやだと言いながら、 行政に対して何かやってくれと求めるのか。 結果的には自分たちがやらないといけないのですね。 そうでないと、 行政はますます力を強めてしまう。 自分たちの意のままにまちを作り替えてしまうというのが、 現在までのパターンです。 この問題はもう少し後にとっておきます。

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大正中頃の神戸港とその周辺(注:図中の三宮駅は現在のJR元町駅)
改行マーク池もどんどん潰れました。 いまあるのは須磨の大池の端にあるのが一つと、 修法ヶ原は山の中ですから、 市街地では深田池…あとは思い当たりません。 池をどんどん潰してしまって、 大正九年に百二ヘクタールだったのが、 昭和九年には七十四ヘクタールに減ってしまう。 大正九年から昭和九年のあいだに、 池を埋め立てて開発していくという動きが、 すでに盛んになっていたんですね。 だから、 板宿の南東、 いま運動場になっている蓮池が埋め立てられたのが、 三十年代でしょうか。 池田とか池の名前がついた地名だけは残っていますが池はなくなった。 池は埋める、 海は埋め立てていく、 どんどん土地の面積を拡げたところへ人口が流入してくる。 そこへ、 昭和十三年の水害があり、 あるいは昭和二十年の大空襲がありました。

改行マーク昭和十三年の水害の時に、 四十四万八千四百人が被害に遭って、 十四万七千いくらかの戸数が被害にあっています。 この時にすぐに神戸市では、 災害土木復興部という、 土木事業と都市計画事業を統合処理しようというセクションができています。 ただ、 これが、 うまく機能して進んでいれば良かったんのですが、 戦争の激化で防空都市計画…防空壕や、 空襲に備えての高射砲陣地など防空体制のほうにお金を使っていく。 都市計画も建設事業も進まないうちに、 戦争に突っ込んでしまう。 それから、 今度の大震災です。

「復興のまち」に望むこと

改行マークこのあいだ、 JRの三宮駅の山側で五年ぶりに、 友人と会ったんです。 その友人が第一声で、 「へぇー、 阪急会館に曲線がなくなったな。 やっぱりあの曲線、 変わってたのになあ。 それにしても、 そごうは相変わらず壁の中やなあ」と。 彼は鎌倉育ちなんです。 食事に行って、 その時に、 「近代洋風建築だけ、 ひっそりあればいいのにな。 いっぱいあるオープンセットみたいなもの全部はずしてしまって、 いわゆる異人館だけ残ったらいいやないか。 ひっそりとして、 緑と調和した静かなたたずまいのまちにしてほしい」ということをしきりに言うんです。 居留地に行くと黙ってしまった。 「うーん」と言って、 それから一言もものを言わない。 彼は神戸が非常に好きで、 神戸の学校の卒業生なのですが、 さすがに居留地で第一勧銀や十五番館とかを見るとショックだったようです。 ものすごく忙しい人で、 東京の新聞社にいるのですが、 震災後、 全く来られなかった。 テレビをじっくり見る時間もなかった。 それで、 三年たって現地に来てみると、 神戸があまりにも変わってる。 これからどんな風に変わっていくのか、 これは彼の課題でもあり、 市民の課題でもあるというんですね。 どういうまちづくりをしていくかというのは、 神戸市じゃなくて、 神戸市民の課題だというんです。

改行マーク「アート・エイド・神戸」の事務局長の島田誠さんがお見えになっていますけれども、 「アート・エイド・神戸」のこの三年間の活動をみていますと、 僕らは本当に自分が何をやれるんか、 やれることをやらんとどうしようもない。 このまま、 何かに甘えたり、 何かを当てにしたりということは、 本当にだめなんだと思っています。

改行マーク私は西宮の甲東園に住んでいます。 甲東園の駅から、 関西学院のある上ヶ原台地に上がっていくところなんですが、 台地の上に芝川邸というのがあります。 明治四十五年に作られた洋風数奇屋ともいうべき独特のスタイルの住宅建築なんですが、 これが明治村へ移されるというんです。 移されて保存されるのはいいのですが、 神戸大学の足立裕司さんが言われるように、 土地に根ざした建物がなくなる。 これは、 非常に寂しいことなんですよ。

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芝川邸(明治45年竣工、 設計:武田五一)
改行マーク芝川というのは、 大阪の豪商です。 芝川又右衛門が若い頃、 そこは大農園で、 それを開拓した。 自分のところからお伊勢さんまで、 自分の地所だけを踏んで行けるということも言われたんです。 子供さんたちは何軒かに分かれて、 豪邸に住んでいます。 だから、 母屋であった本館だけを明治村へ移すんですが、 そうなると、 開拓してきた地域の歴史、 過去と未来を結ぶシンボリックな建物がなくなってしまう。 それではちょっと困るんですね。 できるならあそこへ残してほしいと思うけれども、 これは、 芝川さんの事情もあるんでしょう。 ただ、 修復すれば使えるものを何でもかんでも博物館に取り込んで保存してしまうというのは…。

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旧金川邸(大正初期竣工、 設計者不詳)
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御影郷の酒蔵(東灘区御影塚町)
改行マークそれから芦屋の伊勢町の旧金川邸。 これは大正初期の建築ですが、 行政と市民と企業が資金を出し合う市民トラスト方式で、 一部保存を計画しています。 実際、 歴史と文化のシンボルとして保存したいという地域の人たちの気持ちがわかるだけに、 やっぱりそういう市民運動的にやらないとしようがないではないかと思うんです。

改行マーク実際、 現地を歩きましたが、 灘五郷。 酒蔵の後にスーパーやマンションが建っている。 震災一週間後、 一年後、 去年の秋、 三回行ったけれども、 どんどん変わっている。 灘区でまちづくりの話に行きまして、 沢の鶴の西村隆治さんと話をしたんですが、 沢の鶴の資料館は復元するそうです。 けれども酒蔵のまち灘五郷は、 もうほとんど再生不可能だというんです。 とすると、 いかにもあの地域らしい風景というのはなくなってしまう。 本当に成熟した都市づくりの基本には、 歴史的文化的ストックをどのように生かしてつくっていくか、 これが都市創造のポイントだと思うのですが、 その歴史的風景がなくなってしまう。 しかも、 行政には文化という概念が全くないんです。

改行マーク彼らが考えている文化というのは、 入れ物であって、 イベントであって、 生活の中の精神文化というのはほとんど考えない。 出来あがった入れ物の中へ何を入れるかということは、 実は市民一人一人の仕事です。 やはり、 生活文化が、 本当にまちの記憶と結びついているということ、 これを次のパネルディスカッションで、 皆さんに明らかにしていただきたいと思います。 皆が知恵を出し合って、 いま自分ができること、 いま自分が精神的なベースを回復すること、 これをまず、 考えあおうということ。 それを次のディスカッションにつなげたいと思います。

司会

改行マークどうも、 有井さんありがとうございました。 当初から行政と大地主と企業が集団になって開発してきた神戸の近代以降の歴史についてのお話と共に、 都市の記憶というのは、 単に見た目の記憶だけじゃなくて、 そこに住んでいる人たちの歴史的風景としての記憶であること、 この記憶を神戸の再生の核にするにはどうすればよいのかというご指摘がございました。 そういう点を次のパネルディスカッションへつないでいきたいと思います。 有井さんには引き続きパネルディスカッションのほうにも参加していただきます。

 

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