講演「いま、 取り戻すもの−神戸のまちの歴史から」
有井基
琵琶塚(手前)と清盛塚(兵庫区切戸町) |
それより、 いま、 目に見えるのはやはり近代ですね。 近代の神戸開港にあたっては、 外国からの圧力で開港しますが、 兵庫津の保守的な人たちが、 それを嫌って結局、 港はいま現在の神戸港のところへ持ってこられるんです。 そこでは、 早くから外国人居留地の造成がされます。
一八六八年の一月一日に開港するんですが、 この居留地の百二十六区の中で、 イギリス人が四十人、 ドイツ人が十一人、 オランダ人、 フランス人、 アメリカ人もいますが、 いずれにしてもイギリス人が圧倒的に多かった。 アイルランド系の人もいましたが、 現在は非常に少ない。 居留地そのものの行政権は明治三十二年に返還されるわけですけれども、 それまでのあいだ、 いろんな外国の人たちによって、 神戸のビジネスと取引の原形が作られてくる。 日本人はそれを学びながら、 まちづくりのノウハウも学んでいく。 とにかく、 神戸市というのは、 港を拡充しよう、 すべて港、 港、 港。 港にあらゆる外国船を入れて商いをしよう。 要するに、 儲けようということですね。
こういう経過のなかで、 神戸市立博物館では《東西文化の接触と変容》というのを基本テーマにしました。 東西文化が接触をして、 日本的にアレンジされて、 アレンジされたものがどういう状況で市民生活に根づいていくか。 そういうことを研究しようというのが、 市立博物館の基本テーマです。 ただ、 外国人による国際的な神戸、 歴史の国際性というのは、 残念ながら欧米中心で、 アジア諸国に対しては、 全く目を向けていない。 だから、 アジア人蔑視というのは、 一向に改まらないのです。
川口教会(大正9年竣工、 設計:ウィルソン) |
確かに、 二十六区と百二十六区というと区画の大きさは違います。 スペースの大きさは違いますけれども、 その中に残っている人間らしい下町の魅力。 これが、 神戸には実はなかったものなんです。 もし、 これから居留地が再生されるならば、 人と人が触れ合えるような空間であってほしいと願っています。
出身者別の統計が神戸市史の第三集に出ています。 出身者別のグラフを見ると、 昭和五年(一九三〇年)に、 二四・四%。 四人に一人は、 中国、 四国、 九州から神戸へ来ておられた。 これが二十年後の昭和二十五年になってくると、 少し減って一四・三%という数字が残っていますが、 この時でも、 神戸で生まれた人というのはだいたい三分の一なんです。 いわゆる出稼ぎや神戸で一旗あげようとやってきた人たち、 そういう人たちの非常に意欲的な、 フリーな精神が神戸にはあった。 またそれが、 神戸を前へ押し進めてきたということが言えると思います。
神戸の良さというのは、 そういう自由な精神と同時に、 非常にしたたかな雑草性、 雑居性にあったと思います。 みんながとにかく集まってきて、 隣近所で味噌なり醤油なりの貸し借りをやりました。 これは、 昭和二十年代まではあったんです。 隣の人に味噌を借りに行ったり、 醤油借りに行ったり。 あるいは、 「余り物やけど食べへんか」と言って持っていきました。 だんだんそれが、 よその人になってきた。 番町地区が改良住宅を建てる時に、 いややと、 反対がありました。 横で同一の平面で住んでいたらいいけど、 二階と三階になったら、 顔を合わされへんやん。 祭りにでも行かへんかいう声かけられへんやんと。 で、 高層住宅になって上と下に住むようになってくると、 どうしても上の音がやかましいというような苦情も出てくる。 それが、 習い性となってくると、 だんだんお隣りとの交流が疎遠になってくる。 この辺が、 非常に問題なんです。
その後、 明治二十二年に神戸市が市政を施行します。 で、 昭和三十二年まで、 人口の増加に追っつけずに、 間借りをしたり、 蛸の足みたいに分散したりしてやっていきます。 戦後になると三宮が中心になる。 これは、 まちのすう勢といえばそれまでですが、 昭和三十二年に市役所は三宮に移ってくるんです。 いま現在は、 神戸にはハーバーランドができて、 活性化していますし、 兵庫の新開地も一応は新開地らしいにぎわいが戻りつつある。 この辺は私らにとってはうれしいのですが、 今後、 まちの中心軸がどのように移動していくか。 私も三宮中心でことが進んでいくとは考えていません。
神戸の場合は、 戦争太りしたとよく言われます。 明治十年の西南戦争では、 兵站基地になったため、 人も物も神戸に集まって、 それが発展の基礎になった。 あるいは、 明治二十七〜二十八年の日清戦争、 明治三十七〜三十八年の日露戦争、 大正三〜七年の第一次大戦。 第一次大戦になってくると、 いわゆる造船ブームで、 船成金が出たり、 日清戦争後は、 とにかく日本は鉄鋼、 造船をやらなければいけないということで、 そういう工場が海岸線に並んでくる。
このようにいろんな発展の基礎要因はあります。 けれども、 それはあくまで表面上のことで、 神戸というのは女性の力で発展したまちです。 神戸の中小企業というか、 地場産業の当初の再製茶、 マッチ、 ゴム、 ケミカルシューズ、 あらゆる地場産業の中で、 主要な労働力になったのは、 女性なんです。 あるいは、 十四才以下の子供も参加しています。 そのあいだ、 男は何をしたかと言うと、 港湾労働とそれに関連する仕事に就いて、 港湾の発展に多少はプラスになっていますが、 これはほとんど行政主導です。
大谷君の本にもあり、 私も前に落合さんから教えられて同じことを書いていますが、 例の生田川の付け替え。 これは明治四年ですから、 一八七一年です。 いまの市役所の南側にある東遊園地の西側が外国人居留地でした。 布引の滝から、 いまの新神戸オリエンタルホテルのところへ入って、 フラワーロードを流れていた生田川は、 氾濫するたびに居留地のほうが水浸しになりました。 あまりにも外国人からの要請が強くて、 付け替えをすることになります。 その付け替えをしたところが、 現在の新川=新生田川です。 布引の滝から新神戸駅の前を通って、 直接海へ落とし込もうという計画です。 当時、 その辺にあまり人がいない全くの村でした。 また何もなかったから、 地価が安かった。 地価が安かったから、 低所得労働者がそこへ住み着き、 そしてスラムを形成していくわけです。
同じように明治三十年、 一八九七年に湊川の付け替えをします。 これは河口のところに川崎造船がありました。 ここへ濁水が流れ込んだらいかんというので、 湊川を西へ振ります。 このときのいきさつについて、 西へ振るにも外側へ振りたい。 そのために兵庫の北部の湊村、 長田区の池田村、 林田村を神戸市に編入して、 神戸市域の中でやったらええやないかという既成事実を作ってしまう。 付け替えられた新湊川の流域というのは、 本来なら、 川が流れてくるんだから、 水が引きやすくなるので土地は潤うわけです。 けれども、 土地の所有権が生じて、 小作が賃借権でしかなくなる。 水を引く権利をなくす。 当然それでは農作ができません。 農作ができないから、 そこに宅地開発が進んでいく。 だから、 大谷君が書いています。 「河川改修や耕地整理などでは、 神戸市が大地主と企業とを結びつけた開発集団によって進められた」と。 現在もかつても、 行政主導ということがパターン化されているんです。 これは、 福祉の問題でも、 絶えずそう思います。
でも、 なぜ、 行政主導がいやだと言いながら、 行政に対して何かやってくれと求めるのか。 結果的には自分たちがやらないといけないのですね。 そうでないと、 行政はますます力を強めてしまう。 自分たちの意のままにまちを作り替えてしまうというのが、 現在までのパターンです。 この問題はもう少し後にとっておきます。
大正中頃の神戸港とその周辺(注:図中の三宮駅は現在のJR元町駅) |
昭和十三年の水害の時に、 四十四万八千四百人が被害に遭って、 十四万七千いくらかの戸数が被害にあっています。 この時にすぐに神戸市では、 災害土木復興部という、 土木事業と都市計画事業を統合処理しようというセクションができています。 ただ、 これが、 うまく機能して進んでいれば良かったんのですが、 戦争の激化で防空都市計画…防空壕や、 空襲に備えての高射砲陣地など防空体制のほうにお金を使っていく。 都市計画も建設事業も進まないうちに、 戦争に突っ込んでしまう。 それから、 今度の大震災です。
「アート・エイド・神戸」の事務局長の島田誠さんがお見えになっていますけれども、 「アート・エイド・神戸」のこの三年間の活動をみていますと、 僕らは本当に自分が何をやれるんか、 やれることをやらんとどうしようもない。 このまま、 何かに甘えたり、 何かを当てにしたりということは、 本当にだめなんだと思っています。
私は西宮の甲東園に住んでいます。 甲東園の駅から、 関西学院のある上ヶ原台地に上がっていくところなんですが、 台地の上に芝川邸というのがあります。 明治四十五年に作られた洋風数奇屋ともいうべき独特のスタイルの住宅建築なんですが、 これが明治村へ移されるというんです。 移されて保存されるのはいいのですが、 神戸大学の足立裕司さんが言われるように、 土地に根ざした建物がなくなる。 これは、 非常に寂しいことなんですよ。
芝川邸(明治45年竣工、 設計:武田五一) |
旧金川邸(大正初期竣工、 設計者不詳) |
御影郷の酒蔵(東灘区御影塚町) |
実際、 現地を歩きましたが、 灘五郷。 酒蔵の後にスーパーやマンションが建っている。 震災一週間後、 一年後、 去年の秋、 三回行ったけれども、 どんどん変わっている。 灘区でまちづくりの話に行きまして、 沢の鶴の西村隆治さんと話をしたんですが、 沢の鶴の資料館は復元するそうです。 けれども酒蔵のまち灘五郷は、 もうほとんど再生不可能だというんです。 とすると、 いかにもあの地域らしい風景というのはなくなってしまう。 本当に成熟した都市づくりの基本には、 歴史的文化的ストックをどのように生かしてつくっていくか、 これが都市創造のポイントだと思うのですが、 その歴史的風景がなくなってしまう。 しかも、 行政には文化という概念が全くないんです。
彼らが考えている文化というのは、 入れ物であって、 イベントであって、 生活の中の精神文化というのはほとんど考えない。 出来あがった入れ物の中へ何を入れるかということは、 実は市民一人一人の仕事です。 やはり、 生活文化が、 本当にまちの記憶と結びついているということ、 これを次のパネルディスカッションで、 皆さんに明らかにしていただきたいと思います。 皆が知恵を出し合って、 いま自分ができること、 いま自分が精神的なベースを回復すること、 これをまず、 考えあおうということ。 それを次のディスカッションにつなげたいと思います。
司会:
どうも、 有井さんありがとうございました。 当初から行政と大地主と企業が集団になって開発してきた神戸の近代以降の歴史についてのお話と共に、 都市の記憶というのは、 単に見た目の記憶だけじゃなくて、 そこに住んでいる人たちの歴史的風景としての記憶であること、 この記憶を神戸の再生の核にするにはどうすればよいのかというご指摘がございました。 そういう点を次のパネルディスカッションへつないでいきたいと思います。 有井さんには引き続きパネルディスカッションのほうにも参加していただきます。