「都市計画家の宿命」

 「水谷頴介(みずたに・えいすけ)」という名前は、一般にはあまり知られていない。

 建築家、都市計画家、神戸大講師。なかで一つを選ぶとすれば都市計画家だろう。大阪市立大での研究生活の後、神戸ポートアイランド基本設計や、福岡シーサイドももち住宅地設計など多くの計画を手掛けた。十年ほど前から福岡市の小島、能古島で暮らし、先日四日に胃がんのため五十七歳で亡くなった。

 一時期は神戸で所員六十人、アルバイト百人という大事務所を率いて、二十四時間フル回転していたという。近年はシンポジウムのまとめ役や、福岡とバンコクの学生を合宿させて設計の腕を競わせるワークショップを地元で開くなど、「触媒」のような役回りも果たしていた。

 昨年春にタイで倒れた直後も、病身をおして北九州でのシンポをまとめ上げ、近代建築の保存を訴える執念をみせた。その後の入院生活でも、「最近のゼネコンの技術者教育はあきまへんで」「御堂筋の景観問題はなんとかせんと」と、街と建物に情熱を注ぎ続けた。

 病床にあって、三十年の経験から導き出された独自の概念「まち住区」を軸に、論文をまとめ上げた。一月二十三日に京都大から工学博士の学位を受けた。並はずれたバイタリティーは奇跡をも期待させたが、たった十三日間の工学博士だった。

 先日末に神戸市で開かれた「しのぶ会」には、安藤忠雄氏、宮脇檀氏、大谷幸夫氏らの建築家や関係者五百人近くが集まり、「反中央」「在野精神」といった言葉で、その姿勢とおおらかな人柄を振り返った。

 都市計画家と建築家の職能が分化するなか、「空間までイメージできる数少ない計画家」(建築評論家の長谷川堯さん)だった。都市計画では、多様な声を吸い上げる必要があるし、景観のルールづくりといった裏方の作業が重要なこともある。建築家のように個人の名が残ることは少ない。業績や影響力のわりに水谷さんの名前が知られないのは、「都市計画家の宿命」(長谷川さん)だったのかもしれない。

<水谷頴介さんの紹介記事/1993.3.22 朝日新聞夕刊>

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