阪神大震災で事務所が倒壊するなか、 被災直後から、 復興市民まちづくりのためのネットワークを立ち上げるなど、 まちづくり専門家の連携の中心となっていた小林郁男さんの自選写真です。
別ファイルとなっている写真はGIF形式の40から60Kのサイズです。
阪急六甲駅南の六甲周辺の火災は、 地震直後の早朝から火の手があがり、 夕方になっても煙がくすぶっていた。 六甲台の私のアパートからはまさに眼下の惨状であった。
右側の市街地改造ビル(1987年完成)はほぼ全壊、 同時に完成したJRの高架と六甲道新駅舎も完全に崩壊した。 左側の再開発ビル(1988年完成)も大きく損壊している。
市街地改造ビル(メイン六甲BCビル)を含めて、六甲駅南地区の再開発事業地区。20年前の市街地改造事業では何とか残すことが出来た、かつてのお屋敷の楠は再び保存できるだろうか。
私たちの事務所があったこの幅員6mの通りは、 秋になると黄金色の金木犀の花と香りで一杯になった。 今は、 生垣が崩れ、 2段駐車の車は転落し、 ほとんどの家は全壊である。
1930年ごろに建った洋風木造2階建住宅が、 私たちコー・プラン/CO-PLANの事務所であった。 1986年より8年余り、 壁をよじ登ってゆくオオイタビがもうじき屋根まで達しようとしていたのに。
大震災直後から直ちに取り壊しが始まったが、 昭和初期の堅牢な鉄筋コンクリート造のせいか、 膨大な瓦礫に延々とユンボがとりかかっていた。 阪急・JR線も復旧工事中。
交通センタービルと同じく、 RC造中間階崩壊の典型例。 市庁舎、 国際会館、 新聞会館など、 昭和30年代の神戸を代表し親しまれてきた多くが壊滅した。 背後の超高層の1号館は被害軽微。
居留地時代の唯一の遺構である十五番館(明治14年竣工)は、 木骨煉瓦造2階建の国指定重要文化財であり、 1993年解体修理が終わり、 中華レストランとなっていた。 全壊したが再建される。
神戸の誇る最も優雅な近代洋風建築であった。 長野宇平治独立後のデビュー作で、 その6本の御影石の柱が有名であったが、 栄町通をふさぐその石柱を壊す削岩機の音が、 今なお耳を離れぬ。
世界を仰天させた高架高速道路の崩壊現場。 工法の違いからか芦屋市境で断絶している。 2週間もたたぬうちに撤去が終わり、 二十数年ぶりに国道43号から青空が見えることになった
東灘区南の埋立地・海上文化都市六甲アイランドの南端は、 神戸でも数少ない直接海の見える公園・マリンパーク。 美しく舗装された部分やボードウォークは岸壁のずれと共に崩壊、 海に戻った。
神戸の最も古い埠頭の一つであるメリケン埠頭のなごりが残るメリケンパーク東岸も、 大きく崩壊している。 青緑に色づいたコンクリート舗装面は、 すっかり渚のつもりのようだ。
最も早く復旧した神戸以西のJR山陽本線は、 兵庫駅をすぎると御菅・新長田・鷹取と西神戸の焼失地区をゆっくりと通る。 高架の車窓にまだ焦げた匂いが漂い、 誰もがしゃべることを止めた。
ゴムやケミカルシューズの工場と戦前長屋が密集する細田・神楽地区。 JR新長田駅の北側一体は焼け野原となった。 「くつのまち・ながた」の復興はいつになるのか。
JR鷹取駅の南東、 病院や風呂屋と一体となった「いきいき下町商店街」は、 背後の戦前長屋(保存を検討していたのに)ともども灰塵と帰した。 年末に改修整備したところの街灯も一緒に。
高橋病院・大国病院とならび、 鷹取地区被災民の最も頼りとなるボランティア中枢であり、 復旧復興の最大拠点。 ベトナム、 フィリピン、 コリアなどとの新たな国際交流が始まっている。
多くのビル群の倒壊は、 三宮北の飲食街も直撃。 複雑な権利関係か、 狭い路地に立ち並び重機が入れないためか、 なかなかガレキの撤去が進まない。 それでも路上で店を始めている。
神戸のまとまった空地は公園をはじめ、 いたるところ仮設住宅で埋まっている。 ここ六甲アイランドの港湾流通施設用地にも。 郊外住宅よりはまだ便利とはいえ、 鉄道普通で孤立した人工島である。
いつまでも片付かないガレキを見ていてもしょうがない。 暑苦しい夏の日差しをせめて和らげるために、 花の種をまこう。 ここ六甲ではコスモス。 長田の焦土にはひまわりを。
2週間がたって、 ガレキの間からでている芽をみつけた。 けなげとしか言いようのない柔らかな新芽はやがて花咲くことだろう。 そして次は各戸に苗木を、 生垣を、 やがて緑の神戸になるように。