対話による建築・まち育て
 参加と意味のデザイン

社団法人 日本建築学会+意味のデザイン小委員会 編著

A5判・272頁・2800円+税
ISBN4-7615-2311-5

■■内容紹介■■
もはや建築・まちづくりの分野では、環境や住民との対話を抜きにして計画は進まない。本書では、コミュニティデザインの現場にたち現れる意味を具体的にすくいあげ、研究と実践の橋渡しを行うことを試みた。「意味」、それは本物の住民参加によって獲得される、地域・空間・建築、そして生き方の質の変容であり、進化である。


 
読者レビュー

ず何よりも、素晴らしい著作が世に出たこと、その“書評”という大それた仕事の機会を与えて下さったことに感謝し、しかし安易に引き受けてしまった自分を呪いたい。

 本書は、いわゆる建築家・デザイナー・プランナーの“独白”による─往々にして独りよがりで傍迷惑な─建築・まちづくりではなく、参画・参加者間の対話による意味深い暮らしの場の創成とその持続的な育みが主張されている。
 今日、このような主張自体は殊更新奇でも画期的でもないが、本書では、11名の小委員会メンバーによる12の章がいずれも生き生きとした力強い筆致で彩られ、メンバー各位の永年に亘る具体的な実践に基づく自信と、現場から得た洞察の理論的な止揚の努力に感銘を受ける。
 いわゆる書評を見て本体を読んだ気分になったり、増して著者等の思想を分かった気分になるほど愚かしいことはないから、何よりもまず本書を読んで考えて実践していただくことを切望したい。
 以下は、評というより想いである。

 本書のキーワードの一つは「つぶやき」である。独り言ではなく、せめて周りの人々に届く程度の「つぶやき」を発してほしい、それを掬い上げつつ共に育てていくことこそが、もし今日専門家なるものがあり得るとすれば、その職能であると主張されている、と独り合点した。
 さて世の中にある無数の「つぶやき」を「対話」に成長させる仕組み・仕掛け(私は嫌いな言葉だが)が、「参画」「参加」ということであろう。対話とは、対話の結果としての対象も重要ではあるがその過程にこそ意義を置き、何をよりも如何に、つくり育てるかに重点がおかれる。参加は対話に必須の前提であり、真正な参加は民主主義にとっては絶対善であるが、しかし猶日本の現状では、“真正な”参加のあり方が問い直され続けねばならないのだろう。例えば、どこの誰がどのように参加することがより望ましい過程と結果をもたらすか、“一部の”参加による対話の創成したものがどのようにして社会的に公認され得る善きものであり得るのか、否、そもそも“公”認とはどんなことか、等々。
 また言うまでもなく、参画・参加には努力が必要であり、対話には痛みが伴う。悲しいかな私自身は独りよがりの内向きの独白が身に合っており、対話による自己開示の恥ずかしさや他者からの批判に臆病である。大袈裟な言い訳をすれば、和を以て尊しとする歴史と沈黙を金とする何時の頃からかの社会文化的風土に慣らされ続け、演者より観者である気楽さに自堕落に寝そべり、その限界を自ら乗り越えようとしない怠惰な人、にも密やかな居場所をなんとか与えてほしいと望んでいる。しかし、このような甘えこそが、目敏い一部の方々をして、参加をhow toものとしての通過儀礼的免罪符に貶めさせてしまっているのであろう。
 ところで、書名にもあるもう一つのキーワード「意味のデザイン」の意味について、それが「人々が生きる上で」もとめる「生きる意味」を指している(16頁−)のか、あるいは建築やまちの「決しておろそかに」はされない「機能や形態」に結ばれる「意味」を指す(図0・2)のか、結局両者は同じことなのか、未だ私には十分には理解出来ていない。もし仮に前者とする場合、人が「生きる意味」はデザインし得るものなのか、デザインされた「生きる意味」とは果たして何か、“デザイン”という概念の持つ人為的作為的な側面の響きを嫌う私には共感し難く感じられる。また一方、“デザイン”は語源的には元々「意味」を生み出すことであるから、「意味のデザイン」とは一体何なのか、締め切り目前にして自分の読みの浅さを嘆いている。
 本書は、建築やまちの有り様に関心を持つ者─つくりたい人・守り育てたい人・味わいたい人─の必読書であり、読者が増えて議論が広がり、愛おしく居続けたくなるような暮らしの場が豊になっていくことを祈りたい。さらにまた、私の独断による人間環境の相互浸透という視点から言えば、参画と対話の過程を通じて、そこに関わる人々が正に自らを豊に成長させ、特に専門家が自己の“構造改革”を続けて行くことこそが、真に意味ある建築・まち育てである、と思う。
 今日、日本の社会のあらゆる局面で、陳腐な流行言葉で恐縮だが「茹で蛙」現象が生じている。その一端に身を任せてやがて“安楽な死”を迎えつつあると予感されるけれども、この温湯は実は熱湯だと何時気づくのか、自らが試されている。自堕落な私への叱咤あるいは檄として本書を読んでいる。

 最後に、畏友B.ミンさんはone world(本書31頁)ではなくone community と名付けており、彼の哲学の紹介者の一人として、些細なことではあるが一応指摘しておきたい。

(大阪大学大学院工学研究科教授/舟橋國男)


担当編集者から

書でもっとも興味深かったのは「参加が実現したら良いデザインが生まれるのか?」という問いに、参加が大好きな著者達が向き合ったことだ。
 そもそも良いデザインとは何か?
 たとえば横山ゆりか氏は建築計画学が前提としている人間像のあまりの単純さを指摘する。座るための椅子とはいえ、子供は座りたいだけとは限らない。立ち上がりたいこともある。
 ワークショップの達人・伊藤雅春氏は参加によってつくられた公園は、あれもこれもと要望が形になるのではなく、わかりやすくシンプルな空間構成や多様性のある自然な表情、未完成な空間のしつらえが特徴だという。
 おそらく参加の過程で思いがぶつかり、デザインへの思いこみが丸くなり、使ってみなければ分からない、使ってみてから考えようという気分になるのかもしれない。
 実際、私もセミコーポラティブ・マンションの間取りや内装を設計者とやりとりしてきたが、近隣紛争で長引き、対応に疲れ、初期の思いは忘れてしまった。結果、わかりやすくシンプルな空間構成になっていたとしたら、幸いだったかもしれない。
(M)

えば建築やまちづくりの現場において、建築家やランドスケープデザイナーは、「場との対話」について盛んに口にします。
 でも、少し考えてみてください。町に暮らす住民が、一番その「場」のことを知っているのです。
 彼らの声をいかにすくいあげ、地域・空間・建築に活かしていくか。
 参加と協働に悩むみなさん、ヒントが本書には詰まっています。
(G)