感性のモダニズム
都市景観施策の源流とその展開

西村幸夫編著

A5変判・256頁・定価:2800円+税
ISBN4-7615-2362-X

■■内容紹介■■
景観基本法の制定、歴史的な町並みや建築物への関心の高まりを背景に、景観施策が大きく動こうとしている。我々は、都市美とは何か、美の施策はどうあるべきかを再度真摯に捉え直すべきではないか。欧米各国と日本の都市美理念の源流に遡り、美の公共性がいかに確立してきたかを振り返るとともに、これからのあり方を探る。


 
読者レビュー

書に先行する「都市の風景計画−欧米の景観コントロール 手法と実際(2000年)」「日本の風景計画−都市の景観コントロール 到達点と将来展望(2003年)」は本当に勉強になった。欧米や日本の都市づくりにおいて「見映え」や「見る見られるの関係」がどのように活かされているかを知ることができた。通常われわれはこれを「景観」と呼んでいる。しかし、上記の2冊および本書の編著にあたった西村幸夫先生はこだわりをもって「風景」と著している。なぜ「風景」なのか、その答えは「都市の風景計画」で見つけていただきたい。
  さて、本書のテーマである「都市美」も「景観」に近い概念としてとらえることができる。「都市美」は見る側の価値観としての「美しさ」が判断材料に加わり、「景観」は実際にある姿といえば違いが理解されよう。私はかつて「建築学用語としての『景観』の一般化に関する研究−『都市美・景観』概念に関する基礎的研究(1992年)」を日本建築学会大会学術講演梗概集に発表したが、その中で日本では「都市美」が先行し「景観」が後に普及したことを述べている。
  本書ではイタリア、フランス、ドイツ、イギリス、ベルギー、スペイン、アメリカのそれぞれについて、留学経験などをとおして主テーマとして研究した「景観」研究者が自らの研究成果を惜しみなく披露しており、日本に関しても拙稿では及びもつかないほど探求された研究成果である。冒頭の繰り返しになってしまうが、本書「都市美−都市景観施策の源流とその展開」は本当に勉強になった。史的経緯の中で見る側の価値観としての「美しさ」の源流を辿り、それがどのように形成、展開されてきたかを確認することができた。各国の「都市美」のきっかけはさまざまであるが、今日われわれは各国の優れた都市計画制度やまちづくり活動を学び、わが国に適用させていることを考えれば、その原点を知ることは重要である。そのうえで、これからの都市づくりにおいてどのように「都市美」に配慮していくべきかも考えていきたい。
  本書は先端の研究成果を披露した理論書ではあるが、それぞれの執筆者の努力により各国の都市計画、まちづくりの原点を知る読み物としても理解しやすい構成となっている。ぜひ多くの学生、NPO関係者、行政関係者、研究者などに一読を勧めたい。

(日本大学理工学部助教授/宇於崎勝也)

担当編集者から

観法をめぐる議論でも一部出ていたが、国家が美を語るとろくなことはない。だいたい都市美なんて権力が都市をつくったり大改造できると思ったときに語られ、作られたものだ。ありもしない伝統や地域を追い求めると、ナチズムと一体化したハイマート(郷土)礼賛のようになりかねない。危ない、危ない……。
  では、この汚い、無個性の都市景観こそ我らの世界なのか。
  本書で初めて知ったのだが、欧米においても都市美政策は大衆化や民主化のなかで一度は立ち消えているのである。それが、現在、力強く展開されているのは、復古したからではない。大衆化、民主化された社会のなかに転生したからである。そこのところをもっとも注意深く読んでいただきたいし、また、もっと究めなければならない点だと思う。著者と一緒に考えていただければ幸いです。

(M)

書のカバー写真となったフィレンツェのように、ヨーロッパのしっとりとした町並みを好ましいという人が大勢いる一方、美しいけれど単調で息苦しく感じられる町よりも東京の猥雑なエネルギーこそ素晴らしいという人もいるだろう。
  都市の美とは、自明のことのようでいて、案外、それぞれの感性によって、まったく違ったイメージであることに気がつかされる。その上そこに、経済性や利便性といった利害が絡んでくるから、景観の規制や保存はいつの時代もややこしい。本書のテーマである、「美」に公共性があるのかは、今もっともタイムリーで、普遍的な問いなのである。
  かつて「都市美」を掌中に納めることができたのは、絶対的な権力を誇る為政者だけだった。しかしいま「美」は、われわれのもとにある。いまある都市を次世代に受け継ぐだけでなく、積極的に「都市美」を資産価値としたまちを創るために、本書は、都市美思想の源流に誘ってくれるのである。

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