推薦文
良く知られているように、風景というものが、西欧においてはルネサンス、東アジアにおいては5世紀始め頃に自覚されだした環境美の世界だとすれば、それは人間にとって先天的な感覚ではなく、歴史が練り上げた表象文化現象にほかならない。したがって、それが時とともに移ろうのは自然なことで、その動態をおうことは風景研究の神髄にふれるものであろう。
この本は、江戸から東京への時代の流れとともに、複雑に分岐しながら変遷してゆく風景観の系譜を、おおくの資料から丹念に実証したもので、とくにテクノクラートが切り拓いたその姿は、激変期の風景の揺らめく実相を良く掬い取っており、そこから将来への展望をひらいている。
(東京工業大学名誉教授/中村良夫)
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読者レビュー
言葉遣いというものは、その人が生きた時代を表すとともに、その人の身体感覚に根ざしたものである、ということが本書を読めばおわかり頂けるだろう。笠原さんは、「時代を超えて通底する風景の楽しみかた」が知りたかった、さらに「今日の風景づくりへのヒント」が得たかった、とおっしゃる。私もその身体感覚を是非体得したいと思う。
生きた言葉というものは、なかなか捉えることが難しい。風景を愛でる言葉となると忘れ去られてしまった身体感覚も含まれていたりして、さらに厄介だ。同じ時代に同じ場所にいても、それぞれが身につけた言葉の違いによって、各人に見える風景は異なる。いま一緒にいる人でさえ同じ風景を見ているとは限らない。笠原さんは、まず私たちの先達が近世から近代の変革の時期に体感していた風景を、絵図や写真などの目に見える史料だけでなく、「言葉」を頼りに掘り起こそう、またその身体感覚を体感しようと試みておられる。美麗、壮麗、美観、風趣、風致、移ろいゆく風景を語る言葉の数々、私たちは何を拠り所に、これらの身体感覚を確かめればよいのだろう。解決の糸口はコラムに隠されていた。「臥遊」するのである。自らの身体感覚を絵巻物のなかで養い、「風景の楽しみ方は変わったか」という問いに答えてみよう。
続いて、近代化のさなか急速に変容する風景と対峙した技師たちの葛藤の中に、風景に対する身体感覚の変化が描かれている。日本橋、日本橋通り、江戸城外濠、いずれもが庶民に親しまれてきた名所地であり、江戸から東京へと大変貌を遂げた風景の基盤である。理想的一新型であれ、現実的改良型であれ、プロジェクトを取り仕切った技師たちの悩みは大きかったであろう。ものづくりの拠り所となる自然環境とともに社会環境も大きく変容し、自らの身体感覚も留学や諸外国の技術に直に触れることによって激動しているのだから。「整然」か「調和」か、混沌のなかで一つだけ確かなこと、近代化事業の結果として出現した都市の姿を眼前にして、それを批判的にとらえ、解決すべき問題、という意識をもつようになった。抜け落ちてしまった風景に対する身体感覚の代わりに、客体化された都市の美観に関する諸課題が技師達の眼前に立ち現れたのだろう。
最後に、技師たちはこのような風景と如何に向き合ったかが語られ本書は結びとなる。技師たちの、「調和」と「整然」の混合・同一視の可能性、形象という表層を手がかりに新しさや機能に風景の価値を見出す態度が指摘されている。これは単なる昔話ではなく、現在進行形の事実に対する警鐘かもしれない。近世から綿々と引き継がれている感受性によって、更新されていく町の風景を楽しんだという事実に気づいた笠原さんは、最後にこう呼びかける。多様な感受性を知っていてこそ、風景を楽しむ身体が得られると考えるとき、やはり風景を語らうことは大事だと思う。全く、同感である。
(熊本大学政策創造研究教育センター/田中尚人)
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担当編集者より
気鋭の若手研究者が想像力を駆使した論文、そのダイナミックな物語をこの本でシンプルに伝えられたらと思いました。
例えば首都高が上空を通る現在の日本橋、その変貌ぶりは圧巻です。木橋から石橋へ改築途中も、家康像が提案され、しかし後に(時代遅れだからと)却下され…、そこにはエリート技師たちの苦悩が垣間見えます。
一方で、どんな風景が造られても、庶民はそれを屈託なく楽しむということ、江戸の名所本にはその様子が豊かな表情とボキャブラリーで描かれていたことに気付かされました。
私たちは今、どんな言葉で風景を楽しみ、語っているんだろう? そんなことを考える一冊です。
(I)
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