美しい国づくり政策大綱&景観基本法についてのアンケート

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アンケート記述欄へのご意見

 

 

  • 美しい国づくり政策大綱について
  • 景観基本法

  • 電線地中化
  • 自由記述欄


     

    美しい国づくり政策大綱について

     


    この大綱はあなたが住んでいる町、関わっている町の美しいまちづくりに繋がると思いますか。
     繋げるためにはどうすれば良いでしょうか。

    思う(54)

    ・住民意識の創出方法NPO等への情報提供、表彰などの支援を強化すべき。

    景観に対する新しい社会的価値規範を普遍化させていくのに繋がる。繋げるためには景観に対する1人1人のに認識を高めていく手だてを講じていく。

    今までのまちづくりの視点は、NYなどの超高層ビルが乱立することがまちづくりだというようなふんいきがありました。しかし、今回、大綱が発表され、景観を重視する意識が芽生えたことはすばらしいことだと思います。この大綱は初めの一歩であり、今後は、この大綱以上のものを作るような意識改革をしていくことが重要なことになります。

    期待を込めて「思う」とするが、実際にどのような影響力を発揮できるかは未知数。歴史的景観と自然景観を重視する具体策を強化すべきと思う。

    都市インフラが、街のかたちとして形成されていくため地域住民の意識の拡大につながる。

    美しさの価値基準は様々にあるが、一定の広がりを対象とした街のあるべき姿を形成できる。

    長期的に見て経済効果がどの程度あるかという予測を立て、人々の認識を、短絡的な商業的利益の誘惑に負けないように動かしていくこと。

    大綱だして、美しくなると思ってる訳ではないだろうけど、そういう方法でまず始めるところに、国家政府の思い上がりが透けて見える。 「現場に真実がある」と月刊きんもくせいに書いたが、本当は「現場にしか真実はない」というのが、本音です。 しかし、ざっと大綱を見ると、そこら辺にもなんとか、していこうという気持ちは読み取れるので、期待を込めて『思う』です。

    基本理念として美しい街を考えるべきである

    タバコや放置自転車に加え、公共事業が美しさへの配慮を欠いていた、人口景観は見劣りがする、などの反省点が明確で、ここからより深い問題に切り込もうとする姿勢は明確。しかし、美しい街をつくる具体的手法に乏しい。この反省から何を生むかという取り組みを重ねる必要がある。

    コンサルの描いたスケッチのような絵が、みなが其の事業を知ってから、工事が始まってしまうまで何も変わらない、横目で見ながら不細工な歩道橋だなとか思っても、それが何らかの働きかけで変えることが出来るのか、可能性も手段も判断できないまま、物が出来上がってしまうことに慣れてしまった。その可能性を広げること、手段を身近なものとして参加することが当たり前となる仕組みを当然のようにみんなで議論する場が必要。

    住民、担当者、財政当局の意識の変化による。

    今までとの逆転の発想で、世相の支持が得やすい。しかしこの大綱の担当は、総合政策の企画が受け持っている。直接部署に浸透していくのだろうか。

    基本的な理念の確立と建築基準法等の関連法規の整備改正及び基礎自治体への強力な権限の付与

    住民参加機会の創出、公共と民間・市民をつなげる仕組みづくり、そしてその仕組みを動かすための、「人づくりやモノづくりに対する予算」が必要と考えます。

    一個人や一民間企業ではどうにもならない部分がある。行政主導で政策・ビジョンをうちだしていくべきだろう。その第一歩は「みすぼらしいものの排除」からだろう。まずは電線を地中化することから始めてもらいたい。先進国とはいえない状況を恥ずかしく思う。

    どのように実施したらよいのか迷う自治体担当者も多いかもしれません。具体的な景観整備の方法、ワーキングの方法、市民参加の方法、意識改革について各地で説明、体験が必要だと思われます。

    美しさの基準は人によってまちまちであり、美に対する認識を住民が共有するためのルールを示す手段であると考えられる。

    実際に行動におこす際に、手続きの手順が面倒であったり、時間が不必要にかかることがないように。

    繋がるように地域が運用していけばよい。地方自治の意識が今まで以上に強くなってくると思っている。県単位ではなく、市町村それぞれに、どんなまちづくりを目指すのかを、住民に問うていけばいいと思う。

    環境は連続性がある。

    協働してまちづくりを行なうための指針となるでしょう。

    とにかく、景観面の法律ができたこと、もちろん遅すぎたですが、評価したい。もっともっと地域、住民レベルでの浸透が必要。

    縦軸になる国の方針さえあれば、その枝葉となるほんの小さな事業にも影響はあるはず。まちづくりにつながるかどうかの評価は、個々人の関心の持ち方次第だと思う。重要なのは、美しい街並みづくりに意識を持ち続けること。目的をどう勘ぐられたとしても、国の施策としてあって然るべき

    根気のある根交渉と短絡的商業主義にはしらない為の工夫。良い景観には多くの人を集める力があるということを広く知ってもらう。

    土木構造物等の構築において、美しい国土、美しい景観を形成していくためには、国の基本施策の中心にこの大綱が位置づけられ、実行されのであれば、大いに繋がると考えられる。なぜなら、公用サイドの構築する構造物等は、地域においては基幹的なものであり、また規模の大きいものが大部分であり、民間等の事業に大きく影響を与えると考えるからである。

    特に、「事業における景観形成の原則化」と「景観評価システム」が一体となって運用されることにより、美しいまちづくりに効果的に結びつくものと思われる。「景観の予測と評価」が重要

    町の将来都市像として、人口や産業などの統計的数値だけではなく、町の姿形を掲げる自治体が増えるのではないか。人材育成とともに、住民一人一人の意識改革を促すような施策が必要。

    電線の地中化が全国的に達成されれば、景観の問題だけではなくその他の問題解決にも繋がるはずと考えます。例えば、カラスや蛇による停電といった事故が減る可能性が高い。

    1 自治体が本気で早急に基本計画を作成し条例化すること。
     2 基本計画を作成するまで全ての開発、建設をストップすること。それによってあまねく本気で実効性のある政策を意図していることを知らしめる。
     3 自治体の基本計画作成の課程が最も重要である。この間に広く国民市民の合意形成を図ることが重要。
     4 合意形成には時間がかかる。しかし緊張感を欠いた骨抜き計画では意味が無い。そのためにはまず3年を目処に制定する。その間の新たな開発、建設はストップ。その後10年の試行・修正期間を設ける。

    ふるさとの顔づくりモデル土地区画整理事業のようなモデル事業だけでなく、一般の事業でもグレードアップを前提とできることや、良好な景観形成上重要な電柱の地中化が、これまでメインストリートと等の一部しかできなかったのが、補助等も含めた新たな取り組みが期待されるから。

    市民の間に共通の意識があるわけではない。したがって当然時間はかかるが、問題提起をしていくべきだと思う。これは一種の運動でもありますから、やる気があるところがやるしかないのではないでしょうか。

    「美しい=景観が優れている」と一義的に決めることは疑問です(景観の捉え方にもよりますが)。また、「美しい=地域個性の発揮されているところ」と読める部分もあり、地域個性と景観の関連性を明らかにすべきではないでしょうか。

    景観行政、施策、業務に携わっている業種やひとの社会的地位の向上も考えていくべきではないかと思います。

    電線の地中化。

    私の町では、ほとんど誰も町並みの美しさを考えていません

    民間レベルでの活動が盛り上らなければ行政サイドでいくら予算をつけてもまともな活動にはならないけど、これを当てにするようでは本物ではない。

    1 まず地方自治体の認識の向上と住民に対する啓蒙活動。
     2 NPOなどを活用して美しい街づくりに対する具体的活動内容を自治体が示すこと。
     3 国は自治体の活動を支援すること。

    頭の中で美しいと言うことを一生懸命定義しようとするのではなく、美しさを感じる気持ちを育てることを目的にする方が重要であると考えます。そちらの目的の方に多くのエネルギーを費やしたときに、この大綱の目指すものが具体化するものと思います。

    国が事業優先の考え方の中に質の視点を取り入れたことは大きな政策転換だと思う。しかし、電線地中化事業の予算拡大などだけに使われてしまう懸念も感じる。

    景観、町、環境の美しさとは何か、なぜ美しさが必要なのか、国民1人1人の意識の向上を図る必要があること。また、商業主義、経済偏重の時代に公共性を無視した屋外広告物や美意識のない公共施設づくりなどが進められる中、総合的な解決策が必要と考える。

    あれば意識がひろがると思うので。景観の歴史教育も必要と思います。

    道路に歩道がない、また、どこにでも、道を塞ぐかのようにクルマが路上駐車しており、歩行者、自転車は大変危険だし、景観もよくない。クルマ社会を根本から変えなければならない。生活上、事故や排気ガス、振動、騒音、地球温暖化など、さまざまな人類の危機をも引き起こしている。どこの町でもクルマが大変多く景観のみならず、人間そのものの生活を脅かしている。 自分たちの作ったクルマで自分たちの生活空間をめちゃめちゃにしている。

    今まで景観なんて言う発想すらなかった中で法律化したことは一歩として大きな意味を持つと思うから。

    今より、少しは、少しでもよくなるという期待。

    自分の町がまだどれだけキレイになるのか気づいていないため、現状で満足してしまってる人が大半だと思います。個人レベルから働きかけをするべきだと思います。

    国の強いリーダーシップと地方分権、財源の移譲 。

    景観に対する共通認識ができ、意識が向上する。

    現在の規制では、個々の建物の建築規制により町並み、或いは風景をどのように維持、創作していくのかという面では効力を発揮しないケースが多いように思われる。例えば有名な話ですが、京都では円通寺の借景庭園が、直前の道路拡張により建築基準が緩和され破壊されようとしている。個の規制から始めるのではなく、全体の規制から個の調和を図るものとできればと考えます。

    まちなみ・景観形成は、その方針が、如何にそのまちに住まい生活する人に根付いているかであると考えます。つまり、美しいまちづくりが必要であるということから意識し、意思統一された方針のもとまちづくりが進められる必要があるわけです。そうした意味から、大綱・法制化などによる景観に対する社会通念的概念の構築は、景観への意識形成上効果的であろうと考えます。よって、市民参加・意見交換のほか、ボトムアップ型のまちづくりなど、市民ひとりひとりの当事者意識を築くシステムの構築が必要であろうと考えます。

    思わない(16)

    まちづくりによって箱モノづくりを展開し、今度は、ソフトに関してまで国が規制をかけてくる。それよりも、まちづくりに関する規制緩和と地方への分権(財源移譲)を徹底し、地方の自治体に任せれば良い。

    美しさは他者が評価するものでありそれを第一義としてまちづくり活動(公共事業)をすることがあり得るのか疑問。見苦しくない活動(事業)を行う理念規定はそれなりの効果があるかもしれません。

    「著名な建築家だからいいものを作る」という信仰に近い考えは誤っていると思います。自治体がテーマを持って全体の景色を、数十年先まで考えた計画を持つべきだと思います。

    経済的に成り立つのか疑問

    国レベルの方策で、都市環境が良好になるといったことは、我が国だけでなく、世界でもほとんどありません。この経験則から、国が一律的に都市の美しさ、景観の美しさを考える事自体、景観や美しさ、などを全く理解していないことの証明でもあります。このようなことを考えること自体、税金の無駄遣いで、早く地方自治体に移譲すべきことだと思います。

    日本をこんなに汚い国にしたのは、町並みが滅茶苦茶になるのを放置したこと、田園風景を市街地スプロールを中心とした乱開発で破壊したこと、によると思っています。この大綱は、このことに対して対応しようとしていない。

    国の政策はいつも広がりにかけるから期待できない。企業(ゼネコン)あたりが連携して行動したほうが世の中に浸透しやすいとおもう。

    現在まで、国土交通省が公共事業として行ってきたものと内容的に違わない。

    大綱には、地域住民、NPOに頼るところが多いが、高度成長と共に地域の自治活動も薄れているし、市町村合併が進むと、ますます失敗しないための行政のための行政になりかねない。つなげるためには、戦後50年以上かけて失ったものは、50年かけないと取り戻せない。少なくとも10年かけて地域活動を行う人づくりが必要で、NPOにもソフト財源を細かい使途の規制を設けない財源支出が必要。しかし、ハードでの公共整備(電柱埋設等)は、財源さえつけば即刻可能なので取り組むべきと期待するが、地方自治体(県、市、町等)職員の資質向上がなければ元の木阿弥であろう。

    地域の課題・特性が考慮されていない。まちづくりや環境問題など各自治体が抱えている課題や問題点を明らかにして具体の制度を創るべきである。

    特に、電線地中化などの事業は、これまで県庁所在地や主な都市の主要な道路だけが対象となっており、中小都市の商店街の通りなどが対象となることは、特定の補助事業などに採用されない限り、今後も考えられない。

    「美しいまちづくり」は、地域住民主体でやるべき。国土交通省は、規制緩和、関与を少なくすることが重要。国主導の大綱で美しい国ができるわけがない。

    大綱は、国が今後の方針を示したにすぎず、今後制定される予定の景観基本法の中身がどのようなものになるかにかかっていると思う。

    どちらとも言えない(35)

    このレポートは、景観に特化しすぎです。「美しい国」とは、街の見た目の話だけでしょうか?その点がどちらともいえない理由です。景観はあくまで一つで、地域のアイデンティティを支える風土(雰囲気や風致等)を保つための総合的な指針が必要と思います。

    「美しいまちづくり」が単なる美観のみによって得られるとは考えられないから。

    初等教育レベルからの理解を深めないと、形がい化してしまうだろう。

    この大綱はすべきことだと思います。いままでに行っていなければならない事もいくつか有ると思います。しかし全国共通の指針でしか動けない公共事業の中では一緒の様な気がしています。都市部では10m道路でも十分かもしれませんが、同じ基準を過疎地域を通過する部分に適応しては行けないと思うからです。するならもっと2、3次官庁の職員を教育してからでなければ地元主体の公共事業はまとめられない現状を見てる限り難しいと感じたからです。

    国がまちづくりの観点に景観を取り上げたのは画期的といえるが、地方自治体の固有の景観や特性を一まとめに論じることは出来ない。努力目標やアリバイづくりにすり替えられる危険性もある。平行して地域の独自性を認めることを都市計画や建築基準法などの分野にまで広げなければ、相変わらず紛争は続くだろう。まちの個性を大切にし、育てることが営利目的にもかなうような、そのようなまちづくりを可能にしていく必要がある。

    私の住むまち、藤沢市片瀬は、近年ある程度公共空間の整備が進んだまちなので、今後すぐには美しいまちとして改善が図られるとは考えにくい。一方で、今ハード面で問題となってきているのは、民間開発によるマンション建設による緑地の減少、海辺からの景観阻害である。また、ソフト面では落書き、ごみの投棄といった問題が後をたたない。この大綱は、どちらかというとハード整備、公共空間整備の考え方、改善方法がまず示されているので、そうした身近な改善が図られないと思う。
    「コンセンサスの得られない普通の地域」という言葉もあるが、普通の人が普段の生活でどう取り組むのか、美しいまちとはどういうまちなのか、共通認識が得られる取り組みを強化すべきだと思う。(具体的にどういうこととは言えませんが)

    一般住民の美的教養が低すぎる。営利追求型の競争社会では非常にむづかしい。かなり根底からの広範囲に渡る見直しが必要である。

    実際に住民・NPO、自治体、国が連携していけるかどうかが未知数のため。

    この大綱があっても美しい町づくりのための具体的条例が施行されないかぎり謳い文句で終わってしまう可能性があるから。
    地方分権がいわれてうる現在、各市町村レベルやその上位である地域レベルでの意識付けと法的規制をどの範囲でどの程度実施すべきかまとめあげる作業ができてようやく機能することになるから。

    美しい町というのは全住民の持続的努力によって形成される共同作品です。それが可能になるためには市民的自覚や公共意識を向上させる啓発教育が不可欠です。また景観の重要要素である「色彩」についての改善指針が抜けています。

    大都市や中核都市等ではある程度有効と判断される。しかしながら、中小の都市における適用・運用のあり方を明確に位置付けなければ美しさの広がりを確保することが困難と判断される。また、自然地域(森林や農地等)における荒廃化に対する施策が欠落している。

    まずこの大綱で用いられている事例の写真は、どのような場所から撮影されたものなのか、全く不明である。誰でも接近できる場所からアイレベルで撮影された風景写真でなければ、市民の方々に「美しい」あるいは「景観」の素材を提供したことにならない。つまり、「美しい国づくり」の「美しい」という意味が上記のような写真では、理解できない。「見る」「見られる」の「美しい」という意味ではないことは確かであるが。私は、「見る」「見られる」ということを、基本にすえるべきとおもうのである。以上のように、「大綱」「基本法」にその点が基本的に欠落しているために、後で展開される施策は、「環境」「緑」「都市マス」の寄せ集めでしかないことが最初から予想できるのである。

    基本的な解決への問題意識のありようによって、中途半端なものになりうる。

    特に「地域に応じた持続的取り組み」を重視するべきだ。今、都立大の跡地の高層マンションが問題になっているが、これなど、きちんとした都市計画ができていれば許可にならないし、起きなかった問題である。

    やはり大綱も使い方次第と思う。やる気があれば現行法上でもできたはず。実施にあたっては生活者の視点を尊重し、住民参加をきっちり取り入れるべきだ。「美しい」は人によって価値観が異なるものであり、そのために必要性・有用性の議論があいまいになってはならない。また、景観をいじくりまわすことが新たな自然破壊に繋がることは絶対に避けなければならない。

    誰が見ても本当に美しい町並みができることが大切だと思います。

    自分の居住地では独自に進めていることも多い。

    緑の回廊などはぜひやって欲しいことだし、看板などの撤去もぜひやっていただきたい思いますが、看板を出している人は反対するでしょうね。新規で開発する街なら可能でしょうが、既存の街ではかなり時間がかかるのではないでしょうか。京都などは住民のみなさんが景観について関心が深そうなので、モデル地区のようなものを作って、実行してみたらどうでしょうか。

    長期的には意識改革が図られて、美しいまちづくりに繋がるのではないかとの期待はありますが、中短期的にはこれまでと何も変らないと思います

    私の住んでいる町では、さほど美しいまちづくりに力を入れていると思えないので。まちづくりが私の町より熱心な隣町との連携もままならないのに、国と繋がれるのか疑問です。

    電線地中化、マンホールの整備、道路の維持、管理、植栽計画(必要以上に剪定したり、無駄な費用がかからない事)など色々な問題が多いのは現実ですが、その問題を解決していくためには行政が本気で取り組まないといけないという事です。ノラリクラリしているのが仕事でしょうが、各部門で志を高く持って一つのテーブルに集まってください。今でもそうですが、これからは益々「高齢者の住むまち」になる事だし、心和む景観でいて欲しいと考えます。安全で快適な美しい町並みは精神的に大きな影響を与えると思います

    国が大綱を出して指導しても、県レベル、市レベルで意識も実行力も上がらないことが多い。観光地には行っても、意外に自分の住んでいる近郊や出身地以外は知らないので、自分がどんな景観を求めているのか考える機会もなく、景観に鈍感になっている。海外旅行や国内の観光地の旅行で美しい景色や街並みを楽しむくらいで満足してしまっている。もっと自分の気持ちや暮らし方に合った土地に暮らしたい、住みたいと思っているのだが、できない。

    住んでいる町に繋がるには、なんでもそうだが、住み手、行政がやる気でかかわらないと繋がらない。住み手も行政も美しい町づくりに関心をもち、主体的にかかわろうとする風土を作るための助成が欲しい。

    景観も含めたまちづくりは、地域の住民の主体的な取り組み意欲が前提であり、政策大綱が出来たことのみで美しいまちづくりにつながるものではない。ただ、これまで諸規定を統括するものがなかったので、ひとつの前進になるとは思う。

    この大綱、及び法が、どの程度地方の柔軟な運用を図るかが気になる。実質的にこれまでの都市計画関連法のような画一的な法では困る。

    「大綱」では規制力が弱く、経済至上の現状に太刀打ちできない。

    町並みの美しさに社会的な関心がもたれることは、望ましいことです。しかし町並みの美しさをつくることは、それぞれの町のビジョンの形成や住民の作法、すなわちコミュニティ形成に関わることです。この観点から言えば、町並みルールづくりのみならず、そのルールの運用も住民が自主的に行うことまで視野に入れる必要があります。「神戸新長田駅北地区いえなみ基準」は、そのような取り組みで行われていますが、そこでわかることは、地道で長期のまちづくりの努力を要すということです。

    いつまでも中央官庁体制のもとでは、全国どこでも同じものができる可能性が高い。補助金を出すということはそうゆうことの繰り返しであったのが今までの経緯です。

    美しさという概念を持ち得なかった人たち(あるいは意識的に施策として・・・多くは役人)の意識が変わるとも思えない。

    今までの予算のシステムや道路特定財源などのおかしな仕組みを変えなければ、新たな財政支出が難しく実効性がないと思われる。
     最も景観・環境を破壊している高速道路や高規格道路に対する投資をやめ、その建設費を電線地中化などの景観施策に回すような大胆な施策が盛り込まなれば、綺麗な作文で終わってしまうだろう。また、景観は大きな趣旨での快適な生活環境の一部を構成するものであることから、環境施策ともリンクさせ、強制力を伴うものにすべきだと思います。

    美しい「まち」づくりは、本来地元が発意し地元住民が主導して行うものであり、国が方針を作ることはなじまないと思う。ただし、国が方針を作ることにより、行政や事業者、住民の対立意見を説得する効果は期待できる。運用する人しだいなので、うまくいくところはうまくいくし、だめなものはだめだと思う。

    回答なし

    景観や地域の協働など今日的な内容だが、大綱の解釈が問題。公共事業の拡大やまちづくりの画一化につながらないか心配。無国籍な景観ではなく、日本的な美しさを守る姿勢が必要。

    公共事業、特に土木建築デザインが美しくなると思いますか。
     [その理由、特に強化、改善すべき点]

    思う(33)

    希望的にそう思う・思いたい

    やっと周辺の景観を意識したデザインを考えるベースが出来ました。これからは周辺環境を意識していかざるをえなくなり、時間はかかるかもしれませんが着実に現状とは変わっていくでしょう。

    大綱によればではなく、「土木・建築デザイン」がもう、いい加減、美しくならねば、何を頼りにこの国はあるのか!という気持ちですね。
    まちづくり協議会のこの10年の目標は「安全、福祉、景観」への取り組みになると、思います。なかでも、良くないものの排除から、より良いものへの取り組みとして、「景観−美しい街」は最重要な項目だと、思ってます。

    美しさに価値観を持たせる事で向上をはかれる

    この程度の配慮で美しくなるなら、ルネッサンス以来のヨーロッパの都市建築文化が空しい。日本ではさらに失敗が重ねられていくと思う。しかし、今までがひど過ぎたのだから、失敗だけでも重ねていく方が、美しさへつながると考える。

    関心を持つ人の目が多いものは、研ぎ澄まされきれいになっていく。機能を追求する技術者の目と、機能抜きで求める美を追求する目、いろいろな目を持ってこねくり回されたものにはその為に費やした時間の分だけ歴史が出来る。同じ目的を持った目だけで形作られたものは確かに早いし安い。担当してきたものたちはそれに気づいている。これからは時間を費やすことが無駄なことではないということを広く認知されるようにすることが第一と思われます。それをしないと土木・建築デザインは公共デザインになれない。もう工業高校から建築・土木が消えようとしているのですから。

    そのためには、各道府県の美しいまちづくり施策との連携が必要だ。

    デザインの観点での評価ができるようになればと期待します。マスターアーキテクトは、成功したのでしょうか?

    現在の景観行政は、予算が潤沢の時代は、景観に目を向けるが、厳しくなると、それどころではないというのが実態です。したがって、事業の中に景観を内部化していくことが重要です。

    40前半から30歳代の世代はものへのこだわりを持つ人が特に多い。これらの世代が社会的に台頭してくれば必然的にデザインへの欲求、質がたかまるものと期待している。

    屋外空間から見える周辺環境との一体性について、設計担当者が考えるきっかけになると思われる。指摘が外部からない限り、敷地内あるいは担当者内だけの事情を優先した設計になってしまい、敷地外や周辺にある環境を正確に把握する努力を怠ってしまう可能性が高い。一般的な市街地を見れば、そうした問題は一目瞭然な状態にあると思われます。

    これまで美観を考えに入れないでデザインされていたので、今後これに少しでも関心をもって設計されれば良くなるでしょう。

    何事もやってみることと前向きな姿勢が大切だと思う。

    建造物個体だけでなく、周囲の景観との調和を重視してデザインされる物が多くなるのではないか。

    「思う」というより「美しくなるデザイン、美しくする意識」が重要である。この考えを公共サイドが、安全性・維持管理性も十分考慮した上で、計画・設計の中枢に置くならば「思う」である。もっとも、そもそも日本人の「美しい国土」という面への歴史的意識が問われるが。

    デザインについて事前に評価をすることで、良好なデザインに繋がると期待するが、目先の経済性のみが重視されないよう、留意すべきである。

    機能一辺倒の公共事業が見直されるものと期待できる。

    欧米の町並みのように電線のない景観が当たり前になればだいぶ良くなる。

    1 とりあえず建築はあまり関係無い。これをきっかけに建築基準法、都市計画法の改定へと進むものと期待する。
     2 土木は目に見えて美しくなれる。何故ならば今あるものを撤去するだけで美しくなる。
     3 建築・土木の周辺環境の景観は美しくなれる。

    急激に美しくなる訳ではないが、法律としても美しさの実現を原則とする考えが国民一般に浸透すれば、徐々に美しさを主観の問題でかたづけることは少なくなると思われ、意識の向上と共に市民の評価が向上することで徐々に美しさが確保されると考えられる。(期待したい)

    美しくなってくれなくては困る。一人一人が批判、批評、顕彰などをするように心がけましょう。

    公共工事であれ、民間工事であれ、設計者の能力により決まってしまう。さらに一般の人の持つ都市景観の概念できまる。2割の人は海外旅行を経験していると思うが他の人は知識すら無い。

    理由・・そうあってほしい人たちが日本にはたくさんいます。 強化改善点・・東京のデザイナー、普段マンションに住み、自然といつも対峙した生活をしていない人たちが机の上でストーリーを考えないでほしい。ソノ地域に住んで、毎日自分の町、環境が何とかならないかと、考え続けている設計者、デザイナー、等の意見、普段やっていること、(美しい日本を取り戻す為に)を話す場を設けること。

    箱モノづくりはいい加減にして欲しい。

    少しは気にするようになってよくなると思われるが、PRが足りない。土木建築デザイナー及び関係行政マンにも具体的に周知させること。又一般住人から、よくない例を募集して、その背景と経緯を公開する。

    確かに秀でた建築物や土木構造物はそれ自体美しいと思いますが、トータルランドスケープという言葉が示す、全体としての景観の底上げがないと美しい街並みを形成する事はできないと考えます。今回の大綱は、公共事業でものづくりに係わる人たちの意識や市民の意識を底上げするという意味で非常に効果が期待できると考えます。それに加えて、トータルランドスケープをより質の高いものにしていくためには、造園、土木、建築が今以上に呼応しながらものづくりを目指す姿勢や仕組みの確立が必要だと考えます。

    なんらかの改善は見られると思う。

    ルール=コントロールと短絡的に考えるのははむずかしいとおもいます。美しいものが美しいのはそこにかけられた労力を読みとれるところにもあるので。

    国土交通省が直轄や補助金を出して行う事業は、それなりに配慮したものができるようになると思う。

    思わない(22)

    緩やかな規制となるにしても、国が基準となるべき規制をかける訳だから、全国的に画一化した公共事業になる。さらに、歴史的な景観も奇麗すぎる公園づくりが行われる。

    機能が形になると美しいと私は思いますが、美しいことを安直に求めると、ガードレールに花の絵を描くような見苦しいことが生じるでしょう

    ・前例主義、権威主義、基準法にさえ則っていればどんな建物でも建築される現状が変わるとは思えない。また、建築家サイドも「個性」という名のもとで、全体の調和を重視しない建築物がこれからも作られると思うから。

    一昨年あたりから公共事業にも環境という言葉が組み込まれていますが、基本計画までは出来ても、実施設計、発注段階になってデザイン面、植栽、みばえのする材料などは、ことごとく1、2次官庁チェックで省かれているからです。

    まだ建築デザインでは無機質な物の人気が高いため。

    個々には評価される施設や特徴的な施設が誕生しているものの、主体の理解があってこそのことだから。実施力のある人に理解がなければ仕方がない。

    デザインについてだけ言えばどうかわからない。私どもは大工だが、センスのいい設計家に殆ど出会わない。自分を主張したいが為、住まい手の希望を無視したり、構造を無視したり、実用性に欠けたり、そこの歴史や文化を踏まえて、その上に、求められるセンスの良さを表現できる設計士は、見つけるのが大変だ。

    規制では景観は美しくならない。教育機関も含めた人材育成が必要

    美しいということ自体、その風土と密接な関係があり、国がそのような事を方法論的に考えられるとは到底思えないから。

    その前に無駄な建物を建てないほうが良い。国の施設には無駄なものが多い。

    これでデザインが美しくなる程度の病なら、今こんなひどい状況ではないのではないか。

    今までの事業に、名前だけ付け替えれば美しくなるのだろうか?

    少しは思うが、まだまだ管理費の増大、機能重視、リスク管理優先等の後ろ向きの意識が強い。何かあれば行政が悪者にされるから組織(地方自治体等)に防衛本能が働く。

    効率性や経済性を重視し、公共性の高い土木・建築の事業にはデザインという意識は薄く、まだまだ町の美しさや環境の美しさを文化として捉えていく考えに欠けている。個性化や特性化という考えには、単なる差別化を図ろうとするだけで、地域にとって、生活者にとって、歴史の中で必要な「美しさ」という視点や議論が不足している。

    現場を担当する者が最も心がける事項は補修への負担軽減であり、「美」に対する観念はほとんどの担当者が持っていない。そうして、後輩も育てられている。寂しい限りである。

    デザインのまえに、国作りの基本に、人の生活のしやすさ、安全で快適なことをまずは考えるべきである。建物や道路の形よりも、ひとの住みやすい町づくりを。住宅地にはクルマが入ってこなく、子供が自由に安全に安心してあそべ、騒音・振動もなく、快適な生活ができるデザインが大切と考える。道路には、必ず歩道と自転車道があり、クルマに幅寄せされずに、安心して人が通行できる道にするべきである。

    地域に任せることが重要。そのためには国は関与を少なくする方向で努力して欲しい。

    美しい景観が形成されることと、土木・建築デザインは別の次元の問題だから。

    既に公共事業のデザインは改善されている。

    どちらとも言えない(49)

    そんなにすぐには変わらない。

    従来の土木事業や建築物を見ると、そのものだけが浮き出していて、周辺全体の景観やまちのあり方に配慮しているとは言いがたい。デザインを重視するといえばよけいに心配になる。空、地形、周りの景観や歴史が重要視されるデザインであって欲しい。住民との対話も大切になる。

    土木・建築デザインは街づくりに連携せずに個々に進む場合が多いから。

    環境影響評価法施行後のアセスも、以前と同様あまり環境保全へ有効な手立てとなっていないのと同様です。我が国のアセス法は、あまりに手続き上のことを謳いすぎです。評価方法等の手法的な内容を規定しないと良い方向には向かわないと思います。調査主体や個々の技術者の技量・創意工夫に寄るところが大きすぎます。

    今日の街並みは、建築自由の考え方によって造られてきたため、街や公共施設の美しさに対しては意識の変革に永い年月が必要と考えられる。

    現在でも公共事業で美しくないものの数はそう多くはないと思う。公共事業がより美しくなるのは結構だが、建築主個人の趣味が反映されやすい民間事業の方が問題は大きく、うまくいけば効果が高いと思う。環境を意識して周囲にとけ込みすぎ、逆に美しくなくなっている建築もあるので、難しい点がある。

    そのまちに必要な「美しさ」は千差万別ではないでしょうか。地域独自の「美しさ」の必要性を発注する自治体自身が認識できるでしょうか。美しさというものがコスト論が大手を振っている時代の中でどれだけ中核をなし得るのかは正直疑問を感じます。

    一般住民の美的教養が低すぎる。営利追求型の競争社会では非常にむづかしい。かなり根底からの広範囲に渡る見直しが必要である。

    近年は公共事業、土木・建築デザインに景観配慮の思想が多く感じられるように思われるので、この大綱ができたからといって、大きく変わるとは思えない。
    しかし、ガイドラインができることで、水準はより高まるだろう。

    発注システムから変えないと何も変わらないのではないか?

    この大綱をいかに実行させてゆくかが問題である。ただ公共事業であればデザインの段階でデザイン景観を評価する機能をかならず組み入れればある程度期待できる。

    景観の重要要素である「色彩」についての改善指針が抜けています

    公共事業の拡大やまちづくりの画一化につながらないか心配。無国籍な景観ではなく、日本的な美しさを守る姿勢が必要。金儲けや権益拡大の発想では決して取り組むことはできない。(近年トンネルの入り口にレリーフを作ったりするが、意味不明で醜いだけ。
    コストアップにもつながる。自然と溶け込むには「Simple is the best」でよいと思う。「景観」には、デザインをあしらう発想と省く発想の両方が必要だ。

    「施工」用の全国一律のマニュアル主義を廃して、土木工事も地域の脈絡を読み取るデザイナーを介在させて設計させて、施工すべきである。

    デザインに対して価値を見出し、適正な報酬を与えることについての認識がまだ低いように思います。

    公共事業、特に土木・建築デザインなどの個別の問題ではないそれらを支えているトータルな社会システムの問題である。

    地域の特性や住民の美に対する意識レベルによって町の美しさは大きく異なる。全国統一の共通ミニマム基準を設けると駅前再開発のように全国の町が同じような景観になってしまう。

    これらの次元にたって計画、設計と進むと過去のものよりデザインは斬新的なものとなろうが今の経済状況では如何なものか考えさせられます。特に公共事業の場合は窓口担当が過剰設計と受け取るのではないでしょうか。ここからの教育が必要ではないでしょうか。

    コーディネートする人の力量にゆだねられる部分が図りかねます。

    きちんとした都市計画ができていなくて、小手先のことばかりになっている。それと、建築家の思い上がりとデザインセンスが問題。

    現状でも、道路のデザインなどに設置者の独りよがりが見られ、無用な設備・アートがちりばめられている。大綱ができたからといって当局のセンスが良くなるとは思えない。「美しい」というのはデラックスとは違うことなのだ。

    今回の方針発表が影響するとは思わない。設計・デザインのプロは今さら誰が言おうが、その意識は常にあるはず。個々に独自の方針を立ててきたこの10年では、デザインの質が大きく向上していると思う。重要な問題は、事業の発注者(公共団体)の意識であって、中には事業担当者につきながら、そんなものは関係ない、今まで通りで良いと声高に主張する人もいるので、そういう人たちの意識にどう働くかだろう。設計の指導資格を内部で養成し不適格者は担当から外すなどの変革がないと、公共事業は変わらないと思う。

    発注者・設計者・計画者の意識改善。

    美しい土木、建築デザインを実現するためには、それなりの建築家やデザイナーに頼まなければならないと思います。でも、そういう方々は料金もお高いじゃないですか。入札で行われる公共事業で、それが可能かどうかちょっと疑問。

    都市部ではクモの巣のような電線は、撤去すべきだとおもうが、地方では木の電信柱が風景をつくっている場所もあると思う。

    個人的に斬新なデザインがあまり好きではない。それよりコストは上がると思いますが、水を吸い込む歩道とかの方が大事ではないでしょうか?デザインよりも安全性、利便性、快適性、継続性などが大事です。とにかく経済的に無駄な工事を何度も繰り返したりしないように最初に各部門での計画をキチンと練って互いに連絡調整を図って連携、協働ができること!

    建築デザインや自然や昔の街並みを保存した地区があっても、規模があまりにも小さく、点在であり、情けない。常に全体として、つながりとして捉えていかないと外国人から見れば薄っぺらで、滑稽でしかない。形・景観は精神の表れではあるが、それがある程度まとまって、統一性があってはじめて心地よさを感じたり、人を感動させ、生きている喜びを感じさせるのだと思う。日本は規模、まとまりの基準が大変低いと思う。又、いろいろな規制や政策の基本・基礎となる根本政策・方向があいまい、玉虫色的で、頑としたものがない。日本人はこの国土を守り、よくしていくためにどうしたいのか、どうしようとしているのか。そのために、こうしようではないか?と主導していく立場なのに熱意、強さが伝わってこない。

    新しい時代の潮流として、CM(建設マネジメント)やPFIといった事業手法を活用することにより、個性豊かなデザインが現れる可能性は高いと思います。しかし、「個性豊かな」の個性が誰のため、何のためなのかを考えないと、地域から浮いた存在になり、従来のハコモノ行政と何ら変わりのない結果となってしまうと思います。

    私権と公共の問題をどう解決するのか、場合によっては私権を制限する所まで踏み込むだけの決意が国、自治体にあるのか、かなり時間をかけて論議する必要がある。

    中川理が「擬装するニッポン」で指摘した「親しみやすい公共デザイン」の履き違えのように、またぞろ勘違いしたようなデザインがはびこらないか心配である。

    土木デザインだとスケールアウトしている点もあるため一概には言えない。建築デザインも同様であるが、ヒューマンスケールを重要視しなければ意味がないのでは。また、ランドスケープからの観点も、土木、建築デザインが美しくなるか否かに関わる。そのため、スケールの大きさと景観のコンテクストを見ないとわからない。法はそのように規定できるのかが疑問。

    殆どの末端の土建やさんにはデザインへの尊敬の念がないから。

    美しい國とは、それぞれの地域性の特徴が生かされた地域の複合をいうのであり、一律の美の基準でつくられることでないと思います。その点から言えば、それぞれの町の住民による町のビジョンを公共事業を行うものがよく理解し共有し、ビジョンの先導的な役割を果たすべきと思います。そこまで掘り下げた動きに繋がっていけば良いのですが。

    何を持って美しいデザインとするかが困難。治安の良い住民のチ−ムワ−クが良い、ブロック壁がなく開放的、閉鎖無く明るい町、車道と歩道が明確に分かれ安心して歩ける歩きたくなる町などといった、目標としたくなるアセスメントが必要。官僚の立場(都合のよい)にとってのものでなく、住民(国民)にとってのものであるべき。

    地域の住民の意識改革を行わなければ何も変わらないと思う。中央のコンサルタントの標準版設計があちこちに大量生産されてプローポーザルとなり、ムダな支出に終わったケースが多い。地元の文化、歴史を踏まえて地元の人々がコミュニティ活動の一環として取り組む必要があるがまだまだ道は遠い

    景観を明示できるものとすると、既存の建築法規制項目(内容)と競合するところが出る。行政担当者から美観地区とどう違うのかという疑問も出る。風致景観地区を作ってはどうか。

    国民による大きな運動がないと予算はそちらに回らないと思います。

    デザインにはプラスαのコストがかかるという意識が強いので、簡単ではないでしょう。

    させなければ意味がない。

    規制が曖昧であればある程、その解釈次第で政治等の介入を許し、有名無実化する可能性があると思われます

    公共事業に直接携わっている職員の意識改革のための取り組みを進めなければ変わらないと思う。

    これを背景に、芸術家や特定業者が好き勝手な景観整備を行う可能性がある。どうも、地元としての景観マスタープランがあり、これに基づくという感じではないようであり、そうすると地元意見はあまり入らず、ばらばらな整備、昔のような全国一律の整備が進むのではないかという大きな懸念がある。

    美しさという概念に認識の差が大きい場合が多く、特に土木構造物に関しては、その存在そのものが景観を阻害するという意見がある場合もある。つまり、景観の美しさを規定する上で、誰にとって美しいまちとするのかは、非常に難解かつ必要な事項であると考えます。そこで、美しいデザインを規定するにあたりはじめに重視すべき意見は、そのまちに住まい生活する市民であり、景観形成の方針展開に先立つ市民からの意見徴収は重要な意味を持つと考えます。一方で、素案立案と計画の理論的な是非の判断は、行政・専門家が担う必要があり、基本となる景観形成に至るプロセスと各段階における各者の役割を明確に示す必要があるでしょう。ただし、これは、基本となるスキルに過ぎず、各地の地域特性に適応した柔軟な制度適応を可能とする大きなふところを持った制度が確立されることを期待します。

    15の施策以外に重視すべき施策があればお書き下さい。

    分野ごとの景観形成ガイドラインと言うよりは、地域性によるガイドライン(⇒地域アイデンティティや風土の再発見、定着を目指したもの)を検討した方がよろしいのでは

    O地方自治体への景観条例等の権限委譲と財源措置

    全体との調和。高さ制限。

    地域独自の規制を認める。

    地域性や歴史性を基準とした街の独自性の見直し。

    自律的景観形成への取り組み支援。

    歴史的景観への配慮に乏しい。よりどころとなる美しさを具体的に示す上で、地域の歴史性は重要。データベースだけではない、この町や村、山や海ではこの景観を機軸として守る、あるいは復元するという機軸作りが必要。

    今までの公共事業のどのような点がいたらなかったのか、もっと言えば本当にいたらなかったと思っているのか、プロファイリングにより新しい視点を見出すこと。

    車優先でない、人優先の道路交通システムの確立 ・景観に対して無関心になりすぎていると思う。

    地区別景観コーデイネーターの委嘱。

    公共事業の発注経緯等の透明化。

    シチズンシップ教育と景観アドバイザーの養成。

    Gは規制緩和と一体で。D里山などの保全・自然再生に力点を。その他「地域で残すべき・育てるべき景観を考える仕組み作り」。

    ガードレール等は安全の面と美観の両立が難しいため、もっと議論をすべき。

    技術開発の内容がよく見えない

    景観を阻害しているもの、悪い景観などを改善させる運動の展開

    美しい国づくりに対する住民等のコンセンサスの育成方策。

    景観政策の基本となる文化政策、文化戦略が必要。

    教育や啓蒙に関する施策が重要かと思う。美しさというよりまずは汚くない街づくりからだろう。ゴミや騒音、臭い、落書きについて気も留めないようでは身も蓋もない。特に初等教育の段階から「美」や「デザイン」への関心を高めるプログラムが必要だと感じる。国民全体の教養を高めることがベースとして重要ではないだろうか。

    事前届け出制度と情報の公開、地域での協議を重視した施策が望まれます。それと、マンセルなどを用いた色彩に関する指導も近年事例が増えており、届け出制度では効果を発揮しやすいことがわかってきている。色彩に関しても施策が欲しいところである。

    地域景観の遍歴を3Dで再現し、歴史的景観アーカイブとして蓄積する。
    これを地域の特色ある環境デザインの参考とする。 地域で産出される建設材料(木材、石材等)を用いた風土景観形成。

    景観に関する基本法制を国が作るのか、県が作るのか、各市町村がそれぞれ独自性を出せるのかは重要な問題。国が枠組みを縛った上での、各地の条例となるのであれば私はそれを望まない。その事を問うべきだと思う。

    デザインセンスとか感性の部分がどうなるのかぜひ知りたい。法的には問題なくても、手掛ける人のデザインセンスが悪ければ後生に悔いの残る事業になってしまう。

    道路交通における「歩行者」の復権(優先的通行権の確立)と歩行通行環境の改善

    景観の価値観

    道路ガードレールの景観改善。

    景観形成に関するプロフェッショナルリーダーの育成と国家資格の創設。この場合の特権の明示と付与。

    地域住民・民間への意識喚起活動。

    一定規模以上の建築、土木構造物等を建設し、風景を変化させる可能性のある事業には、景観アセスメントを義務付ける。

    「個人空間」以外の実体共有空間、個人区間も含めた全体空間における「美」とは何ぞや、を地域住民に問いかけるべき。とかく日本人は目先(自分の空間)のみに関心が行きがちである。維持管理・増進も含め、「美」「美しい生活環境・国土」が生活にどのような作用を及ぼすか、心模様にどのような影響を及ぼすか、十分善循環になるように議論・啓蒙すべき。全国一律のガイドライン・枠組みは作るべきではない。地域における実際動いている活動を邪魔せず、支援していく中で、生まれてきたものを形にしていくべき。

    技術開発の中で、景観の評価手法が重要と思う。

    都市マスタープランへの位置付け。

    景観を守る前提の所有者を明らかにするための地籍調査の推進が必要。

    Iに関連するが、美しいまち並み、景観が社会的資産であることの教育が必要である。海外旅行で経験をつんでいる人たちが、自らの住宅では調和を考えない建物デザインをしたり、商売では目立つ看板を無節操に設置したり。政治家は利益誘導のため不要な高速道路や箱物を作っているし、こういう政治家を選挙民が選んでいる。制度以前の問題である。

    1 市街化調整区域の厳格な開発抑制。市街化区域の縮小。
     2 都市計画区域外の開発・建設の厳格な抑制。
     3 市街地、農地、山林を含む国土全域の総合的、一元的な景観計画の策定を国と自治体に義務付けること。
     4 看板の撤去に補助金をつけることもあって良いのではないか。

    色彩やサインに関する制度の充実

    すみません、Eはやり方によってはやらない方がいいこともあるかもしれません。Fは具体的にどういうことなのか良く分かりません。もし、看板をなくすとか、センス良くするとかいうことなら「期待する」です。それから、これは景観に当たるのかどうか分かりませんが、車道と自転車道と歩道をきちんと分ける道を造ったり、放置自転車がなくなるよう自転車置き場を整備して欲しい(役割別道路の設置)。放置自転車は景観的に×ですから。これって関係ないですか?

    外国の方から日本の騒音はたまらないと聞いた。ノイジーさに日本人は鈍感になったいる。最近、人気の六本木ヒルズに行って、周りのクルマの騒音に失望した。森社長がどうして訴えないのか不思議だと思った。景観と静けさや心地よい音や風はセットであると思う。是非、景観のなかに人間本来の、五感に訴えるものへの配慮も入れてほしい。

    設計者の選定方法。何故入札になるのか。

    事業における景観形成も必要ですが、地域における、目指すべき景観のグランドデザインを策定することはもっと重要なのではないでしょうか。

    先人がデザインしたこの国の地方都市の景観の検証。

    所謂、新建材を駆逐した住宅を政策面でも後押しするような施策をどんどん進めてもらいたい。今回のシックハウス法は最低です。自然天然健康材料のみで建物を設計している私には到底理解できない最悪の法律です。誘導的法律とするために、天然素材のみで建てた住宅を認定して税制上の優遇並びに、公的融資条件の有利性を打ち出すべきです。そのことが、日本の山、並びに中山間地を生き返らせ、水資源住環境海洋間環境全てを、よりよき状態にしていく基本理念となります。

    地域住民意識の造成方法

    都市景観、観光地景観だけが日本ではない!国土の大半は森林であり、農村地域であり、酸素の供給や食料を支えているのはこれらの地域である。農地は荒廃が続き荒れていく農村を復権しないで、なにがゆたかな国になりましょうや!紀元前から農がゆたかでない国が存続したためしがない。本当にゆたかな国は(先進国でも)農村も豊かで、都市と共存共栄している。
     道路周辺の草刈だけを取ってみても農家の無料奉仕に支えられているのが、実態でしょう!(誰もしない山林に面した国道などは業者がやっているのかもしれないが全国の道路延長からしてみるとほんの一部でしかない)それは、農村には古いと言われる地域の助け合い(地域活動、NPO的な活動)が残っているからだ。しかし、それも高齢化がどんどん進み不可能になってきているのが現状であり、それらの復権こそ急ぐべきである。

    日照・都市景観問題等近隣紛争における市民活動に対する制度的支援。

    この質問とは関係ないが、このような景観について国が関心を持ち始めたことは、非常に評価できるし期待しているが、どのように国民にアピールしていくのか見えない。また、これが低迷している公共事業の埋め合わせ的な発想でないことを強く望む。

    「美しさ」を評価できる専門家の地位を社会的に位置づけるために、これまでの実績を基にした5段階程度の資格制度を確立してはどうでしょうか。

    国交省内だけでなく関係省庁、そして全国各地域と一体となった組織による検討の上で施策を考えるべきであり、法律や公共事業としての施策の立案・計画については連絡・調整・運営を考慮しながらの組織づくりと推進や運営のプログラムづくりが重要になるものと考える。

    歴史的構造物資源の紹介。

    今のところ思い当たらないが、法が施行された場合、とまどうことも増えてくると思う。

    クルマと歩行者、自転車が分離され、安心して生活できる町作り、道作りが大事だとおもう。デザインよりも、人間の生活重視、特に、歩行者・自転車など弱者優先の町作りをするべきである。

    美しさに対する施策は、施策を還元的に考えることよりも、住民主導のまちづくりという総合的な取り組みをバックアップする仕組みを作ることだと思います。

    土地の占有面積と緑化しなければならない面積の規定。(住宅地も対象)
     ブロック壁高さの規制。(気の流れの悪いよどんだ町にならないこと)
     車道と歩道が明確化。(安心して歩ける町)

    地域住民、NPOに関して、今時制度的な枠組みを国がつくるようなことは絶対に止めて欲しい。

    建築基準法の改正 。

    専門家の育成と活用、地域のまちづくりにおける地域の専門家の活用促進。

    遅きにして、もはや手遅れの観アリ。このようなことは遅くとも昭和の二十年代後半には制定されるべきコト。

    一定基準の景観を満たした場合の補助金制度。例えば町家を保全することを条件とした相続税の減免等の制度が作れないでしょうか。

    景観と環境を破壊し、まち「こわし」の張本人である郊外型ロードサイドショップに対する出店規制を盛り込むべきである。これら大型店は、巨大な看板で景観を壊しているほか、来店する客のマイカーによる環境破壊も著しい。また、不算と判断するとすぐに撤退し、巨大な空き店舗を生じさせている街もある。クルマに依存したライフスタイルからの脱却を目指したコンパクトシティへの誘導と景観施策をリンクさせるべきである。クルマ依存社会を放置したままでは、良好な景観はありえない。クルマ依存社会からの脱却、具体的には都心部へのクルマの乗り入れ規制、トランジットモールの整備促進などの施策とのリンクも必要。せっかく、「国土」「交通」省になったのだから、関連施策は極力リンクさせるべき。
    環境関連施策とのリンクも図るべき。

    民間の建築物や工作物、宅地開発等の景観誘導方策 。

    是非、地域のマスタープランの策定の原則化と住民主体の取り組みに対する支援、カウンタープラン作成の保障などの計画構想策定時点でのチェック機能を充実させてほしい。


     

    景観基本法

     

     

    この基本法は各地の景観紛争の未然防止に役立つと思われますか。
     [その理由、特に強化、改善すべき点]

    思う(28)

    景観を価値のあるものとして位置づけることで、論点が明確になる。

    ヨーロッパでは景観保全のための様々な法規制や住民での暗黙のコンセンサスもあるときいている。日本では立ち遅れて法規制も少ないため、景観無視の建造物も横行してしまう。これを止めるには基本法は必要と思う。

    上位法が整備される重みはある。他の法律と序列化が問題。

    地域で合意がうまくとれれば役立つ場合もあるが、合意をとる経緯自体の情報開示が必要か。

    今は、景観に関する根拠法がなく、市町村の条例で景観行政を進めているが、限界を感じている。条例を制定することで規制に関する強力な権限を市町村に付与できる制度にすべきである。

    あるルールを共有することで無秩序から生まれる混沌を避けることができる。ただそのコードづくりは価値観や主観の違いから難航するだろう。

    景観を議論するための根拠となる法律ができることによって、誰もが良好な景観を享受するための意見を言うことができるようになると思われる。特に周辺への圧迫感を生じる開発に対して、紛争になる前に事前に協議する場を設けることに期待する。

    一般住民が今まで以上に景観というものを意識するようになると思うから。ただ、田舎へ行けば行くほど、「お偉い人」の声の影響は大きく、住民の本当の声は上げにくい。住民の声を役所がどういった手続きの中で反映させていくのか、明文化する等して認められていかなくては実現しづらい。

    一つの指針としての効果があると思う。

    正しい基本ができれば未然防止に役立つと思います。

    具体的な景観形成には地域での活動が最も重要だが、現状はそれだけを積み上げても、国の法律に照らし合わせば合法的に景観の阻害が行われてしまうので、国レベルでの法律制定が望ましいと考える。

    現状は何もないに等しいので、必ず良い方向に向かうはず。

    建築家に多く見られる西洋かぶれを気付かせること。

    悪しき人たちが、今の景観を作り出してきました。人のことより自分の利益のみを優先してきた結果、法律で規制しなくてはいけないほど、そろばん勘定のみで、今まで日本人は暮らし、競争し続けてきました。法の下で、よき景観が取り戻せるなら、大変素晴らしいことと、思います。

    行政のつくる基本法は総花的で奇麗ごと過ぎる(当たり前だが)。箱モノづくりから早く脱却すべきだ。

    これまで、各市町村レベルの景観条例が歯止めとなっていたものが、国の法律として制定されたという点で期待できるところが大きいと思います。

    景観、環境の美しさは人間にとって重要な価値を持つものであることの意識改革が必要であること。美しさは「腹の足しにならない」「金にならない」というこれまでの認識を如何に変えるか、近代化や都市化によってもたらされる人間の心に広がる精神的なストレスやフラストレーションには、町に溢れる情報の渦、広告物や宣伝の嵐、マスコミやメディアが煽り立てる誇大な流行の風などの問題も多いが、今こそ日本からどのような町の、景観の、環境のうつくしさを発信できるか問われているように思う。

    法的根拠(強制力)があるから。乱暴ではあるかもしれないが景観の価値が図りやすく成ると思う。

    町並みの美しさをつくるための仕組みのルールは必要です。しかしそれはあくまでも住民主導のまちづくりをバックアップするためです。

    望まれる景観を策定する場合の地域住民、NGO等の参画。

    思わない(24)

    結局は官僚・自治体の対応が「事なかれ主義」・「前例主義」と経済効果の名のもとで、全体、そして長期的な展望がない計画で進められるために、国立のマンションの問題のようなことはこれからも起こると思います。

    総論的であり地域性に根ざした手法が提示されていない。

    市民の関心が高まるほど、微妙な点をつついた紛争が増えるかもしれない。それは仕方の無いことで、話合いを重ねて解決していくことになるだろうが、「景観補償料」のような金銭にすりかわることがないよう考える必要があると思う。(日影や電波障害とは性質が違うということ)

    精神論で景観紛争が起こっているとは、思えない。

    現在起きている「景観紛争」といわれているものは、「景観」を錦の御旗にしているだけ。この法律も、いちいち苦情を言われるのも面倒なので「景観」を紛争の原因として決め法制化して「制限」することで簡単に解決または回避しようとしているだけに写ります。訴える方も訴えられる方もその問題が出るまで、その町の景観にたいする将来像をどれだけ描いているのでしょう。「景観」という言葉が変わるだけだと思います。本当は何がしたいのでしょう。

    景観はお役人に頼る性質のものではない。地域の住民が立ち上がるべきで、そのための助成なら市町村の条例で十分。

    行政が中途半端に旗を振っても、国民の権利にきちんと踏み込める土台をつくらないと実行性は望めないだろう。

    景観に対する基本認識が、都市・地区単位での合意形成ができにくいのではないか。特に、計画を位置づけることは可能であるが、サイレントマジョリティに対する景観認識の合意形成方策を考える必要がある。

    その土地特有の景観について、基本法といえども制定するということは、一定の枠組みにおける基準を設けるという事でもあり、幾分乱暴な価値基準の中で論じなければならない事であると考えます。したがって、その問題点を回避した上での基本法則の制定は、理念的概念的に流れるきらいがあり、今までの堂堂巡りの制定文による抽象的な、現実感の無いものになりはしないかとの疑念が残ります。

    事業主は銀行から膨大なお金をかりて土地を得ており、利子も含めて、一刻もはやく土地を活かしたいと思っているから。景観だけが動機で事業が良質化されるとは思えない。

    土地等の有効活用と合い反するものが有るのでは....

    上記でも述べたが、景観はその地域、風土によってその基準は異なる。国というレベルで法律をつくるものではない。増税をしてまで、国がこのような法律をつくる必要は全くない。早く権限を移譲すべき。このような件に関してまで国が出しゃばるのは、先進国ではフランスくらいか。そのフランスでも相当レベルで地方分権化を進めている。

    都市計画法、建築基準法等との調整がなされなければ、実効力が持てないと思う

    感覚の違いズレがある為。

    行政の関与でよりましなまち並みが形成できるとは思えない。

    景観紛争の論点として、高さや大きさ、位置など、既存制・法律の枠組みで対応できる内容が大半と考えられるから。既に景観の先進都市でも条例化しても景観紛争の問題は、地域のルール(景観形成基準)を定めないと意味がなく、しかも基準を定めることが容易でないから。

    積み重ねてきた内容から作られるものではなく、今までの繋ぎ合わせだから。

    景観は自然にできるもの、誰か他の人が守るものという意識が強い身勝手な人が多い。タバコのポイ捨て歩きたばこ、車から空き缶の投げ捨て等々、日本は完全にモラールが低下している。教育と取り締まり強化の両輪で対処すべき。取り締まりの人材が不足すればそれこそNPOに権限と財源を付与して地域活動とすればいい。

    経済や開発の流れとあいまって、風土や歴史などが、捏造され、本質的な雰囲気を残せないのではないか。つまり、景観が記号化され、それらの組み合わせにより美しさを作り上げてしまうのではないか。
    また、公共建築は歴史的町並みのアクセントとしての役割を持たせてもいいのではないか。縛りすぎるのはよくない。

    美しいという概念と生活上の必然性との相容れない部分は、永遠の課題と考えている。

    あいまいすぎて内容がよく伝わりません。

    経済以外の共有した価値観を作ってこなかったから・・・。

    どちらとも言えない(53)

    罰則規定や訴訟の担保を盛り込むのなら有効とは思います。アメリカのNEPAのような法律。

    基本的には、各地域の自助努力によるところと考えます。法律では各自治体で法律に基づく景観マスタープランの策定等を位置付ける必要があると思います。

    役立つ部分もあるが、あまり役立ちそうも無い部分もあるようだから。

    景観は、その地に住む人たちの意識による。美しい町や村にしたい。そんな想いが公共的な空間と合致していかなければならない。公に責務と責任を感じる地域社会の形成が重要である。

    日本は土地所有者(特に一定規模以上の)に対しては大きな権利を認めている。周辺環境や景観に対し、土地利用のあり方に一定の制限をかけることはきわめて難しい現状といえる。地区計画をかけることや、高さ制限、用途地域の低減化などは反対が大きく、既存不適格建物が増えるなど財産権の問題もおき行政は実行するにためらう。そこを乗り越えられるかどうか。

    景観の認識が個々人によって違うことからある程度の歯止めにはなるのでしょうが、完全には不可能ではないかと思われます。

    理念のみで推進力に乏しい。具体的事例を積み上げてこの法律を育てて行かなければならない。すぐには各地の景観紛争の未然防止に役立つとは思えない。

    総合的な政策として取り組まないとざる法になる 。

    良い景観、悪い景観というのを、客観的に評価することは難しく、ゆるされることの判断ができないと思う。また、全国統一の法律ではガイドラインとして活用されるならともかく、その土地にあった的確なルールとなるか疑問である。最低限のルールを決めても美しい国づくりはできない。

    結局はは失ってから気付く事が多いため。

    公共の色彩のあり方を前面にだすべきです。だれでも入っていけるテーマです。また公共交通機関の「移動景観」も問題にすべきです。 我が国の問題点の一つとして、抽象的な概念である景観を抽象的なままに放置している。市民に身近な議論とするために、また建築行為を誘導するためにも、理念や総合性だけでなく、町ごとに具体的な美しさを見出す努力がないため、美しさに直接関係のない建物の高さなど、単純な形態で論争することが避けられないと思う。

    建築に関する私権の制限。

    景観紛争は美観の感じ方、伝統重視と近代デザインとの葛藤など、いろいろな立場で紛争が起きるので、法令が紛争の防止に約立つとは思われない。

    デザインセンスについては規制をしているわけではないので、ひどいことになる可能性は残る。

    何をもって「良好な景観」とするかは人によって違うと思われる。法に規制がない部分では何でもできるという風潮を助長することになるのでは?

    基本理念の内容や、その策定における基準の考え方。景観に関する地域住民と事業者及び行政との利害(住民のエゴ、事業者の利益追求、行政の権力及び政治の圧力)等の調整が、今の日本人の中でできるのだろうか疑問。

    建築基準法や土木構造物規定とのリンクが重要と思われます。

    法律は縦横様々に地域住民への権益を担保するもの。多様な価値観があるからこそ紛争があるのだと思う。この多様な価値観は、いかなる新法の登場によっても打ち消せるはずはないので、価値観のひとつを認める程度にしか働かず、紛争防止の切り札には位置づけられないと思う。主張の手助けにはなると思う。

    形骸化することなく理念をもって法を扱う多くの人が必要。

    国立のマンション紛争を事例的に検討してみると、行為規制をどれだけ強められるかが鍵。

    法は地域の実体を裁く(?)ことは出来ず、すべきものではない。現在の日本にいては、紛争等の試行錯誤の中で景観とは何か、が理解されていくものと考えられる。

    拘束力のある地区ごとの細かい規定が制定できなければ難しいのではないか。

    1 基本法自体が景観紛争を防止するものではないだろう。
     2 自治体が実施の計画を作成する過程が重要である。その過程で国民、市民の合意形成を目指すべきであり、その結果「無原則な」景観紛争が未然に防止されるようになることを期待する。原則に基づく景観論争はいつでも継続される方が良い。

    どちらとも言えないというより、分からないです。ただ、景観紛争には、既得権を守りたいというような部分もあるかなあと感じることがあります。裕福な人たちが、自分たちが守ってきた景観だから、貧乏人が入ってきてそれを壊されるのは心外だというような。お金持ちの既得権を守るだけの法律にならないようにして欲しいと思います。

    景観紛争というものは「モラル」の問題だと思うから。

    その地域の持つ「あるべき市街地像」について一般的には合意がない。マンションなど現実の危機が生じない限り世論は見えないのが現実であろう。国立判決が、自治体の各種の制限的条例を促進したようなことの積み重ねが大事だと思う。

    都市部では、景観に対する意識の高揚によって、住民運動の担保方策となることが考えられますが、地方(中山間地など)では、景観条例を策定してもそれを破るのが自治体自身であるといったケースが多数見受けられることを考えると、法令だけでは形骸化してしまうのではないかと考えます。

    「良好な景観」とは何か、を国で画一、一般的に決めることは不可能だし、また意味がない。街や村、市や県など自治体が自主的に考え具体的な行動を起こせるように、国は援助、助成する仕組みを考えるべきだ。

    今後のモノについては少なからず役立つようにしないといけないが、これまでのものにはどうしようもないのではないか。

    景観を根拠とする私権制限ができるか否か、その部分を詰めるべき。

    中央官庁主導のやり方では今まで施策と同じ

    建築基準法に位置づけられる必要がある。なければ、何ら紛争防止にならない

    景観基本法が財産権をどれほど侵害できるかが課題、また各自治体の条例で固有の規制ができるようにすることが必要。

    景観に関する認識は、漠然としたところがあり、判断が難しい。 都市計画法、建築基準法等の規制を整備すべきである。

    行政職員、住民、ゼネコンなどの意識が変わらないことには、どうにもならないと思う。地道な啓発活動に力を入れて欲しい。遠回りなようで、このような取り組みが一番の近道かもしれない。

    都市計画法、建築基準法の規制緩和の方向に対して、景観基本法でどこまでこれらの流れを条件付きで規制できるかがポイントになるのではないか。基本法では、規制誘導策を盛り込まれることがあまり期待できないため、特効薬にはなりそうもないという気がするが。

    景観は個人により解釈が様々なので、民法などの関係法令との関わりで大きな問題があると思います。表現の自由と景観に関する規制をどのように調整していけるのか、誰が最終的に判断できるのか、本当に難しいと思います。

    各地の景観紛争の要因は、法的見解が未整備であることに起因したものばかりではなく、むしろ、当事者間の景観に対する意識格差に起因するものが多いと思います。つまり、景観を阻害する可能性のある行為を定義し、それを如何に情報提供し、共通認識として根付かせるかがポイントとなるでしょう。大変難しいテーマですが、それを実現できる内容とすることが重要であろうと思います。

     

    この基本法にもとづく法令条例や施策が、あなたの町の美しい景観の創出に役立つには、どんなことが盛り込まれていると良いでしょうか。
    こんな場面で、どんなふうに役立つことを期待するかを具体的にお書きください。

    地域性を一つの大きな視点とした法律が示されると少しは役立つのでは?

    地域住民の意思を充分に反映できる場が設けられるということが規定されること。

    自然環境の破壊には、その地方の自治体が住民との合意のもとに規制等を掛ける。景観も、その町の風景として馴染ませるデザインになるとしたら期待したい。

    建設・整備の場面ではなく、利用や維持管理の場面で私的行動を抑制するルールづくりに基本理念が与えられることを期待します。

    民間・市民の考えを発言・収集する窓口的な機関を作る。そうすることにより、密室での協議を防ぐことが出来ると思います。

    地域固有の景観や文化を大切に残すには、自治体の条例や計画などの決め事を、建築基準法の手続きの中に取り入れる。たとえば、国立の景観条例や開発指導要綱をクリアしなければ建築確認手続きに入ってはいけないとすれば、明和マンション紛争はおきなかったでしょう。まちの憲法である条例を無視することは、まちづくりへの参加資格がないことになる。

    市町村による積極的な計画が必要であり、国、県の関与を出来るだけ少なくすることが必要ではないでしょうか。そうしないと、今までとなんら変わらなくなり、どこの駅を降りても駅前がおんなじ景観になってしまいます。

    看板・サイン類のまちぐるみでの統一基準の策定。

    地区別の整備方針と具体の進め方の明示。

    有名観光地の駅前通りから派手なノンバンクの看板が消えること。

    現場にしか真実はない。詳細を積み重ねることしか、物事は始まらない。

    色彩、形状の制限、指導。

    京都でも景観論争は多々あったが、都心部では町家がキーワードとして市民に支持された。この大綱にも示された市民活動を通じて、魅力ある美しいまちづくりへの取り組みを推進することから、町の魅力・美しさの原点を探すという前向きの努力を促進する策が盛り込まれるべきだと思う。

    一番始めに記したようなことです。(コンサルの描いたスケッチのような絵が、みながその事業を知ってから、工事が始まってしまうまで何も変わらない、横目で見ながら不細工な歩道橋だなとか思っても、それが何らかの働きかけで変えることが出来るのか、可能性も手段も判断できないまま、物が出来上がってしまうことに慣れてしまった。その可能性を広げること、手段を身近なものとして参加することが当たり前となる仕組みを当然のようにみんなで議論する場が必要。)

    最低限のルールではなく、望ましいルールを示すこと。

    資金援助と、表彰制度だけでたくさん。その他は条例でよい。

    コンビニなどを建てるときの緑化の義務づけ。

    自然との調和。使用する色や配色での制限(調和、快適性etc.を考慮した上で)。地域毎(住宅地、商店街、オフィス街、山・川、農地etc.)に形態・色・配色を考慮すべき。

    公共色彩景観ガイドラインの策定。

    従来の自治体の総合計画のように、お役所仕事としてコンサルに委託していては意味がない。地域住民が納得づくで定める必要がある。

    地方に任せる体制づくり。国全体としてのマニュアルのごり押しではなく、違いが出るまちづくり。

    景観の街の遺伝子というべきものが、残せそう。

    市民の意識が景観に向いてくるような施策を展開すべきである。そのためには「美しい景観」を創出する手法の技術開発に期待したい。また、個人や企業が建築などに際して景観を競うような雰囲気つくりが重要だと思う。

    景観は、地域文化の表出であり、地域・歴史の脈絡にそって育てていくべきで、そのためにできることを「少し」だけ支援することが必要である。簡単にはいかないのは明らかであるが、少なくとも公共的空間では、脈絡を読んで推進すべきこと。

    美しい町、美しい言葉、美しい人、美しい場所、美しい景観。これらの「美しい」という言葉から連想する場面にはいつも、軽い驚き、軽い裏切り、奥深く隠されたもの、特有のもの、本物に見えるもの等の要素があります。したがってこの基本法に基づく法令条例施策を私の町の美しい景観の創出に役立てようと思うならその場所がもしスタンダードな基準において美しさの基準を満たさないとしても、いや全く正反対のものであったとしても、その土地において大切にされているものは、守られなければならないと考えます。整然と人工的に整えられたものに美しいと感じる感動は余りありません。みごとなマスゲームを見て感じることは美しさに対する感動とは意を異にしています。本物の美しい景観を守る事が急がれます。

    美の基準は人や時代によってことなる。なるべく多くの人が共感できる最低限のレベルまでの運用とし、個々の創意の妨げになってはいけない。

    単なる賛成、反対の議論ではなく、屋外空間に対するマナーを事業者及び行政、市民との間で調停を導くための仕組みづくりに役立てることを期待する。協議型まちづくりの仕組みづくりの一環になると、コミュニティづくりにも役立てられると思われる。事前届け出制度と公開審議の制度化が最も重要だと思われる。

    景観は地域資源の一つであり、公共的共有財産である。私的土地利用を制限するため、建築基準法や民法の改正も必要。

    個人に責任を負わせない緑の管理。

    いま一つ具体的な方針が示されないと、答えようがないですよ

    個人の家も、公共事業も常に、周りの方々の思い(住民で決めた方針)を意識し、それにより景観以上に人の心がいい意味で循環して来る事を望む。昨今の自殺や凶悪事件を起こしてしまう状況は、自分が何処に立っているのか解らない事も原因していると思う。明治以来文化を捨て去る政策を国が行ってきており、自分が何処にいて、何者なのかを、実感しづらくなってしまったのではないかと感じる。他人を監視するような状況にはしてはならないが、心が落ち着くと感じるまちづくりを皆が考えていくようになると思うので、いい方向へ向かうと信じたい。国の介入は極力避けるべきだ。

    どんな巨匠と言われる建築家の計画案でも、プランを住民のアンケートにかけるべき。そこでデザインにNOがでたら、その建築家の起用は止める。

    合意できない開発行為は「やらない」という原則

    道路標識や路面のペイントなどを減らしてほしい。

    条例の施策が美しい景観を創出するとは考えがたい。

    公共施設の色決め。

    目的に応じた空間体積の重要度の規定を盛り込んで欲しい。私は、公共事業に携わっているので、どんなささいな事業にも影響を及ぼすような規定づくりを期待する。

    地域住民が自ら景観にかかわる仕組みを作って行く必要がある。

    この法律の存在自体反対なので、ここでは回答できません。

    景観条例の内容を、都市計画がサボっている分野まで踏み込んだものにし、許可制にできるか。

    1 地域の自助努力
     2 地域からの発想
     3 地域における活動を邪魔しない、応援する

    景観評価の義務化

    沿道景観の整備に当たって、沿道建築物に対する細かい規定、補助の内容を明示

    経済効率を優先させることなく、美しい景観を将来に残すという基本理念を大切にする事が重要。

    1 景観計画作成に専門家を重用すること。市民参加と専門家の重用は車の両輪であるべきだ。
     2 景観計画作成に街の建築事務所を参加させること。まず彼らの意識革命から始めよう。
     3 景観に対する市民・国民の責任感を喚起する。池の柵や歩道橋は市民の自己責任で撤去できる。古い建物も少しの不自由を忍べば活用できる。美しい景観を守り作るのは市民・国民の責任である。軽井沢の正田邸を取り壊すのに肯定的な発言をした美智子さんは無責任である。まさに国民の意識の低さを象徴している。基本法、政策大綱はこの点を明確にすべきである。景観は誰かが壊し、誰かが作るものではない。全て国民・市民の責任である。

    美しい景観とは、美しい部品を組み合わせてもトータルとして美しくなるとは限らないという原則を明記して欲しい。スペック重視型の景観整備で終わらないよう、トータルデザインの美しさの評価が重要。

    街路樹や植え込みをむやみに剪定しない、というのを盛り込んで欲しいです。日陰が欲しい真夏に街路樹を切られると、景観がすごく暑苦しくなります。実際そういうことが行われています。豊富な緑は美しい景観の第一条件だと思います。落ち葉の掃除に手間がかかるとか、ドライバーの視線を遮るとか、人がひそんで危ないとか理由はあるでしょうが、都市の気温を下げる役割もするので、緑はいっぱい必要だと思います。

    特に娯楽施設(パチンコ屋さん、ゲームセンター)などの建設に歯止めを掛けられればと思います。

    私の住んでいる市を私は好きではありません。でもそうかといって、ここに住んでみたいという所も具体的には今はありません。いろいろな地に住んだ経験がないからです。選べないし、選ぶための知識もないわけです。これから美しい日本を守ったり、創っていく若い世代を育てるために、私は子ども時代にいろいろな土地で暮らしの体験をすることが大事だと思います。そういう体験の中から街作り、自然や建築物へのセンスが育つと思います。小学生から大学・成人に至るまでちがう土地での生活を体験できる公的機関を作り、教育的役割と雇用を作ることにつなげていくことを考えてほしい。比較をする中でいろいろなことに気づくと思います。比較をして住む地を選ぶ時代、比較されて選ばれたり、逃げ出される時代がくると思います。

    国土利用計画のように、国-都道府県-市町村といった景観グランドデザインや景観マスタープランを策定し、それぞれフィードバックするような仕組みが必要なのではないでしょうか。その際、策定主体や実現手法、評価主体について議論がなされるべきと思います。

    日本に伝わる、文化や伝統。

    とりあえず、電線と電柱をなくせば景観の持つ意味が分かる。

    海岸には、コンクリート製品を使わない。(よっぽど他に変わる工法のない場合を除き)

    ハードからソフトへ。箱モノづくりから住民の意識創出(ソフト)へ。

    自治体の体質改善。口では住民に目を向けた行政といっているが、出来ているもの、していることの結果は、内向きにしているとしか思えない。

    私権の経済活動を制限するような施策について、かなり踏み込んだ規定を織り込むべき。たとえば、看板、限度を超えた広告、建築規制のより厳しい見直し、電車線路沿いの住宅建設の制限、など

    歴史的な景観を守るための持ち主の税金対策、売却時の買い上げ、借り上げ、NPO等での有効管理等。

    一方的な規制のみの法律となっては困りますが、美しい景観を不特定多数の人が享受する権利を認めてほしいと思います。逆に言えば、大勢の人が不快と感じるようなものに対する責任を明らかにし、改善を促すことができるようになればよいと考えます。

    景観指導に対する法的強制力の付与。

    基本的には景観基本法は、地域の景観や環境の美しさから検討をはじめ、美しさへの意識の育成や住民意識の向上から始めるべきであり、上から見た基本法であってはならない。都市の再開発が全国一率に、画一的に進められた結果の反省に立ち、自治的かつ継続的な運営プログラムが不可欠になるものと考える。

    景観は自分だけのものとはいえないが、自分のものでもあるというスタンス。

    骨格的な、景観に取り組むべき責務を法において規定しておき、実質的には地方で運営するシステムでないと、中心市街地での運用と、旧集落内での運用に差が生じるためこまる。  
    しかし、旧集落でコミュニティー施設を建設する際、風景にそぐわない建物を建てられないようにする事ができるのではないか、と思っている。

    路上駐車がなくなり、安全な交通になる。歩道にある、自動販売機がなくなり安全に歩ける。

    海岸や河岸などが公共の空間であることを明示すべき。

    都市計画マスタープランや地区まちづくりに位置づけを持つ施策体系にして欲しいと思います。國がすることかな、とは思いますが。

    基本法は絶対に詳細な内容は決めないで、市の条例等に権限を付与する形にすることが重要。

    観光、長期滞在型休養地。

    市民が守るべき価値(眺望、形態、自然との関係)>激変の禁止 広告物の内容(掲示してよい内容を社名のみとし、商品宣伝を一切禁止)>町を私的宣伝に使うことがなくなる(そんなのは、TVの中だけでよく、公共の場を使うべきでない)。

    子供のうちからの教育。学校で学ばさせるべき。

    景観アセス等デュープロセス、市民参加。景観の価値観が各個人によって異なるため、手続きが大切と考える。

    具体的方法論を持ち合わせてはいるが、経済構造とリンクさせなければ機能しないであろう。・・・ここでは書きつくせない。

    京都の円通寺の借景庭園等、特定の基点からの景色を保全することにより、郷土愛に繋がる景観の維持/創造が可能となることを期待します。

    関連する法令と密接にリンクさせ、景観基本法が、都市計画や建築関係法令の上位法令として機能するようにすべきである。自治体にも条例制定の義務づけをすべき。

    地方公共団体が条例で定めれば、都市計画法や建築基準法の規制を強化できる旨の規定。

    市町村のマスタープランがあり、これには近隣を含めた多くの市民参加で策定され、この下に地域ごとの景観実施プランがあり、これは上位計画を受け地元主体で策定する。そして、この様々な段階で多くの案が協議され、また評価とチェック機能が働くことが必要だと思う。

    美しいまちづくりという抽象的ともいえる目的を理論から実践に展開するにあたって結論的には最終手段として強制力のある内容とする必要があるでしょう。そのめには、誰もが納得できる根拠条件の整理と私権に踏み込んだ規制等の制度化とそれに対応する助成・補助・優遇等の制度化が必要であろうと考えます。道路交通法では主に安全のために必要な規定がなされていますが、これは誰もが納得のできる根拠によるものといえます。



     

    電線地中化

     


    電線地中化があなたのまちのまちづくりに役立つとすれば、どんな場面ででしょう。また役立つようにするにはどのような仕組みが望まれますか。
     [その理由、特に強化、改善すべき点]

    役立つと思う(73)

    景観の向上では間違いなく役立つと思います。それとライフラインの災害時、メンテ時等の処理において。

    江の島は、島全体が博物館というまちづくりを進めているが、傾斜地が多く、道幅も狭いことから電柱が乱立し、緑豊かな景観のなかを電線が張り巡らされている。細い道路でも電線地中化ができる技術開発、低コスト化、助成があれば、電線地中化は進められると思う。

    電線のみならず、水道管、ガス管など一緒に地中埋設のシステムをつくり、後のメンテナンス等への効率化を計る。すなわち他業界との連携が必要不可欠で電線のみの地中化通路は無意味。しかしこの地中化なくして日本の景観を良くする事はできない。

    ガスや水道、通信線などと比較すれば、やれば出来る。やる気のないうえ、地中化やってみても、大きな変圧器を地上にでんと置く神経が、街を美しくしようと思ってやってない。 しかし、その気になれば、巨大な景観整備マーケットになるし、そのうちには、電力会社の金を道路美化に使えるかもしれない。

    歴史的町並みを美しく見せるのには、地中化は不可欠。そのためには、行政・電力会社・住民による連携のシステム構築が必要。

    商業地、住宅地、街路、すべてで役立つ。軒先の共同利用、または官民境界の土地の共同利用を義務づける。

    電線共同溝等の原則同時施工で、工事中の悲惨な景観状態が少しでも短縮される。

    まちなみから醜いものが消えれば、自然と、ファサードなどに対する意識も高まるのではないか。

    長年叫ばれてきた問題点であり、事業化が進めば美しさが増す場所は多い。コスト縮減、新たな整備手法が進むことが期待され、この事業を通じて、美しさづくりへの参加が促進されると考える。

    地名がそれに由来する、たとえば富士見通りなどは今でも正面に富士山が見えるが錯綜する電線に隠れてそれとわからない。電信柱が車椅子の通行を妨げる通りなどをみても、景観と機能の両面で地中化は理想かも。ただ、地中化推進にあたり自治体の負担などにつながることは心配。

    道路整備の際に従来の掘り起こし現象が起きないように計画されて、行われること。

    張り紙や看板が減る。交通事故の減少。

    役立つ面は歩道から電柱が無くなること。地方では、歩道は公共のゴミ捨て場のようなもの、あがったり下がったりの路面、車道第一の道路からはみ出した標識や電柱で歩行者はまっすぐ歩けない。しかしこれは路側帯に追い出せばよい。
     そもそも満足な歩道を取れないところになぜ2車線必要か。環境の改善はまずここからでしょう。現在いろいろなものが地中に埋められ、何か触るたびにほっくり返し、その度に歩行者は車道を歩かされる。電線の地中化を説明するとき決まってスマートな共同溝の絵を見せられる。1年に何回車道を歩かされ、その度に歩道が汚くなっていくことか。

    宮崎市が実際に行いきれいと感じるから。

    町並みの美化。通信ノイズの低減?。

    クモの巣がなくなるだけですっきりする。

    費用面でのしばりと、電力会社の理解が必要です。

    地中化にあわせて、個人レベルの建築物、庭、意匠などを修景する傾向にあり、町並み景観創出のきっかけになる。

    地方の中心市街地、中心商店街にとって有効である。歩道の確保が容易になる。狭い道であり、自転車、車椅子なども少しは、移動しやすくなる。

    電線地中化においては、主に景観の場面において論じられる事が多い様ですが、私個人の考えとしては、むしろ、コストや安全性、災害時における(有事といってもよいかもしれません)インフラの整備等に有意義性を見出しています。

    役に立つとか立たない云々以前の問題だ。電線は日本の景観を壊している最大の元凶。

    地上にでている必要がないものだから、地下化されればファサードを中心とした景観が美化されると思う。

    ほとんどの電柱は歩道ないし道路部分にある。道路、歩道の狭いところでは決死の覚悟で歩行者は歩いている。弱者に優しい道路であってほしい。

    ただただ全面的に電線地中化は推進した方がよい。電線地中化は、まちづくりや景観以前の問題ではないでしょうか。

    主に歩道・路側帯における歩行通行環境の改善。すっきりと通行しやすいことは「美しい」と考えます。

    今まで電線で阻害されていた大木の育成が十分なされてほしい。

    京都の古い町並みには電柱や電線があまり似合わず、電柱などに無断で広告や看板が立てられることのないようになればと思います。

    歩道がない道路の整備設計。

    路面上からの視点がほとんであるため、道路より上方の印象は景観認識に大きな影響を与える。保全すべき街並みが直接、空に溶け込めばそのコントラストが「美」につながり、我が町にも誇りが持てる。好ましい住環境は誰もが望むことなので、電線が「美」を阻害する場合は、地中化の意義が大きいと思う。逆に必要性の低い場所もあるので、実施個所を選り分ける評価作業が欠かせないと思う。

    多くの埋設物の一元化。

    歩行者専用道路においては、電柱は地中化すべきです。ただし、通常の街路では、電柱は歩行者を自動車から守る唯一のものです。街路での電柱地中化は自動車の歩行者追突事故を確実に増加するでしょう。これは、そもそも住宅地の街路レベルにまで自動車を我が物顔に走らせている現状に問題があるのですが、この問題を解決する前に電柱地中化をすることは反対です。

    全ての沿道景観 道路の新設、改良には義務づけ。

    公共の道路には協同溝を計画することを原則とすればよい。そうしなければ経済状況を理由に中途半端な景観が残ってしまう。

    安上がりの公共公益施設づくりの典型。コストアップを受け入れる住民サイドの合意形成も重要。

    1 実際に美しくなる。
     2 市民・国民の景観に関する関心を喚起できる。
     3 他にも撤去した方が良いものが見えてくる。

    地元自治体負担が大きく、一部の道路以外はほとんどあきらめていたから、このような後押しは、大いに期待できる。

    まちづくりに役立つかどうかは分からないが、街がすっきりすると思う。ただ、地震などの災害時には、今の電線の方が復旧が早いと聞いています。メンテナンスのしやすいようにしておくことは大事かなと思います。

    交通量の激しい道路で取り入れてもらいたい。そして、歩道・自転車専用道路の整備・充実を!!

    高齢者、障害者の通行を安全にできる。

    必ずしも地中化ではなく、軒先配線や背割り配線も含めての話ですが、お年寄りが安心して歩けて、座れる場所作りを進めるなかで、議論できると思います。まあ、当面ゲリラ活動でしょうから、仕組みはその先ですが、役所に相談窓口があり、電力会社などが担当窓口を決めざるを得なくなれば一歩前進。

    景観上もさることながら、交通安全上も役立つと思われます。

    台風などの電線の切断、電柱の倒壊。地震でも同じことが言えるが、都市住民の安全性が向上する。

    今ごろ始めるわが国の行政に呆れている。欧米先進国は住民の意識が徹底しているから行政もやり易い。

    景観美化には役立つが、その費用負担をするのは地元であり、地権者であり、電気料のUPであるから、決して急いで行う必要はない。

    空中景観の改善、景色に対する住民の意識の変革、を促すことにより国民の景観意識の改革に役立つ。とにかく費用がかかるので、これを国、自治体、企業、地域住民で分担するという考え方が必要。誰かにやってもらうということではダメ。

    狭い歩道のところほど効果的。広い歩道もそれなりに。

    電線がせっかくの景観を阻害するような場面によく出くわすから。

    歴史的町並みの電線の地中化

    電線の地中化こそ、地域性や地区特性の観点から捉えるべきである。とくに、都市部での電柱の存在は、景観的な美しさを損なう景観阻害要素であるばかりでなく、防災・安全上においても問題であることを認識すべきである。電線と電柱は地中化がベストなのか、公共空間の中でだけ処理すべきものではなく民地空間の中で処理ができないかなど、多面的な検討が必要である。

    個人的には広告、電線のごちゃごちゃした街並みも好きなので、完全に善とはいえないですけど、そもそも管理者がバラバラなせいでインフラがきれいにまとまらない状況だと思うので、共同構などで狭いスペースを節約して、余った分を歩行空間の安全確保や修景にまわせるようにしていただければいいと思います。

    地区計画など地域性のある町並み整備。都市の主要な場面だけ、投資効果の高い地域だけへの整備の考え方を、電線管理者たちが持っている限り、実現性はない。

    歩行者が歩きやすくなる。電柱にぶつかるクルマがなくなる。

    震災復興区画整理でわかったことですが、地中化には相当のスペースが必要になります。このため幅員の大きい道路で無いと、街路樹等緑のスペースが犠牲になりかねません。また、簡易式地中化の場合、引き込み柱が必要ですが、これが現状では美しいとはいえない。いずれにしても、それぞれの町で地中化を導入するにあたっては、事前に技術的検討が必要です。

    電磁波がへる、町がきれいになる。空があかるくなる。開放感が得られる。

    電線地中化の前に、道路網の改善整備が必要である。

    電信柱のない広い道路、点検時の安全性の確保。

    単純に道路の内側で勝負するのではなく、沿道の民有地も含めて検討する仕組みを考えるべきである。川越のように変圧器を民有地に置いてもらえるような仕組みが必要。

    すべて各電力会社の事業負担で出来る(出来ていた) はず。させるさせないは行政の問題。

    都市街路の整備で、電線の地中化が原則となる。

    京都東山の八坂の塔界隈、祇園南側界隈が成功例ではないでしょうか。

    確かに電線類地中化はいいことですが、今のところかなり価格が高い状況にあり、また細街路等での適用にはまだ技術的問題もあると思います。幅員の広いものについてはシンボルロードなどで主要なものは対応されており、現在それほど問題が大きい路線は多くないと思いますが、細街路灯で電柱をなくしたいものが非常に多くあり、これを安価に改善できる方法があれば歓迎すべき事となります。

    景観構成要素の中で、電線は過半の者が阻害要因であると認識しているでしょう。その阻害要因を排除することで、次に、注目されるべき要素が浮かび上がると考え、美しい景観づくりの第1歩として、効果ある施策であると考えます。

    役立つと思わない(5)

    原則的に、止めるべきだと考えます。唯一歴史的景観地区に関しては適応することを推進します。しかし道路拡幅等の区画整理をおこなわないという前提で。地中化することで、いままでより多くの道路用地が必要になってると感じるからです。

    幹線道路等を中心に進めることは、都市景観の向上につながると判断される。しかしながら、市街化区域や用途地域を対象として、今後地中化を促進することを前提とした対応策でなければ、効果が現れない。

    最初は地中化されるが、いずれもとに戻るだろう。また、道路工事の件数が増えるだけではないだろうか。    

    コストかかりすぎませんか?余計な工事現場がまた増えるのはイヤです。

    どちらとも言えない(21)

    狭隘な道路空間での電線地中化は、無駄遣いの可能性が大きい。

    局所的な電線地中化は、将来の街の土地利用計画、道路計画等の面で活力を狭めてしまう惧れがある。

    電線地中化は、広域幹線道路レベルで検討する程度がよい。

    中心市街地や景観的に保全していく場所に限定。

    共同溝を使うための縦割り行政の是正が必要。また、道路工事についても、計画的に上下水道などの工事と一貫して行えるような全体計画に基づいたものが必要だと思います。

    新たな公共事業の推進になるような気がする。

    電線地中化については、特に些少幅員の道路などを対象にしてもらいたい。ある程度の幅員のある道路で縦断方向に架線が張られていてもそんなに景観が悪化するとは思えない。ところが、幅員の狭い道路では、電柱が交通、特に歩行者の障害になるとともに、架線が道路上空を縦横に走り景観上もよくない。

    ヨーロッパ同様、全てなくす馬鹿はせず、必要な部分だけでよい。木の電柱での景観もある。大正、昭和のまちづくりがそれ。

    既設の街路樹の撤去が残念。

    電柱を地中化した地区は、その道路に面する建築物の美化を併せて事業化する。

    役立つとすれば、街路樹や屋敷林との接触がなくなる、道路で通行の妨げになっている電柱がなくなる点。けれども、必要以上に地中化する必要性を感じない。文化遺産的な町並みは別だが、普通のまちであれば、邪魔な場所だけは電柱を地中に・・・と考える程度にしておくことを望む。

    コストがかかりすぎるので、選択的に、あるいは他の方法で合理的に改善してほしい。つまり、私の基本的な考え方は日本人はもっと集住して暮らし、大きく自然を残しておくべきだということです。集住への誘導なくして景観保護はないと思っています。これは持続可能な社会という観点からも言えます。だから、地中化についても不平等化が生じないように、コストをかけたのだったら、そこに住んでいる人や商店の方だけが恩恵に預かるだけでなく、公的な、全体的な意義を常に念頭に置き、より多くの方が納得できる、恩恵を受ける配慮をしてほしいと思っています。

    道路・公園等におけるバリアフリー化の推進

    伝建や歴史的建築を軸とする景観形成地区などで、歩行者スペースが限られているような地区においては、地中化の意味は認められる箇所もあると考えます。(たとえば川越市、京都三条通)でも、どこもかしこも、というのはやりすぎではないか、と思います。(突き出し看板など整備した方がよっぽどすっきりすると思います。)

    電線地中化に焦点を当てるよりも、都市空間の要素に焦点を当てるべきだと思う。たとえば、看板や屋外広告といったわずらわしいものがあるだけで、景観は損なわれる。都市空間を構成する要素(電線や屋外広告、無駄な標識など)を減らし、見た目をすっきりとさせることが急務のように思われる。

    道路の新設、改良時に義務づける。但し法律で定めて、自治体に運用させるべき。

    電線が架空線である方がよい場合もある。コストがかなりかかるので、できる範囲でよい。下水の方が地方都市では優先されるのでは?

    現在は、自治体にかなりの負担割合を求めているが、これはおかしい。莫大な利益を上げている電力会社や電話会社の負担割合を増やすべきである。 そうしないと、財政危機に陥っている自治体では取り組みが遅々として進まないことになる。利益の中から強制的に地中化の費用を拠出させる仕組みを作るべきである。

     

    回答なし(1)

    ほとんど見栄えの問題だが、住宅地などで電柱がツンツン立っている様は見苦しいし、住宅側からの視野も遮っている。
     ただし、現行規制下での地中化は過大な公共事業につながる。低コスト、低環境負荷で地中化が可能となるような法整備が必要。

     


     

    自由記述

     


    美しい国づくり政策大綱や景観基本法について、『季刊・まちづくり』としてどのように取材・議論を進めるべきかについて、自由にお書きください。

    ・地域独自で取り組まれている事例は、数多くあります。このようなまさに先進事例を中心に、美しい国づくりのあり方をご議論されてはいかがでしょうか。

    ・「まちづくり」は地域の特性を充分取り入れて行う必要がある。全国的に同じ規定が適用されるような画一的な法になってはならないと考えます。

    ・地方分権や構造改革や規制緩和などと関連させ、市町村合併との問題を含ませて論議していくべきだと思います。柳田國男が昭和九年に書いた言われる「美しい村」で、「美しい村なんていうのは、はじめからあろうはずがなくて、人々が美しく住もうと思ってこそ村は美しくなる。」と書いている。先ずは、住民が自分の町を美しくしようという公の心が必要ではないかと思う。

    ・美しいまちづくりは、まちづくりへの取り組み方、心根を含めた大きな理念であるように思われ、「憲法前文」のようなものに付いてまちづくり制度として詳細に取材し議論する必要はないのではないでしょうか。

    ・まずは、奈良の西ノ京に来て下さい。そして、若草山を見てください。そうすると若草山の手前に大きな黒い窓らしい四角いものがいくつもあるコンクリートのビルが見えると思います。そしてどのように感じるか素直にレポートしてください。

    ・都市と地方都市、過疎地帯などでずいぶん議論が変わるはず。従来の歴史的な景観だけでなく、いろんな切り口の景観があっていいはず。また、マンション紛争に見られるように、都市におけるまちづくりが行政主導から住民主体に変化しつつある各地の様子を知り、分権時代のまちづくりを進めて欲しい。

    ・大綱や基本法もそうだが、景観の重要性についていろいろな側面から取材してもらいたい。

    ・あまり議論ばかりしないで、基本法の理念に近い実例(すでに実施している伝建地区の例など)を紹介し、理念が実現するとどのような景観が出来るのか、読者にわかりやすく示して欲しい。

    ・景観計画、設計の実務者の考えを特集して頂きたい。

    ・まちづくりは国土交通省だけでなく、他の省庁も関係が深いので、他の省庁の政策との関連性についても考えて欲しい。それぞれで専門資格を作ったりしているが、どんな資格があったらどのようにまちづくり問題に関われるのか知りたい。建築士等の試験に環境色彩や景観についての問題を出したり、資格取得後の講習でも取り上げることを議論すべきだと思う。

    ・国の政策にコミットしてみても、「季刊・まちづくり」のためになるとは、思えんなあ。

    ・景観に価値観を持つことは、合理性にもつながることがある。過度な修景は見るものをがっかりさせるだけでなく、醜ささえ持つことも考えてほしい。

    ・造景から始まる取り組みはこの大綱のためにあったようなもの。時期尚早だったかもしれないものの、その先駆的な役割を高く評価する。美しさをつくる手法を掘り下げる必要がある。巻頭のレトロな議論に替え、未来志向の問題提起を。文化庁、環境省、国土交通省、農林省、総務省それぞれの役割分担を示したい。また、建築基準法改正で市街化調整区域の建築規制が改定中、農村は連担制度か地区計画かが問われている。この点にも応分の議論を求める。

    ・期待しています。

    ・なぜ日本では当然であるべき、人の為の道づくりができないのでしょうか?

    ・制度の作成の背景を詳しく取材してほしい。できなかったことは、なぜできなかったのか、何が議論のポイントだったのか、詳しく知りたい。

    ・都市のグランドデザインから街角の生活風景まで異なった空間スケールを対象に、どのようなルール(枠組み)が必要なのかを掘り下げる。風景は人と時間とが係わり合って形成されるという原点を忘れずに構成して欲しい。

    ・地上変圧器用地を道路の付属物化すべき。道路財源で買い上げるか、用地を提供してもらったら提供者の名前を名盤等に残すとともに国民的顕彰を行う。

    ・国民は法律等の話に未だ抵抗がある人もいるため、もっと関心を持てるようにわかりやすく

    ・取材は様々な地域で様々な景観(良い、悪いも含め)についてバランスよく。良い景観と悪い景観について多数抽出しておき、その違いを様々な技術的手法で明らかにする必要がある。景観についての年代的に受ける印象の差についても明らかにする必要があるのでは。

    ・具体的な問題事例を通じて「これをどうするか」という議論をかさねるべきです。

    ・あくまで、日本のまちづくりなのだから日本独自に「美観」を追求すべき。 他所の国から何かを持ってきて良しとする発想は厳に慎むべきだ。(特に地方)

    各都道府県には美しいまちづくりのアドバイザーが数多く居られる。これらの人は当然、その道だけでなくまちづくりのプロであるはずだから、これらの人と連携してご当地でのシミュレーション検証を試みてほしい。ローカルカラーが見えてくるはずだ。その違いが浮き彫りになるはずだ。

    景観に対する愛着をいう面での、検討をしてください。住宅では、そんなに老朽化していなくても、愛着がなくなると自己所有のため壊されるケースが、調査をしてわかってきました。土木、建築など公共性の高いものでも、原則的には同じ原理で動いているように思いますが、調査されたケースがあるのでしょうか?

    美しい町並みの事例、悪い町並みの事例などの紹介。観光地なども含めて。

    1 繰り返すが大綱で記載されている写真は、誰でも接近できる場所で、アイレベルで撮影したもので、要するに「普通に見える景観」を採用すべき。
     2 屋外広告物は、3つある。これに関する議論が必要で、それぞれにきめ細かく対応すべき。
     @移動看板:チラシ、のぼり。これは柔軟に対応すべきである。
     A属地的な看板:店舗があるその場所の案内物、店舗の名前、販売している物。あまりデザインされていない。しかしながら消費者にとって大事な情報を提供している案内かもしれない。
     B非属地的看板:広告物を出しているその場所には直接関係のない例えばメーカーの看板などで、ビルの屋上とか、目立つ場所にある程度デザインされている広告物。これは消費には直接的には関係ないものであり、強く規制すべき

    キチンと美術教育を受けた人間、都市計画・建築・デザイン分野などで実績を持つ人間を中心に提案や議論を進めていただきたい。間違ってもセンスのない官僚や役所担当レベルだけで話し合う問題ではない。多くの人が共感できる内容が早期に具現化させることを期待する。

    より広い分野に属する人からの客観的な意見を総合すること、全国的な問題として取り上げることが期待されます。

    欧米の町並みや景観が美しい事例として取り上げられるが、江戸時代の町屋の甍の波(いらかのなみ)の美しさや、水田に囲まれた民家のたたずまいなど、日本古来の景観の美しさの再発見・再検証をやってほしい。

    内容紹介にとどまらず、法を実行に移す際に必要な条件、手続きなど、具体的なものにしてほしいです。

    こちらのアンケートや、議論の結果を、そのまま、国へ提出する。

    電線地中化と同時に進めてもらいたいのは、多自然型河川への改修。都心の河川でも多自然型河川にかわると、それだけでも潤いがいっぱいになる。

    警鐘的にアンケートを取り組まれていることに敬意を表します。

    景観の価値をどんどん発信していって下さい。

    30年後に今の町並みが同じように見られるよう願っています。

    具体的な議論を先進国の事例を基に進めてほしい。

    地方と都市部とでは、景観の捉え方が著しく異なるという認識を基本とした上でプロの意見を取りまとめ、国土交通省への直接的な働きかけをして欲しい。

    建築家の抽象的な議論より、実際の現場に関わっている人々の具体的な議論が読みたいです。また建築・都市計画の分野では景観への思い入れは強いが、中に閉じた議論にするのではなく、より第三者的な、行司のような立場に立って、景観形成に批判的なディベロッパー、都市経済の先生なども巻き込んだ議論の場を提供していただけるとうれしいです。

    国がこのような法律をつくることの危険性を啓蒙するような内容の記事を是非とも書いていただきたい。現行の日本の景観等に問題があるのは、国の施策とかではまったくなく、市民がそういう意識を持っているからです。すなわち、市民の意識を反映させているから醜いといえます。一方、幕張メッセ周辺のように、一所懸命都市計画家や行政が取り組んでも、景観的に極めて醜悪な都市空間をつくっている事例が多すぎます。これは、教育の問題を含めて、何がいい景観なのか、良好な都市空間かを理解できていないことだと思います。このような再開発を公に任せたばかりに、無駄な税金を使われているのです。そもそも、何が美しい国か、美しい景観かを、行政に問いただして、その無知蒙昧ぶりを追求するような記事を書くと有益だと思います。行政に任せていたら、この国の都市景観は未来永劫よくならないと思います。

    町並み議論。

    少なくとも国の果たすべき役割は基本方針を示すものであり、美しさは地域、時期により千差万別であることから、地域の意識を活性化させる議論を進めるべき。

    非常に期待しています。学術的・技術的・経済的等多面的な議論を期待しています。

    これらに基づく具体的な動向を常に把握。

    経済はバランスが必要である。同様に景観もバランス感覚が不可欠である。したがって、一部の不同意を唱える者のために台無しにならないような施策をとっていかなければならない。

    現状の何が問題なのか、徹底的な洗い出しが必要。国交省等の公共施設整備も当然遡上にのせる必要があるが、現在の官僚機構はそれを受け入れられないだろうと思う。

    まず自治体の長にインタヴューする。

    地方自治体の景観条例化の実績に遅れて、国もやっと法律としての必要性を感じてきた結果であろうと考えられるが、既に地方での条例での限界があるため、その問題点を洗い出すことで、国としてすべきこと、してもらいたいことが整理できるのではないか。特に、先進都市といわれている所でも、届け出制度の窓口業務に終わっている自治体も少なくなく、積極的に美しい都市づくりを実施する部隊は事業担当課で、景観担当と切り離れているケースがほとんど。アドバイザー制度等で補足している現状などが参考となりそう。

    たとえば、国立のマンション問題のような例を取り上げる場合は、反対している既存住民の話だけでなく、新規に引っ越してこようとする人の話も両方取り上げて欲しい。マンション業者の言い分も聞きたい。ただ、反対だけでなく、どのようにすれば、よい景観、よい住環境を守れるのかというような、前向きな議論が欲しい。

    私は「クルマ社会を問い直す会」という市民活動の会員です。とにかくクルマが過剰だと思っています。戦前の日本の景観には外国の建築家や文学者や画家の心を惹きつけるものがあったと思います。今、その日本の国土は陳腐な住宅とクルマと道路に覆われてしまいました。多すぎるクルマこそ日本の景観を台無しにしていると思います。日本の都市工学・都市建築をされている方は総合的な公共交通や道路・道への視点がなかったと思います。是非、景観を守り、美しい日本を再生するために、クルマとクルマが走る道路や駐車場を見直し、ちまちまとした部分的な景観つくりではなく、広い視野で景観を考えてほしいと思います。又、景観とは視覚だけのものではなく、五感をフルに使ってのものであること、また、そこに生活や営み、人や生き物が暮らしの中で捉えてほしいと思います。

    しぶとく楽しい、勝手連、ゲリラなどの活動をお伝えください。

    誰のための、何のための景観なのか。また地域個性と景観との関係性をどのように考えればよいのかを、具体事例を踏まえながら専門家でない人たちにも分かりやすく伝えるべきではないでしょうか。その上で、なぜその景観(地域個性、美しさ?)が発揮できているのか、その仕組みも明らかにすべきだと思います。

    これらの考え方の出発点が違うと思う。あくまで、官僚主導ではなく、市民からの発案であれば賛成である。それぞれの地域の積み重ねで作られるべきであり、大綱や基本法から出発するのではない。また、議論の積み重ねがないままに、作られることに非常に違和感を覚える。もうすでに、官僚の時代ではない。この認識がまったく無く、まだ、官僚支配で日本の国をつくるという魂胆が見えている。もし、御社で進めるのならば、主導権を市民にし、全国的に議論の輪を広げるべきである。そして、その積み重ねで作るべきだと思う。

    戦時中に焼夷弾により都市を焼かれたことのショックにより戦後の防火建築(ラス張りモルタル仕上げ)を決めたことが大きな理由となっている。消防自動車が配置されたときに規制を考え直すべきだった。今は優れた設備があるので、伝統建築で都市を作りあげても、応仁の乱のように都市全体が消失することは少ない。神戸の地震は事後処理の間違いと確信しています。

    各地方の、さまざまな実務者の意見を拾い上げた結果、大綱、基本法が一市民、町村民の気持ちに、溶け込むような進め方が求められます。

    住民意識の創出方法。

    この法によって、新たな財政支出の道をつくり、仕事をつくり、行政マンを増やし役所にとっては、良いことだらけだが、まずはいらない事業の廃止を優先すべき!なぜ出来ないのでしょう??前年度までやった理由がなくなるとか、事業の正当性を否定したことになるとか防衛本能が働くからでしょうね。したがってまずなにをやめて何を始めるのか両論しないと無駄が増える。
    私にも優秀な官僚の友人やまちづくりを議論する仲間達がいるので、知識の搾り出しに大いに期待する。もうそろそろ「まち」だけでなく「むら・まちづくり」にて欲しいものだ。都市農村計画法など議論してほしい。

    1 具体的な記事を望む。特に美しい写真ばかりでなく、醜い日本の状況も摘発するような記事も必要。
     2 啓蒙活動、たとえば関係のNPO法人の紹介、地方や都市のおける「美しい街づくり」運動の紹介など。
     3 外国の活動の紹介、普通の町(有名でない)の景観改善活動の紹介。

    文化を伝承、発掘創造している人々の交流の場、紹介。まちづくり塾等人づくりの苦心の例も含めて紹介。美しい町の良い例が分かりにくければ、醜悪な例を全国から募集公開し分析する。これらの積み上げで、住人、NPO、行政の役割責務が浮かんでくるのではないかしら・・・

    日常の与えられた景観(経済性が最優先された薄っぺらな景観)に慣れすぎて、ますます美しいものを感じる感性や心をなくしつつある現代人に、本当にそれでいいのだろうかを問い直す契機として、一部の専門家にとどまらず幅広く市民に訴えていくような形で進めていただきたいと思います。

    美しい国づくりは日本の環境文化をつくることになる。経済効率や商業主義を如何にコントロールできる政策大綱や景観基本法ができるかが課題である。醜いものや汚いものが人間の心に及ぼす影響や被害、これらの質的な価値に如何に目を向け、世界に誇れる日本景観、環境文化として発信できるよう、仕事やボランティア活動を通して発言し行動していきたい。

    まず海外の法なんかを照らし合わせてみて欲しいです。あと、分野が分野だけにおおまかになりそうなので、実際に図面を描いてる人のレベルでの話も必要かと。

    大綱や法において、反対・賛成といった二項対立的ではなくどのような条件下の基で、どういう運用ができるのか、あるいはできないのかについて、丁寧に条件をさらっていき、有効である点、無効である点を細かく探っていくほうがいいのではないか。でも紙面の問題もありそうだ。

    見た目の景観よりも、機能を重視し、人間らしい生活のできる町作りが大切である。今の車社会では、自分達の作ったクルマにより、騒音、振動、排気ガス、交通事故で毎日、昼夜を問わず苦しんでいる。特に、歩行者や自転車はいつもクルマがぎりぎりに通過するので命がけで毎日生活している。大胆なことを言えば、歩道、自転車道は完全にクルマとは交わらずに安全に分離された町にするべき。または、クルマはみな、地下道を走り、地上では子供がのびのびと遊んでいる町を。クルマの害は凄まじいものがある、この狭い小さな日本でさえ毎年交通事故で亡くなるひとが1万人、手足を無くす方が100万人、ぜんそくの患者が5万人。とにもかくにも、歩行者や自転車利用者は毎日クルマに馬鹿にされ、ひどい仕打ちを受けている。環境に一番やさしい移動手段なのに。構造物の景観などよりも。歩行者、自転車にはばよせするドライバーのこころの美感が問題だ。道やビル、町の美観がよくなっても、そこに住んでいる人間のこころがきたないのではもともこもない、税金の無駄づかいだ。他人に対する思いやりのこころがうまれる町づくりを!

    國の施策の良し悪しの議論は、それ自体でなく、まちづくりの現状など背景に対する認識が重要です。このように考えるとこのテーマは深層から捉えなければならないと思います。

    歩きたくなる町。人が来たくなる町はどんな町かを念頭に進めてほしい。

    個性的で魅力的な街づくりを行うには、地域の個性・特色を重視する必要がある。そのためには、国の関与は少なくして、自治体に権限を与えるべき、という方向でお願いしたい。

    各地域の人々の具体的な取り組みと行政・市民のコラボレーション事例の紹介。

    結局、基準法6条の関連規定に入れられるかどうかだと思います。市街地建築課が重要でしょう。

    なるべく分かりやすい文章でお願いします。

    長期的な施策展望がなければもはや不可能。

    事例の経過と結果について、報告してほしい。また、専門家以外の地域住民の意見が聞きたい。

    法整備不備により破壊された各地の景観に関し、破壊前と破壊後の写真等を掲載し、その破壊が防げなかった原因を個々の現行規制を挙げながら検証し、再発防止に必要な制度の具体的な提示を行えればと考えます。

    景観を形成する主体は公共事業ではなく、民間投資です。屋外広告の規制を強化し、地域景観監視委員会でも導入しない限りいたちごっこになりましょう。景観の形成が日本人にとって何を意味するのか、景観価値論について議論する場が欲しいものです。また、番地表示の制度が未発達なゆえ、住所でその立地を明示できない商店などは、看板によって視覚で顧客にその所在を訴えねばなりません。欧米のストリートナンバー制度だと、看板はなくとも住所だけで店にたどり着けますから。つまり、屋外広告は「制度の穴」の景観的反映です。住居表示の制度についても考え直す機会でありましょう。ただし、直観に訴えるというのはレストランのメニューを日本と欧米で比較してもそうです。看板のまちというのは表意文字文化圏の共有する景観なのかもしれませんよ。

    見た目だけの「美しい」ではなく、誰もが幸せに暮らせる街づくりの一環としての「美しい」国づくりでなければならないと思う。
     畑の真ん中にロードサイドショップの巨大看板が林立する中を、買い物客がマイカーで環境を破壊しながら移動し、電柱や看板や「のぼり」で見通しの悪い歩道を、お年寄りがクルマに怯えながら歩いているような街はもうたくさん。
     「人と環境に優しい街づくり」の一環としての「美しい国づくり」を目指していくというスタンスで議論をすすめてほしい。 このアンケートを国土交通省に提出することに賛成。その際は、よくあるパブリックコメントのような「今後の参考にさせていただきます。」などという無責任な回答をしないようにも要求してほしい。。

    先進的な国内外の事例の紹介。景観基本法案の法制化の動きのリアルタイムな取材や法案を実例に照らした検証。

    美しい国づくりにおける、国と県、市町村の関係がどのようになっていて、その問題は何かの整理。住民の参加と住民意向の受け止め、計画への住民意思の提示がどのように保障されているのかの整理。マスタープランから具体の整備に至るまでの全体の流れと、計画策定業者の選定等に関する問題点(事業者の救済とならない工夫など)の整理。を中心として、国と県、市町村、住民、事業者、学識者などの意見を広く聞き、座談会なども開きつつ、オープンな議論からまとめていくといいように思います。

    美しいまちづくりの実現には、主観的・抽象的事項の整理が重要であると思います。しかし、これらは法制化に馴染みにくい事項であるとも思います。しかし、これを機に効果的な制度が確立されることが、理想的とも言える展開です。そこで、「まちづくり」では、いわばソフト面の事項を切り口に制度化について、議論を進めていただきたく思います。今後の展開に期待します。



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