京都府亀岡市篠村八幡宮の紹介・・・公式ホームページ
鎮座地:〒621-0826 京都府亀岡市篠町篠八幡裏4
連絡先:宮司宅〒621-0826 京都府亀岡市篠町篠上中筋45-1 電話0771-24-6395(FAX兼用)
日中は、篠村幼稚園22-0583(FAX25-8542) 又は ひかり幼稚園23-2135(FAX24-8740) へ〕
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令和2年9月20日に開催予定だった「篠区放生会・秋祭り」諸行事は、新型コロナ感染症のため中止となりました。
令和2年10月13〜14日に開催予定だった「全国足利氏ゆかりの会総会@亀岡市」諸行事は、新型コロナ感染症のため中止となりました。
10世紀初頭の日本最古の「延喜式・神名帳」によれば、平安京遷都以来平安京の4隅と、平安京に通じる主要6街道の国境に10箇所の勅願の厄除祈願祭執行場所が設けられ、平安京への悪霊・怨霊・疫病の侵入を防ぐ祭典が執り行われていた。後に、祠を設けて、常に厄神・疫神から都を守護するようになった。
都周辺の10箇所の1つが995年創建の今宮神社であり、同時期の石清水八幡宮の疫神堂とともに、篠村八幡宮乾疫神社も同時期のものとされる(故上田正昭先生が断言:山陰街道からの悪霊・怨霊の防御拠点)。
由緒書や棟札によれば、延久3年(1071)、後三條天皇の勅願により源頼義公が応神天皇陵を守護する誉田八幡宮(大阪府羽曳野市)から勧請して八幡宮を創建した・・・太古からの信仰の地、乾疫神社の所在地を選択。神社の維持運営に充てるため、延久4年に頼義公は篠村荘を神社に寄進している[寄進状残存]。
元弘3年(1333)4月29日、足利尊氏公が社前に必勝の願文(現存)を奉じて尊王討幕の旗揚げをしたことで知られる。
隠岐島から伯耆の国・船上山に脱出した後醍醐天皇を討伐するために、鎌倉から六波羅探題を経由して山陰方面から、天皇討伐のために派遣された尊氏公であった。山陽道軍とともに山陰道軍指揮者として4月27日に六波羅を発った当日、尊氏公は篠村八幡宮に宿営を張ったまま動かず、29日に後醍醐天皇に与する旗揚げ〔神仏に誓って自分の立場を明らかにし、ご加護を願う行為〕をし、主旨に賛同して馳せ付ける近国の武将の到着を待って、5月7日、六波羅探題を攻め滅ぼした。
5月8日に新田荘で旗揚げした新田義貞は、尊氏公が派遣した200騎に千寿王〔尊氏の長男:2代将軍義詮〕を加えて、5月21日鎌倉幕府を滅亡させた。戦後の論功行賞で、尊氏は第一功労者として最も厚く遇された(“尊治”後醍醐天皇の諱を賜り、高氏から尊氏に改名・・・史上、天皇から諱を賜った唯一の存在)。
その後、王政復古の“建武の中興”の政治が始まったが、現実からかけ離れた公家政治に対して庶民階層や武家が反発を強め、尊氏は彼らの意を受けて後醍醐天皇と対立せざるを得なくなった。
建武2年(1335)“中先代の乱”鎮圧の後、12月に一旦は京都を占拠したものの、翌建武3年1月30日、北畠顕家軍との京都攻防戦に敗れた尊氏は2月1日にかけて当社で敗残兵を纏めて再起朝来を祈願し、神戸から九州へ逃れた。が、僅か1ヶ月で九州を平定の後、早くも4月には上京の途につき、5月25日の湊川の合戦に勝ちを収めて室町幕府の礎を確立した。
信心深かった当時、主立った武将はいずれも故郷の産土神社で旗揚げをしている〔新田義貞=生品神社、楠木正成=建水分神社〕。
尊氏公は、2度の重大な人生の岐路で当社に祈願して願いはいずれも成就した。後、自ら当社に参詣するとともに多くの荘園を寄進している。@京都とは至近(20Km)ながら老の坂峠を隔てた篠村の地政学上の位置、A篠村荘の足利家の荘園としての存在、そしてB直系10代前の先祖が勧請した篠村八幡宮に対して産土神としての特別な感覚があったからこそ、当社を旗揚げの地に選んだと考えられる。
室町時代初期の「太平記」、「難太平記」、「梅松論」他、「満済準后日記」や、当八幡宮を所管した醍醐寺三宝院文書や東寺文書に多数の関係古文書が残存。
室町時代を通じて尊氏公他歴代将軍から度々の寄進を受け、最盛時には社域は隣村の王子村から山本村にまで及び、社殿も30を越えた。また、永享11〔1439〕年6月9日には境内に建造の神宮寺にご本尊が安置された記録も「東寺文書」に残ってっている。
昭和61年3月31日、尊氏公の『願文』と『御判御教書』が亀岡市登録文化財に、また、「旗立楊」、「矢塚」とともに1町余の広さの境内全域が亀岡市の史蹟に指定されました。
平成18年3月17日付けで、『願文』と『御判御教書』が亀岡市登録文化財から京都府登録文化財に格上げされました(自動的に市の指定は抹消)。
江戸時代を通じて亀山藩の直轄神社となり、藩主によって維持・保存されてきた@八幡宮本殿、A拝殿とともに、日本最古の厄神社の一社とされる当社のB乾疫神社の3つの建造物が、平成30年3月23日付で、京都府の暫定登録文化財に指定されました。
一町余の境内社叢林には、亀岡市都市緑花協会が指定した名木が3本あります・・・当初、“亀岡の名木100選”で指定された@「旗立楊」(尊氏公との縁の樹木で、挿し木により世代を継いできた樹:現在の樹木は平成元年度に先代の古木脇に定植したもの)、Aツブラジイの木(樹齢700年とされる)と、追加指定になったBナナミの木(京都府で最大級)です。
平成29年10月22日の台風21号被害(北風)で、倒木直撃により本殿の屋根と瑞垣、拝殿の屋根の一部を損壊しました。戦前まで“明智の杜”と呼ばれていた社叢林の倒木被害は甚大で、杜の高木の1/3を失いました。本殿も、外見上は屋根の僅かな損壊だったものの、“社屋の捩れ”のために外陣門扉の開閉に支障が出る倒壊寸前の深刻な状況であることが判明しました。
文化財の修復には手続きを踏む必要があり、先ずは、即刻の倒木処理と共に社叢林の整理(腐りが入った樹の伐採)、整枝から着手。
遅々として進まない本殿修復手続きの中、平成30年9月4日の台風21号被害(南風)で、社叢林は再度痛めつけられたものの、本殿の倒伏に至らなかったことが何より幸いでした。亀岡市内の多くの社寺も前年並み以上の被害を被りました。
平成31年3月末までに本殿の文化財としての修復を完了しました・・・外観は何一つ変わらないものの、内部補強の程度は想像以上でした。昭和55年に府文化財保護課監修の下本殿社屋の屋根の檜皮葺→銅板葺への改修作業を行った際の地元業者による本殿社屋に対する“ずさんな手抜き工事”跡も判明しました。
京都市内の社寺仏閣専門業者から、倒木等外部からの被災がなければ本殿は「今後100年間」は大丈夫と聞いて安堵しています。
平成16年6月10日撮影
平成12年に、数百年振りとも言える多岐に亘る境内大整備事業を終えました。
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例 大 祭 日 程
月 日:時 刻 |
祭 典 名 |
神 社 |
摘 要 |
1月 1日:10時 |
歳旦祭 |
本 殿 |
3ヶ日は総代が社務所に詰めます。 |
1月19日: 9時 |
厄除祈願祭 |
乾疫神社 |
午後1時を除く毎定時、最終午後5時。 |
8月第3又は第4日曜日:10時 |
祖霊祭・戦没者慰霊祭 |
祖 霊 社 |
安詳小学校での篠町の慰霊祭に統合 |
9月第3日曜日:10時〜夜半 |
放生会 |
本 殿 |
祭典、相撲大会、夜:千灯明、催し物 |
10月25日:10時 |
秋季例大祭 |
本 殿 |
|
令和2年8月15日
2年間2度に亘る台風被害復旧事業は、令和元年4月末まででに完了しました。田舎の神社の護持が如何に大変かを改めて思い知りました。氏子総代会からは500万円、宮司会計からは1,500万円余の資金拠出で何とか凌ぐことが出来ました。
京都府が全国に先駆けて施行した「京都府暫定文化財保護条例」。条例の恩恵を与るための綱渡りの災害復旧工事。公的資金獲得までの煩雑な手続き。金額や時期に見通しのない中、地元の氏子区民に寄付金募財の“趣意書”を作ることも出来ず、全額を氏子総代会と神社で負担する結果となりました。
平成29年10月 22日、亀岡市付近を通過した台風21号の非常に強い北風と、平成30年9月 4日、亀岡市付近を通過した台風21号の非常に強い南風により、多数の樹木が倒木し、建物への二次被害も発生しました。最初の台風被害の復旧工事途中での2度目の台風被害でした。
倒木の処理だけで780万円、建物の復旧は1,200万円の費用を要する被害でした。社務所・東屋・物品庫等は地元工務店に委ねたものの、倒木の直撃によって傾いた本殿の修復工事に関しては、宮大工の(株)奥谷組に修復工事を委ね、平成31年2月7日に竣工しました。
2年連続の倒木被害を経験し、近年顕著な自然災害の激化で将来への不安感が残るものの、被災予防措置を勘案して思い切った境内樹木の整枝・剪定作業を実施したはずです・・・700年以上、自然のままで世代交代を繰り返すのが本来の社叢林と認識しつつ、やむを得ない選択でした。
平成22年10月 22日、第25回『全国足利氏ゆかりの会』総会が亀岡市で開催されます。昼、2時間ほど京都御苑で『時代祭』を見学した後亀岡市内に移動し、ガレリアかめおかで総会、松園荘で懇親会を開催。
翌23日午前9時30分から、本殿前に『全国足利氏ゆかりの会』の一行を迎えて正式参拝の奉告祭を実施します。
『全国足利氏ゆかりの会』は、当初加盟会員・21市町の37団体で“足利氏にゆかりのある市・町ならびに団体等が共に手を携え、足利氏の偉業・遺徳を広く紹介するすることにより、足利氏の顕彰と関係各市・町のイメージアアップに寄与すること”を目的として、昭和61年11月18日に足利尊氏公出生の地とされる綾部市において設立総会が開催されました。
篠村八幡宮も亀岡市・亀岡市商工会議所とともに当初会員として、設立総会の翌日一行を迎え、会の『旗揚げ』を行いました。
平成12年11月10日にも第15回総会が亀岡市で開催されて正式参拝奉告祭を開催していますので、今回が3回目となります。
以下、写真の順に、乾疫神社、稲荷神社、矢塚、旗立楊など、境内建造物や構築物を紹介します。
神社は足利尊氏公以降度々の寄進を得て室町時代には栄華を極め、境内域は王子村・山本村に及び、神宮寺を持ち、境内の社殿も30余を有していました。室町時代末期から江戸時代初期にかけて庇護を失って衰微したものの、江戸時代を通じて、源氏を称した亀山藩主・松平氏の直轄神社でした。
従って、神官の任免も松平氏が行っており、江戸時代以前の神職者氏名は定かではありません。明治以降、専任の神職は、栗山直扶、石野安次、大橋義雄、大橋正夫、そして現職の大橋通夫です。
八幡宮に代々の神職家がなかったために、神社の宝物類が殆ど無いのが残念です。尊氏公寄贈の鎧・兜〔明治初期にメトロポリタン美術館に流出〕、尊氏公寄贈の太刀一腰〔明治29年以後散逸〕、朝廷奉納・松平忠山公寄贈の三十六歌仙絵巻〔いずれも明治29年以後散逸〕・・・現在に伝わっていればと悔やまれます。
鎧兜、太刀一腰、歌仙絵巻の存在を無視し、尊氏公の『願文』以外に何も伝わっていないことを唯一の理由に、昭和30年代に東大史料編纂所の今枝愛真氏が投げかけた願文の真贋論争がありました。当時の神職の無知以外の何物にも因りません。上島有先生等の科学的な論証により現在では尊氏公直筆の本物と証左されています。一度疑念をもたれたものを本物と証明することの困難さを心すべきです。
現存する宝物は、尊氏公の『願文』、『御判御教書』、源頼義公の『寄進状』、室町・戦国期の脇差し3振で、いずれも亀岡市文化資料館に寄託しています。江戸時代初期に松平忠晴公が筆写した尊氏公の『願文』、『御判御教書』も各3巻ある〔明治29年〕はずのものが各1巻しか継承していません。文化財としての価値云々は別として、忠山(忠晴)公寄贈の文箱と共に資料館に寄託すべきものと考えています。
神職であったが故に近年得た、吉川英治氏の手紙その他も資料館に寄託して後世に伝えたく考えています。
乾疫神社:平安遷都以来、山陰道から都に悪疫や災難が入るのを防ぐために山城・丹波の国境でも勅願の祭典が度々執行されていましたが、その場所に、正暦5年(994)頃に神社を設けて常にお祭りをするようになった神社です。
篠村八幡宮の原初の神社で、日本最古の疫神社の1つです(延喜式によれば、平安京の4隅と、山城と他国との主要6街道の国境に計10社ありましたが、3社〔今宮神社、石清水八幡宮と当社〕が現存します)。
御祭神は建速須佐之男神(たけはやすさのおのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ:別名、大国主命)、少彦名神(すくなひこなのかみ)。いずれの神々も、出雲系の神様。が、平成12年の大改修に際して御神靈を仮遷座した処、樟日命(しょうびのみこと:神々の系譜不詳)と伊勢系の伊邪那岐命の神籬が併せ祀られていることが判明した。
明らかに系譜を異にする御祭神であり、過去に八幡宮が隆盛を極め、30余の社殿を備えていた時代に独立社殿に祀られていた神様が、社殿の統廃合により疫神社に併せ祀られるようになったのかも知れない。
明治時代までは、1月19日の例大祭日には、露天商が軒を接して拝殿から大鳥居に至るまで参道沿いに立錐していたとの記録が残っている。
平安京から見て北西方向に位置することから乾疫神社と呼ばれ、昔から例大祭には厄除けや病気平癒、健康、家内安全を願う多数の方々の来訪がある。毎年、この目的だけで東京から来社される方もいます。
1反の紅白反物を9枚に切り分け、奉献者氏名・生年月日を記入して、当社を始め9社の鈴の緒に添える反物は毎年100反を越える。全国の他の神社に例を見ない慣習です。
平成29年10月22日の台風21号被害を受け、瑞垣を改修しました。“府暫定登録文化財”故に、瓦は全て再利用。本来なら白木作りの竣工となる処、鈍色仕上げとしました。
いぬい疫神社例大祭 1月19日
晴雨に関わらず午前9時から午後5時まで(午後1時を除く)毎定時に社前で厄除・家内安全・病気平癒・健康祈願祭を行います。
稲荷神社:年代不詳ですが伏見稲荷大社から勧請された神社です。昭和59年に氏子区民からの寄付を得て建物を改築しました。
篠区は旧農村地帯で、昔から商工業は盛んではありません。京都市と言う大消費地に隣接する地の利を得て、畑作物の生産地です。車が貨物運搬手段として一般化する遙か以前から農産物は京都に運ばれていました。大根・白菜・ネギ・百合根など、日常と共に、漬け物用の『篠のカブラ』は地質と気候に適合した作物として有名です。市販千枚漬けの素材の大半は篠のカブラです。
稲荷信仰は太陽・月・星座の運行に基づいて吉凶を占う陰陽道とも密接に結びついて、元来、農業の守護神として信仰を集めていました。近年の商業との結びつきの深化のために本来の意味が風化した嫌いがあります。農家の守護神としての再認識が為されることを期待します。
祖霊社: 歴代神職の御霊とともに、昭和52年に靖国神社から勧請した、地元から出征の大東亜戦争による55柱の戦没者の英霊を合祀しています。8月の第3又は第4日曜日に慰霊祭を行っていました。現在は、安詳小学校(旧、村立)校庭に設置の忠魂碑で篠町の神職3人で慰霊祭を執り行う形になりました。
太平洋戦争に出征の氏子区民は全て、当時の村社であった八幡宮で出征式を行い、尊氏公の戦勝にあやかるべく、左隣の『矢塚』の倒木椎の木で作った肌身守りを持参しました。出征者数に比して戦没者数は極めて僅かな割合でした。
平成10年前後の台風で名木・椎の木の枯死した太枝(主枝は大木並)が社屋を直撃しました。奇跡的に、3本の枝が社屋を覆う形で落下し、枯れ枝の一部が社屋を僅かに移動させる程度で無傷。強く霊威を感じさせる出来事でした。
祓戸社: 手水舍で身体(手・口)を清めた後、境内他社に参拝する前にこの祓戸社に参拝して心を清めます。
写真奥が手水舍で、水道水を平成初期に元禄時代以来の井戸水に切り替えました。水質検査結果では窒素分が検出されて飲用不適です。水深6m程度の浅井戸で、周辺に水田がありやむを得ないことです。決して生水飲用を勧めませんが、個人的には飲用し続けて何等問題が起こっていません。
写真手前の祓戸社には瀬織津比売神(せおりつひめのかみ)、速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)、速佐須良比売神(はやさすらひめのかみ)が祀られています。全ての神々等の産み親である伊邪那岐大神が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で心身を禊ぎ祓う時に手助けをした神々です。
祓戸社が鎮座する神社は比較的希有です。
小宮社: 疫神社の横に4社があり、向かって右から左にかけて、@秋葉神社・愛宕神社、A住吉神社・春日神社・日吉神社、B皇大神宮・豊受大神、C天満宮が祀られています。明治初期に、近郷で祭祀していた神社を八幡宮にお遷ししたものです。
篠区にはその数を減らしつつはあるものの、現在も昔ながらの講社が多数残っています。伊勢講、愛宕講〔お日待講〕、秋葉講、念仏講・・・・。本殿の前で般若心経を唱える人、本殿・疫神社の周囲を100回巡るお百度参りをする人も多数います。
秋葉神社は、篠区第12組内に祀られていたもので、秋葉講社の集会当日には神社に参拝に来社していました。
矢塚:足利高氏(後の尊氏)公が必勝祈願の願文を奉じた後、玉串に代えて鏑矢を奉納した処、実弟の直義以下、並居る武将達が次々と戦勝祈願を込めて祈願した後高氏に倣って鏑矢を奉奠したため社前には矢が山のように積まれました。
この矢を納めた場所が矢塚で、室町時代初期の歴史書にも由緒が明記されています。
塚の上には亀岡の名木100選に選ばれている向かって右横の椎の木に勝るとも劣らない椎の木が立っていましたが、昭和9年の室戸台風のため倒木しました。地元の出征者は皆、この木で作った肌身守りを持って戦地に赴きました。55名が戦没し、写真右横の祖霊社に英霊として合祀されています。
旗立楊:高氏が八幡宮に到着して兵を留めたのが元弘3年4月27日。社前で神に誓って決意を表明し、旗挙げしたのが29日。京都の六波羅探題攻撃のため八幡宮を発ったのが5月7日です。
社前で決意を明らかにして後、軍勢督促状に従って高氏陣営に駆けつけてくる近郷の武将達に高氏本営の所在を明らかにするため、山陰道に面して聳え立つ楊に『二つ引両』の家紋が入った白旗を掲げました。
この楊が旗立楊です。樹種の寿命は長くても100年程度と言われます。現在の若木も、昭和元年頃挿し木の老木が枯死する以前の平成元年に挿し木し、平成4年に定植したものです。
今は裏街道になっていますが、写真向かって右側の小道が太古から江戸時代中期までの旧山陰街道です。平成10年に6M幅に拡幅してふるさと歴史街道とする計画が浮上し、地元地権者の協力もあって、平成13年5月22日に開通式が行われました。
足利尊氏公や明智光秀公が都制圧の為に往還した旧山陰街道も、神社付近の500m程の区間だけ“ふるさと歴史街道”として6m幅員になっています。
例大祭を除く行事日程
成人の日 午前 9時 左義長祭・・・どんど焼き(午後5時まで)
4月29日 午前10時 足利尊氏公顕彰祭 希しくも尊氏公が『願文』を奉じた日です。 例年、この日に亀岡市氏子総代会が開催されるため、神職が役員の間、暫く休止しています。
6月30日 午後10時頃 大祓祭
12月31日 午後11時半 大祓祭
12月下旬の日曜日には、篠区役員、総代、氏子組長などで注連縄作りをします。また、12月30日には門松づくりをします〔参加自由〕。
その他に、各種例祭・雑祭があります。初宮詣や地鎮祭等各種祭典は全て予約制です。
毎月1日と15日は月次祭で、御神酒の接待があります。
行事等の紹介を下記します。
平成12年9月15日の敬老の日、台風14号の余波のため千灯明は延期せざるを得なくなりましたが、八幡宮で最も賑やかな放生会の例大祭に伴う各種催し物は開催されました。千灯明は、17日の日曜日に点灯しました。17日は全くの無風で、素晴らしい灯明でしたが、衆知が不十分のため参拝者が少なかったことが残念でした。
15日の当日日程は次の通りでした。
8時30分:相撲大会の安全祈願祭
9時00分:相撲大会(@常設土俵上:市子供相撲大会、府高校・社会人相撲大会、奉納相撲:市相撲連盟、同篠支部主催)〜15時
10時00分:放生会祭典
18時00分:歌謡大会、ビンゴゲーム(雨のため@八幡会館内:篠商工繁栄会主催、八幡宮協賛)〜22時
17日の当日日程は次の通りでした。
18時30分:千灯明奉献(境内一帯:氏子総代会、氏子組長会)〜24時《一部の瓦ヶでは午前2時頃まで明かりが灯っていました。》
神社の大鳥居前から参道沿い、社殿の周囲、・・・・。約1,400枚の瓦ヶを台の上に並べ、菜種油を注いで灯芯に点火する様はこの上なく神々しい様です。必見の祭典です。
また、今年度の放生会では生花・立花の献花も計画されています。来年度以降にも継続される恒例の行事になることを願っています。
平成13年6月3日には、第5回ふるさと子ども相撲大会が開催されました。昨年度までは、亀岡青年会議所が主催して実行されていましたが、今年度から亀岡青年会議所と亀岡市相撲連盟が実行委員会を組織して実施しました。小学校4,5,6年生の優勝者は東京で開催される全国大会に出場し、3年生の優勝者は同大会を応援見学します。
午前8時30分から神前で安全祈願祭。9時過ぎから相撲大会が始まりました。出場者は約60名で、女児も数名が加わっていました。
お昼には、青年会議所が準備した“ちゃんこ鍋”を参加者や保護者が賞味していました。
『全国足利氏ゆかりの会』総会出席者一行を迎える境内整備
平成12年11月10日に、『全国足利氏ゆかりの会』第15回総会が亀岡市で開催されることが本決まりとなり、神社では一行を八幡宮にお迎えして恥ずかしくないように、境内の一大整備事業に着手しました。
あれもこれもと計画がどんどん膨らみ、総額で720万円を超える事業計画となってしまい、事業実施途中で寄付金の募財をせざるを得なくなりました。事業実施途中での寄付行為に批判をいただきましたが、4百万円余の寄付をいただきました。
事業では、@排水路改修や裏参道整備、A裏参道鳥居新調、B本殿賽銭箱新調、C総会出席者一行の正式参拝奉告祭用用品補充、D本殿・疫神社前面、拝殿周りの板石敷き、E拝殿改修、F社務所水洗化工事と便所の改造、受付台の改修、G疫神社改修、H本殿幕新調、・・・・・等、13項目以上に亘りました。
総会開催実行委員会〔亀岡市、亀岡市商工会議所、八幡宮で構成〕では、大籏・小籏を作って、駅周辺や八幡宮周辺に建てました。
祭典当日までに全ての準備を終了し、約100名の参列者の中で、祭員3名〔八幡宮宮司、上嶋登村山神社宮司、浅田徹桑田神社宮司〕、出仕7名〔八幡宮氏子総代〕、伶人4名〔いずれも京都市内の宮司〕によって完璧に奉告祭を終了することができました。
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平成15年冬(14年度末)に、本殿〜疫神社間の一等地に位置していた薪置き場を八幡会館北側に移しました。約180万円の費用で、鉄骨造りの4b×8bの小屋を設けました。
5月〜6月には、約160万円の費用で、拝殿〜八幡会館前自動車進入路までの直線区間を石畳化しました。
かつて、薪が積まれ、薪を隠すために簾が掛かっていた地には槙の木を植樹し、一刻も早く背景の目隠しに育つことを願っています。
平成16年6月〜7月には、約600万円の費用で、80b長さの表参道を石畳化しました。自動車進入路、途中の歩行者進入路も石畳化し、大鳥居下の階段も石畳に置き換えました。
更に、大鳥居脇の石灯籠一対の設置場所にも石畳を敷き詰めています。また、自動車が自由に表参道両脇に駐車して鎮守の杜の木々の根を傷めていましたが、参道への進入禁止を告知する車止めも配置しました(直後に2度、車によって倒された過去があります)。
平成17年度工事では、社務所回りの黒色粘板岩の石畳を花崗岩に置き換え、平成18年度には裏参道の石畳化工事・・・資金が続けば是非とも実現したく考えています。
ふるさと歴史街道“古大道”の幅員拡幅工事
【写真左】拡幅前の古大道〔2m幅員で2トン車の通行が限度〕
江戸時代初期の元和年間に旧国道9号線〔現府道・王子〜並河線〕ができるまでは、“古大道”は太古の昔から京都と山陰地方を結ぶ旧山陰街道で、足利尊氏公も明智光秀公も・・・徳川秀忠将軍以前の人々に利用された生活道路であった。
今の神社の裏参道が往時は表参道であり、尊氏公ゆかりの“旗立楊”もこの古大道に面して立っている。
篠村八幡宮の存在故に、ふるさと歴史街道として国の起債事業認定を受けて神社の東を南北に通る市道“古大道”の幅員を6mに拡げることが本決まりになり、平成10年度から用地買収が始まった。
神社の境内地も、契約日を平成10年度末に遡及して、平成11年度に3筆計94.45uが用地収用された〔財産処分に関しては神社本庁の承認を得ている〕。
【写真左】裏参道の北東に取得した駐車場としての代替地
用地収用によって失った土地を代替用地で神社に戻すことが最善の策で、古大道を挟んで境内地の向かいに302uの用地を購入することができました。地目が『田』で、隣接農家の承認印がもらえないため、15年間ほど「仮登記」のままになっていましたが今では本登記を終えています。代替地は、奥行き6〜9m、長さ52mで道路に沿って長細い土地であり、駐車場として最適の土地です。
【写真上】神社境内に沿って拡幅工事
神社用地は、60m以上の長さに亘って細長く収容されました。市指定史跡・“旗立楊”に関しては現状のままで残され、水を好む樹木に水が絶えないよう、水路上流側には通水用の穴を設けてもらいました。
コンクリートミキサー車と道路の関係から、昔の道が如何に狭かったかが伺い知れます。
【写真上】拡幅工事終了後の古大道
道路の拡幅は神社を中心に、上り・下り長さ500m弱の範囲で、府道・王子〜並河線と“異人街道”へ抜けます。上り・下りとも古大道沿いの延伸が待ち望まれます。
拡幅道路は、裏参道の鳥居の上下一部のみ、角石が敷き詰められています。その他の上り・下り全区間、神社側の一部にカラーブロックが敷き詰められて、“歩道”を形成しています。
駐車場用地として当初仮登記の土地【写真4枚目】は、道路拡幅工事期間中に業者が利用し、一部には砕石が敷かれています。当時は農地法に違反する現状でしたが、神社の行為として行ったものではありません。写真の裏参道前から2本目の電柱位置まで(「旗立て楊」前まで)が駐車場用地です。
初宮詣、交通安全祈願祭などの雑祭は全て社務所内の“祭典室”で実施します。祭典室は畳10畳+板敷き2畳+祭壇2畳の部屋で、隣室との境の襖を外せば、畳の間8畳が付け加わります。30名程度の参列者を収容して祭典実施も可能です。
祭典室の祭壇には御霊舍がありますが、神様は常駐していません。祭典の都度、御霊舍内の霊璽にお招きしてから祭典を行い、終了時点で元の御座(みくら)に帰っていただきます。
室内の祭典で、冷暖房が効きます。また、晴雨に関わらず確実に祭典の実施が可能です。
神職は“座礼”によって祭典を進めますが、祈願される方々は“胡床”(椅子)に腰掛け、玉串奉奠は“立礼”で行っていただきます。雑祭の祭典所要時間は30分程度です。
普段のお供えは三宝1台〔@のみ〕ですが、各種祭典実施に際しては、三宝7台〔@洗米・神酒、A海魚、B海草、C野菜、D果物、E乾物、F塩・水〕のお供え物〔神饌〕を捧げます。従って、突然祭典実施を依頼されてもできません。必ず前日までにご予約下さい。
左義長祭・・・とんど焼き
平成17年1月10日
八幡宮の“とんど焼き”は、篠区第2組〔宮前町〕のご奉仕によって執り行われます。
成人の日が1月の第2日曜日になったために神社は大変迷惑を被っています。昔から、左義長祭〔古神札・肌身守りを始め、神事に用いた品々に報謝する祭典〕は1月15日に日を固定して執り行っていました。
左義長祭で古神札等を祓い清め、忌火で焚きあげる“とんど焼き”に近郷の家々から書き初めや、注連飾りなどお正月用品を持ち寄って燃やしていましたが、15日が平日では神社に集うことができなくなってしまいました。
篠区では、11日前後の日曜日に伊勢講の集会を開く集落が多数あり、また、14日にお日待講を開く集落も多数あります。19日が乾疫神社の例大祭に当たっているため、苦渋の選択で、神社では左義長祭を祝日の成人の日に合わせました。
正月の注連飾り等は11日頃まで掲げておくことが一般的ですが、1月8日から14日の間の成人式当日に開催します。
当地では、とんどで焼いた注連飾りの灰、鏡餅、青竹の箸一対を家の出入口の全てに置いて、疫病神の侵入を阻止する習わしがあります。また、とんどで書き初めを空高く焚き上げれば、書道上達・学業成就の御利益があり、とんどにあたることによって心身の罪穢を清める御利益もあります。
平成13年9月15日(敬老の日)午前中は曇天で、恒例の第21回亀岡市子供相撲大会、赤ちゃん相撲が予定通り行われました。朝から出店の露天商もこの数十年で初めての17店の多さでした。が、昼過ぎから雨。しかも、滋賀県北部に大雨洪水警報も出され、甲子園球場の阪神・横浜戦も中断後5回コールドゲームになる強い降雨で、京都府高校相撲大会、京都府社会人相撲大会、奉納相撲も時間を短縮して実施されました。
勿論、晴雨に関わらず、8時45分からの“相撲大会の安全祈願祭・必勝祈願祭”、10時からの“放生会例大祭の祭式”は滞りなく終了しています。
今年は、“西垣生け花教室”が社務所前に生花を献花して祭典に彩りを添えてくれていました(前日の午後から夜にかけて準備、展示は当日午前9時〜午後9時頃)。
午後5時に“千燈明”の点灯決行を判断しますが、4時半頃にやや小降りとなり、5時に決行を判断、通常なら午後6時頃に一斉点灯する処を、天候の不安から、準備ができたところから点灯することとし、6時には点灯を終了しました。
完全無風。途中、油を数回注ぎ足して、9時半頃から再び降り出した雨にも関わらず、11時過ぎまでかつてない完璧な千燈明の奉納となりました。篠商工繁栄会の催し物とも相俟って、また、降雨の中断にも助けられ、近年稀な多数の人出を得て素晴らしい千燈明奉納となりました。
篠商工繁栄会の催しも、3時餅つき会を4時過ぎまで延期した上で実施、雨上がり後は当初予定通り盛会裡に進み、最後のビンゴゲーム終了直後の再降雨でした。
Hachimangu’s God controlled the weather condition for us all !!
【写真上】左から、子供相撲大会の開会式。主催者挨拶に続いて、酒井府議会議員、滝本教育長の祝辞がありました。地区の行事等で、参加小学生が20名ほどになってしまったのは残念でした。
生け花の献花。西垣先生は、篠区民ではありませんが篠区出身で嵯峨御流の生華の先生です。先生と9人のお弟子さん有志の出展でした。残念ながら、宮司は、立派さ・美しさは理解できますが、美的感覚は持ち合わせていません。
寂れていく一方の“地域のお祭り”に対して、篠区からも“地域興し”の“目玉”として八幡宮の祭りに注視してもらっています。取り敢えずは“社殿への参拝云々は関係無し”。地域住人=篠区民の連帯の場としての八幡宮は望むところでもあり、宗教色抜きで篠区民が一堂に会して「Aもある、Bもある、Cもある・・・」で楽しめる場所の提供に努めたく考えています。
【写真左】順に、未だ明るい午後5時半前から点灯された千燈明を、表参道の大鳥居方面から撮影。本殿玉垣脇から八幡会館方面を撮影。午後9時頃、フラッシュで本殿を撮影。・・・・デジタルカメラで「幻想的」な雰囲気を写し出すことが不可能であることを思い知らされました。・・・“技量のみの問題”???昭和59年度以来最上の千燈明であったことは間違いありません。
平成14年6月2日、第6回ふるさと子ども相撲亀岡場所の様子
【写真上】(社)亀岡青年会議所[理事長:鈴木伸也]と亀岡市相撲連盟[会長:石野正作]で構成する亀岡子ども相撲実行委員会[会長:木村保]が主催して、境内の土俵で第6回ふるさと子ども相撲大会が開催されました。
午前8時30分から本殿において安全祈願祭を執り行い、9時から開会式、選手宣誓、試合のルール説明とOBによる試技の後、全員準備体操をして相撲大会が始まりました。
小学校1年生から6年生まで51名の参加で、学年毎に総当たりの試合を展開しました。1,2年生は専ら押し相撲でしたが、3年生以上になると次々と『技』が決まっていました。
学年別総当たり戦、学校別戦が終了したところでちゃんこ鍋(鍋の運搬に2トンダンプカーを使用)を食べて昼休みを取り、午後1時から再び学年別上位者同士の試合で優勝決定戦を行いました。終了は3時前でした。4,5,6年生の優勝者は東京国技館で開催の全国大会に出場します(4年生は試合がないため見学のみ)。
東京国技館で開催の全国大会に京都市内と亀岡市内の優勝者各3名が同格で参加していることに“横槍”が入り、平成20年代後半にふるさと子ども相撲亀岡場所は廃止となりました。・・・京都市内150万市民、府下110万人府民の代表として継続出来なかったのが残念です。
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