京都の老舗の数珠屋さん 中野伊助


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2015.01.18 サイトをリニューアルいたしました

 ISUKEの原点

 当店の所在地、京極町(寺町通松原上ル)は、平安京の五条大路東京極大路にあたります。
平安時代末には歌人・藤原俊成(高名な元公家 冷泉家の祖先にあたる「新古今和歌集」や「小倉百人一首」の選者で、この歌集で歌われている「来ぬ人を 松帆の浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ」の作者で著名な藤原定家の父君である。)の邸宅がありました。
「平家物語」や謡曲「俊成忠度」には平家が都落ちするとき、引き返して来た平忠度が俊成の家を訪ね、自作の歌「楽浪や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」を託し、俊成はこの歌を詠み人知らずとして「千載和歌集」に入集したことが語られています。

この京極町に当店が数珠屋を営みましたのが、明和元年(1764)
。 仏教が日本に伝来して以来、法具である珠数は専門職として寺院の中だけでその技法が受け継がれていたため、珠数屋が職業として成立したのは当店が創業を始めた18世紀のことでした。各宗派の大本山が集まる京都に寺院から独立した珠数屋が誕生したのは、当然の成り行きと言えましょう。
珠数は素材から形式・製造法に至るまで、経典に詳しく定められている法具です。現存する珠数の中では東大寺の正倉院に収められているものが一番古く、その形態は変わる事なく受け継がれ、機械が発達した現代でもすべて手作業で作られます。

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 中野家系譜

近江国伊佐郡井伊谷に下向し近江国司となった従三位備中守藤原共資が姓を井伊と改めた。
その子、備中大夫共保より12代目の直氏の弟井伊井三郎直房が隣国の三河国幡豆群磯伯群中野邑に移住し、姓を中野に改め中野直房としたのが中野家の元祖で約500年前(天文11年)(1543)である。今の愛知県幡豆群吉良町中野・名鉄上横須賀駅・南東方向にある。

井伊分家中野直房
2代目中野新左衛門重直
3代目七蔵重吉
4代目吉兵衛重弘
5代目傅右衛弘吉
6代目小三郎(彦根に移住、寛文元年没)

1665(寛文5年) 7代目左兵衛、彦根より京の高倉姉小路下がるに移住。
         名を伊助と改め井伊家御用達となる。屋号を近江屋伊助とする。
         元禄3年10月没。
1732(享保17年)8代目没
1744(延享元年)9代目、寺町松原上がる(現在地)に移住
1764(明和元年)珠数屋操業
1812(文化8年)9代目(珠数屋初代)没
         ↓
1994(平成6年)中野家16代目(京10代目伊助)現在に至る

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