お土居 (お土居堀)
お土居は天正十九年(1591)天下統一を、なしとげた豊臣秀吉によって都、京都を囲むように作られた城壁である、その長さは約22.5Kmにもなる、この城壁は土を固めて作った土塁つまりこれをお土居と呼んでいる。外側には堀が巡らされていて、お土居と堀はセットであった、とされており古い資料には「土居堀」と出てくるようである。
この「お土居堀」は、土塁(お土居)の幅が20mのところでは、堀の幅も20mもあったとのことで、かなりの規模である、後の発掘調査でも確認されている。また、お土居の高さは5mほどの高さがあったとされている。お土居には竹が植えられていたとのことである。
お土居は堀を掘った土を盛り上げて作った土塁ではないと記されているが先にも記したがお土居に竹が植えられていた事や堀の規模との関係でお土居基底部あたりまでは可能であるがそれ以上の積み上げは他から良質の土を盛ってお土居が出来ている。竹が育つためには良質の土でないと育たないとのことである。
参考文献 京都新聞文化欄に掲載されていた「お土居堀ものがたり」より(2001年6月〜)
注: 北野中学校のお土居は史跡未指定です。 又、学校施設のため一般公開はしておりま
せん、見学ご希望の場合は京都市教育委員会又は北野中学校へお尋ね下さい。
次の写真を見て頂きたいのですがこの写真は大正7年頃の写真で西側のお土居を崩し京二商のグランド整地をしたところの写真である。(第二商業学校90周年史より)
写真は上の写真と同じような角度で撮られている。
第二商業学校90周年史にはこの写真に初代校長先生(初代校長 大沢 渚先生)の回願録が載せてあるが、回願録は次のように掲載されている。
この回願録からも「お土居」の姿が想像して頂けると思いますが、先の資料の通りで、竹やぶで有ったことや、西側のお土居を崩し畑だった所を埋め立てた、これも上質だった土質が幸いしているように思われる。しかし、これまででは堀の存在がよくわかりません。堀に関することも以下に示したいと思います。
右の図面は京二商の新校舎の平面図である。
お土居の北側にプールが作られている。
このプールの水は堀であった当時より湧き水が有ったらしくその湧き水を利用して作られたプールで有ると聞いている。従ってプールというより底の方は池のようだったとの思い出を記念誌に残しておられる方もありました。
また、西側はどのようであったのでしょうか、現在西側には佐井通りが有るが、以前は川が流れていて佐井川と呼んでいたようである。また、現在の地上面よりまだ2m位下に有ったとのことで川の土手添いとなる天神御旅所の正面参道を少し下がったお家には土手の川側へ張り出して家を建てる形となるので土手の落差の部分が現在地下室となって残っている事で確認できる。
次の下の写真は右図の小プールの写真であるがプールの位置に注目して頂きたいのです。プール左側つまり北側に道路がわかるが道路面よりプールサイドまでが約3m位下にありそこからプールを掘り下げて作られているつまりは堀の位置まで下げることでプールの水を湧き水でまかなっていたことを物語っているのである。また、お土居側は、お土居を利用した観覧席としている。(尚、大プールは府内初の長水路公認プールとした作られている。大正15年8月完成写真は、京二商ページに掲載)
大正6年 初代校長大沢 渚先生は、校舎移転予定地の西ノ京中保町の現場に立った。
「初めて敷地を見たときには驚いた。全くのヤブで北と西はお土居で囲まれ、荒畑と野生の竹やぶの中にはところどころに古い石塔が転がっていた。このごとき土地がどうなるのかと落胆したが、一番邪魔になると思った御土居が一番役に立ち、これを崩して三尺有余も地揚げせしため現在のごとき立派な敷地になったのである。今運動場に残っている両大樹は、畑を区画する堤防の上にあったので、その根元まで埋め立てられたのである」
現在小プールの位置は左の写真の通りテニスコートとなっている又、手前はお土居の観覧席の跡です。
北野中学校
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堀に関する資料なお調査中です今後もう少しUP予定あり。