「2001年、京都は歴史を有する世界の都市の中で、最初に新しい世紀を迎える都市である。
京都は、歴史と伝統の礎のもと、先人たちのたゆみない努力により、常に時代に先駆け新しいものを創造し続け、幾多の苦難を乗り越えて千年を超える時を刻み続けてきたまちである。新しい千年紀の始まりに位置する21世紀の幕開けを迎えるに当たり、この千年を振り返りつつ、全世界に向け21世紀へのメッセージを発信するには、1200有余年の歴史を有するとともに、今日においてもなお活き活きと息づく都市・京都がその役割を担っていかなければならない。
20世紀は、科学技術が花を咲かせたサイエンスの時代であり、物質文明が驚異的な発展を遂げ、モノの豊かさを享受できた時代であったが、その反面、二度の世界大戦をはじめとする数々の世界紛争や、人間疎外から環境破壊に至るまで、克服すべき様々な課題を突き付けられた時代でもあった。 新しい世紀を示すキーワードは、「環境」、「平和」、「人権」であり、まさに共に生きる「心の豊かさ」が求められている。来るべき21世紀は、これまで、ともすればないがしろにされてきた心の気高さや精神の尊さを再構築し、人類がその生来有する良心や人間性を豊かに開花させる時代でありたいと願う。 私たちは、新世紀を迎える節目の時を契機として、多くの市民の創意と英知、そして行動力を結集し、人類の平和と繁栄を希求する21世紀新時代のメッセージを、「日本の心のふるさと京都」から発信する。」として21世紀京都の進むべき方向を指し示しつつ、過ぎゆく2000年の12月31日から新世紀幕開けの1月1日にかけて、大文字五山の送り火をメイン行事に火の祭典「21世紀の火」など数々の記念行事を実施するため、市民と共に今、その準備を進めています。
世紀が変わるといっても、単なる時間の経過に過ぎないと冷めた見方をする人もいますが、私はそうではないと思っています。
人間の内なる深層意識の集積が大きな流れとなって、社会を変化させるエネルギーに転化していった過去の事例を多く知っているからであります。京都市民がこの記念行事の中から考え、改めて学び、感じるものがあれば、21世紀の京都にとってそれは大きな収穫といえます。
20世紀はどのような時代であったかという総括、その上に立って21世紀のあるべき都市像の設計、21世紀における市民社会、市民生活の方向性、在り方について、ちょうど二つの世紀にまたがる節目に市政を担当する桝本市長の基本的な理念をまず改めてお示しいただきたいとここで決めたいところでありますが、市長の抱いておられる理想、選択、希望だけをお聞きするだけの場ではないとも考えています。 「新基本計画」づくりのための壮大な「21世紀・京都グランドビジョン」策定から具体的な実現に向けては、かつてのベルリンの壁、鉄のカーテン、38度線と同じように立ちはだかる現実の分厚い壁をクリアしながら進んでいかなければならないからであり、私は、それらのことを踏まえて、
数点について質問致します。
まず、21世紀の自治体運営の基本である地方分権についてであります。
間もなく12年になりますが、私が市議会に議席を得たときの市長は、古都税紛争の渦中に巻き込まれ退任された方でしたが、その後すぐ医師出身の市長が就任されるという時期でした。
前の市長には、アカウンタビリティ、「説明責任」とディスクロージャー、「情報の開示」を、その後のドクター市長には、ちょうど今、相次ぐ医療事故、医局の閉鎖的体質について国民の非難が噴出し、医療の情報開示、閉鎖的体質改善が求められていますが、医療界でいうインフォームド・コンセント、「説明と同意」、更に「医師と患者の関係と同様に行政と市民の対等の関係」がこれからの行政には基本的に不可欠であると機会あるごとに申し上げていました。
住民が一番身近な自治体に日常の生活上の要望、要求を出すのが当たり前であるにもかかわらず、それが満たされないことに対する不満が蓄積し、自治体行政に対する不信が醸成されていく。
逆に中央メニューを補助金で誘導する、行政で決まった計画が、地域に下ろされてきて、通知説明だけの場が設けられ、住民の反対運動、告発型の市民運動が巻き起こる。計画変更のできない段階で職員は住民説得のために多大のエネルギーを費消し、消耗するというパターンが繰り返されてきたのであります。
いわゆる上下の関係である「措置」という制度が基本形になっているのであります。住民が住み、暮らし、憩うまちづくりの政策決定過程、意思決定段階での市民参画、提案型市民運動が不可欠であるにもかかわらず、形式的にはともかく、あるいは京都市のように可能な限り努力を傾注しているとしても、実質的には三割自治の実態が、中央集権システムの実態が明らかにされない中で、自治体行政に対する市民の不満、不信を生み職員のモラールの喪失につながっているということを議会人となって何よりも強く感じたからであります。
しかし自治体の首長として、そのことを頭の中で理解していても冒頭に申し上げましたように「現実の分厚い壁」をクリアすることができない、あるいは国依存型の行財政システムの囲いの中で、安住する方向を選択する多くの首長、自治体行政マンの存在もまた現実の状況であります。
各局ごとの通年の東京詣での迂回路に費やす膨大なエネルギーの総量を地方自治の政策づくりの直線回路に向け、転換、集中することにより、職員のやる気、仕事への仕甲斐、意欲が起こり、結果的に士気も向上、自由で新しい発想、創造力が生かされる市民の、市民による、市民のための本来の地方自治体行政、市役所になることができるのであります。 7年前、私は、地方分権をメインテーマに本会議で初めてこの基本的な問題を取り上げ、代表質問に立ちました。
藩閥体制の古典的地方自治体体制から明治政府の脱亜入欧、富国強兵政策の必要性から廃藩置県による中央集権化、第二次世界大戦敗戦、そして地方自治法の制定も空文化させる新中央集権体制への新たなる構築により、税財源、許認可権等の権限の中央集中が、夏の「予算獲得大会」から翌2月段階の「箇所付け」の時期までの自治体、業界の陳情スタイルを生み出してきたのであります。まさに蝟集という言葉どおりであり、私も何回か東京に参りましたが、あの陳情光景はとても近代国家とはいえないし、その渦中から発生する汚職メカニズムは後を絶たず、その当時の事件だけでも、造船疑獄、武鉄疑獄、大阪タクシー汚職、日通事件、ロッキード事件、砂利船汚職事件、佐川事件などその質問の中でも挙げていますが、状況は今と少しも変わっていないのはご案内のとおりであります。
私の代表質問の後、理事者の答弁から地元紙のコラム欄に「地方分権の質疑があったが、地方分権はまだ遠い。」と書かれていました。しかし次第に変化してきたのは、「これはおかしい」とする国民意識、市民意識であります。
そしてその市会で「明治以来の中央集権的行政システムは、不公正、非効率、腐敗政治の根源となっている。国は国の根幹に関する行政のみを担当し、住民の生活や地域に関することについては、住民の個性や地域の主体性が生かされる分権的な行財政システムに転換することが不可欠」とする「地方分権推進に関する法律の制定を求める意見書」が、地方分権を前面に出した意見書を採択している議会は少ないとされる中で、京都市の本会議場で採択されたのであります。
そして翌年、この地方自治の最も基本的な問題の少しづつの状況の変化、少しづつの進展の方向を自治体議会の立場から追いながら、私はこの議場から地方分権について再度発言を続けました。
こうした地方分権行財政改革を求める国民世論を背景に、93年第三次行革審の最終答申が出され、地方分権推進のための法律の制定が提唱され、衆参両院で「地方分権の推進に関する決議」が採択、95年地方分権推進法が成立、その法律に基づいて地方分権推進委員会が発足、翌96年に第一次勧告、97年に第二次、第三次、第四次勧告、98年に第五次勧告、そして昨年99年7月、「地方分権の推進を図るための関係法律の整備に関する法律」いわゆる「地方分権一括法」、「地方分権整備法」が成立し、本年4月施行となったのであります。
地方分権が推進委員会で議論され、市民の関心が高まってきた頃、京都市主催の「地方分権・シンポジウム」がアバンティホールで開催され、評論家の樋口恵子さんがゲストスピーカーで参加し、議論が展開されました。このシンポで一番印象に残った発言は、先の市長選挙が最終に近づいた時、急逝された女性団体のリーダーのTさんが「これからは国からお金を取ってくるという国会議員には投票しないことです。」と言われた言葉でした。 しかし、「平成13年度国家予算に関する要望書」の「146万人の市民の暮らしが息づく都市として発展していくためには、国の御理解と御協力なくしては解決できない課題が数多くございます。
つきましては、本市の実情を御賢察いただき、平成13年度の予算編成に当たりまして、なお一層の御配慮を賜りますようお願い申し上げます。
また前文に、重点要望事項として、保健・福祉、教育、環境、人権、生活、道路・交通、基盤整備、住環境、産業・観光、文化など市政全般にわたる数十項目を国にお願いする内容であります。
同じく、12の指定都市共同の「国家予算に関する要望書」に、「地方分権一括法」が施行され、地方分権の推進が実行の段階を迎えた。」と言いながら、「是非とも、国のご理解とご協力を得なければ解決できない。」としているのであります。
多言を要しません。全く例年どおりのこの要望書がいみじくも我が国における「地方分権」の在り姿をそのまま示しているのであります。
10日前、民主党は高知県の橋本大二郎知事と宮城県の浅野史郎知事を招いて「分権社会を目指して、いま、何をすべきか」と題したパネル・ディスカッションを開催しましたが、7月18日の全国知事会の様子を報じた新聞の囲み記事に「補助金をくださいとお願いしてばかりでいいのか。」。64頁の来年度政府予算への要望書の中に補助金増額の「お願い」が数行をおかずにでてくる。このことに苛立ちを覚えている知事さんたちの発言を伝えていました。市税の減収、税の公平性の観点から地方税の徴収率アップの努力は必要でありますが、同じ観点から中央に対しても毅然とした姿勢が求められているのではないでしょうか。
昨年9月1日付けの市民しんぶんには、見出しに「地方分権が大きく前進」、中味には「現段階では、政令指定都市への更なる事務や税財源の移管等、課題が残されていますが」と書いていますが、自治体財政の破滅の危機の原因がどこにあるのか、自治体サイドとしては、この中味部分こそ地方分権の核心であり強調すべきであるのに、「大きく前進」という見出しを書く認識度に疑問を持たざるを得ないのであります。
去る7月31日、京都市は平成11年度の一般会計決算の概況と平成12年度予算の概要から分析した「京都市財政のあらまし」を発表しました。
決算概況によりますと、総括で、平成11年度決算は、市税収入が2年続けて前年度を下回るなど、極めて厳しい経済情勢と財政状況の中で、基金の取崩しによる財源対策や経費の節減に努めたものの、実質収支で約4億円の赤字となり、昭和57年度以来17年ぶりの赤字決算となる見込みであると述べ、「今後の財政見通し」では、脆弱な財政基盤に立つ本市財政は、歳入の根幹を成す市税収入に伸びを期待できず、一方、歳出面で、少子・高齢社会への対応をはじめとした行政需要や累増する公債費負担などに多額の財政需要があることから、恒常的な財源不足状態にあることに加えて、財源不足対策として活用できる基金の残高が底を尽くなど、今後も一段と厳しさを増す状況にある。
このため、「京都新世紀に向けた市政改革行動計画」の取組に続いて、新たな行財政改革に更に積極的に取り組むとともに、国に対する要望活動の強化、京都経済の活性化による財政基盤整備の強化に努めることが必要であるとしています。
財政基盤の確立のために、行財政改革の一層の推進と国への要望強化、京都経済の活性化を挙げていますが、後の2点は京都市の主体的、自主的な意志だけで事態を処理することができない問題であり、残るのは行財政改革だけであります。行財政改革とは歳出の抑制だけでないことはいうまでもありません。
そして、ここに記述されているのは、京都市財政の現況はこんなに厳しいのであります、今後5年間、毎年375億円から540億円の財源不足が生じます、という結果だけであります。
今年の流行語大賞に「結果として」という言葉が有力だと噂されています。
結果として、このような状態になったのは事実でありますが、結果が生まれるのには必ず原因があるはずであります。その原因が明らかにされなければなりません。これが因果関係といわれるものであります。
私が議員になったのが、先ほど申し上げましたが、12年前であります。在職期間がちょうどバブル経済の絶頂期、崩壊、そして現在まで続く不況、不景気の「失われた10年」の期間であったわけであります。
10年前の90年6月の本会議でバブル経済について取り上げました。その質問要旨の一部だけを当時の状況を振り返るために抜すいします。
「最も大きな要因は、金融政策の総元締である日本銀行が異例の自己批判をし、既に世論から厳しく指摘されていますように、やはり金融機関や生保、ノンバンク系などの余剰資金力の動員による土地投機に対する融資、特に企業に対する巨額の融資であります。
近年の地価上昇に合わせて、これらの貸付残高が増えている事実から、相関関係は明らかであり、その額は、銀行の不動産向け融資残高が45兆円に達していること、ノンバンクを含めると、まさに90兆円に上り、生保関係を含めると更に巨額になるのであります。
我が国の企業は、今あらゆる手段を駆使して空前の利益を上げています。資本金10億円以上の大企業3,220社の内部留保額は、74兆1,516億円にも達しています。そして更に内需を拡大するためであった大幅な金融緩和政策を利用して、その融資で土地を買いあさり、更にその土地を担保に膨大な資金を調達して、別の国内の土地を求め、地価を高め、結果的には保有地の資産価値をアップさせる。あるいは海外の土地を買い占めるという図式を繰り返しているのであります。そして今や企業の地価高騰等によるその含み益は、70年に比べて12倍の434兆円に達しています。
ちなみに国土利用計画法の土地利用勧告制度では、取得後2年以上放置している土地を低未利用地としていますが、国土庁の資料によると、企業の持つ事業用の未利用地の78パーセントは、具体的な利用計画がなく、土地を購入しても当初から利用する意思のなかった企業が、50パーセントもあったということであり、全く含み益狙いの土地購入であるわけです。」
これが10年前の質問内容の一部であります。不況、不景気は自然現象ではありません。
そのバブル発生の土壌を造ったのが、85年のプラザ合意、内需拡大政策、日銀の金融緩和策、そして銀行、証券会社の不動産担保への超過剰融資であり、無茶苦茶な土地価格の上昇、地上げ屋の跳りょうが、まち並みと地域共同体、人心、社会の荒廃状況を作り上げたのであります。まさに社会的狂気の時期であったのです。
そして当然の結果として、バブルがはじけ、今、銀行と大企業の膨大な不良債権の残滓が発生源の動かぬ証拠となっているのであります。そのことがまた長すぎる「失われた10年」と言われる日本経済の今日の状況の原因となっているのであります。
不況克服、景気回復があたかも至上命令となり、その原因と政策責任問題が先送りの中で究明されることもなく、60兆円余の金が日本発経済恐慌を防止するため、預金者保護の大義名分で次から次へと公的資金が投入されているのであります。
我が国の金融機関に支配を強めている外資によって大企業が倒産に追い込まれていますし、ゼネコン、流通グループに対する借金棒引きも横行しているのであります。バブル劇主役の金融機関は、公的資金の投入を受け、不況の中で苦しむかつてのお得意先の中小企業を見捨て、融資の回収、貸し渋りで倒産、破産に追いやっています。
7月の京都の企業倒産件数、負債総額は過去最高となっています。倒産、失業率は一向に改善されず、倒産、リストラによる中高年者の自殺の急増、過労による死亡、ストレス病、ホームレスの増加、家庭崩壊が深刻化しています。
その銀行は、片方で年金生活者など預金者への超低金利政策で30兆円の利ざやを稼ぎ、更に貸付金利の高い商工ローンには多額の融資をし、その利ざやを不良債権処理の原資に当てているのであります。また、金融機関による貸し渋り対策の信用保証協会の債務保証残高が急増。代位弁済額も過去最高を記録し、高い事故率が保険賠償超の自治体負担、補助金が自治体の財政を圧迫する要因となることが懸念されています。しかもその融資額の中から銀行は、自行の貸付金を優先的に回収するというベニスの商人顔負けの行為すら行っているのであります。
その結果、国と地方の借金は645兆円といわれていましたが、「隠れ借金8兆円」を含め、平成12年3月末の国の借金は55兆円増と膨らみ続けています。地方財政も同様であります。市債残高は11年度末で9,141億円に、本年度末には1兆380億円に達する見込みであります。
これはG7の国及び地方の財政収支を表したグラフであります。
先ほど、「因果関係」と表現しましたが、「因果応報」が今日の状況であり、日本の公的債務は、90年の国内総生産比60パーセントから120パーセントまで上昇してしまっているのであります。GDPが500兆円、仮に成長率2パーセントを達成したとしても、GDPの年間増加額は、10兆円に過ぎないのであります。
京都市財政の厳しい現況が、不況、不景気、減税による法人市民税の落ち込みによるとするだけの結果説明でいいのか、市の税収回復の最も重要なファクターである個人消費が伸びない理由は。市債残高が過去最高に膨れ上がった理由は何か。政府の景気浮揚策による公共事業の自治体負担増の内容は。いわゆる「財政錯覚」で事業を膨らましてこなかったか。交付税措置の見通しは。
政府は、2000年度予算の公共事業等予備費5,000億円の早期執行のため、地方負担分を9月議会に補正予算に計上するよう求めています。この負担分をどうするのか。お答えをいただきたい。
また、いま市会に提案審議されています上下水道事業の料金、使用料アップ問題につきましても同じであります。市民生活の健康、衛生上不可欠の上下水道をいかに維持、保持していくのか。現在の不況下の市民生活を守るために、料金、使用料をいかに抑えるかでありますが、結果的には現行制度の下では、一定の決められた条件の中でしか議論でき得ないのであります。赤字の先送りか、一般財源からの税投入か、受益者負担か、人件費圧縮を中心とした企業内努力か、その負担割合、調整の議論、三方一両損、正確には三方一両負担の議論になっていかざるを得ないのであります。これが地方自治体の現状、置かれている実態なのであります。
●次に地方分権に関連する点を一点、
財政に関連する点を一点質問します。
昨年8月、国旗国歌法が成立し、戦後半世紀にわたる論争に法的な面での決着がつきましたが、「人、一人ひとりの内心の領域を侵さない」ことは当然であります。
きょう、私が地方分権に関連するこのことを申し上げたいのは、学校には校歌があり、校旗がありますし、全国都道府県、市町村にもそれぞれ自治体の歌と旗があります。企業にも社歌や社旗があります。我が京都市にも市歌があり、市旗があります。
もっとも私個人としてはある人が言っているように、ヒット曲のテネシーワルツを州の歌にしているテネシー州、国歌二大名曲といわれているアメリカの「星条旗」、映画「カサブランカ」で観客を感動させたフランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」の酒場でのレジスタンスの合唱シーン、サッカーのワールドカップ優勝でシャンゼリゼ大通りで歓喜した数十万人の市民が歌う国歌、酒場で、ビヤホールで、街頭で国民が、市民が、腕を組んで合唱できるような歌ならと思うのでありますが、威儀を正して整列し、整然とした場所で深刻な顔つきでしか歌えないということに国民の、市民の歌になりきれない問題があるのではないかと思っていますし、若い世代もなじめないのではないかと思われるのです。
話を元に戻しますが、歌や旗の他にもその地方、自治体ごとに特色を表し、住民に愛されている樹木や花、鳥、シンボルなどが決められています。 地方で国際会議や国家行事、セレモニーが開催される時、あるいは国の出先機関の行事の時は、国旗が掲出されていいのですが、自治体が主催する諸行事の場合は自治体の旗が中心になるべきだと考えます。
議会も行政側も、欧米の各都市を毎年訪問していますが、どの都市の市庁舎、議事堂も市旗の掲出が普通なのであります。(パネル)
これは、姉妹都市イタリアのフィレンツェ市議会の本会議場を訪ねた時の写真であります。
これは、姉妹都市チェコのプラハ市のマンホールに施されていたプラハ市の紋章であります。自治体の旗が、自治体の、そして住民の本当のシンボルであり、誇りなのであります。これが、地方自治の本来あるべき姿勢なのであります。この際、地方自治体としての見解を求めておきたいと思います。
次に京都市財政の現状との関連で一点質問しておきます。
「京都市庁舎の建て替え問題」についてであります。この問題につきましても、9年前に本会議質問をしていますが、現庁舎は大正14年に起工、坪数3千坪、工費124万1千円、昭和2年竣工、当時の組織は、総務、教育、産業、保健、水道の5部制から、暫くして、2局5部25課制となり、職員数は870余名、現在の9局38室・部102課と比較すれば状況は歴然であります。
平成2年度から「市庁舎整備基金」の積立を始めましたが、現在置かれている条件の中で、抜本的な対策を講じるのは極めて困難であり、むしろ他都市から見て建設が遅れ、アンカーになっていることを幸いにして21世紀の国際化、情報化、経済のソフト化、サービス化などの高次の都市機能に対処でき得る他都市庁舎より優れた庁舎を目指すべきだと提言し、それまでの間、現庁舎の改善策について数項目の提言をしました。国際文化観光都市として外国からの訪問者のための玄関の英語版庁舎案内板の設置、バリアフリーのための可能な限りの施設の改善点について、市役所前ひろばを駐車場から市民の自由ひろばに開放することなどであります。
しかし、その後、モニター調査、検討委員会の設置、有識者による新庁舎整備懇談会の提言を受けて、庁内に新庁舎建設基本構想策定委員会、市会にも防災・市庁舎建設特別委員会を設けるなど10年の時間をかけて建設目指しての議論、検討を続けてきました。
ところが、この7月に突然「先送り」、「凍結」を市会特別委員会に提案してきました。
率直に言って私自身も、新しい時代における新市庁舎の建設問題は、建設場所等の問題だけでなく、来年1月の中央省庁の再編問題と地方自治体の組織編成の関連、縦割り組織の部課制からフラット・ネットワーク型の組織形態への変革の必要性、地方分権の本格的な確立時の自治体の組織編成、区役所機能の強化、拡充。サテライト方式の可能性、IT革命によって確実に変化が予見できる職員の職位、職階制と代議制度。デジタルガバメント時代の事務事業の見直し、デジタル経済の拡大の中での公共サービスの分担議論、PFI、アウトソーシング導入の是非等々について、9年前は他都市のアンカーとなったことを幸いにとしていましたが、今は「一周遅れのトップランナー」として、近未来の自治体事務の変化を予測し、全方位の議論に費やす時間として遅れたことを活かす方が良いと考えています。
この点についてと7月3日の突然の先送りの発表についてであります。
市財政の厳しい状況は、今年になって「予期せざることが発生」して厳しくなったわけでないことは、先ほど市の財政状況の質問の中で述べましたが、市庁舎建設の所管局は主要管理3部局のひとつである総務局であります。
今日に至るまで市の財政状況を把握せずに、その関連性を考慮せずにまさに「砂上の楼閣」議論を進めてきたのは、部局間の情報伝達、調整機能、庁内体制、機械的画一的な人事異動制度の弊害部分などに問題があるのではないかと危惧するのでありますが、お答えいただきたい。
次の質問に入ります。
連日、マスコミに報道されない日がないくらい取り上げられ、今や「DV」というだけでほとんどの人が理解されるようになってきましたのが、この「ドメスティック・バイオレンス」問題であります。
95年、私が初めて本会議質問で「DV」に関する質問をした当時から見れば市民の関心度はかなり高くなっていることを感じます。
パートナーからの暴力に怯え、悲鳴を上げ、SOSを発している女性に対する各国の取組、欧米あるいは近くの韓国での積極的、具体的な対応策について例示し、自治体としても啓発活動はもちろんのこと、シェルター設置などの対策に取り組む必要があるのではないかと質問しました。しかし、当時はまだ行政側の認識も低く、売春防止法第34条「売春を行うおそれのある女子」の保護施設として設置された府の女性相談所などと連携を取り対処するという程度のものでした。
そして、更に3年後の98年にも本会議でこの問題を取り上げました。
「家庭内の問題」とされていたDV問題が、今日では「社会的問題」として早急な対応策を求める内外の世論の高まりの中で、男女共同参画2000年プラン、厚生白書の記述、東京都のDV調査、札幌市、神戸、伊丹市などの実態調査等進む各地での取組状況を紹介しながら、この問題への認識を深め、京都市の前向きな取組姿勢の必要性を強調しました。
現在、世界の多くの国でDV禁止法が成立しています。我が国の20年遅れが指摘されています。京都市も本年3月に「女性への暴力に関する市民意識調査」を実施し、その結果を発表しました。市内に住む女性の3割、推定ですが十数万人の女性が被害を受け、身体的な暴力だけでなく、性的暴力、精神的暴力、経済的暴力など心身に及ぶ深刻な被害の実態が明らかにされました。これは6月の「国連特別総会女性2千年会議」に提出された「女性と少女に対する家庭内暴力」の状況をまとめた中間報告をはじめ、内外の調査による被害実態と同内容の調査結果であります。
京都市における実態が明らかにされたのであります。求められている対策も明確に示されています。総理府の「男女共同参画審議会」の答申、法務省の「人権擁護推進審議会」の中間答申も法の制定を求める内容であり、国会でも議員立法目指して超党派の作業部会で法案づくりの作業が進められています。類似の「児童虐待防止法」と「ストーカー規制法」も11月に施行されます。
こうした状況の進展と背景に京都市も「男女共同参画社会の実現に向けて『第二次京都市女性行動計画』を策定し、女性に対するあらゆる形態の暴力への対策強化を重点推進事業の一つとして位置付け、取組を進めている。」、「この調査結果を踏まえて、被害者支援策の検討や広報啓発の充実など女性に対する暴力を許さない社会づくりに取り組む。」としていますが、私の過去二回の質問、今年の5月市会の公明党議員の質問に対する答弁でも感じ取れるのは、実際には広報啓発の部分だけであって、暴力への対策強化、被害者支援策の具体的な取組内容については検討が進められているようには思われないのであります。
幾つかの自治体では条例化などを含めて具体的な対応策に踏み込んでいるところがあります。
広域措置、生活支援措置、中間施設ステップハウスの開設、民間シェルターへの援助策、シェルターボランティアの育成など当面の取組について法律が制定されなければ、あるいは国の動向が明らかにならなければ自治体として対策が取れないのか。あるいは既に京都市は先述の内容のとおり「前向きに検討を進めている」ということであればその検討内容をご説明いただきたい。
これからは「ハコモノ」を誇示するような「市場経済第一主義」、「物質主義」、「商業主義」から脱した「心と命の輝きを大切にする」、「人間生活の内面的な質を高める」社会政策的な施策の競争が、その都市の新しい価値、魅力として評価され、格付けの基準になっていくことを考えていかなければならない時代なのであります。
国連の「人間の安全保障」の概念、人間の生存、生活、尊厳に対する脅威への取組強化の方向や京都市が昨年4月に施行した「市民生活安全条例」に基づく「生活安全基本計画」策定の精神にも通ずるものであります。
DV問題に熱心に取り組む自治体の考えもそこにあることを付け加えておきたいと思います。
次に、かって京都の中心的な産業であった和装産業について
感ずるところを述べてみたいと思います。
応仁の乱で焦土と化した京の都を再興する原動力となった「町衆」の中に織物の技術集団が生まれ、西軍の陣のあった西陣にきものの一大産地を造りあげました。
そして、江戸時代の中期、京都を中心とする呉服商はその商い、隆昌を極めていました。それは後に、近代日本の象徴的な存在になった流通産業の花形、百貨店の前身の姿であったのです。
ところが、その近代化の過程は生活の洋式化であり、それに合わせた衣服の洋装化でありました。関東大震災がその流れを加速させたという説もありますが、それ以前にも既に16世紀中頃の宣教師の渡来やペリーの来航などで洋服が欧米から輸入され、ちょんまげ姿の南蛮服が時の特権階級のシンボルになっていました。ちょうど、南蛮服の江戸時代の風俗を現代風にアレンジしたイベントが、この12月3日、京都国際会館でKYOTO青年元気まつり企画運営委員会による「21世紀大風流―百花繚乱―」として開催されますが、その後の明治維新、政府は洋服の採用をめぐって各大臣を集め大評定、洋服党の「泰西の服は起居進退がいかにも便利である。」、和服党の「単に便利という軽薄な理由で伝来の服装を一朝にして西洋風に改めるのは何事か。」という激しい議論の末、西郷参謀の一言で洋服採用が決定され、それ以降政府主導の洋装化が本格化し、軍服、官服の洋装化、そして次第に一般庶民も洋服を着用するようになっていきました。日本人の着用する衣服の本格的な転換期が近代化と共に訪れてきたのであります。 しかし、それ以降もまだ和装は健在で、長い間、きものを愛用する人たちによって和装産業は支えられ、また周辺の高級料理旅館も花街も羽振りのいい旦那衆と職人で殷賑を極めていました。ただ、時勢の変化は次第に世代のきもの離れを加速させていました。もともと日本国内の需要に限られるという市場の地域限定性もありましたが、これまでから指摘されていた「高価」、「着付が難しい」、「活動的でない」などのきもの離れの三大原因は、今年3月に実施された京都織物卸商業組合のアンケート調査でも改めて実証されていますが、退蔵する和服は30兆円に上るともいわれています。その非日常性が需要の減少傾向を速め、「高価」の原因であります和装業界の古い商慣習、取引慣行、複雑な流通過程にバブル崩壊後の資産価値の下落による借入金の過重負担が加わり、更にその後の長引く不況、不景気による消費の低迷が追い討ちをかけるなど新旧、内外からの複合要因によって不振に拍車がかかり、販売高はピーク時の三分の一近くに落ち込み、この10年間で120社を超える和装企業が消失し、中でも業界を代表する丸十小泉、丸勝の破産は業界だけでなく、京都の経済界に大きな衝撃を与えたのであります。
業界の構造改革については、ここに至って業界内部でも真剣に取り組みはじめていますが、古い商法体質から近代的経営体制への転換が図れるか注目されるところであります。ただ、この状況の中でも、京都の呉服卸商として店頭公開をした企業や高い利益成長を続けている企業もありますし、新しい感性の起業家が新たに西陣の地に集まりつつあり、西陣地域の新しい創造発展につながることを願っています。また、従来の伝統的な定番きものから染、織、柄、素材、着やすさなど消費者志向の変化を捉えたきものの制作、洋服感覚、斬新なニューきもの、アロハ柄、パステル調、洋服の有名ブランドのきもの、あるいはレトロの復活人気、異業種との連携企画、既成概念にとらわれない「きもの解放区」の試みなど様々な工夫、努力が続けられており、これらの新しい発想、企画が和装再生への起爆剤となる可能性に期待されるところであります。
これらのことに関連することとして申し上げますが、今この議場には議員、理事者合わせて百人余りの人がいるわけでありますが、ほとんどの人は洋服で、ごく一部の方が和装姿であります。
今枝副議長のようにきものを簡単に着こなし、日常から着物が好きな方もいますが、和装産業振興の一助にと和装PRのために着用されている方もいます。
和装組は羽織、袴着用の正装であり、洋服組は別にダークスーツでもない普通の背広スーツ姿であります。これは、ある意味で違和感のある風景であるといえます。和・洋のオートクチュールとプレタポルテの混在であります。背広スーツはその誕生の経緯から略々式服装であります。和装の正装に対してはこの議場に飾られている昔の議長さんの写真で分かるようにブラック・フォーマルの服を着用しなければ本来釣り合いがとれないといえるのであります。ホワイト・タイはともかく、ブラック・タイのタキシードも本来はティル・コートと呼ばれる燕尾服の燕尾の部分を活動的に切断した準礼装であり、そのまたタキシードの略装が原形となったスーツが、この百50年間にわたって、多くの国の紳士服として普及してきたのであります。
ここで申し上げたいのは、和装着用といえば、高価な絹の羽織、袴の正装でなければならないという固定観念がきものの着用に距離をおくことになってはいないかということであります。
もちろん高価な洋服を着用されている方もいますが、汎用タイプのスーツの水準に見合った素材でデニムであってもコットン、シルク、ウール、化繊であってもいいし、形も伝統のフォルムにこだわることなく、「着付け」のいらない作務衣の礼式用や野袴スタイルであってもいいのではないかと考えます。私たちのような普通の生活者では、数十万円のきものを無理して求めることはできないのであって、スーツ並みの価格でスーツ並みの着脱しやすい、現在社会に合ったスーツ水準の和服はないものかと探索し、今日、私はその和風の衣装を着てきたのであります。
和装の底辺を開拓、拡大し、日常化を図る中から、伝統的なきものに関心を持ち、やがて保有したいという気持ちが起こり、長い伝統に培われてきた技の結晶である本物を持った満足感と喜びを実感する。逆に、特定場所用の、儀礼用の高級和服は特定の人の、特定の時間の着用に終わり、免罪符的着用になっているのではないか。
実は西洋の衣服にも和服と同じような変遷がありました。特に男性服の場合、中世の絵画や映画でご覧のような華美で複雑系の服がハイ・ソサイエティのシンボルであったのです。着難く、召使いがいなければ着られない。しかも金らんどんすの高価な衣服であったのです。着難く、高いのが逆に上流社会に属していることの証しであったのでありますが、1663年、イギリス国王チャールズ2世の「衣服革命」宣言によって、「貴族に倹約を教える服」が登場し、それが原形となり、現代の背広スーツとなり、世界の多くの国の男性服として普及、定着してきたのであります。
構造改革のためのカンフル剤的な「特別融資」も必要でありますが、和装産業は振興、復興、再興というかつての姿への復帰、再現を追い求めるのでなく、現代人のライフスタイル、意識変化、多様化という現実の上に立って、いかに存続を図っていくのかという視点からの方策が必要ではないかと考えるのです。
この間、民主党は演出家の宮本亜門さん、世界的ソムリエの田崎真也さんのお話を聞く機会を持ちました。その中の田崎真也さんの「伝統のために料理を作るのではなく、誰のための料理なのか」という話は示唆に富んでいました。ご意見があればお聞かせいただきたい。
●今年の夏のはじめ、大阪天王寺の一角に飾られた少女の絵にブレイクした59万人の熱い視線が注がれました。日本・オランダ交流四百周年記念特別展覧会「フェルメールとその時代展」の中の「青いターバンの少女」という50センチ足らずの小さな作品にでした。
生涯30数点という寡作の画家フェルメールは、オランダの地方都市デルフトで生まれ、ここで作品を描き、一生をその地で終わるのですが、このデルフトのまちは当時ヨーロッパの王侯貴族、富豪が珍重し、競って手に入れようとした日本の有田焼、伊万里焼のその技法を採り入れたデルフト焼で後に有名になったまちであります。
日蘭交流4百年の歴史は日本・オランダそれぞれに文化交流の影響を与え合っていたのであります。その展覧会の少し前、京都文化博物館で「江戸時代・京都が見たヨーロッパ」を副題とした「異国の風」展が開催されていました。
我が国は、大陸文化からの影響の後、南蛮といわれた西洋の国々との交流、交易を始め、京都の文化は更に飛躍的に変化、発展を遂げたのであります。技術や人の交流から新しい文化が生まれるのであります。
京都は1200年余の歴史を有する古都といわれていますが、停止したまま生きていたのではありません。当時を偲ぶ建造物などは今は何一つ残ってはいませんが、連綿として続いてきた伝統というのは、古いものをそのまま保ってきたということではなく、大陸、西洋からの渡来文化を先進的に大胆に取り込み、絶えずその時代、その時代の最先端の新しいものを創り続けて進展させてきたその進取の気風と技が止どまることなく生き続け、それが京都の文化の成長エネルギーとなってきたのであります。近世では、琵琶湖疏水の開削、発電所の建設、そして都大路に路面電車を開通させるなど西洋の最新技術を導入して京都を活性化したのであります。その発展性がなければ京都は早くに滅亡していたでしょうし、それこそ遺跡の運命を辿っていたのであります。
祇園祭・山鉾のタペストリをはじめとする多くの渡来の装飾品、装身具類、衣服、陶磁器、絵画、更に茶道の関係に至るまであらゆる京都の伝統工芸の中に西洋が溶け込み、息づいてきたのであります。また日本の書画や伝統工芸品、絹織物など文物もヨーロッパに移入され影響を与えていました。
エミール・ガレもその作品の中に九谷の絵皿をモチーフにしていますし、今我が国の主婦の間で一番人気の印象派の代表的画家、クロード・モネの「睡蓮」の日本庭園の池に架かる木の橋は日本の浮世絵の橋を取り込んだものです。
洋画に描かれた浮世絵の橋とは逆のケースの橋といえば、この時期、鴨川歩道橋問題が再燃してきました。
京都市は改めて鴨川に架かる橋全体の在り方を検討する「明日の鴨川の橋を考える会」を設置し、来年3月に提言を受けることを発表しました。これに対し「鴨川の景観を守る連絡会」は、計画の中止を京都市に申し入れました。
2年前の98年、この橋の建設を巡っての景観論争が起こり、京都市側が計画を撤回した経過があります。その時、私は本日の質問の冒頭でも取り上げました地方分権の件りで事業の計画段階における市民参画の必要性の考え方から、市の計画撤回もやむを得ないと考え、理解しました。
しかし、同時に反対派の人々が「京都にヨーロッパの橋はいらない」、「鴨川にフランスの橋はいらない」という大量の、しかも原色のポスターを街角に張り巡らすネガティヴキャンペーンを見て、果たしてこれで景観問題が論じられるのかと大いに疑念を抱かざるを得なかったのであります。 そして、当時問題とされたこの橋問題のオリジナルとなったセーヌ川に架かるポン・デ・ザール、芸術橋について正確に理解するため、この橋について少し触れてみる必要があると思いました。
鴨川には38橋、パリ市内のセーヌ川には32の橋が架かっています。フランスだけでなく、ヨーロッパの都市河川に架かる橋は、この昔の写真のように頑丈な石造りで彫刻が施され、中には金色の彩色をしている橋も多くあります。明治44年に完成したお江戸日本橋もこの様式であります。この写真の当時は、西洋の橋の上はご覧のように馬車でごった返し、衝突、馬の暴走、歩道がないための人身事故の続発、加えて大量の馬ふん、放尿で非衛生極まりないという喧騒の状況でした。現在の自動車の混雑と排気ガスが充満の状況と同じであったのです。
1804年、当時新しい建築資材として登場しはじめた鉄の橋脚に床面を木材にしたこのポン・デ・ザールがルーブル美術館とフランス学士院の間をつなぐ利便橋として、馬車は通行禁止、歩行者専用の橋として建設されたのであります。ちなみに同じく鉄素材で造られた1889年のパリ万博のモニュメント、あのエッフェル塔もパリに似合わないということで当時は反対されたのでありますが、実はこのポン・デ・ザールもセーヌ川には似合わないとパリっ子の反対に遭っていたのであります。鉄と木の、しかも余りにもシンプルなデザインがヨーロッパ風の橋でなかったからであります。最後にはナポレオン・ボナパルトの現場視察の際の一声で存続が決まったという話であります。
この絵は、1867年に制作されたルノワールのポン・デ・ザールであります。背景のリシューリュ宮殿とフランス学士院の建物がなければセーヌ川に架かる橋とは誰にも分からないような素朴な橋なのであります。しかしこの橋は多くの画家たちに愛され、ルノワール、そしてこれは有名なアンリ・ジェルヴェクスーアルフレッド・ステバンスの「十九世紀の画家の肖像〈今世紀の歴史〉に描かれているポン・デ・ザール、これはポール・シニヤック、描くポン・デ・ザール、これは写真家による現在のポン・デ・ザールであります。
馬車が通らない安心して歩ける橋として、昔は学士院会員もここで立ち話をしたり、画家や音楽家なども議論の花を咲かせ、ベンチに腰かけた恋人たちが、大道芸を楽しむなどポン・デ・ザールは今では憩いの橋としてパリ市民に愛され、親しまれているのであります。
約200年前、パリでヨーロッパ的橋でないと「ノン」と言われ、今は「ウイ」。200年後の今、東洋の姉妹都市京都でヨーロッパの橋はいらないと言われているポン・デ・ザールが、もし話せるとしたら何と言うのだろうかと思うのでありますが、橋は左岸と右岸を結び、両岸の人が自由に往来するための施設であります。実りある議論こそ市民は期待していることを申し上げ、私の質問の締めくくりと致します。