HISTORY OF GOTHIC ARCHITECTURE
DUOMO DI SIENA No.2

シエナ大聖堂 No.2
:Duomo di Siena; Siena, Italy; late 12c-1382
- 堂内の床は華やかなモザイクを敷き詰め、壁体は白と濃灰色の大理石、リブ・ヴォールトは壁画で外装された。
- 大小のアーケードや付け柱で壁体を線状化し、重量感を失わせるレイヨナン・ゴシックに代わって、ここでは伝統的な手法である色彩によって壁体の重厚さを消滅させている。
- 壁面は大アーケードと高窓の二層構成で、身廊のピアの付柱は大アーケードの柱頭を越えて立ち上がり、高窓の下に設けられた力強い水平線を形成する蛇腹にまで達する。
そして蛇腹から始まるピラスターはヴォールトの起拱点を受けている。
半円アーチの大アーケードと持送りに支持された蛇腹は13-14世紀のイタリア・ゴシックで好んで用いられた手法で、ピアや壁面の横縞の外装とともに堂内に強い水平感を与えている。
- 内陣を平らな壁面とする点はシトー会の教会堂と同形式だが、交差部を六角形の大広間としてドームを架けた点は全く独創的である。
- 高くそびえる塔はシエナ市庁舎(Palazzo Publico, 1298-1681)マンジアの鐘塔(Torre di Mangia, 1325-48)で高さ102m。
1327年に牢獄、1332-42年に大会議室と鐘塔、1681年に市庁舎西翼3階を増築した。
- シエナは中世以前はエトルスク(イタリアのトスカナ地方の古名)の、そしてその後にローマに支配された。
中世以後、ヴェネチアほどの交通の要衝ではなかったが、ローマから北イタリアへ行く街道の要所として、城壁に守られたコムーネ(自治都市)として、特殊な絹織物工業の技術をもって繁栄した。
繁栄しだした時期からシエナ市庁舎の建設が始まり12世紀半ば迄には5万5千人から8万人に及ぶ人口となった。
しかし、1348年に流行したペストにより、急激に人口を減らして衰退し、都市建設も終焉する。その後2万人前後の人口を擁して細々と続き、コムーネ制が終り1557年にメディチ家の支配下のトスカナ大公国に併合され、中世から近世に移っていった。

[No.1]外観
: [No.2]内部・シエナの街
: [No.3]広場

撮影:平松省二

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