JAPANESE ARCHITECTURE IN KYOTO
京都の日本建築

孤篷庵 No.1

- 場所:
- 京都市北区大徳寺町66:TEL 075-491-3698
- 交通:
- 市バス1,204,205,206,205番で大徳寺前下車。
- 時代:
- 1612年(慶長17)小堀遠州(遠江守政一)が大徳寺龍光院内に建立。1643年(寛永20)現在地に移設後、1793年(寛政5)焼失。遠州の崇拝者、松江城主の松平不昧公により再建。
再建:方丈は1797年(寛政9)、書院・忘筌は1800年(寛政12)。
- 見所:
- 書院風茶室の忘筌(重文)。アプローチ。井戸茶碗。杜若(5月中旬)。
- 一言:
- 忘筌の開口の取り方は見事。後世盛んにまねされた。
- 茶室:忘筌(ぼうせん)。再建されたとは言え、焼失前の起絵図から忠実に再現された、小堀遠州晩年の代表作。九畳に一畳の出床、三畳の相伴席からなる十二畳の広間の茶席。
- 庭園:方丈の南庭と書院直入軒の南庭とからなる。元来は小堀遠州によって1643年頃築造されたが、1793年の火災で被害、古図により再建、前者は大沓脱ぎ石、手水鉢、石灯篭を配した小庭で後者は飛石、石橋、植栽などで構成された430平米ほどの平庭。
- 書院:直入軒。
- 茶室:山雲床。大徳寺龍光院の密庵席をまねている。

- 遠江守であった小堀遠州が、1612年(慶長17)大徳寺龍光院内に子院として建立、江月和尚を請じて開祖とした。
隠退ののちに訪れて風雅に遊ぶところとして、1643年(寛永20)現在地に移設後、建物と庭を作って江雲宗龍に付嘱しようとしたが、作事奉行として1642年(寛永19)の暮から江戸詰となり、孤篷庵建築の時には不在であった。
江戸詰は1645年(正保2)4月まで続き、伏見に帰り新築の孤篷庵に遊んだのは1647年(正保4)に没するまでの約2年の間だった。
1793年(寛政5)の火災で孤篷庵は全焼。出雲藩主松平不昧侯の援助を得て、旧規により再建して現在にいたる。
- 寺名の「孤篷」は、開祖江月和尚による建立之記の最後にある
容膝安閑孤掩篷 近隣船嶽遠江東
紛々黄落布金意 一草廬中現梵宮
の「孤篷」からとられたと想われ、孤舟の意味である。また、「船嶽」とは庭の遠景として南西にある船岡山のことである。
遠州は、当時の仏教思想であった「人生は有漏路(現在)から無漏路(未来)に通う旅」とする教えに、自らの人生を重ね合わせ、孤篷庵の各名称、築庭、構成を、「旅」、そしてその乗物である「舟」をテーマとして意匠し、孤篷庵を終の棲処としたのである。

- この長いアプローチの向こうの突き当たり正面が入り口ではないことに注意。
突き当たりには腰掛けがおいてあるが、アプローチはその少し手前で右に折れ曲がり、方丈の南縁に続く唐門にいたる。腰掛けとアプローチは離れており、それは掛けるためではなく、象徴としての行き先であり、休み先である。それにいたる手前で右に折れ、孤篷庵に入っていく。
アプローチの長さの距離感と、そしてさらに折れ曲がると言う場面転換が、別世界へと誘う重要なストーリーを構成する。
- 孤篷庵入り口の腰掛け。シンプルだがデザインに寸分の狂いもない。
- 孤篷庵表門入り口の石橋。遠州によるシンプルで大胆かつ力強いデザイン。


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