JAPANESE ARCHITECTURE IN KYOTO
京都の日本建築

曼殊院 No.1

- 場所:
- 左京区一乗寺竹ノ内町42:TEL 075-781-5010
- 拝観:
- 9:00-17:00:500円
- 交通:
- 市バス5,北5,31,35,65で一乗寺清水町下車徒歩15分。
- 時代:
- 延暦年間に最澄が比叡山に東尾坊(とうびぼう)を草創、平安初期改称して曼殊院と称した。
1656年(明暦2)御所の北近くから良尚親王により現在地に移され、大書院、小書院、庫裡などがその時に建立された。天台宗の門跡寺院で「竹内門跡」として名高い。
- 見所:
- 大書院、小書院、茶室など当時の建物がよく保存されている。書院、庭園、茶室などは良尚親王の好み。江戸時代初期の代表的書院建築。
- 一言:
- 江戸時代初期の代表的書院建築。桂離宮第二次造営、修学院離宮造営と同時期であり、比較されたい。
- 花 :
- 紅葉(11月中旬)。霧島つつじ(五月初旬)。

- 延暦年間(782-806)に最澄(伝教大師)が比叡山西塔北谷に鎮護国家の道場として草創。
慈覚、安恵、最円、玄昭と伝えられ、そして是算法橋(是算国師は天台宗で阿闇梨号を受けた最初の人。菅原氏の出生で、北野神社が造営された時、初代北野別当職となる。)のとき、東尾坊(とうびぼう)と号した。
平安初期の天仁元年(1108-09)、学僧忠尋座主が当院の住持のとき、東尾坊を改めて曼殊院と称した。(それまでは善法院ともいっていた。)
北野別当の事務の必要から、曼殊院別院を北山村に建設し、慈順大僧正の頃には別院が盛んになり、曼殊院はその別院に移った形になっていた。
足利義満が金閣を造営するにあたり、京都御所の近くに移転。1656年(明暦2)御所の北近くから良尚親王(1622-93; 桂離宮の初期造営者である八条宮二代智忠親王の弟)により現在地に移され、大書院、小書院、庫裡などがその時に建立された。

- 曼殊とはサンスクリット語の man~ju の音訳で妙吉祥、妙徳などを意味する。
- 智仁親王の兄である良恕法親王(第28世門主)は桂離宮の笑意軒の額を書き、良尚法親王(第29世門主)は桂離宮の賞花亭の額を書いた。桂離宮との縁は深い。
- 大書院(本堂)、小書院:1656年(明暦2)の現在地に移った頃の完成とされ、柿葺きの起(むく)り屋根、各部のディティールなど随所に、時代が同じである桂離宮や修学院離宮の意匠が感じられる。
- 庭園:書院南部、東部に広がる庭園は、江戸初期の書院式蓬来枯山水式庭園でいわゆる遠州風であり、禅的なものと王朝風両方の趣が混じる。
- 庫裡:重文。1997年に解体修理。瓦葺入母屋造り、玄関に檜皮武器の唐破風が設けられている。創建当時は台所として使われていた。
額は良尚法親王筆の「媚竃(びそう)」。論語に「その奥に媚びんよりは、むしろ竃に媚びよ」つまり、働く人びとを大切にして出入りするようにとの意。
- 黄不動尊像:平安初期、国宝。不動明王はインドのシヴァ神の異名。仏の使者的な存在。普通の不動明王の背後にある火焔がない。
青蓮院の青不動、高野山の赤不動とともに三不動の一つ。
- 澆華亭:1934年(昭和9)の台風で倒壊した小堀遠州作と伝えられた澆華亭(ぎょうかてい)が境内庭園にあった。梁行六尺五寸、桁行一丈一尺。
- 立花図:良尚法親王は池坊専好とともに御所や仙洞御所で行なった立花のスケッチが残る。
- 玄関。右は唐門。唐門の奥は宸殿跡で、今は梅林となっている。


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