JAPANESE ARCHITECTURE IN KYOTO
京都の日本建築

大原御陵

- 場所:
- 京都市左京区大原来迎院町:宮内庁の所轄。
- 拝観:
- 自由参拝。法華堂は非公開。
- 交通:
- 大原行き市バス、京都バス終点下車徒歩15分。
- 時代:
- 法華堂は1420年(仁治1)建立、1736年(享保21)類焼。現在の建物は1770年代(安永年度)の建営。
- 一言:
- 後鳥羽天皇、順徳天皇および三千院歴代の法親王の御陵。

- 北条氏による源氏の暗殺は1219年(承久1)、時の鎌倉将軍実朝にまでおよび、ここに源氏の正統は断絶した。北条氏は九条頼経を将軍に迎えて傀儡政権の幕府存続をはかる。
この期に朝権の回復をめざした後鳥羽上皇は、1921年(承久3)北条氏討伐の軍を起こすが敗れさった。
幕府は仲恭天皇を廃し、後鳥羽上皇を佐渡に、謀議に加わった順徳上皇を隠岐に流刑にした。後鳥羽、順徳上皇親子はそれぞれの地で1239年(延応1)と1242年(仁治3)に没し、遺骨は三千院にいた皇子の尊快法親王のもとにもたらされ、その後法華堂に収められた。
御陵は明治になって、長く法華堂にあったその遺骨を移してつくられたと言われる。
- 後鳥羽天皇は
人もをし人もうらめしあぢきなく 世をおもふゆゑにものおもふ身は
順徳天皇は
ももしきやふるきのきばのしのぶにも なほあまりあるむかしなりけり
という、ともに朝権の衰えの中で詠まれた歌で知られる。
- 生まれながらにしての運命で政争の直中におかれ、ために虚無の歌人であった源実朝とは対照的に、文芸の才をうたわれながら政争に積極的に加わることになった後鳥羽院は、流刑の地隠岐の月を眺めつつ18年後、
ながむれば月やはありし月やあらぬうき身はもとの春にかはれる
の辞世を残して亡くなった。
- 後鳥羽上皇の冥福を祈るため、梨本門主尊快親王の母公、修明門院の計らいで、水無瀬の御所の材をもって1420年(仁治1)に建立された。
1736年(享保21)に勝林院とともに類焼し、現在の建物は1770年代(安永年度)の建営によるもの。
方三間単層四柱造柿葺。堂内に普賢菩薩、聖観音像を安置する。

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