竪穴式住居は5mくらいの直径の円や角丸四角形のかたちに地面を数十センチ掘り、柱を掘立てて植物の屋根を架けたものであり、後に地面を掘らずに平地に設けたものも現れこれを平地式住居と呼びます。
右の画像は竪穴住居の復元
(松江市:島根県立八雲立つ風土記の丘)。
高床式住居は、柱を立ててその上に床を張りさらに上に柱と屋根を載せているか、木材を井桁に組んで積み重ねて壁にした上に屋根を架けたものです。(柱が屋根まで通り、直に屋根を支えているのもあります。これはまた系譜が違うとも考えられます。)
右の画像は校倉造と呼ばれる東大寺の経蔵(奈良市)。
竪穴式住居は一般の住みかと考えられており、高床式住居は「倉」であったり、貴族の住居であったりしたと考えられております。これらの形態は世界中色々なところで同様なものが見られます。日本ではそれぞれ大陸北方からと南方から伝わったと考えられますが、定かではありません。
伊勢神宮や出雲大社の独自な点として、棟持ち柱等々の形態と共に、「心の御柱」(出雲大社では岩根御柱)と呼ぶ柱が建物の中央にあることです。 この柱については「塔」やインドの「ストゥーパ」を含めて考えなければならないのですが、省略します。 (このホームページの「日本の古塔を学ぼう」に少し関連の事が書いてあります。)
一応ここに一つの日本独自の建築様式として完成しているものがあります。これは中国伝来と言うよりも、中国の南部以南の東南アジアから来たと思われる高床形式が、当時までに各地から伝わった文化と混合してその結果日本において独自の様式として確立しえた形式になったと考えていいと思います。
その円鏡の竪穴式住居と入母屋造りの高床式住居の二つ絵には衣笠(傘のようなもの)と露台(縁台、床几のようなもの)らしきものが建物にくっ付いて描かれており、これは今の建具がはまっていない縁側のような開放的空間だとも考えられます。
中国では「軒」のような開放的空間はありましたが母屋の屋根の一部であり、この「衣笠」(大陸伝来のもの)や「露台」のように仮設的ではありませんでした。この家屋文鏡のなかに一つの日本の仮設的な開放空間のルーツを見ることができるかもしれません。
これは前述の 室+堂 である前堂後室という中国伝来の構成で、こちらは仏教建築風のものに復元されています。
この形式は住吉大社本殿と同様、つまり、天皇即位の時に造られる大嘗祭宮殿と同形式で大陸直系と言っていいでしょう。
また、この二つの建物は高床形式を踏んではいますが、どうも最初に述べた高床式建築の系譜とは異なりそうですがここではそのことについてふれません。
これらはすでに意匠や壁の取り扱いやさまざまな点で中国の建物とは呼べない日本的な所があるのですが、それよりも平安時代に「寝殿造」が成立するに至って中国の建築と全く異なる決定的な点が出てきました。
中国建築の特徴であるシンメトリー(左右相称)の徹底は日本でも受け継がれました。しかし宸殿の中に「塗篭」(ぬりごめ)なるものが建物の一方に寄せられて造られるにいたってこのシンメトリーはくずれてしまいました。「塗篭」は後に「納戸」とよび、寝る場所であり大事なものを入れておく壁で囲まれた所でもあります。
また、紫宸殿の正面は南庭が配され儀式の場でしたが、日本の寝殿では池泉を設ける庭に変わっていきます。南庭の中央を紫宸殿に向かってまっすぐついていた南門は、池泉を設けたために片側に寄せられるようになり、渡殿が非相称に付くにいたって完全に中国式の左右相称は崩れさり、寝殿造が誕生します。
法隆寺伝法堂前身建物などの大陸直系の系譜は、まず開放的空間と仮設性という第1次の日本化が行われ、さらに非相称性や王朝末期文化の浄土的観念などに強く変容を受けて日本独自の寝殿造が完成し、それは書院造、禅寺の方丈へと影響を与えていくことになりました。
その一方、玄関で靴を脱ぐという上足式の生活はなくなる気配がありません。この何を選択し、何を拒否するかというのが、同じルーツを持っていても文化の違いだといえるでしょう。
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