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翌年花園上皇の祈願寺となり、1333年(元弘3)後醍醐天皇より天下無双禅苑の宸翰(しんかん;天子の直筆の文書)を授かり、五山に推された。1467年応仁の乱で焼失。一休和尚が堺の富裕な商人の支持を得て再興した。 |
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明治維新の時旧建物を壊し、一時は禅僧の修禅道場として禅堂もあったが、道場は龍翔寺に移された。 |
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既存の座敷に付加された三畳上げ台目切りの中柱付き。点前座のみ蒲の落天井とし、太めの床柱、曲がりの少ない中柱はともに赤松の皮付きで、簡潔にしてしっかりとした広がりの感じる空間である。窓が少なく明かりが抑制された利休の趣が再現されている。 |
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室中に「法眼探幽図之」の落款がある「龍虎図」、上間二之間に「梅に波涛図」、下間二之間に「竹虎図」で、狩野探幽(1502-74)の1638年(寛永15)から1662年(寛文2)の間の作と考えられている。 |
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創建時の伽藍は焼失再建を繰り返したのち、1808年(文化5)火災により全山焼失、1818年(文政1)再興、現在に至る。 |
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平安前期の829年(天長6)勅願によって不動明王を本尊とする堂宇が弘法大師によって再建されたといわれる。江戸時代末期の1831年(天保2)失火により、仁王門を残し一山ことごく焼失した。以来、塔頭寺院であった志明院が金光峯寺の総務を見、岩屋不動の名による信仰を持ちつつ現在に及ぶ。 |
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本堂廊下の天井は伏見城の血天井の遺構。 |
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11月のみ:8:30-17:00:大人、中・高生 1000円:小中高生600円。 平安後期に永観(ようかん)が中興して永観堂とも呼ばれた。鎌倉時代初期に浄土宗に転じた。第13世の証空は浄土宗西山派の派祖。 金戒光明寺にも同構図の山越阿弥陀図がある。 |
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迎門は本尊後方の壁に埋め込まれた柱上部や虹梁(こうりょう)に巾3m,高さ1m極彩色に装飾されている。 |
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白川上皇の皇子静恵法親王が入寺し門跡寺院となり、以来皇族25人、摂関家の出身者12人が住職をつとめた。 棟続きの「使者の間」「大玄関」などの、はじめての本格的解体修理が2000年5月に終了。 |
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もとは紫雲山光明寺と称したが、南北朝時代に御光厳天皇より金戒の二字を賜わり金戒光明寺となった。応仁の乱以後焼失再興を繰返した。 永観堂禅林寺にも同構図の山越阿弥陀図がある。 |
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応仁の乱や修学院離宮造営により場所を移動し、江戸時代初期に現在地に移ったといわれる。 |
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神苑の無料公開は例年6月5日、9月19日に行なわれる(日時は確認して下さい)。 |
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応仁の乱などでたびたび焼失後、1662年(寛文2)に現在地に移転された。 |
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霊宝殿は12月12日-2月末、および月曜休館。 鞍馬山ケーブルが山内の「鞍馬山門駅」と「多宝塔駅」を結ぶ(料金100円)。 毎月7,18日、10:40分-昼に写経がある。写経・抹茶付き1,000円 |
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1998年10月の台風10号で屋根の損壊を受け、修復が1999年7月に完了した。 |
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室町期には150あまりの塔頭をもつが、応仁の乱などの8回もの火災にあい、当時の建物は残っていない。 現在の建物は、1900年頃(明治30年代)に再建されたもの。 曹源池と亀山なる丘とからなる。対岸に北宋画風の石組みを見る。日本初の特別史跡名勝。今なおすばらしい石組みを保持している。 |
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応仁の乱(1399)の時に寺院・寺領没収され、永享年間(1229-40)日峰宗舜が再建。戦国大名の援助を受けて発展し、1650年頃現在の寺観ほぼ整う。 |
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のちに後嵯峨、亀山、後宇多上皇がここで院政をしき、南北朝時代には南朝の拠点となった。 「松鷹図」は京都国立博物館に保存、普段は1975年作の模写絵を展示している。 毎年春、秋龍頭鷁首(りゅうとうげきす;龍の頭とあおさぎの首。鷁はよく水を切ることから船首につける)船による大沢池の周遊、観月が行なわれる。 |
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宇多天皇は同寺で出家し、寺内に室と呼ばれる僧坊を設けて法務を行なったことから御室と呼ばれる。江戸末期まで皇族によって引き継がれた。 |
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2006年以降、セキュリティー上の問題により本堂内での拝観から本堂の外側からの拝見に変更。本堂外側からはかなり遠いので、本堂で拝観できる機会に見ると良い。 |
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老朽化が激しく、2005年7月から修復にかかり、2007年1月に終わる。 |
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鎌倉時代初期に法然上人の高弟湛空(たんくう)が再興した。次の叡空(えいくう)も、天台、真言、律、浄土の四宗兼学の寺として発展したが、応仁の乱で堂宇伽藍を全焼し荒廃。後、三条西実隆らの尽力で再興した。 |
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この地はもと、法然上人の弟子が創立した往生院の跡といわれ、明治中頃復興した。 |
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鎌倉時代の1206年(建永1)に、文覚に師事した明恵上人(高弁)が華厳宗興隆のための道場として再興、高山寺と称した。 その後、明恵上人が1206年(建永1)後鳥羽上皇より勅額「日出先照(ひいでてまずてる)高山之寺」を賜わり華厳宗興隆の道場として創立した 単層入母屋造柿葺き。桁行5間、梁間右側3間。正面に1間の向拝。透彫の格子や蟇股は精巧を極めている。2008年-2009年1月まで屋根の葺き替えが39年ぶりに行なわれる。 |
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徳川時代の初期に明忍律師が出て戒律を説き、多くの名僧がその門下から輩出した。現在の堂宇は5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寄進による。 |
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江戸時代にスサノオノ命とその御子八神、暦神八神を習合し大将軍八神社と呼ばれるようになった。 |
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方丈襖絵:老梅図は維明周奎の筆とされる。 高さ11mの天井には狩野光信筆の蟠竜図が描かれ(円相外形11m)、鳴き龍として知られる。本尊釈迦如来像と脇仏は伝運慶作と伝わる。 |
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安土桃山時代の天正年中(1573-92)に紫式部の邸宅跡に移転して現在に至る。 |
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四天柱のある方三間の内陣の正面に三間×一間の庇をつけ、その四周に庇をめぐらしている。四天柱を中心とする一間四面堂が原型であったように見える。 1951年-54年に全面解体修理され、1227年(安貞1)の棟札が見つかった。 屋根の桧皮が1998年-2001年に44年ぶりに葺き替えられた。葺き替えには縦75cm横15cmの桧皮が52万8千枚ほど必要で、平均1.2cmほどの厚さに葺かれた。 |
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後、後花園天皇が叡覧し、四条高倉の地に一宇の建立を許され、叡昌山本法寺と称したがその後度重なる法難で転々とし、秀吉の帰依を受けてようやく現地に確立した。(参考:京の庭を巡る;重森三玲;白川書院;1975) |
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親鸞は20年間比叡山延暦寺で修行し、根本のところで天台宗は民衆の救済につながらないなどという悩みに、六角堂に95日参籠し、聖徳太子の夢告の後、法然上人に教えを請うた。 六角堂参籠の6年後の1207年(承元1)に危険思想として法然らは流罪となり、親鸞も越後国国府(現在の新潟県上越市)に流された。 |
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平安遷都にともない京都の一条西洞院に移転、安土桃山時代の1591年(天正19)に現在地に移された。明治時代の新京極通りの開通のために境内の大半を失った。 |
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現在修復中。親鸞の750遠忌が営まれる2011年までに修復工事を行なう。続いて阿弥陀堂、御影堂門にとりかかる。 周囲に枳穀(からたち)の木が植えられている。平安時代初期の9c末に、嵯峨天皇の第8皇子源融(みなもとのとおる)が、奥州塩釜の景色を移して、難波から海水を運ばせた六条河原院苑池の遺蹟と伝えられている。 1641年(寛永)徳川家光によって遺蹟の一部を含む現在の地が寄進され、1653年(承応2)本願寺13代宣如上人の願いにより石川丈山が一部改修作庭した。 庭園には頼山陽が選んだ十三景がくりひろげられ、九層の石塔、塩釜の手水鉢などがある。 |
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第8代蓮如の時代に栄えたが、叡山衆徒に破却され、山科に再建した。室町時代の1532年(天文1)に法華宗徒により焼失、大坂石山に移転。安土桃山時代の1591年(天正19)に豊臣秀吉から現寺地を寄進され再興した。 |
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安土桃山時代の1586年(天正14)に現在地に移転、江戸時代の1788年(天明8)の大火と、1864年(元治1)の蛤御門の戦で堂宇を焼失し、のちに再建された。 |
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2階の座敷(緞子の間、翠廉の間、扇の間、草花の間、馬の間、檜垣の間、青貝の間)は予約申込制。別料金 一般 800円、中・高生 600円。 |
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1268年(文永5)の造営で、東福寺開山の円爾没後にその祖塔に成ったと伝えられる。 現在の伽藍は1819年(文政2)焼失後に再建、1826年に全域が竣工。 池庭は二ヶ所の枯滝の石組と細長い池、下部(南部)に石橋があり、延宝期作庭の典型的な様式となっている。 同様の様式は智積院庭園、妙法院御座ノ間の庭、静岡県の滝澤寺庭園があるり、いずれも江戸初期の寛文から延宝期の作庭。 |
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589年(崇峻天皇2)の創建と伝えられる。度重なる焼失で五重の塔以外は失われた。 |
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最澄が唐から帰国する際に荒れ狂う海を鎮めたという観音菩薩の像を最澄自ら彫ったといわれる。 |
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小堀遠州配下の関与、1641(寛永18)年に片桐石見守が作庭した、などの伝承がある。 |
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毎年4月20日の開山降誕法要の時に屏風、障壁画の一部が展観される。 南北朝の建武年間に京都五山のひとつとなり、第三位としてかっては多くの塔頭を従え、学僧を輩出した。応仁、文明の兵火で荒れ、大部分は江戸時代の復興。祇園花街の中に、豪壮に存在している。 海北友松による桃山時代の障壁画 良詮による「十六羅漢図」十六幅(重文)。 2年前に発見された狩野山楽の桃山時代の屏風「桜花図」「秋草図」 |
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閉雲の額が掲げられて閉雲席と呼ばれていたが、閉雲と龕破と語呂が似ているので、伝わる「龕破の文」(開山の大鑑禅師が暝目して棺に入った後、棺を破って現れ遺誡の文を書いたといわれる)に因んで棺割の席と呼ばれるようになった。 二畳台目中柱向切向板。入側を改造して西側に浅い踏み込みの洞床を付加している。貴人口。 |
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洞庫がなく有楽窓の所は小さい下地窓になっている。床柱はナグリではなく力が弱い。腰紙も低く、しまりがない。 如庵の写しとしては同じ建仁寺塔頭の清住院、正伝永源院にもあるが、高名なのは仁和寺にある遼廓亭で本歌に迫る。 |
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明治初年の図に載っているのでおそらく梧庵和尚の好みだと考えられる。 宗貞囲の席は、西行庵の皆如庵、西翁院の淀看席があり、中柱の左に仕切り壁と火灯口に片引きの襖が入り上部は板欄間の上を吹き通しにする。 |
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六道とは、源信の往生要集によれば、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上を言う。 |
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のち尊性法親王が入寺して門跡寺院となる。皇居炎上の際には仮皇居となった。のち祇園石段下に移り、江戸時代の1614年(慶長19)に現在地に移った。 |
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鎌倉時代の1266年(文永3)に堂宇が再建され、奈良仏師の湛慶など慶派、円派、院派の仏師が本尊の千手観音座像(国宝)を挟んで左右に500体ずつ、合計1001体の十一面千手千眼観音像を彫刻、両端に風神雷神像、背後には二十八部衆の立像を刻んだ。 江戸時代の1614年(慶長18)に徳川家康が蓮華王院の管轄権を妙法院に定めて以来現在に至る。 南大門や築地塀(太閤塀と呼ばれる)は秀吉の造営。 その行事は毎年1月15日ごろに行われる。内陣の無料開放・弓引き初め:9:00-16:00 |
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;特別拝観(御座所、庭園、海会堂)は+300円 ;心照殿(宝物館)では常時企画展が催されている。第4月曜は休館。 鎌倉時代の1242年(仁和3)に四条天皇が当寺に葬られてからは歴代天皇の葬場となりその後、皇室の香華院(菩提所)となった。応仁の乱などでの幾度かの焼失、再建(江戸時代)を経て復興する。 |
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秀吉が伏見城を造る際大亀谷に移転させられるが、その大亀谷の即成院も廃仏棄釈で破壊される。1902年(明治35)に現在地に移転した。 菩薩が阿弥陀如来と一緒に臨終の人の魂を極楽浄土に導く様を表現した浄土教美術の典型。楽器を持つ白象王(びゃくぞうおう)菩薩像、獅子吼(ししく)菩薩像など。 本堂を極楽浄土に、地蔵堂を現世になぞらえ、二つの堂を長さ約60mほどの架け橋で結び、菩薩や稚児、修験者などに仮面や装束を付けて扮し、横笛や笙などを携えた行列が、本堂から地蔵堂へ行き、ふたたび本堂に戻る。 迎講(むかえこう)とも言う。迎講とは来迎会、すなわち生きたまま死の体験をし、再生する「擬死再生儀礼」。 毎年10月の第3日曜に行なわれる。正式名は「聖衆来迎練供養会式」 |
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西国三十三カ所巡礼第17番札所。鎌倉時代には幕府の探題が置かれた。 寺を守るとされる龍にちなんで辰年に3日間のみ公開される。 |
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智慧を授ける霊験があるとして、4月13日に13才になった女の児がお参りする十三詣りが有名。 |
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拝観は事前申込。冥加料:
鎌倉時代に西方寺と号した浄土宗の寺院であったのを、南北朝時代の1339年(暦応2)に夢窓疎石を招請し臨済宗の禅寺に改め、西芳寺と改めた。 1469年の応仁の大乱で消亡荒廃。1534年戦火で焼失。子建が再興、明治維新に寺院の財政的困窮によって荒廃し苔が繁茂し、以後これがこの庭園の特色の一つとなる。面積約16,880平米。 柿葺の屋根、土間庇の広縁、四畳半台目の茶室と一体の入母屋造、茶室に続く六畳の勝手の部分は四注(寄棟)造、待合の屋根は切妻造となっている。 四畳半台目の席は中柱付き出床の亭主座の横が床、客座に付書院という珍しい形式。床には墨蹟窓、亭主座には風炉先窓が付いている。小縁を経て貴人口にて入る。 |
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拝観料:伽藍(金堂内部、五重塔など)、霊宝館、三宝院 各600円、小・中学生300円:2枚綴り券1000円、3枚綴り券1500円。 春期(3月19日-5月8日)、秋期(10月1日-12月4日)以外は境内参拝自由。 平安時代の907年(延喜7)に醍醐天皇の勅願寺となり、以後皇室貴族の保護のもとに栄えた。応仁の乱などで焼失後、豊臣秀吉の援護で復興した。 訶梨帝母は安産は子供の成長をもたらす神として平安期から信仰を集める。 |
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秋に神苑楽水苑の無料公開があり、平安の庭にて曲水の宴が催される。 |
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三間の向拝をもつ大型の五間社流造、檜皮葺。極彩色がほどこされた蟇股などの彫刻には桃山時代の華やかな装飾性が認められる。 |
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薬師如来像の胎内に、祖先藤原家宗より相伝した最澄自刻の薬師如来小像を納め本尊とした。 現在の阿弥陀堂は1221年(承久3)から1235年(嘉禎1)の間に再建された。 その際本尊の阿弥陀如来坐像(国宝)の上部を囲む漆喰壁の内外に計23面の浄土思想を表現した壁画が描かれた。法隆寺金堂壁画の焼失後、建造物に描かれた壁画としては国内最古(鎌倉初期)の漆喰壁画(重文)となる。 平等院の定朝作の像より優美華麗。光背は中心部分のみ当初のもの。台座は古いもので蓮弁は寄せ葺の古い葺き方。 薬師如来像:上記の薬師如来立像の胎内仏。重文。秘仏。木造。最澄作。平安時代。 |
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京都の六地蔵は、伏見六地蔵(大善寺)、鳥羽地蔵(浄善寺)、桂地蔵(地蔵寺)、常盤地蔵(源光寺)、鞍馬口地蔵(上善寺)、山科地蔵(徳林庵)。 六地蔵とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道に迷い苦しむ衆生を区座緯線と発願せられた仏のこと。 |
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書院前庭園には樹齢700年以上の這いビャクシン、水戸黄門ゆかりの灯篭がある。 |
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後に衰退し、室町時代の1437年(永享9)の火事でほとんど焼失した。 |
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平安後期以降兵火でしばしば焼失、阿弥陀堂(鳳凰堂)、観音堂、鐘楼だけとなった。 |
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17c半ばの江戸前期に淀藩主永井尚政(ひさまさ)により再建。 四頭茶会は中国から茶を伝えた栄西を宗祖とする臨済宗に現在も建仁寺の四頭茶会に伝わる。 曹洞宗では道元の「永平清規」に「四頭茶会」と同様の茶礼の記述があるが途絶えていた。 |
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延暦寺根本中堂など天台宗の仏堂に多く見られる南半分だけの縁が建物外側にあることから、母屋の周りの庇の下で密教関係の儀式が行なわれた可能性がある。 平等院から南南東に 1.5km。 |
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宝物殿:毎月17日のみ公開:300円 観音菩薩坐像は背面に足の裏が彫刻された珍しい正座像(大和座り)。正面からの姿は毎月17日に公開している。 |
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故郷の福建省の万福寺を模し、中国から建築、絵画、彫刻などさまざまな分野の技術者、芸術家を呼び寄せ、1661年(寛文1)に起工し半世紀ほど費やして完成した。 第13代竺庵浄印までの歴代住職は中国僧であり、開山当初の法式はすべて中国流だった。 黄檗様は中国の明、清時代の様式を伝えたもので床を張らず土間とし、窓や高欄に中国風の組子を用いるなど独特の異国情緒の姿を見せている。配置も完全に左右対称と中国の特徴を示している。 蚩吻(しふん)・円窓・細桟扉・礎盤など明制を伝えるが、細部には日本的手法も見られる。 |
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1966年(昭和41)の調査結果から、奈良時代末に建立され、広大な寺地を持っていたと推測される。 |
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のち四条天皇から光明寺の寺額を賜わり、光明寺と称した。 遺弟たちは遺骸を嵯峨太秦の来迎院に運び難を逃れ、翌年の1228年(安貞2)西山の念仏三昧院にあった法弟幸阿弥陀仏の許に移し、遺骸を荼毘に附し、遺骨をここに納めた。入口に「浄土根源地」と大石標があるのはこれに由来する。 |
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御本殿昇殿拝観料 500円(小学生以下無料)。書院でのお茶一服 500円。 現在の社殿は1634年(寛永11)に第3代将軍徳川家光により再建。 古くは相の間は土間だったが板の間となっている。八幡造の代表例は宇佐八幡宮。北野天満宮を参照のこと。 檜皮葺、内殿内部、外殿天井以外の軸部は丹塗。 |
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三重塔内の薬師如来坐像は毎月8日の好天の日、1月1日-3日、春分・秋分の日のみ開扉。 これが発展して内陣が33間におよぶ三十三間堂(蓮華王院本堂;鎌倉中期の再建の千躰観音堂)もできる。 |
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海住山寺の前身は十一面観音を安置した、735年(天平7)建立の藤尾山観音寺。海住山寺を2km下ったところにある恭仁宮跡がある恭仁京(3年あまりで終る)造営よりも6年前と伝えられる。 鎌倉前期の1208年(承元2)に貞慶が移り住んで再興、慈心が跡を継いで栄えた。 |
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奈良時代から江戸時代にかけて南北の修験道の接点となる山岳寺院として栄えた。 |
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安土桃山時代の1579年(天正7)明智光秀が周山城を築くにあたり諸堂伽藍を焼却された。 火災後の復興には後水尾法皇の尽力、徳川秀忠の外護があり、禅界の宗匠が相次いで祖塔を守って今日に至る。 |
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かって一帯は紅(くれない)村と呼ばれ、歌の名所であった。 付近の廃寺の仏像を集めたのか、丹波でこれほど多くの仏像がある寺はないという。 |
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平安時代の延喜年中(901-922)に理源大師が真言道場を開いて寺領が拡大され再興、坊舎の数が70を越す隆盛を見る。 16cの大火で堂舎のほとんどを焼失、仁王門だけが残った。 |
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江戸時代の1671年(寛文12)より鳥羽藩主の祈願寺となる。 |
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南北朝時代の1339年(暦応2,延元4)に足利尊氏が国土安穏祈願のため全国2島66ヶ所に安国寺を建立した際、天庵妙受(南禅寺全班職)を開山とし安国寺となった。 |
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当初は金剛山善光寺と称する真言宗の鎮護道場で、中世にかけて発展。15cの初頭の火災で伽藍の多くを失い、再建後もたびたびの兵火で焼失。16c終にこれを嘆いた当時の福知山城主の杉原家次が、臨済宗南禅寺派の眼光恵透禅師を開山として再興した。 秘仏薬師如来立像は藤原初期の作品で、丹波地方では最古の仏像。33年に1回開張される。 |
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周及は幕府から僧侶に与えられる最高の栄誉ともいえる紫衣を室町前期の1409年(応永16)に与えられ、この時将軍足利義持はこの寺を将軍家祈願寺とした。その後、金山氏の没落などで衰退。江戸初期に再興。 |
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高岳親王は810年(弘仁1)の薬子の乱で連座、地位を失って出家し、空海の元で真言密教を学び、十大弟子の一人となり真如法親王と呼ばれた。金剛院を創建したのち836年に入唐し、印度に向かう途中で死去した。 |
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また、新しく完成した宝物殿の一般公開もされ、絹本著色 普賢延命像(国宝)や木造 阿弥陀如来像(重文)が展示されている。 平安末期には鳥羽天皇、皇后の美福門院が訪れて寺領4千石を与えられて栄え、末寺65を数えた。 戦国時代織田信長の兵火により焼失後、1730年に復興して現在の姿になった。 |
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鎌倉時代の嘉暦年間(1326-29)に嵩山居中が入山し禅寺となる。 同時に文殊堂内の来迎壁から、室町時代に描かれたと推定される「両界曼荼羅」「釈迦三尊十六羅漢図」も発見された。 |
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海部家(あまべけ)は、古代丹後与謝地方の海を支配した海人部(あまべ)の首長の後裔、代々同地方の海人を祭る籠神社の宮司家として現在に至る。 |
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間人(たいざ)の里より宮中に召し出された聖徳太子の母間人(はしうど)皇后が、世屋山脈路傍に観世音を安置したと伝えられる。 |
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