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比叡山延暦寺参拝部(バスセンター内):TEL 077-578-0001 比叡山振興会議事務局:TEL 075-561-7155 比叡山延暦寺ホームページ:<http://www.hieizan.or.jp/> 京阪電車坂本駅下車(徒歩20分)+坂本ケーブル(約16分)、または叡山電車で八瀬遊園駅下車+ケーブル・ロープウェイ、比叡山頂から比叡山内シャトルバス「延暦寺バスセンター」下車。 一山の中心である東塔には総本堂である根本中堂(国宝)、大講堂などが、西塔には比叡山最古の建物である釈迦堂(転法輪堂)などが、横川には朱塗の横川中堂などがある。 |
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昭和9年の台風水害の折りに権現川上流より流れ着いた巨石を中心に据えた、1956年重森三玲作の枯山水の石庭。 |
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境内には百八社といわれる多くの神々が奉られ古事記神代巻に記される大山咋(おおやまくい)神を東本宮の主神、大巳貴(おおなむち)神を西本宮の主神とする。 2006年に屋根の葺き替えが1962年以来の44年ぶりに行なわれた。 |
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室町時代の1486年(文明18)、天台眞盛宗をひらいた眞盛上人が堂塔、教法を再興。戦国時代の元亀の兵乱で焼失、明智光秀、豊臣秀吉等の掩護で復興した。 京都法勝寺の本尊であった薬師如来(重文)を安置する。狩野永徳と伝えられる襖、障壁画、豊臣秀吉の上座の間などがある。 |
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御殿は1880年(明治13)復旧、狩野光信、渡辺了慶の襖絵や小堀遠州作といわれる庭園がある。 |
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8月16日の虫干し会で寺宝の一般公開がある。 1527年(大永7)真玄上人によって中興、1589年(天正17)後醍醐天皇の勅願寺であった元応国清寺を合併して勅願寺となった。 |
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拝殿石の間の特別公開が時にある。 |
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フェノロサは東京帝国大学の招聘で教授として来日、日本美術を世界に紹介したアメリカ人。 |
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太田博太郎氏によれば、この床の間はその前身の<押板>と呼ばれるものであり、同時代の園城寺光浄院客殿、勧学院客殿と同様だとされている。 |
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平安時代、湖上安全と衆生済度を願って恵心僧都が湖上に草堂を建立して千体阿弥陀仏を祀ったのが始まりといわれる。 |
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経営は民間委託で、1957年から京阪グループが経営。1998年に老朽化で閉鎖。1999年に大津市へ譲渡された。 |
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巾約3.6m、奥行き約5.5m、高さ約6.5m、桧皮葺。2000年に改修工事が400年ぶりに行なわれた。 |
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本尊をまつる正堂(内陣)、崖に面して建つ礼堂、その間をつなぐ相の間からなる複合建築。全体の面積は700m2。 本堂の源氏の間は、紫式部が源氏物語の須磨と明石の巻を執筆したと伝えられるところ。 ・正堂(内陣部分)は1096年(永長1)の再建、滋賀県内に残る最古の木造建築。寄棟造檜皮葺。 ・礼堂(外陣部分)、相の間は1602年(慶長7)に淀君の寄進で建てられ、平安時代の正殿と桃山時代の建物が接続する貴重な建造物とされる。礼堂は斜面からつきだした舞台造となっており、寄棟造檜皮葺。 |
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1990年に237年ぶりに開帳され、2009年、2010年にも開帳されたが、今後の予定はない。 |
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その1年後に空海は金剛峰寺を嵯峨天皇より賜わり、開創したことから、立木山寺のことを元高野とも呼ぶ。 |
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休館日:毎週月曜(月曜が祝日の場合はその翌日)、12月28日-1月4日、祝日の翌日。 |
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その年社名を大宝天王宮と勅定され、翌年今宮応天大神宮の神号が勅定される。貞観(858〜867)以降、密教天台宗融合の両部神道となる。 1713年(正徳3)の資料では、境内社34社や神宮寺の様相にて本殿、三重搭大日、護摩堂、薬師堂、神楽堂、鐘桜堂、経堂等が建ち並び荘厳なる境内が伺い知れる。 1716年(享保1)、宝鏡寺宮の親王の病気平癒祈願により、全快の礼として四脚門両築地付のご寄進を受ける。 1863年(慶応4)王政復古により神仏分離令と共に佛眼寺(京都四条道場時宗金蓮寺末寺大宝山)との分離、神應院の院号破棄により、社名を大宝神社と改める。 一間社流造としては日本最古の遺講。桧皮葺。屋根の桧皮葺が2000年8月から葺き替えられた。 |
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一間社流造としては日本最古の遺講。桧皮葺。屋根の桧皮葺が2000年8月から葺き替えられた。 |
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鎌倉時代の1238年(歴仁1)に錦織寺を寺号とし、南北朝時代の1350年頃、本願寺在覚とその子慈観が入寺して真宗木部派を創立した。 |
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応永年間(1394-1428)に兵火で焼失、江戸時代の1653年(承応2)に宝珍が再興し、天台宗を浄土宗に改めた。(全集日本の古寺5 石山寺と近江の古寺;集英社;1985/07) |
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鐘の頭頂部に双頭龍の飾りが日本伝統の意匠をとどめる一方、上下にあしらわれた草花の文様などは装飾性に富んだ朝鮮鐘特有の特徴が随所にあり、日本様式と朝鮮様式をともに取り入れた「和韓混合鐘」と呼ばれる。 2007年5月に神輿(みこし)蔵から発見され、それまでに国内の九州、中国地方に5例あった「和韓混合鐘」のうち、それまで最古とされた1469年(応仁3)製造の長崎県対馬の鐘より古く、今回近江で発見された「和韓混合鐘」は、あらたに最古とされた。鐘の側面に銘文が彫られ、同神社を運営していた3人の僧が発注したことが判明しているが、生産地、鋳物師(いもじ)は不明だが、近江の鋳物師が製造した可能性もある。(京都新聞朝刊2008年3月1日、その他) |
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天皇の病気の原因だった大蛇を焼き払って退治したという、鎌倉時代の言い伝えに由来する。 |
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天台宗西明寺(場所は不明)の本尊だったが、戦国時代に焼き打ちされた際、奇跡的に災難を免れたと伝えられている。 像の中に「延久六年(1074)八月二十五日仏師僧源増の作」との墨書がある。 1909年に国宝に指定、1950年の文化財保護法の改正のときに改めて国の重要文化財に指定された。33年後とに開張され、最近では1999年8月16-18日に公開された。 |
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当初は300坊を超えたというが、相次ぐ兵火や天災出荒廃、室町時代に8代将軍足利義政の保護をうけて僧実雄が再興し中興の開山となる。 新義真言宗の学問所として栄え堂宇300あまりを数えたが戦国の世に荒廃、再建再興をかさねた。 |
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明治以後は無住となり朽ちはてたが、1965年京都の孤篷庵の命を受けた住職小堀定泰さんが本堂を再建、庭も補修した。 |
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浅井長政の小谷城が落城した折に焼失。のち羽柴秀吉により再建。 |
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1570年(元亀1)に織田信長の兵火により堂宇を焼失したが、仏像物具は難を免れた。 |
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寺伝によれば、奈良時代の736年(天平8)に、疱瘡の流行を憂いた聖武天皇が下勅し、僧泰澄が十一面観音像を彫り、渡岸寺(どうがんじ)観音堂を建立したという。 後に最澄が再興し、天台宗に属して栄えたがやがて衰退し観音堂を残すのみとなった。鎌倉時代以後に真宗の寺が境内に建立された。信長軍の兵火により焼失。 国宝の十一面観音像は全国に7体ある。そのうちでも1、2を争う。井上靖の小説「星と祭」に出てくる。 頭・体の根幹部、蓮華座、天衣を含め大部分を檜の一材から彫り出し、頭上の各面などは檜の別材で彫って取り付けられている。 またかっては別材製の装身具が全身を飾っていた。 一般的な十一面の配置と図像に比べきわめて異色な特徴として、頭上の正面に菩薩面2面、右側と右耳の後ろに牙を出した狗牙上出(くげじょうしゅつ)面3面、左側と左耳の後ろに怒った顔の瞋怒(しんぬ)面3面を配し、頭頂は如来相でなく、五体の化仏を頂く菩薩相となっている。(五味充子「古寺スケッチ帖」;京都新聞2008/12/27夕刊;による) |
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1558年(永禄1)消失。1567年再建、1602年(慶長7豊臣秀頼が片桐且元(かつもと))を普請奉行として伏見桃山城の遺構(豊国廟との説もあり)を移築して改修。主屋に慶長7の棟札、向拝と庇には永禄10年の棟札あり。 |
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役小角の渡島により修験道練行の道場が開かれる。 860年(貞観2)に円仁が宝殿を改築、自ら造立した弁才天像を安置したと伝える。 鎌倉時代1232年(貞永1)坊舎30余院が全焼、室町時代1453年(亨徳2)および1558年(永禄1)に大火で焼失した。 豊臣秀頼が秀吉の命により修理を行ない再建した。桃山時代の建物を多く残している。 都久布須麻神社の本殿(通称日暮御殿)とともに、1603年(慶長8)伏見城の遺構を移したとされる。 |
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平安時代の記録には島守権現、小島の神とよばれ、やがて都久夫須麻の神として延喜式の神名帳にも登録されるに至ったという。 竹生島縁起によれば、738年(天平10)に行基が渡島したと伝える。 明治維新の神仏分離令により、弁財天社を都久布須麻神社として、弁財天を国宝の本殿から出し、新しく弁財天本堂を建立してそこに移設する。 1558年(永禄1)消失。1567年再建、1602年(慶長7)豊臣秀頼が片桐且元(かつもと)を普請奉行として伏見桃山城の遺構(豊国廟との説もあり)を移築して改修。主屋に慶長7の棟札、向拝と庇には永禄10年の棟札あり。 草花が描かれる格天井の間は狩野永徳の筆といわれる金押しの襖絵。また、天井画、襖絵は狩野光信(1564-1608)の筆とも伝える。 |
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天台勢力が栄えた己高山に多数の寺院が存在していたが、鶏足寺を含め次第に無住、廃寺になった。最澄が荒廃した寺院を発見し、平安時代の799年(延暦18)に国家鎮護の祈祷所として再興し、平安から鎌倉時代は湖北の中心的寺院として栄えたが、徐々に荒廃、明治時代の廃仏棄釈により無住の寺となる。 現在では寺々に伝わる仏像、仏画などを保存する薬師堂、大日堂、文化財収蔵庫である己高閣(ここうかく)・世代閣を総称して鶏足寺と呼んでいる。現代では真言宗。 |
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如仲は道元禅師の6代目弟子、梅山聞本の高弟で、滋賀県の曹洞宗布教の中心となった。 |
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源頼朝が佐々木秀義の霊を弔うために本堂、護摩堂、多宝塔など40あまりを寄進し隆盛した。室町後期の1516年(永正13)に兵火で焼失し、その後諸堂が慶長年間までに再建された。 |
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元亀(戦国時代)の兵火で焼失、江戸時代の寛永年間(1624-44)に永源寺の空子(くうし)和尚が来寺し中興した。1677年(延宝5)に右大臣近衛基煕(もとひろ)によって西明禅寺の寺額が送られて西明禅寺と呼ぶようになった。 |
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永源寺の一糸和尚、ついで黄檗宗の龍渓禅師が後水尾天王に働きかけて再建し、江戸時代の1664年(寛文4)に龍渓が入寺して黄檗宗となった。 |
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12代将軍足利義晴が約3年間滞在したという記録がある。足利義晴のあと、織田信長、徳川幕府と手厚い保護をうける。 |
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宇多天皇の皇子敦実親王の帰依の後、近江源氏の佐々木氏の帰依が深く、興亡を共にする。1570年(元亀1)織田信長による観音寺山の佐々木城の落城で焼失、1597年(慶長2)に堂宇が復興された。 |
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室町時代には足利義満の保護をうけ、足利一門の祈願所となる。兵火などで焼失再建を繰返し、江戸前期の1643年(寛永20)に一絲文守(いっしもんじゅ)が入寺して再建、中興の祖となる。 後水尾上皇、東福門院の保護をうけた。江戸時代の2度の火事の際には近江国彦根藩主井伊氏により再建された。 |
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。三千仏画像、三重塔(鎌倉時代;国宝)の内部壁画の特別拝観(雨天中止)など。 室町期にいたるまで修行道場として栄え、諸堂17、僧坊300を数えたが、天正年間(1573-91)の織田信長の比叡山焼き打ちののち、本堂、三重塔、二天門などを残して焼失。江戸時代以降に復興した。 五間堂は宝形の三間四面堂として空間構成されていた跡があり、円仁による比叡山の常行堂の平面形式と同じであることは、この堂の元来のあり方に示唆を与える。 梁上の蟇股(かえるまた)の形態からも増築の変遷を類推させる。 初重(第1層)内部は折上小組格天井に須弥壇、大日如来座像が安置される。四天柱には金剛界三十二菩薩像、四方の板戸には法華経の図解絵などが極彩色で描き出されており、巨勢派(こせは)の絵師によると伝わる。 |
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井伊直中が不義の子を宿した腰元を手打ちにしたところ、その子の父親は直中の息子だった。初孫の菩提を弔い追善供養のために五百羅漢を発願し天寧寺を建立した。 |
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1093年(寛治7)より井伊家の菩提寺となった。後に禅宗大学寮を併設、龍潭禅寺、通称だるま寺とも呼ばれる。 。 |
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荒廃後、上野の国から移し、初代彦根藩主井伊直政の正室東梅院により再興された。 |
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近江西国霊場33ヶ所巡礼第16番札所。平安中期まで「くだらじ」「くだらでら」と呼ばれていたが、天台宗改宗後「ひゃくさいじ」と呼ぶようになった。 最盛期には塔頭300坊を超えたが、織田信長が1573年(天正1)に、鯰江城の落城を狙い、支援していた百済寺を焼き討ちするなど、3度の火災にあう。2008年に境内が国の史跡に指定された。 真西に霊峰比叡山、その延長線上に百済の國。 |
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五智如来とは大日如来を中心として北方の釈迦如来、東方の薬師如来、南方の宝生如来、西方の阿弥陀如来をいう。 |
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鎌倉時代に後鳥羽天皇の帰依をうけたが元亀年間(1570-73)の戦乱により大半を焼失。寛永年間(1624-44)に再興した。 |
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中世から近世にかけての戦乱に紛れて幾重がわからなかった梵鐘が、2001年に400年ぶりに見つかった。福井県武生市国兼町の大塩八幡宮に現存していた。(京都新聞2001年9月11日朝刊) |
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1770年には与謝蕪村が、1914年には高浜虚子が直筆の識語を書き足している。表装された1915年を最後に行方がわからなくなっていた。 |
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1947年(昭和22)に永願寺、清寿寺を合弁した。 |
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ここの池水で桓武天皇の病気が治癒したことにより善水寺の寺号を賜わった。 南北朝時代の1364年(貞治3)の再建。内部は内陣、外陣が格子戸や菱格子欄間で区切られた典型的な天台仏堂の形式。 堂内には入母屋造柿葺きの厨子(国宝)がある。 |
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近くに櫟野(いちいの)川が流れ、櫟野(いちいの)観音と呼ばれる。近江西国霊場33ヶ所巡礼第29番札所。 806年(大同1)に坂上田村麻呂が戦勝祈願が成就した御礼に堂宇を建立し櫟野寺と名づけ自像を安置したと伝える。 室町時代に焼失、寛政年間に本堂が再建された。 現在は大悲閣(文化財収蔵庫)に重文を多数含む20体に及ぶ仏像群と共に祀られている。おかげで1968年の本堂焼失の際に難をまぬがれた。 |
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江戸時代の1685年(貞享2)に現在同様の規模となり現山号・寺号に改称した。大徳寺第240世の明覚円源を中興開山とする。 |
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戦国時代から安土桃山にかけての1570年代、元亀、天正の乱で焼失。そのとき本尊と諸仏を村人等が現寺地に移したという。江戸時代の寛文年間(1661-73)に実堂が本堂を建立して中興開山となり、臨済宗に転派した。徳川綱吉が子宝を祈願して以降、徳川家の祈願寺となる。 |
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平安時代の853年(仁寿3)に文徳天皇の勅命により円仁が再興し、檜尾寺と改称した。中世にたびたび兵火で堂宇を焼失し、江戸時代の安政年間(1854-60)に現在の堂宇が建立された。 |
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室町(戦国)時代の元亀年間(1570-72)に兵火で荒廃、江戸時代の1686年(貞享3)に元覚が再建し浄土宗に転じた。 |
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