祇園祭が始まったのは、平安京が定められて、都市化が進んだ貞観11年ですが、祇園さんが鎮祭されたのは、それよりさらに古く、奈良時代以前に遡ります。
記録の上では詳らかでありませんが、斉明天皇2年(656)高句麗の使、伊利之使主(イリシオミ)が来朝したときと伝えられています。伊利之は『新撰姓氏録』に八坂造の祖に、意利佐の名がみえ、祇園社附近はもと八坂郷と称したことによります。
すなわち、韓国より渡来した人々が住みついて、牛頭天王をまつったのでありましょうが、わが国人にとっては、素戔嗚尊でありました。この神を武塔天神とも申しました。
そのことは、『伊呂波字類抄』に、
天竺北方の九相国に吉祥園があり、牛頭天王はその城の王で武塔天神ともいう。
と記されており、さらに『備後国風土記』の逸文には、
昔、武塔神が旅の途中、蘇民将来は貧しかったけれども宿を貸してもてなし、弟巨旦将来は富み栄えていたが断ったため、後に疫病が流行したとき、蘇民将来の子孫には茅の輪をつけて災から免れさせたが、その他の者はことごとく死に絶えた。
という説話が記されていまして、これに「われはハヤスサノヲの神なり」と仰せられたとあることによります。『釈日本紀』には「これすなわち祇園社の本縁なり」ともありまして、古くより、牛頭天王=武塔神が、素戔嗚尊と習合されていたことが判明します。