名誉顧問 山下 勉 (2016年2月3日)
和太鼓部は2015年12月末に京都コンサートホールで開催された第4回全国高校生伝統文化フェスティバルで、沖縄、富山、岩手の有名高校の部員たちが演じる郷土芸能や
日本音楽と並んで、唯一の和太鼓チームとして招待され、特色のある演奏で大きな評価を得ました。1月末にBS朝日で放送された番組でもこの時の演奏とインタ
ビューが紹介されました。
年明けの2016年の活動は1月3日の西武高槻店、4日のイオン明石店、5日のサンスター(株)本社での始業式と年明け早々、3日連続の演奏会で始まりました。
サンスターでは昨年も演奏しましたが、今年の始業式のテーマが"躍進"ということで、部長も「大阪予選で全国大会の出場権を獲得することと、アメリカ公演を成功
させることが和太鼓部にとっての躍進へのテーマです。」とスピーチしました。その和太鼓の演奏は「テレビ会議」システムを使って全国の支店や工場に同時中継さ
れ、多くの社員が見守ったということです。演奏後、名誉顧問は会長さんと懇談し、重役の方々も交え、和太鼓部の歴史や芥川高校の教育内容などについて話をさせ
て頂きました。
1月24日(日)、大東市のサーティホールで開催された芸文祭郷土芸能部門で和太鼓部は優勝し、7月に広島県三原市で開催される第40回全国高校総合文化祭への2年
ぶり13回目の出場を決めました。部員たちは昨年、僅差で柴島高校に破れ、その悔しさをバネにして、今回は高校生には到底真似できないハイレベルな演奏技術と、チー
ムワークを感じさせる演奏を目指して日々精進しました。その甲斐あって、18人の審査員中15人が1位に推薦、72点満点の68点というハイスコアーで2位の柴島高校(48点)
に圧勝しました。会場ロビーで不安げに審査結果を待っていた部員たちは、結果を聞いた瞬間、歓声を上げ、互いに抱き合って喜びの涙を流していました。
和太鼓部では全国大会出場や海外公演の大きな目標の他、被災地訪問や年間70回にも及ぶ様々な演奏会など社会に直結したインタラクティブな活動を通して、
部員たちが自分で考えて行動できる力を身につけていきます。そうしたことが評価され、アクティブラーニングのモデルとして、このほど、東京大学の総合教育センター
関連のWebページ"マナビラボ"に取り上げられました。http://manabilab.jp/article/1001 ぜひ、ご一一読下さい。
宮城県気仙沼下見訪問感想文(2014年4月19日〜20日)
気仙沼を訪ねて 川角ありさ(交流実行委員長)
私は震災から1年後に、宮城県名取市の仮設住宅を訪問したことがあり、その時は復興はこれからだなと思いました。そして今回、気仙沼に行くことになって、復興が着々と進んでいるだろうなと思いました。しかし、現地へ行ってまず見たことは、3年経った今でもまだまだ復興は進んでいないということです。テレビなどでは時々、順調に進んでいる表の映像が放送されることもあるけど、それさえ最近ではだんだん報道されなくなって、忘れかけてる人もいるかもしれません。でも、現地に行ってみて、自分もどこかで忘れかけていた部分があったんじゃないかと気づきました。
そして、今回の気仙沼訪問を私は楽しみにしていました。それは気仙沼の鹿折中学校の仮設住宅の方と文通していて、相手の方に会うことができるかも知れないと思っていたからです。連絡もせず、突然、その方の住宅を訪ねたのですが、幸運にも会うことができて、その方から、「東北の人たちを応援してくれている大阪の人たちがいるということは本当に嬉しいです。」と言われ、被災した方にとって一番辛いことは、今も大変な状況が続いていることを、みんなに忘れられてしまうことなんだと感じました。
今回、気仙沼へ行って現地の気楽会や八幡太鼓の方々と直接話して、その思いに触れたことで交流実行委員長としても、少しでも気仙沼の方々に元気になっていただけるよう、八月の合同演奏に向けて今まで以上に日々の練習を頑張っていこうと思いました。
そして、たまたま復興イベントの中で、現地の八幡太鼓の「は組」の演奏を見ることができました。気仙沼のお祝いの時に演奏される伝承曲を演奏していて、町のカラーがすごく出ていました。私たちの住んでいる地域ではそういう伝承曲がないので、すごくうらやましいなと思いました。演奏が終わった後、「は組」のみなさんと話すことができました。メンバーには高校生もいて、演奏を見た感想や、お互いが演奏している曲、高校生活や普段の太鼓の練習時間などの話をして盛り上がりました。今日の演奏曲の中には私たちもやっている曲があったので、「夏に合同演奏をする時、ぜひ一緒にやりたいね。」という話もしました。連絡先も交換したので、八幡太鼓さんとの手紙交換についても今後話を進めていこうと思っています。
現地の方々と触れ合い、そこで感じたのは気仙沼の方々のあたたかさでした。出会った方一人一人が自分たちの町のことを考え、みんな、行くところ行くところに知り合いがいて、人とのつながりが強くてすごいなと思いました。現地の方じゃなくても、出会った方々は本当に気仙沼のことを考えて自分たちの思いを熱く語っていて、こんな方々とつながりを持つことができたことが何より嬉しく思いました。
また、気仙沼の方々は私たちが夏に気仙沼を訪問することを歓迎し、演奏をすごく期待し、楽しみにしてくださっていることも強く感じました。私たちも気仙沼とこれからもつながりを持ち続けるために、和太鼓部で協力して今回の企画を成功できるよう頑張りたいと思いました。
気仙沼訪問感想 村上友月(和太鼓部部長)
気仙沼に行くまでは、実際に自分たちが行って大人の人たちと打ち合わせできるのかと不安でした。緊張しながら、八幡太鼓の代表の方々と会いましたが、私たちをとても歓迎していただき、話も熱心に聞いていただきました。みなさん、合同演奏会や港まつりでの演奏をとても楽しみにしていて、期待をしてくださっているのが伝わってきて、わたしも本当に成功させたいなと思いました。そして八幡太鼓の皆さんから、被災地でいま一番必要なこと、政府と被災者の求めているものが違うということ、和太鼓をやることでたくさんのつながりが持てるということを学びました。
次は鹿折中学校住宅に行きました。そこではとても温かく歓迎していただき、おばあちゃんもおじいちゃんもお茶を入れてくださったり、お菓子をくれたり、とても親切で震災時の話も聞くことができました。ご夫婦とも車に乗ったまま津波に流され、窓から脱出して、おばあちゃんがおじいちゃんのことを助け出したと聞きました。自分の身を守るだけでなく夫の命を助けたおばあちゃんはすごいなと思いました。おばあちゃんは編み物が得意で、ペットボトル入れや帽子などを編んで、大阪の支援者の方にバザーなどで売ってもらっているそうです。編み物は可愛くてわたしも欲しくなりました。震災から3年がたちましたが、みなさんは未だに仮設の小さな部屋で暮らしています、でもおばあちゃんとおじいちゃんの笑顔はとても幸せそうでした。仮設住宅は中学校のグランドを占拠して建っていて、中学生たちも運動ができないので、体育の授業はランニングばかりになっているそうです。
夜は八幡太鼓の演奏を見ました。メンバーは女性の方が多く、高校生もいました。演奏後に私たちより一つ上の人と一つ下の高校生と話しました。親しく話しかけてくれ、とても話しやすかったです。同じ太鼓を叩く同士なにか通じるものがありました。二人も私たちの演奏を早く見たいと言ってくれて、もっと二人と仲良くなって、はやく夏にまた会いたいなと思いました。そしてこれからもこのつながりが夏が終わってからも続いてほしいなと思いました。
二日目は朝、安波山という気仙沼を一望できる山に連れて行ってもらいました。そこからの景色は、津波被害を受けた沿岸部は土を盛り上げる嵩上げ工事の様子が見え、家が多い山側と比べると、まだほとんど何もなくて、復興はまだまだと思いました。復興された魚市場にも行きました。気仙沼はかつお、まぐろ、ふかひれなどの水産業が盛んでした。だから復興もまず、漁業関連の施設が最初に必要なのです。そこには津波が襲ったあとが残っており、ここまで津波が来たという表示板や津波の汚れが残った壁などしっかりと残されていました。
その後は俳優の渡辺謙さんが建てたカフェ「K-port」に行きました。渡辺さんは復興についていろいろ考えた末、再び港に多くの人が集まることがまず大事だと考えて、カフェを作ったそうです。そして、度々ここを訪れては、ウエイターとして働くそうです。
それから気楽会主催の「町歩きツアー」に参加しました。参加者も東京や岩手などいろんなところから来ていて、復興に関心のある人ばかりでした。案内役の方が昔経営していたお菓子屋さんがあった場所にも行きました。津波の前は観光客や近所のお客さんと楽しい会話をしたりして幸せだったと話していました。そしていつかまたそんな日々が送れるようにしたいと言っていました。私はそれを聞いて、とても応援したくなりました。今年夏にも、また何年後かにもあの場所を訪れて、お菓子屋さんができるのを楽しみにしています。
たった二日間の訪問でしたが、現地へ行って初めて、すごくたくさんのことを学びました。高校生の私たちができることは何だろうと考えると、現地の方々のいろんな話を聴き、そしてあの震災の事を決して忘れてはいけないということが、私たちにできることかなと思いました。3年たった今まだ復興がこれからだというのに多くの人はほかの事に目を向けて忘れかけています。わたしは気仙沼の方々の温かさや復興への思いにとても感動し、今年の夏だけではなく、また何年後かにも気仙沼に来たいと思いました。そして今回できたつながりを大事にして、夏の合同演奏会、港まつりすべてを成功させたいと強く思いました。
2013年4月27日(土)NGO”WFWP1"(世界平和女性連合)高槻支部例会での部員2名のスピーチ
〜芥川高校和太鼓部の部員たちが部活動の体験を通して、どのように成長していくのか、2名の部員が語る〜
和太鼓部に入って成長したこと
中谷 稚夏
私が和太鼓部に入った理由は小学校の時に芥川高校和太鼓部の先輩が私の通っていた小学校まで演奏しにきてくれたことです。
その先輩方にあいさつをしたらとても明るく満面の笑みでおはようございますと返して下さいました、いざ演奏が始まるとざわ
ついていた会場が一気に静まり返りみんな演奏に聞き入っていました、演奏している先輩方は一生懸命でとてもイキイキしてい
ました、私は一緒に演奏したい!と強く思いました。演奏が終わったあとの片付けもテキパキとされていて、小学生だった私は
驚かせれてばかりでした。
私は中学生のときバスケットボール部に所属していました、私の代は23人ととても多くランニング、筋トレなどとても厳し
く精神的にも強くさせられました、真夏の練習では3時間でTシャツ3枚、水2リットルを使うほどの厳しい練習でした。
練習がおわった後は遊ぶ気力もなく家に帰るとすぐお風呂に入り寝るといった生活を過ごしていました。スタメンに入るた
めに人よりも大きな声を出そうとしたり自分にしか出来ないと思ったことをひたすら頑張っていました。バスケットボール
部はとても厳しく礼儀・先輩との上下関係などを教えてもらいました、バスケ部時代の生活はとても厳しく大変なこともた
くさんありました。あの時一緒に頑張った仲間がいなければ最後まで頑張り抜くことは出来なかったと思います。今となっ
ては人間的にも成長させてくれた顧問の先生や先輩方、同期に出逢えて本当に良かったと思います。
それから私は芥川高校和太鼓部に入りました。 和太鼓部でも礼儀や上下関係はあります。しかし中学のときとは違い先輩
が後輩に対して意見を聞いてくれたりしてみんなで意見を出しあい向上していこうとゆうような環境でした。最初は言っ
てもいいのかとても戸惑いましたが発言するとちゃんと受け止めてくれました。そういったように客観的に自分達をみて
研究し見ていただいてくださる方々によりよいものをみていただけるようにと毎日練習をしています。私は素晴らしいク
ラブだと思いました。
和太鼓部に入る前は顧問の先生が指示をしたりオーディションなどしたりして曲をつくっていく
のかなと思っていましたが、 和太鼓部で演奏される曲のほとんどの工程は部員だけでつくっていきます。なのでやらさ
れているのではなく自分たちで案をだしあってつくらなければならないのでその曲に対しての思い入れなどが強くなりま
す。なので演奏してお客様の反応が悪ければ素直に受け入れなくてはならないのです。なにがわるかったのか、どうした
らもっとよくなっていくのかを真剣に考え、もっと良くなるために練習をします。お客様に褒めていただけたと
きはとても嬉しいですし、今後の練習ももっともっと頑張らなくちゃと一段と熱がはいります。
芥川高校では部員全員で
演奏をするので出来ない人がいてもみんなが出来るまで練習を行います。私は器用な方ではないので1年のころは同期や先
輩によく迷惑をかけてしまい、マンツーマンで教えてもらうことが多かったです。教えてくださる先輩も同期も嫌な顔ひと
つせずに教えてくれて私ができたときには自分のことのように喜んでくれました。一緒に喜んでくれたこと、付きっきりで
教えてくれたことを本当に感謝しています。入部する前は先輩みたいにちゃんと演奏ができるのかなとか、ちゃんとついて
いけるのかなとか、不安でいっぱいでしたが、熱心に優しく、時に厳しく初めからちゃんと教えてくれるので不器用な私で
も頑張ることが出来ました、入部してからまずする事は筋トレです。初めのころは出来ることが筋トレしかないので休日は
5時間ほどひたすら筋トレをしていました。そのおかげで2週間ほどで細かった腕もがっちり筋肉がつきました。そんな厳
しい筋トレを乗り越えたらバチを握ることができ素振りをします、それを乗り越えたら太鼓を叩かせてもらえます。初めて
太鼓を叩けたときは心の底から嬉しかったです。その感動とゆうのは言葉では表されない程のものです。
入部したときに先
輩方は7月下旬にある全国大会に向けての曲を練習していました。いつも外から見ていたのですが、初めて先輩方の演奏を
前から見たときには鳥肌がとまりませんでした。しかし先輩方は自分達でこうしたら良くなるんじゃないか、ここはもっと
こうしたほうが良いなどと自分達で意見を出し合っていました。当時の私からみたら素晴らしいとしか言いようがない曲を
もっと良くしていこうとしている先輩方をみて本当に凄いと思いました。
私はもうその3年生となりその憧れていた全国大
会の曲のパートリーダーをしています、あんな演奏が私に出来るのかな、などと1年のころは思っていましたが、もうみん
なを引っ張っていく立場となりました。見ているよりもパートリーダーは大変で悩まされることも山程ありました。そんな
ときは同じパートの子に相談したりしてみんなに支えてもらいました。全国大会の予選の芸文祭という大会があるのですが、
私たちが1年生だった2年前は予選落ちをしてしまい、とても悔しい思いをしました。先輩方といけなかった全国大会の舞台
に今年こそは絶対に立つ!!このメンバーをしっかり引っ張っていこうと決心して芸文祭に挑みましたが、実際は同じパート
や同期に助けられたことのほうが多かった気がします。パートリーダーをすることはとても大変で辛いこともたくさんありま
すが人間として大きく成長をさせてくれます。パートリーダーをやっていてとても嬉しかったことは芸文祭当日に中谷がパー
トリーダーで良かった、ありがとうと言ってもらえたことです。頼りない私を信じてついてきてくれたことをとても感謝して
いますし、あの辛い練習を乗り越え大阪1位となれたことをとても嬉しく思います。次は全国大会に向けて再びみんなで頑張
っていこうと思います。
芥川高校和太鼓部の練習には事細かい練習メニューはなく自分で今日なにしようなどと決めることが
できます。自分に甘くしようと思えば簡単にできますし、自ら厳しくしようとすることもできます。なのでそこで頑張るか諦
めるかで自分の成長が変わってくるので初めの頃は驚きましたが、それがあってこそ今自分で自分のことを理解していけるよ
うになれたんだと思います。ただ厳しい練習だけがいいのではなく体調などに合わせて自分を見極めていくことも重要です。
土日の練習は10時間と長いのですが毎日一緒に濃い時間を過ごす仲間と駄目なことはだめと注意したり、良いことは褒め
あったり、自分の意見をはっきり言ったりと家族のような絆で結ばれています。私はそんな和太鼓部員が大好きです。初めて
先輩方の演奏会についていったとき演奏をみてくださったお客様は涙を流され良かったと言って下さいました。私はとても感
動しました。この部活に入って本当に良かったと改めて思いました。
山下先生と和太鼓部についてはなしあったとき、山下先生は礼儀や所作や常識的なことは教えていないが、色んな経験が
できる場所を提供しているだけだ!とおっしゃっていました。確かに礼儀や太鼓の打ち方などの面では先輩から教えていた
だきました。色々な場所で演奏会を行い、色んな方々と出会ってお話しをしていたら、たくさんのことに気づかされます。
自分の話しているときの態度・行動などを客観的にみて色々な方々が集まる場所でも恥じないようにならなくてはならな
いと思うようになります。私がそうした交流をしていてよく感じることは世界には色々な方々がいてそのひとそれぞれに
考えかたがあるんだとゆうことです。色んな人と出会って色々な体験をすることはとっても大切で貴重なことです。今まで
出逢ったたくさんの人、これから出逢うたくさんの人との出逢いをもっと大切にしていこうと思います。
和太鼓部ではチャリティーコンサートやボランティア活動などを行っています。最初の頃はどうして和太鼓部なのにするの
だろうと疑問に思っていました。和太鼓部がボランティア活動を行うきっかけとなったのはひとりの先輩が自分達は応援
してもらってるだけでいいのか、演奏だけでなく社会に恩返しをしていきたいと思ったのがきっかけだそうです。私がチ
ャリティーコンサートをする理由を教えてもらったのはチャリティーコンサートをする前にある事前学習会で熱心にお話
をしてくださる方の思いに触れたことです。学習する前はチャリティーコンサートをする意味があまり具体的には見えな
かったのですが、学習したあとは何故チャリティーコンサートをするべきなのか、発展途上国の方々がどうやって暮らさ
れているのかなどチャリティーコンサートを行う理由が前よりも具体的に見えてきました。今ではチャリティーコンサー
トやボランティア活動は私にとってとても重要なことで困っている人の役に少しでも立ちたい・これからもこうした活動
を続けていきたいと思うようになりました。
私達部員は去年の7月に宮城県名取市を訪問しました。訪問するにあたって
不安や心配もたくさんありました。どうしたら元気を与えられるか、行って私に出来ることはあるのか、被災地を訪問す
ることはあってるのか、などとたくさん思いました。現地にいってみると殺風景な光景が広がっていて悲しい気持ちにさ
せられました。しかし現地にいらっしゃった方々はとても元気にみんなで協力して過ごされていて私は逆に元気をもらい
ました。仮設住宅で演奏させていただきその場にいらっしゃった方々ひとりひとりにどういった生活をされていて何を思っ
ているのかなどを聞かせていただきました。お話しをしてくださった方々はひとりひとりの人間で思っていることも当たり
前ですが少しずつ違うんだと思いました。ニュースや新聞などで報道されているとどこか他人事のようになってしまい、
取材を受けた方の意見が報道されるので偏った意見になりがちですが、全員がそうでは無くて、ひとりひとりが被災した
ことに対する意見をもっていて、それもひとりひとり違うんだと実感させられました。それと同時に被災者としてみるの
ではなくひとりの人間として関わり続けていきたいと思いました。それ以来ニュースや新聞などでみる震災の話題も身近
に感じられるようになり、以前よりも真剣に役に立ちたいと思うようになり、私達が出逢った光景をしっかり伝えていき
たいと思うようになりました。なので私はチャリティーコンサート・ボランティア活動・被災地訪問などをすることはと
ても大切なことだと思いました。こういった経験をさせてくださった山下先生・訪問を受け入れてくださった方にとても
感謝をしています。
私が和太鼓部に入って大きく変わったことは、人と関わっていきたいと強く思うようになったことです。元々自分から人
に話しかけたりすることが苦手でいつも緊張をして話せるチャンスを逃してしまい後悔することが多かったのですが、和
太鼓部に入ると色々な方々と交流をしたりお話しをさせていただける機会があるので、そうした経験をしていくうちに自
分から話しかけれるようになりました、まだまだ話しをするときに緊張するのですが自分から話しかけれるようになった
ということは和太鼓部に入って最も成長したことだと思います。これから和太鼓部を引退しても生きていく限り人と関わ
り続けて行くのでこうした和太鼓部での活動・経験を通して学んだこと・成長したことをこれからもしっかり生かしてい
きたいと思います。こんな貴重な体験をさせていただいて本当にありがとうございました。
人との出会いで見つけた将来の目標
高穂真花
私が和太鼓部に入る前は、人に自分から話しかけたり自分の思っていることをうまく伝えることが苦手で、他の意見に
流されやすくいいなりになることが多くありました。
心の中ではそんな自分が嫌で「変わりたい」と強く思っていても、どうしたらいいのか分からず、行動に移すこともできなくて、
心の中で願うだけでした。
そのまま中学3年生で受験生となり、友達は進路を少しづつ決めていく中、私はやりたいことも進路もなかなか決まらず迷って
いました。そんな私に母が一枚の写真を持ってきてくれました。そこには5歳のときの私と「芥川高校和太鼓部」とかいてある
ハッピを着ている女の人と一緒に写っていました。その時に、私は「芥川高校和太鼓部」の存在を知りました。
写真を見た後、母が「ちょうど芥川高校の説明会があるから行ってみたら?」と勧めてくれたので私はその説明会に参加しました。
説明会が終わった後、和太鼓部の演奏の映像が流れていたので私は少しだけそれを見ていました。その時はまだ演奏の良さは分から
なかったのですが、映像の中で楽しそうに太鼓を笑顔で叩いている人や
曲が終わるまで一生懸命に打ち込んでいる人の姿がとても輝いていて私はすごくひきこまれました。そして、高校生だけなのに、
こんなに見ている人をひきつけることができるのかと思いとても驚きました。
家に帰ってから、私は「このクラブに入れば今の自分と変わることができるかもしれない。」と思い和太鼓部に入りたいと強く願
いました。その後、両親と相談して私は芥川高校を志望校に決めました。そして受験にも無事合格し、私は念願の和太鼓部に17
代目として入部することができました。
先ほどのスピーチにもあったように、入部当初は一日中筋トレ・体力づくりばかりで、休日は朝の9時から夜の7時まで練習と厳し
いものでした。入部する前にそれなりに覚悟はしていたのですが、実際はとてもしんどくて外から先輩の太鼓を叩いている姿を見
て羨ましいなと思うことがほとんどで正直あまり楽しくありませんでした。
でもそんな厳しい練習の中で、技術を教えてくれただけでなく私達の成長を優しく見守ってくれた先輩方と、厳しい練習やしんど
い時も一緒に支えあって頑張れる最高の同じ代の仲間に出会うことができました。練習が辛いと感じることもありますが、自分に
とってプラスに返ってくるもののほうが大きいだけでなく、大切な仲間の助けもあり、これまで頑張ることができました。
練習だけでなく中学のクラブと大きく違ったこともあります。
和太鼓部は、先輩・後輩関係なく一人一人の意見がとても大切で、その意見に基づいて行動することが多くあります。意見を伝
えることが苦手だった私も、発言することが徐々に増えたため発言することに少しづつ慣れてきました。それだけでなく、自分
の気持ちをもっと知ってほしいと思うようになり自分自身にも少しづつ変化がでてきました。
和太鼓部は演奏活動だけでなく、老人ホームの方や外国人の方と交流したり劇にも出演するなど幅広く活動しています。
その中でも心に残っている活動は、2011年3月11日に起きた東日本大震災に関係する活動です。震災が発生したとき、私は
中学の卒業式があり、式が終わって家に帰って休んでいる所でした。部屋がゆっくり揺れ始めたとき、私は「あ、地震だ」とあ
まり驚くこともなく気になりませんでした。しかしテレビをつけると、東北地方の町と建物が津波に飲み込まれている映像が流
れていました。生まれて初めて見る光景に私は何が起きているのかよく分かりませんでした。それから和太鼓部に入部し活動に
も慣れ始めたころ、先輩達が8月に開かれる全国大会に出場するため、私達も一緒に開催地の岩手県に訪れました。その時に、
大阪を出発する前に部員全員が被災地の方々に渡すために書いた手紙を一緒に持っていきました。手紙を渡そうと考えたのは、
私が生まれた年に起きた「阪神・淡路大震災」で大切な家族や友人を亡くした多くのお年寄りの方達が孤独死で亡くなっていく
という大きな問題がおこった時に東京に住んでいる中学生がそんなお年寄りの方々に手紙を書いて文通を始めたところ、その方
達の生きる支えになり、孤独死で亡くなる方が少なくなったという話を聞いた顧問の山下先生の提案でした。
最初は、私達の演奏を見ていただこうと考えたのですが、演奏よりもお互いの気持ちが伝わりやすい手紙を送ろうと決めたた
め手紙を書くことにしたのです。
全国大会での演奏が終わった翌日に被災地の現状を知るために宮城県名取市を訪れました。
そこにはたくさんのガラスの破片と瓦礫の山、震災が発生した時間に止まった学校の時計、津波で道路まで流された船や車が屋
根の上に乗っていたりと、一つ一つの光景がとても衝撃的で私は目を疑いました。被災地に住んでいる方々も私たちにいろいろ
なことを教えてくださりましたが、相手が笑顔迎えてくれてもどこか暗いものが感じられました。現地を見た後、私は自分の書
いた手紙が相手を不快な気持ちにさせないかと不安になりました。。その後、現地の方に私達の書いた手紙をお渡しし、私と同
じ高校生とお年寄りの方々の元に届けていただきました。大阪に帰ってからもその不安はなかなか消えませんでした。
大阪に帰ってから一か月後、一通の手紙が私の家に届きました。それは、名取市に住んでいる方からのお返事でした。その方は
、津波で家を流され大切なものをなくしてしまった被災者の一人でした。私は手紙の返事が届いたことに嬉しいとも感じまし
たが、何より返事をどう返せばよいか分からない気持ちでいっぱいになりました。
最初は家族と相談しながら、時間をかけて手紙を書いて送りました。すると、またお返事が届き手紙には、今の被災地の様子や
生活などが書いてあり、たくさんのことを教えてくださりました。
回数を重ねていくうちに内容も少しづつ明るい話題もでてくるようになり、手紙を読んで私も嬉しい気持ちになりました。
クラブ生活にも慣れ始め演奏会にも参加できるようになったころ、1月に行われる全国大会に出るための大阪予選でもある大阪
芸能文化祭に初めて出場しました。
和太鼓部は毎年その大会で優勝していたのですが、その年はライバルでもある高校に負けてしまい第2位という結果になってし
まいました。結果を聞いたときはとても悔しくて悔しくて家に帰ってからも気持ちはなかなか晴れませんでした。その気持ち
を伝えたくて私は手紙を書いて送ると、返事がいつもより少し早く届きました。
手紙の中には、「この結果はきっと次に繋がります。来年の大会では優勝できるように頑張ってください。応援しています。
」と書いてありました。私は手紙を読んでとても力をいただきました。
最初は被災者の方に少しでも力になれるようにと始めた文通が、自分自身にも相手の方からエールをいただくとは思っていな
かったのでとても嬉しい気持ちでいっぱいになりました。文通を続けていく中、私は相手の方に会って直接お話ししたいと思
うようになりました。他にも文通をしていた部員も私と同じ気持ちで文通相手の方と会いたいという意見もあり、去年の8月
に再び私達は宮城県名取市を訪れました。
被災地に住んでいる方達は、震災当時よりも表情が私達と変わらないぐらい明るくなっていました。瓦礫でいっぱいだった道
もある程度撤去され新しい家も建ち始めていましたが、仮設住宅からまだでることはできず、まだ手をつけていない場所もあ
り震災の傷跡が大きく残っていました。そんな状況の中でも、負けずに力強く生きている現地の方の姿を見て私も「今日も頑
張ろう!」と、とても前向きな気持ちになりました。
仮設住宅で演奏会をしている途中で後輩に声をかけられて振り向くと、一人の女性の方が私の手紙を持って立っていました。
私はすぐに文通相手の方だと分かり、やっと会えたという気持ちでいっぱいになりました。演奏会の途中ということもありゆっ
くりお話しできませんでしたが、演奏会が終わった後に交流の時間をいただいたので
私は文通相手の方の元に向かい、短い時間でしたがたくさんお話することができました。相手の方はとてもきれいな笑顔で、
私に「手紙を送ってくれてありがとう。いつも元気をいただいています。」と手を繋ぎながらおっしゃって下さりました。私
たちがバスで帰るときにも、お見送りに来てくださりバスが見えなくなるまで最後まで手を振ってくれました。
一年生の時に書いた一通の手紙で、私は文通相手の方と出会い、かけがえのない繋がりを持つことできました。
先輩が引退し、
私達が最高学年として和太鼓部を引っ張っていくようになったころ、自分の将来に大きく影響を与えた活動がありました。
それは今年の2月に東日本大震災の義援金を集めるために、芥川高校の軽音部・ダンス部・和太鼓部の三部で行う三部合同チ
ャリティーコンサートです。私達はチャリティーコンサートを行うときに、募金を送る場所がどのような場所で何が起こり困
っているかを知るために現地で活動している方に来てもらいお話をしてもらう学習会を行っています。
その時は看護師の方が来てくださり、当時の病院の様子や生き延びるために店の商品を盗んでいる子供を目撃しショックを受
けたことなど私が知らなかったことをたくさん話してくださりました。その中で幼稚園に通っていて家族と離れて避難してい
た子供の元に親が迎えに来る中、津波で両親を亡くしたことを知らず、ただ親の迎えを泣かずに待っていた子供がたくさんい
たという話を聞いて私はとてもショックを受けました。
学習会が終わった後、看護師の方に今の自分にそんな子供達に何かできることはないかと質問しに行きました。
それに対してその方は、「あなたがしている文通と同じで、どんな形でも人と繋がりをもち続けることはその人にとってすご
く力になれると思うから、その繋がりを忘れないでもち続けてほしい。」と答えてくれました。私はそれを聞いて文通をこれ
からも大切に続けようと、強く思いました。
和太鼓部に入ってから、私はたくさんの人達と出会い、たくさんのことを経験しました。
大好きな先輩や仲間と、演奏会を見に来てくださったお客様、被災地に住んでいる人達と大切な文通相手の方、そして自分の
将来にきっかけを与えてくださった方に出会いました。たくさんの人達と出会って多くの繋がりをもつことで、いろいろなこ
とを感じ自分の本当の思いに気づくことができます。それができる所がこの芥川高校和太鼓部の魅力だと私は思います。
私は将来、親と一緒に暮らせない子供達の支えになれるような道に進みたいと考えています。これからも、残り少ない和太鼓
部の活動の中で、たくさんの人達と出会ってそこにできた繋がりを大切にしていきたいです。
2010年度「国際理解・国際協力のための高校生のスピーチコンテスト」で”優秀賞”受賞(2011年1月22日)
「日本の高校生たち、ありがとう!」 大阪府立芥川高等学校 三年 水野真美
「日本の高校生たち、ありがとう!」、二十九人の子どもたちの大きな声がガーナのアスオフィア村にある教会の南東に広がる豆畑に
こだまします。エイズで両親を亡くしたり、貧困のために親元を離れて暮らしている孤児たちです。
彼らを支援するガーナのNGOの存在を知ったのは、私たちの和太鼓部が最初にチャリティコンサートを実施した時でした。孤児たちは
その教会で、月に一回、私たちが支援した資金で購入した、米や石鹸の配給を受けるのです。その時に子どもたちは私たちが暮らしている日本の方向を向いて、大声で感謝の言葉を言うのです。
私が部長をしていた芥川高校和太鼓部は年間五十回以上のボランティ演奏を行い、地域の人々に愛される存在になっています。私が
一年の時、和太鼓部は日中友好高校生訪問団として中国に派遣され、友好年式典で演奏し、人民大会堂でのパーティにも招待されま
した。ホームステイも体験し、中国の友人もたくさんできました。また、二年の時にはオーストリアで開かれたジャパンウイークに
参加し、世界的に有名なコンサートホールでスタンディングオベーションを経験しました。
私たちは普通の高校生が体験できない夢のようなことを、多くの人たちの支援によって経験することができました。その喜びを私た
ちが誰かを応援することで社会にお返しすることができないかと考えたのが、ガーナの子どもたちためのチャリティコンサートのき
っかけでした。
私たちは実行委員会を作り、チャリティ会場確保のため、駅周辺のデパートと交渉しました。また、途上国支援をしているJICAやNGO
と連絡を取り、スタッフ派遣を依頼しました。そして、JICA 大阪センターにお願いして、学習会を開き、ガーナから帰ってきたば
かりの青年海外協力隊員の方々に現地の様子を聞かせてもらいました。こうして部員全員が明確な目的意識を持ってチャリティコ
ンサートに望むことができました。東京から来るNGOスタッフの新幹線料金は、和太鼓演奏会でいただいた交通費を部員たちが全
額カンパしてくれて、まかないました。
二日間にわたって実施したチャリティコンサートでは実行委員が趣旨を訴え、JICA やNGOのスタッフが現地の実情を説明しました
。こうして、チャリティコンサートは大成功に終わり、三十万円近くの募金を集めることができました。私たちはこれをガーナの
NGOと途上国のワクチン接種に取り組んでいるNPOに寄付しました。ガーナからは写真や礼状と一緒に子どもたちからの手紙が届き
、その手紙には、医者、銀行家など、学校に行けない子どもたちには到底、実現できそうもない夢が書かれていました。私たちは
演奏会や学校行事のことを書いた返事を送りました。
その後、ガーナのNGOからは子どもたちに配給された品物の内訳や募金の残高が逐一報告されてきました。そして半年ほどでつ
いに残高は「0」になり、私たちも三年生になって全国大会出場を最後に和太鼓部を引退しました。それと同時にガーナの子ど
もたちのこともいつしか頭から消えていきました。
しばらくして、ガーナのNGOから「子どもたちにクリスマスの日帰り旅行を体験させ、多くのことを学ばせたい。その旅費を和太
鼓部に支援してもらえないか。」との依頼がありました。現役の一・二年生は毎週末の演奏会を控えて、そんな余裕はありませ
ん。でも、私はそれを放っておけませんでした。写真で見たガーナの子どもたちの顔を思い出したのです。私たち三年生が会場
確保や学習会などの事前準備をし、和太鼓部は当日だけ演奏をすれば何とかチャリティコンサートが実施できる。私はそう考え
て他の三年生や現役部員たちと話し合いました。そして、私たちはすぐに交渉や準備に取り掛かり、クリスマスに間に合うよう
、一ヶ月前の祝日に、駅前のデパートに協力してもらって、二回目のチャリティコンサートを実施しました。終了後、募金箱を
持ってカンパを募ると、人々は「高校生ががんばっていて、感動したよ。」と言って、募金してくれました。
私たちはNGOから要請のあった旅行費用の三倍もの募金、十五万円を集めることができました。私は、クリスマスに、大型バスに乗り、
新しく作ったTシャツを着て、旅行の興奮で大騒ぎするガーナの子どもたちの笑顔を思い浮かべました。私たちが海外公演で体験した感動を子どもたちにも体験して欲
しいと思いました。
私は以前は「高校生の私たちに出来ることは何もない。」と思っていましたが、今は違います。高校生だからこそ、こんなに人
々の協力が得られたのです。私は、多くの高校生が自分たちの力を信じて行動するよう、機会ある毎に訴えたいと思います。
チャリティコンサートに取り組んで(2010年2月11日と13日)
今回の和太鼓部チャリティコンサートは「途上国の子どもたちへの援助」をテーマにして取り組みました。2月11日(祝)には
マツザカヤ(高槻店)とJICA大阪センター、13日(土)にはアルプラザとJCV(世界の子どもにワクチンを 日本員会)の協力で
実施しました。
------------以下の文はJCV宛のメールです------------------
今回の和太鼓部チャリティコンサートは全国の高校の吹奏楽部・ダンス部・軽音楽部・和太鼓部などのチャリティコンサート
の可能性を開くものだと思います。
今回、本校和太鼓部の取り組みでは、単にパフォーマンスをして人を集め、募金をするだけでなく、
自分たちがやることの意味を一人一人がしっかりと理解して取り組むことを目指しました。
和太鼓部内に実行委員会を作り、委員が途上国の様々な課題を学習し、どの分野に援助を行うかを考えながら、NGOの選定をしました。
委員が、自分たちで調べた途上国の教育の実情、保健衛生の諸問題などを部員全員にレクチャーし、さらに、JICA大阪センターでガ
ーナの人々の生活や子どもたちのおかれている現状、学校の実情などを青年海外協力隊員OB・OGから講話を聞いて途上国の問題認識
を深めました。
和太鼓部の生徒たちにとって、今回の取り組みを通して、青年海外協力隊員やNGOスタッフと出会った意味は大きかったようです。
ある部員は「和太鼓部で中国やシンガポール、オーストリアと外国に行くチャンスがあり、そのことで国際交流の仕事がしたいと考え
るようになりました。そして今回、青年海外協力隊やNGOの存在を知ってとても興味を持ちました。今は国際交流というより、国際協力
の方に関心が向き始めました。」と話してくれました。
このように、今回のチャリティコンサートは生徒たちの生き方に影響を与えるような取り組みにもなっています。
私は学校で15年間、「グローバルコミュニケーション」という授業を担当し、その中で青年海外協力隊員とのメール交換を8ヶ月間行
わせています。自由なテーマでメール交換をするのですが、その中で生徒たちが隊員の生き方に大きく学ぶ様子を見てきました。
開発の最前線の現場に身を置く協力隊員やNGO(NPO)スタッフの皆さんの存在自体が多くの高校生にとって、新
鮮なものに写り、自分を見つめ直すきっかけになっています。
ほとんどの部員にとって、途上国の課題について真剣に考えたことはこれが初めてだったと思います。生徒たちは世の中には自分が知
らないことがたくさんあるということを実感しました。また、途上国の課題解決に真剣に取り組んでいる人々の存在も初めて認識した
と思います。そして、自分たちが行動すれば多くの人々(マツザカヤ・アルプラザ・JICA・JCV・先生方・カンパしてくれた市民の方々
)が協力してくれることを実感できたと思います。高校生たちがそれらのことを実感できたという意味は大きいと思います。
本校和太鼓部では今後も継続して、このような「行動の中から学ぶ」取り組みを続けたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
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芥川高校30周年記念誌原稿(2009年6月)
1.和太鼓部の地域活動
創部15年目を迎えた和太鼓部は大阪府内を中心に年間50回以上の演奏会を行っている。
毎年定例で行われる地域イベントでは和太鼓部の演奏は欠かすことのできないものとなっており、
夏祭りの演奏を聞くのが楽しみで、毎年帰省しているという方もいる。演奏会で撮った写真や感想
を記した手紙やeメールを学校に届けて下さる方も増えて来た。
高齢者介護施設への慰問では演奏だけでなく、一人一人とゆっくり話しをさせていただく。部員の名
前を覚えて、来年また会えるのを楽しみに元気でいようと目標を立てるお年寄りもいる。幼稚園・小・
中学校や高校・短大・大学での学校公演も増え、今年度の府南部の中学校の芸術鑑賞会では市民会館で
1000人の中学生を前にして単独公演も行った。
中学校や他高校からの和太鼓講習依頼も増えており、公演の合間を縫って演奏指導をする。そして、
公演が成功に終わったという喜びの感想文やお礼の手紙を手にした時、部員たちも一緒に彼らの成功
を喜ぶ。JICA(国際協力機構)大阪センターと提携して、途上国からの研修員が日本文化に触れる場
としての和太鼓クラブの指導も定期的に行うようになった。
15年間にわたる歴代の和太鼓部員たちのこのような日常の積極的な活動が、地域の人々から愛され、
支持される基盤となっており、その地域からの声援・支援が、更に和太鼓部員の意欲と誇りを引き出
すという素晴らしいサイクルが形成されている。
2.和太鼓部の海外公演
趣味のクラブとして発足した和太鼓部が世界に通用するまでになった過程には数々のドラマがある。
初めて出場した山形での全国大会では、演奏中に太鼓が舞台に落ちて転がたり、演奏を間違えて全員
がパニックになるなど、自分たちが如何に未熟であるかを思い知らされた。その屈辱から立ち上がり
、歴代の部員たちが血の滲むような努力を重ねた結果、今の和太鼓部がある。これまでの海外公演も
先輩から受け継いだ財産の上に、さらに部員たちが困難な試練を乗り越えて、実現させたものである。
2001年の「9.11テロ」の後、アメリカによるアフガニスタン爆撃が始まり、「JapanWeek英国」
への参加団体のキャンセルが相次ぐ中で、部員たちは「死んでも行きたい。国際交流こそが平和への
道筋だ。」として戦争にも怯まない強い気持ちを示して大人たちを説得し、イギリスのバーミンガム
公演を実現させた。メイン公演では満場の拍手とスタンディングオベーションの中で部員たちは感激
の涙で胸をふるわせながら演奏した。
2003年にはトルコ公演にチャレンジしたが、この年もトルコの隣国イラクではアメリカによる攻撃
が始まった。出発前に外務省のホームページはトルコのイスタンブールでテロの危険性があり、「不用
不急の渡航は再考すべし」の警告を掲載した。部員たちは「観光はしなくていい。国際交流という大き
な目的があり、中止したくない。」と保護者会で訴えた。保護者や校長もその決意の固さに押され、参
加が決定した。しかし、メイン公演の当日、市内2カ所で同時爆破テロがあり、数百人の犠牲者が出た。
たまたま、部員たちは大きな爆発音と同時に舞い上がる砂埃をホテルの自室から目撃した。目標だった
メイン公演が中止になった無念さを乗り越え、部員が哀悼の意を込めて折り鶴をトルコの人に手渡すと、
その人は部員の手をしっかり握り返した。そして、この時から和太鼓部員はハッピの胸元に「戦争反対」
の折り鶴の刺繍をつけるようになった。
2005年には韓国公演を行った。直前には日本では「冬ソナ」ブームが起きていたが、韓国では、日
韓の歴史に起因する日本の大衆文化への反発から日本の歌手のコンサートやポップスCD発売がやっと
許可された年だった。そんな状況下で日本の伝統文化である和太鼓が受け入れられるのかという不安が
胸をよぎった。自分たちこそが日韓友好をより確かなものにしようという部員たちの強い決意が事前の
歴史学習や、韓国語でのスピーチ練習に熱を入れさせた。公演は見事に成功し、アンコールで部員が演
奏する「珍島アリラン」に合わせて、観客と部員たちの踊りの輪がいつまでも続いた。
その後、2007年にはスペインの"ESDANSA"公演、2008年には外務省による「日中友好交流高校生
訪中団」に参加し、中国北京での"友好年閉幕式典"公演を成功させた。そして今年、2009年は8月
に、文化庁による「高校生国際文化交流派遣事業」でシンガポール公演、11月にはオーストリアのグ
ラーツ市での"Japan Week"公演を予定している。このように、今や和太鼓部は日本を代表する高校生和
太鼓チームとして、国際的な舞台で人々に日本の伝統文化を紹介し、見る人々に感動を与える存在と
なった。
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「和文化教育研究会」紀要第2号所収 ―2008年2月発行―
「高校和太鼓部の活動で成長する生徒たち」
大阪府立芥川高等学校 山下 勉
1.芥川高校和太鼓部の活動
大阪府立芥川高等学校は大阪と京都の中間に位置する高槻市にあり、緑豊かな住宅街にある全日制普通科高等学校
である。学級数は各学年7学級ずつ、計21学級。800名あまりの生徒が通学している。学校の特色としては大学
の学生たちが参加する「情報A」や、参加体験型の「コミュニケーション・アワー」、保育実習、老人ホーム実習など
の体験活動を多く取り入れ、社会との関わりの中で、自分の生き方を考えさせるとともに、自己表現力、コミュニケー
ション能力を育成している。部活動も盛んで、特に和太鼓部はサッカー部と並んで、本校を特色づけるものになってい
る。
和太鼓部は大阪府内で年間50数回の公演を実施している。内容は高校音楽会での演奏のみならず、幼稚園、
小・中・高等学校、短大・大学での演奏、府内のイベント、老人介護施設の慰問などである。また、全国高等学校総
合文化祭郷土芸能部門にこれまで6回出場し、2003年度は全国3位に当たる「優良賞」、2005年度には全国
2位の「優秀賞」・「文化庁長官賞」を受賞し、東京の国立劇場で「優秀校公演」を行った。また、海外公演として
2001年にイギリス、2003年にトルコ、2004年に韓国、2007年にはスペインで演奏する機会も得た。
2.趣味のクラブから世界に通用する和太鼓部へ
創部して今年で13年目を迎えたが、もちろん、一朝一夕に現在のようなクラブになったわけではない。最初
は部員たちはアルバイトをしながらの部活なので、練習も週2回だった。もともと人に見せることを想定していない
ので、太鼓に向かう部員の気持ちも強いものがない。和太鼓部の活動を教育として行う以上、成長につなげるために
部員の和太鼓に対する意識改革がどうしても必要だった。ちょうどその頃、私が加入していた和太鼓市民サークルに
外務省の外郭団体である国際親善協会から1通の電子メールが届いた。そのメールには「和太鼓はヨーロッパでは非
常に人気があり、JAPAN WEEKに出場する和太鼓団体を募っています。」とあった。もし、和太鼓部を海外に連れ
て行けるとしたら、部員は太鼓に誇りを持ち、まわりの生徒たちも部員を高く評価するようになるだろうと思い、す
ぐ上京し、担当者と会った。そして、JAPAN WEEKに高校生の和太鼓チームとして本校の和太鼓部の派遣を将来必
ず実現させることで合意した。
そこから3年がかりの和太鼓部改造計画の取り組みが始まった。まず、1999年、山形県で行われた全国高
等学校総合文化祭郷土芸能部門に初めて出場した。しかし、他校のリハーサルを一目見ただけで部員たちは「もう帰
りたい。ここは自分たちの来る所じゃない。」と動揺した。案の定、本番の演技では太鼓の台の紐がほどけて舞台に
締太鼓が落ちて転がり、緊張のために数人が間違えてリズムが乱れ、演奏が止まりそうになった。一方、他校の舞台
は躍動感と気迫に満ち、舞台裏でのきびきびとした準備と太鼓を大切に扱う様を見せつけられ、部員たちは屈辱感を
かみしめた。
学校に戻ると、数人が黙々と練習を始めた。太鼓に向かう姿勢がこれまでと違ってきた。練習は毎日するよう
になり、太鼓の扱いが丁寧になった。音にこだわって締太鼓を締め直したり、太鼓の面の汚れを拭き取る者も出てき
た。ミーティングも頻繁になり、1回1回の演奏会に目標を設定して望むようになった。 それから2年後の200
1年はいよいよ、イギリスでのJAPAN WEEKが開催される年であった。外国で公演するためには全国大会に出場す
ることは必須である。緊張感に包まれて大阪府芸文祭に望んだ。そこでは念願かなって第1位となり、福岡大会に2
回目の大阪府代表として出場した。部員の意識は前回と違い、しっかりとした練習を積み重ね、他校にないオリジナ
リティのある演奏をしようと意気込んでいた。イギリス公演を意識して、太鼓演奏の楽しさを表現する事にチャレン
ジし、技術的にも何とか全国大会レベルの演奏をすることができた。
イギリス公演のために、高校生団体では初の国際交流基金からの助成や大和日英基金などの助成や、学校や地
域からの支援も多額に受けることができた。部員はこうした多くの支援に、社会からの自分たちへの期待の重さを感
じた、そしてその期待に応えるためには海外公演を成功させることしかないという強い気持ちを持つことができた。
そして、イギリス・バーミンガムでのJAPAN WEEKメイン公演でスタンディングオベーションを受けることができ
た。この海外公演で部員たちは1年間の歯を食いしばるような努力が報われたことを確かな手応えとして感じとった。
2003年には更なる目標設定のため、トルコ公演を計画した。日本とトルコを繋ぐものとして「シルクロード」
という曲をメインテーマにし、トルコ公演を成功させるための自分たちの努力の過程をその曲のストーリーと重ね合わ
せた。部員にとっては曲を仕上げていくことがトルコ公演の成功に近づくこととして意識された。その年の福井大会で
はその「シルクロード」で全国3位に当たる「優良賞」を獲得した。そしてその成果を自信にしてトルコ・イスタンブ
ールでのJAPAN WEEKでは大好評を博し、部員のトルコ語によるスピーチや曲説明に大きな拍手が湧き、アンコール
の「ジェッティンデデン」の演奏では常に観客の大合唱と興奮を巻き起こした。人気テレビ番組への出演もあり、トル
コでの扱いはアイドル並みとなり、行く先々で新聞やテレビの取材を受けた。
2004年には徳島大会に出場した後、韓国公演を行った。日本では「冬ソナ」ブームが起こり、韓国に親しみを
持つ人々も増えていたかも知れない。しかし、竹島問題をはじめ、政治レベルでは日韓関係はぎくしゃくしていたし、
韓国側には日本による支配の歴史に起因する日本大衆文化への拒絶反応は依然として強く、日本の歌謡曲のCDがやっ
とその年に発売許可されたばかりだった。そうした環境の中で和太鼓という日本の伝統文化を披露することはやや不安
があったが、だからこそ、逆に大きな意味があり、次代を担う青年たちこそが新しい日韓交流を担うことができるのだ
と信じた。そして演奏会では韓国語でのスピーチや珍島アリランの演奏に、韓国の人々は踊り出し、部員を抱きしめ、
おんぶして走り回るアジュンマもいたほどだった。日韓の友好を願う部員の気持ちが通じて、演奏者と観客が国境を越
えて響き合うことができた。
こうした経験をふまえて自信をつけた部員たちは2005年に青森大会で全国2位に当たる「優秀賞」・
「文化庁長官賞」を受賞するのである。
3.地域活動こそが学びの場
全国大会や海外公演は生徒たちにとって大きな体験ではあるが、むしろ、普段の地域でのボランティア演奏活動
で彼らが学んだことこそ大きい。
第1に、1回1回の演奏会を大切にしようということである。これは老人ホームで慰問演奏を楽しみにしておら
れた方が、演奏会を見ないまま、和太鼓部の写真を枕元に置いて亡くなられたということがあったからだった。部員た
ちの「また来年来ますから、楽しみにしていて下さい。」という別れの挨拶はお年寄りにとっては特別の意味を持つ。
それ以来、部員は老人ホームに限らず、どの演奏会でもお客さんとの出会いは一期一会であり、観客の心に残るようベ
ストを尽くして演奏しなければならないことに気づいた。また、老人ホームでは演奏だけで終わらず、演奏終了後には
お年寄りのそばに座り、手を取って感想を聞いたり、話を聞かせてもらったりして、交流を大切にしている。
第2に、部員のホスピタリティである。これは地域で愛される和太鼓部へと成長してきた過程で身に付いたもの
である。毎年のイベントや祭りで演奏することによって、地域住民が和太鼓部の成長を見守り、応援してくれるように
なった。海外公演や全国大会出場の際には地域から多額のカンパが寄せられ、部員たちは和太鼓部が地域の人々にとっ
ての希望であり、多くの人々に愛されていることを実感し、感謝の念を持って人々に接することが大切だと考えるよう
になった。そして観客の満足なくして自分たちの満足はありえないことを知った。周りの人々に気を配り、配慮ができ
るようになった。韓国公演ではソウルの空港で太鼓を運ぶのに使ったカートを、置き場まで返しに行く部員たちを見て、
空港職員が「こんなお客は今まで1人もいなかった。」と感激したほどであった。
第3に自分たちは社会の中で必要とされているという自己肯定感を持つことができたことである。部員たちはク
ラスの中では自分を押さえ、目立たないおとなしい生徒が多いが、和太鼓では精神的に解放され、むしろ自分を出し切
ることが求められる。地域の人々は部員たちを本校を代表する積極的な生徒たちと捉え、さわやかな印象で好感を持っ
ている。中には和太鼓部の演奏を毎回、見に来られる方もあり、感想を記した手紙も月に数通届くようになった。部員
たちはそんな反響を目の当たりにして、自分たちが面識もない多くの人々に力を与え、元気づけることが出来ることを
誇りに思うようになった。
第4は自分を客観視出来ることである。和太鼓の演奏は音楽演奏にとどまらず、全身を使った芸術的なパフォー
マンスであり、表情や体の動きを加えることによってその音楽性を高めることができる。従って、より良い演技をする
ためには豊かな想像力が不可欠であり、自分の体の動きが観客にどう見えているかをイメージすることによって自分に
必要な課題が見えてくる。部員は常に自分はこれでよいのかを自問しながら練習することになる。
高いレベルの演技を追求すれば、結局、自分の普段の生活態度の見直しまで必要となってくる。
第5はしっかりと話ができるようになることである。本校和太鼓部では演奏のみでなく、演奏前の部長挨拶や舞
台転換の間を利用して生徒たちは交替で曲の解説のスピーチを行う。解説は既成の原稿を読むのでなく、自分なりの原
稿に基づき、スピーチ練習をして望むことになっている。年間50回ものスピーチをすれば、誰でもしっかり話すことが
できるようになるのは自然なことである。また、学校にも様々な立場の方々が練習を見に来られる。その時の挨拶は時
には英語や中国語などを交えて行わなければならないことも多い。そうした場でも事前の簡単な打ち合わせだけで臨機
応変にスピーチができるようになっていくのである。
その他にも、和太鼓の演奏活動によって集中力や協調性、自己表現力などにも大きな進歩が得られるが、ここで
はスペースの関係で触れられない。
4.アマチュアだからこその感動
プロ太鼓チームの演奏は素晴らしく、誰もが感激するが、涙が出ることはないだろう。しかし、芥川高校の太鼓に
感動して涙を流す方は多い。82歳のおじいさんは演奏会には毎回顔を見せて声をかけてくださる。演奏会の後、観客の
方から感想を記したメールや手紙が来る。その中には「年をとって感動することもなくなったが、あなた方の太鼓を見て
久しぶりに感動して涙が出ました。」、「ガンの宣告を受けて落ち込んでいたけど、あの笑顔を見て、しっかり生きてい
こうという勇気が湧きました。」など、書いた方の思いが滲み出ているものもあり、部員全員で読んで、部長が必ず返事
を書く。
なぜ、涙が出るのか。太鼓の空気振動で否応なく体全体が揺さぶられ、感情のコントロールが不能になってしまう
面もあるのかもしれない。しかし、それだけでなく、普段、街中で見かけるどことなく頼りない高校生たちがこんなにも
感情をむき出しにして、ひたすら真剣に太鼓に向かうのかという驚きが見る人に衝撃を与えるのだと思う。ある人は自分
のひたむきだった高校時代を思い出し、部員の姿に自分を重ね合わせるかも知れない。また、心から楽しそうな笑顔を見
て、その笑顔に癒されて感動する人もあるだろう。
私たちが普段から心がけているのは、その曲の表現する内容の深い理解を持って演奏に望むということである。部員は
迷いなく、自分の表現することを知り、その表現のために練習を重ね、一生懸命に演技をする。それが見る人に何かを伝
え、見る人がそれぞれの思いで受け止めて感動することになる。
実はその感動を更により大きくしている秘密がある。それは上述した部員たちの演奏前後の態度である。若者らし
い溌剌とした挨拶、準備作業のきびきびとした動き、舞台転換の際のキリッとした立ち居振る舞い、演奏後、観客を見送
るときの感謝に満ちた笑顔と言葉。人々は部員のホスピタリティや態度に感動し、その上に一生懸命な演奏を見て、更に
感動を深くする。ここにこそ、「プロを越えるアマチュアたれ」という和太鼓部のモットーの本質がある。 (2007.08.14.)
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和太鼓部物語「エピソード1〜4」
私の子どもが小学校時代、学童保育で太鼓を始めて中学校までやったので、私は太鼓を運んで演奏会を見ていた。その時、
子どもたちが真剣に太鼓を打っている姿は見る人に感動を覚えさせることを知った。
高校生ならもっとうまくできるし、自分たちで工夫する力もあるので、きっとすばらしいものが出来るのではないかと
思った。前任校の大冠高校でT先生と和太鼓部を作ったが、2年ほどで芥川高校に転勤。芥川高校では2個の長胴太鼓があり、
ここでも和太鼓部が作れるなと思った。しかし、授業で生徒に呼びかけてもだれもやるとは言わず、数ヶ月がたった。
夏休みに「星を見に行こう!」と1年の数人の生徒を誘って瀬戸内海の島に1泊のキャンプに行った。その時、さりげ
なく、太鼓の魅力を話した。
1ヶ月ほどして、1年生の5人の女子生徒が「太鼓をやりたい」と言ってきたので、和太鼓同好会を作って練習を始めた。
当時はブラスバンド部が月水金と食堂で練習をしていたので、火・木の2日間を活動日にして食堂で練習した。部員はアルバイトと掛け持ちで
活動を始めた。太鼓がないので、締太鼓は私が購入し、タイヤをガソリンスタンドからもらってきて練習した。2年目の新歓で1
年部員が10名ほど入部し、合わせて17〜18人になって活気が出てきた。
最初は演奏依頼などはなくて、部員たちが自分たちの楽しみのために練習していたという感じだった。練習も週に2〜3
回という状況で、気合いの入った活動ではなかった。クラブができて2年たったころ、芥川高校の家庭科の授業で「老人
ホーム実習」があり、家庭科の先生が芥川高校に和太鼓部ができたということを施設側に話されていたことから、初めて
「○○の里」という老人ホームの夏祭りで叩かせてもらった。そして、2年間その「○○の里」で続けて演奏させてもら
った。しかし、施設側からはあまりいい評価をもらえなかった。それは、その頃は私も部員たちも”趣味のクラブ”だと思っていたし
、部員の意識も「ボランティアをしている」という感じはなかったと思う。
太鼓の積み降ろしも部員たちではやっていなくて、顧問と施設職員でやったし、施設ではお弁当を出してもらうなど、お客さんとして
対応してもらっていたように思う。太鼓の演奏が済めばさっさと控え室に戻り、お年寄りと交流するという
ことはなかった。そんな状態だったから、3回目にはとうとう、「○○の里」からはお呼びがかからず、家庭科の先生から「部員の
心構えがなっていない。」ということを施設側から言われたということを聞いて、私もショックを受けて、猛烈に反省した。そして演奏
レベルだけでなく、人間的な成長がなければ和太鼓部の存在の意味がないと思い、その時から、和太鼓をやることに部員が誇りを
持つにはどうしたらいいかを考え始めた。
そのころはまだ部員は自分が和太鼓部員であることを人に言う時は、卑屈な気持ちを感じながら言っていた。部員たちは
和太鼓をやることは若者らしくないことで「恥ずかしいこと」だと思っていた。その部員に自分たちがやっていることのすば
らしさを感じさせるには、技術的なレベルをあげるだけでなく、出来るだけ多くの演奏機会を持ち、お客さんに褒めても
らうことが、部員たちが充実感を感じ、自分に誇りを持つことにつながると考えて、葉書やEメールを使って色々な施設
に演奏の申し込みを始めた。また、4年目くらいからは和太鼓部を全国大会に出したり、できれば外国公演に連れて行く
ことも考え始めた。
4〜5年経つと、地元のお祭りやイベントでの演奏活動も年間10回ほどになり、少しずつ評判が上がり始めた。クチコ
ミで老人ホームや共同作業所での演奏依頼も来るようになった。
創部5年目で全国大会(山形大会)に出て、全国大会の高いレベル(技術的にも人間的にも段違いの現実)に初めて触れ
て、部員はショックを受け、それからは部員の意識が大きく変わった。活動も毎日やるようになり、曲も新しいものも取
り入れ、演奏技術も上がってきた。それをできるだけお客さんに見てもらいたいという意欲も出てきた。そして、色々な
ところから演奏依頼が来るようになった。部員も1回1回の演奏会で学び、成長するということを知った。