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◆和太鼓部の歴史(芥川高校和太鼓部物語)◆

 History of our team ---------------------
和太鼓部が「趣味のクラブ」、「バイト掛け持ちOK」のクラブから、「プロを越えるアマチュアたれ」を合い言葉に、「世界に通用する和太鼓チーム」 に成長してきたこれまでの道程(みちのり)を紹介します。

和太鼓部での体験は自分の原点                       (2024年1月31日)               
                                     27代目部長 木山 菜月
 

 私たちの代はコロナ禍の中で入部したのですぐに部活ができなくて、しばらくはオンラインミーティングが続きました。これから共に活動していく部員と初めて、画面上で自己紹介して顔を合わせることになりました。その後、部活ができるようになって、初めてみんなで太鼓に触れた時の「面白い!」という感激を今でも覚えています。
 2年になって、ようやく感染症の制限が和らいで演奏会を行う機会が増えました。見てくださる方とマスク越しではなく、直接顔を合わせて、掛け声も出して演奏できることに新鮮さと喜びを感じました。しかし、練習をする中で、コロナで衰えてしまった演奏の表現力が課題として見えてくるようになり、「元気さや、パワーが伝わらない。」と指摘をされることがありました。みんなで、何のために,誰のために演奏をしているのかと考えたとき、和太鼓部が長いコロナ禍の中で、忘れかけていた、演奏を楽しみにしてくださる方や、興味を持って応援してくださる方々の存在に気づきました。その方々の気持ちを意識することで、部員の表情や表現、曲のアピール力自体にも変化が出てきたと感じています。
 見てくださる方とはもちろん、部員同士でも顔を見合わせたりして、演奏が楽しいという気持ちがだんだんと大きくなっていったように思います。部員同士が刺激し合ったり、お互いにコミュニケーションをとることで成長する部分もあったと思いますが、それに加えて、見ていただく方々の応援があったことで、私たちも、「その気持ちに応えたい、いい演奏をしよう。」と、成長することができたと思います。自分たちの一方的な思いではなく、お客さんとの目には見えない気持ちのやりとりを感じることができました。直接、お客さんと接し、同じ時間を楽しむことができるこの普段の演奏会が私にとって大好きな時間でした。
 普段の演奏会だけではなく、ダンスやJ-POPとのコラボをさせていただく機会や、地域で途絶えてしまった神楽を復活する、地域の夏祭りに合うお囃子を作って子どもたちと合同演奏する、プロモーションビデオに和太鼓の音楽をつけるというような、これまで和太鼓部が経験したことのない難しい取り組みも多くありました。新しく曲を作ったり、ジャンルの違う活動チームとコラボすることは初めてのことばかりで簡単なことではなく、試行錯誤を繰り返していました。和太鼓とジャンルの異なるものを、相手の動き,音に合わせて、お互いに融合し相い、その結果、お互いの相乗効果が出て成功できた時は達成感が大きかったです。どの取り組みも貴重な経験でコラボ相手の方とも練習を積み重ねることで絆が深まった気がします。
 大阪府高校芸文祭で5連覇を遂げ、奄美大島で行われた「かごしま総文」に出場する機会もありました。総文祭では全員が「最優秀賞」を目標とし、取り組んできました。練習の中で、部員同士の意見の違いや、やる気や演奏技術の差など、直接、曲に関すること以外での部内の課題もみえてきました。このままではまとまりがなくなり、目標達成どころか中途半端な演奏になってしまうのではないかと危惧しました。そこで、ミーティングを開き、それぞれの総文祭に対する気持ちを伝え合い、全員の気持ちをまとめることができました。普段何気なく着ているクラブTシャツにある「愛情熱」という言葉を胸に、円陣を組み、改めて目標に向けてスタートを切ることができました。
 本番演奏は、全員がベストで演奏できたという達成感があった訳ではなく、不安な表情を浮かべる部員もいて、最優秀賞を受賞することはできませんでしたが、優良賞を受賞したことで、これまでの努力や練習してきたことが形に見えて、ハードな練習も無意味ではなかったのだと思うことができました。たくさんの練習で、それぞれが辛いことや、困難な課題を乗り越えてきて、全員でこの舞台に立ち、演奏できたことは一生忘れられないものです。最後の最後まで曲に対しての追求と、諦めない気持ちが優良賞へと繋がったのだと思いました。
 そして、総文祭も終わり、私たちの最後の演奏となる定期演奏会に向けて、気持ちを切り替えていこうと思っていた時に、全総文開催地の奄美大島に台風が接近して海が荒れていて、フェリーが半月近く出航できず、太鼓を積んだトラックが定期演奏会本番までに大阪に帰ってくることが難しいと知らされました。最悪の場合、定期演奏会が無くなってしまうのではないかと心配でした。そんな時に、多くの太鼓チームから太鼓を貸していただけるようになり、定期演奏会への道が見えて来て、また、多くの方の前で演奏ができることに感謝の気持ちと嬉しい気持ちでいっぱいになりました。
 オープンしたばかりの新しいトリシマホールで初めての定期演奏会。本番、一曲一曲終わるたびに大きな拍手をいただき、見てくださる方々の気持ちに手応えを感じることができました。演奏中は、私たちの最後の演奏という悲しい気持ちではなく、終始みんなと楽しみ、見て聞いてくださる方を楽しませようという気持ちで演奏していました。私たちの力だけではこれほど拍手をいただけなかったと思います。太鼓を貸して応援してくださったたくさんの太鼓チームの思い、それをわかって応援してくださった満席のお客様の気持ちの詰まった演奏会だったからだと感じています。
 これまでの2年半、ここに書ききれないほどの思い出や和太鼓部で過ごした何気ない日々がありました。入部した時はバチの持ち方も太鼓の打ち方についても、知識も経験もありませんでした。でも、この和太鼓部に入部して辛いこと、楽しいこと、嬉しいことをたくさん経験して、太鼓の演奏者としても、人としても大きく成長することができました。人との関わりがより好きになり、辛いことがあっても簡単にあきらめない強い気持ちを持てるようになりました。
 コロナ禍の中の報道で知った看護師の崇高な使命感、和太鼓部で体験した「自分も人々の力になれる」という確信とが結びついて、自分の進路を決めることができました。和太鼓部で得た人とのコミュニケーション力やチャレンジ精神は、今後も、看護師を目指す自分の力になると感じています。その意味で、芥川高校和太鼓部に入部し、笑って、泣いて、高校生活のほとんどを過ごしたこの場所は自分の原点であり、忘れられない大切な思い出です。

新型コロナを乗り越えてきた2年半は私の宝物                   (2022年9月8日) 
                                         26代目部長 南條 颯希
 

 私が和太鼓部に入部しようと思ったきっかけは、中学3年生の時に見に行った芥川高校の文化祭でした。体育館ステージの和太鼓部の演奏は今でも鮮明に覚えています。法被の袖を肩までめくり、ハチマキを締め、全員がキリっと格好よく、いきいきと迫力のある演奏をしている姿に引き込まれました。そして私は、翌年、予想もしなかった新型コロナによる全国一斉休校の中で高校に入学しました。長い休みの後、やっと6月の学校再開で入部届を出しましたが、部活が始まったのは梅雨に入ってからでした。じめじめとした季節から、練習する校内通路のアスファルトが鉄板のように熱く焼ける時期まで、流れ落ちる汗をぬぐいながら、腕立て・腹筋をメインに、筋トレを行いました。  
 そして、いつの間にか月日が経ち、私たち26代目が最高学年となりました。この2年半は一向に収束する気配のない感染症と向き合い、和太鼓部全体で、練習前・中・後の手洗い、こまめな換気、共用バチの消毒、昼食時の対人距離など、感染症対策を徹底しました。それでも感染者増大に伴い、部活動の時間短縮や活動休止、予定されていた演奏会の中止などが続きました。今年になると部員の中にも「陽性」判定を受ける者や家族感染で「濃厚接触者」になる人も出始め、数日後、いや翌日の予定さえも読めず、立ち止まってしまう日々でした。そうした中でも私たちに何ができるかを考え、オリジナル曲の作曲やYouTubeへの動画投稿に取り組みました。
 全国大会出場権を争う大阪府高校芸文祭では、和太鼓部は4年前から高槻に縁のある創作曲で勝負する習わしになっています。私たちは学校近くの阿武山古墳の被葬者とされる藤原鎌足をテーマにしました。昨年度は、「2年連覇後の3年目は必ず優勝を逃す」というジンクスを打ち破って3連覇、続いて今年度は4連覇を果たすことが出来ました。そして大阪府代表となり、8月に行われた「とうきょう総文」に出場が決定しました。
 それからは全国大会に向けてより一層気を引きしめ、全員で練習に励みました。結果は私達の目標とする上位入賞には届きませんでしたが、コロナ禍の中で総文祭が一般公開で開催され、感染者を出さずに全員で出場出来たこと、強豪校の演奏から沢山吸収させてもらえたこと、全国大会合宿を通して学年問わず、部員同士の距離が縮まり、部全体で一丸となることができたことが私はとても嬉しく、充実感を感じました。
 和太鼓部では、礼儀の重要性、チームワークによる協調性、柔軟な対応力、自己表現力が身に付き、さらに私は部長という重責から、日々生ずる課題の解決策を考え、たくさんの部員たちの様々な考えを調整してまとめることに取り組み、貴重な経験をさせていただきました。楽しいことだけでなく、責任の大きさを思い知らされ、「同じ過ちを繰り返さないように、反省点を次に活かす」という経験もし、それこそが私自身を大きく成長させたと今では思います。
 8月11日に開催された第28回定期演奏会は3年ぶりの一般公開、大ホールが建て替え中のため、中ホールで昼と夜の2回公演、という異例の演奏会でした。昼夜とも沢山の方にお越しいただき、ほぼ満席で演奏会を行えたことを大変嬉しく思います。盛大な拍手をいただき、演奏会ならでは手ごたえと喜びを感じることが出来ました。後日、見てくださった方々の感想を拝見しました。「とても元気をもらった」、「思わず拍手に力が入った」、「感動し、涙が出た」、「来年も楽しみ」と沢山の感想が寄せられており、改めて芥川高校和太鼓部は地域の方々に愛され、支えていただいていることを実感しました。 部員として、また部長として、私は挫折を経験しながらも前向きに部活動に打ち込むことが出来ました。それは間違いなく、いつも応援して下さる地域の方々、部員の意見を尊重し見守って下さった顧問の先生方とコーチ、活動内容を理解して寄り添ってくれた家族、目標となる姿を残して下さった先輩方、毎日のように「部活頑張れ!」と声をかけてくれる友達、個性豊かで思いやりのある部員たちの支えがあったからです。関わってくださった全ての方々に感謝の気持ちでいっぱいです。新型コロナによる様々な制約の中でも、自分たちが協力し合ってコロナに関わりなく、高い目標を掲げ、それを追求して活動できたことに感謝しています。私にとって和太鼓部で過ごした中身の濃い2年半はかけがえのない思い出であり、一生の宝物です。
 既に27・28代目の新チームがスタートしています。今までと同様、皆様の温かいご声援を、どうぞよろしくお願いします。

自分と向き合った全国大会「優良賞」への道のり          (2021年9月4日) 
                                25代目副部長 畑井 愛華
 

  私達は和歌山県で8月に行われた全国高等学校総合文化祭・郷土芸能部門で「優良賞」(全国3位相当)を受賞した。そこに至るまでは、部としても個人としても、様々な困難があった。
 和太鼓部では「3年に一度、全国行きを逃す」と言われており、私たちはまさにその「3年目の代」に当たり、「歴代に比べ実力が足りない」とも言われていた。しかし、1月の大阪大会で、予想を跳ね返して大阪代表になれたことや、大阪大会での課題を、半年かけて改善してきたという自負もあって、全国大会にも意欲を燃やしていた。
 そんな私たちの前に大きな問題が立ち塞がった。それは新型コロナウイルスだ。新型コロナ感染拡大で長期間、部活動が制限され、ある時は突然、部活が休止されたりして、まったく、思い通りに練習をすることができなかった。そのせいか、私を含め、部員たちの全国大会に対する気持ちが次第に低下していった。大会一ヶ月前になっても練習を休む部員も多く、このままでは全国優勝どころか、満足する演奏すらおぼつかないという不安が湧いてきた。
 副部長の私はそんな部員たちを前にして、リーダーシップを発揮できていない、どうしたらみんながやる気になってくれるのかわからない、という日々に自信を失くしかけていた。もともと人前で話すことが苦手で、ネガティブ思考だったので、自分を変えたい、新しいことに挑戦したいと思い、和太鼓部に入ったが、引退直前の全国大会にして、自分の力のなさを感じるのは精神的に苦しかった。
 そこで、全員のミーティングを開き、それぞれの気持ちを出し合った。ミーティングでは、部員が正直に自分の思いを話し、「部活が出来ず、やる気がなくなりかけていた。」という反省や、「全国優勝をしたいと言いながら、行動に移せていない人がいる。」などの不満や、「コロナで練習ができなかったから結果を残せなかった、という言い訳をしたくない。」などの発言があり、このミーティングで、全国大会に向けて全員が本気で練習する雰囲気を作ることができた。そして、どうすれば部員全体の士気を上げることができるかも話し合った。
 私たちはその後、二つのことに取り組んだ。一つは、毎日、練習後のミーティングで、「全国まであと何日」とカウントダウンをして意識を高めること。もう一つは、全体ミーティングではなく、それぞれが自分と向き合うため、これからの目標や自分を励ます自分への手紙を書くこと。それを大会前に各自に返却して、読み返してもらい、自分自身で思いを確かめるようにした。これにより、各自の目標がはっきりし、全国大会に向けた気持ちを積極的なものに切り替えることができた。
 大会二週間前にも、校内でコロナ陽性者が出て、数日間練習ができず、厳しい状況ではあったが、私たちは諦めることなく、限られた時間で懸命に練習に取り組んだ。結果、上位入賞ができた。部としても4年ぶりの快挙である。自分と向き合い、思いを言葉にし、部員同士で意見がぶつかるなど、困難は多かったが、この全国大会への道のりは、思い出の少ない高校生活の中で、一生忘れられない宝物になった。
 私自身も、苦悩する中で、「マイナス思考では一歩も前に進めない。どんなことも、これも経験の一つだ、みんなを信じて真正面からぶつかって自分ができることをして、一歩一歩進んでいくしかない。」と前向きに捉えられるようになった。この成長は全国大会に取り組む中での様々な困難があったからこそ、手にすることができたものだと思う。

新型コロナを乗り越えて念願の3連覇達成         (2021年3月24日) 
                                25代目部長 大西 ゆかり

   和太鼓部は毎年、全国大会(全国高校総合文化祭)予選となる大阪芸文祭に出場しています。そして、2年前からは、芥川高校がある高槻市の歴史にちなんだオリジナル曲で、芸文祭優勝 を勝ち取り、全国大会に大阪代表として出場しています。 今年も例年通り、高槻に所縁のあるキリシタン大名の高山右近をテーマにしたオリジナル曲を作って勝負することにしましたが、今年は今までとは違う大きな障壁がありました。私達25代 目を苦しめたのは新型コロナウィルスです。2年生になり私達の代がクラブの中心になった頃にはすでに演奏会は激減し、人前で演奏する機会がほとんどありませんでした。そのため歴代の 先輩方と比べて技術力も表現力も大きく伸びず、芸文祭の優勝が遠ざかっていくように感じていました。
 しかし、私達の目標の1つである芸文祭優勝を、今年は絶対に成し遂げなければならないある理由がありました。芥川高校和太鼓部は芸文祭2連覇の後の3年目には必ず優勝を逃すというジン クスがあったのです。そして今年はまさにその3年目の年で正念場だったのです。
 私達はそのジンクスを打ち破るべく、一生懸命練習に取り組みました。曲作りの中心を担う創作メンバーの中で意見がぶつかり合うこともしばしばありました。創作メンバーの中では激論を 戦わせる日々でしたが、それが部員達になかなか伝わらず、本当に芸文祭に対しての「やる気」が全員にあるのかが分からないように思えて、長時間の部ミーティングを開いたこともありました。 しかし、そのミーティングのおかげで全員の気持ちがそろい、芸文祭優勝を目指して頑張ることで一致し、それからは、より一層練習にも熱が入りました。
 芸文祭の10日前に、私達が恐れていたことが起きてしまいました。学校が新型コロナ感染対策のため、3日間の臨時休校になってしまったのです。そして、さらに追い討ちをかけるかのように 教育委員会から部活動の時間短縮の指示が入りました。私はその時、絶望感を覚えました。芸文祭直前の10日間は優勝に向けての1番の追い込みをする時期なのに、今まで1日中できていた練習 が3時間程度に短縮されてしまうなど、もはや芸文祭優勝は絶望的に思え、心が折れそうになりました。しかし、部員達は諦めていませんでした。休校期間は家で自主練に励み、残り少ない練習 時間をいかに有効に使うかを必死に考えてくれました。そんな仲間の姿に勇気づけられて私も気持ちを切り替えることができました。 そして迎えた本番当日。私達は今までで一番の演奏をすることができました。「優勝!」と告げられた時の喜びは一生忘れられません。新型コロナを克服して、私達は全国大会(和歌山総文祭) への出場権を勝ち取ることができました。全国大会が現地で開催されるかどうかはまだ分かりませんが、これから、全国優勝を目指して、全員で刺激し合いながら、より一層、練習に励んでいこ うと思います。

新型コロナの今こそ力強い和太鼓演奏を           (2020年6月22日)              
                                 (2年)溝渕 響
  

 和太鼓部は全国大会に出場したり、海外公演を行うなどの様々な業績を残していますが、演奏だけでなく、ボランティア活動もとても盛んです。昨年夏には佐賀県での全国大会に出場した後、 大阪への帰路に、2018年の西日本豪雨で大きな被害を出した岡山県倉敷市真備町や矢掛町を訪ねました。そこでは、小学校の体育館で地元の高校生グループや和太鼓サークルと協力して、 被災した方々を元気づけるコンサートを行ったり、仮設住宅で除草や大掃除を手伝い、お年寄りの方々と一緒に食事をして交流したり、障がいを持った子供たちが通う施設で子どもたちと 遊ぶボランティアや復興イベント会場で太鼓の演奏をしたりして、被災した方々と直接触れ合う中味の濃い交流ができました。
 しかし、当時1年生で和太鼓演奏が未熟な私自身は実際に演奏することはできず、力強い演奏で多くの人を元気づける先輩方の姿を眺めるばかりでした。私も早く上手くなって多くの人を 元気づけたいと強く思いました。
 そして3年生が引退し、代わって私たち1年生も正規メンバーに入り、演奏会にも出られるようになった頃、ある老人ホームで演奏したことがありました。演奏の後、お年寄りの傍に行って話 をしている時、あるお年寄りの方が私に「すごく良かったよ、元気もらえた、また来てね。」と言ってくれました。私は嬉しくて思わず弾んだ声で、「ありがとうございます!」と答えてい ました。私がずっと聞きたかった言葉です。自分たちの演奏で人を元気づけることがこんなに嬉しいことなのかと実感した瞬間でした。
 私はこの和太鼓部で、全国大会に出場して優勝することも目標の一つですが、ボランティア活動を通して、痛手を受けた人たちの思いに寄り添い、多くの演奏会で様々な人たちと出会うことで 視野を広げ、思いがけない言葉に感動し、それを糧にして自分が成長することも目標にしています。そして、それを可能にしてくれる和太鼓部で自分が日々、頑張っていることを誇りに思います。
 全国大会を目指して仲間とひとつになることもすごく気持ちが良く、仲間の大切さを強く感じます。上手く行かず辛いことがあっても最後まで努力してやり切った時、私自身がひとつ成長したと 実感できます。今年の全国大会が新型コロナのためにウェブでの開催となり、すごく悔しい気持ちがありますが、だからこそ、最高の演奏を完成させて動画をアップすることが私たちがコロナと いう逆境を乗り越えて成長したことの証明になると思います。
 私は、今、コロナで大変な思いをしている人、悩み辛い思いをしている人たちにこそ私たちの和太鼓演奏を届ける時だと思います。どうしたらコロナを防ぎながら演奏を届けられるか工夫してこ れからも多くの人を元気づけていきたいと思っています。

ジェーンからの和太鼓部への贈り物  (2020年3月20日)              
                                (3年)藤田よしの
  

 テレビ東京の「世界!ニッポン行きたい人応援団」という番組で、オーストラリアからジェーンという、担ぎ桶(桶胴太鼓)を学んでいる高校生が私たちの和太鼓部に来て、練習に参加 することになり、私はパートリーダーとして、ジェーンに担ぎ桶を教えることになりました。英語で教えたり説明したりするような機会は今までなかったし、上手く伝わるだろうかとか、パート のみんなで一緒にやれば何とかなるだろうなどと思って半分楽しみ、半分不安という気持ちでした。
 ジェーンは桶胴太鼓の基本はだいたいできていたので、プロ和太鼓チームTAOのFESTAという担ぎ桶の曲にチャレンジすることになりました。ジェーンは私やコーチさんが教えることを聞き洩らさ ないように集中して練習に取り組んでくれて、一日ごとに上達していきました。でも、リズムや打ち方は覚えられても、実際に私たちの中に入って演奏するには、いくつものフォーメーションを 覚え、表情を出すことも求められるのでそれらをマスターするのがなかなか難しいようでした。
 「ジェーンはホテルでも、車での移動時間でも演奏の動画を見て練習している。」と聞いて、すごく努力してくれているのだなと思いました。練習中も、「少しは休憩して!」と思うくらい一生懸 命練習していました。それを見て、私たちの気持ちも次第に変わっていきました。最初はジェーンの練習はわずか4日間だし、ゲストなので「太鼓体験」程度に考えていましたが、ジェーンの一生 懸命な姿を見ると、動きや表情も含めて、一人の部員として完璧に演奏してほしいと桶胴パートの誰もが思うようになりました。そして、ジェーンを励ましながら何回も何回もみんなで練習する 中で、チームワークが生まれていきました。単にジェーンだけが頑張るのではなく、ジェーンを含めた桶胴パート全員が力を合わせて演奏をすることがジェーンと私たちの共通の目標になったの です。こうして、最後の日の演奏会では、ジェーンも私たちも、ジェーンのお母さんや先生方も感動するような素晴らしいFESTAの演奏を披露することができました。
 先輩が引退した後、私はFESTAでは、お手本になる立場になり、自分はできていると勝手に思い込んでいましたが、ジェーンが来て、改めて演奏の細部まで見直すと、自分ができていないところや パートのメンバーの不十分なところにも気づくことができて、全員が成長できたのではないかと思います。また、パートリーダーとしての自信もつきました。ジェーンと一緒にFESTAを演奏して、 「FESTAってこんなに楽しかったんだ。」と、最近忘れてかけていた気持ちを思い出しました。これからも、もっともっと楽しいFESTAにしていきたいと思います。

ラーマとの"ムージザ(奇蹟)"の出会い〜シリア難民支援チャリティコンサート" 
(2019年7月15日)                       和太鼓部部長(3年)野崎星那
  

 和太鼓部は、チャリティーコンサートやミュージックビデオの作成などを中心にトルコで生活するシリア難民の子どもたちの支援活動を行なっています。2011年のシリア民主化運動は その後のシリア危機を生み出し、命からがら国外に避難した人びとは今、言語や生活習慣の違いに苦労しながら、避難先の国々で生活しています。  
 今年の和太鼓部活動の活動テーマを模索している時、顧問の先生のつながりで、日本で「シリア難民」の認定を受けた数少ない人たちの中に、私と同い年のラーマという女の子がいるこ とを知りました。ラーマは5年前に親戚を頼って、家族4人で日本に来て埼玉で生活しています。シリアと日本で、さまざまな困難に立ち向かってきたラーマは、憧れていた人が和太鼓を やっていたのをきっかけに彼女自身も太鼓を始めました。私たちと同じ高校生で、太鼓をやっているシリア人がいるということで、私は運命的なものを感じました。そして、そのラーマ と一緒に共通の和太鼓でコラボ演奏をして、チャリティーコンサートを行うことが決まりました。  
 私はチャリティーコンサートを実施するためにラーマとLINEでつながり、自己紹介から始めて、だんだん仲を深めていきました。LINEで会話をしていると、日本語が流暢なのに驚きました。 彼女は日本に来た時、まず、日本語を話せるようになることが一番必要なことと考え、努力して勉強したことを聞いて、努力家であることを知りました。  
 チャリティコンサートは高槻ロータリークラブの支援を受けて6月に市内の大きなホールで実施できることになりました。でも、その日はラーマが大学に進学するため必要な「留学生試験 」の前日という最悪のタイミングでした。それでも、ラーマは私たちとのコラボ演奏を引き受けてくれたのです。  
 ラーマは事前練習のために芥川高校に4月と5月に、2回来ることになりました。私がラーマと初めて会ったのは4月に来た時でした。LINEでは話していたものの、実際に会う時はお互いに 緊張していました。しかし、会ったらすぐ、ラーマも私もずっと前からの友だちみたいに楽しい雰囲気で会話をすることができました。  
 コラボ曲はラーマがメイン奏者となって5個の太鼓を使って中央で演奏し、20名の和太鼓部員がその周りを囲み伴奏するスタイルです。1回目の練習では、細かいソロのリズムを5個もの 太鼓を打ち分けて叩くことが難しく、ラーマは泣き出しそうな顔になっていました。でも、ラーマは休憩もせずに太鼓に向かい、真剣な顔で何度も何度も練習していました。そして、練 習していくうちにコツをつかみ、リズムを覚えて、限られた時間でどんどん上達していきました。2回目に来た時には、私たちが教えたことが全てできるようになっていて、大事な試験の 勉強もしなければならない状況下でかなり練習してきてくれたんだなと感じ、申し訳ないと同時に嬉しく思いました。やはり、彼女は努力家であり強い心を持っていると感じました。  
 芥川高校に練習をしに来るたびに彼女は私の家に宿泊しました。ラーマの誕生日が近かったため、ラーマには内緒で、部員数名と家族で誕生会を準備しました。ラーマにとって"サプライ ズ"をしてもらうことは初めてで、驚きを見せながらも心の底から喜んでくれました。また、合間の時間にはコラボ演奏のリズムを復習したりと、真面目な姿もありました。  
 6月に迎えた本番の日は、緊張した様子で、直前まで控え室で何度も何度もリズムの復習をしていました。私は、本番の演奏は舞台袖から見ていましたが、緊張を吹き飛ばし、誰よりも楽 しんで太鼓を叩いているラーマの姿を見て思わず"ラーマ!"と大きな声で声援を送りました。ラーマの一生懸命な姿が和太鼓部員をラーマの演奏に集中させ、その部員たちの支えがラー マを緊張から解放し、ラーマがリラックスして演奏できるようにさせ、またそれが部員に伝わって部員も更にノリノリになっていくという具合に演奏の中でお互いの気持ちの交流がはっき りと見てとれる演奏でした。それが観客に伝わり、ホール全体が気持ちを一つにした空間になって感動を与える演奏となりました。  
 このラーマとのコラボ演奏は、和太鼓で観客に感動を与え、心の底から喜んでもらえるような、人の心を動かす演奏ができるのだということを教えてくれました。この経験から学んだこと をこれからの私たち和太鼓部の目標に繋げていかなければいけないと思いました。  
 ラーマは私に『ムージザ!』というアラビア語を教えてくれました。これは"奇跡"という意味です。まさにその通りだと思いました。私たちがこのような出会いができたのは、偶然であり 、奇跡です。今回、私はラーマと出会って、彼女が、与えられたチャンスを逃さないよう一生懸命に取り組み、しっかりと自分のものにして成功させた姿を見て、彼女の生き方から沢山の ことを学ぶことができました。ラーマとはこれからも繋がり、交流を深めていきたいと思っています。そして、私もチャンスを掴んだら絶対に逃さないよう何事にも一生懸命に取り組もう と思いました。  

 

シリアにジャスミンの花が戻るまで  
〜和太鼓部チャリティコンサートに寄せて〜(2018年1月14日)
                  和太鼓部シリア交流実行委員 小林初音
  

 このチャリティーコンサートは内戦を避け、トルコへ逃れてきたシリア人の子供たちの教育支援をするためのコンサートです。
 命を守るため、シリアから親に連れられてはるばるトルコに脱出した子どもたちは、戦争の恐ろしい爆撃や戦闘を経験し、中には親や兄弟を 殺された子どもも多く、子どもたちは何らかのトラウマを抱えています。それを少しでも癒やすため、子どもたちを集めて心のケアをしている団体 がトルコにあります。私たちはその団体を応援しています。
 私はこの活動の実行委員なのですが、入るきっかけになったのはシリアのことを知るために開かれた学習会でした。そこでシリア人の男性が お話をして下さいました。彼はシリアは危機が始まる前、とても美しい町だったとおっしゃっていて、今、世界のほとんどの人が持っている「シリア は危険な国」というイメージがあることが悲しいと話しておられました。実際写真を見せてもらうと、戦争前はジャスミンの花が咲き乱れている平和 な風景でしたが、現在の写真は壊れた建物のガレキだらけの町でした。私は戦争によって罪のない人々の愛した故郷が一瞬にして奪われることを腹立 たしく思い、また同時にシリアで人がどれだけ傷ついているのか何も知らずにいた自分を怖く感じました。
 そして、私はもっとシリアのことが知りたいと思い実行委員になりました。私は実行委員としてFacebookでシリア人のRちゃんという女の子とつ ながることになり、今も連絡をとりあっています。Rちゃんとは同い年ということもあり、私はその日あった楽しい話など彼女にして、彼女も避難先の トルコでの生活の様子を話してくれます。彼女は日本のアニメが好きで日本語や文化について勉強しています。いつか日本に来たいと言っていて、私も 毎日彼女に会いたいと願っています。私は彼女にとって「日本に行きたい」という夢を少しでも叶えてあげられるような希望の存在になりたいと思って います。そして、他のシリア人の子どもたちにも故郷の現状にとらわれず、夢を持てるように実行委員として応援していきたいと思います    

 

 チャリティコンサートからシリア・芥川高プロジェクトへ(2017年9月20日)
                         和太鼓部副部長 中川優花

 2016年11月に、毎年、芥川高校の四部(和太鼓部、軽音楽部、ダンス部、吹奏楽部)で行っている合同チャリティーコンサートの取り組みが始まりました。 各部代表からなる実行委員会を立ち上げ、今年のテーマを検討した結果、世界的な課題になったシリア危機によってヨーロッパに避難しているシリア人 の支援に取り組む事になりました。   
 今回のプロジェクトには明治大学の岸磨貴子先生に協力していただき、シリアからトルコへ避難してきた子供たちが通うシリア人学校"アダスクール"の ナダやマリアンなど、同世代の女の子達とSNSやテレビ会議で一緒に話し合い、私たちの力で出来ることを考えながら進めています。   
 彼女達と話し合った結果、2013年に始まったシリア危機で学校にも通えず、勉強や同世代の子と遊ぶというような経験がない子供たちに、楽しく学習する ことや遊びを通して協調性や積極性をもってもらうという企画に取り組んでいます。私たちはそれに必要な用具などにかかる費用をチャリティーコンサー トで募金(約30万円)をしていただいて集めました。   
 そして、お金を送るだけでなく、チャリティコンサートの成果を受け継ぎ、より発展させるために、引き続き交流を続けてプロジェクトの進行状況を見守り、 アダスクールと芥川高校の交流活動を多くの人たちに伝えるために、交流の写真集や、シリアと日本の文化の違いのわかる本を作ったり、シリア人のことを 多くの人々に知ってもらうために、報告会を実施することも計画しています。このほど、このプロジェクトはキリン福祉財団の「子どもの力」助成事業で採 択され、助成金を頂くことになりました。   
 私は実行委員長として四部合同チャリティーコンサートやその後のシリア交流に関わり、とても貴重な体験をしています。最初はシリアがどこにあるのかさえ 知らず、このシリア危機で避難している人たちの支援という世界的に大きなテーマについて、私たちに何が出来るんだろうと戸惑いましたが、学習会でシリア について、岸先生やシリア人のアマールさんから話を聞いたり、自分で勉強していくと、私の思っていた以上にこの問題はとても複雑で、それぞれの勢力や国 々の思惑がぶつかり合っていて、そこに一般のシリア市民が巻き込まれてとても悲惨な状況にあり、誰でもが自分たちのできることをしなければいけないとい うことに初めて気づきました。   
 今まで高校生だから何もできないと思って国際問題に無関心だった私は、様々な問題にも高校生ができることが必ずあるのだと思いました。これをきっかけに興 味のあるものや知っているものだけでなく、これからは、私の知らないことや新しいことに興味を持って、自分の関心の幅を広げていこうと思います。


和太鼓部が全国大会後に被災地の仮設住宅を訪問(2017年8月23日)
                       和太鼓部部長 三浦千尋 
 

 私たち和太鼓部は、2017年の全国大会(宮城県)終了後、東日本大震災で津波被害が大きかった宮城県名取市に残り、被災地での訪問交流を行いました。名取は和太鼓部の 先輩たちも震災の年と翌年の2回、現地を訪問した場所ということで、和太鼓部のことを知っている方々も多く、とても歓迎して頂きました。今回の目的とし ては、東日本大震災で起こったことを私たちが知り、そしてそれを多くの人に伝えていくことです。   
 私は実行委員長として、この機会を部員にとって成果のあるものにしたいと思い、美田園第一仮設住宅の自治会長さん、閖上(ゆりあげ)太鼓保存会の代表 の方と積極的に交渉して、仮設の住民の方々や現地の太鼓サークルとの交流を計画しました。   
 美田園第一仮設住宅への訪問では、私達に出来ることで喜んでいただけることは何か、また、今何が困っているのかを自治会長さんと打ち合わせをしながら 進めました。交流のためのチラシも作成して送り、配布してもらいました。現地の閖上(ゆりあげ)太鼓保存会とは合同演奏の相談や、演奏会のスケジュー ルを調整しました。閖上太鼓保存会は、復興支援活動に力を入れており、和太鼓を通して私たちも復興支援に協力し、盛り上げていくことが出来たらいいな と思いました。   
 美田園第一仮設住宅は広大な敷地で、震災から7年目に入って住民の多くは新しい集合住宅に移転し始めており、現在は3分の1の60戸ほどが入居している状 態です。部員全員で敷地内の草取りをしました。1時間半ほどで大きなゴミ袋30袋くらいの草を取りました。 草取りをしていると、顔を出すお年寄りや子どもたちもいて、それぞれにお話をしながらの作業になりました。私は仮設住宅に住む小学生の姉弟と親しくなり 、一緒に遊びました。  
 夕方から唄を歌ったり、和太鼓演奏をしたりととても楽しい時間を過ごしました。私はその交流で知り合った仮設住宅に住むおばあちゃんと今、文通をしてい ます。この繋がりを大切にしたいと思います。  閖上太鼓保存会との合同演奏会では、私たちのアンコール曲の『彩』をコラボしました。ぶっつけ本番でしたが、とても楽しく演奏出来ました。また、閖上太 鼓が出演した老人ホームの夏祭りでも急遽、特別出演をすることになって、閖上太鼓のメンバーとも親しくなりました。曲目の表現の仕方も、全く違っていて とても刺激になりました。   
 仮設住宅でも閖上太鼓でも多くの方々が、大切な家族や仲間を津波によって失っていました。除草の後、仮設住宅の集会所で私たちが話しながら休憩している とき、自治会長さんが「私も高校の空手部で頑張っていた息子を津波で失くしました。みなさんの楽しそうな姿をみて息子を思い出しました。命を大切にして 欲しい。」と言われた言葉が忘れられません。自然災害が起きたとき、生きていなければ、誰かを助けることも、その教訓を伝えることもできません。現地で 学んだこと、見たことを私たちは多くの人に伝えていきたいと思います。

柳川中学校区人権研修会 2016年11月19日(土)
「誇りとチームワークを育む〜芥川高校和太鼓部〜」 名誉顧問 山下 勉 

1."おしゃべりクラブ"から海外公演を目指すクラブへ

 現在の和太鼓部の活動は、年間70回の公演で3万人の人たちに演奏を聞いて頂くことですが、その他に、全国大会出場や海外公演、チャリティコンサートや 被災地訪問など特別な活動もあります。このような多彩な活動は創部当初からできていたわけではありません。  22年前の創部当初は5人の部員しかいなくて、練習も週3回、制服を着たまま、1時間ほどやって、あとはお菓子を食べながらの"おしゃべりクラブ"でした。そして、 部員たちは太鼓に興味はあるものの、太鼓は古臭いものと考え、自分たちが和太鼓部に所属していることを恥ずかしがっていました。それでも、当時は和太鼓部が ある高校は少なくて、珍しさもあり、当初から演奏依頼も年7〜8回ほどありました。  ある時、夏祭りで演奏させていただいた老人ホームで、「部員の意識が低く、部員たちは部屋でおしゃべりしていて、太鼓の積み下ろしも先生と施設の職員でやっ ている。高校生たちはお年寄りと交流しようとする気持ちがまったく感じられない。」と批判を受けたことがありました。私は反省させられ、しっかり指導しなけ ればならないと思いました。そして、部員たちに具体的な「目標」を持たせ、その目標を達成することで、自分たちのやっていることの社会的価値を認識させ、自 信と誇りを持たせることが必要だと思うようになりました。  
 そのころ、ヨーロッパで日本文化を紹介するJAPAN WEEKというイベントに参加する団体を募集していることを知り、私はすぐ、東京にある国際親善協会を訪ね、 「次代を担う高校生こそ、国際交流の担い手にふさわしいのではないか。」と担当者を説得し、お互いが協力して、3年後に芥川高校和太鼓部をヨーロッパに派遣する 約束を取り付けました。  
 それから、「世界に通用する和太鼓部」への歩みが始まりました。その第一歩は全国高校総合文化祭に出場することです。当時はまだ、大阪府には高校太鼓のクラブ の連絡組織がなく、全国大会に出場していませんでした。ちょうど大阪での近畿大会も迫っており、私が組織の事務局を引き受けて、近畿大会を終えたら、全国大会 に太鼓の代表を参加させようと提案し、その時から全国大会に大阪代表を送ることが始まりました。  
 全国大会への初めての大阪代表は芥川高校でした。それは大阪予選で勝ったのではなく、希望校同士がFAXジャンケン(FAXで同時にグー・チョキ・パーを送り合う) で勝ったのです。こうして山形大会に初めて出場しました。しかし、結果は惨憺たるものでした。リハーサルでは他校のレベルの高さを知り、部員は「こんなとこ、 私たちが来るところじゃない。帰りたい。」と震え上がっていました。本番も締太鼓が台から落ちてゴロゴロと転げ、緊張した部員たちはアガッてしまって、リズム は間違ってバラバラ。帰りのバスでは全員が落ち込んで、沈黙のまま帰ってきました。  
 しかし、この全国大会での惨めな経験がその後、大きな財産を残します。部員の中から、「これからは毎日練習しよう。」という声が上がり、スカートのままでは なく、和太鼓部の名前が入ったジャージでの練習が始まり、全員が一斉練習ができるように古タイヤの本数が増え、私が練習場に行かなくても、自分たちでミーティング をしてその日の反省をするという、クラブらしい光景が見られるようになりました。  
 そして、いよいよ約束の3年目の海外公演の年、2001年です。その年から大阪予選も始まり、大阪1位になって福岡で開催される全国大会出場を決めました。7月の全 国大会では何とか他校並みのレベルの演奏ができて、いよいよ11月の初めての海外公演となるイギリス公演の準備が始まりました。JAPAN WEEKを主催する国際親善協会の協 力のおかげで、高校団体初となる国際交流基金や大和日英基金などからの資金援助に加え、市民からの支援金も多額になり、部員の練習も「笑顔作り」など、表現力の充実 に力を入れる段階になっていました。ところが、9月11日にアメリカで同時爆破テロが起こったのです。このことで、全国の高校では飛行機を使った海外修学旅行は次々に キャンセルされ、国内のバスを使っての修学旅行に切り替えられ、一般の海外旅行も自粛され始めました。JAPAN WEEKへの参加団体もキャンセルが相次ぎ、開催が危ぶま れるほどになりました。和太鼓部でも保護者会を開き、イギリス公演の実施か中止かを議論しました。その中で、部員たちは「死んでも行きたい。私たちは観光旅行では なく、お互いに違った文化を理解し合う国際交流のために行く。それは世界の平和のためになる。テロで中止するなら、テロや戦争に負けたことになる。」と一歩も譲り ませんでした。校長先生も保護者もこれを否定することはできませんでした。そして、部員たちの強い意志で、イギリス公演は大成功し、スタンディングオベーションで 部員たちは感激の涙を流しながらアンコールを演奏しました。  
 その2年後(2003年)には、2か国目となるトルコ公演を計画しました。演奏レベルも上がり、その年の福井県での全国大会では全国3位に入賞するまでになりましたが 、その年3月にアメリカが「テロのための大量破壊兵器を作っている。」としてイラクを攻撃し、イラク戦争が始まっていました。トルコはイラクの隣国で、やはり情勢が悪 化し、JAPAN WEEKが開催されるイスタンブールではテロの可能性があるという外務省の海外安全情報が出されました。そのため、また保護者会を行い、実施か否かを議 論しました。ここでも、部員たちは「トルコ公演を目指して全国大会では『シルクロード』(東の日本から西のトルコを目指して旅をするという意味を込めている)という 曲を演奏して入賞した。観光地など危険な所には行かなくていいから、認めてほしい。私たちもテロに負けたくない。」と言い、結局、校長先生も大英断を下して、実施を 認めてくれました。
 しかし、安全情報の通り、折しも私たちのメイン演奏の日の朝、私たちの泊まっているホテルから500mしか離れていないガラタ塔という観光名所など市内3か所で同時 爆破テロが起こり、20人が死亡、250人が重軽傷を負う大惨事が起きました。メイン公演は中止となり、NHKニュースを見た保護者からの安否問い合わせの電話も相次ぎました。 私たちはトルコの大学生と折り鶴を折って犠牲になった方々に哀悼の意を表し、世界の平和を祈りました。この貴重な体験を忘れないで、後輩に引き継ぐために、今でも 和太鼓部員はハッピの襟に折り鶴の刺繍をつけています。
 翌年2004年の韓国公演も「冬ソナ」ブームとは裏腹に日韓の歴史問題に起因する両国のギクシャクした関係も続いており、部員たちも苦戦する場面もありました。最終 日の公演では韓国の太鼓チームの手助けもあり、部員たちが演奏する現地の民謡「珍島アリラン」に合わせて、マイクを握って歌いだす人や、客席から飛び出して踊りだす人、 部員を負んぶして走り回るアジュンマ(おばちゃん)も出てきて、日韓入り混じって大いに盛り上がり、部員たちはうれし涙を流して現地の人たちと抱き合っていました。こ のとき、部員たちは国際交流は一方の思いだけでは決して成し遂げられない。双方が協力してこそ国際交流の意味があることを知りました。
 このように和太鼓部の活動は国際情勢と緊密につながっており、世界が仲良く平和でないと太鼓の演奏はできないので、和太鼓部は世界の平和実現を目指して活動をし ていかなければならないと思っています。このような貴重な体験と学びが部員の視野を広げ、和太鼓の演奏技術だけでなく、国際情勢や社会への関心を育てています。

2.社会への関心がチャリティコンサートや被災地訪問へ

 海外公演によって、世界に視野を広げた部員たちはその後、開発途上国支援にも関心を持ち始めます。開発途上国とはアジアやアフリカ、中南米などの国々で、国民の 収入が低い国々です。途上国ではお金がなくて学校にも行けない人も多いので、衛生的な知識もなく、川や池の汚れた水で生活して、下痢や寄生虫が原因で死亡する人たちも いることを知った和太鼓部の生徒たちが、7年前にチャリティコンサートをやって、市民の皆さんから募金をいただき、バングラデシュやネパールの農村に井戸を贈りました。 現地から送られてきた写真には「芥川高校の井戸」のプレートがつけられ、村の人たちが水を汲みながら喜んでいる姿が写っていて、高校生でも、いや、高校生だからこそで きることがあることに気付いたのです。その年からずっと、チャリティコンサートを続けていて、今は芥川高校の他のクラブも誘って、軽音ロック部、ダンス部、吹奏楽部と 150人以上が参加する4部合同チャリティコンサートに発展しています。テーマは途上国を支援するものから、タイ洪水やフィリピン台風被害からの復興を支援するものになり 、ここ数年は東日本大震災復興支援に移っています。
 そして、和太鼓部はチャリティコンサートの支援先の宮城県名取市や気仙沼市、福島県会津若松市やいわき市の仮設住宅を毎年、夏休みに訪問して現地の方々との交流 や現地の和太鼓チームと合同演奏会を実施しています。チャリティコンサートも単に募金をしてお金を贈るのではなく、現地の方や当事者を招いて事前の学習会を行い、現地 の人たちの思いを受けて、参加者全員がしっかりと取り組みます。
 昨年夏には福島原発事故の被災地の仮設住宅を訪問し、家庭に入って話を聞かせてもらいました。津波被害と違って、原発近くの故郷を失い、遠く離れた仮設住宅暮ら し。もう二度と故郷に住めない。そして、「『避難民』は地域住民に素直に受け入れてもらえない。」、「5年たっても、仮設の不便な暮らしが続いている。今後どうなること か見通しが立たない。」、「私たちのような人たちがいることを忘れ去られてしまうのではないかと不安。」などの切実な言葉を聞き、部員たちは自分の無関心さを反省し、 自分の問題として解決策を考えなければならないと思ったようです。今でも仮設の方と手紙やメールをやり取りしている卒業生もいます。  そうした先輩たちの体験と意思が今に引き継がれて和太鼓部の伝統を作り、それが現在の部員たちの芥川高校和太鼓部の部員の誇りと新たな伝統づくりの意識につながって います。

3.社会とつながる普段の活動こそが成長の場

 今見たように、全国大会や海外公演、そして被災地訪問などは生徒たちにとって大きな体験で、それぞれに身につけることも大きいですが、普段の地域での演奏活動で 彼らが学んできたことがあってこそ、その大きな目標が達成できていると言えます。では、普段の活動でどんなことを学んでいるのか?
 第1に、「1回1回の演奏会を大切にする」ということです。これは毎年、演奏に行っている老人ホームで慰問演奏を楽しみにしておられた方が、演奏会の3日前に、前年に 部員と撮った写真を枕元に置いて亡くなられたということがあったからです。部員たちの「また来年も見てください。」という別れの挨拶はお年寄りにとっては「来年も元 気で太鼓を聞くぞ。」という目標に繋がるのです。しかし、残念ながら翌年には聞けない方もある。それ以来、部員は老人ホームに限らず、どの演奏会でもお客さんとの出 会いは一期一会であり、ベ ストを尽くして演奏しなければならないと思うようになり、それが伝統になったのです。そして、老人ホームでは演奏終了後には お年寄りのそ ばに座り、手を取って感想を聞いたり、話を聞かせてもらったりして、交流を大切にしています。
 第2に、部員のホスピタリティ("おもてなし"の心)です。これは地域で愛される和太鼓部へと成長してきた過程で身に付いたものです。毎年のイベントや祭りで演奏 することによって、地域の皆さんが和太鼓部の成長を見守り、応援してくれるようになった。活動支援カンパパもして下さる、中には「和太鼓部は地域の希望です、宝です。 」とまで言って下さる方もあり、自分たちが多くの人々に愛されていることを実感し、感謝の念を持つことができるようになったのです。そして観客の満足なくして自分たち の満足はありえないことを知りました。一生懸命に練習してよい演奏をすれば、皆さんが喜んでくださる、褒めてくれるのが嬉しくて、厳しい練習を止めないで続けられるの です。
 第3に自分たちは社会の中で必要とされているという自己肯定感を持つことができたことです。部員たちは自分を押さえ、目立たないおとなしい生徒が多いですが、和 太鼓ではむしろ自分を出し切ることが求められる。地域の人々は部員たちを本校を代表する積極的な生徒たちと捉え、さわやかな印象で好感を持っ ています。中には和太鼓部 の演奏を毎回、見に来られる方もあり、感想を記した手紙も届きます。部員たちはそんな反響を目にして、自分たちが面識もない多くの人々に力を与え、元気づけることが出来 ることを 誇りに思うようになったのです。
 第4は自分を客観視出来るようになることです。和太鼓の演奏は音楽にとどまらず、全身を使った芸術的なパフォー マンスであり、表情や体の動きを加えることによっ て表現力を高めることができます。従って、より良い演技をするためには豊かな想像力が不可欠で、自分の体の動きや表情が観客にどう見えているかをイメージすることによっ て自分に 必要な課題が見えてきます。部員は常に自分はこれでよいのかを自問しながら練習することになります。 高いレベルの演技を追求すれば、結局、自分の普段の生活 態度の見直しまで必要となってくるかも知れません、生き方も変わると思います。
 第5はしっかりと自分の考えを持って話ができるようになることです。演奏曲を仕上げていく過程は、専門家の指導を受けずに部員同士で議論し、先輩後輩関係なく、 お互いにアドバイスをしながら、曲を仕上げていきます。ここでは自分の考えに基づいてハッキリと意見を言うことが求められます。また、部長挨拶や舞台転換の際の曲の 解説や自分の考えなどのスピーチがあります。今日も数人の生徒が和太鼓部の中での自分の成長について話をします。演奏会で回を重ねて話をすることによって、誰でもし っかり話すことができるようになります。そうした繰り返しで、臨機応変にその場にふさわしいスピーチができるようになっていくのです。  その他にも、和太鼓の演奏活動によって集中力やチームワークによる協調性、自己表現力などにも大きな進歩が見られます。

4.まとめ

 以上、長々とお話ししましたが、各代の和太鼓部の部員たちは、先輩たちの学びや気づきを大切に受け継ぎ、それらを風化させることなく、伝統として自分の中に取り 込み、さらに自分たちの新しい体験による学びを積み上げて成長していきます。それらの成長はどれも、部員たちが学校の外(社会)に出て行って年間3万人もの観客のみなさ んの前で、ベストの演奏をするために、日々の練習の中で体験している喜びや挫折、葛藤の中から生まれたものです。それは自分との闘いであり、自分を見つめる作業に他な りません。その自分を土台としてさらに海外公演や被災地訪問、チャリティコンサートを通して社会への視野を広げ、自分が社会の一員としてどう生きるかを考えさせられる のです。
 こう話してくると、和太鼓部員は理想的な高校生集団に思えて来るかも知れません。よく、「こんなしっかりした生徒さんたちを見たら日本の将来は安心です。」と言 われたりしますが、実際は部員の個性や考えは様々であり、決して簡単に一つになれる訳でもありません。芥川高校和太鼓部への評価は、私たちの現実の姿を越えて、周りの 人たちによって、先に「好ましいイメージ」が作り上げられているかも知れません。部員や顧問はそのプレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、お互いにぶつかり合 い、必死に何とかその評価に応えようともがいているのが現実です。しかし、そこにこそ、生身の人間のコミュニケーションやチームワークが生まれるのではないかと思いま す。強力な指導者や確立されたマニュアルに従うのではなく、部員たち自身がお客さんと正面から向かい合い、演奏や和太鼓部の様々な活動に責任を負うからこそ、自分たち の姿を見つめ直し、自分を変革する(成長させる)可能性があるのだと思います。
 

      「和太鼓部の活動で得たこと」   高谷佳那    (2016年2月4日)

 私はこの和太鼓部で、副部長の仕事やチャリティコンサート・被災地訪問プロジェクトの実行委員長をすることで、得たことがたくさんありました。
 第一には、知らない世界に飛び込む勇気を持つことができたということです。テレビやWebの取材を受けたり、老人ホーム慰問や地域のイベントでの演奏、 大きなホールやホテルでの演奏もありました。全国大会優勝や国立劇場公演も経験しましたが、その他にもチャリティコンサートで支援した、台風被害を受けた フィリピンの被災地を訪れて、子どもたちや村の人たちと交流もしました。また、東日本大震災の被災地訪問も2年続きでやらせていただきました。これらのこと で、知らない場所に行ったり、初対面の方と出会う機会がたくさんあり、新しいことを見たり知ったりする楽しさを感じるようになりました。気になることは関係 者に聞き、興味のあることには参加してみるなど、自分の視野を広げ、行動する力と自信を持つことができました。それからは、積極的に自分から人と関わるよう になり、どんなことにもまず挑戦してみるという姿勢を持つことができました。
 第二に、私はたくさんの人と出会い、人との繋がりの大切さを学びました。一人で出来ないことも、同期や先輩・後輩、顧問の先生、家族、友人、地域の方々 など、たくさんの人と協力し合えば実現できる!と、実感することができました。例えば、原発事故のあった福島への訪問では、仮設住宅訪問について顧問の先生が 交渉しても受け入れてくれるところがない状態でした。その時、私は現地の人たちは私たちの訪問を迷惑だと思っているのだろうかと不安になりました。チャリティ コンサートの事前学習会のために福島から来てくださった講師の方に相談すると、「現地の人たちはもちろん嬉しいに決まっているが、みんなやることが山積してい て、君たちと訪問先をつなぐ人がいない。現地の方に迷惑をかけたらボランティアとして活動する意味がない。」という答えでした。それを聞いて人に頼るのではな く、私自身が行動しなければならないと思いました。自分の力でなんとかしたいと思い、先生に「大人に頼ってばかりではなく、自分の手で実現させたいです。」と 伝え、自ら現地の社会福祉協議会に電話をして、直接想いを伝えました。すると、良いお返事をいただけたので、すぐに仮設住宅や現地の高校との合同演奏会の会場 下見や挨拶をするために、福島県へ足を運びました。また仮設住宅訪問に関しては何度もメールでやりとりをして、ただ演奏するだけではなく、部員一人一人が現地 の方と交流できるようにと戸別訪問も企画しました。当日は部員たちが戸別訪問で、苦労された話を聞いたり、お昼ご飯を頂いたりとそれぞれが楽しく交流すること ができました。夕方の演奏会も盛り上がり、仮設住宅の方々とすっかり仲良しになりました。この訪問成功も、いわき市社会福祉協議会や、仮設住宅の役員の皆さん、 顧問の先生方の協力があったからこそだと思います。委員長として、大変なことや不安な気持ちもありましたが、部員と現地の方の両方に喜んでもらうことができ、 バスに乗り込む時には涙が出るほど嬉しかったです。
 このように、普段の和太鼓部の演奏会の以外にも、普通の高校生が出来ないような経験をし、たくさんのことを学ばせていただきました。引退した今、学んだ ことを活かしながら、人とのつながりを大切にし、また今までの経験を無駄にしないよう、これからも新しいことに積極的に挑戦していきたいと考えています。経験 の場を与えてくださった先生方や、見に来てくださったお客さんを含む、支えてくださった全ての人に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。これ からも、一人でも多くの人を笑顔にできるよう、頑張っていきます。

「ますます充実、日本を代表する高校和太鼓チームへ」 名誉顧問 山下 勉 (2016年2月3日)

 和太鼓部は2015年12月末に京都コンサートホールで開催された第4回全国高校生伝統文化フェスティバルで、沖縄、富山、岩手の有名高校の部員たちが演じる郷土芸能や 日本音楽と並んで、唯一の和太鼓チームとして招待され、特色のある演奏で大きな評価を得ました。1月末にBS朝日で放送された番組でもこの時の演奏とインタ ビューが紹介されました。
 年明けの2016年の活動は1月3日の西武高槻店、4日のイオン明石店、5日のサンスター(株)本社での始業式と年明け早々、3日連続の演奏会で始まりました。 サンスターでは昨年も演奏しましたが、今年の始業式のテーマが"躍進"ということで、部長も「大阪予選で全国大会の出場権を獲得することと、アメリカ公演を成功 させることが和太鼓部にとっての躍進へのテーマです。」とスピーチしました。その和太鼓の演奏は「テレビ会議」システムを使って全国の支店や工場に同時中継さ れ、多くの社員が見守ったということです。演奏後、名誉顧問は会長さんと懇談し、重役の方々も交え、和太鼓部の歴史や芥川高校の教育内容などについて話をさせ て頂きました。
 1月24日(日)、大東市のサーティホールで開催された芸文祭郷土芸能部門で和太鼓部は優勝し、7月に広島県三原市で開催される第40回全国高校総合文化祭への2年 ぶり13回目の出場を決めました。部員たちは昨年、僅差で柴島高校に破れ、その悔しさをバネにして、今回は高校生には到底真似できないハイレベルな演奏技術と、チー ムワークを感じさせる演奏を目指して日々精進しました。その甲斐あって、18人の審査員中15人が1位に推薦、72点満点の68点というハイスコアーで2位の柴島高校(48点) に圧勝しました。会場ロビーで不安げに審査結果を待っていた部員たちは、結果を聞いた瞬間、歓声を上げ、互いに抱き合って喜びの涙を流していました。
 和太鼓部では全国大会出場や海外公演の大きな目標の他、被災地訪問や年間70回にも及ぶ様々な演奏会など社会に直結したインタラクティブな活動を通して、 部員たちが自分で考えて行動できる力を身につけていきます。そうしたことが評価され、アクティブラーニングのモデルとして、このほど、東京大学の総合教育センター 関連のWebページ"マナビラボ"に取り上げられました。http://manabilab.jp/article/1001 ぜひ、ご一一読下さい。

宮城県気仙沼下見訪問感想文(2014年4月19日〜20日)

気仙沼を訪ねて  川角ありさ(交流実行委員長)

  私は震災から1年後に、宮城県名取市の仮設住宅を訪問したことがあり、その時は復興はこれからだなと思いました。そして今回、気仙沼に行くことになって、復興が着々と進んでいるだろうなと思いました。しかし、現地へ行ってまず見たことは、3年経った今でもまだまだ復興は進んでいないということです。テレビなどでは時々、順調に進んでいる表の映像が放送されることもあるけど、それさえ最近ではだんだん報道されなくなって、忘れかけてる人もいるかもしれません。でも、現地に行ってみて、自分もどこかで忘れかけていた部分があったんじゃないかと気づきました。  
 そして、今回の気仙沼訪問を私は楽しみにしていました。それは気仙沼の鹿折中学校の仮設住宅の方と文通していて、相手の方に会うことができるかも知れないと思っていたからです。連絡もせず、突然、その方の住宅を訪ねたのですが、幸運にも会うことができて、その方から、「東北の人たちを応援してくれている大阪の人たちがいるということは本当に嬉しいです。」と言われ、被災した方にとって一番辛いことは、今も大変な状況が続いていることを、みんなに忘れられてしまうことなんだと感じました。  今回、気仙沼へ行って現地の気楽会や八幡太鼓の方々と直接話して、その思いに触れたことで交流実行委員長としても、少しでも気仙沼の方々に元気になっていただけるよう、八月の合同演奏に向けて今まで以上に日々の練習を頑張っていこうと思いました。  
 そして、たまたま復興イベントの中で、現地の八幡太鼓の「は組」の演奏を見ることができました。気仙沼のお祝いの時に演奏される伝承曲を演奏していて、町のカラーがすごく出ていました。私たちの住んでいる地域ではそういう伝承曲がないので、すごくうらやましいなと思いました。演奏が終わった後、「は組」のみなさんと話すことができました。メンバーには高校生もいて、演奏を見た感想や、お互いが演奏している曲、高校生活や普段の太鼓の練習時間などの話をして盛り上がりました。今日の演奏曲の中には私たちもやっている曲があったので、「夏に合同演奏をする時、ぜひ一緒にやりたいね。」という話もしました。連絡先も交換したので、八幡太鼓さんとの手紙交換についても今後話を進めていこうと思っています。  現地の方々と触れ合い、そこで感じたのは気仙沼の方々のあたたかさでした。出会った方一人一人が自分たちの町のことを考え、みんな、行くところ行くところに知り合いがいて、人とのつながりが強くてすごいなと思いました。現地の方じゃなくても、出会った方々は本当に気仙沼のことを考えて自分たちの思いを熱く語っていて、こんな方々とつながりを持つことができたことが何より嬉しく思いました。  また、気仙沼の方々は私たちが夏に気仙沼を訪問することを歓迎し、演奏をすごく期待し、楽しみにしてくださっていることも強く感じました。私たちも気仙沼とこれからもつながりを持ち続けるために、和太鼓部で協力して今回の企画を成功できるよう頑張りたいと思いました。

気仙沼訪問感想     村上友月(和太鼓部部長)

    気仙沼に行くまでは、実際に自分たちが行って大人の人たちと打ち合わせできるのかと不安でした。緊張しながら、八幡太鼓の代表の方々と会いましたが、私たちをとても歓迎していただき、話も熱心に聞いていただきました。みなさん、合同演奏会や港まつりでの演奏をとても楽しみにしていて、期待をしてくださっているのが伝わってきて、わたしも本当に成功させたいなと思いました。そして八幡太鼓の皆さんから、被災地でいま一番必要なこと、政府と被災者の求めているものが違うということ、和太鼓をやることでたくさんのつながりが持てるということを学びました。  
 次は鹿折中学校住宅に行きました。そこではとても温かく歓迎していただき、おばあちゃんもおじいちゃんもお茶を入れてくださったり、お菓子をくれたり、とても親切で震災時の話も聞くことができました。ご夫婦とも車に乗ったまま津波に流され、窓から脱出して、おばあちゃんがおじいちゃんのことを助け出したと聞きました。自分の身を守るだけでなく夫の命を助けたおばあちゃんはすごいなと思いました。おばあちゃんは編み物が得意で、ペットボトル入れや帽子などを編んで、大阪の支援者の方にバザーなどで売ってもらっているそうです。編み物は可愛くてわたしも欲しくなりました。震災から3年がたちましたが、みなさんは未だに仮設の小さな部屋で暮らしています、でもおばあちゃんとおじいちゃんの笑顔はとても幸せそうでした。仮設住宅は中学校のグランドを占拠して建っていて、中学生たちも運動ができないので、体育の授業はランニングばかりになっているそうです。  夜は八幡太鼓の演奏を見ました。メンバーは女性の方が多く、高校生もいました。演奏後に私たちより一つ上の人と一つ下の高校生と話しました。親しく話しかけてくれ、とても話しやすかったです。同じ太鼓を叩く同士なにか通じるものがありました。二人も私たちの演奏を早く見たいと言ってくれて、もっと二人と仲良くなって、はやく夏にまた会いたいなと思いました。そしてこれからもこのつながりが夏が終わってからも続いてほしいなと思いました。  
 二日目は朝、安波山という気仙沼を一望できる山に連れて行ってもらいました。そこからの景色は、津波被害を受けた沿岸部は土を盛り上げる嵩上げ工事の様子が見え、家が多い山側と比べると、まだほとんど何もなくて、復興はまだまだと思いました。復興された魚市場にも行きました。気仙沼はかつお、まぐろ、ふかひれなどの水産業が盛んでした。だから復興もまず、漁業関連の施設が最初に必要なのです。そこには津波が襲ったあとが残っており、ここまで津波が来たという表示板や津波の汚れが残った壁などしっかりと残されていました。  その後は俳優の渡辺謙さんが建てたカフェ「K-port」に行きました。渡辺さんは復興についていろいろ考えた末、再び港に多くの人が集まることがまず大事だと考えて、カフェを作ったそうです。そして、度々ここを訪れては、ウエイターとして働くそうです。  それから気楽会主催の「町歩きツアー」に参加しました。参加者も東京や岩手などいろんなところから来ていて、復興に関心のある人ばかりでした。案内役の方が昔経営していたお菓子屋さんがあった場所にも行きました。津波の前は観光客や近所のお客さんと楽しい会話をしたりして幸せだったと話していました。そしていつかまたそんな日々が送れるようにしたいと言っていました。私はそれを聞いて、とても応援したくなりました。今年夏にも、また何年後かにもあの場所を訪れて、お菓子屋さんができるのを楽しみにしています。  
 たった二日間の訪問でしたが、現地へ行って初めて、すごくたくさんのことを学びました。高校生の私たちができることは何だろうと考えると、現地の方々のいろんな話を聴き、そしてあの震災の事を決して忘れてはいけないということが、私たちにできることかなと思いました。3年たった今まだ復興がこれからだというのに多くの人はほかの事に目を向けて忘れかけています。わたしは気仙沼の方々の温かさや復興への思いにとても感動し、今年の夏だけではなく、また何年後かにも気仙沼に来たいと思いました。そして今回できたつながりを大事にして、夏の合同演奏会、港まつりすべてを成功させたいと強く思いました。


2010年度「国際理解・国際協力のための高校生のスピーチコンテスト」で”優秀賞”受賞(2011年1月22日)

「日本の高校生たち、ありがとう!」             大阪府立芥川高等学校 三年 水野真美

 「日本の高校生たち、ありがとう!」、二十九人の子どもたちの大きな声がガーナのアスオフィア村にある教会の南東に広がる豆畑に こだまします。エイズで両親を亡くしたり、貧困のために親元を離れて暮らしている孤児たちです。  
 彼らを支援するガーナのNGOの存在を知ったのは、私たちの和太鼓部が最初にチャリティコンサートを実施した時でした。孤児たちは その教会で、月に一回、私たちが支援した資金で購入した、米や石鹸の配給を受けるのです。その時に子どもたちは私たちが暮らしている日本の方向を向いて、大声で感謝の言葉を言うのです。   
 私が部長をしていた芥川高校和太鼓部は年間五十回以上のボランティ演奏を行い、地域の人々に愛される存在になっています。私が 一年の時、和太鼓部は日中友好高校生訪問団として中国に派遣され、友好年式典で演奏し、人民大会堂でのパーティにも招待されま した。ホームステイも体験し、中国の友人もたくさんできました。また、二年の時にはオーストリアで開かれたジャパンウイークに 参加し、世界的に有名なコンサートホールでスタンディングオベーションを経験しました。  
 私たちは普通の高校生が体験できない夢のようなことを、多くの人たちの支援によって経験することができました。その喜びを私た ちが誰かを応援することで社会にお返しすることができないかと考えたのが、ガーナの子どもたちためのチャリティコンサートのき っかけでした。  
 私たちは実行委員会を作り、チャリティ会場確保のため、駅周辺のデパートと交渉しました。また、途上国支援をしているJICAやNGO と連絡を取り、スタッフ派遣を依頼しました。そして、JICA 大阪センターにお願いして、学習会を開き、ガーナから帰ってきたば かりの青年海外協力隊員の方々に現地の様子を聞かせてもらいました。こうして部員全員が明確な目的意識を持ってチャリティコ ンサートに望むことができました。東京から来るNGOスタッフの新幹線料金は、和太鼓演奏会でいただいた交通費を部員たちが全 額カンパしてくれて、まかないました。  
 二日間にわたって実施したチャリティコンサートでは実行委員が趣旨を訴え、JICA やNGOのスタッフが現地の実情を説明しました 。こうして、チャリティコンサートは大成功に終わり、三十万円近くの募金を集めることができました。私たちはこれをガーナの NGOと途上国のワクチン接種に取り組んでいるNPOに寄付しました。ガーナからは写真や礼状と一緒に子どもたちからの手紙が届き 、その手紙には、医者、銀行家など、学校に行けない子どもたちには到底、実現できそうもない夢が書かれていました。私たちは 演奏会や学校行事のことを書いた返事を送りました。  
 その後、ガーナのNGOからは子どもたちに配給された品物の内訳や募金の残高が逐一報告されてきました。そして半年ほどでつ いに残高は「0」になり、私たちも三年生になって全国大会出場を最後に和太鼓部を引退しました。それと同時にガーナの子ど もたちのこともいつしか頭から消えていきました。  
 しばらくして、ガーナのNGOから「子どもたちにクリスマスの日帰り旅行を体験させ、多くのことを学ばせたい。その旅費を和太 鼓部に支援してもらえないか。」との依頼がありました。現役の一・二年生は毎週末の演奏会を控えて、そんな余裕はありませ ん。でも、私はそれを放っておけませんでした。写真で見たガーナの子どもたちの顔を思い出したのです。私たち三年生が会場 確保や学習会などの事前準備をし、和太鼓部は当日だけ演奏をすれば何とかチャリティコンサートが実施できる。私はそう考え て他の三年生や現役部員たちと話し合いました。そして、私たちはすぐに交渉や準備に取り掛かり、クリスマスに間に合うよう 、一ヶ月前の祝日に、駅前のデパートに協力してもらって、二回目のチャリティコンサートを実施しました。終了後、募金箱を 持ってカンパを募ると、人々は「高校生ががんばっていて、感動したよ。」と言って、募金してくれました。  
 私たちはNGOから要請のあった旅行費用の三倍もの募金、十五万円を集めることができました。私は、クリスマスに、大型バスに乗り、 新しく作ったTシャツを着て、旅行の興奮で大騒ぎするガーナの子どもたちの笑顔を思い浮かべました。私たちが海外公演で体験した感動を子どもたちにも体験して欲 しいと思いました。  
 私は以前は「高校生の私たちに出来ることは何もない。」と思っていましたが、今は違います。高校生だからこそ、こんなに人 々の協力が得られたのです。私は、多くの高校生が自分たちの力を信じて行動するよう、機会ある毎に訴えたいと思います。

チャリティコンサートに取り組んで(2010年2月11日と13日)

 今回の和太鼓部チャリティコンサートは「途上国の子どもたちへの援助」をテーマにして取り組みました。2月11日(祝)には マツザカヤ(高槻店)とJICA大阪センター、13日(土)にはアルプラザとJCV(世界の子どもにワクチンを 日本員会)の協力で 実施しました。

------------以下の文はJCV宛のメールです------------------

 今回の和太鼓部チャリティコンサートは全国の高校の吹奏楽部・ダンス部・軽音楽部・和太鼓部などのチャリティコンサート の可能性を開くものだと思います。
 今回、本校和太鼓部の取り組みでは、単にパフォーマンスをして人を集め、募金をするだけでなく、 自分たちがやることの意味を一人一人がしっかりと理解して取り組むことを目指しました。 和太鼓部内に実行委員会を作り、委員が途上国の様々な課題を学習し、どの分野に援助を行うかを考えながら、NGOの選定をしました。 委員が、自分たちで調べた途上国の教育の実情、保健衛生の諸問題などを部員全員にレクチャーし、さらに、JICA大阪センターでガ ーナの人々の生活や子どもたちのおかれている現状、学校の実情などを青年海外協力隊員OB・OGから講話を聞いて途上国の問題認識 を深めました。

 和太鼓部の生徒たちにとって、今回の取り組みを通して、青年海外協力隊員やNGOスタッフと出会った意味は大きかったようです。 ある部員は「和太鼓部で中国やシンガポール、オーストリアと外国に行くチャンスがあり、そのことで国際交流の仕事がしたいと考え るようになりました。そして今回、青年海外協力隊やNGOの存在を知ってとても興味を持ちました。今は国際交流というより、国際協力 の方に関心が向き始めました。」と話してくれました。 このように、今回のチャリティコンサートは生徒たちの生き方に影響を与えるような取り組みにもなっています。 私は学校で15年間、「グローバルコミュニケーション」という授業を担当し、その中で青年海外協力隊員とのメール交換を8ヶ月間行 わせています。自由なテーマでメール交換をするのですが、その中で生徒たちが隊員の生き方に大きく学ぶ様子を見てきました。 開発の最前線の現場に身を置く協力隊員やNGO(NPO)スタッフの皆さんの存在自体が多くの高校生にとって、新 鮮なものに写り、自分を見つめ直すきっかけになっています。 ほとんどの部員にとって、途上国の課題について真剣に考えたことはこれが初めてだったと思います。生徒たちは世の中には自分が知 らないことがたくさんあるということを実感しました。また、途上国の課題解決に真剣に取り組んでいる人々の存在も初めて認識した と思います。そして、自分たちが行動すれば多くの人々(マツザカヤ・アルプラザ・JICA・JCV・先生方・カンパしてくれた市民の方々 )が協力してくれることを実感できたと思います。高校生たちがそれらのことを実感できたという意味は大きいと思います。

 本校和太鼓部では今後も継続して、このような「行動の中から学ぶ」取り組みを続けたいと思いますので、よろしくお願いいたします。 ---------------------------------------------------------------------

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芥川高校30周年記念誌原稿(2009年6月)

 1.和太鼓部の地域活動

 創部15年目を迎えた和太鼓部は大阪府内を中心に年間50回以上の演奏会を行っている。 毎年定例で行われる地域イベントでは和太鼓部の演奏は欠かすことのできないものとなっており、 夏祭りの演奏を聞くのが楽しみで、毎年帰省しているという方もいる。演奏会で撮った写真や感想 を記した手紙やeメールを学校に届けて下さる方も増えて来た。
 高齢者介護施設への慰問では演奏だけでなく、一人一人とゆっくり話しをさせていただく。部員の名 前を覚えて、来年また会えるのを楽しみに元気でいようと目標を立てるお年寄りもいる。幼稚園・小・ 中学校や高校・短大・大学での学校公演も増え、今年度の府南部の中学校の芸術鑑賞会では市民会館で 1000人の中学生を前にして単独公演も行った。
 中学校や他高校からの和太鼓講習依頼も増えており、公演の合間を縫って演奏指導をする。そして、 公演が成功に終わったという喜びの感想文やお礼の手紙を手にした時、部員たちも一緒に彼らの成功 を喜ぶ。JICA(国際協力機構)大阪センターと提携して、途上国からの研修員が日本文化に触れる場 としての和太鼓クラブの指導も定期的に行うようになった。
 15年間にわたる歴代の和太鼓部員たちのこのような日常の積極的な活動が、地域の人々から愛され、 支持される基盤となっており、その地域からの声援・支援が、更に和太鼓部員の意欲と誇りを引き出 すという素晴らしいサイクルが形成されている。

 2.和太鼓部の海外公演

 趣味のクラブとして発足した和太鼓部が世界に通用するまでになった過程には数々のドラマがある。 初めて出場した山形での全国大会では、演奏中に太鼓が舞台に落ちて転がたり、演奏を間違えて全員 がパニックになるなど、自分たちが如何に未熟であるかを思い知らされた。その屈辱から立ち上がり 、歴代の部員たちが血の滲むような努力を重ねた結果、今の和太鼓部がある。これまでの海外公演も 先輩から受け継いだ財産の上に、さらに部員たちが困難な試練を乗り越えて、実現させたものである。
 2001年の「9.11テロ」の後、アメリカによるアフガニスタン爆撃が始まり、「JapanWeek英国」 への参加団体のキャンセルが相次ぐ中で、部員たちは「死んでも行きたい。国際交流こそが平和への 道筋だ。」として戦争にも怯まない強い気持ちを示して大人たちを説得し、イギリスのバーミンガム 公演を実現させた。メイン公演では満場の拍手とスタンディングオベーションの中で部員たちは感激 の涙で胸をふるわせながら演奏した。
 2003年にはトルコ公演にチャレンジしたが、この年もトルコの隣国イラクではアメリカによる攻撃 が始まった。出発前に外務省のホームページはトルコのイスタンブールでテロの危険性があり、「不用 不急の渡航は再考すべし」の警告を掲載した。部員たちは「観光はしなくていい。国際交流という大き な目的があり、中止したくない。」と保護者会で訴えた。保護者や校長もその決意の固さに押され、参 加が決定した。しかし、メイン公演の当日、市内2カ所で同時爆破テロがあり、数百人の犠牲者が出た。 たまたま、部員たちは大きな爆発音と同時に舞い上がる砂埃をホテルの自室から目撃した。目標だった メイン公演が中止になった無念さを乗り越え、部員が哀悼の意を込めて折り鶴をトルコの人に手渡すと、 その人は部員の手をしっかり握り返した。そして、この時から和太鼓部員はハッピの胸元に「戦争反対」 の折り鶴の刺繍をつけるようになった。
 2005年には韓国公演を行った。直前には日本では「冬ソナ」ブームが起きていたが、韓国では、日 韓の歴史に起因する日本の大衆文化への反発から日本の歌手のコンサートやポップスCD発売がやっと 許可された年だった。そんな状況下で日本の伝統文化である和太鼓が受け入れられるのかという不安が 胸をよぎった。自分たちこそが日韓友好をより確かなものにしようという部員たちの強い決意が事前の 歴史学習や、韓国語でのスピーチ練習に熱を入れさせた。公演は見事に成功し、アンコールで部員が演 奏する「珍島アリラン」に合わせて、観客と部員たちの踊りの輪がいつまでも続いた。
 その後、2007年にはスペインの"ESDANSA"公演、2008年には外務省による「日中友好交流高校生 訪中団」に参加し、中国北京での"友好年閉幕式典"公演を成功させた。そして今年、2009年は8月 に、文化庁による「高校生国際文化交流派遣事業」でシンガポール公演、11月にはオーストリアのグ ラーツ市での"Japan Week"公演を予定している。このように、今や和太鼓部は日本を代表する高校生和 太鼓チームとして、国際的な舞台で人々に日本の伝統文化を紹介し、見る人々に感動を与える存在と なった。

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                        「和文化教育研究会」紀要第2号所収 ―2008年2月発行―
「高校和太鼓部の活動で成長する生徒たち」

                                       大阪府立芥川高等学校 山下 勉
1.芥川高校和太鼓部の活動

 大阪府立芥川高等学校は大阪と京都の中間に位置する高槻市にあり、緑豊かな住宅街にある全日制普通科高等学校 である。学級数は各学年7学級ずつ、計21学級。800名あまりの生徒が通学している。学校の特色としては大学 の学生たちが参加する「情報A」や、参加体験型の「コミュニケーション・アワー」、保育実習、老人ホーム実習など の体験活動を多く取り入れ、社会との関わりの中で、自分の生き方を考えさせるとともに、自己表現力、コミュニケー ション能力を育成している。部活動も盛んで、特に和太鼓部はサッカー部と並んで、本校を特色づけるものになってい る。
 和太鼓部は大阪府内で年間50数回の公演を実施している。内容は高校音楽会での演奏のみならず、幼稚園、 小・中・高等学校、短大・大学での演奏、府内のイベント、老人介護施設の慰問などである。また、全国高等学校総 合文化祭郷土芸能部門にこれまで6回出場し、2003年度は全国3位に当たる「優良賞」、2005年度には全国 2位の「優秀賞」・「文化庁長官賞」を受賞し、東京の国立劇場で「優秀校公演」を行った。また、海外公演として 2001年にイギリス、2003年にトルコ、2004年に韓国、2007年にはスペインで演奏する機会も得た。

2.趣味のクラブから世界に通用する和太鼓部へ

 創部して今年で13年目を迎えたが、もちろん、一朝一夕に現在のようなクラブになったわけではない。最初 は部員たちはアルバイトをしながらの部活なので、練習も週2回だった。もともと人に見せることを想定していない ので、太鼓に向かう部員の気持ちも強いものがない。和太鼓部の活動を教育として行う以上、成長につなげるために 部員の和太鼓に対する意識改革がどうしても必要だった。ちょうどその頃、私が加入していた和太鼓市民サークルに 外務省の外郭団体である国際親善協会から1通の電子メールが届いた。そのメールには「和太鼓はヨーロッパでは非 常に人気があり、JAPAN WEEKに出場する和太鼓団体を募っています。」とあった。もし、和太鼓部を海外に連れ て行けるとしたら、部員は太鼓に誇りを持ち、まわりの生徒たちも部員を高く評価するようになるだろうと思い、す ぐ上京し、担当者と会った。そして、JAPAN WEEKに高校生の和太鼓チームとして本校の和太鼓部の派遣を将来必 ず実現させることで合意した。
 そこから3年がかりの和太鼓部改造計画の取り組みが始まった。まず、1999年、山形県で行われた全国高 等学校総合文化祭郷土芸能部門に初めて出場した。しかし、他校のリハーサルを一目見ただけで部員たちは「もう帰 りたい。ここは自分たちの来る所じゃない。」と動揺した。案の定、本番の演技では太鼓の台の紐がほどけて舞台に 締太鼓が落ちて転がり、緊張のために数人が間違えてリズムが乱れ、演奏が止まりそうになった。一方、他校の舞台 は躍動感と気迫に満ち、舞台裏でのきびきびとした準備と太鼓を大切に扱う様を見せつけられ、部員たちは屈辱感を かみしめた。
 学校に戻ると、数人が黙々と練習を始めた。太鼓に向かう姿勢がこれまでと違ってきた。練習は毎日するよう になり、太鼓の扱いが丁寧になった。音にこだわって締太鼓を締め直したり、太鼓の面の汚れを拭き取る者も出てき た。ミーティングも頻繁になり、1回1回の演奏会に目標を設定して望むようになった。 それから2年後の200 1年はいよいよ、イギリスでのJAPAN WEEKが開催される年であった。外国で公演するためには全国大会に出場す ることは必須である。緊張感に包まれて大阪府芸文祭に望んだ。そこでは念願かなって第1位となり、福岡大会に2 回目の大阪府代表として出場した。部員の意識は前回と違い、しっかりとした練習を積み重ね、他校にないオリジナ リティのある演奏をしようと意気込んでいた。イギリス公演を意識して、太鼓演奏の楽しさを表現する事にチャレン ジし、技術的にも何とか全国大会レベルの演奏をすることができた。
 イギリス公演のために、高校生団体では初の国際交流基金からの助成や大和日英基金などの助成や、学校や地 域からの支援も多額に受けることができた。部員はこうした多くの支援に、社会からの自分たちへの期待の重さを感 じた、そしてその期待に応えるためには海外公演を成功させることしかないという強い気持ちを持つことができた。 そして、イギリス・バーミンガムでのJAPAN WEEKメイン公演でスタンディングオベーションを受けることができ た。この海外公演で部員たちは1年間の歯を食いしばるような努力が報われたことを確かな手応えとして感じとった。
 2003年には更なる目標設定のため、トルコ公演を計画した。日本とトルコを繋ぐものとして「シルクロード」 という曲をメインテーマにし、トルコ公演を成功させるための自分たちの努力の過程をその曲のストーリーと重ね合わ せた。部員にとっては曲を仕上げていくことがトルコ公演の成功に近づくこととして意識された。その年の福井大会で はその「シルクロード」で全国3位に当たる「優良賞」を獲得した。そしてその成果を自信にしてトルコ・イスタンブ ールでのJAPAN WEEKでは大好評を博し、部員のトルコ語によるスピーチや曲説明に大きな拍手が湧き、アンコール の「ジェッティンデデン」の演奏では常に観客の大合唱と興奮を巻き起こした。人気テレビ番組への出演もあり、トル コでの扱いはアイドル並みとなり、行く先々で新聞やテレビの取材を受けた。
 2004年には徳島大会に出場した後、韓国公演を行った。日本では「冬ソナ」ブームが起こり、韓国に親しみを 持つ人々も増えていたかも知れない。しかし、竹島問題をはじめ、政治レベルでは日韓関係はぎくしゃくしていたし、 韓国側には日本による支配の歴史に起因する日本大衆文化への拒絶反応は依然として強く、日本の歌謡曲のCDがやっ とその年に発売許可されたばかりだった。そうした環境の中で和太鼓という日本の伝統文化を披露することはやや不安 があったが、だからこそ、逆に大きな意味があり、次代を担う青年たちこそが新しい日韓交流を担うことができるのだ と信じた。そして演奏会では韓国語でのスピーチや珍島アリランの演奏に、韓国の人々は踊り出し、部員を抱きしめ、 おんぶして走り回るアジュンマもいたほどだった。日韓の友好を願う部員の気持ちが通じて、演奏者と観客が国境を越 えて響き合うことができた。
こうした経験をふまえて自信をつけた部員たちは2005年に青森大会で全国2位に当たる「優秀賞」・ 「文化庁長官賞」を受賞するのである。

3.地域活動こそが学びの場

 全国大会や海外公演は生徒たちにとって大きな体験ではあるが、むしろ、普段の地域でのボランティア演奏活動 で彼らが学んだことこそ大きい。
 第1に、1回1回の演奏会を大切にしようということである。これは老人ホームで慰問演奏を楽しみにしておら れた方が、演奏会を見ないまま、和太鼓部の写真を枕元に置いて亡くなられたということがあったからだった。部員た ちの「また来年来ますから、楽しみにしていて下さい。」という別れの挨拶はお年寄りにとっては特別の意味を持つ。 それ以来、部員は老人ホームに限らず、どの演奏会でもお客さんとの出会いは一期一会であり、観客の心に残るようベ ストを尽くして演奏しなければならないことに気づいた。また、老人ホームでは演奏だけで終わらず、演奏終了後には お年寄りのそばに座り、手を取って感想を聞いたり、話を聞かせてもらったりして、交流を大切にしている。
 第2に、部員のホスピタリティである。これは地域で愛される和太鼓部へと成長してきた過程で身に付いたもの である。毎年のイベントや祭りで演奏することによって、地域住民が和太鼓部の成長を見守り、応援してくれるように なった。海外公演や全国大会出場の際には地域から多額のカンパが寄せられ、部員たちは和太鼓部が地域の人々にとっ ての希望であり、多くの人々に愛されていることを実感し、感謝の念を持って人々に接することが大切だと考えるよう になった。そして観客の満足なくして自分たちの満足はありえないことを知った。周りの人々に気を配り、配慮ができ るようになった。韓国公演ではソウルの空港で太鼓を運ぶのに使ったカートを、置き場まで返しに行く部員たちを見て、 空港職員が「こんなお客は今まで1人もいなかった。」と感激したほどであった。
 第3に自分たちは社会の中で必要とされているという自己肯定感を持つことができたことである。部員たちはク ラスの中では自分を押さえ、目立たないおとなしい生徒が多いが、和太鼓では精神的に解放され、むしろ自分を出し切 ることが求められる。地域の人々は部員たちを本校を代表する積極的な生徒たちと捉え、さわやかな印象で好感を持っ ている。中には和太鼓部の演奏を毎回、見に来られる方もあり、感想を記した手紙も月に数通届くようになった。部員 たちはそんな反響を目の当たりにして、自分たちが面識もない多くの人々に力を与え、元気づけることが出来ることを 誇りに思うようになった。
 第4は自分を客観視出来ることである。和太鼓の演奏は音楽演奏にとどまらず、全身を使った芸術的なパフォー マンスであり、表情や体の動きを加えることによってその音楽性を高めることができる。従って、より良い演技をする ためには豊かな想像力が不可欠であり、自分の体の動きが観客にどう見えているかをイメージすることによって自分に 必要な課題が見えてくる。部員は常に自分はこれでよいのかを自問しながら練習することになる。 高いレベルの演技を追求すれば、結局、自分の普段の生活態度の見直しまで必要となってくる。
 第5はしっかりと話ができるようになることである。本校和太鼓部では演奏のみでなく、演奏前の部長挨拶や舞 台転換の間を利用して生徒たちは交替で曲の解説のスピーチを行う。解説は既成の原稿を読むのでなく、自分なりの原 稿に基づき、スピーチ練習をして望むことになっている。年間50回ものスピーチをすれば、誰でもしっかり話すことが できるようになるのは自然なことである。また、学校にも様々な立場の方々が練習を見に来られる。その時の挨拶は時 には英語や中国語などを交えて行わなければならないことも多い。そうした場でも事前の簡単な打ち合わせだけで臨機 応変にスピーチができるようになっていくのである。
 その他にも、和太鼓の演奏活動によって集中力や協調性、自己表現力などにも大きな進歩が得られるが、ここで はスペースの関係で触れられない。

4.アマチュアだからこその感動

 プロ太鼓チームの演奏は素晴らしく、誰もが感激するが、涙が出ることはないだろう。しかし、芥川高校の太鼓に 感動して涙を流す方は多い。82歳のおじいさんは演奏会には毎回顔を見せて声をかけてくださる。演奏会の後、観客の 方から感想を記したメールや手紙が来る。その中には「年をとって感動することもなくなったが、あなた方の太鼓を見て 久しぶりに感動して涙が出ました。」、「ガンの宣告を受けて落ち込んでいたけど、あの笑顔を見て、しっかり生きてい こうという勇気が湧きました。」など、書いた方の思いが滲み出ているものもあり、部員全員で読んで、部長が必ず返事 を書く。
 なぜ、涙が出るのか。太鼓の空気振動で否応なく体全体が揺さぶられ、感情のコントロールが不能になってしまう 面もあるのかもしれない。しかし、それだけでなく、普段、街中で見かけるどことなく頼りない高校生たちがこんなにも 感情をむき出しにして、ひたすら真剣に太鼓に向かうのかという驚きが見る人に衝撃を与えるのだと思う。ある人は自分 のひたむきだった高校時代を思い出し、部員の姿に自分を重ね合わせるかも知れない。また、心から楽しそうな笑顔を見 て、その笑顔に癒されて感動する人もあるだろう。
 私たちが普段から心がけているのは、その曲の表現する内容の深い理解を持って演奏に望むということである。部員は 迷いなく、自分の表現することを知り、その表現のために練習を重ね、一生懸命に演技をする。それが見る人に何かを伝 え、見る人がそれぞれの思いで受け止めて感動することになる。
 実はその感動を更により大きくしている秘密がある。それは上述した部員たちの演奏前後の態度である。若者らし い溌剌とした挨拶、準備作業のきびきびとした動き、舞台転換の際のキリッとした立ち居振る舞い、演奏後、観客を見送 るときの感謝に満ちた笑顔と言葉。人々は部員のホスピタリティや態度に感動し、その上に一生懸命な演奏を見て、更に 感動を深くする。ここにこそ、「プロを越えるアマチュアたれ」という和太鼓部のモットーの本質がある。                      (2007.08.14.)

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和太鼓部物語「エピソード1〜4」 

 私の子どもが小学校時代、学童保育で太鼓を始めて中学校までやったので、私は太鼓を運んで演奏会を見ていた。その時、 子どもたちが真剣に太鼓を打っている姿は見る人に感動を覚えさせることを知った。 高校生ならもっとうまくできるし、自分たちで工夫する力もあるので、きっとすばらしいものが出来るのではないかと 思った。前任校の大冠高校でT先生と和太鼓部を作ったが、2年ほどで芥川高校に転勤。芥川高校では2個の長胴太鼓があり、 ここでも和太鼓部が作れるなと思った。しかし、授業で生徒に呼びかけてもだれもやるとは言わず、数ヶ月がたった。 夏休みに「星を見に行こう!」と1年の数人の生徒を誘って瀬戸内海の島に1泊のキャンプに行った。その時、さりげ なく、太鼓の魅力を話した。
 1ヶ月ほどして、1年生の5人の女子生徒が「太鼓をやりたい」と言ってきたので、和太鼓同好会を作って練習を始めた。 当時はブラスバンド部が月水金と食堂で練習をしていたので、火・木の2日間を活動日にして食堂で練習した。部員はアルバイトと掛け持ちで 活動を始めた。太鼓がないので、締太鼓は私が購入し、タイヤをガソリンスタンドからもらってきて練習した。2年目の新歓で1 年部員が10名ほど入部し、合わせて17〜18人になって活気が出てきた。

 最初は演奏依頼などはなくて、部員たちが自分たちの楽しみのために練習していたという感じだった。練習も週に2〜3 回という状況で、気合いの入った活動ではなかった。クラブができて2年たったころ、芥川高校の家庭科の授業で「老人 ホーム実習」があり、家庭科の先生が芥川高校に和太鼓部ができたということを施設側に話されていたことから、初めて 「○○の里」という老人ホームの夏祭りで叩かせてもらった。そして、2年間その「○○の里」で続けて演奏させてもら った。しかし、施設側からはあまりいい評価をもらえなかった。それは、その頃は私も部員たちも”趣味のクラブ”だと思っていたし 、部員の意識も「ボランティアをしている」という感じはなかったと思う。
 太鼓の積み降ろしも部員たちではやっていなくて、顧問と施設職員でやったし、施設ではお弁当を出してもらうなど、お客さんとして 対応してもらっていたように思う。太鼓の演奏が済めばさっさと控え室に戻り、お年寄りと交流するという ことはなかった。そんな状態だったから、3回目にはとうとう、「○○の里」からはお呼びがかからず、家庭科の先生から「部員の 心構えがなっていない。」ということを施設側から言われたということを聞いて、私もショックを受けて、猛烈に反省した。そして演奏 レベルだけでなく、人間的な成長がなければ和太鼓部の存在の意味がないと思い、その時から、和太鼓をやることに部員が誇りを 持つにはどうしたらいいかを考え始めた。

そのころはまだ部員は自分が和太鼓部員であることを人に言う時は、卑屈な気持ちを感じながら言っていた。部員たちは 和太鼓をやることは若者らしくないことで「恥ずかしいこと」だと思っていた。その部員に自分たちがやっていることのすば らしさを感じさせるには、技術的なレベルをあげるだけでなく、出来るだけ多くの演奏機会を持ち、お客さんに褒めても らうことが、部員たちが充実感を感じ、自分に誇りを持つことにつながると考えて、葉書やEメールを使って色々な施設 に演奏の申し込みを始めた。また、4年目くらいからは和太鼓部を全国大会に出したり、できれば外国公演に連れて行く ことも考え始めた。
4〜5年経つと、地元のお祭りやイベントでの演奏活動も年間10回ほどになり、少しずつ評判が上がり始めた。クチコ ミで老人ホームや共同作業所での演奏依頼も来るようになった。 創部5年目で全国大会(山形大会)に出て、全国大会の高いレベル(技術的にも人間的にも段違いの現実)に初めて触れ て、部員はショックを受け、それからは部員の意識が大きく変わった。活動も毎日やるようになり、曲も新しいものも取 り入れ、演奏技術も上がってきた。それをできるだけお客さんに見てもらいたいという意欲も出てきた。そして、色々な ところから演奏依頼が来るようになった。部員も1回1回の演奏会で学び、成長するということを知った。

和太鼓部物語「エピソード5」ー1   JapanWeek英国公演への歩み

 JapanWeek参加団体募集の一通のEメールが(財)国際親善協会から私たちのもとに届いたのは1998年初秋のことでした。 ちょうど、大阪府では公立高校の海外修学旅行がようやく解禁され、府立高校の数校が韓国・中国への旅行を実施し、現地の高校生との交流により、 感動的な成果を上げたということが伝わって来始めた頃でした。
  和太鼓部はその時、創部4年目でまだ趣味的なクラブとしてアルバイトと掛け持ちで入部している部員も多く、 クラブの体をなしていなかったのです。 伝統芸能の継承に携わるという価値ある取り組みを、古くさいこと、“ダサイ”ことと考えてクラスメートに話すことさえためらっている部員もかなりいました。 しかし、もし外国で公演できるという思いもかけない「夢」がかなうなら、部員たちは一転して誇りと自信を持つようになるのではと思うと、 詳細を問い合わせるための返信メールを出さずにはおれませんでした。こうして国際親善協会の担当者との百通を越えるメールの往復が始まり、同時に 本校和太鼓部をJapanWeekにふさわしいクラブへと成長させる努力が始まりました。
  まず1999年度には大阪初の芸能部門の代表校として全国高校総合文化祭山形大会に出場しましたが、そこでは全国レベルの素晴らしい クラブを眼前にすることで、本校和太鼓部が演奏技術はもとより、クラブのあり方としてもいかに未熟であるかを部員全員が初めて悔しさを伴って思い知らされた のです。その反省から、練習に打ち込む部員が現れ、その輪がだんだんと広がっていきました。地元の演奏活動でも少しずつ評価が高まり、 それと平行して部活動の運営も自主的にできるようになり、いよいよJapanWeekに耐えうるクラブへと変身していきました。
  2000年度の大阪高校芸文祭では全国大会への代表校の座を狙って出場し、見事に推薦第1位を勝ち取り、 今年度の全国高校総合文化祭福岡大会での成功でJapanWeekに向けて大きな自信をつかむことができました。全国大会の後ではさらに、 観客に感動してもらうことのできる演奏を目指して、舞 台上での感情表現など未知の領域にも挑戦しました。このような取り組みは普通の学校生活を過ごしている生徒には大変難しいことで、 それは取りも直さず自分自身への挑戦に他ならなかったのです
このような経過をたどりつつJapanWeekの本番を迎えたのでした。

 JapanWeekへの公立高校の初参加(私立高校の参加はありますが)で、数々の乗り越えなければならない関門がありました。 立ちはだかる困難な課題の前に何度も断念しかけましたが、 その都度、多くの方々から貴重な助言や温かい励ましをいただき、歩を進めることができました。なかには幸運に恵まれて解 決できた課題もありましたが、今回の和太鼓部の英国派遣は「時代の要請」として自然な流れにかなったものであり、それゆえ様々な課題も次々にクリアー されていったものと思います。
 現地での公演は、国際親善協会スタッフと現地ボランティアの方々の細やかな配慮と素晴らしい舞台装置とによって、部員の若さと躍動感、アマチュアら しい真剣さが最大限に引き出され、1曲1曲が感動的な大歓声と拍手に包まれました。また、小学生や青少年との交流の場面でもイギリスの子どもたちが太 鼓の演奏に感激して、部員たちに尊敬の念を持ち、部員たちもまた積極的に交流し、予定の時間を過ぎてもお互いになかなか別れようとしませんでした。感 受性の強い若い世代による国際交流の必要性をあらためて痛感しました。  
JapanWeekを目標に据えてからのこの3年間の和太鼓部の取り組み、事前の準備、JapanWeekそれ自体のどれをとってもすべてが素晴らしい教育の場であり、 人間成長の場でした。そのなかで部員たちは着実に自己の限界を乗り越えて成長し、自らの手で充実感と達成感をつかみ取り、かけがえのない数々の珠玉の 瞬間を深く心の中に刻み込むことができたのです。
 そして、それだけでなく、生徒、保護者、国際親善協会の方々、旅行会社スタッフ、私たち顧問教師というようにこのプロジェクトに係わったすべての人々の 間に強い信頼関係が芽生え、人知れず、あちらこちらに感動的なドラマが展開されたことはいうまでもありません。
 「第26回ジャパンウィーク 2001年 英国」で、私たちが得ることができたこれらの貴重な“財産”を風化させることなく、 今後着実に増加すると考えられる若い世代による国際交流に資するために、 この報告書を作成しました。 最後になりましたが、こうような素晴らしい体験をさせていただけたのも、国際親善協会、国際交流基金、大和日英基金、「Japan2001」実行委員会、大阪 府教育委員会など多くの関連団体、高槻市長、市議会議長、市教育長の方々、またこれまで演奏でお世話になった地域住民の方々、保護者、本校教職員、そ して現地ボランティアスタッフ、協賛企業の日本旅行、日本航空と、ほんとうに多くの方々のご尽力のおかげです。 部員、顧問一同、心より感謝いたします。ありがとうございました。

                                         2001年12月20日

                                       大阪府立芥川高等学校 
                                          和太鼓部顧問一同                                   

和太鼓部物語「エピソード5」ー2
「高校生活」和太鼓部原稿03.01.11.

                イギリス公演をきっかけに自分発見 
                             〜芥川高校和太鼓部〜

  ”プロを越えるアマチュア”たれ

 本校和太鼓部は八年前に創部し、部員は二〇名以上に増え、積極的に活動しています。高槻市内の幼稚園・小学校の和太鼓鑑賞 会や短大・大学での学園祭・学校見学会、老人ホームやその他の福祉施設への慰問、地域のお祭りやイベントなど、年間に三〇回 近くのボランティア演奏を行なう他、近隣の中学校や高校からの和太鼓講習の依頼も増えてきています。これまで全国高校総合文 化祭には二回出場し、今夏の福井大会には三回目の出場が決まっています。こうして和太鼓部は本校を代表するクラブの一つに成 長してきました。
和太鼓部の活動は「太鼓の奥義を究める」というような求道的な観点よりも、演ずる者、見る者ともに和太鼓の楽しさを通して 精神的な活力を生み出すことを第一義に考えています。アマチュアイズムを基本とし、あくまでも「クラブ活動」であるという位 置づけで活動しています。しかし、クラブのモットーは「”プロ越えるアマチュア”たれ」というもので、そこには一人一人 の技量はプロにかなわなくても、演技の真剣さやチームワーク、舞台マナーや人間的な謙虚さではプロを越えることは出来るという部 員たちの思いが込められています。
 また、ミーティングを大切にし、これまでのクラブの歴史の積み重ねの中で、部員間には相互批判ができるような信頼関係が形 成されています。練習中には「○○先輩、右手が下がり過ぎです。」というような上級生への名指しのアドバイスすら飛び交いま すが、指摘された部員はいやな顔はしません。それは良いものを作り出すためには必要なことだと誰もが理解しているからです。 むしろ、部員はそうしたアドバイスを常に求めています。観客に感動してもらうには客観的に自分の演技を見てアドバイスをして もらうことが必要であることを体験的に実感しているからです。部員には、より良い演技をするために自ら課題を見つけ、それを 改善するために自主的に練習する力が身に付いているのです。

部員を成長させたイギリス公演

一昨年秋、和太鼓部はイギリス公演の機会に恵まれました。青少年による国際交流として、(財))国際親善協会からバーミンガ ム市での「Japan Week」公演を要請されたのです。 この遠征のために国際交流基金、大和日英基金などから多くの助成を頂き、また、地元の市民や本校関係者だけでなく、航空会社、 旅行会社、現地ボランティアまで含めれば、おそらく二百名以上の方々の多大な支援を受けて実現した一大プロジェクトでした。 その支援の大きさを考えると、部員全員に「この公演はどうしても成功させなければならない。」という思いが強く湧き上がりま した。
部員たちにとって、海外遠征の最大の課題は「自分の気持ちを表現する」ということでした。太鼓演奏は単に音楽としてのリズム だけでなく、演じている者の心が表現されなくては魅力あるものにはなりません。一打一打に気持ちがこもってこそ、客席に奏者 の心が伝わり、感動を引き起こすのです。国際親善協会からも「楽しく演奏していることがはっきりと分かるように表情を出すこ とが大切」というアドバイスを受けました。楽しさを表現するには笑顔は欠かせません。それまで部員には演奏中、真剣な顔は自 然に出せていましたが、笑顔となると難しいものでした。毎日、「笑顔」の練習が続きました。「まず、上の歯を見せることから 始めよう。」とか、「お互いに見合ったら自然に笑顔になれる。」、「その曲を好きになったら楽しくなれる。」とかそれぞれに 工夫をして、自然な笑顔が出て来始めました。しかし、中には苦手な部員もいて、涙ぐみながら「笑顔の練習」をするという具合 でした。その他にも動作を大きくしてメリハリをつけたり、英語で演目紹介を覚えたりとそれぞれにハードルがあり、一人一人が 自分の限界と闘って、それらの課題を克服していきました。
 イギリスでの初公演は部員たちにとって不安そのものでしたが、この日のためにハードな練習を積み重ねてきた部員たちはこれ までにないパワーを発揮して心を込めて一曲一曲を演奏しました。その結果、一曲ごとに客席は盛り上がっていき、ついには最後 のアンコール曲でスタンディングオベーションの大歓声につつまれたのです。それは部員にとって信じられない光景でした。公演 が終わって、会場の出口の通路に並んだ部員たちは観客から握手攻めやキスの洗礼を受け、どの顔にも感激の涙が光っていました。
この夢のような体験は部員たちに周りの人々への感謝の気持ちを教え、同時に自分への誇りと大きな自信を与えてくれました。 それは海外公演に向けて自分の限界と闘い、それを乗り越えて成長したものだけが手にすることのできる確かな手応えだったのです。                                          

和太鼓部物語「エピソード7」       Japan Week トルコへの道    

 前回の「ジャパンウィーク2001年・英国」参加の後、またいつか海外公演の機会があればぜひ実現したいと考えていました。 それは、国際交流の場で、予想を越えて積極的にコミュニケーションを取り合う若者たちの姿を目の当たりにし、また、海外公 演を契機に、和太鼓部員の意識や演奏内容が著しく飛躍したからです。演奏に対する姿勢が、それまでの自己満足的なものから、 聞き手の感動を誘うような深い表現を目指すようになったのです。それも単に体の動きとしてだけではなく、内面から自然に湧 き出てくる感情表現や太鼓の音の細やかな抑揚にも意識を向け始めたのでした。その取り組みが、2003年8月の福井市で開 催された全国高等学校総合文化祭郷土芸能部門での「優良賞」受賞につながったのです。こうしてトルコでの再度の海外公演に も十分耐えうるチームに成長し、自信を持ってトルコの地を踏むことになりました。

 トルコでは部員たちは行く先々で人気を高め、現地の人々と積極的に交流を深めてどの公演も大盛況のうちに終えることができま した。そうしたなかで、メイン公演が予定されていた11月15日にイスタンブール市内の2カ所で同時爆破テロが発生し、大きな 被害が出ました。その日の公演は中止になり、部員たちにも動揺を与えましたが、幸いにもそのテロに巻き込まれることはありませ んでした。日本でもこの事件が報道され、部員の家族の方々にもご心配をお掛けしましたが、主催者側からの各参加団体への迅速な 安否確認や旅行会社からの「全員無事」の緊急連絡が部員の家庭や学校へ一斉に行われ、私たちも混乱なく冷静に対応できました。 帰国直後にもイスタンブールで2回目の同時爆破テロが発生し、私たちは改めて平和の尊さと国際交流による異民族同士の相互理解 の大切さを身をもって感じさせられました。皆様にご心配をお掛けしたことをお詫びし、「国際親善協会」並びに「日本旅行」の適 切な対応に感謝申し上げます。

   本校和太鼓部は、地域との強い結びつきによってここまで成長することができました。真摯に自分と向き合い、ひたむきに演奏す る部員の姿が、周囲の人々の心を動かし、その応援がまた部員を勇気づけ、さらに成長を促します。出発を間近に控えた11月上旬、 日頃の地域でのボランティア活動を評価され、「高槻市社会福祉協議会」からの「ハートフル大賞」も受賞し、トルコ公演に向けて ますます弾みがつきました。また、前回同様、今回も多くの方々からご支援を頂きました。「高槻グリーンライオンズクラブ」をは じめ市民の皆様方、PTA、「葦風会」(同窓会)、後援会などより多額の援助もいただき、ほんとうにありがとうございました。 これからもますます地域との結びつきを大切にし、「愛される和太鼓部」として発展したいと思いますので、ご支援・ご協力をよろ しくお願い致します。
                                                2003年12月20日
                                 大阪府立芥川高等学校和太鼓部顧問 山下  勉 
                                                         二木  崇 
                                                         須藤 浩子

和太鼓部物語「エピソード8」ー1       
            韓国光州ビエンナーレ〜日韓の歴史を超えて〜    

私たち大阪府立芥川高等学校和太鼓部は、過去に2回、海外公演を経験しています。これらはともに、 外務省の外郭団体である「(財)国際親善協会」主催の「ジャパンウィーク」に参加したもので、2001 年には英国・バーミンガム市、2003年にはトルコ・イスタンブール市とアダパザール市で公演を行い、 現地で大きな反響を呼びました。これはひとえに「国際親善協会」の豊富な経験と緻密な運営体制による ものであると感謝しております。また、訪問した各都市は、日系企業の立地などがあり、人々は親日的で 日本文化に高い関心を持つ人が多く、私たちの公演に対しても温かく迎えていただき、いわば初めから 「成功」が約束されているようなものでした。

これに対して、今回の韓国公演は大きく様相が異なっていました。端的に言えば、主催団体が現地の団体 であること、民間レベルの交流であること、日韓の歴史問題に起因するしこりがいまなお残っている地域 であることなどです。そのため、2004年4月に招聘の話が舞い込んで以来、さまざまな理由で二転三 転しました。しかし、私たちは過去2回の海外公演で、青少年による国際的な文化交流の意義を強く感じ ており、これまでの経験を日韓交流の場にこそぜひ生かしたいと考えました。そして、多くの方々のご協 力により、困難な課題をひとつひとつ解決し、ようやく実現に漕ぎ着けることができました。  今回の韓国公演の特色は、主に以下の四点です。

1.2005年の「日韓国交回復40周年」を前にして、2003年のソウルでの日韓首脳会談での文化交 流促進宣言を受けて、次代を開く両国の若い世代間の交流を行い、今後増加するであろう日韓の青少年交流 のさきがけとなった。
2.部員たちは事前の渡航準備の過程で日韓の近代史を学習し、それをふまえた上で新たな日韓関係を切り 開くために公演成功に全力を傾けた。具体的には、公演中の「あいさつ」や「演目紹介」を今まで学んだこ とのない韓国語ですべて行った。また、光州市のある全羅南道の民謡「珍島アリラン」をアンコール曲とし て練習し、現地の人々とともに楽しめる演出を準備した。
3.本校和太鼓部の特色は格調高さを意識した演奏だけではなく、彼女たちのホスピタリティ(もてなす心) にもある。これまでの地域での公演では、“いまどきの高校生”とは思えない礼儀正しさ、屈託のない笑顔、 はきはきした挨拶やスピーチ、統制の取れた準備や後かたづけの動きなどが観客の胸を打った。その上に少し も手を抜くことなく、体力の限りを尽くして演奏する姿が、演奏を見守る人々に希望を呼び起こさせ、大きな 感動を与えてきた。今回は、歌舞音曲の本場・韓国でも同じように人々に感動を呼び起こさせることができる かということにチャレンジした。
4.部員の中に在日韓国人3世の生徒(1名)がおり、和太鼓という日本独特の伝統文化を身につける中で彼 女の中に芽生えてきた「日本で生きる韓国人」としての誇りやアイデンティティを彼女自身が今回の韓国公演 の旅で、しっかりと掴み取ることができた。

 2004年の韓国テレビドラマ「冬のソナタ」放映をきっかけにブレイクした「韓流ブーム」で、少なくと も日本において、日韓間の距離が近くなったことには間違いありません。しかし、それも歴史をきちんとふま えず、一時のブームに流されるだけでは表層的なものに終わってしまうでしょう。今回の和太鼓部による韓国 公演は日韓の次代を担う若者たちが過去の歴史に正面から向き合い、相互理解のための一歩を記したという意 味において、日韓両国の未来に展望をもたらすものだと考えます。
                                                2004年10月7日
                                 大阪府立芥川高等学校和太鼓部顧問 山下  勉 
                                                         二木  崇 
                                                         須藤 浩子

和太鼓部物語「エピソード8」ー2

「民族の境界を越えて響く和太鼓」     大阪府立芥川高等学校 3年 表 美樹

 「ヨロブン アンニョンハシムニカ、チグン セゲカッチエソ ヨロプンジェンイ イロナゴイ ッスムミダ、イロンシデイルスロウ ウリワカットゥン チョルムニドゥリ チョルムンセデワ ・・・」これは韓国の光州で行われた「光州ビエンナーレ2004」での私の韓国語のスピーチです。 その意味は、世界で多くの紛争が起こっている今だからこそ、私たち若者が手を取り合って、平 和な世界を造ろうではありませんかというものです。
 私たちの和太鼓部は創部10年目を迎え、地元のイベントや老人ホーム慰問の演奏などを中心 に年間40回ほどの演奏活動を行っており、私はその部長として活動してきました。和太鼓部の 演奏では演奏技術や外見を見てもらうのではなく、常に自分と向き合い、内面的な美しさを出し て真剣に演奏する姿こそが感動に繋がるのだということを学びました。
 クラブ活動の中で、私は2回の海外公演を経験しました。1回目は、トルコのイスタンブール で行われた、日本の伝統文化を紹介する国際親善協会主催の「JAPPAN WEEK 2003」への参加で す。そのイスタンブール滞在中に、私は偶然、大規模な自爆テロ事件に遭遇しました。実際に爆 破音を聞き、自分の目で煙を見て、ものすごい恐怖を感じると同時に、こんな酷いことを起こさ せる現実があることに強いショックを受けました。 その日は、私たちのメインの公演が予定されていたので、劇場でリハーサルの準備をしていまし たが、そこで突然、「中止になった」と告げられたのです。落ち込んでいる私たちを見て、1人 のトルコの学生が「今日は悲しいですね。」と慰めてくれました。私はその時、本当に悲しんで いるのは犠牲者を出したトルコの人たちであることに気づき、自分の考えの甘さに情けなくなり ました。その後のトルコの学生たちとの交流で、私は平和への願いを込めた折鶴を折って、その 学生に渡しました。彼は、私の思いを受け止めて「PEACE」と言って大事そうに受け取ってくれ ました。
 2回目の韓国での海外公演で私たちは、自分たちが日韓の友好をより深めるきっかけを作りた いと思い、2つのことに取り組みました。1つ目は韓国語のスピーチ、2つ目は光州地方の民謡 である「珍島アリラン」の演奏です。そして、韓国滞在日数も残り少なくなったある夜の公演で 、私たちにとって一生忘れられない感激的な事が起きたのです。韓国のサムルノリチームが私た ちに加わって演奏してくれたことをきっかけにして、スタッフの人たちが先頭に立って踊り出し、 とうとう会場全体が一緒に歌ったり、踊ったり、抱き合ったりして大きな感動に包まれたのです。 私たちは嬉しくなって舞台から飛び降りて、「珍島アリラン」を繰り返し演奏し、踊りはいつま でも続きました。私たちの一方的な思いだけでは、決してこの一体感は生まれませんでした。韓 国の人たちがこちらの思いに応えてくれたからこそ、できたのです。これが本当の「交流」なの だと思いました。
 この2回の海外公演の後、私たちは多くの人に平和の大切さを訴えるために、はっぴの胸元に 折鶴を付け、演奏の最後には「彩」という曲を演奏することにしました。この曲は世界の民族を さまざまな色に例え、それらの色を調和させて並べるときれいな模様になるという、全ての民族 の和合への願いを込めた曲なのです。
 私は和太鼓部で平和を訴えるという役割を終えた今、大学で平和の問題について学習し、教師 の道に進み、これからの日本を造り上げていく子ども達と真の平和について考え、一緒に平和の 輪を広げていきたいと考えています。