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槌田 敦 『環境保護運動はどこが間違っているのか?』 宝島社,1999

 いわゆる環境保護運動等々が,盛んになり話題になりつつあった時から,私はちょっとした違和感を感じておりました。
 それは,個々の運動や考え方に対する異議といったものではなく,総体的に,環境問題こそ初めのボタンを掛け違えてしまうと,取り返しのない終末へひた走ってしまうのではないかという想いです。
 近年,ある一つのイデオロギー世界が「既に崩壊した」とは言われています。そのこと自体には,私はいまだに若干疑義を有しておりますが,それはともかく,そのイデオロギー世界が構築してきた,例えば2分割された「地平」など,カンカンとつるはしで叩いてしまえば簡単に崩れてしまうものだったのかもしれません。だからこそ,ベルリンの壁が極めて象徴的な「壁」になったのでしょう・・・
 ところが,環境問題は当然のこと,「環境保護運動」自体も,ある日ハッと気づいてみたところで,つるはしで修正することはできないでしょう・・・「つるはし」どころか,人類のありとあらゆる叡智や技術をカンカンしたところで,ほぼ完璧に人類の負けに決まっています。
 また私は,基本的に,それぞれがそれぞれの「身の回り」で「運動」していくことしか,これからの世の中を変えていくことはできないのだとも思っています。環境保護運動は,この典型的なスタイルを「有効」に有し,着実に拡大して,進められています。しかしながら,一人一人という単位だからこそ,世界中の「身の回り」の「運動」がいったんレールに乗ってしまうと,極めて強大な,一種Uターンの効かないスピードで地平の彼方まですっ飛んでいってしまうのではないかと危惧もしています。
 この本で槌田氏は,今の環境保護運動の「主流」に,ある意味真っ向から異議を唱えています。それが,正しいか,正しくないか,私には判断を下せる力量はありません。が,いずれにせよ,修正の効かないベクトルを決定する前に,やはり「総論」が必要なのではないかとは,切に思います。
 氏の問題提起は多岐にわたりますので,ちなみに,目次のタイトルから「刺激的な」フレーズだけを,少し紹介いたします。
 「牛乳パックはゴミ焼却場で燃やそう!」「リサイクルも環境を汚染する!」「”善意のリサイクル”では地球を救えない」「炭酸ガスによる地球温暖化説には政治がらみのインチキがある!」「太陽光発電は石油の無駄使い」「地球はエントロピーを宇宙に捨てる星」等々等々・・・
 私は,非常に,勉強させていただきました・・・


猪瀬 直樹 『日本国の研究』 文藝春秋,1999

 よくテレビなんかを見ていますと,「政治家の誰々が収賄罪で逮捕されました。国民の代表たる存在として,全く信じられません・・・」なんて言っている人がいますが,あーいうコメントこそ視聴者として全く信じられません・・・ マスコミのアンテナの網羅さからすれば,誰々が収賄を繰り返していたなんてことは,当然の,既知の事実でしょうし,本当に知らなくて「びっくり」というのは自らの怠慢でしかないのでしょうが,そんなことはありえないことで,多くは,やっとニュースで取り上げられる時期が来た来たと,段取りを考え,視聴者に対しては「信じられない,びっくり」と極めてバカにした慣用句をおしゃられるわけです。
 その次の段階で,その犯罪なら犯罪の構造的分析やらが披露されますが,これまた,仕事やら人間関係やらで,少しでもそれらに近い場所にいる人間からすると,極めて的外れな部分に「信じられない」「びっくり」「こんなことがあるのでしょうか」と言われつつ,肝心な部分はスルーされてしまっていると,どうしても感じられてしまいます。
 何故なんでしょう。彼らは本当に怠慢なのか,それとも,知っていることも,視聴者は全く知らないのだから,我々も「びっくり」しておかなくてはいけないと戦略的にそーしているのでありましょうか・・・
 猪瀬直樹氏の著作は,『ミカドの肖像』(小学館,1991)を読んだ時から,その詳細緻密な調査力に「びっくり」しておりました。上記マスコミの怠慢ということに関して言えば,誰でもなんとなく知っていることの,本当の裏側に,想像ではなく,繊細な調査の積み重ねで,極めて明るい光をあててしまう氏の力量は,めったに「びっくり」しない私も,ついつい「びっくり」させられてしまいます。
 この『日本国の研究』は,具体的には,「財政投融資」の実態を極めてリアルに暴き出すことによって,日本財政の暗部,というよりもタイトルどおり日本国の暗部を,極めて深く描き出しています。しかし,私は,その内容それ自体よりも,猪瀬氏のとことん「内在的に」対象をあぶりだすノンフィクション作家としての探求力の強さ,というよりも自らの存在意義の証明力に感心しています。
 氏は,自ら「あとがき」で言及されています。
 「一皮一皮めくるように虚偽を剥いでいくことによって真相へと近づけるのである。分析と調査,調査に対する質疑,さらに分析,その結果を相手にもう一度ぶつける。この繰り返しを執拗につづけてほぼ全容が解明できた。」(pp258-259) 「これまでのメディアは記者クラブの発表に依存するか,奇手妙手に頼り過ぎるかで,しかもゴールまで辿り着こうとする意思的情熱,つまり全体像をとらえたいとする知的欲求が足りなかったのではないか。」(p259)
 ある職業にとって「知的欲求が足りない」ということは,その存在価値自体が否定されることでもあると思いますが,と゜ーなのでしょー?


と学会 『トンデモ本の世界』 洋泉社,1995

 正しく(?)ロマンある少年少女なら,ある時期必ず,宇宙の果てはどーなっているのだろー,とか,「永遠」とはいったい如何なるものであるのだろうか,とか,布団の中で眠れずに考えたり,あるいは,雑誌の永久機関や空飛ぶ円盤の特集に胸をときめかしたと思うのですが,いかがなものでしょう?
 これが高じてくると,自分の「得意分野」で,自分なりの世界観や宇宙論を主張したくなる,という気持ちは,非常に理解できます。で,その対象となるのは,当然,頭の中での自分なりの論理展開に便利な分野になるでしょうし,聞く素人の側もそれとなく納得してしまうようなウダウダ,ゴチャゴチャした分野が好都合なわけです。具体的には,ピタゴラスの定理に反論するのは素人には困難かもしれませんが,「アインシュタインの相対性理論は間違っている」と主張するのは,ある意味,簡単で,想像力が目いっぱい活かせて,楽しいものであるでしょうし,歴史の分野でも,「伊藤博文はインディアンだった」と言っても,あまり信じてもらえないかもしれませんが,「古代日本にイエス・キリストが逃げてきていた」と,いろいろ例証を挙げれば,それなりに説得力を持ってしまいます。
 この「トンデモ本の世界」は,当時ベストセラーになり,続編も重なりましたし,類似の企画も多出していました。コンセプトは「著者の大ボケや,無知,カン違い,妄想などにより,常識とはかけ離れたおかしな内容になってしまった本」(P2)を「笑い飛ばす」ということになつていますが,実際には正統派科学知識,あるいは現在の歴史学的成果等々によって,対象をバッサリ切るという形になっています。
 ですから,きわめて詐欺的な「インチキ科学」を断罪しているような姿は,それなりに「快感」を覚えたりいたします。また,当時の書評なんかには「弱いものいじめ」というような見方もありましたけど,これに対しては続編で反論していましたが,私の感じでは,「バッサリ」がより強くなっていったような気がします。
 この本の中でも,よくテレビなどに登場する,一見「正統派の代表者」が,またバッサリとされています。超常現象の批判者たる大槻義彦教授もロケット工学で有名な糸川英夫博士も,それぞれ「なんでもプラズマにする火の玉教授」,「ロケット博士は科学を知らない?」ということになります・・・
 それはそれで,「明快」で近代科学論理の勝利なのでしょう・・・ 実際,読んでいて,その「バッサリ」感は楽しいものがあります。
 しかし,これまた,私には極めて力量不足(と言えるようなレベルでもありませんが,「感じ」として)なのですが,例えば今よーやく知られつつある「複雑系」といわれるような思考あるいは志向に対しても「バッサリ」してしまうのだろうかと思ってしまいます。実際「複雑系」への批判の一部は,そのようないわゆる正統派科学方法論からのものになっているのではないでしょーか・・・
 私には分かりません・・・
 ただ,この本でも言及されている東山陽介氏や高本公夫氏の「馬券必勝法」は,実は私,非常に気に入っていまして,今でもG1レースの前には必ず「サラブレッド・インフォメーション」の「謎解き」を熱心にしております。
 ・・・「複雑系」の読書カードに,いつの日か,続く,かもしれない・・・


夏目 房之介 『マンガはなぜ面白いのか』 日本放送出版協会,1997

 実は私,昔はマンガ少年でして,小学校高学年の時,週に150円の小遣いをもらっていたのですが,マガジンとサンデーとキングがそれぞれ50円いたしまして,それを買って,お小遣いは終わりでありました。
 もちろん読むだけでは満足できず,家でケント紙なるものにガリガリとかぶらペンを走らせたり(私は「かぶらペン派」でした),漫画研究会を主催して,同人誌を発行したりしておりました。・・・ガリ版ガリガリを思い出しますなぁ・・・
 そのころから当然,マンガ評論なるものは存在したのですが,それは多分,主には2つほどの視点からされていたものではなかったかと思います。
 1つは,マンガのテーマやそれに伴うストーリー展開を論じるもので,この点からされると,誰々のマンガはヒューマニズムにあふれていてすばらしい,それに反して,誰々のものはエログロ・ナンセンスでけしからん・・・と言うことに,往々にして,なっていました。
 今1つは,社会の流れのなかにマンガを位置づけて論じるもので,まぁ言ってみれば,歴史の教科書で挿絵を説明しているように,当時の歴史論やイデオロギーから「説明」されたということが多かったのではないかと思います。
 いずれにせよ,当時まだ,マンガは,子供の「おやつ」のようなものであり,それ故「俗悪」なもの,社会的良識に反するものは「悪いマンガ」であり,子供がすくすくと健全に育つのに「役立つ」ものは「良いマンガ」であるなどとされていたのですが,いずれにせよ,マンガをマンガとして,「内在的」に論じる時代ではなかったとは言えるでしょう。
 その後,日本のマンガの隆盛は恐ろしく,「マンガこそが日本の世界に誇る最高の文化である」と言いきる人もいます。これは,呉智英氏の論なのですが,氏については,また別のところで感想を述べることとして,私は,今の日本のマンガを「内在的」に,独自の文化,表現手段として捉え,それを評論するための「方法論」を確立しようと思考錯誤し,一定の成果をあげているのは,多くのマンガ評論家という肩書きを持つ人の中でも,この呉智英氏と夏目房之介氏の2人にとどめをさすと考えています。
 中でも,夏目氏はマンガの表現手段の特徴である「コマ」の構成や働き,描線の特徴,また,「ふきだし」のあり方などを詳細に読み解いていくことで,マンガそのもの,あるいはマンガを論じることの核心になんとか迫ろうとしていますし,私は,氏の方法論を非常にワクワクする気持ちで読んでおります。
 氏のこの本を読んでいただいて,次に氏が「線」と「コマ割り」の面から手塚治虫作品全般を捉えなおそうと試みた『手塚治虫はどこにいる』(筑摩書房,1995)を見ていただければ,きっとマンガ大好き人間は,ワクワク,ドキドキされるのではと思います。
 まぁ,日本の伝統的文化こそが日本なのだ,と考えておられる方は今でも圧倒的多数なのかもしれませんが,私は呉智英氏の主張が正しい思っています。・・・というより,「伝統的文化」の価値は最大限認めたとしても,それが将来にも渡って,日本の文化の「主流」で居続けることができるなんて本気で思っている人の考えは,どーも私の理解をはるかに超えております。


鈴木 康之 『ピーターたちのゴルフマナー』 ゴルフダイジェスト社,1999

 先日,ゴルフ関連の業界紙を読んでおりましたら(実は定期購読しています),その論説的囲み記事で,次のようなことが書かれていました。・・・あるゴルフ場で,大学ゴルフ部の茶髪の女子学生が,クラブハウスの窓際のいい席でパカパカと煙草を吸い,大きな声でウエイトレスに灰皿を要求していた。これを見た,そのゴルフクラブの古い会員が,今後大学ゴルフ部の出入りを禁止するようクラブに申し入れを行った云々・・・(勿論,この著者はこの女子学生はけしからんと声を張り上げておられます・・・)
 まぁ,学生ゴルフ部は,それなりに料金面やプレイ面で優遇されているのでしょうから,それなりにクラブハウスでは遠慮する,あるいは,大声を出さないなどの当然のマナーは人一倍守ること等々は求められるのでしょう。ただし,茶髪はけしからん,女子大生のくせに煙草など吸うのは言語道断・・・なんていうことになると,私はやはり首を傾げてしまいます。
 マナーにはいろいろな種類があると思いますが,時代とともに「陳腐」なものになってしまうものも多いのだということは,どうしたって避けられないものなのでしょう。また,現在,当然のマナーであると支持されているものであっても,分からない者には,それなりにちゃんと「説明」がなされないと,自身での思考限度を超えているといった場合も多いのではと思います。
 例えば,少し以前まで,ゴルフのプレイ中にサングラスをかけたりなんぞしていると,ちょっとうるさいゴルフ場では,職員が飛んできたものです。(最近では,ゴルフ用サングラスが雑誌で特集されます。) また,例えば,バンカーの跡を均すのは当然のこととして,その後,バンカー・レーキをどのように置いておくのが好ましいのか,これまた自分自身で考え付くのはなかなか困難でありましょう。あるいはまた,何でゴルフでは襟つきのウェアを着なければならないのか,Gパンは何でだめなのか。はたまたはたまた,ホール・アウト後,こんな風にボールを拾い上げてはダメですよ・・・等々。
 鈴木康之氏は,ゴルフマナーに関する本を多数出されておられまして,以前にも『ヤスさんのゴルフ礼記』なる著作を読んだ記憶があります。
 この『ピーターたちのゴルフマナー』は,タイトルどおり,氏のゴルフマナーに関する集大成でありますが,感心しましたのは,多くの細かい事例について,「何でそーしなくてはいけないのか」「それには,これだけの歴史的根拠があるのだ」と,非常に根拠を明確に,理解しやすいものになっています。・・・もちろん,これは,その根拠が理解しやすいということであって,そのマナーそれ自体に関しては,「もーそろそろ変わってもいいのではないか」というものも多くあります。
 しかし,まぁ,マナーあるいは規則を変える(あるいは「破る」)ということについては,私はすべからく「確信犯」であるべきだと考えていますので,「知らない」内にマナーや規則を破ってしまっていたというようなことは,やはり「かっこ悪い」ことであると思っております。