アメリカのチリ・クーデター



民主マルクス主義を蹂躙した資本テロの内幕



安藤慶一




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~Web版無償公開にあたって~

本文「あとがき」にも記したように、本書は電子媒体でのセルフ・パブリッシングを意図して書かれたものである。そして、電子媒体でのセルフ・パブリッシングとなると、現実的な選択肢はアマゾンのKindleしかなかった。が、アマゾン経由での出版には当初から居心地の悪さを感じていた。本書の、そしてチリ人民連合政府の精神が、アマゾン帝国とは相容れないように感じられたからだ。

とはいえ、他に選択肢はなかった。仕方なくアマゾン向けの編集作業を開始した。そして、「画像が無効です」だの「表紙ファイルが見つかりません」だのといったエラーメッセージを次々と発するアマゾン提供のバグだらけのツールと格闘した末に、2019年7月27日、無事に出版にいたった。結局、バグだらけのツールが発する気まぐれなエラーメッセージには何の意味もなかった。バグを指摘した筆者に対する謝礼の言葉も、アマゾン帝国からは一度も返ってこなかった。

さらに、数少ない仲間たちの協力のもと、実際に出版された本書Kindle版をさまざまなデバイスおよびアマゾン製閲覧ソフトで表示させてみたところ、読者に対してもバグだらけのソフトが提供されていることが判明した。使用するデバイスによって、ユーザインタフェースの機能が実に気まぐれで一貫性がなく、コンパイラあるいは閲覧ソフトのバグに起因すると思われる不具合が次から次と出てくるのだ。酷いものになると、書籍内の検索さえできないという有様である。そんなときに考えた。これでは読者諸氏も読みづらかろう、アマゾン大先生に依存するのはやめようと。

というわけで、自分のWebサイトを通じて無償公開するという手段に訴えることにした。もともと金儲けは考えていなかったので決断に時間は要しなかった。

本Webバージョンの作成にあたっては、色の配色をどうするかで迷った。眼にかかる負担を考えると、黒地に白が良いかと考えた。が、Webで公開するからには他のWebページに合わせるのが礼儀だろうということで、文字も背景もデフォルトのままにした。ちなみに筆者はChromeのハイコントラスト機能を使って白黒反転させている。

本書を読むに際しては、本書のインスタンスを(できれば)3つ同時に開いておくことをお薦めしたい。第一は読書用、第二は年表参照用、第三は検索用といった具合に。

本文「はじめに」でも少し触れたように、本書の狙いは、これまで文部科学省とマスコミが総力あげて隠してきたことを白日の下に晒す点にある。ターゲット読者はすべての日本人である。一人でも多くの方々に読んでいただければと思っている。本書の趣意に賛同される方がおられるなら、広報の面でご協力いただければこの上ない喜びである。HTMLリンクを張るなども歓迎である。広報用の電子パンフレットなども用意しているので、巻末記載のメールアドレスまで連絡いただければ幸いである。また、本Web版を読んで「いいじゃないか」と思われたなら、Kindle版(119円)も購入していただけると筆者は喜ぶだろう。内容は全く同じであるが、売り上げが伸びれば、それだけ人目に付く場所に商品が配置されると思われるからだ。

本書に関するご意見、ご感想、お問い合わせなどあれば、巻末記載のメールアドレスまでご連絡いただきたい。本文冒頭に「アメリカのチリ・クーデター」と記載していただければ見落とすこともないはずだ。

2019年8月2日
エアコン故障の脅威の中、一心不乱に筆者記す

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目次

はじめに

「チリの状況を議論するに際して、民主的に選出されたチリの前政権、つまり1973年9月11日に軍事クーデターで倒された前政権の転覆に対して米国の政府高官や政府機関や民間組織が果たした役割について、その当の米国の代表団が深い悔恨の念を表明しないとするなら、我々米国代表団は決して率直ではなく、また、我々自身と米国民に対して不誠実であることになるでしょう。いくら深い悔恨の念をもってしても、チリ国民が経験した苦悩と恐怖が消えるわけではないことは、我々も理解しています。我々に言えるのは、大多数の米国民はすべての人々にとっての自由と正義と民主主義を常に信じてきた、そして、あの事件を引き起こした政策と人物を米国民は容認していない、ということだけです」

1970年9月4日、ラテンアメリカの「民主主義の優等生」ことチリにて大統領選挙が実施され、チリ社会党のサルバドル・アジェンデ博士が勝利を収めた。それは、世界で初めて自由選挙を通じて樹立されたマルクス主義政権として世界中から注目を浴びた。

ところが1973年9月11日に勃発した軍事クーデターによりアジェンデ政権は崩壊。チリ全土に戒厳令が敷かれ、以後、アウグスト・ピノチェト将軍による軍事独裁体制が17年にわたって続くことになる。

この1973年の軍事クーデターを米国政府と米国多国籍企業が後押ししていたこと(単なる「後押し」だったのかどうかは、本書を読んだ上で読者自身で判断されたい)、さらには、クーデター勃発後の恐怖政治の時代にも米国政府がピノチェトを支援していたことは、米国連邦議会による調査によって、ある程度は明らかになっていた。そんな中、カーター政権が始動して間もない1977年3月8日、ジュネーブにて国連人権委員会の会合が開かれ、ピノチェト独裁政権による人権侵害が議論の的になった。そのときに米国国務省の代表団のひとりブレイディ・タイソンがピノチェトを非難し、同時に、米国による対チリ干渉を公式に謝罪しようとした。冒頭に掲載した文言は、そのときの彼の発言内容である。このタイソンの発言は即座に国務省およびホワイトハウスによって撤回され、タイソンはジュネーブから呼び戻された。

チリに対する米国の干渉に関わる公的文書の多くは、その後も長らくの間、機密扱いになっていた。ところが、クリントン政権時代の1998年にロンドンでピノチェトが逮捕されると、チリのクーデターおよびピノチェトと米国との関係に関わる情報を開示せよとの圧力が一気に強まった。特に、米国連邦議会およびピノチェトの米国人犠牲者の家族からの圧力が効いた。これを受けてクリントン政権は、1999年から2000年にかけて、数回に分けて段階的に機密文書を公開していった。「Chile Declassification Project」と呼ばれるプロジェクトである。こうして、CIA、ホワイトハウス、NSC、ペンタゴン、FBI、国務省などの文書約24,000点がリリースされた。

その最後のリリースに当たって、国務省政策企画本部は、公式声明を出すことを考えた。1973年のクーデターに米国が関与していたことを公式に認める一節を入れようとしたのだ。当事者の記憶によると、それは次のような内容のものだった。

「クーデターとその結果としての人権侵害の要因となった出来事について、米国には責任がある。ここに悔恨の念を表明する」

ところがこれに対し、国務省の他の部局や諜報機関が猛烈に反対した。「米国のかつての政策立案者たちに法的責任が生じる可能性があるから"悔恨"(regret)という表現はダメだ」、だから「表現を緩めるべき」というのが主な理由だった。結局、表現は大きく緩められ、大統領の署名も付けないこととなった。

実はこの前年の1999年、クリントン大統領はグアテマラについては米国政府の過ちを認めていた。グアテマラシティでの演説で、彼は次のように述べた。「今の米国にとって重要なことは、暴力行為と広範な抑圧に従事した軍および諜報部隊を米国が支援したのは間違いだった、そして、米国は同じ過ちを繰り返してはならないと、私が明確に表明することです」と。もちろん、チリと同じくクーデターを「支援」("support")したことに関してである。「支援」という言葉が適切だったかどうかは別として、グアテマラについては自国の過ちを認めたのだ。ところが、それに劣らず大々的な干渉を行ったチリについては、上述のように、認めることを拒否した。しかも、「米国のかつての政策立案者たちに法的責任が生じる可能性がある」からダメだと。これは、国家ぐるみの犯罪者隠しと言えないだろうか?

さて前述したように、1999年から2000年にかけて米国政府諸機関が膨大な数の文書を機密解除して公開したことにより、米国による対チリ干渉の詳細が以前に比べると透明度を増した。それに伴い、チリ・クーデターを扱った書籍類が多数出版された。ところがそれは日本の外でのことであり、筆者が知る限り、新たに明らかになった情報を反映した日本語の書籍は、どういうわけか(あの事件を「なかった」ことにしたいのか?)いまだに一点も出ていない。そこで筆者は、そうした状況を打ち破るべく、チリ・クーデターと米国による対チリ干渉の内幕を少しでも多くの日本の一般読者諸氏にご紹介したいとの思いから本書を執筆した。もちろん、米国政府がチリに関して自国の過ちを認めようとしない理由を考察する際の参考になればとの思いもある。

本書では、アジェンデの生い立ちにかなりのページを割いた。彼の政治観を理解する上で重要と思われたからだ。とはいえ、少し退屈に思われる読者諸氏もおられるかもしれない。その場合は軽く読み飛ばすのも結構だろう。その先のことが理解できなくなるというわけではないはずだ。楽しんで読むということを優先していただければと思っている。

なお、本書においては(書名も含めて)、「アメリカ」という用語をその本来の意味(西インド諸島および南米)よりも広い意味で(つまり北米も含めて)用いている点、あらかじめ断っておきたい。

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↓年表





第1章 チリはもうかる、手放すな

米国によるチリ支配の確立

チリは1818年、政治的独立を求める戦争でスペインに勝利した。しかし、政治的に独立したとはいえ、経済的には即座に英国に支配された。英国人が注目したのは、チリに埋蔵されていた天然資源、とりわけ硝石だった。チリ北部の硝石鉱山に対する大々的な投資が行われ、約半数を英国人が所有するにいたった。とりわけ、「硝石王」こと英国人投機家ジョン・トーマス・ノースは、1886年に大統領に就任したホセ・マヌエル・バルマセダ大統領と激しく対立した。チリ国民の圧倒的な貧困に対処しようとしたバルマセダ大統領は国営硝石産業を作ろうとしたのだが、これがノースらの反感を買ったのだ。バルマセダはノースを糾弾してこう宣言した。「我らが大地の宝、我ら自身の財産、我らに帰すべき富を、他の土地の見知らぬ者たちに売り渡すことによって、不当に利益を得ている」

これに対し、硝石王たちはバルマセダ政権の打倒を図った。ノースは反バルマセダ派に対して10万ポンドの資金援助を提供した。保守派が支配する国会はバルマセダ政権を憲法違反だと宣言し、海軍は反乱を起こした。こうして1891年には流血の内戦状態に陥ったが、最終的にバルマセダの部隊は敗北し(バルマセダは自殺)、議会が強大な権力を握る「議会共和国」がチリを支配することになった。以後、経済における国家の役割が縮小し、硝石に対する外国からの投資が増えた。一方で、チリ国民の圧倒的多数は貧困状態に置かれたままで、被選挙権もなく、教育を受ける機会も与えられいままだった。議会共和国も、こうした情況に手を打とうとはしなかった。1913年の時点で、チリにおける死亡者の過半数が5歳未満の幼児だった。

こうしてチリ国民の流血と貧困を糧に硝石支配を維持し続けた英国も、第一次世界大戦をきっかけに、チリ硝石に対する支配権を失うことになる。硝石は弾薬の原料として重宝されていたのだが、皮肉なことに、自国による封鎖政策のせいで英国はドイツに硝石を売ることができなくなったのだ。そして英国が経済的苦境に陥っている間にチリに進出してきたのが、米国だった。当時、世界有数の経済大国として頭角を現していた米国が英国の役割を引き継いだのだった。その米国は同盟国の協力を得て硝石価格を意図的に低く抑え、そうすることでチリが戦争から利益を得る機会を奪った。ドイツが人工硝石を開発したこともチリにとって痛手だった。こうしてチリの硝石産業は廃れていった。

硝石に代わってチリ経済の主役に躍り出たのが、銅だった。もちろん、米国の企業がこの貴重な資源に目を付けないわけがない。1905年、後にケネコット社と合併するブレイドン銅会社が、サンティアゴの南東約1,600kmのアンデス地域に位置するエル・テニエンテ銅山の採掘を始めた。1912年には、後のアナコンダ社が北部砂漠地帯のチュキカマタ銅山で操業を開始した。こうして1920年代には、ケネコットおよびアナコンダという2つの米国企業がチリの銅の大半を支配下に置くにいたった。20世紀の中頃までに、エル・テニエンテは世界最大の地下銅山、チュキカマタは世界最大の露天掘り銅山になっていた。ケネコット社のチリでの事業は税引き後で年間約2000万ドルの収益を上げた。一方のアナコンダ社の年間収益は3000万ドルにのぼった。チリの輸出収入のほとんどを両社が占めるようになった。こうして両社は、チリの経済だけでなく政治にも、そしてチリ国民の生活に対しても圧倒的なな影響を及ぼすようにになった。

こうした状況に対してチリ人は盲目ではなかった。「国家の存立に対する脅威」あるいは「銅山が民族を絶滅させる」などと非難の声が次々とあがった。「銅産業の町は労働者たちを『悲嘆と乱交とアルコールと退廃』の人生に引きずり込んでいる」、あるいは「チリ政府は北米の銀行家に従属するばかりで、彼らの承認なしには何もできない」と評する政治家も現れた。

やがて第二次世界大戦が始まり、銅に対する需要が増大した。しかし第一次大戦のときと同様、チリはこの戦争の恩恵にも浴することができなかった。連合国側は、銅の価格に上限を設けたのだった。その政策の先頭に立ったのが、ルーズベルトだった。おまけにチリ政府は、銅生産のすべてを米国に売ることに同意した。その結果、戦争でチリは5億ドル(現在の60億ドルに相当)の損失を被った(1948年の国会でのアジェンデの指摘)。

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チリ政府の反共政策と米国によるチリ支配の強化

第二次世界大戦が終わると、米国は対ソ連という文脈の中でチリ支配を強固なものにしていった。共産主義が労働運動に及ぼす影響を恐れた米国は、チリが「自由世界」に入るよう、当時のチリ大統領ガブリエル・ゴンサレス・ビデラに圧力をかけた。当時、石炭供給を確保すべく米国と交渉していたビデラ大統領は、反共の立場を明確にした方が交渉に有利になると判断し、自身の内閣から共産党閣僚を排除した。この措置を断行した途端に米国は気前良く石炭を供給するようになった。

親米路線の味をしめたビデラは、チリをさらに「自由世界」に引きずり込むべく邁進した。彼は1947年にソ連との国交を断つと、1948年には「民主主義恒久防衛法」を成立させた。この法律はチリ共産党を非合法化することを狙ったもので、共産党の指導者たちはチリ北部砂漠地帯の強制収容所へ送られ、パブロ・ネルーダなど多くの共産党員が国内あるいは国外亡命を余儀なくされた。こうした状況のもとで労働運動は衰退し、労働者の実質所得は都市部でも地方でも下落した。

ビデラの後を継いで1952年に大統領に就任したカルロス・イバニェス大統領のもとで、チリ労働者の苦境はさらに深刻になり、同時に、米国による経済支配はさらに強固なものになった。イバニェスは「クライン-サックス・ミッション」という米国の経済顧問団をチリに招いたが、この顧問団がチリ政府に勧告したのは、労働者の賃金を上昇させないことだった。それは、当時の天文学的なインフレを抑え込むためとされた。不釣り合いな消費者需要にインフレの原因があるとしたのだ。さらに同ミッションは、公共予算の大幅削減と、日用品と生活インフラに対する国の支援の停止も勧告した。こうした政策により労働者階級は大きな痛手を被った。その一方で、保守的な議会は、同ミッションが提案した累進課税は拒否した。こうしてチリの上流階級は自分たちに都合の良い政策だけを受け入れることに成功したが、不況はさらに悪化し、産業の成長も鈍った。こうしてチリは、原材料を先進諸国に提供する役割から抜け出せないままに置かれたのだった。

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1958大統領選

経済的な停滞が続く中、1958年には大統領選挙が予定されていた。この選挙では、左派のサルバドル・アジェンデ、中道のエドゥアルド・フレイ、そして右派のホルヘ・アレサンドリという主要候補3名が顔を揃えた。

この3名の中で最も異色だったのが、アジェンデだった。今回は彼にとって2度目の挑戦で、前回の1952年の大統領選挙では5.6%という得票率で惨敗を喫していた(当選者はカルロス・イバニェス)。今回は、彼自身が所属する社会党と共産党を中心とする連合である人民行動戦線(FRAP、1956年結成)の代表として出馬した。元来は医師だったアジェンデは、ペドロ・アギーレ・セルダ大統領時代の1939年に厚生相として入閣していた。そしてその厚生相としての任期中に『チリにおける社会医療の現実』という本を出版した。これは、チリにおいて貧困が健康に及ぼす破滅的な影響を描いた著作だった。

北の米国政府は、1950年代の初頭からアジェンデ(1945年より上院議員)を高く評価していた。チリ駐在米国大使のクロード・バウワーズもアジェンデのことを「有能で礼儀正しい」「有能な医師」と報告していた。ところがアジェンデがラテンアメリカにおける米国の政策を批判するようになると、米国はアジェンデに対して敵対的になった。とりわけ、1954年3月にカラカスで開かれたOAS(米州機構)会議で「反共産」決議案を可決するよう米国(アイゼンハワー政権)が圧力をかけると、アジェンデはグアテマラを擁護し、米国の決議案を「プロパガンダにすぎない」として嘲った。当時のグアテマラでは、同国を貪り食う米国企業にとって都合の悪い民主的ナショナリズム的政策を同国のハコボ・アルベンス大統領がとり始めると、そのアルベンス政権を転覆させるべく、反アルベンスの大々的なネガティブ・キャンペーンを米国が展開していたのだ。グアテマラの代表も、この「反共産」決議案を「我が国の内政問題に干渉するための口実にすぎない」と指摘した。アルベンス政権に対するクーデター計画に反対したCIAグアテマラ支局長は、アレン・ダレスCIA長官の怒りを買って退任させられた。

そして同年6月、米国が画策したクーデターによってグアテマラのアルベンス政権が崩壊すると、アジェンデの態度はさらに急進化していった。米国がグアテマラで民主主義を潰せるのなら、それと同じことを米国はチリでもやるだろうとの懸念を抱いたアジェンデは、グアテマラに対する米国の干渉とユナイテッド・フルーツ社による中米搾取に抗議し、上院で次のような演説を行った。「帝国主義企業が政治的にも経済的にも民衆を支配しています。(中略)グアテマラは、よりよい将来を求めて尊厳をもって抵抗しました。(中略)チリも将来、グアテマラと同様の措置をとろうとすると、必ずや外国の傲慢さの脅威にさらされるでしょう」。アジェンデにとってグアテマラは、米国帝国主義の象徴的典型例だったのだ。

また、アジェンデは生涯にわたって、より広範な連合を構築しようと努めるが、その理由の一つが、このグアテマラの経験にあった。1970年の大統領就任に際してニクソン政権からの敵意を意識した彼は、北のアメリカからの再度の干渉を防止するためにも、可能なかぎり広範な連合が必要と考えるに至るのだ。

グアテマラで民主政権が蹂躙されるとすぐに、アジェンデは自国の友好国を探すべく数か月をかけて西ヨーロッパからソ連、中国を訪問した。ソ連には一か月滞在したが、その間(1954年8月)、チリの現状を訴えるべくプラウダに寄稿した。チリの所得の83%が鉱産物の輸出によるものであること、二国間合意により、その収益の88%を米国企業が手にしていること、社会主義国に対する鉱産物の輸出が禁じられていること、土地の87%を2,000名未満の者が占有しているといった実情を暴露したのだ。チリの新聞界は、チリ経済の現状を暴露したアジェンデは「売国奴」だとして非難の声を上げた。

1958年の大統領選挙に際して、こうした経験がアジェンデにとって大きな財産になっていた。彼は、社会主義への平和的な道を思い描いていた。その道を阻止しようとする米国に挑む覚悟も十分にできていた。選挙戦の中で彼は公然と力強くこう言った。「(米国の)国務省は、民衆を敵にまわす醜悪な政策を強く要求しています。(中略)我々チリ人には、我々独自の解決策を追求する権利、我々の伝統と習慣に最も適した道を歩む権利があるのです」。当然ながら米国は、好ましくない候補としてアジェンデを見なした。

キリスト教民主党のエドゥアルド・フレイ候補も、グアテマラに対する米国の干渉に反対していた。しかし彼は、あくまでも米国が支配する体制を温存しながら表向きの改革を進めようと考えていた。ホルヘ・アレサンドリ候補は、名目上は無所属候補だったが、支持層は右派の自由党と保守党だった。選挙は、アレサンドリの勝利に終わった(得票率31.6%)。次点のアジェンデは33,500票差で敗れた(得票率28.9%)。フレイの得票率は20.7%だった。

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アジェンデの生い立ちと思想

サルバドル・アジェンデ・ゴスセンスは1908年6月26日、チリ中部の港湾都市バルパライソに生まれた。中産階級の名家の生まれだったが、その家系を見れば、彼が暴力革命を嫌った理由の一端をうかがい知ることができる。

父方には、革命的フリーメーソン、ラテンアメリカ独立の理想、世俗教育支持という血が流れていた。曾祖父は、チリ独立闘争で名声を博した闘士だった。祖父は有名な医師で、1876年に急進党から上院議員になった。カトリック教会が政治を牛耳っていた時代に政教分離運動に邁進した人物で、チリで最初の世俗学校を設立した。父親は政治的に急進的な法律家で、1891年の内戦では、普通選挙と世俗教育と労働者階級の組織化推進を主張するバルマセダの側で戦った。

一方の母方は敬虔なカトリックの家系だった。祖父も敬虔なカトリック信者で、1860年ごろにベルギーからチリへ移住してきた。結婚したのはチリに来てからである。母親も宗教的な人物で、1891年の内戦では反バルマセダの側についた。母方の叔父はバルマセダの軍に処刑された。

このように、父方は親バルマセダ、母方は反バルマセダという立場にあったアジェンデ家には、血なまぐさい内戦の記憶が染み込んでいたはずだ。アジェンデは生涯にわたって内戦を恐れ、暴力革命を拒否したが、こうした家庭環境が彼のそうした姿勢に影響を及ぼしたことは十分に考えられるだろう。

アジェンデの政治体験は幼少期に始まる。彼は幼少期をペルーとの国境近くの町タクナ(当時はチリ占領下、現在はペルー)で過ごした。そこで通った学校には、チリ人とペルー人の両方が通っていた。当時はチリによるタクナ占領に対してペルー側が反発を強めており、学校では子供たちがタクナ独立を提案した。これがアジェンデの最初の政治理想体験だった。

そして10歳のとき(1918年)、チリ北部のイキケに引っ越した。イキケは硝石産業の中心地で、1907年には、硝石労働者が奴隷のような労働条件に抗議してデモを行い、軍がそれを鎮圧して3,000名の犠牲者が出るという事件が起きていた。それでもデモは絶えることがなく、イキケは政治的に革新的な地域になっていた。当時の友人によると、10歳のアジェンデ少年はデモをじっと見つめていたという。

その後アジェンデは1919年にチリ南部の港湾都市バルディビアへ移り、1921年にはバルパライソへ戻った。バルパライソには移民が多く住んでいたが、その一人に、靴屋を営むイタリア人アナーキストがいた。アジェンデは学校が終わると彼の店へ行ってチェスを教わった。そして、アジェンデにとって最初の社会主義の本を貸してくれたのが、そのイタリア人だった。

類い希なる記憶力の持ち主だったアジェンデは、16歳で通常よりも1年早く学校を卒業した。そのときすでに政治に目覚めていた彼は、友人から「将来何になりたいのか」と問われて「チリの大統領になる」と答えたとのことだ(アジェンデ自身の談話)。そんなアジェンデだったが、卒業後のこととなると、父親のような法律家になるべきか、祖父(父方)のような医師になるべきかで悩んだ末に、医学の道を選んだ。

当時のチリでは、変革を求める声が大きくなっていた。国会議員は腐敗し、数家族がチリの富を独占し、国民の大多数が貧困状態に置かれるという状況の中で、メキシコ革命やロシア革命にインスパイアされた学生や労働者たちが声を上げた。世界は変わろうとしているのにチリは過去にしがみついている、そういう状況を打破しようとしたのだ。1918年には、デモを武力で鎮圧することを合法化する法律が成立したが、それでも、変革を求める声は大きくなるばかりだった。

16歳(1924年)のアジェンデも現状に疑問を抱いていた。プロレタリアートの雰囲気に満ちあふれる港町バルパライソでは労働者階級の子と交わり、その一方で、バルパライソのすぐ近くのリゾート都市ビニャ・デル・マールでは富裕層の子と交わるという経験を積んでいたアジェンデは、チリ社会の不平等を直に感じ取っていた。また、各地を転々としながら幼少期を過ごした彼は、バルパライソから遠く離れた地に暮らす人々の生活状況も知っていた。こうして現状に疑問を抱いたアジェンデは、医学校に入るのを一年遅らせ、ビニャ・デル・マールに拠点を置く陸軍騎兵連隊に正式に入隊した。当時、多くの者は、名目上の徴兵をいかに簡単に免れるかによって社会的地位を測っていた。そんな時代にあって、わざわざ自ら希望して入隊したのだった。その軍隊の中で、さまざまな階級の者たちと直に接触して会話を交わすことで、チリ社会の現実に対する理解を深めるのだった。

1925年11月に兵役を終えたアジェンデは、1926年にサンティアゴへ転居し、チリ大学の医学部に入学した。しかし1927年5月にはカルロス・イバニェス・デル・カンポ大佐が支持率97パーセントで大統領に選出され(このとき候補者はイバニェスただ一人。しかもチリ国民の5パーセント未満しか選挙権を持っていなかった)、以降、イバニェスによる独裁が始まる。イバニェスは銅産業を中心に米国の投資に門戸を開き、共産党その他の労働組織を抑圧し、カラビネーロス(イタリアのファシズムをモデルとした国家警察隊)を創設した。しかしチリの社会経済問題に対処できないイバニェスに対する反発は、学生と労働者を中心にますます強まっていった。特に、アジェンデが暮らすサンティアゴの貧困地区では、学生たちの政治活動が活発になった。その地区には大多数の医学生が暮らしていたのだが、彼ら医学生は、自身の周囲の貧困に直に接し、また病院でも、貧困がもたらす影響というものを目の当たりにしていたのだ。

アジェンデも例外ではなかった。大学に入学するとまもなく、父は闘病生活(糖尿病)を強いられ、アジェンデの学費の面倒を見られなくなった。そこでアジェンデは、病院の遺体安置所と精神病院で働くことになったのだが、そこで彼は日々貧困に接することになった。この経験をきっかけに、アジェンデの政治的関心は革命へと転換していくのだった。

アジェンデが政治的活動に関与するようになったのは学生時代のことだ。大学2年のとき(1927年)、チリ大学の医学生連合の議長に選出されたのだ。彼は、共産党が後援するグループ「Avance」にも参加し、『資本論』、レーニン、トロツキーなどといった政治文献の研究にいそしんだ。記憶力抜群のアジェンデは、読んだ本を一字一句間違えずに暗唱して仲間を驚かせたという。そして1930年にはFECHというチリ学生連合の集会の場で言論の自由をテーマに演説を行うと喝采を浴び、チリの学生のリーダー的存在になっていった。その頃からアジェンデは反イバニェスのデモには必ず参加するようになり、警察からも目を付けられる存在になった。

そして世界大恐慌がチリを襲うと、チリでは人口400万のうち20万以上の労働者が職を失い、チリ社会は革命前夜のような雰囲気に包まれた。アジェンデは、民衆を扇動したとして逮捕され、短期間ではあるが投獄された。イバニェスは文民政府を樹立して事態の収拾を図ったが、学生と労働者による反イバニェス運動は衰えなかった。アジェンデら学生は独裁打倒のための全国ストを宣言し、労働者のデモには数万人が集結した。最終的にイバニェスは1931年7月26日に辞任して国外へ逃亡した。

こうしてイバニェス政権は崩壊したものの、その内相を務めていたフアン・エステバン・モンテーロが1931年10月に大統領選で勝利して新政権を樹立した。しかし混沌とした政治情勢は変わらず、左派に対する弾圧は続いた。12月には共産党員20名が殺害された。そのころアジェンデは、外国の真似をすることに反対し、また、専門職業家を仲間から排除することに反対したため、Avanceからも大学からも追放され、博士論文執筆のためにバルパライソへ戻った。

そして1932年6月、マルマドゥケ・グロベという空軍司令官が軍事クーデターによりモンテーロ政権を打倒し、「社会主義共和国」を宣言した。この社会主義共和国は、銀行の国有化、土地の分配、食糧の配給などを主張し、国外からの干渉を終わらせると宣言したものの、大衆の支持を得ることができなかった。結局、この社会主義共和国は成立から十数日後にイバニェス派のカルロス・ダビラによって武力で倒された。このとき、バルパライソに戻っていたアジェンデは社会主義共和国を擁護する演説を行い、再び逮捕および投獄された。

この投獄期間中に父の病状が悪化し、アジェンデは父との面会を許された。しかしその翌日、父は旅だった。葬儀の席でアジェンデは厳かに誓った。自分の人生を社会闘争に捧げると。当時のチリ人の平均寿命は、男性が35.4歳、女性が37.7歳という有様だった。

そのころ、チリの左派は「社会主義共和国」の失敗から学んでいた。同共和国が大衆の支持を得られなかったのは左派が分裂していたからだと分析したのだ。そこで共産党はかつての連合構築の政策へと立ち戻り、社会主義を標榜する小規模組織も団結を進めた。こうして1933年4月19日に社会党が結成され、アジェンデも創設メンバーに加わった。

それに先立つ1932年末にアジェンデは博士論文を完成させていた。タイトルは「精神衛生と犯罪」で、主としてサンティアゴの精神病院で働いた経験をもとに書かれたものだった。そこでは犯罪者や非行少年たちが内面を吐露する様子が生々しく描かれているが、同時に、そのような論文を書かざるを得ない衝動に駆られた自身の心情も率直に綴られている。

この博士論文でアジェンデが提案していることと、後に彼が議員として主張することとの間には、多くの共通点が見られる。例を挙げると、アルコール依存の蔓延に関しては、教育の重要性と国家による流通規制を強調している。結核については、公的医療制度の創設と、病気の原因つまり食事と住居と教育の問題に取り組むこと、そして医療機関を利用しやすくすることを提案している。労働者人口の20パーセントが罹患していた性感染症に関しては、映画や仕事場における情報提供、それに性教育の重要性を訴えている。薬物の乱用に関しては、薬物生産を国家が規制すべきだとしている。つまり全体的に、教育と国家の役割と公的保険制度の重要性が強調されているのだ。こう考えると、医療の現場における体験が彼の政治観の形成に寄与していたと言って間違いなさそうだ。

そして外科医として大学を出たアジェンデは、バルパライソのヴァン・ビューレン病院の死体安置所の助手として働くことになった。そこでは遺体の洗浄と検視に従事したが、検視した遺体の数は1,500体にのぼる。それら遺体には、貧困や暴力の痕跡が生々しく残っていた。そうした遺体を処理しながら、アジェンデは貧困の影響を直に再認識したことだろう。

医師として働き始めてからもアジェンデは政治活動から遠ざかることなく、社会党の会合などに出席した。その社会党の指導部は、資本主義からの移行の過程では「労働者の独裁」が必要であり、「支配階級はすでに独裁を確立しているのであるから、民主体制を通じた漸進的変革は不可能」だと宣言した。こうした考えはアジェンデ個人の考えと真っ向から対立するものだったが、選挙政治や武力による権力掌握といった問題に対する社会党の姿勢は、以後、常に不安定に揺らぎ続け、アジェンデが大統領に就任してからも彼を悩ませ続けるだけでなく、敵陣営のプロパガンダにも利用されることになる。

そんなチリ社会党の初期の党員の社会的背景は、まさに「ごたまぜ」だった。一方のチリ共産党は、圧倒的にプロレタリアートが多数を占めていた。共産党と社会党の大きな違いは、社会党に言わせれば「共産党はソ連の影響が大きすぎる」とのことだった。自分たちはソ連を労働者階級の「砦」とは見なしていないとの主張だった。国際的には、チリ社会党はラテンアメリカ民衆の政治的・経済的連合を視野に入れ、「社会主義共和国連邦」を展望していた。チリ社会党はナショナリスト的で、ラテンアメリカに焦点を絞っていたのだ。アジェンデも同様で、チリの問題にはチリの解決策で対処すべきとの考えだった。実はチリ共産党も同様の考えだった。そしてアジェンデはそのことを認識していた。この点が、アジェンデおよびチリ社会党がチリ共産党との長い協力関係を維持する上での最重要基盤となるのだった。社会党指導部は、共産党とうまく協力できるのかとの疑念を抱いていたのだが、その点でアジェンデが重要な役割を果たすことになる。

1935年、アジェンデは社会党のバルパライソ地域の書記に選任された。当時のチリは左派弾圧と大動乱の時代だった。1932年に大統領に就任していたアルトゥーロ・アレサンドリ(1958年からの大統領ホルヘ・アレサンドリの父親)は、社会党結成(1933年4月)の5日後、対「反乱」対策を名目として、大統領権限を強化する法案を通した。結果、社会党の指導者たちは逮捕され、一部は国内追放に処された。さらにアレサンドリは1935年、左派弾圧のために「共和国市民軍」を創設した。民間の非正規軍である。これに対して社会党も民兵組織を結成した。街中での戦闘が激化していった。南部先住民の反乱が鎮圧されて300名以上が虐殺されるという事件も勃発し、動乱はますます激化した。そしてアジェンデも動乱の渦に巻き込まれた。著名な社会党指導者であるとして、6か月の国内流刑に処されたのだ。流刑先は北部アタカマ州のカルデラという小さな漁村だった。流刑期間中、彼は無償で医療活動を行い、この地域で最初の社会党支部も設立した。こうして、カルデラはその後長年にわたって左派の砦となるのだった。

カルデラに流される少し前に、アジェンデはフリーメーソンのメンバーに推挙されていた。アジェンデも、「無知をなくし、蒙昧主義を乗り越え、権利と機会が平等な体制を創る」ことを目標とするフリーメーソンの信条に惹かれていた。もちろん、家系的にフリーメーソンだったことも影響しただろう。そして1935年11月18日、アジェンデはフリーメーソン入会を認められた。カルデラから戻って間もなくのことだった。

ところがアジェンデのフリーメーソン入会は社会党内部で問題になった。フリーメーソンは革命政治の邪魔にならないかとの声が上がったのだ。キューバ革命後は、フリーメーソンの側でも、アジェンデの政治的考えに対する疑問の声が大きくなった。それでもアジェンデは会員として残り、もっと労働者階級と若い知識人を受け入れて民主的になるよう、フリーメーソン会員たちに働きかけ続けるのだった。

フリーメーソンに入会したアジェンデは、以前にもまして精力的に政治に邁進した。1937年の国会議員選挙で、社会党はバルパライソ地区の候補にアジェンデを擁立した。アジェンデは見事に勝利を収めただけでなく、同地区の他の社会党候補3名の勝利にも貢献した。そして同年、社会党はアジェンデを副書記長に選出した。

国会議員(下院)になったアジェンデは、政府の医療法案を国会で徹底的に批判し、「社会主義だけが問題を解決できる」と主張した。当時のチリでは、まともな医療を受けられないことが原因で、特に幼児の死亡率が高くなっていた。社会保険加入率は13%にすぎず、労働者の収入の87%が衣食住に消えるという有様だった。医師としての経験を現場で積んでいたアジェンデは、次のような主旨の訴えを国会で行った。「病院に搬入される病人の中で、暖かさと住居だけを必要としている病人が多すぎる」、「政府の医療法案は健康不良の根本的原因つまり貧困に対処することを考えていない」、そして「貧困は社会化された計画経済で解決できる」と。

1938年10月には大統領選挙が予定されていた。その大統領選に向け、1936年に人民戦線が結成された。共産党の呼びかけに対して社会党や急進党などが合意する形で実現した。その人民戦線は統一候補として急進党のペドロ・アギレ・セルダを擁立した。結局、人民戦線政府の政策は急進党に牛耳られることになるが、人民戦線の結成に賛同したアジェンデは、そのことを当初から承知の上だったようだ。後に(1971年)彼はレジス・ドブレとの対話の中で語っている。人民戦線は政治的解放と完全なる主権とを意味するものではなかった、自分たちは政治的発展の一段階として人民戦線に参加しただけだったと。

1938年の大統領選挙は、チリで初めて明確に左派と右派に分かれて戦われた選挙だった。が、当時は人口500万のうち投票権のある者は50万だけという有様で、圧倒的に右に有利な選挙だった。それでも結果は、僅差ではあったが人民戦線のセルダの勝利に終わった。選挙制度のことを考えると、本来ならもっと大差で勝利していたところだろう。こうして成立した人民戦線政府だったが、決して根本的に社会経済基盤を変革することは考えていなかった。アジェンデは選挙戦の最中から言っていた。人民戦線政府は社会主義政権ではない。ファシズムの脅威から民主主義を守るために結成されたにすぎないと。アジェンデにとって、資本主義の枠内での根本的変革などは考えられなかったのだ。

とはいえ、この選挙での人民戦線の成功がアジェンデに教えるものは大きかった。この選挙の経験から、チリにおける革命は暴力の道を経る必要がないということを、そして、可能なかぎり広範な連合が必要だということを、アジェンデは学んだのだ。そして共産党もアジェンデと同様の考え方だった。こうしてアジェンデは、共産党との連合を維持する上で大きな役割を果たすことになるのだった。

人民戦線政府が成立してまもない1939年1月25日、チリ中部地方を大規模地震が襲い、数万という数の犠牲者が出た。これに対し人民戦線政府は、復興のために生産振興公社(CORFO)を設立した。このCORFOのもとで鉄鋼や電力といった基幹産業が育成され、経済発展のための基盤整備が図られた。それは国家主導の近代化の試みであったが、このCORFOは以降のチリ経済の発展に大きく寄与することになる。また人民戦線政府は、教育制度の改善にも力を入れた。職業訓練学校も創設された。

上記の地震のときにアジェンデは現地へ向かったのだが、そのときに「テンチャ」と呼ばれる女性と出会った。二人は1939年9月17日に正式に結婚した。二人は新居に移ったが、そこには、後にベネズエラ大統領となるロムロ・ベタンクール(当時はチリに亡命していた)をはじめ著名な政治家が数多く住んでいた。

そんなアジェンデは、1939年9月に厚生相に任命されると、「公衆衛生の防衛のための国家計画」プロジェクトを立ち上げた。それは、新たな病院や精神科施設の建設、廃棄物焼却施設の建設などを柱とするプロジェクトだったが、相応の資金が必要だった。結局、かなりの変更を議会が加えてアジェンデの計画は採択された。こうして、アジェンデの改革の本質は変えられてしまったが、それでも大きな前進だったことに違いはない。

その他に注目すべきは、チリの天然資源に対する主権を回復するための法案をこの時期にアジェンデが提出していたということだ。後に彼は大統領に就任すると銅産業の国有化を敢行するが、実はこの時期から天然資源搾取の問題を提起していたのだ。

だが、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、人民戦線政府も危機を迎える。戦争により、チリに対する信用の供与元が米国だけになった。1940年8月には米国との間で融資条件の交渉が行われたが、その際に米国は、人民戦線から共産党を追い出すよう圧力をかけた。これをきっかけに、社会党と共産党の関係が悪化した。当時は社会党も共産党もチリでは大きな勢力を誇っており、支持率は前者が17%、後者が12%だった。それだけに人民戦線政府内部での対立は大きな痛手となり、政策推進の妨げとなった。人民戦線政府に失望した社会党員は、1940年に社会主義労働者党(PST)を結成して社会党を離脱した。翌年、セルダが結核で死亡すると大統領選挙が実施されたが、そのとき社会党は独自候補を立てて完敗した。勝利したのは、急進党、PST、共産党による連合が擁立したフアン・アントニオ・リオス(急進党)だった。アジェンデなど社会党閣僚は政権に残ったが、リオスが左派を弾圧し始めると、アジェンデは1942年4月に辞任した。

自ら孤立の道を選んで離党者も続出する社会党は、危機に直面していた。そこでアジェンデは、社会党を再建すべく党のリーダーに立候補した。対立候補はリオス支持派だった。アジェンデとしては、リオス支持は決して受け入れられなかった。結局、1943年1月の社会党大会で、アジェンデは対立候補を破って社会党総書記に選出された。対立候補は離党して新党を立ち上げた。

総書記に就任したアジェンデは、党内の問題を解決するため、1943年8月にバルパライソで党の臨時会議を開いた。その場で彼は、社会党の最大の欠点は綱領がないことだとして、次のような主旨の指摘を行った。「我々の指針は、経験によって強化されたマルクス主義である。それなのに綱領がない」、「戦術は、現実に適合するよう変える必要がある。そうした戦術変更を考慮に入れた綱領でなければならない」。そして、党の独善的姿勢を批判して党員たちに呼びかけた。「過去の経験を活かそうではないか。今後も我々自身を厳しく批判しようではないか」と。その数か月後、アジェンデは、社会党自らが離脱した人民戦線政府に敬意を表するデモを行った。それは、「反独善」の姿勢の表明であったが、同時にアジェンデは、左派に権力をもたらした人民戦線を称賛したのだった。

1945年3月には国会議員選挙が予定されていた。アジェンデはチリ南部の上院議員の候補に推されたが、その方面の地域は右派の土地所有者が支配しており、アジェンデにとっては困難な選挙戦だった。そこで彼はチリ最南端部のティエラ・デル・フエゴに力を入れることにした。ティエラ・デル・フエゴは労働者階級が多く、歴史的に左派が活発に活動してきた地域でもあったからだ。彼は馬に乗ってティエラ・デル・フエゴの隅から隅まで回った。大学入学前の騎兵連隊での経験が、このときに活きたのだ。結局アジェンデは選挙に勝利し、社会党の上院議員二名のうちの一人になった。

ところがこの選挙の直後、アジェンデは社会党の指導部から締め出された。バルパライソで行った社会党批判が原因だとされているが、若くして上院議員に当選した者に対する嫉妬心のせいかもしれない。いずれにせよ以後アジェンデは、二度と社会党の役職に就くことはなくなる。彼の視野は、社会党という枠を越えて広がっていたのだ。

1946年の大統領選挙でも社会党は独自候補を擁立して惨敗を喫した。得票率はなんと2.53%という有様だった。勝利したのは、急進党と共産党が推したガブリエル・ゴンサレス・ビデラ(急進党)だった。社会党の独善を批判したアジェンデの予言どおりになった形だった。社会党は、政府とも、急進党とも、共産党とも敵対を続けた。一方で共産党は躍進を続け、1947年の地方選挙では17%の票を獲得した。

そのころ、第二次世界大戦が終わると、冷戦の時代に突入した。ヨーロッパ各国で共産党が攻撃の対象になった。ラテンアメリカでも米国の圧力により、「民主主義を守るため」との紋切り型の口実のもと、共産党が弾圧の対象になった。米国は、以前にもましてラテンアメリカを自国の支配下に縛り付けようとした。ラテンアメリカの貴重な資源を従来どおりに安価で入手するためだった。こうして、ラテンアメリカの資源から得られた資金は、マーシャルプランとしてヨーロッパへ流されるのだった。

チリでは、ビデラ大統領が米国の手先として動いた。ビデラは1948年1月に「民主主義恒久防衛法」を成立させることで、自身の選挙戦に協力した共産党を非合法化し、共産党閣僚3名も政権から追放した。共産党の指導者たちは強制収容所へ送られた。このときアジェンデは、労働者階級の統一のための新党、社会大衆党(PSP)を創設した。社会党の多くの党員も追随した。この新党は、後に人民連合(1969年12月結成)の指導者を多数輩出することになる。

ビデラの反共政策に対し、1948年6月18日、アジェンデは国会の場で猛烈な牙をむいた。「マルクス主義を信奉する革命家たる我々に明日にも適用されるだろう」として「民主主義恒久防衛法」を非難し、共産党のマルクス主義イデオロギーを擁護したのだ。また、「今日の社会的組織の自由は見せかけにすぎない。実際に自由なのは、権力と生産手段を支配するごく少数の者だけ」だとして、既存の「民主主義」の化けの皮を剥いだ。

さらにアジェンデは、「ソビエト帝国主義」として共産党を非難する一方で米国帝国主義については何も言わない者たちも非難した。当時、チリの鉱物資源の価格は米国が決めており、チリは銅をはじめとする原材料を低価格で米国に売らざるを得ない立場に置かれていたのだ。その結果、チリは5億ドル相当の損害を被ったとアジェンデは指摘した。

続いてアジェンデは、「民主主義恒久防衛法」との関連で、民主主義について次のように論じた。「民主主義とは、不正義に対する抵抗が可能であること、成就の機会があることであり、絶えざる前進という精神的姿勢です。大統領殿、民主主義とは、道義と理性と信条を通して達成される意識的な成果であって、法令によって達成されるものではありません」

最後にアジェンデは、「民主主義恒久防衛法」は憲法違反であり、民主主義体制の根本そのものに対する攻撃であると批判した。

アジェンデの反資本主義・反帝国主義の姿勢は、議会の外でも貫かれた。1951年に銅山労働者によるストライキが多くの支持者を集めたとき、アジェンデは演説の中で、第三世界では資本主義のもとでの社会発展は不可能だとして、次のように言って喝采を浴びた。「低開発が存在するのは帝国主義が存在するからです。そして、帝国主義が存在するのは低開発が存在するからです」

1952年には大統領選挙が控えていた。そんな1951年の初頭、社会大衆党(PSP)の指導部は、左派を乱暴に抑圧した経歴を持つかつての独裁者カルロス・イバニェスと選挙協力の交渉を始めた。アジェンデはこれに断固反対し、PSPを離党して社会党に復帰した。しかし、その社会党の指導部は反共の立場を変えることなく、社会党は勢力を失う一方だった。そこでアジェンデは、共産党と連合を組む方向に社会党を向かわせた。当時は非合法だったものの全国に広く支持層を築いていた共産党の側も、アジェンデを歓迎した。一貫して共産党との連合を主張し、民主主義恒久防衛法(これにより共産党は非合法化された)に断固として反対してきたアジェンデは、共産党にとって信頼に値する人物だったのだ。一方のアジェンデにとって共産党は、強力な選挙基盤を誇る組織であり、革命推進に欠かせない存在だった。アジェンデは1950年に次のような発言を行ったほどだ。「共産党なしで社会主義政権を作ろうとする者はマルクス主義者ではない」と。アジェンデは、平和的手段による社会主義建設と、そのための広範な連合を志向していた。共産党も同様の考え方だった。アジェンデと共産党との絆は、以降も途切れることなく続くことになる。

こうして、1952年の大統領選挙で社会党は共産党と連合を組んで戦うことになった。そして、1951年11月に社共連合の統一候補に選ばれたのがアジェンデだった。アジェンデにとって初めての大統領選挙になった。ところが、当時は左派の支持者は抑圧の記憶から解放されないまま沈黙を強いられていた。資金も不足していた。かつての左派組織はバラバラになっていた。アジェンデ陣営は資金も人手も不足していた。サンティアゴ近郊ならアジェンデの個人的な車で行けたが、それよりも遠いところへは、友人が操縦する小型セスナ機で移動した。そして、即席の演壇を作り、そこに立って演説するのだった。演説の中でアジェンデは、チリの経済的不平等の原因を説明した。エリート層が自らの利益を守るために政治権力を利用して何をやってきたのかを説明したのだった。

一方のイバニェス候補は、単純で平易な言葉を使った大衆迎合的な戦術をとった。科学データ重視のアジェンデとは正反対の戦術だった。結果は、イバニェスの圧勝に終わった。アジェンデの得票率はわずか5.6%だった。しかしそれでも、初めて全国の舞台に出たという意味ではアジェンデにとって意義のある選挙戦だったと言えよう。

前述したように、アジェンデは人民戦線政府の時代から、チリの天然資源に対する主権の問題を提起していた。そのアジェンデは、1950年代に入ると、銅の問題を徹底的に追及するようになった。米国企業が支配していた銅産業を政府が統制することを強く主張し始めたのだ。銅産業は当時のチリの最大の収入源になっていたのだが、それが米国企業の手に握られていた。アジェンデは1951年、そうした状況は「国に対する犯罪だ」と上院の議場で抗議した。さらには、米国企業がチリを「主権所有者」として支配し、「チリの労働者と従業員に対して、独裁者のように彼らの意志を、そして勝手気ままに彼らの法律を押し付けている」として異議を唱えた。アジェンデが特に怒ったのは、両国政府間で合意の署名がなされたのかどうか、さらには、銅会社との間で合意の署名がなされたのかどうかを、チリ政府内の誰も知らないという点だった。またアジェンデは、世界の銅市場を米国人の大物6名が牛耳っている点を指摘して、「帝国主義の典型例だ」と非難した。その上でアジェンデは、国営銅公社の創設を提案した。

アジェンデの怒りの背景には、第二次世界大戦中の苦い経験があった。すでに述べたように、第二次大戦中は、銅その他の戦略的物資に対して支払う金額を米国のルーズベルト大統領が決めていた。さらに、銅生産のすべてを米国に売ることにチリ政府は同意した。そのせいで、戦争中のチリの損失は5億ドルにのぼった。アジェンデは、この経験を振り返って上院の場で問いかけた。「これだけの法外な金があれば何ができたでしょうか?」と。

こうしたアジェンデの指摘を受け、「銅省」なるものが設けられた。米国籍の銅会社から銅を購入して世界の市場に出す、そうすることで輸出先を多様化させようとの計画だった。ところが、この計画もそう簡単には進まなかった。朝鮮戦争後に米国が自国内の銅備蓄を世界市場に放出して銅の価格を下げたのだ。チリは価格低下防止のために銅備蓄を手放さなかったが、チリの銅備蓄は米国の銅会社アナコンダ社に「貸し出」され、アナコンダ社が世界市場で銅を売りさばいた。こうして、銅の価格はさらに下落したのだった。さらに1955年には、米国の銅会社がチリの銅の販売を引き受けることを再び可能にする法案が可決し、「銅省」の計画は泡と消えた。そしてベトナム戦争が始まると、またしても米国はチリに対して市場価格の半額で銅を売却させるのだった。

アジェンデは、銅山で働く人々の健康も憂慮していた。多くの銅山労働者が珪肺(けいはい)を患っていたのだ。銅産業以外の労働者の健康も悲惨な状況に置かれていた。アジェンデは1950年から上院厚生委員会の委員長を務め、保健医療改革を推進しようと奮闘した。具体的には、公衆衛生医の労働条件を規制する法律と、国民保険局を創設する法律を後押しして成立させた。結果的に、公共の医療サービスが利用しやすくなり、保健医療の有効性が高まった。そして1954年、アジェンデは上院副議長に選出された。

そのころ、チリ経済は天文学的なインフレに襲われていた。そこでイバニェス政権は、前述したように「クライン-サックス・ミッション」を米国から招待し、今で言うところの「ネオリベ」政策の指導を受けた。この「ミッション」の招待は、著名な右派新聞『エル・メルクリオ』の所有者が主導して実現したものである。この「ミッション」からのアドバイスを実行に移した結果、インフレは一時的にはなんとか抑え込めた。だが一方で、チリの一般大衆が受けた痛手はあまりにも大きく、1957年4月、民衆の抗議活動が爆発した。政府は非常事態宣言を出した。アジェンデが創設に関わったものの途中で離党していた社会大衆党(PSP、1952年の選挙でイバニェスの当選を後押しした)は、すでにイバニェスを見捨てていた。1956年、PSPが社共連合に加わり、人民行動戦線(FRAP)が結成された。さらに1957年7月には、社会党とPSPが合体して社会党が再結成された。

1958年の大統領選挙では、こうして結成されたFRAPの候補にアジェンデが指名されたのだった。そしてアジェンデと共産党は、もっとFRAPを広範なものに広げようと考えた。1957年には、後のキリスト教民主党と急進党が左派に加わって共産党の非合法化を覆そうとする動きがあった。ところが、またしても社会党がこれに対して強硬に反対した。結局、「労働者階級」を越えてFRAPを広げようとのアジェンデの願いは断たれた。

とはいえ、1958年9月の大統領選に向けて、アジェンデ陣営は希望に燃えていた。共産党は合法化され、選挙法の改正により、投票プロセスも透明度を増していた。アジェンデ陣営は、鉄道労働者の組合とのつながりを利用して列車を借りるという作戦に出た。当時は鉄道がほぼ全国に敷かれていたので、以前の選挙戦では行けなかった地域にもアジェンデのメッセージを届けることが可能になっていた。アジェンデたちは古い蒸気機関車を借りて全国を回った。音楽家や芸術家や文化人やFRAPの政治家たちも同行したため、歌や詩を聞くチャンスにも、有名人と会うチャンスにもなり、多くの聴衆が集まった。前回1952年の選挙戦では抑圧の記憶から民衆は沈黙を強いられていたが、今回は違った。アジェンデ陣営は各地で歓迎された。人々は変革を渇望していたのだ。AにVを重ねた落書きがチリの至るところに現れた。「アジェンデに投票しよう」を意味する落書きである。

選挙当日の夜、各投票所から投票結果が徐々に入ってきた。女性票ではアレサンドリが優勢だったが、男性票ではアジェンデが優勢だった。このときの選挙では、男性と女性とで投票台が分けられており、それぞれの「台」で票がカウントされたので、こうした傾向が分かるのだった。だが、最終結果を発表するはずの内務大臣は沈黙を守ったまま時間が過ぎていった。

アジェンデは自宅に戻って結果を待つことにした。仲間たちもアジェンデの家に集まった。すると、日付が変わってしばらくした頃に、軍の上級将校がアジェンデの家にやってきて、イバニェス現大統領からの個人的なメッセージをアジェンデに伝えた。それは、「国のために考える時間を貴殿に与えるためにイバニェス大統領は最終結果の発表を控えている」という内容のメッセージだった。イバニェスはアジェンデの勝利だと考え、選挙結果をひっくり返そうとしたのだ。これに対してアジェンデは次のように返した。「こんなにもばかげた、そして恐ろしいことなど聞いたことがない。国の将軍がこんな恥ずべき謀略のメッセージの使者になるとは驚きだ。戻ってイバニェス氏に伝えなさい。私は投票箱の判決を尊重する、そして、卑劣な試みには断固として抵抗すると」

最終的にはアレサンドリが33,500票の差で勝利した。アジェンデは3%の差で負けたのだった。この選挙でアジェンデが認識したのは、女性票の問題だった。女性は理想のパートナーとして大統領を見なす傾向にあるとアジェンデは考えた。一方で、アジェンデは女好きとしても知られていた。それが原因でチリの女性がアジェンデから遠ざかった可能性も考えられる。しかし、アジェンデは女性と児童に有利な法案を提出することで有名だった。そう考えると、チリの社会構造がアジェンデに不利に働いたのかもしれない。当時のチリの女性は家の外に出て働くことが少なかったので、女性の情報源は近隣住民と教会に限られていたのだ。また、以後の選挙でも見られるように、女性は冷静な分析よりも感情に直接的に訴える言葉に動かされる面がある。こうした女性からの支持の問題は、最後の最後までアジェンデにつきまとうことになる。

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アレサンドリ政権下で強まる対米経済依存

1958年の大統領選で僅差で勝利して大統領に就任したホルヘ・アレサンドリ(アルトゥーロ・アレサンドリの息子)だったが、その政権下で政府と労働者との対立はさらに激化した。当時、インフレはなおも収まっていなかった。それどころか、前年比33%増と大きく跳ね上がっていた。アレサンドリ大統領は、インフレの原因は高賃金にあるとの理由から賃金を低く抑えることが必要と主張し、労働者側の要求(インフレ率に見合う賃上げ)を拒否した。1960年、これに怒ったチリ労働者統一中央組織(CUT:当時のチリの主要な労働組織)は24時間ストに打って出た。その他、個別の組合も一連のストに入った。政府は、ストライキはすべて政権転覆作戦の一環だと主張した。そして11月、CUTのメンバーたちがモネダ宮(大統領官邸)へのデモ行進を始めると警察が出動し、デモを暴力的に鎮圧した。負傷者35名、死者2名という犠牲者が出た。

1961年3月に国会議員選挙が行われると、アレサンドリ支持派の自由・保守両党は惨敗を喫した。それまでは両党で上院の過半数を占めていたのだが、過半数を大きく割る結果に終わった。自由党員と保守党員は、自分たちがもはや国民から見放されていることを、この選挙で悟った。

アレサンドリは大きな遺産をチリ経済に残した。それは、米国に対する依存である。レッセフェール資本主義者だったアレサンドリは、自由貿易の原理を信奉して遵守した。国際競争が経済を刺激すると主張し、1959年から段階的に関税を下げていった。その結果、米国製品がチリ市場に溢れることになった。

さらにアレサンドリは、米国からの借款を大々的に受け入れた。これが、チリの対米依存を強める決定打となった。米国銀行業界、米国財務省、IMF、それに米国国際開発庁USAIDの前身である米国国際協力庁(USICA)から、総額1億3000万ドルがチリに流れ込んだ。そしてアレサンドリは、米国が大喜びするものを返礼として贈った。外国の投資家向けに優遇税制措置を講じたのだ。米国企業をチリに引き寄せ、それによって経済を立て直そうとの目論見だった。ところが、激しいインフレと執拗な経済停滞は打開されなかった。米国における景気後退が影響していた。

インフレが悪化する一方という状況に不安を覚えた労働者たちは、改めて賃上げを要求し、ストライキに打って出た。1962年の一年間だけでも400件のストが勃発した。1962年11月にはCUTがゼネストを呼びかけ、民間セクターと公共セクターの両方でストが決行された。銅山や鉄鋼業の労働者の他に、国営銀行や国民保険局の職員もストに参加した。警察とスト参加者との間で衝突が起こり、スト参加者6名が死亡し、負傷者も多数出た。後に公共事業相が現場を視察しに行ったところ、衛生環境が全く整備されていない状況だった。道路は補修されないままに放置されていた。学校の数も全く足りていないという有様だった。一般大衆の鬱憤はたまる一方だった。

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第2章 資本主義こそ進歩の道

1964大統領選

アレサンドリ政権のもとでチリ経済の対米依存が深まり労働者の不満が高まる中、1964年9月のチリ大統領選挙が迫っていた。今回の主要候補は、いずれも1958年にも出馬して敗退していた候補2名、つまり、キリスト教民主党のエドゥアルド・フレイと、FRAPのサルバドル・アジェンデだった。

アジェンデ陣営は、前回と同様にこの選挙戦でも列車を借りて全国を回った。「勝利の列車」と呼ばれるようになっていた。過去の選挙から得た教訓も活かした。女性票対策として、「アジェンデ派女性の独立委員会」(CIMA)を設けた。この組織を主導したのが、アジェンデの妹ラウラだった。当時は保守派のカトリック教徒だった彼女は、「アジェンデを怖がる必要はない」と中・上流階級の女性を説得しようとした。

フレイのキリスト教民主党は、カトリックの教義を基盤として階級闘争を廃絶しようとの考え方だった。左派のライバル政党と同様に労働組合の権利を支持していたものの、労働者と企業は対立すべきものではないとの立場から、企業の富の穏健な再分配と、企業の意思決定への労働者の参加を主張した。さらにインフレに対しては、緩慢で段階的なアプローチを主張した。こうしたどっちつかずで中途半端な姿勢は、労働者を遠ざける結果になった。アレサンドリ時代の不安定な経済から大きな痛手を受けていた労働者たちは、一刻も早い解決を望んでいたのだ。

フレイは、大衆の支持を得るべく無宗教色を強調し、その政策綱領でも大衆受けを狙った計画を前面に出した。36万戸の住宅建設、10万世帯に対する土地分与、普遍的初等教育などだ。が、フレイの政策の目玉は銅山の「チリ化」にあった。なんといっても、チリの総輸出の80%を占めていた銅に対する主権の回復は国民的な要求だったのだ。その銅政策に関してはキリスト教民主党内部でも意見が対立したが(党内左派は完全国有化を主張した)、フレイの「チリ化」は、産銅企業の株式の過半数を政府が買い取るというものだった。それによって企業に対する支配権を強化し、そこから得られる収益によってチリ国内の産業を育成しようとの計画だった。

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米国による対フレイ秘密支援

フレイは中産階級から広く支持されていたが、上流階級の票も期待できた。ただしそれは、彼らがフレイのキリスト教民主党を愛していたからではない。彼らは、フレイの唯一の有力なライバルであるアジェンデの大統領就任を阻止するための最も有望で差し障りのない選択肢としてフレイを見なしたのだ。そういう見方をしたのはチリの上流階級だけではなかった。チリ版のフィデル・カストロの誕生を恐れていた米国政府も、秘密裡にフレイを支援した。1975年1月に設置された米国上院情報活動調査特別委員会(以下「チャーチ委員会」と呼ぶ)による1975年の報告によると、ケネディ政権とジョンソン政権はキリスト教民主党に対してCIA経由で選挙資金を提供していた。「社会主義者あるいは共産主義者」の当選を阻止するために1962年から1964年の間に「特別グループ」が300万ドル超を承認したとの記述が同委員会の報告書に残っている。

実際のところ、チリにおけるCIAの秘密活動は1953年に始まっていた。CIAサンティアゴ支局が、チリの通信社や右派の新聞・雑誌を支援し始めたのだ。そしてケネディ政権時代の1961年、CIAはワシントンとサンティアゴに「選挙委員会」を設置した。その目的は、チリの民主的選挙プロセスに干渉することにあった。キリスト教民主党に対するCIAの秘密援助は、その1961年に始まっていた。主要な労働組織、メディア、学生団体、農民組織の中に工作員を送り込む、プロパガンダ組織を作り上げるといったところから始まり、フレイの選挙戦では秘密の資金を大量に注ぎ込んだ。最終的には、フレイ陣営の選挙資金の半分以上をCIAが負担する結果になったほどだ。

米国による対ラテンアメリカ干渉の歴史は、それよりもずっと前にさかのぼる。1945年に発効した国際連合憲章では、他国への不干渉と国家主権の尊重が強調されていた。そこで米国は、CIAを使った秘密工作に頼るようになった。たとえばアイゼンハワー政権のもとではグアテマラで政権転覆の秘密作戦を展開し、アイゼンハワーおよびケネディ政権のもとではカストロ打倒の秘密活動を行った。そうした秘密活動で暗躍したのが、米国在住の亡命キューバ人だった。

1960年3月、アイゼンハワーは亡命キューバ人から成る侵略部隊の育成を開始した。同年5月には、キューバとソ連が外交関係を樹立した。米国は同年8月のサンホセ宣言で対抗した。米州機構OASの外相会議で、中ソによるキューバ支援を内政干渉だと非難したのだ。そしてケネディ政権下の1961年4月、亡命キューバ人の部隊がキューバ侵攻を試みて惨敗を喫した。いわゆるピッグス湾事件(日本語では「事件」と呼ばれているが、スペイン語でも英語でも「侵攻」"invasion")である。カストロは社会主義を宣言し、キューバの米国企業を国営化した。

キューバ革命の成功を受け、チリでは左派が台頭し、左派政党の党員数が激増した。1960年7月、アジェンデは上院で、キューバ革命は主権回復のためのラテンアメリカの闘争の「次の段階」だと宣言し、キューバ革命には正当性があると強調した。さらに、「これまで何度も表明してきたように、戦略と戦術は違っていても、こうしたプロセスはラテンアメリカのさまざまな国で花開くはずです。その目的は、政治的隷属と経済的搾取と国民の飢えと苦悩を終わらせることにあります」と述べた。こうした発言からうかがい知ることができるのは、彼のナショナリズム志向である。

続けてアジェンデは、革命を「悪」に見せようとするメディアを批判した。「UPIやAPその他、北米資本に支配された報道機関は、キューバで起きたことを歪めて伝えています。この種の情報操作は、数年前にグアテマラで国際的な強奪が行われたときに見られたものに匹敵するほどです」。北米メディアを操る北米資本および米国政府は、キューバのことを歪めて伝えるだけでなく、チリその他のラテンアメリカ諸国の政治状況も歪め始める。米国は、ラテンアメリカを悪意をもって睨むようになった。もちろん、アジェンデも例外ではなかった。

1958年の大統領選挙でのアジェンデの健闘を受け、ジョン・F・ケネディ大統領はチリの選挙に干渉することを決めていた。1964年のチリ大統領選でアジェンデが選出されるのを阻止するために、中道政党のキリスト教民主党を支援しようと。彼は1962年初頭、キリスト教民主党の有力候補者2名、フレイとラドミーロ・トミックを秘密裡にホワイトハウスに招いた。直接に面会して、どちらを支援するかを決めるためだった。そして、ケネディが選んだのがフレイだった。

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フレイと「進歩のための同盟」

1959年にキューバ革命の成功を目にしたケネディは、ラテンアメリカの中道政党を育成して左派の革命運動に対抗させる必要性を感じていた。そこから生まれたのが「進歩のための同盟」だった。米国とラテンアメリカ諸国との経済協力計画である。フレイに対する米国の秘密裡の支援は、この「進歩のための同盟」に直接的に由来する。

ケネディは、この「進歩のための同盟」を1961年に提唱する際に、こう高らかに宣言した。「経済的進歩と社会正義を求める人々の満たされない大志は民主的制度の枠組みの中で働く自由な人々によって最大限に達成されるということが、この政策によって全世界に示されるだろう」、そして、「規模においても目的の高貴さにおいても他に例を見ない大規模な協力事業であり、住居、職、土地、健康、教育に対するラテンアメリカ民衆の基本的ニーズを満たすことを目的とする」と。

このように気高い言葉で自らの計画を説明したケネディだったが、彼の真の意図は、ラテンアメリカにおける資本主義の維持にあった。カストロの革命の広がりほど米国にとって都合の悪いものはなかった。そこで、こうした高尚な言葉で飾り立てた同盟政策を通してラテンアメリカの革命運動を抑え込もうとしたのだ。そして1964年には、ケネディの後を継いだジョンソン大統領がチリを「進歩のための同盟のショーケース」だと宣言することになる。政治的にも物質的にも基礎がすでに整備されていて、平和的な変革を国民が望んでいるチリ、民主主義の伝統が根付いているチリは、ケネディにとってもジョンソンにとっても格好の宣伝材料になった。結果的にチリは1960年代に12億ドル以上を「進歩のための同盟」からの(そして米国からの)支援として受け取った。これは、一人当たり換算で言うと、西半球のどの国よりも多い額である。ただし、なぜ対フレイ支援が秘密裡でなければならなかったのかをケネディもジョンソンも説明しなかったのは言うまでもない。

ケネディが守ろうとした資本主義は、なによりも利益を最優先する。したがって「進歩のための同盟」の利他主義に限界があるのは当然だった。ラテンアメリカ諸国は、借款(過去のものも含めて)に関わる元金と利子を返済しなければならなかった。しかもケネディ政権は、25年融資を5年の猶予期間で供与した(それまでは猶予期間10年の40年融資が一般的だった)。さらに建設事業に関しては、米国の資材を購入するという条件も付いた。結局、ラテンアメリカ諸国の生活水準は60年代の末になっても全く向上していないという結果に終わるのだった(「進歩のための同盟」は70年代前半に破綻を迎える)。

ケネディの「進歩のための同盟」は、アジェンデからも痛烈な批判を浴びた。1967年、ウルグアイのモンテビデオで「進歩のための同盟」の会合が開かれていたちょうどそのとき、アジェンデはモンテビデオ大学で演説を行い、「進歩のための同盟」は米国支配の謀略に他ならないとして非難したのだ。この「同盟」のせいで、ラテンアメリカのいたるところに独裁者が現れ、参加各国は借金が増えるばかりだとアジェンデは指摘した。ラテンアメリカにとっての唯一の解決策は経済的自立であり、それなしに政治的自立はあり得ないとアジェンデは強調したのだった。

ケネディの対ラテンアメリカ政策は、「軍に対する支援」という面でも失敗していた。その軍事支援は、各地での反乱を抑え込むために提供された。ケネディは、公安活動、ゲリラ戦、それに反共主義の分野で、ラテンアメリカの将校たちに訓練を施すという形でラテンアメリカ諸国の軍部を支援した。諜報機関の設置あるいは強化も行われた。結果的に、米国と繋がりの強い偏執狂的軍人が生まれた。1960年代に右派の独裁政権が次々とラテンアメリカで生まれたのは偶然ではない。ケネディ政権時代に6つの民主政権が軍によって打倒されたとする学者もいる(スティーヴン・レイブなど)。こうしてケネディの政策によって、ラテンアメリカの民衆は自らの政治意思を表明できない状況に追い込まれた。さらには、ケネディ政権による対軍部支援は、ラテンアメリカの経済発展を阻害する結果にもつながった。軍部の重要性と出費が増大するに伴い、その他の国内問題や債務返済に充当できたはずの国家資源がますます削減されていったからだ。

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アジェンデを警戒するケネディおよびジョンソン

ケネディは、アレサンドリ政権時代からキリスト教民主党に期待をかけていた。アレサンドリの右派路線がチリ民衆をアジェンデへと向かわせるのではないかと懸念し、アジェンデの対立候補であるキリスト教民主党のフレイに期待していた。なにしろアジェンデは、「キューバに対する攻撃はすべて、世界の小国に対する、ラテンアメリカに対する、そしてチリに対する攻撃である」と公言して民衆の支持を得ていたのだ。もちろん、銅山国有化の問題もケネディにとって不安の種だった。当時、チリにおける米国企業の資産価値は銅山も含めると7億ドルにのぼっていた。今回1964年の選挙でアジェンデが選出されれば、こうした米国資産が脅かされることになる。だが、ケネディを最も悩ませていた問題は、他にあった。彼はこう言っていた。「共産主義は壁を築くことでしか権力を維持できないと我々が言っているときに、民主主義の国で共産主義者が選挙に勝つことになれば、我々にとって大きな痛手だ」。その「共産主義者が選挙で勝つ」という事態が、サルバドル・アジェンデの選挙運動を通して大きな可能性として立ち現れていたのだ。

アジェンデとは対照的に、フレイならケネディも安心できた。1963年11月にケネディの後を継いだリンドン・ジョンソン大統領もフレイを寵愛した。ケネディおよびジョンソンは複雑かつ内密の方法でCIAに指示を出し、CIA経由で秘密支援をフレイに提供した。またホワイトハウス内に「特別グループ」なるものが設けられたが、チャーチ委員会の報告によると、そこには、国家安全保障問題担当大統領補佐官マクジョージ・バンディ、米州担当国務次官補トーマス・マン、CIA秘密工作本部西半球局長デズモンド・フィッツジェラルド、大統領補佐官ラルフ・ダンガン(後にジョンソンがチリ大使に任命)といった面々が名を連ねていた。サンティアゴにも、大使、大使館首席公使、CIA支局長、大使館の政治・経済部門のトップから構成される同様の組織が作られた。

実際のところ米国政府は、アジェンデのFRAP(人民行動戦線)以外ならどの政党も支持した。ところが1964年春の補欠選挙で保守派の連合である「民主戦線」(保守・自由・急進の3党で1962年10月に結成)が敗北を喫すると、ジョンソン政権はフレイ支持一本に絞った。チャーチ委員会の報告(1975年)によると、フレイ陣営の選挙活動費の半分以上をCIAが負担したとのことだ。また同報告は、CIAによるキリスト教民主党支援は1961年にさかのぼるとしている。この報告を裏付けるかのような興味深いデータがある。フレイが所属するキリスト教民主党は、1958年の大統領選挙でフレイを候補に立て、20.7%の票を獲得していた。ところがキューバ革命後の1961年国会議員選挙で、同党の得票は15%にまで落ち込んだ。同党はその後、米国からの支援を受け始めると、1963年の地方選挙ではチリ最大の野党に成長したのだ。

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実業界からの圧力と対フレイ資金援助

米国実業界の大物たちも、この時期すでにチリの政治に関心を寄せ、米国政府と接触していた。1964年5月に開かれた特別グループのミーティング議事録には、チリ経済に大きな利害関係を持つ米国の実業家たちとの会合(複数回)についてマコーンCIA長官が報告したとの記述が残っている。

マコーンが会合をもった相手には、アナコンダ社(チリの銅を支配していた米国企業)のCEOおよび取締役会会長が含まれていた。彼らアナコンダ社の2名は、アジェンデを自社にとっての脅威として見なしていた。なにしろ前述したように、アジェンデは1930年代からチリの天然資源の問題を提起していたのだ。マコーンはまた、チリの右派新聞『エル・メルクリオ』の所有者であるアグスティン・エドワーズとも会った。エドワーズは、銅山を所有するチリ人だった。マコーンが面会した上記3名はそろって、フレイに対する資金面での援助の必要性をマコーンに訴えた。

これに対してワシントンの特別グループは、アジェンデ当選阻止のための努力を最優先させるとの米国政府の決意をアナコンダ社の取締役会会長に伝えるべしとの決定を下した。さらにこの特別グループは、フレイ陣営に対する約200万ドルの資金供与を計画する任務をCIA西半球局長デズモンド・フィッツジェラルドに与えた。

この程度の金額では済まないことを知っていたCIAは、さらに50万ドルの資金を1964年7月に要求した。ホワイトハウスを代表して諜報活動を統括する任務に当たっていた303委員会(「特別グループ」を再編して発足した秘密委員会)は、この追加支出を即座に承認した。

ここで当然ながら問題になるのが、米国実業界とCIAとの関係である。両者が連携して動いていたことは、1975年のチャーチ委員会の調査によって裏付けられた。その報告書によると、1964年選挙でアジェンデ当選を阻止するために米国政府によって秘密裡に支払われる予定だった150万ドルを自ら提供すると米国実業家グループが申し出たとのことだ。この申し出を米国政府は却下したようだが、民間の資金として説明されたCIA資金が民間実業家経由でキリスト教民主党に渡されたと、その報告書は指摘している。米国実業界の積極性と影響力をうかがい知ることができるだろう。

1964年の大統領選で、フレイ陣営は少なくとも300万ドルをCIAから受け取った。この額は、フレイ陣営が選挙運動で使った額の半分以上にのぼる。この資金援助について米国人に理解しやすく説明するため、チャーチ委員会のカール・インダーファースは次のようなたとえを使った。「CIAが使った300万ドルは、チリの男性、女性、および児童の一人あたりに換算すると30セントほどになる。ここで、どこかの外国政府が1964年の米国大統領選挙で一人あたり同等の額を費やしたとすると、その外国政府は総額で6000万ドルを費やすことになる。1964年の選挙でジョンソンとゴールドウォーターの両陣営が費やした金額は合計で2500万ドルだ。つまり、それよりも3500万ドルも多かったということになる」(当時の人口は、米国が1億9000万、チリが800万)

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CIAによる反共プロパガンダ工作

資金提供以外に、CIAは大々的なプロパガンダ作戦もチリで展開した。その内容も後に(1975年)チャーチ委員会で暴露された。新聞、ラジオ、映画、パンフレット、ポスター、ちらし、ダイレクトメール、新聞の全段抜き見出し、壁絵などが大々的に利用されたとのことだ。それは、ソ連の戦車とキューバの銃殺隊のイメージを大々的に利用した「恐怖植え付け作戦」で、特に女性をターゲットとしていた。アジェンデを鬼として描こうとする作戦である。

歴史学者のマーガレット・パワーは、チリの性別に関する独自の分析の中で、チリの女性は男性に比べて全体的に保守的だったとして次のように説明している。カトリック教会のピラミッド型組織に慣れ親しんでいたチリの女性には、社会主義と平等を説くアジェンデの演説は受け入れにくかった。教会の反共的な姿勢も女性に影響を及ぼしていた。一方で彼女たちには、「お母さん、奥さん、娘さん、いま、皆さんは大きな責任を負っています。家庭の絆のこと、子供たちの将来のこと、子供たちの幸せのことを考えていますか? 皆さんが最も大切にしているものが、いま、危険にさらされています。今こそ選択の時です。民主主義ですか?それともマルクス主義ですか?」(1964年8月5日『エル・メルクリオ』紙上広告)などといった言葉は受け入れやすかったと。民主主義とマルクス主義を対置させることの妥当性について考える心の余裕などは与えない。女性には、冷静な分析よりも感情に訴える言葉の方が効いた。こうして1958年の選挙に続き、今回の1964年選挙でも、女性票の問題がアジェンデを悩ますのだった。

CIAは利用可能なあらゆる手段に打って出た。チャーチ委員会が明らかにしたところでは、プロパガンダ強化期間の第一週(1964年6月の第3週)の間に、CIAの資金援助を受けたあるプロパガンダチームは、サンティアゴと44の地方局で一日あたり20回のラジオ広告を行い、サンティアゴの3つのラジオ局と24の地方局では12分間のニュース番組を毎日5回放送し、何千という風刺画を作成し、有料の新聞広告を多数掲載したとのことだ。

ラジオ番組の中では迫真の演技も行われた。機関銃による発砲の音で番組が中断し、その後に「共産主義者が息子を殺した!」と叫ぶ声が流れ、その後にまた機関銃の音が流れるといった具合だ。チャーチ委員会の報告によると、こうした演技が一日に何十回とオンエアされたとのことだ。1964年5月、こうした卑劣な作戦にアジェンデは上院で抗議した。「共産主義の間違ったイメージを植え付けている」と。

大統領選直前の1964年3月、チリ中部のクリコ州で補欠選挙が行われ、FRAPの候補が勝利した。このクリコ州は全国の縮図のような選挙区だったので、FRAP陣営の多くの者は大喜びし、大統領選での勝利を確信した。しかし、敵の正体を知っていたアジェンデは油断することなく、次のように支持者たちに語った。「右派とその背後にいる者たちがおとなしくしているわけがないのです。我々に対する攻撃を強めるでしょう。今後数日の間に選挙情勢が大きく変わるかもしれないのです」

一方のCIAも、フレイ陣営支援をますます強化した。支援のための資金も次々と増やしていった。同時に、急進党候補に対する資金提供も続けた。その目的は、「左右両側から攻撃されている進歩的穏健政党」というキリスト教民主党のイメージを強化することにあった(チャーチ委員会報告)。

1964年8月14日、ディーン・ラスク国務長官はジョンソン大統領に次のように報告した。「マルクス主義者を自認する者が大統領に選出されるアメリカで最初の国にチリがならないよう、我々は大々的な秘密作戦を展開しています。我々の極秘の作戦には、安定を保つための特別経済援助、秩序維持のための軍および警察に対する援助、フレイ陣営の運動と密に連携をとった政治行動およびプロパガンダが含まれています」。そして3日後に投票を控えた9月1日、NSCミーティングの場でラスク国務長官が次のように述べた。「9月4日のチリ大統領選挙では、非共産勢力が勝利を収めると私は見込んでいます。これは部分的にとは言え、CIAによる見事な仕事の成果です。これはラテンアメリカにおける民主主義の勝利であり、共産勢力にとっては大きな打撃になるでしょう」。そしてCIAは、「我々はフレイが圧倒的過半数で勝利すると確信しています」との予測を出した。

この予測は正しかった。1964年9月4日、フレイは57%の票を獲得して勝利した。アジェンデの得票は38.9%にとどまった。男性票ではアジェンデが勝利していた。1958年と同じく、彼は女性票で負けたのだった。過半数の票を獲得したフレイは、国会での決選投票を経ることなく大統領に就任することになった。過半数での勝利についてCIAは、10年後の1975年、チャーチ委員会の場で「外国からの干渉のおかげだった」と自らの「功績」を認めることになる。

アジェンデ陣営は意気消沈した。社会党と共産党では、「選挙の道」に対する疑問と苛立ちを声にする者が増えた。多くの社会党員がアジェンデから離れ、武力による権力掌握という「正統」へと向かった。キューバ革命の影響もあり、選挙で時間を無駄にしたくないと考える者が増えたのだ。後に彼らは敵陣営のプロパガンダに利用され、アジェンデの足を引っ張ることになる。

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フレイ政権の政策と強まる米国支配

外国からの干渉がなかったらどうなっていたかはともかく、とにかく大統領に選出されたフレイは広範な支持者を抱えていた。アレサンドリに代わる唯一の選択肢として彼を選んだ保守派、民間企業に対する助成金の拠出を迫る中道派、さらには、本格的な変革を要求する左派など、さまざまだった。とはいえ、フレイのキリスト教民主党は考え方のルーツをカトリックの教義に置いており、表向きは階級対立という考え方を否定しながら、実際にはチリの従来の労働組織を敵視していた。フレイ政権はCUT(チリ労働者統一中央組織)に対して冷たい態度をとり、この組織を労働者階級の合法的な機関として認めることを拒んだ。こうしてCUTには法的な地位が一切与えられず、イバニェス時代やアレサンドリ時代と同様、CUTは「de facto」の組織のままにされたのだ。一方でフレイは従来のものに替わる労働組織の成長を奨励し、メーデーには、CUTに対抗することを狙った集会で演説を行ったほどだ。

そんなフレイは、労働者に有利な政策をいくつか実行に移した。そのひとつが農地改革だった。この農地改革により大農場が補償付きで接収され、27,000の農家に土地が分け与えられた。とはいえ、この農地改革は、当時は絶対に欠かせない改革だった。なにしろ、接収対象の大農場が全農業用地の80%以上を占めていたのだ。またフレイは、インフレ率に100%合致させた賃上げも行った。さらに、1965年の税制改革は富裕層をターゲットにしたものだった。国際政治学者のバーバラ・ストーリングズは、この税制改革にはインフレを抑制する効果があったと分析している。政府の歳入が増えたことで、政府支出を紙幣の乱発でまかなう必要がなくなったからだ。

フレイにとって最も火急の問題は、外国企業に支配され続けてきた銅産業だった。彼が自らの支持基盤を固められるかどうかは、彼の「チリ化」政策が成功するかどうかにかかっていた。

当時、チリの主要な銅山は米国企業が所有していた。アナコンダ社およびケネコット社である。前述したようにフレイの「チリ化」政策は、産銅企業の株式の過半数を政府が買い取ることで企業に対する支配権を強化しようとするものだった。しかし交渉の過程でチリ政府は大幅な譲歩を強いられ、米国企業にきわめて有利な内容になった。結局、販売は従来どおり両社の子会社経由で行われ、運営・管理は米国の親会社に支配されることになった。こうして、フレイ政権期に銅生産は2倍に拡大したものの、トン当たりの収益は下落し、米国への送金額はトン当たりでも総額でも上昇した。

実はこの「チリ化」は、ケネコット社の経営陣が提案したものだった。同社は、増産のためにエル・テニエンテ銅山に対する投資を必要としていた。ところが同社としては、自分たちの利益からは出資したくなかった。そこで彼らはチリ政府にアプローチしたのだった。つまり、シナリオを書いたのは所有者の米国企業だった。そのシナリオのもとで、自分たちの不利益になるような取り決めに同意するわけがなかったのだ。

株式の接収に当たって、ケネコット社はチリ政府から8160万ドルを受け取ったが、同社のチリにおける当時の簿価は「全体で」6500万ドルにすぎなかった。これは、同社がチリ政府から税制面で優遇されていた(そしてこれからも優遇される)ことを意味していた。ジャーナリストのシーモア・ハーシュも次のような主旨の指摘を行っている。ケネコットは簿価が非現実的なまでに低いと主張したが、そのような低い評価になった原因は、同社にとって望ましいレベルにまで評価価値を下げ、それによって納税額が少なくなるようにチリ政府が積極的に取り計らっていたことにあると。

アナコンダ社も同様だった。同社も増産をチリ政府に約束したものの、交換条件として税の優遇を要求した。チリ政府は、以後20年間は増税を行わないことを約束することで応えた。こうして、1960年代をとおして米国銅企業の収益は飛躍的に伸びた。アナコンダ社の場合、この期間の総収益は5億ドルにもなる。それに対して、チリ自身が得た恩恵はほんのわずかなもので、銅価格の上昇に直接的に起因するわずかな利益が得られただけだった。結局、銅産業に対する支配権が外国企業の手から離れることはなかった。

当時、ジョンソン政権はベトナム戦争を激化させることで銅に対する需要を増大させていた。ところが米国向けの銅に関しては、チリが少しでも価格を上昇させることを許さなかった。それどころか、特別割引で米国に販売させようとしたのだ。まずはフレイに対し、米国の経済状況が悪化した場合には融資ができなくなるとの脅しをかけた。するとフレイは、「チリはヨーロッパに対しては望みの価格で銅を売っても構わないが、米国に対しては特別割引価格で提供すべし」とする取り決めに同意した。この取り決めに対する褒美は、気前のよい資金援助だった。ほとんど贈り物と言っていいような条件で莫大な資金が米国からチリに流入し始めたのだ。

ジョンソン政権はチリを「進歩のための同盟のショーケース」だと宣言していた。それだけに、失敗すれば次の1970年大統領選でアジェンデに票が流れるのではないかとの懸念があった。そこでジョンソン政権は、経済面でも、軍事面でも、政治面でも、フレイを大々的に援助した。結局、チリは1961年から1970年までの間に、米国政府と国際金融機関から15億ドルを超える信用を供与されることになる。この期間にチリよりも多額の経済支援を受けたのは南ベトナムだけである。米国による対チリ支配は強まる一方だった。

大統領選挙でフレイを当選させた米国は、その後もチリの政治情勢から目を離さなかった。CIAによる隠密活動も続いた。1965年3月には国会議員選挙が控えていた。303委員会のメンバーは、アジェンデ派の連合であるFRAPに対抗する政党の候補であれば誰でも支援するつもりでいた。1965年1月の303委員会の覚書には次のように記されている。「この提案はダンガン(チリ駐在)大使の承認を得ている。大使は対象候補者のリストを見て、彼らの大半に秘密裡に支援を提供すべきとの考えに同意した。残りの候補については検討中だが、大使の承認を得て最終決定が下されるだろう」

この選挙でCIAは17万5千ドルを費やし、CIAが支援した候補者9名が当選を果たす一方で、FRAPの議員13名が落選した。米国からのこうした隠密活動から読み取ることができるのは、フレイを大統領に就任させるだけではジョンソン政権は安心できなかったということだ。フレイが本当に国民の支持を得て勝利したわけではないということを認識していた証拠とも言えよう。

CIAによるプロパガンダも相変わらず続いた。フレイ政権内部と軍内部、それにメディア内部にも工作員を育成した。チャーチ委員会の報告によると、メディアの工作員たちはほぼ毎日、CIAの息のかかった論説を『エル・メルクリオ』紙に掲載したとのことだ。こうしてプロパガンダの仕組みは1960年代に確立されるが、それが1970年の大統領選で大いに活用されることになる。

チリのメディアを利用したCIAのプロパガンダ作戦は、ゲバラの死をも利用した。1967年10月9日にチェ・ゲバラがボリビアで殺害されると、ゲバラのゲリラ部隊は逃げ場を探した。アジェンデの娘ベアトリスを含めチリの一部の社会主義者たちは、彼らを支援するネットワークELN(国民解放軍)を組織していた。アジェンデは同年10月18日、チリ上院にて、ゲバラはむやみに武力闘争を支持したわけではないと、かつてゲバラと直接会ったときの体験を回想しつつ主張した。実際、ゲバラは自身の著書の中で、武力闘争は市民の闘いがもはや不可能になって初めて起こりうると主張している。アジェンデはこの点に言及して、「チリでは大衆運動が実際に権力を握ろうとしている」と語り、チリにおけるゲリラ闘争の可能性を否定した。そしてゲバラのゲリラ部隊が避難場所を求めてチリに向かうと、ELNをはじめとする左派はこれを迎え入れた。これに対しフレイ政権は、治安部隊を動員してゲリラ兵を見つけ出そうとした。

アジェンデは、ゲバラのゲリラ部隊がフレイ政権にとって厄介な問題になると読んでいた。母国に送還するわけにも、支援するわけにもいかないだろうと。そこで上院議長(1966年12月に就任)のアジェンデは、ゲバラの部隊を一時的にチリに避難させることを提案した。最終的にはフランス当局がタヒチからキューバへ送るという計画だった。

この提案を受け、CIAに操られたチリのメディアは大騒ぎした。アジェンデは「ゲリラ議員」と呼ばれ、「上院議長としての地位を乱用している」、果ては「キューバに雇われている」として攻撃された。すでにそれだけ米国から警戒される人物になっていた証拠とも言えよう。

だが、このプロパガンダ作戦はCIAにとって完全に裏目に出た。アジェンデはチリの主要な新聞各紙の編集者を討論会に呼び、4時間にわたって彼らを酷評した。そのときの様子がテレビとラジオで放送され、それをきっかけにアジェンデの人気が爆発したのだ。アジェンデは1968年3月の上院の場でも、自身の立場を明確にした。「ゲリラ運動は、民主主義に参加する権利を無慈悲な独裁が妨害するときに必ず生まれます」と述べてキューバとボリビアのゲリラを擁護すると同時に、自身が暴力を支持しているとの風説に反論したのだ。

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フレイ政権の右傾化と抑圧

前述のように「労働者の味方」を演じようとするフレイだったが、1966年までに、労働者と大統領との間の緊張はアレサンドリ時代を彷彿させるまでに高まっていた。「チリ化」政策も、銅産業の労働者を満足させる結果にはつながらず、労働者たちはストに訴えた。フレイは階級対立という考え方を否定していたが、それと矛盾するかのように、ストに打って出る労働者たちの要求に武力で対処した。1966年3月には、兵士たちが労働組合の会合に突入して発砲し、8名が死亡した。このときフレイは軍を公然と支持し、マルクス主義者がストを指導していると非難した。マルクス主義者なら武力鎮圧に値するとのフレイの理屈は、完全に国民感情から乖離していた。ストの数も組合員の数も、この時期に飛躍的に増大していたのだ。

1967年に入ると、銅の国際価格の下落、干ばつ、巨額の対外債務といった困難にチリ経済は見舞われた。するとフレイの最大の恩人である米国は彼を右へと向かわせ、当初の懐柔的政策と決別させた。フレイはIMFおよび世界銀行の助言に従った。犠牲にされたのは、公営住宅の建設プログラムと農地改革である。インフレ退治という名目のもと、どちらも計画の縮小を余儀なくされ、当初の目標は反故にされた。民間投資こそが経済危機に対する処方箋だと決めつけていたIMF・世界銀行は、民間投資にとって好都合な経済環境を作るため、賃金の抑制をフレイに迫った。フレイはそれに従った。

チリのインフレ率は1967年には30%を超えていた。インフレに最も苦しんだのは、賃金の購買力がインフレによって低下していた労働者階級だった。労働者の間で不満が鬱積し、社会不安が広がった。フレイは、反発を強める労働者階級に対し、それまでになく抑圧的になっていった。1967年11月にアナコンダ社の2つの主要銅山でストが起きると、フレイは軍を出動させた。軍は労働者800名を逮捕した。警察と左派との衝突も頻発した。地方の小作農が不満を表明したときもフレイは軍を出動させた。その他、スラム街の失業者に対しても軍が出動するようになり、1969年3月にはチリ南部の港町プエルト・モントにおける衝突で9名の死者が出た。こうしたフレイの強硬姿勢は事態の改善をもたらさなかった。フレイ政権の最後の2年間で際立ったのは、深刻なインフレを伴う経済状況の悪化だった。

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支持を失うフレイ政権

当時、チリの人口の40%が栄養不良の状態に置かれていた。栄養不良は病気を招く。チフス、肺炎、下痢、はしかなどだ。こうした病気は、医療を受けられない当時のチリ民衆にとっては命に関わる問題だった。栄養不良がチリで広まったのは、チリ人の間における富の分配がひどく偏っていたからだった。シーモア・ハーシュによると、当時、最も富裕な2パーセントがチリ全体の所得の半分近くを受け取る一方で、最も貧しい28.3パーセントが受け取る所得は全体の5%にも満たなかった。それでも政府は改善策をとらなかった。すでに就任当時の公約を放棄していたフレイは、不満をつのらせるばかりの労働者階級の要求に応えようとしなかった。そして1969年3月の国会議員選挙でキリスト教民主党は大敗北を喫し、もはやフレイが国民から見放されている事実が示された。

アジェンデもフレイを見放した。実はアジェンデとフレイは古くからの友人だったのだが、1964年選挙でのアジェンデに対する中傷攻撃は我慢の限界を越えていた。フレイの勝利をアジェンデは「汚い勝利」と呼んだほどだ。さらにこの時期になると、フレイ政権は改革を推進するのではなく改革を阻止するために動いているとアジェンデは批判するようになった。また彼は、キリスト教民主党がチリを「心理的植民地」にしたとも非難した。

アジェンデに代表される左派との衝突が続く中で、フレイ政権は正反対からの攻撃にも直面した。1969年10月、狂信的右翼である陸軍のロベルト・ビオー将軍がタクナ連隊を率いて反乱を起こしたのだ。理由は、フレイ政権による軍事投資が少ないせいで国防が危険にさらされている、というものだった。フレイ政権はこの反乱を即座に鎮圧したものの、この「タクナソ」により、チリの政治的分極化が浮き彫りになった。

フレイ大統領は、右派と左派の両方から見放されていた。実際、1969年3月の国会議員選挙においても、右派と左派が躍進を遂げる中で、キリスト教民主党だけが「ひとり負け」を喫していたのだ。そして翌年の1970年にはフレイに替わる大統領が決まるはずだった。そんな中、ビオーの「タクナソ」反乱は不吉な警告を発していた。軍の無法者に注意せよと。次の大統領が正式に就任する直前、その警告は現実の事件となってチリ国民に衝撃を与えることになる。

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チリ軍部の対米依存

ラテンアメリカ諸国の軍部に対するケネディ政権の支援に関しては前述したとおりだが、フレイ政権期にチリの軍部は対米依存をさらに深めていった。米国は1960年代を通して無償資金援助という形でチリ軍部を支援し続け、チリ軍部の首席後援者としての地位を固めた。当時の米国統合参謀本部は次のように報告している。チリ軍部は米国を除くどの国からも無償援助を受けていない。米国による支援がチリ軍部の近代化の主要な財源になっていると。

米国による対チリ軍部支援は資金面だけではなかった。ラテンアメリカ諸国の将校に対する教育・訓練プログラムはすでに1946年からパナマ運河地帯で行われていたが、ケネディ政権はこれをさらに強化し、米国陸軍米州学校(U.S. Army School of the Americas)と改名した。ラテンアメリカの将校たちに対する教育は、米国内の米軍基地でも行われた。チリに関しては、1960年代に軍部が世代交代し、米国の訓練プログラムの影響が大きくなった。共産主義を主要な脅威とする考え方が導入されたのだ。1950年から1969年までの間に4,000名ほどのチリ人将校が米軍の訓練を受けた。アジェンデ政権が打倒されるまでの7年の間に、こうしたプログラムで約1,100名のチリ人将校が反乱鎮圧活動の訓練を受けた。

さらに米国は軍事援助顧問団(MAAG)をチリに派遣したが、これは、チリにおける唯一の外国軍事派遣団だった。このMAAGの事務局はチリの国防省に設けられたが、その事実が両国の軍部の親密さを如実に表している。ちなみに、著名な米国史家ハワード・ジンによると、1973年のクーデターを機に樹立されたチリ軍事政権の要職に就いた者の6名が、米国陸軍米州学校の卒業生だった。クーデター後、同校の米国人指揮官があるレポーターに次のように語った。「我々は卒業生たちと連絡を取っているし、彼らも我々と連絡を取っている」

とはいえチリに関して言えば、当時は軍事クーデターは米国にとっても「最後の手段」だった。なにしろチリでは、1833年に最初の憲法が施行されて以来、軍は文民政府に対して3度だけ一時的に干渉したにすぎなかった。あくまでも米国は、チリ社会が根底から変革されそうになった場合に備えた保険としてチリ軍部を見なしていた。当時の米国統合参謀本部の報告によると、チリ軍部の最上層の者たちも、この時点では政治的に中立だった。そして、米国にとっての「最後の手段」が必要になったとしても、特定のチリ人将校に実権を握らせるということは、米国統合参謀本部としては考えられなかった。1969年10月、統合参謀本部は報告している。陸海空の三軍から信頼を置かれている軍指導者というものは現在のチリにはいないと。徐々に左派が勢力を伸ばしていく中で、チリ軍部との接触を保ちながら相応の指導者を見つけ出そうとの考えだった。そしてその作戦は遠くない将来に実を結ぶことになる。

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第3章 アジェンデを阻止せよ

1970大統領選

1970年9月4日に予定されている大統領選挙に向けて、チリの左派は活気づいていた。共産党も社会党も、勢力を国民の間に浸透させていた。急進党は左へ舵をとり、広範な連合の一部として権力の座に戻ることを視野に入れていた。マルクス主義を標榜しない急進党を社会党指導部が受け入れるかどうかという問題があったが、アジェンデと共産党は、可能なかぎり広範な連合が必要だと認識していた。

そんな中、各党から候補者が立てられた。共産党は1971年にノーベル文学賞を受賞することになるパブロ・ネルーダを、急進党は党内左派のアルベルト・バルトラを候補に指名した。社会党は例によってもめた。同党指導部(中央委員会)はアジェンデに代わる新顔を望み、総書記のアニセト・ロドリゲスを推した。ところが各地域の委員会は、ひとつの地域を除いて、すべてがアジェンデを支持した。中央委員会ではアジェンデ支持派は少数だった。結局、1969年8月26日に中央委員会で投票が行われたが、多くの委員が棄権したことで、アジェンデを社会党の候補に立てることが決定された。地域の委員会の意向が反映される形になったのだ。

FRAPに代わる「可能なかぎり広範な連合」としての「人民連合」の結成についても、社会党指導部はアジェンデに譲歩した。数か月にわたる協議の末に、1969年12月17日、共産党、社会党、急進党、社会民主党、人民独立行動(API)、人民統一行動運動(MAPU)により「人民連合」(UP)が結成された。綱領についても合意に達した。

この連合は明らかにマルクス主義政党が支配権を握っていたが、左派と中道との広範な連合だったと言える。MAPUは、キリスト教民主党から分裂して結成されたものである。彼らはフレイに幻滅していた。彼らの考えでは、キリスト教民主党政権はブルジョアジーの政府であり、内外の資本家の便宜をはかるばかりで社会変革を本気で考えようとしなかった。そうした姿勢が、経済停滞や生活コストの上昇、それに暴力による民衆の抑圧という悲しむべき事態を招いたと彼らは考えていた。こうした考え方の面で、人民連合と一致する点が大きかったのだ。

問題は、人民連合の統一候補を誰にするかであった。交渉は難航したが、共産党のネルーダが辞退したことで共産党のアジェンデ支持が決まり、それに続いて他の各党もそれぞれの候補を引き下げた。(この点に関して、アジェンデの政治顧問を務めることになるホアン・ガルセスは、当初共産党はMAPUのラファエル・アグスティン・グムシオ(キリスト教民主党の創立者)を統一候補に推したとしている。社会党以外の候補は受け入れられないとの社会党の強硬な姿勢に遭ってアジェンデ支持に同意したとのことだ)。こうしてアジェンデは,1952年、1958年、1964年に続く4度目の大統領選に臨むことになった。今回の彼の対立候補は、キリスト教民主党のラドミーロ・トミックと、前回任期中の失政の雪辱を晴らすべく立候補した国民党のホルヘ・アレサンドリだった。

キリスト教民主党のトミックは、党の分裂から打撃を受けていた。左寄りの彼はフレイとも対立していた。そんなトミックは、大々的な農地改革を公約に掲げることで有権者を惹きつけようとした。しかしアジェンデの人民連合は、それとは比較にならないような徹底的な改革を綱領でうたっていた。人民連合の計画は、灌漑地の面積が80ヘクタールを超える「すべての」大農場を接収して小作農に再分配するというものだった。さらに人民連合は、銀行業界の国有化も公約に掲げた。より積極的な役割を一般民衆が国政で担う社会、生産手段を一般民衆が強力に支配できる社会を展望していた。民間企業がなくなるわけではないものの、アジェンデが勝利すれば権力の大々的なシフトが起こると思われた。それは「社会主義への平和的移行」であり、選挙に基づく合法性を持つだけに、カストロの革命よりも遙かに強力な説得力を持つものだった。

米国の大統領ニクソンと国家安全保障問題担当大統領補佐官キッシンジャーは、当初はチリのこの選挙を楽観的に見ていた。キッシンジャーの頭の中はインドシナのことで一杯だった。また、世論調査でアレンサドリの当選を予測する結果が出たことで満足していた。当時のチリ駐在米国大使だったエドワード・コリーも国務長官に宛てて、「フレイのおかげでチリはほぼ中道にとどまるでしょう。形式的にも方向性においても我々の体制と相性が悪くなることはないと思われます」と報告していた。

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選挙に干渉するニクソン政権

とはいえ、ニクソンは心の底では不安を感じていたはずだ。なにしろ、アジェンデは親しみやすい性格に恵まれ、他の2候補よりも民衆を惹きつけていた。親しみを込めて"El Chico"(「赤味をおびた巻き毛の人」という意味)と呼ばれていたほどだ。チリのいたるところを遊説して回り、労働者とともに働きながら有権者に語りかけていたのだ。

CIAのヘルムズ長官もかねてからホワイトハウスに警告していた。アジェンデ阻止のための行動が必要だと。彼は、グアテマラでの政権転覆工作に参加した経験のあるヘンリー・ヘックシャーをサンティアゴ支局長に任命した。

不安に駆られたニクソンは極秘の「40委員会」(かつての303委員会)を頼りにした。これは、外国での諜報活動を統括する任務にあたる組織で、キッシンジャーが議長を務め、司法長官ジョン・ミッチェル、CIA長官ヘルムズ、統合参謀本部議長、国務副長官、国防副長官がメンバーとして名を連ねていた。この40委員会は、1970年春の時点では軍事クーデターを画策することは考えていなかったと思われる。チリの軍がアジェンデ大統領阻止に向けて動くことなないだろうとCIAが見なしていたからだ。

軍事クーデターを画策する代わりに、40委員会はプロパガンダ作戦の展開を決定した。1970年3月(選挙の半年前)の40委員会の議事録によると、浮動票を人民連合から引き離すための妨害作戦を始めるべきであるという点で国務省とCIAとサンティアゴの大使館が合意に達したとのことだ。こうして1970年3月25日、13万3000ドル(後に39万ドルに膨れあがる)という予算を使った反アジェンデ「壊滅」作戦を40委員会が承認した。これは、1964年にCIAがアジェンデ当選阻止のために仕掛けた数百万ドル規模の作戦の小規模バージョンだった(当時のCIA長官ヘルムズは、この時期では遅すぎると苛立っていたことを自著の中で明かしている)。

CIA工作員たちは、新聞にプロパガンダ記事を載せる、反共主義団体を支援するなど、前回と同様の戦術を採用した。プラハの街中を走るソ連の戦車を描いたポスターを作ってばらまく工作員もいた。プロパガンダを目的とした通信社を開く工作員、人民連合内部の対立を煽る工作員、反アジェンデの本やパンフレットやチラシを作る工作員もいた。勝利者はトミック、アレサンドリのどちらでもよかったので、本当の意味での反アジェンデ・ネガティブ・キャンペーンになった。当時のチリ駐在米国大使エドワード・コリーは後にこう語った。「世界のどこを見ても、あんなにもひどいプロパガンダ作戦は初めてだった。あの"恐怖作戦"を考え出したCIAの馬鹿者どもは即座に解雇すべきだった」

しかし、アジェンデを支持する大衆の声には力があった。結局、米国によるプロパガンダ作戦は無駄に終わった。投票翌日の9月5日の早朝にはアジェンデの勝利が判明した。6年間にわたるキリスト教民主党政権に対する幻滅がアジェンデを後押しした形だった。アジェンデの支持者たちは街にくり出して喜びを表現した。アジェンデは5日未明、サンティアゴで喜びに湧く群衆を前に、こう宣言した。「我々は第二の独立を果たすのです。チリの経済的独立です」

これを苦々しい思いで見ていたニクソン政権は、アジェンデの得票が過半数に達していない点に注目した。彼の36.6%という得票率は、トミックの27.8%、アレサンドリの34.9%という数字と並べると、決して十分な差とは思われなかった。それに、憲法の規定により、過半数の票を獲得する候補がいなかった場合は、首位の候補(アジェンデ)と次点者(アレサンドリ)との決選投票(7週間後)を国会が実施して承認を与える必要があった。その決選投票が行われるのは10月24日である。

ここで注目すべきは、チリの有権者の間における社会主義に対する支持の強さである。トミックは「共同体社会主義」を標榜して社会主義的な政策を提案していた。アジェンデとトミックの得票率を合算すると65%近くになる。それだけ多くの有権者が社会主義的な政策に期待していたのだ。それも、外国による干渉とプロパガンダ工作があったにもかかわらず、である。

過去の決選投票では、一般投票で最も得票率の高かった候補者をチリ国会は選んでおり、今回もそうなると考えられた。ところが、それを受け入れられない人物がチリにいた。チリで最も富裕な人物でチリ最大の右派新聞『エル・メルクリオ』の所有者アグスティン・エドワーズである。彼はサンティアゴの米国大使館へ行き、エドワード・コリー大使に無愛想に質問をぶつけた。

「米国は何か軍事的な行動を起こすかねえ、直接的にせよ間接的にせよ?」

「いいえ」とコリーは素っ気なく答えた。これは、エドワーズが期待していた答ではなかった。彼は、コリーを無視してもっと有力なワシントンの高官に訴えることにした。米国政府機関が国外で秘密作戦を展開するには大統領の命令が必要だということを知っていた彼は、その命令を引き出すための仲介役として、米国の有力な実業家を選んだ。

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ニクソン、アジェンデ阻止を命令

チリの大統領選におけるアジェンデの勝利を見てまっさきに動いた米国人は、例によって米国実業界の大物だった。チリの大統領選から10日後の9月14日、ペプシコの最高経営責任者ドナルド・ケンドールがアグスティン・エドワーズとともにニクソンと面会し、反アジェンデ活動の必要性を訴えた。反アジェンデの急先鋒だったエドワーズはアジェンデの勝利を受けてチリからワシントンへ飛んできて、アジェンデが大統領に就任した場合の危険性についてケンドールに警告していたのだ。チリが共産主義者に支配されようとしていると。

ケンドールとエドワーズの二人は翌15日の朝にはキッシンジャーおよび司法長官ジョン・ミッチェルと面会し、「アジェンデは米国企業にとって脅威である」旨のことを告げた。アジェンデの大統領就任を許せば、彼はチリの経済を国有化し、米国企業を追放し、チリをソ連・キューバ圏へと導くだろうと語ったのだ。その後二人はCIA長官ヘルムズとも面会し、アジェンデが国会で大統領として承認されることを阻止するよう求めた。

ケンドールがニクソン政権のメンバーと容易に面会して圧力をかけることができたのには理由があった。実はケンドールは、ニクソンの選挙運動に惜しげなく資金を注いでいたのだ。それだけでなく、ケンドールのペプシコは、ニクソンが1960年代に政治活動から離れている間、彼の法律事務所のクライアントだった。というわけで、ケンドールとニクソンとは仕事の上で密接な関係にあったのだ。

ケンドールがアジェンデ阻止を望んだのは、経済上の理由からだった。チリにあるペプシコの瓶詰め工場を社会主義政権による接収で失うことを懸念していたのだ。また彼は、アジェンデが他のラテンアメリカ諸国ひいては全世界に模範として示すものも恐れた。ペプシコ社はソフトドリンクだけでなく食料品やスポーツ用品なども手広く生産しており、しかもそのかなりの部分が国外での操業によるものだった。それだけに、世界的な社会主義のうねりはケンドールにとって心配の種だった。

ケンドールおよびエドワーズの懸念はニクソンの共感を呼んだ。ニクソンは二人の懸念に即座に反応し、その日(9月15日)の午後、ヘルムズ、ミッチェル、キッシンジャーをオーバルオフィスに招集してミーティングを開いた。午後3時25分から3時40分までの、たった15分だけのミーティングだった。そのミーティングでヘルムズが書き留めたメモが残っている。次のようなものだ。

成功の可能性は十に一つ だが、チリを救え
出費の価値あり
これに伴う危険の懸念は不要
大使館は無関係
1000万ドル使える 必要ならもっと
専任の仕事 最高の人材を使う
作戦の計画
経済に悲鳴をあげさせる
行動計画を48時間で

ニクソンが部下に伝えたのは、法の枠を超えた手段に訴えることで、チリという外国の地で実施された民主的な自由選挙の結果を踏みにじろうとの考えだった。こうして9月15日、つまりケンドールとエドワーズがキッシンジャー、ミッチェル、ヘルムズと面会したその当日に、ニクソンはアジェンデ就任阻止の命令を下したのだった。

このときのミーティングの内容は、録音テープとしても文書としても記録が残されていない。その場に居合わせた数名による証言はあるものの、当事者としての「思わぬ」筆記証拠として、ヘルムズCIA長官は長く歴史に残るであろうメモを残したのだった。後に彼は、このミーティングのことをチャーチ委員会の場で次のように証言することになる。「大統領は、何かをしなければならない、その手段は大して気にしない、そして資金を調達する準備はできていると、断固とした態度で表明しました。それは、なんでもありの命令でした。(中略)私は、あまりいい気持ちになれませんでした。実現の可能性が全く見えないからです。つまり、軍部は憲法に忠実ですし、、、(ニクソンが)やれと言う時間の枠の中では、ほとんど考えられませんでした」

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選挙前から検討されていた軍事クーデター

前述したように、1970年春の段階では40委員会は軍事クーデターのことは考えていなかった。だがその後、米国政府高官の間で徐々に危機感が高まっていったようだ。というのも、8月には反アジェンデの軍事クーデターの可能性をニクソン政権は検討していたのだ。

8月5日、ジョン・クリミンス国務次官補がコリー大使に対して、「チリの軍と警察がアジェンデ転覆の行動を起こす見込み」、「軍と警察のどの要素が転覆を試みる可能性があるのか」、「軍と警察がアジェンデ阻止もしくは転覆で成功する見込み」、それに「そうした作戦が成功した場合の米国の姿勢の重要性」について問い合わせる内容の公電を打った。これに対してコリー大使は、8月11日にきわめて詳細な分析結果を返信した。アジェンデ阻止の秘密作戦で有望と思われる主要人物を挙げ、9月4日(一般投票の日)から10月24日(決選投票の日)までの間で軍事クーデターが可能な時期を挙げ、シュナイダー陸軍総司令官の立憲主義が邪魔である旨を伝え、最も動きそうな人物としてビオー(1969年10月に「タクナソ」反乱を起こして退役させられていた軍人)の名前を挙げているのだ。

ちょうどそのころ、CIAと国務省とペンタゴンも、アジェンデ当選が何を意味するのかを検討していた。そして8月中旬のNSSM(国家安全保障検討覚書)97は詳細な検討を行った上で、「世界の軍事的均衡がアジェンデ政権の誕生によって大きく変わることはない」、「アジェンデが選出されても米国の安全と安定に対する軍事的・戦略的・地域的脅威にはならない」との結論を下した。しかし、このNSSM 97には極秘のCIA補足文書が添付されており、そこには、「軍事クーデターを助長するのなら米国の役割が表に出ないようにすべし」、「米国がチリのクーデターにうまく関与できれば、アジェンデ政権誕生の可能性は永久になくなる」、その一方で、「成功する可能性は評価できない。失敗すればおそらく米国の関与が暴露され、チリとの関係が悪化するだろう」といった記述が見られる。結局、クーデターを画策するのは危険だから控えるのが賢明だということなのだろうが、その可能性を検討していたことは事実である。

とりわけ、キッシンジャーとヘルムズは軍事クーデターに積極的だった。1970年9月8日、つまり一般選挙でアジェンデが勝利を収めた4日後のこと(そしてニクソンがアジェンデ阻止を命令する一週間前)、秘密作戦を統括する任務を負う40委員会のミーティングが開かれた。その席上でヘルムズCIA長官は「(チリ軍部は歴史的に政治に関与しないので)成功の保証はないが、反アジェンデの軍事クーデターは早めにやらないと成功の見込みが小さくなる」と主張した。キッシンジャーは「いったんアジェンデが大統領に就任すれば、反アジェンデ勢力を組織できる者がいなくなる」として、「チリ軍事クーデターを米国の支援で画策した場合の良い点と悪い点と見込みを冷静に評価せよ」との指示を出した。少なくとも、軍事クーデターを望んでいたことは確かだ。

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アジェンデ阻止の真の動機

チリの法律では、選挙から7週間をおいて国会が大統領を承認することになっていた。というわけで、チリ国会での決選投票は一般投票の50日後、つまり10月24日に設定された。したがって、9月15日にヘルムズに下されたニクソン命令を実行するための猶予期間は38日だけだった。翌16日、ヘルムズ長官はCIAの秘密工作部門の幹部たちとの会合の中で次のように告げた。「大統領は、チリにおけるアジェンデ政権の成立は米国にとって受け入れられるものではないとの決定を下し、アジェンデが権力の座に就くのを阻止するか退位させるようCIAに要請した」、そして、これは滅多にないことだが、「国務省や国防総省と連携を取ることなくCIAが単独でこの任務を遂行することになる」と。この秘密工作を統括してキッシンジャーに報告する任務は、CIA秘密工作本部長トマス・カラメシンズに与えられた。こうしてキッシンジャーとヘルムズは厳しい締切りが迫る中、半狂乱でアジェンデ阻止に取り組むことになるのだった。

彼らが最初に試みたのは、キリスト教民主党の議員を買収することだった。そのことをニクソンは否定していない。彼は回顧録の中で、1962年と1964年のチリでの選挙でケネディおよびジョンソン大統領が400万ドル近くをCIAに認可していた事実を持ち出すことによって自己を正当化した上で、アジェンデの対抗勢力を支援すべくCIAに指示を出した事実を認めている。その口実として彼が持ち出した理屈は、チリの有権者のほぼ2/3がアジェンデを拒否したから、というものだった。このように論理を展開したニクソン自身、1968年の大統領選挙では43.2%という得票率で辛うじて勝利を収めていたのだが。57%から拒否された自分にも他国の選挙に干渉する資格があると考えていたようだ。おまけに、彼が勝たせようと目論んだアレサンドリもアジェンデと同様、チリの有権者のほぼ2/3から拒否されていたのだ。こんなにも恥ずかしい自己矛盾を自著の中で曝け出してしまったニクソンは、あの世で顔を赤くしているだろうか?

ニクソンはまた、自己を正当化するために共産圏の存在も利用した。人民連合が共産圏から惜しみない支援を受けている、その支援が米国の安全保障を脅かしていると、なんら具体的な証拠を挙げることもなく主張したのだ。

キッシンジャーはキッシンジャーで、後に(1979年)『White House Years』の中で、チリからキューバ、そしてソ連へというお決まりの論理を披露している。チリはまもなく反米的な政策をとり、西半球の結束を乱し、キューバと連携し、そしていずれはソ連と親密な関係を築くようになる、そのように自分たちは確信していたと。ただし、あくまでも一般公開を前提に書かれた著作である。これが彼の本心だったかどうか、また、キューバおよびソ連の側の意向がどうだったのかは別問題である。とはいえ、ソ連の脅威を刷り込まれていた一般米国民向けにはある程度の説得力を持っていたことは確かだろう。

ニクソンの回顧録が読者に与える印象とは裏腹に、彼の会話記録は、米国を反アジェンデに駆り立てたのは国家の安全保障に対する懸念ではなかったことを裏付けている。1971年6月のキッシンジャーとの会話の中で、ラテンアメリカをソ連が征服するという考えをニクソンは一蹴している。彼が本当に懸念していたのは、米国支配からの解放を求めてもがく他のラテンアメリカ諸国に対してアジェンデが示すであろう悪しき模範だった。彼はこう言っている。「もちろん知ってるさ、俺たちが引き揚げれば、あそこでの影響力を失うっていう主張だろ? ロシアの野郎どもが入ってくるとかなんとか言ってるなあ。けど事実はなあ、はっきり言って、奴(アジェンデ)が俺たちをあそこに巻き込もうとしてるってことなんだ。それと、奴を丁重に扱うと、他の奴らも調子に乗って同じことを始める。俺はそっちの方を心配してるんだよ」

CIAはどうかと言うと、アジェンデが大統領に就任しても、ソ連とチリの関係が著しく親密になることはないと分析していた。1969年1月のCIA「国家情報評価」には、次のような主旨の記述がある。一般大衆の間でも議会でも各政党内においてもナショナリズム感情が強いことをチリ政府は認識している。そのナショナリズムは、ワシントンへの従属と考えられるものすべてに対する反感に劣らぬ強さで、モスクワ(またはハバナ)への従属に対しても反感を抱いているとの分析だ。その1年半後、チリ大統領選挙の1か月ほど前の1970年7月30日のCIA「国家情報評価」は、東西の対立にからむ重要な問題が起きた場合にアジェンデ政権は米国の国益に反する立場あるいは中立的な立場をとるだろうと分析している。アジェンデに対する評価が以前よりも否定的になっているものの、ソ連とチリが同盟を結ぶなどとは予測していない。

ニクソンは、アジェンデがラテンアメリカ諸国に対してナショナリズムの模範を示すことを恐れた。アジェンデの就任はなんとしても阻止しなければならなかった。アジェンデ対アレサンドリの決選投票の日は迫りつつあったが、キリスト教民主党の国会議員を金の力で買収しようとの作戦は効果をあげていなかった。ニクソン政権としては、元大統領のホルヘ・アレサンドリ(国民党)に投票するようキリスト教民主党議員を金の力で説得し、選出されたアレサンドリが辞任してフレイが大統領に就任するという筋書きを望んでいた。こうした作戦を考えたのは、チリでは二期連続して大統領を務めることができないからだ(現職はキリスト教民主党のフレイ)。最終的にフレイが大統領に就任するという筋書きならキリスト教民主党の議員を説得できると考えたのだろう。しかし、ニクソン政権はチリの国会議員を、チリの民主主義をなめていた。両国の建国以来の政治倫理観の相違を考えれば当然のことかもしれないが。

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米国の謀略その壱「トラックI」:議員買収からフレイ認可のクーデターへ

アジェンデ阻止の命令をニクソンが出して以来、CIAの反アジェンデの謀略は2つの秘密作戦に枝分かれしていた。その内容は、9月18日の午前8時30分、つまりニクソン命令から2日と少しという時期に、ヘルムズCIA長官が40委員会の場で概要説明した。

第一の作戦は「トラックI」と呼ばれるもので、すでに述べたように、アジェンデ阻止を目的としてチリ議会での投票に干渉しようとするものだった。表向きは合法的な手段である。この謀略にはコリー大使が深く関与しており、決選投票になった場合に備えて、チリ国会議員を買収するための緊急資金割り当てを1970年6月18日にコリー大使が提案したことに始まる。そして9月14日には25万ドルをコリーが使うことを40委員会が認可していた。

ところが、この買収計画は途中で中止になった。決戦投票でアレサンドリが勝利する見込みが薄いということと、ばれる可能性があり危険すぎるというのが、中止の大きな理由だった。9月21日、CIA本部はサンティアゴ支局に宛てて次のような公電を打った。「議会の買収はとりやめになった。今やねらいは軍事的解決にある」

その後トラックIは、大使館とCIAによる指揮のもと、「フレイ認可の軍事クーデター」とも言える陰謀に姿を変えた。つまり、まずは現職のフレイ大統領が内閣の退陣を命令し、軍人だけから構成される新内閣を発足させ、その後、フレイが大統領代理を任命してチリを出国する、こうしてチリが実質的に軍の支配下に置かれる、という筋書きだった。ところがこの計画には、フレイが消極的という問題があった。チリにおける秘密工作を統括する任務に当たっていたCIAのデヴィッド・アトリー・フィリップスは9月21日、次のような公電をサンティアゴ支局宛に打っている。「第一の根本的課題は、フレイを説得すること。望ましい結果を生む行動をとるよう説得すること」

ちなみにフィリップスは、グアテマラでの政権転覆作戦にも参加したことがあり、プロパガンダ工作に関してはCIA随一の手腕の持ち主だった。そんなフィリップスは、国会議員を買収するという計画には当初から期待していなかったようだ。後にチャーチ委員会の場で(1975年)彼は次のように証言する。「私のように、チリに住んだことがあってチリ人というものを知っている者なら誰でも、チリの上院議員一人をなんとか買収できても、二人となると無理だということくらいは分かります。ましてや三人となると見込みはゼロです。暴露されるだけですよ。彼らは民主主義者でしたから、ずっと前から」

というわけで、現職大統領フレイを騙すためのプロパガンダ作戦が始まった。それは、世界中の新聞に偽の記事を掲載し、それをフレイに見せるという邪悪きわまりない作戦だった。その偽の記事は、「共産主義者たちは、アジェンデ就任後にフレイを一人物としても政治指導者としても殺すことを計画している」という内容のものだった。また、他のラテンアメリカ諸国の偽の婦人団体からフレイ夫人に宛てて偽の電報を打つという作戦も実行した。その電報は、「ラテンアメリカを共産主義の恐怖から救ってください」と懇願する内容のものだった。

CIAからの圧力を受けていたフレイは、米国政府は断固としてアジェンデ阻止で動くということを知っていた。クーデターの計画が進行中であることも知っていた。だが彼は沈黙を続けた。このころのフレイの心境は複雑に揺れていたようだ。1970年9月29日付のITT(国際電信電話会社)の社内覚書には、次のような主旨の記述がある。フレイはラテンアメリカの民主主義のチャンピオンとしての自身のイメージを傷つけまいとして、どっちつかずの姿勢を続けていると。たとえば、クーデターに加担する意思がフレイにある証拠として、アジェンデはクーデターで追放されるかもしれないととフレイが閣僚たちにもらしていると同覚書は指摘している。その一方で軍部に対しては、自分はクーデターには絶対に反対だとフレイが言っていると指摘しているのだ。

フレイの不思議物語は他にもいろいろと出てくる。1970年9月21日、米国のコリー大使は、現職大統領フレイの代理人としてのチリ国防相に会ったとき、次のように言って脅した。「アジェンデ政権下では、ナットもボルトも一つとしてチリに入るのを許さない。あらゆる手段を使ってチリとチリ人を最低の貧困状態に陥れてやる。これは共産主義チリの悪い面を早く浮き彫りにするために考えられた長期政策だ。したがって、チリの全面的貧困や絶対的衰退とは別の道があるとフレイが考えているとするなら、それは大間違いだ」。9月21日と言えば、トラックIが議員買収から「フレイ認可の軍事クーデター」へと姿を変えた時期である。コリーとしては、なんとかしてフレイを動かそうと考えてこう言ったのかもしれない。だが、このメッセージの受け手であるフレイは何ら反応を示さなかった。この点について、後にアジェンデの政治顧問を務めることになるホアン・ガルセスは、一国の統治者として「どういう自尊心の持ち主なのか?」と、自著の中で暗にフレイを非難している。このときのフレイは、統治者としての自尊心ではなく「民主主義のチャンピオン」としてのくだらない自尊心によってがんじがらめになっていたのかもしれない。

フレイとアジェンデとの関係についても、興味深いエピソードが残っている。二人は古くからの友人だった。その二人が、1970年大統領選挙の3日後(9月7日)にモネダ宮(大統領官邸)で会って話をした。そのとき、選挙で勝利したばかりのアジェンデは大統領の椅子に座って「心配すんなよ。76年には(大統領の座を)返してやるから」と言ってフレイを元気づけようとした。そのときフレイは、政権移管チームを作っているところだとアジェンデに告げたが、それは全くの嘘だった。実際、アジェンデが正式就任してモネダ宮に入ったとき、中は全くの空だった。電話の内線一覧さえも残していなかったのだ。

その後の二回目の会談で、フレイはアジェンデにこう言った。「私は共産主義者がいる政権は支持しない」と。自身の任期中に自身の失政のせいで自身の政党を分裂・失墜させてしまったフレイの嫉みから来る言動だったのだろうか? クーデターの計画が進行中であることを知っていながらアジェンデに警告しなかったのも、同じ理由からだろうか? あるいは、アジェンデの旧友だったからCIAからの圧力に抵抗したのだろうか? あるいは、自身のイメージが汚されるのを避けたかっただけなのだろうか?

アジェンデの政治顧問を務めていたホアン・ガルセスは自著の中で、フレイが任期満了間近に軍事クーデターを引き起こそうとしたことを示唆している。1970年10月26日、故シュナイダー将軍(陸軍総司令官だったが決選投票直前に銃撃されて25日に死亡)の葬儀の後、現職大統領フレイと次期大統領アジェンデがモネダ宮にてシュナイダーの後任について話し合った。「誰か望みの者はいるのか」とフレイが尋ねると、アジェンデは「シュナイダーのすぐ下のランクの者は誰か」と尋ねた。フレイが「カルロス・プラッツだ」と答えると、アジェンデは「じゃあプラッツで行こう」と言った。そのとき、フレイが奇妙なことをアジェンデに提案した。社会党派の1名を除く陸軍の将軍全員(21名)を退役させたらどうかというのだ。そのようなことをすれば軍を刺激して蜂起に駆り立てることになるのは明らかだろう。とはいえ、それはフレイはじめキリスト教民主党右派や国民党や米国政府にとって都合のいいことに違いはない。ガルセスによると、アジェンデは「フレイの提案に乗っていたら自分が大統領に就任することはなかっただろう」と繰り返しこぼしていたとのことだ。つまりフレイは、「フレイ認可の軍事クーデター」には抵抗し、その一方では自身が関与しない方法でクーデターを引き起こそうと企んでいたことになる。

さらにフレイは、アジェンデが大統領に就任してからも、彼の政権が打倒されることを望んでいた。1971年12月10日、フレイはITTの副会長J・W・ギュイフォイルと会談し、その席で、アジェンデ政権打倒のための選挙資金援助を要請している。彼自身のキリスト教民主党だけでなく、チリの野党全体を対象とした資金援助である。やはり彼はアジェンデ打倒を望んでいたようだ。

こうしたフレイの不可思議な言動の理由を解くヒントになりそうなCIA報告がひとつある。1971年11月、CIAサンティアゴ支局はワシントンに宛てて次のように報告している。「エドゥアルド・フレイは軍の介入の可能性については見解の表明を控えている。その理由として彼は、チリ軍部の伝統的歴史的役割を挙げているが、より重要な理由として、他の南米諸国の軍人と違ってチリの軍人は政治を担当する訓練も教育も受けていない、そしてそれをチリ軍部自体がよく知っているという事実も挙げている」。この点に関連してガルセスは、チリの政治状況とアジェンデの人となりをフレイはよく理解していたと自著の中で示唆している。以上のことを勘案すると、フレイは、チリ軍部はクーデターなどやらない、やったとしても成功しないと考えていたのかもしれない。だからCIAから突っつかれても反応しなかった。アジェンデをそそのかして軍に蜂起させようとしたのは、旧友として熟知していたアジェンデがそんな馬鹿げたことをするわけがないと理解した上でのことだったのかもしれない。だが彼はアジェンデ政権期に軍事クーデターを支持するようになる。軍が自分に権力の座を渡すものと信じ込んでいたのだ。そして皮肉なことに、彼自身が後押しした軍事クーデターにより成立したピノチェト独裁政権がチリを支配していた1982年、そのピノチェト独裁を批判した自尊心高き不思議ちゃんフレイは、自身の権力欲を満たせないまま毒殺されることになる。

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米国の謀略その弐「トラックII」:軍主導の暴力クーデター

CIAの第二の作戦は「トラックII」と呼ばれるもので、アジェンデの就任を阻止するための軍事クーデターである。フレイの参加を必要としない点、そして、暴力クーデターを指揮するチリ人将校を見つけ出す必要がある点が、トラックIとの主な相違点である。指揮者に関しては、CIAサンティアゴ支局は、1969年にタクナ反乱を率いて退役させられていた軍人ロベルト・ビオーに当初から目をつけていたようだ。1970年8月23日付のCIA覚書には、「ロベルト・ビオー将軍を見落とすわけにはいかない」と記されている。CIAは他にも何名かの将校に目を付けていたのだが、サンティアゴ支局は「武力でアジェンデに反対する全国的に有名な唯一の指導者」としてビオーを有力視した。

ニクソン政権はチリ軍内部との協力関係の強化も図った。CIAサンティアゴ支局長は、ニクソンがアジェンデ阻止の命令を下すよりも前からチリ軍部の厳選メンバーと接触していたのだが、当時はチリ軍内部のCIA協力者は2名だけだった。そこでCIAは、米国国防情報局(DIA)のチリ大使館付き武官ポール・ワイマート大佐の協力を得ることにした。ワイマートは、クーデターに参加しそうなチリ軍内部の者たちと親密な関係にあったからだ。DIAのジェイミー・フィルポットは、ワイマートに宛てた9月29日の公電の中でこう指示している。「CIA支局長と協力して動くように。アジェンデの大統領職を否定する動きで決定的な役割を演じそうな軍の人物と接触して助言せよ。大使には言うな」

さらにCIAは、特別工作員4名からなる精鋭部隊を送り込んだ。彼らは、偽造パスポートを利用した「偽旗」の工作員で、スペイン語圏のラテンアメリカ人を装っていた。米国の関与が暴露されるのを防止するためで、彼らはコロンビア人の実業家やアルゼンチン人の密輸業者などに成りすましていた。9月末から10月にかけて、彼らはチリ軍部およびチリ警察当局者と20回ほど接触を持ち、「君らが反アジェンデで行動しないと米国は軍事支援をやめるつもりだ」、「米国はクーデターを望んでいるし、積極的に支援する」とのメッセージを伝えた。

1970年10月7日には、キッシンジャーからコリー大使に宛てて、「アジェンデが選出されれば、軍事援助プログラムなど米国からのさらなる支援を期待できなくなるという点について、チリ軍部に周知徹底せよ」という主旨の公電が打たれている。つまり、米国政府を満足させるような行動を起こせばチリ軍部への支援は気前よく続くぞということだが、これも効果がなかった。CIAは「チリ軍部は反アジェンデの方向に動くことを渋ったままです。チリへの軍事支援の削減を米国政府が考えていること、そして、軍の最上層部の地位を保証するものは何もないことを彼らは理解しているのですが」と報告している。実際のところ、チリの軍部には、反アジェンデの行動を起こす口実も理由もなかった。チリ国民の大多数は、選挙結果を穏やかに受け入れていたのだ。CIAサンティアゴ支局は9月29日、こう報告している。「軍が動く理由は何もない。国中が完全に静か」

チリの軍部には、動く理由がないだけでなく、動かない理由もあった。文民統治に対するチリ軍部の尊重の念である。とりわけ陸軍総司令官のレネ・シュナイダー将軍(前出の「タクナソ」反乱を受けて1969年にフレイが陸軍総司令官に任命していた)は厳格な立憲主義者として有名で、9月4日の一般投票が行われる前から、有権者と議会による決定を受け入れると宣言していたのだ。こうした陸軍総司令官は、当然のことながら米国が画策する謀略にとっての障害物になる。結果的に彼は、決選投票の直前に命を奪われることになる。

このころ、キッシンジャーは40委員会の席でこう発言していた。「民衆の無責任さ故にマルクス主義へと向かう国をじっと見ていなければならない理由が私には分からない」と。「じっと見ている理由が分からない」のなら暴力で他国に干渉しても構わないとするのなら、その論理はまさに幼稚園児レベルだろう。マルクス主義に向かうのは民衆が無責任だからと決めつける単細胞的思考回路もどうかと思うが。

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経済に悲鳴をあげさせろ

動かないチリ軍部に我慢ならなかったCIAは、静けさから大混乱への転換に乗り出した。クーデターの気運を作り出すためである。社会的・経済的危機と大混乱を引き起こすことによって、フレイあるいは軍が行動を起こすための口実を作ろうとの作戦だ。

とはいえ、一般選挙が終わったこの時期、「トラックII」の計画に対して憂慮の念を抱く者も少なくなかった。一般選挙でのアジェンデ勝利を阻止すべく秘密作戦を積極的に展開したCIAサンティアゴ支局長のヘンリー・ヘックシャーも、選挙が終わったとなれば「合憲的プロセスに対して何らかの種類の介入を行うのが望ましいとは考えていません」と報告している。あるCIA職員は、アジェンデがモスクワもしくはハバナから指令を受けているとは考えにくいこと、そして、反アジェンデの策謀を実行すれば「フィデル・カストロをソ連陣営へ向かわせるという1959年と1960年の過ちを繰り返す」ことになるだろうと、覚書に記している。米州担当国務次官補チャールズ・A・マイヤーは、反アジェンデの秘密工作を行えば「ラテンアメリカにおける米国のイメージはさらに悪化するだろう」との予測を表明した。

一方、CIAに新設されたチリ対策本部の共同部長に就任したデイヴィッド・アトリー・リリップスとウィリアム・ブロー西半球局長は、クーデターによるアジェンデ打倒を渇望していた。あるCIA職員によると、この二名はホワイトハウスからの「絶え間ない圧力」のもとで、ほとんど一時間ごとにCIAサンティアゴ支局と連絡を取っていたとのことだ。

そんな二人は、9月28日、クーデターを煽るための秘密計画について説明する公電をサンティアゴ支局に宛てて打った。その中で二人は、クーデターの気運を作り出す鍵は「経済戦争」と「政治戦争」と「心理戦争」の3点にあるとし、次のように指示した。「アジェンデ選出はチリ、ラテンアメリカ、そして世界にとって最悪の事態であるという感覚をチリ内外で醸成すること。(中略)軍事クーデターが唯一の答であるという不可避の結論を導くこと。(中略)鍵はチリ国内での心理戦にあり。チリ国内での抵抗を引き起こすため、支局は、どれほど奇抜なものであれ、あらゆる戦略、あらゆる策略を用いるべし。プロパガンダ戦をもっと賢明に、もっと挑発的に展開すべし。(中略)共産主義者どもが反応を起こさざるを得なくなるまで、公開の挑発的集会を、もっと大規模に集中的に開催すべし。(中略)前述の3つの戦いを通して緊張を高めることに成功すれば、口実はほぼ確実に姿を現す」

これに対し、ヘックシャー支局長は次のような返信を打った。「チリを大混乱に陥れろとの主旨と理解しました。大混乱を招くための方策を用意していますが、それは無血では済まないでしょう」。チリに対する選挙後の干渉に消極的だったヘックシャーも、こうして本部の作戦に巻き込まれて行くのだった。

ニクソンは9月15日の命令で「経済に悲鳴をあげさせろ」と指示したが、当初から経済的圧力は重要な要素として見なされていた。10月初頭にヘルムズCIA長官がキッシンジャーに宛てて打った特別公電は次のように指摘している。「突然の破滅的経済状況が、軍が動くための最も合理的な口実になるでしょう。フレイ(現職大統領)が行動する気になるような緊迫した雰囲気を作る唯一の実際的方法は、選挙のときから不安定になっている経済を劇的に悪化させることです」

経済戦争の面ではコリー大使が積極的に動いた。彼は9月24日の公電の中で、チリの経済を停滞させるための数多くのアイデアと提案をワシントンに伝えた。対チリ信用の更新を停止するよう米国の銀行に要請する、予備部品の納入に関して、チリの米国企業に可能なかぎり納入を遅らせる、あるいは注文を留保させる、主要な米国企業にチリでの操業閉鎖を公表させる、アジェンデ政権は技術者と経営者がチリから出られないようにするだろうとのデマを広めて今のうちに人材の大量流出を引き起こす、などなどだ。

ニクソン政権は、チリ経済を不安定にすることを狙った措置を次々と講じた。米国輸出入銀行は、保留中にしていた対チリ融資をさらに先送りにした。米州開発銀行の新規融資もすべて先送りになった。バンク・オブ・アメリカは、与信枠の拡大を制限することに同意した。ITT(国際電信電話会社)の役員とは、他の米国企業に対してチリでの操業を制限するよう圧力をかける計画が練られていた。これらの措置は10月10日付のコリー大使宛て公電の中で報告されている。つまり、ニクソン命令が下されて一か月もたたないうちに、これらの措置が取られたのだ。

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軍を動かせ、内戦になってもかまわない

経済戦争に加えて政治戦争も加速した。CIAは、自身の支配下にある組織と協力者を活用したプロパガンダ作戦を展開した。反アジェンデ集会やアジェンデに否定的なメディア(とりわけ右派の有力な新聞『エル・メルクリオ』)に資金提供し、アジェンデを悪く描くような声明を政界や民間の指導的立場にある者たちに出させた。CIAが所有あるいは支援する新聞やラジオ局やテレビ局が大々的に利用された。

CIAによるプロパガンダ工作の舞台は、チリに限らなかった。特に『タイム』誌の10月19日号は強烈だった。表紙はほとんど全面真っ赤。表紙全体にわたって薄く横顔が透けるように見える。右下隅には正面を向いて右腕を上げているポーズ。どちらもどこかスターリンあるいはヒトラーを連想させる。「米州にマルクス主義の脅威」との見出しが帯状に書かれている。同誌はこの号の特集記事の中で、CIAがでっち上げたストーリーをそのまま掲載し、「アジェンデが勝利者として認められれば、チリでは長い期間にわたって自由選挙が行われないことになるだろう」とする論説を載せた。この記事は、デヴィッド・アトリー・フィリップスが記者たちに金を渡して書かせたものだった。CIAの内部文書には次のように記されている。「特に注目に値するのは『タイム』誌の特集記事である。その記事の大部分は、CIAが提供した資料と報告に基づいて書かれている」

CIAの報告によると、各種メディアを利用したプロパガンダ工作は、他のラテンアメリカ諸国やヨーロッパでも展開された。『エル・メルクリオ』の特派員が派遣され、CIAが捏造した情報を新聞やラジオや論文などで発表したのだ。その数は6週間で700本以上にのぼった。

CIAは「ブラック・プロパガンダ」作戦も展開した。アジェンデの計画に関する偽の情報を各種メディアや軍部に出所不明の形で流し込んだのだ。具体例を挙げると、サンティアゴ支局は10月の初頭、「チリの諜報機関がソ連・キューバ型に再編成されて警察国家の構造が作られる」との偽の情報を流布するよう指示を受けた。10月7日にサンティアゴ支局に宛てて打たれた公電の中では、アジェンデ支持派を挑発するような「テロ」("terrorist")活動を煽ることも検討せよとの指示まで出されている。

機密解除されたCIA文書には、クーデターの気運を作り出す活動の中にテロ行為も含まれていたことを証拠立てる情報が存分に含まれている。CIAは、ファシスト組織「祖国と自由」に資金を提供し、その活動を監視していたのだ。10月6日付のCIA報告には、サンティアゴ支局が「テロ活動("terrorist activities")の画策に熱心な反共組織の代表」と接触した、そして「この組織はビオー将軍の指揮下にあるとのこと」との記述がある。また、10月10日付のCIA報告には次のように記されている。「(ビオーは)週末にサンティアゴにおけるテロ("terrorism")のレベルを高めるつもりでいる。その目的は、暴力と社会騒動を引き起こすべく人民連合を挑発することにある」

こうした活動に最も強く反対したのがコリー大使だった。彼は軍事クーデターの計画を10月6日に聞きつけると、チリ軍部の誰にも近づかないようヘンリー・ヘックシャーCIA支局長とワイマート大佐に命じた。このときコリーはヘックシャーにこう言って怒鳴りつけた。「24時間以内に決めろ。私の方が命令する立場だということに同意するか、さもなければ、君がこの国を出て行くかだ」。そしてコリーは、次のような公電をキッシンジャーに宛てて打った。「チリの軍部は、ビオーを権力の座につけるためにクーデターを実行することはありません。クーデターの道義的正当化に使えるような気運もありません。(中略)我々の側でクーデターを積極的に奨励すれば、第二のピッグス湾になる可能性があります。(中略)クーデターに失敗すれば、米国にとって救いようのない大惨事になるでしょう。(中略)少なくともラテンアメリカにおける米国の利益がこの上なく損なわれるでしょう」

このコリー大使の助言はワシントンでは見事に無視された。CIAに対する彼の命令もキッシンジャーによって取り消された。ニクソンはトラックIIのすべてをコリーに教えることは控えた。コリーはジョンソン前大統領に任命された大使であり、ニクソンが全面的に信頼していたわけではなかったのだ。キッシンジャーもコリーに対して懐疑的で、コリーに替わる要員として諜報の専門家を現地に派遣することをニクソンに提案していた。

クーデターに反対するコリー大使の助言を無視したキッシンジャーは、10月6日の40委員会のミーティングで「残り18日しかない。チリ人に衝撃を与えて行動に駆り立てる何らかの過激なアクションが必要だ」と言って、クーデターを煽るようCIAに圧力をかけた。その翌日、CIA本部は厳しい口調でサンティアゴ支局に命令する公電を打った。「利用可能なすべての協力者と策略を使って軍の動きを後押しせよ」、「時間がない。他のことはすべて二の次だ」、「軍と接触し、米国が軍事的解決を望んでいることを伝えよ」、「米国は今後も彼らを支持する旨も伝えよ」とのヘルムズ長官の緊急指令である。

CIAサンティアゴ支局は、アジェンデ阻止のための唯一実行可能な解決策は「ビオー・ソリューション」、つまりビオーによる軍事行動だとの結論を出した。CIAは当初からビオーの利用価値を認めていたようで、9月16日の最初の状況報告の中でも、「不安を煽る」ための方法の一つは「ビオー将軍に行動を起こさせることができるかどうかの判断にあります。その行動が共産主義者の反応を引き起こし、それが軍に行動を起こさせるのです」と報告している。

CIAは10月5日、外国人仲介者を通じて初めてビオーとの接触をもった。2回目の本格的な接触は、10月6日、偽旗工作員の一人により行われた。その偽旗工作員は、ビオー軍団が必要としているものと彼らの戦略の詳細を聞き出した。ビオー側が要求したのは、暴動鎮圧兵器と群衆消散兵器、それに、新政権樹立後に即座に米国が彼らを支援することだった。その偽旗工作員はCIAサンティアゴ支局長のヘンリー・ヘックシャーに次のように報告した。「左派の暴徒を鎮圧するまでにサンティアゴ地域で1万名の犠牲者が出るとビオーは予測しています」

ヘックシャー支局長は10月10日、ビオーがクーデターに動いた場合にどうなるかの自身の予測をCIA本部に伝えた。「チリの軍部は、ビオー派とシュナイダー・アジェンデ派に分裂するでしょう。(中略)大虐殺が長引くことになるでしょう。内戦です」。ちなみに、その2日前の10月8日にヘックシャーはカラビネーロス(チリ国家警察隊)の高官と会談したとき、「軍が一旦合憲的立場を放棄すると、兵士と兵士が戦う地獄のような大混乱になります。それでもいいのですか?」と問われた。このとき彼はこう答えた。「米国政府は気にしない。結果としての混沌がアジェンデ大統領を阻むのなら」

彼は、内戦を予測して本部に伝えた。本部の長官は、その予測をニクソンやキッシンジャーなど政府高官に伝えたはずだ。それでも米国政府の立場は変わらなかった。他国で民主的に選出された大統領候補の就任を阻止しようとの「自称民主主義国」の策謀は、その国での地獄の内戦が予測されている間も続くのだった。

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陸軍総司令官シュナイダー暗殺事件

チリ駐在米国大使であるコリーにはトラックIIのすべては知らされなかったこと、また、CIAが特別工作員をチリに派遣したことは前述したとおりだ。が、それほどまでに機密を要すること、技術と知識を要することとは何だったのか? 実は、アジェンデ就任を阻止する上での最大の障害として米国から見なされていた忠実な立憲主義者シュナイダー陸軍総司令官を暴力的に排除することがクーデターの第一段階として計画されていたのだ。

チリの憲法を厳格に尊重していた陸軍総司令官のシュナイダー将軍は、軍は軍としての立場を守るべきとの信念の持ち主だった。2001年、息子のレネ・シュナイダー・ジュニアはテレビ番組の中で次のように語った。「総司令官だったとき、父は何度も言っていました。軍は決して政治権力を握ってはならないと。軍が政治権力を握ってしまえば、それは独裁だ、民主主義の終わりだと」

こうした信念の持ち主であるシュナイダー将軍が米国にとって望ましくないということを、米国政府高官たちはCIAを通して認識していた。この名高い将軍を排除する必要があると。1970年10月8日、CIA本部のウィリアム・ブロー西半球局長とデヴィッド・アトリー・フィリップスは、サンティアゴ支局長のヘックシャーに宛てて、シュナイダーを排除する方法について次のような公電を打っている。「シュナイダー排除のために我々や支局にできることは何かあるのか? この問題について両サイドで考えを刺激し合いたい」と。その答は、シュナイダーの誘拐だった。

この時点で、シュナイダーの誘拐には数多くのメリットがあると米国側は読んでいた。クーデターの最も強力な反対者が排除される、後任にはクーデター支持派の軍人が任命される可能性がある、誘拐を左派のせいにできる、アジェンデの汚点になる、などだ。結果的にチリの民衆が怒って「クーデターの気運」が醸成され、軍事クーデターの口実になる。これをCIAは求めていたのだ。ただ、CIAにとっての問題は、「実際にビオーには誘拐と軍事クーデターをやり通す能力があるのか?」だった。実際のところ、前年にタクナ反乱を起こして退役させられていたビオーは仲間の軍人の間でも危険視されており、気がふれていると考える者も少なくなかったのだ。

なにはともあれ、こうした卑劣な任務を遂行するため、CIAは偽旗工作員を利用した。10月6日、偽旗工作員の一人がビオーと連絡をとった。CIA本部は10月11日、サンティアゴ支局に対して「ビオー作戦における最重要ポイントは、米国の手が絶対に表に出ないことだ」と念を押した上で、ビオーに対する資金援助を承認した。そして10月13日、偽旗工作員の一人がビオーに現金で2万ドルを渡した。それは、「兵器を購入するため、兵器を提供するよう兵器庫の司令官を買収するため、あるいは、どのような方法であれ彼に可能な方法で兵器を購入できるようにするため」の資金を意図したものだった。同時に、生命保険と身体障害保険をビオーに用意することも約束した。

その一方でCIAは、チリの高級現役将校数名とも接触し、行動を起こす意欲を彼らの中に見て取っていた。金と保険を使ってビオーをせき立てたものの、狂信的な反アジェンデ・ファシスト組織「祖国と自由」とつながりがあり、仲間の軍人たちからも危険視されているビオーの能力に疑念を抱いていたのだった。チリの現役将校の一人と話合いを持ったヘックシャー支局長は、アジェンデ支持者たちについて米国が持っている情報を伝えた。「彼らは16時間以上は抵抗できないだろう」と。また、「クーデター後は米国政府は迅速に軍事政権と取引を行う。(中略)チリ軍部の状況が悪化することはない。軍の設備を近代化させるべく迅速な措置をとる。国外でのイメージを軍は心配しなくていい。民主的諸国の世論の嘆きは無視すればよい」とも。

こうして一部の現役将校がクーデターに関与する可能性が見えてくると、CIAとしては、ビオーが早まった行動に出て軍事作戦の成功の可能性を摘むのではないかとの懸念がますます強まった。さらに、当時サンティアゴ守備隊を現役で指揮していた反体制過激派のカミーロ・バレンスエラ将軍が悲観的な考えをCIAに伝えた。軍部が政権を乗っ取ることはない、ビオーが単独で行動すれば彼は失敗するだろうと。

10月15日、CIAの秘密工作本部長トマス・カラメシンズがホワイトハウスを訪れ、ビオーの信頼性についてキッシンジャーに警告した。CIAは幅広い情報源をもとに注意深く分析を行ったが、ビオーがクーデタ-に成功する見込みは1/20よりも小さいだろうと。協議の結果、早まった行動に出ることがないよう警告するメッセージをビオーに伝えるべきとの結論に達し、次のような公電をサンティアゴ支局に宛てて打った。「この上なく注意深く再考した結果、次のような結論に達した。ビオーが彼の現有の部隊を使って一人でクーデターを試みれば失敗に終わる。それは我々の目的にとって逆効果である。早まった行動をとらないよう、ビオーに警告すべし。次のように彼に伝えること。『貴殿の計画を我々は再検討しました、貴殿の、そして我々の情報をもとに我々が至った結論は、貴殿のクーデターの作戦は現時点では成功しないということです。失敗すれば、将来における貴殿の力が削がれるおそれがあります。現有の協力者は手放さないように。貴殿とは今後も連絡を取り続けます。貴殿たちの力が必要になるときは、いずれ来るでしょう。我々の支援は今後も続きますから』。このメッセージをビオーに伝えること」。このメッセージを読んだ者は、こう解釈しないだろうか? 「失敗しそうだから中止しろということだな、成功すれば大歓迎されるのだな」と。

キッシンジャーは、このときのことを回顧録『White House Years』(1979年)の中で次のように説明している。クーデターの成功の見込みが小さいのでニクソンには「やめにした」と報告したが、ニクソンも同意見だったと。ニクソン自身も回顧録(1978年)の中で、この時点でクーデター計画を「やめにした」と記している。いずれの回顧録も機密文書が機密解除される前に書かれたものだが、はたして、クーデターを「やめにした」者が、「貴殿とは今後も連絡を取り続けます。貴殿たちの力が必要になるときは、いずれ来るでしょう」とビオーに言うだろうか? 実際のところは、「やめにした」のではなく、「一時的に中断した」だけだったと考えるのが妥当だろう。

10月15日のキッシンジャーとカラメシンズのミーティングの覚書(後に機密解除されて内容が明らかになった)は、この点を明確に示している。このときキッシンジャーはカラメシンズに次のように指示している。「チリのCIA協力者を捨てないように。将来における反アジェンデ作戦の遂行能力を維持するために秘密裡にしっかりと動くこと」。そしてミーティングの最後におけるキッシンジャーの指示として、次のように記されている。「CIAは、アジェンデのあらゆる弱点に圧力をかけ続けるべし。今も、10/24以後も、11/5以後も、そして、進軍命令が新たに出される将来の時点に至るまで。カラメシンズは、CIAは従うと述べた」。キッシンジャーはトラックIIを中止したのではなかった。実際には、アジェンデの弱点に対して秘密の圧力をかけ続けよと命令したのだった。

翌10月16日、カラメシンズはサンティアゴ支局に宛てて秘密の公電を打った。「クーデターでアジェンデを倒すというのは確固とした政策で、これからも続く。10/24より前に起きるのが望ましいが、それ以後も活発に続ける。この目的に向けて、あらゆる資源を使って最大限の圧力をかけ続けよ。これらの行動を極秘裏に確実に実施することが肝心。米国政府と米国人の関与がばれないよう」と。また、「プロパガンダ、秘密工作、情報の収集と偽情報の流布、個人的な接触、その他思いつくものなら何でも利用すべし」とも指示している。

さらに10月18日にCIA本部は、クーデターの口実として利用できそうなことを具体的に挙げてサンティアゴ支局に指示している。「チリにかぎったことではないが、現在のラテンアメリカには、クーデターを良しとするだけの十分な口実や正当性が存在しない。そのため、クーデターが起きても仕方ないと思わせるような口実を作り出す必要がある。軍部向けの口実としては、以下のことを信じ込ませることだ。(1) キューバ人が諜報機関を再編して警察国家を作ろうとしている。(2) 経済が混乱状態に陥っている。(3) アジェンデがキューバおよび共産主義諸国の早期承認を考えている。その目的は、米国による対チリ軍部向け援助を打ち切ることによって憲法の守護者としての軍部を弱体化し、そこに生じた空白を共産主義民兵の武装化によって埋め、労働サボタージュや経済サボタージュを口実としたテロ活動を彼らに行わせることにある、などなど。こうしたことを信じ込ませて口実として利用すればよい」

この時点で米国政府高官たちは、ビオーに代わる人材としてバレンスエラに期待をかけていた。ビオーとバレンスエラが緊密な協力関係にあることは明白だったが、CIAは、たとえビオーを不安視していても、バレンスエラに対する大々的な援助を控えようとは しなかった。10月17日の夜、バレンスエラ将軍が2人の大佐をワイマート大佐との秘密の会談のために派遣してきた。彼らの計画は、事実上はビオーの当初の計画と同じものだった。つまり、シュナイダー将軍を誘拐してアルゼンチンへ送り、国会を解散し、軍の名のもとに権力を掌握する、というものだった。同時にバレンスエラ側は、催涙弾を8発から10発と短機関銃3丁(それぞれに銃弾500発も)を要求した。

10月18日、CIA本部はサンティアゴ支局に対して次のように伝えた。「短機関銃と銃弾を10月19日午前7時にワシントンを発つ定期便で発送する。サンティアゴ到着予定は、10月20日の深夜か、21日の早朝。怪しまれるのを避けるためにも定期便を利用するのがよいと判断した」。ワイマート大佐がこの輸送を手伝った。21日の深夜、ワイマートは標識の付いていない飛行機をサンティアゴのアルトゥーロ・メリノ空港に出迎えた。彼は2001年、自分が飛行機に乗り込んでCIAサンティアゴ支局長に荷物を渡した旨の証言をテレビ番組の中で行っている。こうしてCIAは、出所を特定できない短機関銃3丁、催涙弾6発、それに銃弾500発をバレンスエラに提供した。これら出所特定不能の短機関銃は、酸によってシリアルナンバーが消されていた。これだけでは物足りなかったかのように、CIA本部は10月20日の支局宛公電で次のように伝えている。「申し訳ないが、こういう短期間では500発しか用意できなかった」

バレンスエラは金銭も要求した。誘拐実行者に支払う5万ドルが必要だとのことだった。サンティアゴ支局は、この金銭を渡す権限をワイマートに与えた。

CIA本部から兵器の贈り物が届くよりも前の1970年10月19日、バレンスエラ団はビオーの取り巻きによる協力も得て、シュナイダーの誘拐を試みた。1回目の試みである。夕食会から帰る途中でシュナイダーを捕えるという計画だった。その計画をCIAは、まるで自身がシナリオを書いたかのごとく事前に詳しく知っていた。「シュナイダーは今夜、軍のVIPパーティーに出席中に誘拐され、飛行機で[場所は機密扱い]に移送されるだろう。続いて、シュナイダーが行方不明になったこと、そして、カルロス・プラッツ将軍が総司令官として後を継ぐと思われる旨のことを、バレンスエラが将軍たちにアナウンスする予定」とサンティアゴ支局は19日に報告している。その後は、軍が誘拐を左派のせいとしてチリ全土でシュナイダー捜索を開始、続いて軍上層部を入れ替えてクーデター派が権力を掌握、フレイが辞任して出国、軍事評議会設置、国会を解散、という筋書きだ。

ところが、この計画は失敗に終わった。予想に反してシュナイダーは公用車を利用しなかったのだ。翌10月20日、サンティアゴ支局はこう報告している。「シュナイダーの車が速すぎたので、一団は経験不足から神経質になってしまった」。そして、「20日の晩に再度試みるだろう」と。ちなみに、シュナイダーは誘拐計画のことを知っており、自衛のために寝室にもピストルを持ち込んでいたという。

CIAは、さらなる努力を重ねるようバレンスエラをせき立てたと思われる。1回目の試みが失敗に終わった後、CIA本部は次のような公電をサンティアゴ支局に宛てて打った。「本部は20日の朝に高レベルからの問い合わせに応えねばならない。そのことを支局は心得ておくべし」。後に(1975年)カラメシンズがチャーチ委員会の場で証言したところでは、ここで言う「高レベル」とはキッシンジャーのことである。

同じく20日付のCIA文書には次のように記されている。「この数週間、支局の偽旗工作員たちと[黒塗り]は、クーデターに対する支持を集めるため、軍部の主要メンバーたちと接触し、助言を与え、影響力を及ぼすべく活発に活動してきた。すでに軍部は動く準備ができているとのバレンスエラの言葉は、作戦がうまく進んでいることを表しているのかもしれない」。CIAがチリ軍部の奥深くに入り込んでいたことは、この文面からも十分にうかがえるだろう。また、「軍内部の加担者たちは全員、我々の立場を理解している」とも記されている。CIAがアジェンデを阻止したがっていることを、すでに多くの将校たちが知っていたと考えていいだろう。

21日の深夜、短機関銃と銃弾がCIA本部から届いた。国務省からのものと見せかけるため、外交文書用郵袋で偽のラベルを付けて届けられた。そして22日の午前2時、ワイマートがサンティアゴの人里離れた場所へ車で運び、チリ陸軍の将校に渡した。

22日の朝、ビオーとその一味(バレンスエラの仲間も含まれていた)は、ついにシュナイダーの車を捕らえて襲撃した。19日に続いて20日にも失敗していたので、3回目の試みだった。チリ憲兵の報告によると、「5人組だった。そのうちの一人がハンマーのような鈍器を使って後部ウィンドウを破り、シュナイダー将軍に向けて発砲した。脾臓のあたりと左肩と左手首がやられた」とのことだった。シュナイダーが自衛のためにピストルを手にしたかどうかは証言に不一致があるが、先に発砲したのは襲撃者の側だった。そのときに使われた兵器は、CIAが提供したものではなく、彼ら自身のものだった。実行犯は、バレンスエラではなくビオーの手下の者とされた。シュナイダーは3日後の25日に病院で息を引き取った。チリ史上で初めて、陸軍総司令官が暴力によって殺害されたのだ。

この犯罪の首謀者が誰だったかは置くとして、その報いを受けたのはビオーとバレンスエラだった。チリの軍事裁判所はビオーに対して、国家転覆罪で禁固20年と、誘拐未遂の罪で5年間の国外追放を宣告した。バレンスエラは、誘拐の試みに自ら関わったとして、3年間の国外追放に処された。

それよりも早くCIAは、この犯罪への関与を隠蔽することに全力を注いだ。ワイマート大佐は、バレンスエラに渡していた5万ドルを、拳銃で殴って返却させた。短機関銃のありかも突き止めた。所持していたチリ人将校は「将来役に立つかもしれない」、「指紋など出所がばれそうな証拠は消して厳重に保管しておく」と言って返却を渋ったが、ワイマートは強制的に取り上げた。その後、ワイマートとヘックシャーCIA支局長は海辺の都市ビニャ・デル・マールへ車を飛ばし、太平洋に短機関銃を投げ捨てた。

さらに、CIAサンティアゴ支局の職員たちは、米国の関与に関して嘘をつくよう命令を受けた。CIA本部は10月28日の公電で、シュナイダー襲撃におけるCIAの役割が新聞紙上あるいはチリ政府の調査で指摘された場合でも、「断固として否定せよ。大使に対しても、大使館の職員に対しても」との指示を出した。

CIAは4年間、嘘をつき通した。ところが1974年9月、シーモア・ハーシュが『ニューヨークタイムズ』紙上で暴露した。トラックIIの作戦と、アジェンデ政権を不安定にするための秘密作戦について暴露したのだ。それを受けて上院は大々的に調査を開始した。ホワイトハウスもCIAも、「米国はシュナイダー襲撃よりも前にビオーとの関係を断っていた」と主張した。キッシンジャーは「アジェンデ就任阻止の活動は中止するようCIAに指示した。10月15日にクーデター計画は終わっていた」、「その件に関しては、それ以上の報告を受けていない」との供述を繰り返した。この供述が全くの虚偽であることは、ここまで読まれた読者諸氏であればすぐに判断がつくだろう。

キッシンジャーが虚偽の供述を行っているころ、CIAは歴史を書き替えようとしていた。1974年10月の報告書の中でCIAは、シュナイダー襲撃事件について次のように強硬に主張している。「ビオーのグループが単独で行動した。(中略)つまり、シュナイダーの死の原因は、CIAの代表者の助言に反してビオーのグループが一方的に誘拐を試みたことにある」。しかし、CIA自身の複数の文書に詳しく記録されているように、ビオーは単独で行動していたわけでも一方的に行動していたわけでもなく、明らかにバレンスエラの共謀者として動いていた。1970年10月7日付のCIAのトラックII記録書には、「ビオーは、陸軍、海軍、空軍、それにカラビネーロス(国家警察隊)の多くの将校たちと接触を持っている。彼らから支援も受けているとのこと」と記されている。そして、バレンスエラはCIAから気前良く支援を受けていた。襲撃の時点で何度も書かれたCIA自身の文書類は、この襲撃事件を「バレンスエラのグループによるクーデター計画の一環」としている。

CIAは、シュナイダー襲撃事件後もビオーのグループとの接触を続けた。1971年2月18日付のCIAの覚書には、CIA本部のミーティングで偽旗工作員の一人が次のように述べたと記されている。「ビオー軍団のメンバー数名がチリで投獄されているが、そのうちの誰かがシュナイダー襲撃事件にCIAが関与していたことを暴露するという深刻な懸念が存在する」。また、その偽旗工作員がごく最近ビオーのグループのメンバーと会ったこと、そして、そのメンバーが「グループのメンバーの家族を支援するための資金として多額の金(25万ドルほど)を探し求めていた。おそらくCIAは各家族の支援に1万ドルほどを支払うだけで済むだろう」と述べたことも記されている。

実際のところCIAは、シュナイダー襲撃事件に直接的に関わった者たちに「口止め料」を支払った。そして、その秘密の支払いを30年間も隠していたのだ。2000年9月の報告書の中でCIAは次のように認めた。1970年11月、ビオー・グループの一員がCIAに再び接触してきて、グループのための金銭的支援を要求した。そのグループは独自に活動していたのでCIAの側に義務はなかったが、以前の接触を秘密にしておくため、そのグループとの関係悪化を避けるため、そして人道上の理由から、3万5千ドルを渡したと。当時のチリで3万5千ドルと言えば相当の額である。支局長のポケットマネーで払えるような額ではない。当然ながら40委員会の承認が必要だったはずだ。

シュナイダー襲撃事件が起きた当時、その事件の起源が米国大統領の命令にあるということを知っていたのは、ほんの一握りの米国政府高官とCIA工作員だけだった。何も知らされていなかった国務省は、ニクソンからチリのフレイ大統領に宛てて哀悼のメッセージを送ることをキッシンジャーに提案した。国務省が提案した文面は、次のようなものだった。「大統領殿 シュナイダー将軍の身に降りかかった衝撃的な事件は、現代史における汚点であります。この不快きわまりない事件が貴殿の国で起きたことに対し、心よりお悔やみ申し上げます。敬具 リチャード・ニクソン」

では、シュナイダー襲撃事件が起きたときのCIAの受け止め方はどうだったのだろうか? その問いに対する答は、襲撃の翌日23日に本部がサンティアゴ支局に宛てて打った公電を見れば明らかだ。次のような内容だ。「[黒塗り]の短い期間とチリを覆う状況を考えると、最大限の成果が得られたと言える。[黒塗り]を成功裡に成し遂げられるのはチリ人自身だけだが、サンティアゴ支局は、軍事的解決が少なくともチリ人にとっての選択肢の一つになるところまでチリ人を導くという素晴らしい事業を成し遂げた。きわめて困難でデリケートな状況にありながら成し遂げたことは称賛に値する」。また、CIAの内部文書によると、同日23日、ヘルムズCIA長官はワシントンでの会合で次のように発言したとのことだ。「今やクーデターの実行はチリ人自身の手に移されました。チリ国民は少なくとも軍事的解決の戸口に立つにいたったのです」

シーモア・ハーシュによると、当時のCIAメキシコ支局長はチリの動向を特に気にかけてていたとのことだ。サンティアゴの工作員たちの少なくとも何名かが「シュナイダーが生き延びることはないだろう」と予測しているということを、メキシコ支局長はCIAの上級工作員から聞かされていたからだ。上記CIA本部の公電からも、シュナイダー(打電の翌々日に死を迎える)の生命に対する懸念は一切伝わって来ない。キッシンジャーあるいはCIA本部あるいはサンティアゴ支局長が「殺害」にならないよう工作員たちやビオーやバレンスエラに注意したという証拠も見つかっていない。さらに、CIAが提供した兵器類はターゲットを死に至らしめるに十分な能力を持つものだった。以上を勘案すると、キッシンジャーもCIAも、シュナイダーを単に「誘拐」する以上のことをビオーとバレンスエラに期待していたと考えて間違いないだろう。

この時期、アジェンデも身の危険を感じていた。彼がキリスト教民主党の友人に語ったところでは、シュナイダー襲撃の数日前、彼は実際に狙撃されていたとのことだ。それ以来彼は決選投票の日まで、暗殺を恐れて毎晩寝る家を変えていたのだ。ちなみに、9月4日の一般投票でアジェンデが勝利して以来、暴力革命を主張する過激左派組織MIR(Movimiento de Izquierda Revolucionario:左翼革命運動)のメンバーがアジェンデの護衛に当たった。暴力革命を断固拒否していたアジェンデだったが、MIRの指導層を説得して自分たちの側に引き込みたいとの思いがあった。MIRとしては、貴重な情報を得たいとの思いがあった。結局、MIRによる護衛は、キューバの支援を受けた大統領護衛団GAPが1971年末に結成(これについては後述)されるまで続くことになる。

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軍内部の階級対立と反アジェンデ教育

シュナイダー襲撃事件は、少なくとも一時的にはCIAにとって裏目に出た。この事件が起きるまでの一世紀の間、チリにおいては、政治上の要人が殺されるという事件は一度も起きていなかった。そのため、チリ国民をパニックに陥らせるよりも、逆にチリ国民を怒らせてしまった。チリの兵士も市民も、チリは民主主義の道を歩むべきだとの確信を強めたのだ。

さらに、シュナイダーの後を継いで陸軍総司令官に就任したカルロス・プラッツ将軍は、シュナイダーと同様に立憲主義的な考えの人物だった。10月30日にCIAサンティアゴ支局がCIA長官に宛てて打った公電によると、あるチリ人のCIA関係筋がサンティアゴ支局に次のように報告してきた。アジェンデの大統領就任を阻止するために以前から陸軍内部で画策されていた計画が消えてしまったと。しかし長期的に見れば、シュナイダー襲撃事件によって1973年のクーデターがより現実味を帯びたとも言える。クーデターを試みた場合に米国から十分な支援が得られるということを、反アジェンデ派の将校たちが悟ったからだ。

当時のチリの軍部は、決して一枚岩的な組織ではなく、チリ社会における深い分断を反映していた。つまり、将校たちは特権階級の出身だったが、それに対して徴集兵や下士官たちは小作農か都市労働者階級の出身だった。政治的な考え方も各人の出自から影響を受ける傾向があった。皆が皆、同じ考え方で一致団結するというわけではなかったのだ。

そうしたチリ軍部における考え方の相違は、特に海軍において顕著だった。伝統的にチリ海軍はエリート層が支配していたのだ。アジェンデが選挙で勝利したとき、下級の水兵たちは飛び上がって喜びを表した。一方で、上級の将校たちは、アジェンデの勝利を快く思わなかった。そしてアジェンデ政権が成立すると、彼ら将校たちはアジェンデ政権の弱体化を狙った計画を実行に移し始める。水兵たちが家族のもとへ送る食料品の支給を停止し、食料の不足を政府のせいにしたのだ。部下たちに対する洗脳教育も始まる。労働者や組合を敵と見なす教育である。暴動や騒動を鎮圧する訓練も始まる。そして、自らの出身階級を敵として見なすことのできた水兵たちが昇格していくのだった。

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ITTによる反アジェンデ隠密活動

陸軍総司令官シュナイダー将軍の暗殺は、9月15日のニクソン命令を源流とするCIAの「トラックII」の流れの中で起きた事件だった。が、その流れと並行して、巨大な多国籍企業の利害を源流とする反アジェンデ活動の流れも存在していた。その多国籍企業とはITT(国際電信電話会社)であり、その活動は、ペプシコのケンドールがニクソン政権の高官たちに圧力をかけるよりも前に始まっていた。

ITTの経営陣は、アジェンデが大統領に選出されれば同社のチリの電話会社チテルコ(Chitelco)が接収されるのではないかとの懸念を抱いていた。ITTは1930年に英国資本のチテルコの株の過半数を買い取り、チリの電信電話システムに対する支配権を掌握していた。チテルコは、1960年代の初頭までに、年間1000万ドルを超える利益をITTにもたらすようになっていた。アジェンデは、チテルコがサンティアゴの裕福な地域にしかサービスを提供しない点を非難していただけでなく、当時同社が得ていた莫大な収益も批判的に指摘していた。彼はまた、チテルコを国有化すれば全てのチリ人に安価で効率的なサービスを提供できるとも主張していた。そうしたアジェンデの大統領就任をITT経営陣は憂慮していたのだ。

ITTの経営者たちには、ニクソンが自分たちの懸念を重要視してくれると信じるだけの十分な理由があった。ニクソンとITTとは親密な関係にあったのだ。両者のつながりは、ニクソンの大統領就任以前にさかのぼる。ペプシコと同様、ITTもニクソンの法律事務所のクライアントだったのだ。大統領就任後も両者の親密な関係は続いた。ITTの最高経営責任者であるハロルド・ジェニーンは、大統領専用ヨットでの食事会に招待されたことがある。また、1971年に反トラスト訴訟でITTが窮地に立たされた際にもニクソンはITTの側につき、ITT側のダメージが最小限になるよう取り計らうことになる。

ニクソンと親密な関係にあったITTの経営陣は、自分たちの意向がニクソン政権と一致していることを認識していた。まずは1970年初頭、ITTの側が行動を起こした。同社の最高経営責任者ハロルド・ジェニーンと、当時はITTの取締役だったジョン・マコーン(1965年までCIA長官。その後、秘密裡にCIAの顧問を務めながらITTの取締役に就任)が、チリの大統領選挙のことを取締役会で話題に取り上げた。当時から二人は、アジェンデの当選の可能性を憂慮していたのだ。その後、マコーンは自身の後任に当たるヘルムズCIA長官と何度か面会し、CIAの見解について探りを入れた。つまり、ITTの側からCIAに近づいたのである。ヘルムズは彼自身の個人的な見解として、アジェンデが勝利する可能性をマコーンに示唆した。この面会をきっかけに、CIAとITTとの接触が密になっていった。

チリ大統領選挙(一般投票)後の1970年9月29日、ITTの政府・広報活動担当上級副社長エドワード・ゲリティがCIAの秘密工作本部西半球局長ウィリアム・ブローと会談した。このとき二人は、チリに対する経済的および技術的支援を打ち切る計画の他に、予備部品の発送・納入その他の商取引を打ち切ることについても話し合った。いわば経済攪乱の計画である。さらにこのときブローは、その経済攪乱作戦に協力してくれそうな企業のリストも持参していた。後に(1973年春)上院外交委員会多国籍企業小委員会の非公開審議の場で、小委員会の委員長である上院議員フランク・チャーチはブローに質問した。「そういう方法で経済的に不安定にしようとした目的は、チリ軍部の介入とアジェンデ大統領就任の阻止につながるような国内不安を煽ることでしたか?」。これに対してブローは、経済的に不安定になればキリスト教民主党の国会議員たちが反アジェンデで投票することになるとの望みを抱いていただけだと答えた。彼は、ゲリティにも自分にも、軍事クーデターを煽る意図はなかったと主張した。チャーチはその答に満足できず、さらに問い詰めたが、ブローは同じ答を繰り返すばかりだった。

ゲリティとの会談の数週間後、ブローは同じくITTの副社長兼ワシントン支社長ウィリアム・メリアムと会った。メリアムは、ニクソン政権がチリの問題を過小評価しているのではとの懸念を抱いていた。ブローは彼を安心させるべく、アジェンデが選出されれば米国は厳しい姿勢で対処することになるだろうと伝えた。メリアムはブローの言葉に満足できなかったようで、今度はキッシンジャーに宛てて手紙を書いた。その中で彼は、チリに約束していた資金援助を再審査中の状態に戻すことを大胆にも提案した。

さらにアジェンデ就任後の1971年7月(チテルコ国有化の2か月前)にもメリアムは、アジェンデが「今後の重大な6か月」を乗り切ることができないようにするための計画書をホワイトハウスに送っている。そこでは、「1972年4月までにアジェンデを倒すための18項目」として、国際金融機関および米国民間銀行による借款の制限、チリからの銅の輸入の停止、チリ軍部との接触、『エル・メルクリオ』などのメディアに対する支援など、アジェンデ政権打倒のための18の措置が提案されている。そして、それらの措置を講ずればチリは「経済の混沌」に追い込まれるだろうとメリアムは述べている。さらには、「チリ軍内部の信頼に足るソース」と接触してアジェンデに対する不満が高まる方向に彼らを導けば、アジェンデ排除の必要性が現実のものになるだろうとの指摘も行っている。それは、前述したブローとゲリティの話合いよりもはるかに過激な内容のもので、アジェンデ政権の転覆を明確に求めていた。この計画書から明らかなように、ITTはアジェンデの大統領就任を阻止しようとしただけではなかった。大統領就任後もアジェンデ政権を打倒すべく、執拗にニクソン政権に圧力をかけていたのだ。

決選投票よりも前の時期に書かれたITTの社内覚書も、同社の経営陣がチリの経済面だけでなくチリの軍部および軍事クーデターの可能性にも関心を寄せていたことを示している。メリアムは、親交のあったあるCIA工作員と昼食をとった後、その工作員の見解をマコーンに報告した。10月24日に議会で決選投票が行われるとなれば、アジェンデを敗北に追い込むのは非常に難しいと、その工作員が悲観的になっていたと。その上でメリアムは、軍事的解決をマコーンに提案している。チリ軍部から適切な人材を選び抜き、彼らに反乱を起こさせようとの提案である。

ITTがシュナイダーを邪魔者と見なしていたこと、そしてチリ軍内部の動きにITTが通じていたことを示す社内文書(1970年9月17日付)も残っている。陸軍のトップであるシュナイダーはアジェンデ就任の可能性を十分に認識しているものの、フレイ大統領の承認なしには頑として動かない、ビオーならすぐに動くだろうが、勝手に動いたら撃つぞとシュナイダーに脅された、といった内容だ。

ITTの経営陣は、アジェンデの大統領就任を阻止するためであれば莫大な額の資金も喜んで使うつもりでいた。最高経営責任者のジェニーンは、その金はホルヘ・アレサンドリ(決選投票でのアジェンデの対立候補)陣営の選挙資金として意図していたことを、1973年春の上院外交委員会多国籍企業小委員会の席でしぶしぶ認めた。

当時はITTの取締役だった元CIA長官マコーンは、この小委員会の席で、自分がCIAの顧問を務めながら(彼によると、このことはジェニーンも知らないとのことだった)ITTの取締役に就任したいきさつを説明してから、自身の後任に当たるヘルムズ長官と会ってチリ大統領選挙のことを話し合ったことを認めた。さらには、反アジェンデ活動の資金として100万ドルを拠出する用意がある旨をITTがCIAに申し出たことも認めた。この申し出は、マコーンがジェニーンと相談して決め、一般投票(9月4日)でアジェンデが勝利した1週間後にマコーンがヘルムズとキッシンジャーに伝えたものである。ただし小委員会の席でマコーンは、その寄付金は建設的な目的で使われることを意図したものだったとして、次のように主張した。「彼(ジェニーン)が考えていたのは混乱ではありません。建設的に何ができるのか、何を提供できるのかを考えていたのです。(中略)必要とされているのは何でしょう? 住宅供給、技術支援、農業の援助。これらはチリで大いに求められています」

この答弁を疑問視したクリフォード・ケース上院議員はマコーンに問いただした。「国会での決選投票まで残り6週間という時期ですよ。住宅のことが議会での投票に影響を及ぼすとは思えませんがね」

続けてケースはこう質問した。「議員に対する賄賂のことは話題にならなかったのですか?」。マコーンは明確な返答を避けた。

この100万ドルの申し出について、ITTのゲリティ上級副社長は別の説明を試みた。ジェニーンは、ITTがチリに対してかけていた信頼を何らかの形で表現したかったのだと。他の企業もITTに倣って建設的な支援を行えば、何千万ドルという規模のプロジェクトも実現可能になるからと。それに対してチャーチ委員長は、そうした建設的なプロジェクトに言及した文書が一つもないこと、それどころか、チリ経済の攪乱のことが書かれた文書ばかりが次から次と出てくる点を指摘した。委員の一人は言った。「とにかく、話の筋が全く通っていない。とにかく、滅茶苦茶だ」

1970年9月、ITTから100万ドルの申し出のことを聞いたキッシンジャーは、CIAがITTから直接に資金を受け取ることは控えた。米国政府が民間企業と共謀関係にあるように見られることは避けたかったからだ。そこで、CIAサンティアゴ支局長のヘンリー・ヘックシャーがITTの工作員と会い、あるチリ人の名前を教えた。秘密の資金経路としての役割を担うチリ人をITTに紹介したのだ。こうして米国政府職員の協力を得て、100万ドルの資金がITTからチリの相応の受取人のもとへ届けられた。CIAの報告によると、この巨額の資金のうち少なくとも40万ドルが、ホルヘ・アレサンドリと彼が所属する国民党の懐に入った。

こうしたITTによる隠密活動は、ワシントンの新聞コラムニストであるジャック・アンダーソンによって後に暴露される。すでに接収されていたITTの子会社チテルコの補償額について、アジェンデ政権とITTとの間で長期にわたる交渉が進められていた時期だった。アンダーソンは、「1970年のチリ大統領選挙で左派大統領サルバドル・アジェンデの選出を阻止しようとしたITTの奇妙な謀略」と彼が呼んだものを見事に暴くITT社内の24の覚書(そのほとんどは、9月4日の一般投票から10月24日の議会での決選投票までの間に書かれたものだった)を入手し、それを1972年3月21日に公開した。シュレッダー処理を免れていたが故に暴露されたこれら文書が示していたのは、自分たちの政策に米国政府を従わせるのは簡単なことで、実際のところ米国政府はそうすべきだとITTが見なしていた、ということだった。

アンダーソン記者による暴露を受けて、アジェンデ大統領は次のように宣言した。「チリを内戦に突き入れようとしていたこの多国籍企業に半セントも払うなどということを夢にでも考える者は誰もいないだろう」と。ITTの側は全面否認の戦略をとった。次のような声明を発表したのだ。「当社が事業活動を行っている他の国々におけると同様にチリにおいても、当社は終始、善良なる法人市民の一員であった」

ニクソン政権は、この「ITTペーパーズ」を問題視しない振りをしようとしたが、スキャンダルは鎮まらなかった。暴露当初は米国内では別の問題が国民の関心を集めており、ラテンアメリカとヨーロッパで反響を呼ぶだけだったのだが、火種はくすぶり続けたのだ。結局1973年3月、聴聞会を開いて調査するための多国籍企業小委員会が米国上院外交委員会のもとに設けられた。委員長にはフランク・チャーチ上院議員が就任した(上院情報活動調査特別委員会とは別物)。調査期間は3年、調査対象は多国籍企業全般とされたが、チリにおけるITTの活動が最初の調査対象に選ばれた。前述したブローおよびITT経営陣に対する尋問は、この小委員会の2週間にわたる聴聞会におけるやりとりである。この小委員会は最終的に次のような結論を発表した。「ITTは、チリの大統領選挙の結果を隠密に操作しようとする計画にCIAを従事させた。そうすることで同社は、企業活動の許容可能な一線を越えた。チリに関して自身の目的のためにCIAに協力を求めたITTの行動が、当たり前の容認可能なものとして認可されるなら、多国籍企業を歓迎する国などないだろう」

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ヨーロッパ諸国に圧力をかけるニクソン

米国の対チリ経済戦争の舞台はヨーロッパにも及んだ。チリと経済的結びつきの強い国々に対して直接的な圧力をかけたのだ。1970年10月3日にニクソンはロンドンで英国の首相エドワード・ヒースと会談をもった。そのときの覚書によると、ニクソンはヒースに対して「アジェンデ政権を容認できるという考えに英国は勢いを与えないでほしい」と要請しただけでなく、融資の類のものを英国が中止することも求めた。また10月6日の40委員会のミーティングの場でキッシンジャーは次のように発言している。「最高権威筋はヨーロッパの政治指導者たちに、アジェンデ政権は絶対に望ましくないと伝えた」

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第4章 チリ経済を壊滅させよ

アジェンデ就任

米国の政府高官と実業家たちはアジェンデ大統領阻止を狙って最大限の努力を重ねた。しかし、その努力は報われなかった。キリスト教民主党の議員がシュナイダー襲撃事件に怒ってアジェンデ支持に回ったということもあり、1970年10月24日の決選投票でアジェンデは圧倒的勝利を収めた。国民党(アレサンドリ)の古い資本主義的立場が拒否されたという見方もできるだろう。得票数は、アジェンデの153に対してアレサンドリは37だった。キリスト教民主党(当時は党内左派が支配権を握っていた)の議員74名は、全員がアジェンデに投票した。

勝利したアジェンデは11月4日に大統領に就任し、平和的合憲的手段によってチリ社会を根本から再構築するという計画を実行に移し始めた。それも、ロシア革命などに見られた暴力や抑圧を一切拒否した上での再構築であった。1971年初頭、アジェンデはレジス・ドブレとの対談の中で、自分たちは別の道を開こうとしているのだとして、自分たちが作ろうとしている政府について説明している。それは社会主義への道を開く民主的、国民的、革命的、そして大衆的な政府である、なぜなら、社会主義を命令によって押しつけることはできないのだからと。

しかし実際のところ、アジェンデは就任当初から暗い影を意識していたに違いない。1970年11月5日、大統領就任演説の中で彼は次のように語った。「この60日間という決定的期間の間に、我が国の憲法の精神を踏みにじろうとする意図が存在することを、チリだけでなく世界中がその目でしかと確認しました。それは、人民の意志を愚弄し、チリ経済を痛めつけ、血なまぐさい暴力的対決を我が国の同胞の間で引き起こそうとする、卑劣きわまりない陰謀でした。私は、祖国を内戦から救ってくれたのは、ひとりの勇敢な兵士つまり陸軍総司令官レネ・シュナイダー将軍の犠牲であったと思っています。それは信じがたい事件でした。それは僅か一日ではあったものの、事実上の内戦として歴史に刻まれることでしょう」

人民連合の綱領には、その基本的課題として「帝国主義者、独占、大地主の支配に終止符を打ち、チリにおいて社会主義の建設を開始すること」が謳われていた。そして、チリの「深刻な危機」に対処するための具体的政策40項目が挙げられていた。それは、「チリ史上で最も民主的な政府の道を開く」(人民連合綱領より)ための既存制度の変革を展望するもので、本質的には、それまでアジェンデが選挙戦で提案していた政策をまとめたものだった。新憲法の制定、一院制の議会(二院制では立法に膨大な時間がかかるための提案だったが、「マルクス主義的絶対主義」「一党独裁」として野党側の攻撃に利用されることになる)、政治家のリコールを可能にすること、労働者の権力参加、男女同賃金や医療の保証など一連の社会改革、大々的な住宅提供プログラム、教育の拡充などだ。

経済面では、国有化の対象として、銅や硝石などの鉱業、金融、対外貿易(貴重な商品が私益のために輸出されるのを防止するため)、それに独占企業が挙げられていた。非暴力による社会主義への移行のためには、経済の重要部門の公有化が欠かせないと考えられたからだ。フレイも試みた農地改革を完了させることも綱領に含まれていた。協同組合と国有農場の創設と小作農への土地所有権の分与が展望されていた。だが、こうした計画は大胆なものだっただけに、それを実行に移そうとすれば米国からの干渉・反発に晒されるであろうことは、アジェンデも覚悟していた。

国外からの干渉以外に、人民連合内部にも懸念材料があった。団結力が弱かいという問題である。権力掌握のための手段については考え方が一致していても、権力保持の目的に不一致があったのだ。

アジェンデと共産党は、既存の政治経済体制の基盤を徐々に変革していこうとの考え方だった。それは、時間と資源を節約するためであって、必要なものだけを置き換えるという考え方だった。ところが、人民連合内部の他のメンバーにとっての目的は、古い体制を壊して新しいものを作り出すことだった。それは「伝統的」な革命のビジョンであり、アジェンデの考えとは相容れないものだった。アジェンデら「チリの道」を信じる者たちにとって、変革のための広範な連合は必要不可欠だった。古い体制を粉砕したい者たちにとっては、暴力的衝突は不可避であり、民兵の発足が重要な課題だった。こうした不一致から、アジェンデは人民連合内部の「伝統的革命」派に悩まされることになる。

アジェンデにとっての悩みの種は、当然のことながら人民連合の外でも蒔かれる。当時、多くのチリ人にとって「伝統的」革命は恐怖の的だった。そしてその恐怖が、米国産のプロパガンダを展開する右派メディアによって巧みに強化されるのだ。民主的な社会主義という覆いがいつ剥がれるかという恐怖である。

その恐怖は、チリ社会党の指導部によっても強化される。1971年2月のチリ社会党大会にて、同党指導部は「革命の暴力は不可避かつ正当であり、政治経済的権力掌握への唯一の道である」とする決議を採択する。社会党指導部のこうした武装志向は、より広範な連合を目指してキリスト教民主党(支持基盤は伝統的に中産階級)と折り合おうとするアジェンデの努力の障害になるだけでなく、右派メディアに利用されることにもなる。

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ソ連から距離を置くアジェンデ

米国からの不当な干渉を予期していたアジェンデは、対米依存から脱却すべく、広く世界に友好国を作ろうと考えていた。しかし彼は、ソ連と特別な協力関係を結ぶことは考えていなかった。ソ連の側も、チリの新政権と親密な関係を結ぶことは考えていなかった。そして、そのことをニクソン政権も認識していたようだ。1970年11月6日、CIA長官のヘルムズはNSCのミーティングで次のように報告している。「ソ連は、チリの新政権との取引に慎重な姿勢を見せています。チリ社会党も、モスクワに過度に依存することは避けるでしょう。チリ共産党も、国内向けのアピールのためでしょうが、ロシアとの結びつきを強めることは控えるでしょう」

国務省情報研究局は1970年10月1日にNSCに調査書を提出していたが、同局もヘルムズと同様、新政権の誕生によってチリがソ連の衛星国になるという見通しには否定的だった。アジェンデがそれを許さないだろう、なぜなら、チリ社会党は、非同盟と反帝国主義の政策を追求する第三世界の政治指導者と共通するところが多いからと、この調査書は報告しているのだ。さらにこの調査書は、チリでは反共感情が根強いので、たとえソ連が侵攻するという事態になったとしても、ソ連はチリを奪取できないだろうと指摘している。

たしかにアジェンデはソ連の援助を望んでいた。チリの銅や鉄をソ連が買ってくれることを望んでいた。だが、それはあくまでも、米国に代わって自国の発展を支援してくれる国を探していたからにすぎなかった。チリをソ連の衛星国にしようなどという思惑はアジェンデの側には(そしてソ連の側にも)少しもなかった。実際彼は、1956年のハンガリーや1968年のチェコスロバキアにおけるソ連の蛮行を厳しく非難していた。決してソ連に対して心情的な愛着を抱いていたわけではなかったのだ。

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ラテンアメリカを手放すな

このようにCIAも国務省も、アジェンデにはソ連の子分になる意志はないと読んでいた。それは確かに正しかった。キッシンジャーも同様の見解だったはずだ(回顧録では異なる説明をしているが)。アジェンデ就任の翌々日、1970年11月6日のNSCミーティングの議事録には次のように記されている。「アジェンデがソ連やキューバその他の社会主義諸国と親密な関係を築くことを意図していても、ソ連に従属することは避けるだろうという点では、NSC全体で合意が得られている」と。キッシンジャーが懸念していたのは、アジェンデのチリがソ連からの支援に頼って米国の勢力圏から出て行き、ラテンアメリカ全体にとっての悪しき前例になることだった。NSCにおけるラテンアメリカ通であるヴァイロン・ヴェイキーは10月16日にキッシンジャーに次のように助言していた。「いずれアジェンデ政権が、ソ連の軍需品と助言を自国の軍部向けに要求して受け取るようになることも考えられます」と。キッシンジャーはニクソンに次のように警告した。「アジェンデ政権は、西半球における米国の権勢に反対する先頭に立ち、我々の政策に対抗する政策を推進し、中立的『第三世界』の立場をラテンアメリカ諸国にとらせようとする可能性があります」

ニクソンもキッシンジャーと同様の懸念を抱いていた。11月6日のNSCミーティングの場でニクソンは次のように宣言した。

「チリの主な問題は、アジェンデが支持基盤を固めれば、世界が奴を勝利者として見なすだろうということだ。(中略)南アメリカの将来の政治指導者たちが自分もチリと同じように動いて構わないのだと考えるようになると、我々は厄介な立場に追い込まれるだろう。この問題を放置してはおけない。軍部との関係については、もっと金を投入するんだ。経済面では関係を断つという手もある。(中略)落ち着いて的確にやることになるだろうが、アジェンデや他国の指導者たちに本当のメッセージが伝わるようなことをやるんだ。(中略)ラテンアメリカを失ったわけではないし、我々はラテンアメリカを確保すべきだ。(中略)こんなことをやっても罰を逃れられるとか、問題なく安全にやり通せるなどという印象をラテンアメリカ諸国に与えてはならない」

こうしてニクソンは、反アジェンデの活動に休止はあり得ないことを明確に示すのだった。

チリに対する政策をニクソン政権が決定するにあたって最重要視されたのは、米国企業の利益だった。キッシンジャーはニクソンに次のように警告した。「いずれアジェンデが米国投資を接収しようとすることは、ほぼ間違いありません。十分な補償がなされるかどうか、定かではありません」。さらに、米国政府および米国民間銀行からの借款をアジェンデ政権が返済しないのではないかとの懸念もキッシンジャーは抱いていた。

そんなキッシンジャーは、アジェンデが任期を全うする前に彼を権力の座から引きずり降ろす決意を固めていた。だが彼としても、アジェンデの正当性は認めざるを得なかった。1970年11月6日のNSCミーティングで、彼はニクソンにこう助言している。「アジェンデは合法的に選出されました。自由選挙で権力の座に就いた最初のマルクス主義政権です。チリ国民、そして世界のほとんどの目から見れば、彼には正当性があります。我々には、その正当性を拒むことも、彼に正当性がないと主張することもできません」

そこでキッシンジャーが選んだのは、敵意を表に出さない「秘やかなアプローチ」だった。彼は続けてこう助言した。「敵意を公然と示してしまうと、彼に有利に働くだけです。彼を有利な立場に立たせないこと、自分は危害を加えられている側だと彼に主張させないことが肝心です。したがって、圧力を加えるなり、弱みにつけ込むなり、障害を広げるなりして、最低でも彼の失敗を確実にできるような行動、あるいは、政策の変更を余儀なくさせるような行動、そして出来るなら、後日の政権の転覆が実行しやすくなるような状況につながる行動、そういった行動を我々がとれるかどうかが問題です」

この11月6日のミーティングを受け、NSCは次のような決定を下した。つまり、表向きは「冷静で適切」な立場を維持するが、同時に、米国がアジェンデに反対していることを他のラテンアメリカ諸国に分からせるための「断固たる取組」に従事する。具体的には、ラテンアメリカ諸国に対し、チリとの経済・金融上の協力関係を禁じ、反アジェンデ工作で協力を求めると(1970年11月9日、NSC覚書「対チリ政策」)。

キッシンジャーが「秘やかなアプローチ」を選んだ背景として、当時の米国内の反ベトナム侵略世論が、また、十年ほど前の対キューバ侵攻失敗の経験が影響していただろう。また、キッシンジャーのチリ問題担当顧問A・ナクマノフの次のような言葉(アナコンダ社からの質問を受けて)も影響していたと思われる。「大事なのは、アジェンデに対する公然たる挑発を避けることです。(中略)外資はチリを避けていくでしょうから、アジェンデは窮地に陥らざるを得なくなります。アジェンデを締め付ける上での最善の方法は、経済を通じてやっていくことです」

米国の対チリ経済攪乱工作の目的は、単に混乱と無秩序を作り出してチリ軍部が介入する口実を生み出すだけでなく、武力に頼らざるを得ない状況にアジェンデを追い込む点にもあった。政府が武力に頼るようになれば、軍部が蜂起する格好の口実になるからだ。1971年12月13日付のITT文書には次のような主旨の記述がある。アジェンデは今、民主的手続きを通じて社会主義化を推進するか、それとも、唯一の道は暴力であるとする極左の側に身を投じるかの選択を迫られているが、状況が悪化すればするほど彼は後者を選択せねばならないだろうとの見通しである。

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米国による経済封鎖と対軍部政策

アジェンデの大統領就任阻止を狙った対チリ経済戦争はもちろんのこと、アジェンデ政権打倒を狙った経済戦争もアジェンデ就任前から計画されていた。CIAが1970年10月21日に作成した報告書「就任後のアジェンデ」には次のように記されている。「就任後の時期における軍事クーデターの見込みは、経済の衰退および人民連合内部での政治的内輪もめによって行政上の問題が悪化するに伴い、高まるだろう。(中略)クーデターの気運が具体化しはじめ、軍部には介入の口実ができるだろう。それゆえ、アジェンデ政権は短命に終わるだろう」

こうして11月6日のNSCミーティングでは、クーデターの気運を醸成するための様々な隠密作戦が検討された。米国国際開発庁と米国輸出入銀行からの新規借款を停止する、米州開発銀行と世界銀行における絶大な影響力を行使してチリに対する融資を拒否する、などなどだ。さらに、米国の銅備蓄を放出することによって銅価格を下落させる可能性も検討された。輸出の80%を銅が占めるチリの経済に壊滅的な打撃を与えることになると考えられたからだ。

こうした対チリ経済封鎖作戦は即座に実行に移され、大きな打撃をアジェンデ政権に与えることになる。当時のチリは、金融・産業・商業のあらゆる面で米国に深く依存していたので、そのインパクトは大きい。銅産業はケネコット社およびアナコンダ社という米国企業2社によって支配されていた。米国の銀行に対する債務はフレイ時代に10億ドルに達していた。経済運営は米国の商業信用に依存しており、主要な産業の機械や部品の購入資金は米国の金融機関から調達していたのだ。

当時の米国政府高官たちは、チリに対する二国間および国際金融支援が大幅に削減されたのはアジェンデの政策と米国企業の国有化のせいだとしてきた。しかし、その後に機密解除されたNSC文書が決定的に示しているのは、ニクソン政権が迅速かつ秘やかに動いて対チリ支援を停止させたということだ。しかもその動きは、アジェンデが就任するかしないかのうちに始まっていたのだ。

キッシンジャーの顧問アレクサンダー・ヘイグが1970年10月22日(つまり決選投票の2日前)に書いた覚書によると、米州開発銀行(IDB:米州域内を対象とする国際開発金融機関)では、従順さが足りないと見なされた総裁を解任すべくホワイトハウスが動いたとのことだ。その総裁は辞任に追いやられ、新たに就任した総裁はチリの信用格付けを"B"から"D"に下げた。また、同銀行はアジェンデ就任を阻止するための経済不安定化作戦の一環としてすでに対チリ新規融資をすべて先送りにしていたのだが、その作戦はアジェンデ就任後も続けられた。アジェンデ就任から数週間後に書かれた「IDBの対チリ融資に対する米国のスタンスに関する状況報告」というキッシンジャー宛の極秘文書には、次のような記述がある。「IDBの米国事務局長は、チリに対する保留中の融資に関して、さらなる指示があるまでは今までどおりだと理解しています。融資の承認には米国による賛成票が必要なので、事実上は融資の承認が阻止されたことになります」

米国が拒否権を持たない世界銀行では、保留中の信用供与と将来の融資についてチリが不適格であると見なされるよう、米国の役人が陰で動いた。アジェンデ政権の経済政策が信用供与の基準を満たしていないように見せることを狙ったチリ政府向けの質問を国務省の米州局が用意し、世界銀行の職員たちがその質問に注意を向けるように仕向けたのだ。

米国輸出入銀行と米国国際開発庁(USAID)には、NSCが「対チリ二国間援助の新たな約束はすべて控えるよう」との極秘指令を出した。キッシンジャーは輸出入銀行に対し、チリの信用格付けを"B"から"D"に下げるよう命じ、輸出入銀行は、アジェンデ就任前から着手していた対チリ融資先送り作戦をさらに本格化させた。

ニクソン政権の政府高官らが考えたのは、もちろん経済的な打撃だけではない。例によってチリ軍部も関心の対象になった。1970年11月6日のNSCミーティングでニクソンは、チリ軍部に対する支援に言及して次のように言った。「私はラテンアメリカにおける軍の縮小という政策には賛成できない。軍は、我々の影響下にある権力中枢だ」と。「我々の影響下にある」と言い切っている点が興味深い。

チリ軍部に対するニクソン政権の政策には、飴だけではなく鞭も含まれていた。まずはコリー大使からチリ軍部に圧力をかけておき、続いて、約束していた戦車の納入を先送りにした。C-130輸送機とF-5戦闘機の販売手続きも可能なかぎり遅らせた。こうした状況からチリ軍部は、米国政府の気前よさはアジェンデに対するアクション次第だということを理解した。

チリ軍部との接触の強化も図られた。米国は、ラテンアメリカの軍部との接触を密に保つ戦略の一環としてMilgroup(Military Group)なるものを派遣していた。これは、ラテンアメリカ各国の軍部との連絡業務に従事する者として国防総省が任命していたものである。そしてこの時期、ニクソン政権はMilgroupの増強と質の向上を検討した。結局、チリに関しては、軍部との接触の促進を目的として13名のMilgroup要員を駐在させることになった。CIA本部も、チリ軍部の有望な人材と毎週コンタクトをとるよう、サンティアゴ支局に指令を出した。1970年11月9日にキッシンジャーはニクソンに次のように報告している。「チリ軍部に関しては、我々は通常どおりに軍事派遣団を維持しています。チリ軍部との接触を最大限に保つために」と。また11月19日の40委員会の席でキッシンジャーはこうも言っている。「チリ軍部との接触を保つ目的は、単に情報を得るためだけではなく、将来のアクションのためでもある。それが非常に重要な要素であることは明らかだ」

ニクソン政権による反アジェンデ活動の要点は、1970年11月25日にキッシンジャーがニクソンに宛てて書いた「秘密行動プログラム:チリ」という文書の中で明確に示されている。第一に、アジェンデの連合を分裂・弱体化する政治行動、第二に、チリ軍部との接触の拡大、第三に、非マルクス主義政治組織に対する支援、第四に、反政府派メディアに対する支援、そして第五に、反政府派メディアを使って「アジェンデが民主プロセスを蹂躙していることと、キューバ・ソ連がチリに関与していること」を喧伝すること、とされている。もちろんその狙いは、反アジェンデ派に豊富な資源が提供され、チリ社会が不安定になり、交渉が妨害され、経済問題が悪化し、そして人民連合の暴力的転覆が促されることにあった。

米国実業界も、アジェンデが大統領に就任するとすぐに動いた。ITT、ケネコット、アナコンダ、ファイアストン・タイヤ・アンド・ラバー、ベスレヘム・スティール、ファイザー、WRグレース、バンク・オブ・アメリカ、ラルストン・ピュリナ、ダウ・ケミカルをはじめ、チリで操業している主要な米国企業の大多数が集結し、チリ特別委員会を発足させたのだ。この委員会の最初の会合の後に作成された覚書によると、同委員会の目的は、「チリの問題に対処」しているワシントンの高官たちと連携を取り合うことにあった。発足後数か月のうちに、同委員会に所属する企業は、チリ社会を混乱させることを狙った作戦を独自に開始した。オフィスを閉鎖する、支払いを先延ばしにする、配送を遅らせる、信用供与を拒否するなどだ。この秘やかな作戦は大きな効果を生み、2年のうちにチリのバスの3分の1とタクシーの2割が予備部品の不足のために操業停止に追い込まれることになる。

一方のアジェンデは、米国との友好的な関係を維持することを望んでいた。自分たちの政策が米国の反感を買うことは覚悟していたものの、大統領就任後も自身の政権の打倒を米国政府が画策し続けるとは考えていなかったのかもしれない。彼はレジス・ドブレとの会談(1971年初頭)の中で語っている。自分が選挙で勝ち取った勝利は米国の策謀を防止するための手段になるだろう、彼らの手は縛られているのだからと。とはいえ、なにぶん1954年のグアテマラ・クーデターを直に見ていたアジェンデである。何をやりだすか分かったものじゃない北の帝国に対して警戒感を抱いていたことは否めないだろう。いや、警戒感を抱いていたからこそ友好関係を望んだと言うのが最も正確かもしれない。

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アジェンデの自主独立的外交スタンス

北のニクソン大統領はアジェンデの勝利を祝福することは控えていた。一方のアジェンデは1971年初頭、「考えや意見の相違を認める用意が米国の側にあるのなら、この西半球最強の国と親密な関係を維持したい」との希望を公の場で表明した。一方で、自分が政権の座についているかぎり、「いかなる強国による軍事基地の建設も決して許さない」とも力強く宣言した。また、コリー米国大使および米州担当国務次官補チャールズ・A・マイヤーとの会談の中で、チリがどこかの国と煩わしい同盟関係を結ぶことは決してないと約束した。

アジェンデ政権の外相クロドミーロ・アルメイダは、アジェンデ政権の外交スタンスを次のような言葉で明確に表明した。「チリの外交政策は世界のどこかの人々と敵対することを意図したものではありません。米国の人々を敵視するものでもありません。我々の政策は、まだ我々が手にしていない利益をめぐって、チリ経済の従属的関係を断つことを意図した政策です」

だがニクソンには、チリが経済的に「従属的関係を断つ」という考えを受け入れることができなかった。すでに説明したように、他のラテンアメリカ諸国がアジェンデのチリを模範にするのではないかとの懸念を抱いていたからだ。そんなニクソンには、アジェンデの希望に耳を貸すだけの余裕などなかった。ただただ、打倒アジェンデの決意を新たにするばかりだった。

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1971地方選、対野党支援もむなしく人民連合躍進

すでに説明したように、アジェンデ政権打倒を狙った各種工作は、アジェンデが大統領に就任するかしないかのうちに始まっていた。とはいえ、1971年初頭の段階では、クーデターの見通しは決して明るいものではなかった。1971年1月9日、CIAのサンティアゴ支局は次のように報告している(長官宛公電)。「おそらくチリ軍部は、アジェンデと敵対することはないでしょうし、事態がそういう展開になったとしても、彼の打倒を計画することはないでしょう。一般国民の強い支持を得た政治的対抗勢力によって刺激された場合は別ですが」。というわけで、この「政治的対抗勢力」がCIAにとっての最大の関心事になるのだった。

CIAにとって、アジェンデに対する対抗勢力が存在するかぎり、それがどの政党であるかはどうでもいい問題だった。サンティアゴ支局は上記公電の中で次のように報告している。「キリスト教民主党は、おそらくチリ最大の政党であり、最大の対抗勢力です。したがって、同党を可能なかぎり支援するだけの価値はあります」と。その3か月後の1971年4月には地方選挙が控えていた。CIAは、その選挙でキリスト教民主党を確固たる反政府勢力に仕立て上げようと企み、同党に莫大な資金を注ぎ込む作戦を提案した。

1971年1月末にCIAは、「1971年4月選挙とメディア買収のためのチリ野党への資金援助」に関する提案書を40委員会に提出した。その中でCIAは、4月の地方選で野党候補を支援するための秘密資金124万ドルの拠出を要請した。この提案書の中でCIAは、「4月4日の地方選には大きな重要性があります。(中略)人民連合が大差で勝利すれば、チリだけでなくラテンアメリカ中に大きな影響が出るでしょう」との懸念を表明している。さらに同提案書の中でCIAは次のようにも述べている。アジェンデの実績を評価していた証拠と言えるだろう。「アジェンデ政権の最初の2か月間におけるアジェンデの最高の政治実績を考えるなら、また、人民連合の綱領の最も人気の高い面で人民連合が実現に動いた迅速さと有効性を考えるなら、4月の選挙で人民連合が過半数を獲得する可能性があるのは明らかです。そのような結果になれば、西半球の他の地域での民衆連帯運動に勢いがつくだけでなく、チリ国内の野党と従来勢力が落胆する可能性があります」

1月28日、40委員会はCIAからの要請を承認した。すぐにCIAは、野党(キリスト教民主党、国民党、それに、急進党から離脱して結成された民主急進党)に対する大々的な資金提供を開始した。それだけでなく、キリスト教民主党と国民党に対しては、それぞれ独自の新聞社とテレビ局を買収できるだけの資金も流し込んだ。反アジェンデのメディア作戦を強化するためだ。この地方選でキリスト教民主党が受け取った資金の具体的な額は明らかになっていないが、CIAサンティアゴ支局から発信された公電(1971年6月18日付)には、1971年度に118万2000ドルの献金との記述が残っている。その献金先がどこかは不明だが、野党支援のためにCIAが124万ドルを要請したことは事実だ。いずれにせよ、アジェンデが国民から支持されていなかったなら、あるいは、アジェンデの社会主義の実験が当初から失敗していたなら、外国からのこれだけの資金援助を野党が必要としたとは考えにくいだろう。

1971年4月4日、地方選挙が実施された。人民連合政府成立後、初の全国的選挙だった。結果は、アジェンデの人民連合が50.8%という得票率を記録したのに対し、キリスト教民主党の得票率は25.6%だった。前年9月の大統領選挙と比較してみると、人民連合は14.2%増という大躍進を示したのに対し、キリスト教民主党は2.5%減だった。国民党の衰退は特にはなはだしく、得票数で言うと40%も減らした。人民連合のこの支持率の伸びは、チリでは前代未聞のことだった。しかも、外国からの干渉があったにもかかわらずの支持率アップである。この時期はアジェンデと人民連合の絶頂期で、経済は活況を呈し、社会は革命的「祭り」に湧いていた。CUT(労働者統一中央組織)が合法化され、組合員数は70万から100万へと増加した。とはいえ、国会では人民連合が過半数を得ていたわけではなく、キリスト教民主党が鍵を握っていた。

CIAとしても、この選挙の結果に落胆したわけではなかった。CIAにとって重要なのは、キリスト教民主党がアジェンデ政権に対する第一の対抗勢力の地位にとどまることだった。前述したように、選挙前の1月9日、CIAサンティアゴ支局は「一般国民の強い支持を得た政治的対抗勢力によって刺激された場合」でなければチリ軍部は動かないと報告していた。つまり、国民の過半数の支持を得た対抗勢力である必要はなかった。チリ社会の中の、軍部と結びついた一定部分で十分だった。あとは自分たちに任せろという魂胆である。実際、この頃からCIAはキリスト教民主党フレイ派に大々的な資金を注ぎ込み、最終的には同党を右傾化させて反アジェンデへと向かわせることに成功するのだ。

実はこの時期、キリスト教民主党は人民連合に対する姿勢をめぐって揺れていた。1971年の前半、同党は国会で人民連合に協力的だった。しかしその後、1971年7月のバルパライソ州下院補欠選挙をきっかけにキリスト教民主党は右傾化して人民連合から離れていく。この補欠選挙に際して、アジェンデは人民連合の候補を擁立せずにキリスト教民主党に協力しようと提案した。ところが例によって社会党指導部がこれに反対し、社会党独自候補を擁立して敗北を喫した。勝利したのはキリスト教民主党の候補だった。このとき、キリスト教民主党の候補に投票すると人民連合側が約束していたなら、同党内の揺れていた人材を人民連合は取り込めていたはずだ。そして1971年11月、40委員会は、キリスト教民主党を人民連合から決定的に引き離すことを狙った81万5000ドルの資金供与を承認する。こうしてアジェンデは、国外からの干渉だけでなく、社会党指導部の頑固で独善的な姿勢にも悩まされ続けることになるのだった。

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銅の国有化

政権を掌握したアジェンデおよび人民連合政府にとっての最大の課題は、チリの経済的従属関係を打破することだった。そのために絶対に欠かせなかったのが、銅山の国有化だった。銅産業に関しては、フレイ前大統領のもとで「チリ化」政策が進められたが、それは実質的な効果をあげていなかった。本当に意義のある改革が始まったのは、アジェンデが権力を握ってからだ。1971年7月11日にチリ上下両院合同本会議は、国有化を認可する憲法修正案を全会一致で採択した。フレイの「チリ化」政策の失敗から、銅の国有化はチリ国民全体の要求になっていた。アジェンデが30年前に提案していたことがやっと日の目を見たのだ。

アジェンデは、その日は将来にわたって「国民の尊厳の日」になるだろうと宣言し、エル・テニエンテ銅山を訪れた。そこで彼は、喜びに沸く労働者に向けて次のような勝利演説を行った。「この50年余りの間に、30億ドル以上が銅の収益として我が国から出て行きました。今後は国有化により、我が国にとどまる収益が毎年9000万ドル増えることになります。今後20年で18億3千万ドルです」と。補償に関しては、次のように約束した。「正当であれば支払いましょう。しかし、正当でないものは支払いません」

この憲法修正は「公正な補償」を原則としていたが、銅会社への補償から超過利潤分を差し引くことを可能としていた。「超過」にならない最高利益水準を決定する権限を持つアジェンデ大統領は、ケネコットおよびアナコンダ両社のチリ以外での利潤を参考にして、年間で12%という数字を割り出した。実際の数字を挙げると、ケネコット社の場合、チリ以外では平均して10%未満だったのに対し、チリでは平均して52.8%、アナコンダ社の場合はそれぞれ3.6%と21.5%だった(アジェンデの国連演説での指摘)。彼は、米国の銅会社の1953年以来の記録を調査し、超過利潤額を計算していった。最終的に、ケネコット社については6億7500万ドル、アナコンダ社については3億6400万ドルを補償額から差し引くことになった。結果的に、アナコンダ社のチュキカマタ銅山とケネコット社のエル・テニエンテ銅山に関しては、差し引かねばならない額が銅山の価値(簿価をもとに資産価値を算出)を上回ってしまった。規模が3番目だったエル・サルバドル銅山(アナコンダ社)についても非常に多額になった。セーロ社が所有していたアンディーナ銅山についてはほぼゼロだったので、同社には簿価のほぼ100%の補償が行われた。こうして原則としては有償ではあったが、セーロ社を除いては無償という結果になった。コントラロリア(会計検査院)も、この措置を支持し、補償は不要との決定を下した。

実はアジェンデは、銅の問題で米国ともめるのは避けたいと考えていたようだ。国有化法案採択に先立つ1971年2月、サンティアゴのコリー米国大使が次のような公電を国務長官宛てに打っている。「銅のことで我々ともめるのは避けたいとチリ政府が考えている点を理解してほしいとアジェンデは望んでいます。詳細についいてはトア内相が私に説明するとのこと」

だがニクソンは激怒していた。アジェンデ政権下で銅公社CODELCOの最高経営責任者を務めることになるホルヘ・アラテは、ニクソンが銅の問題を口実に対アジェンデ攻撃を激化させるものと確信した。彼は、米国外交史の研究家でジャーナリストのルブナ・クレシとの対談(2005年)の中で、銅の問題が米国の政策をさらに強硬にさせた理由について語った。米国企業に対して超過利潤という考えを適用するとのアジェンデの決定が国際的なインパクトを持っていたからだろうと。

ニクソンが恐れていたのは、共産主義の脅威でもソ連の脅威でも米国の安全保障に対する脅威でもなく、アジェンデがラテンアメリカ諸国に示す模範だった。チリの銅を失うことよりも、チリによる接収がラテンアメリカにおける前例になることを恐れていた。彼は1971年6月11日、つまり銅国有化法案採択の1か月前に、自らの懸念を次のようにキッシンジャーに伝えている。「たとえばガイアナだけど、あそことはボーキサイトとかで5億ドル相当の契約を結んでるよな。けど、彼らは接収を望んでる。チリは何の罰も受けずにやり通そうとしてる。ジャマイカもだ。あそこも接収に乗りだそうとしてるだろ。その他にもいろいろあるよな」

アジェンデは9月28日に銅の国有化を発表するが、米国の銅会社は、それまでの間に可能なかぎりの銅鉱石をチリ国外に持ち出した。機械類に対する投資も停止した。米国人の銅の専門家たちもチリから引き揚げ、スキルのないチリ人と瓦礫だけが銅山に残された。フランスとソ連から来た専門家チームは、その瓦礫の山を見て、操業再開には莫大な投資が必要との結論を下すのだった。

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金融封鎖による報復

ニクソンは、自身の対チリ政策がラテンアメリカ諸国に対する警告になることを意図していた。チリで銅山が接収されてまもなく、彼は、どこであれ何らかの接収が無償で行われたときには米国は「国際金融機関で検討されている融資に対する支持を保留することになる」との警告を表明した(すでに説明したようにチリの銅の場合は実際には「無償」ではなかったのだが)。

こうした金融封鎖の戦略をとりわけ執拗に主張したのがジョン・コナリー財務長官だった。彼は、当時の世界銀行総裁ロバート・マクナマラに対して強烈な圧力を加えた。1971年6月2日、彼はニクソンに対して自身の見解を次のように説明している。「明日、ボブ(マクナマラ)とランチをともにしますが、そのときに彼を説得するつもりです。補償の明確な計画もなく資産を収用した国に対して世界銀行は融資を控えるという方針を明確にせよと。それがフェアなやり方だと私は考えていますので」

1971年10月、コナリーは国際金融機関の米国代表に対し、対チリ融資を承認することを禁じた。世界銀行では米国が23%の票を握っており、米州開発銀行(IDB)も米国が牛耳っていたので、これら機関からの融資は停止されたも同然だった(IDBはすでに対チリ新規融資を先送りにしていた)。

それに加えチリは、米国国際開発庁(USAID)と米国輸出入銀行からの信用も得られなくなった(輸出入銀行はすでに対チリ融資を控えていた)。両機関の支配権は完全に米国政府が握っていたからだ。チリは1964年から1971年までの間に、世界銀行、米州開発銀行、米国輸出入銀行、米国国際開発庁から10億ドルを超える融資を受けていた。チリの経済はこうした融資に依存していただけに、これら金融機関からの信用停止はチリにとって甚大な打撃を意味した。

ここで、チリにとっての打撃の大きさを具体的な数字で見ておこう。米州開発銀行(IDB)に関して言えば、大統領選挙よりも前に承認された1970年のIDB融資は4600万ドルだった。それに対し、選挙後から73年のクーデターまでに承認された融資は、大学向けの200万ドルだけになった。世界銀行は、フレイ政権下の1969年から1970年にかけて3100万ドルの融資を提供していたが、1971年から1973年に承認された融資額はゼロである。米国国際開発庁(USAID)による二国間支援は、1968年から1970年までで1億1千万ドルにのぼっていたが、1971年から1973年では300万ドルほどである。米国輸出入銀行は、1967年から1970年までの間に2億8000万ドルを提供していたが、1971年にはゼロになった。分かりやすい数字である。

米国輸出入銀行からの信用停止は特に堪えた。1971年8月、ボーイング727(1機)およびボーイング707(2機)の調達のためにチリが必要としていた2100万ドルの信用供与要請が拒否されたのだ。信用供与を拒否された国営航空会社のラン・チリ航空は、決して危険な融資先として見なされていたわけではない。銅山の国有化法案が議会を通過する2か月ほど前の1971年5月6日付のチリ大使館の覚書には次のように記されている。「ボーイング社が事前に行った予備調査は、この取引が商業的に健全なものであり、最終合意に至った供与額は航空事業から得られる収益によって十分にまかなわれることを示している」と。この時点では融資の承認はほぼ確実だったのだ。

事態の展開に慌てたオルランド・レテリエル駐米チリ大使は、ワシントンでキッシンジャーと面会した。数日前にアジェンデと協議していたレテリエルは、チリ政府は東側よりも西側との親密な経済関係を望んでいる旨を、アジェンデに代わってキッシンジャーに伝えた。ボーイングの旅客機の件については、米国から購入できない場合のチリの唯一の現実的選択肢はソ連からの購入であるが、ソ連の航空機は非常に高価なので、それはチリにとって悲劇だと伝えた。

これに対してキッシンジャーは、自分は輸出入銀行の方針転換に関わっていない、米国の実業界の問題は自分の任務の対象外だと主張した。

これに対してレテリエルは、輸出入銀行の決定は政治上のものであることを同銀行の幹部が彼に認めた点を指摘した上で、今後の融資が行われるよう、その政治上の問題を解決することをキッシンジャーに要請した。

この会合の覚書によると、最後にキッシンジャーは、「今回の件を少し調べてみると言ったものの、この融資に自分は積極的に関与していない点を、また、こうしたビジネスの問題に自分は深入りする気になれないかもしれない点を強調した」とのことだ。

実際には、キッシンジャーは積極的に関与していた。レテリエルとの会合の2か月前、国有化法案がチリ国会で採択される1か月前の1971年6月11日、彼は輸出入銀行による報復計画のことを次のようにニクソンに説明していた。「輸出入銀行は融資の条件を追加することができます。ですから、もし彼らの接収に説得力がなければ、我々はあれが最後まで成し遂げられるのを防ぐことができます。彼らは融資の申請をやり直すでしょう。そして、接収の交渉よりも長い期間にわたって融資と格闘することになるのです」

それはまさしくキッシンジャーの「秘やかなアプローチ」の体現だった。6月9日、キッシンジャーはニクソンに次のように書面で助言していた。「あからさまに抑圧的な政策をとると、チリに関する我々の公式声明と矛盾をきたす可能性があります。そしてアジェンデがチリ国内でも国外でも共感を得る結果にもつながり、米国企業を彼が不当に扱うのを容易にしてしまいます」

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国営銅産業を妨害するニクソン政権

ニクソン政権による対チリ経済報復は、融資を拒否するだけでは終わらなかった。自国の司法制度を巧妙に利用して、米国内にあるチリ政府の口座を凍結したのだ。アジェンデは銅産業を国の管理下に置くことでチリの富が爆発的に増大すると見込んでいたのだが、今や米国向けの銅の輸出が完全に不可能になった。

アジェンデは、米国に代わる銅市場を西ヨーロッパに求めた。が、その計画をくじくべくケネコット社が動いた。同社はフランス、オランダ、スウェーデンそれにドイツで法的措置をとり、チリの銅の販売を阻止しようとした。ドイツは銅を差し押さえたが、最終的にはハンブルクの判事が差し押さえを解除した。が、その他の国ではチリの銅はそういう幸運に恵まれることなく差し押さえられた。こうしたケネコット社の工作は他の潜在顧客に脅威を感じさせる結果となり、チリの銅は敬遠されるようになった。そうした事態の展開に銀行業界が注目しないわけがない。銅を売れないチリの経済は本当に大丈夫なのかと。というわけで、ヨーロッパの銀行業界はチリを危険融資先と見なすようになった。その結果としてチリは、本来なら受けられたはずの2億ドル相当の信用を失うことになる。

こうしたケネコット社の謀略に米国政府は関与していたのだろうか? 当時の国務省報道官はこう言って認めた。「たしかに我々は、時おり接触をもっています。問題を解決することが我々の関心事ですから。何もしなければ解決しないでしょう」

銅山の国有化に対する北からの報復措置は、市場封鎖だけで済むような甘いものではなかった。生産そのものをも妨害する措置がとられたのだ。銅の製造工程は複雑で、銅鉱石の採取から濃縮、溶融、精練にいたるまで、さまざまな種類の複雑な機械が必要になる。その各機械は何十万という数の部品から構成される。当時のチリにおいて、それら部品の主要な供給元は米国だった。銅公社CODELCOの最高経営責任者ホルヘ・アラテが後に語ったところによると、国有化以後、米国は部品の供給をストップさせた。その結果CODELCOは、仲介業者を通して部品を調達せざるを得なくなったため、部品が非常に高くつくようになったとのことだ。

こうした妨害があったにもかかわらず、国有化以後、政府による銅産業の運営は非常に効率よく進められた。たとえば、1971年だけをとってみても8.3%の収益の伸びを示した。また、1973年のクーデターから40年以上を経た今も、銅公社CODELCOは政府が掌握している。この銅公社を民営化しようとする企てが今も一部実業家の間で絶えず続いているが、その事実こそがこの公社の成功を物語っている。

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ITT子会社の国有化

アジェンデ政権は、銅産業だけでなく、ITTの事実上の子会社(ITTが70%を所有していた)であるチテルコ(Chitelco)も政府の管理下に置いた(1971年9月23日)。そして、その補償額について合意に達するべく、チリ政府とITTとの間で長期にわたる話合いが行われた。

実は、アジェンデの前任者であるフレイ元大統領はITTと親密な関係にあった。大企業を敵視することなしに改革を進める姿勢を見せていたフレイをITTは歓迎し、彼をラテンアメリカにおける模範として世に示すべく、1964年の大統領選挙ではCIA経由で資金援助を提供しようとした(これは表向きはCIAが断ったことになっている)。そんなフレイは、自身が大統領の座についていた1966年、電話サービスの拡大を求める声が国民の間で高まると、1億8600万ドルという高値でITTとサービス拡大の契約を結んだ。別の外国企業(スウェーデンのエリクソン社)がITTよりもはるかに低い額で入札していたにもかかわらず、である。

ところがアジェンデは違った。チリ国民の金をITTに贈るようなことはしなかった。そんなアジェンデはチテルコの価値に関してITTとの交渉に入ったが、長期にわたる交渉にもかかわらず、合意に達することはできなかった。チリ政府側の査定額が2400万ドルだったのに対し、フレイ時代の1億8600万ドルという贈り物に満足できないITTは、1億5300万ドルの補償を要求したのだ。アジェンデの態度は明確だった。一歩も譲る気配を見せなかった。そこで1972年2月、ITT側が補償額算出の新たな方法をアジェンデに提案した。ところがその一か月後、ジャック・アンダーソンによる暴露記事が公表された。アジェンデはITTとの交渉を打ち切った。

とはいえ、ITTの側は別の観点から事態を見ていたはずだ。軍事政権が成立してから自分たちの思い通りに問題を解決するだけだと。それは、前述した「1972年4月までにアジェンデを倒すための18項目」なる計画書から容易に推察できるだろう。チテルコ国有化に先立ってITTのメリアムがホワイトハウスに宛てて書いた提案書、アジェンデ政権打倒のための18の方策について説明した計画書である。

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対チリ支援に消極的なソ連

チリと米国の関係は悪化の一途をたどった。そこでアジェンデは、より公正な経済協力関係を米国以外の国に求めた。米国による金融封鎖を受けて、アジェンデはフランス、スペイン、スウェーデン、オランダ、西ドイツ、フィンランドなどヨーロッパ諸国にアプローチした。が、ヨーロッパからの支援は条件付きだった。ヨーロッパの商品を購入するという条件が付いたのだ。

アジェンデはソ連にも期待をかけた。なにぶん米国は、チリを経済的に封鎖する一方で、チリ軍部に対しては惜しげもなく軍需品を供給し続けるという陰湿な政策をとっていた。そうしたチリ軍部の対米依存を打破する意味でも、ソ連に期待をかけた。実際、アジェンデは軍部の者をソ連に派遣し、ソ連の兵器を購入できないかを検討させていた。もちろん、米国が停止した信用に代わるものもソ連に期待していた。ところが、当時のソ連はラテンアメリカの国を支援することに消極的だった。毎年5億ドル近くの支援をキューバに注ぎ込んでいたソ連には、アジェンデを支援するだけの十分な余裕がなかったのだ。ちなみに政治学者のヨセフ・ノギー(Joseph Nogee)とジョン・スローン(John Sloan)はアジェンデ期のチリとソ連との関係を扱った研究論文(Journal of Inter-american Studies and World Affairs、1979年8月)の中で、アジェンデ政権時代全体を通じたソ連の対チリ支援額を1億8300万ドルから3億4000万ドルの間と見積もっている。キューバに対する「毎年5億ドル」と比較すると見劣りするのはたしかだ。また、ソ連は銅産業の専門家20名をチリに派遣し、援助と助言を与える任務に当たらせたが、これも、それまで米国が提供していた支援と比べれば小さなものにすぎなかった。

1971年のソ連共産党第24回大会にてレオニード・ブレジネフ書記長は、アジェンデの選挙での勝利を祝福したものの、チリにとって意義のあることは何ら提案しなかった。彼はこう宣言した。「これが国内反動とヤンキー帝国主義を激怒させたのです。彼らはチリ人民の利益を奪おうとしています。しかし、チリ人民は自らが選んだ道を進むべく決意を固めています」。ここに見られるのは、第三者的同情とでも言うべきか。少なくとも、積極的関与の姿勢ではない。

ブレジネフにとって、チリはソ連の勢力圏外に位置していた。ソ連は西側の帝国主義を厳しく非難していたものの、1962年のキューバ危機以来、ラテンアメリカは米国の所有物であるという考えを非公式に受け入れていた。それに加えて、ソ連とラテンアメリカとの間の通商は、ごく小規模でしかなかった。だいたいにおいて、どちらも同じ製品を国際市場に供給していたからだ。ソ連は、ラテンアメリカの重要性が増すとは考えていなかったため、ラテンアメリカ以外の国々に支援を割り振っていたのだ。

そして米国は、ソ連が対チリ支援に消極的であるということを確信していた。1971年10月、ロジャーズ国務長官はチリに対する経済活動計画を多国籍企業の代表者たちと検討したが、その際に彼はこう語った。「ソ連の外相と会談した際に、モスクワは対キューバ支援と同等の支援をチリに与えるつもりなのかと尋ねたとき、ソ連側はそれを否定しました」と。ソ連外相の言葉を100パーセント信じたわけではないだろうが、おそらく米国は、ソ連の対チリ支援は小規模なものに終わると確信していた。米国が対チリ経済封鎖を非常に効果的に楽しむことができた裏には、こうした事情があったのだ。

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アジェンデに対するカストロの精神的支援と懸念

キューバのカストロはどうかと言うと、ブレジネフとは対照的に、アジェンデを積極的に支援する姿勢を見せた。彼はハバナでの公開演説でアジェンデに対して、「必要であれば我々の砂糖があります。必要であれば我々の血があります。必要であれば我々の生命があります」と約束した。そして、キューバとの正式な外交関係を樹立するまでに「半年か1年か2年くらい待たざるを得なくても心配することはない」と言ってアジェンデを勇気づけた。

両国は、アジェンデが大統領に就任した直後の1970年11月18日に国交を回復した。それから1年後の1971年11月10日、アジェンデはカストロをサンティアゴに出迎えた。アジェンデは、チリの国内情勢が安定するまで、そして、チリがラテンアメリカ諸国と良好な関係を確立できるまで、カストロのチリ訪問を先延ばしにしていた。アジェンデは、同年の8月から9月にかけてアンデス・グループ諸国(コロンビア、エクアドル、ペルー)を訪問し、さらにはアルゼンチンの大統領をアントファガスタ(チリ北部の港湾都市)に迎えた。その末に実現したカストロのチリ訪問だった。

カストロは3週間にわたってチリ国内を駆け巡った。彼は各地で民衆に大歓迎された。何百万という人々がカストロを一目見ようと押しかけた。そして、大歓迎されるカストロを見て怒りをつのらせた右派は、「からなべ」デモなるものを仕掛けた。それは、社会攪乱作戦の一環としてCIAの資金援助を受けて行われた似非デモだったが、それについては後述する。

カストロは、チリの各地を回りながら、後に現実となる懸念を抱いた。反動勢力による暴力的権力奪取に対してアジェンデ政権が脆弱すぎるように感じたのだ。カストロは次のように言ってアジェンデを説得しようとした。「我々の国では、男も女も最後の血の一滴まで喜んで戦います。そのことを帝国主義者たちは知っています。だからこそ彼らは我々を尊重するのです。あの革命を頓挫させる可能性が彼らに少しでも残っているとは私には思えません」

カストロから見れば、アジェンデの護衛も頼りなく思えた。当時はMIRのメンバーが護衛の任務に当たっていたのだが、それをあまりにも頼りなく感じたカストロは、キューバ民族解放総務局の顧問団をチリに派遣し、大統領の護衛の育成に当たらせた(その3名の顧問団の責任者であるルイス・フェルナンデス・オーニャは、アジェンデの娘ベアトリスと結婚したばかりだった)。こうしてキューバは、チリに派遣した顧問団を通じてアジェンデ政権を支援した。そのおかげで、まもなくアジェンデはGAP(Grupo de Amigos Personales)と呼ばれる非常に有能な護衛団を得ることになった。1971年の末、CIAは次のように報告している。「かつてGAPが使っていたボロい拳銃は、今では、キューバが提供した0.45インチ口径コルト自動拳銃、8mmブローニング自動拳銃、CZ38自動拳銃に完全に取って代わられている」

ところが、カストロの思いとは裏腹に、このGAPはCIAによる対アジェンデ攻撃の格好の材料になった。CIAはこのGAPを、アジェンデの「影の軍隊」だと喧伝した。それを信じたチリ軍部内の者たちは、アジェンデに対して不信の念を抱くようになるのだった。

キューバは、兵器の提供という形での支援も行った。1970年から1973年9月までの間に、チリの左翼諸派に3,000ほどの兵器類を提供したのだ。受け取ったのは、主として過激左派のMIRだった。社会党と共産党も受け取りはしたものの、数はごく僅かだった。その他に、約2,000名のチリ人(多くはMIRのメンバー)がキューバの訓練を受けた。しかし、こうしたキューバからの支援も、米国がチリ軍部に注ぎ込む法外な援助とは比較にならなかった。

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米国による対チリ軍部支援

すでに述べたように、ニクソン政権はアジェンデ就任後もチリ軍部との接触を強化し続けた。シュナイダー襲撃事件に関与した者たちが逮捕・粛清されたことで、一時はチリ軍内部のCIAスパイ網は壊滅状態になったが、その後の1年ほどの間にそれも再構築された。クーデターを指導しそうな者たちと接触が持てるよう、CIAサンティアゴ支局はチリ軍内部に新たな工作員を育成する努力を続けていたのだ。サンティアゴ支局は、「我々の任務はクーデターの方向に意図的に働きかけること」(1971年11月のサンティアゴ支局からの本部宛公電)として認識していた。しかし、「自ら率先して行動しようとの気運がチリ軍部の側に必要であって、無理にせき立てたり無計画に早まって行動を起こさせたりすると逆効果」であるという点で、本部と支局の認識は一致していた。

1971年の秋、CIAサンティアゴ支局は、反アジェンデの行動をとるよう軍部を目覚めさせるための欺瞞工作を実行した。チリ軍部の将軍たちに、「アジェンデがカストロと共謀して最高司令部を壊滅させようとしている」と思い込ませようとしたのだ。並行して同支局は、クーデターに備えて、逮捕者リストや奪取すべき政府施設といった作戦上のデータを収集し始めた。また、現在の体制に強く反対している将校たちの詳細情報も本部に送った。

チリ軍部に対する経済的支援も続けられた。1971年2月、チリ軍部は次のような買い物リストを米国に提示した。「航空基地地上支援装置、106mm 無反動ライフル、ギアリング級駆逐艦、ジェットレンジャーヘリコプター、105mm 榴弾砲、C-130 輸送機」という内容だ。合計すると700万ドルほどになるが、NSCは、これらの品目を購入するに十分な信用を供与するよう推奨した。結局キッシンジャーは、チリ軍部への500万ドルの信用供与を承認した。彼にとっての最大の関心事は、チリ軍部が軍需品をソ連に頼ることを阻止すること、そして、チリ軍部の側が行動を起こすことにあったのだ。

上院外交委員会の委員長を務めていたJ・ウィリアム・フルブライト上院議員は、金融封鎖と対軍部支援という矛盾に当惑し、委員会の席で次のように述べた。「ボーイング707の販売は問題視する一方で、軍需品の販売を増やすことは積極的に推奨したというのは、私には納得できない。米国輸出入銀行というものがありながら、ボーイングが売りたくて仕方ないはずの民間航空機を通常の条件で買う権利をチリに与えようとしない。一方で、軍需品の販売を600万ドルも増やすことは躊躇なく推奨する。こうした米国の姿勢は非常に奇妙に思えます。我が国の方針だと私が考えているものとは全く相容れないように思われます」

チリの将校たちは、対軍部支援と金融封鎖とが相次いで実施されるのを見て、クーデターを起こした場合に米国が自分たちを支持してくれるものと確信したことだろう。実際のところキッシンジャーにとって、チリの軍部内で反アジェンデ派が勢力を増しつつあるとの感触を得るのに、金融封鎖の履行を待つ必要もなかったようだ。米国輸出入銀行による金融封鎖に先立つこと約2か月の1971年6月11日の時点で、すでにキッシンジャーはニクソンにこう言っていたのだ。「軍部との接触を保てとのあなたの指令のおかげで、我々はラテンアメリカのどの軍部よりもチリの軍部に肩入れすることになりましたね。我々の手中にある司令官や将官は、ブラジルよりもチリの方が多いですよ」。ブラジルでは米国が支援した1964年の軍事クーデター以降、親米軍事独裁体制が続いていたのだが、そのブラジルよりもチリの軍部に米国は浸透していると豪語していたのだ。しかも、ラン・チリ航空に対する信用供与を輸出入銀行が拒否する前の時点で。

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アジェンデ政権の接収政策

米国政府がチリの軍部を支援し続ける間も、アジェンデは有権者から託された任務の遂行に邁進していた。彼と人民連合政府が計画していた国有化の対象は、銅と通信だけではなかった。民間企業を残す余地も考慮されていたとはいえ、銀行、流通、貴重な原材料(硝石、石炭、鉄、鋼鉄)、繊維といった重要な産業も接収の対象とされた。政府の権限を強化することによって労働者の権限を強化するという計画だったのだ。経済相のペドロ・ブスコビッチは次のように宣言した。「帝国主義と階級支配の経済基盤全体を破壊するための国家管理を計画しています。その目的に向けて、生産手段の私有を終わらせます」と。

アジェンデの接収政策は、だいたいにおいて法律に依拠したものだった。決して恣意的なものでも、強引なものでもなかった。たとえばラルストン・ピュリナがアジェンデの当選と同時にチリでの操業をすべて停止して労働者を窮地に陥れたとき、アジェンデは1943年の法律に依拠して経営権を掌握した。ヤルール繊維会社の場合は、国の経済にとって重要な製品を製造する閉鎖工場を収用する権限を大統領に認めていた1953年の法令を根拠とした(最終的に繊維産業の50%ほどが国有部門に組み入れられた)。

こうして公共の富が新たに生まれることで、より多くの公的資金を社会福祉に振り向けることが可能になった。とりわけ、15歳以下の児童ひとりあたり1日半リットルのミルクを支給するという政策(1971年初頭より)はチリ民衆から圧倒的な支持を集めた。医師でもあったアジェンデらしい政策だが、当時のチリは、栄養不良が原因で50万人以上の児童が肉体的および精神的に発達が遅れるという状況にあったのだ。国による補助金が増えたことで、各種公共施設が一般大衆に身近なものになった。電気の実勢価格は85%下落し、電話料金も33%の下落を示した。

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農地改革の徹底敢行

農地改革も人民連合にとって重要な課題だった。農地改革はフレイ政権下でも着手されたが、中途半端な状態で頓挫していた。それがアジェンデ政権下では高速かつ徹底して進められ、1972年8月までには80ヘクタールを超える大農場のほぼすべての接収が完了した。フレイ政権の6年間の全任期中に接収されたのとほぼ同じ数の大農場が1971年の1年間に接収されるというスピードだった。接収された土地は、小作農の協同組合組織に託された。銅山の国有化もそうだったが、この農地改革も公正な補償制度のもとに行われた。農地改革の場合、接収対象になった土地の地主には主として30年国債という形で支払が行われた。

アジェンデの農地改革は、右はもちろん、左の一部からも反発を招いた。アジェンデの改革の速度が遅いと非難する過激左派組織MIRは、農地改革政策の主導権を握ろうと、独自に大農場の土地を占拠した。彼らは、アジェンデの農地改革政策は「小作農の生活水準向上に資することのないブルジョア法」だと批判したのだ。MIRは、既存の制度の外側での社会変革を望んでいた。したがって、アジェンデの政策がどうであれ彼を批判したはずだ。そしてMIRをはじめとする極左勢力による過激な行動は、CIAのプロパガンダ作戦で利用されることになる。

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インフレ:失政なのか?

大統領就任後の最初の1年が終わるころには、アジェンデは選挙公約のほとんどを達成していた。彼は国民に向けてこう宣言した。「かつての民間銀行の90%を今では我々が管理しています。70を超える数の戦略的独占企業が国によって接収、介入、徴発、あるいは買収されました。我々が所有者なのです。我々の銅、我々の石炭、我々の鉄、我々の硝石、我々の鋼鉄です。今では、重工業の基盤を握ってるのは、チリ、そしてチリ国民です」

アジェンデの人民連合政府が実施した所得の再分配の政策は徹底していた。その結果、労働者階級の人々は、それまで経験しなかったほど多くのものを購入できるようになった。貧困層の人々も食事に肉を追加できるようになった。冷蔵庫やテレビといった電化製品の購入も劇的に増えた。こうして労働者たちは生まれて初めて快適な暮らしを経験したが、それにはインフレという代償が伴った。人民連合政府樹立後の1年間は、フレイ時代よりも物価上昇率は格段に低かったのだが、1972年に入るころから徐々に上昇し、1972年の8月と9月には「前月比」20%超という数字を記録している。

政府による投資は、経済を刺激し、失業率を下げる一方で、多額の財源を必要とした。そこで人民連合政府は、単純に通貨を増発するという手段で対処しようとした。1971年における流通通貨額は1970年の2倍以上になった。ちなみに1971年には国の歳出が70%も上昇していた。この点でアジェンデの失政を指摘する学者は少なくない。

では、人民連合政府としては、通貨の増発以外にどういう手段に訴えることができただろうか? 真っ先に頭に浮かぶのは、増税だろう。だが、チリ最大の産業である銅は1971年9月に国有化された。通信業も同月に国有化された。チリの独占企業と金融機関のほとんども最初の1年ほどの間に国有化された。では、どこから徴税できただろうか? もちろん、もっと富裕層から徴税すべきだったとの意見はあるだろう。だが、当時のチリの富裕層はごく少数だった。それに、中間層をターゲットにすればキリスト教民主党との決裂が決定的になるとの懸念をアジェンデは当然抱いただろう。「可能な限り広範な連合」を目指していた彼には、それは到底受け入れられないことだったはずだ。

次に考えられるのは、国債の増発である。しかし、人民連合政府が発行する国債を引き受ける者がいただろうか? かつての民間銀行のほとんどは当初から国営化の対象とされていた。銀行がだめとなると、誰が引き受けただろうか? アジェンデ政権打倒を望んでいた富裕層が引き受けたとは考えにくいだろう。

ここで、ひとつ確実に言えることがある。チリの銅産業の収益が1971年に8.3%の伸びを示したことは前述したとおりだ。だがこれも、北からの各種妨害工作(銅の生産および販売に対する妨害)があった上での数字である。もし北からの妨害活動がなければ、銅から得られる収益はもっと爆発的に伸びていた可能性がある。その収益は、当然のことながら不足物資の輸入に充当できただろう。

さらに強調しておかねばならないのは、米国による対チリ金融封鎖である。国際金融機関あるいは米国金融機関から融資を受けることができていれば、その資金を食料品その他の輸入に当てることができたはずだ。結果、反アジェンデ活動の口実として利用されることになる物不足やインフレも回避できただろうに。

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米国内で批判を呼ぶ金融封鎖政策

アジェンデ政権が発足して1年ほどの間に、チリの経済はスタグフレーションを脱した。1971年の工業生産は14%の伸びを示した。GDPは8.5%増加した。失業率は、8%以上から4%前後にまで低下した。インフレ率も36%から22%にまで下がった。しかし前述したように、発足後1年を経たころから、チリの経済情勢は悪化し始める。銅産業に対する米国による妨害工作も効いたが、やはり最大の要因は、米国政府および米国主導の国際金融機関による「金融封鎖」にあった。実際、米国人の中にもニクソン政権の政策を批判する者が少なからずいた。その一人が、エドワード・M・ケネディ上院議員だった。1971年10月12日、彼は演説の中で次のように主張した。「社会正義と政治的自由を積極的に追求している国には、我が国からどんどん二国間援助を提供すべきです」

エドワード・ケネディは、輸出入銀行による対チリ融資拒否が裏目に出たことも見抜いていた。上記の演説の中で彼は「チリ政府は航空機の件でソ連との交渉を始めています」と警告した。そして、こう続けた。「民間投資は、環境の変化を受け入れる必要があります。それは、ナショナリズム勢力に支配された環境です」。おそらく彼は、国有化されても米国民の生活に影響が及ぶことはない、企業の利益と国民の利益は別物だということを理解していたのだろう。ところが、そうした洞察力を持ち合わせないニクソンは、ラテンアメリカの現実を受け入れようとはせず、ただひたすら打倒アジェンデの陰謀にしがみつくのだった。

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ピノチェトをレーダーに捉えるCIA

打倒アジェンデに燃えるニクソンたちにとって何よりも重要なのは、チリ軍部との接触を強化すること、そして、クーデターを成功裡に成し遂げられそうな優秀な軍指導者を見つけ出すことだった。1971年8月6日、CIAサンティアゴ支局は、アウグスト・ピノチェト将軍に言及して次のような報告を行っている。前日に行われたディナーパーティにおいて、「ピノチェトは、自身の心の内側を暴露するようなコメントは避けていました。こうした傾向は、彼のいつものパターンと完全に一致します。つまり、政治的な話題には慎重で無口なのです」と。さらに、「他のクーデター派の軍人からは、決してクーデターを指揮するような人物とは見なされていません」とも。また、8月31日には次のように報告している。「ピノチェトは賛成するでしょうが、いざとなれば見えないふりをするかもしれません」と。この頃からCIAは、後に世界中で悪名を馳せることになるアウグスト・ピノチェト(当時はサンティアゴ守備隊の司令官)をレーダーに捉えていた。しかし、これら報告から判断するかぎり、決してピノチェトを有望視していたわけではなかったようだ。

そのピノチェトは、チリ軍部の中でもぱっとしない存在だったようだ。アジェンデ政権期に銅公社CODELCOの最高経営責任者を務めたホルヘ・アラテは、ルブナ・クレシとの対談の中で次のような主旨のことを語った。ピノチェトは人にへつらうのが得意だった、軍人としても目立たない存在だった、将軍になっても誰もそれを脅威に感じることはなく、相変わらず目立たない存在だったと。そして、ピノチェトがアジェンデ打倒に長い時間をかけた理由として、危険を冒すことなく行動したかったのだろうと推察している。

ちなみにピノチェトは、1971年11月にカストロがチリを訪問した際にカストロの護衛を務めていた。アラテによると、ピノチェトとカストロが一緒に写っている写真が何枚か残っているとのことだ。

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1972年春クーデター計画と陸軍内部の勢力伯仲

CIAは明らかにクーデターを望んでいた。サンティアゴ支局は1971年11月、何名かのチリ人将校が1972年の春にクーデターを起こす計画を立てていると本部に報告した。支局は色めき立ち、次から次とさまざまな提案を本部に送った。一例を挙げるとこんな具合だ。「クーデターの重要な局面について熟慮を重ねるためにも、クーデターの進め方について率直に話のできる相手[黒塗り]1名か2名を選ぶことです。我々の側が提供する情報は、クーデターを確実に成功させるには何が必要かについての我々独自の分析に基づいたものになるでしょう」

これに対する本部からの返信は非常に明快だった。「言うまでもなく、単に"聞く"ことと"クーデターの進め方について率直に話をする"こととの間の境界線は非常に微妙である。長期的には個々の作戦要員の分別と判断に任せねばならない。無分別で自制心に欠けると思われる要員には、我々が非難される原因になりそうな具体的情報をなるべく与えないよう、くれぐれも注意されたい」

本部は続けてこう念を押した。ドラマの総監督は北のアメリカにいると本部が認識していたことを読み取ることができるだろう。「政治的気運が望ましい状況にあること、そして、軍部が反アジェンデの行動をとるべく真剣に考えていることが、サンティアゴ支局からの報告で示された場合であっても、政策の決定に際してその情報を使う責任を負うのは、別のしかるべき[黒塗り]当局になるだろう」

このクーデター計画は、結局は1972年3月に発覚して頓挫した。半年前から進められていた謀略が流産したのだ。中級将校数名と「祖国と自由」のメンバー数名が逮捕された。そして彼らが尋問を受けているうちに、アルフレド・カナレス将軍が黒幕として陰謀に関与していることが判明した。ところがカナレスは陸軍内の有力な人物で、「私はビオーとは違うのだ。陸軍の半分は私についてくるだろう」と豪語していたほどだ。陸軍の分裂を恐れた最高司令部はカナレスを退役させることができず、降格処分で済ませた(半年後には反乱の現行犯で退役させられるが)。また、陰謀に直接加わった将校は退役させられたが、それ以外の将校に関しては、反乱派と結びつきがあるとわかっていても何もできなかった。当時の陸軍内部の力関係は、忠誠派と反乱派が拮抗していたのだが、結局その状態のまま残されることになった。忠誠派は反乱派に対して断固たる態度に出ることもできず、一方の反乱派も、軍全体をひきつれてクーデターを成功に導くことができなかったのだ。

CIAはクーデターを渇望していた。そして真実の暴露を恐れていたことは、前掲の公電から読み取ることができるだろう。実際のところ、CIAが把握していたクーデターの動きは、他にも幾度となくあったようだ。1975年5月にCIAのデヴィッド・アトリー・フィリップスがワシントンポスト紙に語ったところでは、反アジェンデのクーデターは全部で30回も計画された、そしてそのことをCIAは把握していたとのことだ。

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反アジェンデの姿勢を強めるニクソン政権

1972年に入るころには、アジェンデに対する米国政府の敵意は以前にも増して強まっていた。それまでアジェンデの政権運営は順調に行っていただけに、アジェンデの実験が他のラテンアメリカ諸国に与える刺激を恐れていたのだ。そして、不必要に長引きすぎたベトナム戦争で敗北を喫する可能性に直面していただけに、ラテンアメリカでの失敗は断じて受け入れられなかった。1971年12月の大統領宛覚書の中には次のような記述が見られる。「世界の他の諸地域における我が国の関与が縮退すればするほど、その件の我々にとっての相対的な重要度は大きなものになります」。「その件」とは、もちろんチリのことである。

ニクソン政権の側には、他のラテンアメリカ諸国における反政府活動をアジェンデが積極的に支援するのではないかとの懸念もあった。当時のチリは、他のラテンアメリカ諸国の急進派の避難場所になっていたからだ。上記の大統領宛覚書の中には、次のような記述も見られる。「こうした脅威があるからには、我が国の諜報および治安通信活動を、数よりも質を重視して強化すべきです」

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対チリ支援に消極的なキューバおよびソ連

キューバはどうかと言うと、他のラテンアメリカ諸国の反政府活動を支援するにはチリは脆弱すぎる、それどころか自国での成功さえおぼつかないと見なしていたようだ。たしかにアジェンデとカストロは親密な関係にあったし、ニクソン政権もチリに対するキューバの浸透を注視していた。1970年11月18日にチリはキューバと国交を回復し、1971年11月にはカストロがチリを訪問し、アジェンデとの親密さを見せつけている。この二人は、イデオロギーの面でも人間対人間という面でも信頼関係にあったし、米国支配から解放されたラテンアメリカという同じ夢を追いかけていた。

こうした親密さとは裏腹に、チリに対するキューバの関与は控えめな規模でのみ行われた。前述したように、キューバはチリに顧問団を派遣し、兵器と軍事訓練を提供した。が、それもごく小規模に、主としてMIRを対象に行われただけだった。CIAも、カストロがアジェンデに提供するのは助言と精神的支えくらいだろうと読んでいた。1972年5月、CIAはキッシンジャーにこう報告している。「キューバは、アジェンデは任期を全うする前に軍事あるいは反逆クーデターで打倒されるものと確信しています。他のラテンアメリカ地域に革命を輸出するための安定した永続的拠点としてチリを見なしてはいません」

結局、チリに対するキューバの関与は、他の国々に対する関与と比べれば微々たるものに終わった。1973年9月にアジェンデ政権が打倒されたときにチリにいたキューバ人活動要員は、150名にも満たなかったのだ。

ソ連も、アジェンデ政権に精神的支援を提供する一方で、相変わらず一定の距離を置いていた。社会主義チリが生き残ることに懐疑的だった、対キューバ支援で手一杯だった、ラテンアメリカは米国の所有物であると非公式に認めていた、といった事情もあるだろうが、このデタントの時期に米国政府を苛立たせたくないとの思いもあっただろう。1972年6月の「国家情報評価」の中でCIAは次のように分析している。「たしかにモスクワは、"脱依存"を達成して"進歩的"な変革を実現しようとのチリの努力に対する共感と支持を形式上は表明している。しかし、社会主義を達成しようと奮闘する人民連合という点に関しては、慎重に言及を避けている」

とはいえソ連は、イデオロギー上の理由からチリを支援せざるを得なかった。そしてチリは、米国が課した経済封鎖の影響をいやというほど感じていた。ソ連は、そもそもはフレイ政権に対して提案していた信用供与をさらに拡大し、1972年には産業振興を目的とした9700万ドルの供与を提案した。また、条件なしの銀行信用3700万ドルも認可した。中国も、5年間にわたる6500万ドルの信用供与を提案した。しかし、この程度の支援は、チリの行き詰まりを解決するには少額すぎた。

その後ソ連は、チリの銅と銅製品の購入を約束し(1972年7月)、追加の信用供与も行った(1972年11月)。それでも、最後の最後にチリ経済が危機的状況に陥ったときでさえ、ソ連の支援はわずかなものだった。政治学者のヨセフ・ノギーとジョン・スローンによると、1973年のソ連からの支援はわずかなもので、水産施設と漁港の建設、小麦製粉所の建設、発電所の拡充(いずれも一か所ずつ)といった形で支援する程度だった。

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中ソとの関係に慎重なアジェンデ

いずれにせよ、アジェンデの側にも共産大国にしがみつきたくない理由があった。チリの有権者のかなりの部分が、ソ連や中国との親密な関係に反対していたのだ。当のアジェンデ本人も、非同盟運動を支持し、チリの自立を維持することを重視していた。彼はまた、貿易や信用や技術ノウハウについては西側諸国を頼りにしたいと考えていた。さらには、ソ連や中国との関係が他のラテンアメリカ諸国との関係に及ぼす影響もアジェンデは考えねばならなかった。NSCの上級検討グループは、1972年4月のミーティングで次のような結論を出している。「いずれにせよ、そうなれば近隣諸国との関係が悪化するだろうが、それはソ連も中国もチリも避けたがっている」

チリの軍部もソ連との関係には慎重だった。1972年の初頭にソ連がチリ軍部に対して3億ドルの信用供与を提案したときも、軍部は慎重な姿勢を見せた。また、チリ軍部は6月にソ連に代表団を派遣する計画に同意したが、これも大々的なものではなかった。6月のCIA「国家情報評価」によると、「彼らは、ソ連のアドバイザーや大規模な訓練を必要としない低機能の装備品を受け入れることに、それほどの抵抗がない模様」とのことだ。アジェンデの実験に懐疑的だったソ連の側にも、チリ軍部を強力なものにしようとの強い意図があったとは考えにくい。また、それまでに米国が惜しみなくチリ軍部を支援していたことを考え合わせると、たとえアジェンデがチリをソ連の衛星国にしたいと望んでいたとしても、チリの軍部がそれを許さなかったと考えるのが妥当だろう。

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債務返済繰り延べ交渉:チリの孤立化を狙うニクソン政権

前述したしょうに、アジェンデ政権の成立から1年を経たころから、チリの経済状況は混迷の度合いを強めていく。その主要因は米国主導の金融封鎖政策にあったのだが、それに加えてアジェンデ政権は、アレサンドリおよびフレイの両政権から引き継いだ債務も背負っていた。実際、対外債務は40億ドル以上にのぼり、輸出による収入全体の30%以上が債務の返済に消えていた。結果的に、チリの外貨準備高は下降線をたどった。そして外貨が不足すると、輸入品の購入がますます困難になる。必要な輸入品には農産物も含まれていた。農産物の産出量を増やしても、チリ国民はより多くの食料品を要求する一方だった。

ニクソン政権はこうしたチリの弱みに付け込んだ。とりわけ積極的に動いたのが、財務長官のジョン・コナリーだった。彼は、1972年2月10日に予定されていたパリクラブの会合(債務返済の繰り延べを協議する会合)でチリに交渉の機会を与えない決意を固めていた。他の対チリ債権国が(二国間ではなく)多国間協議でチリと交渉することを狙っていたのだ。もちろん、その多国間協議を主導するのは米国である。

コナリーは1972年1月15日付のニクソン宛の覚書の中で、「彼らが個別に交渉してしまうと、我々の影響力が大きく削がれる可能性があります」とニクソンに助言した上で、彼自身の財務省が米国代表団の先導役になるべきだと主張した。また彼は、「我々の主たる目的は、より広範な債権国から支持を得ることによってチリを孤立させることです」とも記している。ニクソンはこの覚書に"RN"と署名し、「これが我々の政策だ」と書き加えた。そして、パリでの交渉で米国を代表する権限をコナリーに与える極秘指令を即座に出し、次のようにコナリーに命じた。「すべての政府機関が俺の考えに厳密に従うよう注意してくれ。俺の考えは、さまざまなミーティングで何度も言ってる。チリに対する融資の問題で交渉し直して合意に達するなどというのは、俺の考えとは正反対だ」

エドワード・コリーの後任としてチリ駐在米国大使に任命されていたナサニエル・デイヴィスも、この計略に賛成だった。彼は国務長官に宛てて次のように報告している。「チリの債務返済繰り延べに関して米国とヨーロッパが足並みを乱さなければ、チリ国内の需給ギャップを埋めるに十分な輸入品を購入するための資金をチリ政府は調達できないでしょう」。そして、まるで将来を予言するかのように、こうも言っている。「さまざまな経済問題つまり、インフレ、農産物の不足、輸入の締め付け、銅生産の減退といったものが深刻になれば、チリの来年の政治動向に決定的な影響が出るでしょう」

ニクソン政権は、債務の返済に関してチリ側が提示した条件(猶予期間3年、返済期間の7年延長など)は理不尽だとしてはねつけた。さらに、ヨーロッパの主要な債権国に対し、米国と協力して返済の繰り延べを拒否するよう圧力をかけた。しかし、1972年の4月にチリは西ヨーロッパ諸国との二国間協議での交渉に入ることができた。西ヨーロッパ諸国との最終的な取り決めでは、チリがその年に支払うべき金額の70%が3年間繰り延べになった。この合意はチリにとって喜ぶべきものではあったが、チリが繰り延べを望んでいた9700万ドルの債務の3/4は米国からのものだった。

1972年4月にNSCの上級検討グループがキッシンジャーに宛てた覚書には次のように記されている。「パリクラブで合意に達したとはいえ、今後12か月から18か月の間にアジェンデは経済危機に直面するでしょう。もちろん、ソ連と中国が大々的なな救済措置を取った場合は別ですが、両国ともその方向で積極的に考えるつもりはなさそうです。キューバの巣がまた一つできることをモスクワが望んでいないことは確かです。パリで厳しい結果に終わったことで(我々の思い通りの結果になりましたが)、アジェンデに対する圧力が最大限に強まり、チリ経済の崩壊が早まることになるでしょう」。アジェンデ政権がクーデターで倒される17か月前に、NSCは「今後12か月から18か月の間にアジェンデは経済危機に直面する」との予測を出したのだ。

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国際仲裁の提案を蹴るニクソン政権

債務返済に関する交渉は不調に終わった。肝心の米国は返済の繰り延べに一切応じようとしなかった。そこでアジェンデは、銅山の接収をめぐる論争の解決が唯一の残された希望だと考え、国際仲裁による解決を示唆した。それに対しニクソン政権は、1914年の米チリ和平推進相互条約を引き合いに出し、国際仲裁という考えを一蹴した。1972年4月13日、米州事情担当国務次官補チャールズ A.マイヤーは次のように主張した。「この条約は次のように明確に述べている。『一方もしくは両方の国の自主、名誉あるいは重要な利益を害するおそれのある問題、あるいは、それぞれの国の憲法の規定または第三国の利益を損ねるおそれのある問題は、そのような仲裁あるいはどのような仲裁も受けない』と。銅の基本的な問題の仲裁にはこうした障害があることを考えると、また、解決が遅れる可能性を考えると、別の手段を考えるべきだ」

1914年といえばケネコットおよびアナコンダの両社が銅を目当てにチリに進出してきたばかりの時期であり、いかにも米国らしい「よくできた」条約である。将来においてチリ側が公正な取引を主張したきた場合に備えて押し付けた条約だったのだろうが、その条約の出番がいよいよやってきたといったところだろう。だが、チリの国会議員の投票行為を金の力で操作しようとしたとき、クーデターの遂行をフレイに迫ったとき、シュナイダー暗殺のために兵器や資金をチリの軍人に提供したとき、対チリ融資の中止をヨーロッパ諸国に求めたとき、米州開発銀行による対チリ融資を妨害したとき、ヨーロッパに対する銅の輸出をケネコットと共謀して妨害したとき、はたしてニクソン政権は、チリの「自主、名誉あるいは重要な利益」を、チリの憲法を尊重していただろうか? 銅の問題に関して言えば、ケネコットとアナコンダの方こそが、チリの「自主、名誉あるいは重要な利益」を長年にわたって蹂躙してきたのではなかったか?

さらに言うなら、「条約」とは国家間の契約である。銅山の接収の問題は、国と民間企業との間の問題である。そういう問題に条約を持ち出すのは筋違いなことと考えるのは筆者だけだろうか? いずれにせよ、米国が拒否の姿勢を見せた時点で国際仲裁の道は閉ざされた。だが、この件によって証明されたことが一つある。仲裁という事態になれば自分たちの敗北に終わると米国政府高官たちは認識していた(自分たちにとって有利な結果に終わると認識していたのならアジェンデの提案を受け入れていただろう)、そして、アジェンデは自身の勝利を確信していた(でなければ仲裁の提案などしなかっただろう)、ということだ。

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第5章 チリ国民に苦難を、絶望を!

1973.3 総選挙へ向けて:民間への資金注入

1973年3月にはチリ国会議員選挙(総選挙)が予定されていた。CIAは1972年の秋、その選挙に干渉する謀略に乗り出した。CIAサンティアゴ支局は、デイヴィス大使の支持も得て、142万7666ドルの資金をこの謀略に割り当てるようワシントンの政策立案者たちに要求した。

この資金の大半がチリの反人民連合陣営に渡された。キリスト教民主党や国民党の他に、民主急進党と独立急進党にも資金が流された。後者2党は、急進党から離脱して結成されたものである。ただし、民主急進党と違って、独立急進党は人民連合に加わっていた。その独立急進党にも資金が注がれたのには理由があった。人民連合内部の分裂を狙っていたのだ。CIAは1972年10月、「サンティアゴ支局は、今後も独立急進党に影響を与え続けながら、同党を使って人民連合内部の緊張を激化する機会を逃さないよう注意を払っている」と報告している。

この謀略でニクソン政権が狙っていたのは、アジェンデと議会との対立を決定的にすることだった。1972年9月、CIAサンティアゴ支局は長官に宛てて次のように報告している。「野党が有力な連合を組んで議会の2/3以上の議席を占めるようになれば、法案に対する大統領の拒否権をくつがえせるだけでなく、いざとなれば、弾劾によって大統領を罷免できるだけの票も確保できます」

だが、こうした期待を抱きながらも、CIAは冷静な分析を怠らなかった。その分析は、せいぜい過半数程度の議席しか期待できないことを示していた。国務省は1972年10月、次のように報告している。「65対35となれば2/3も可能かもしれませんが、そういう結果はほぼあり得ないとCIAは読んでいます」。デイヴィス大使も同様の予測を立てていた。CIAは1973年1月、「デイヴィス大使は、3月の選挙では60対40で野党が優勢になる程度だろうと示唆しました」と報告している。

とはいえ、こうした悲観的な予測に直面しても、CIAは決して落胆しなかった。実は、CIAが野党陣営に資金を流し込んだのには、2/3の議席獲得とは別の狙いがあった。野党経由で民間に資金注入することによって、経済状況の悪化に不満を抱くチリ国民を反政府で立ち上がらせることも狙っていたのだ。この作戦は効果を上げた。米国による信用封鎖に起因する外貨不足のせいで輸入品を買えなくなっていた中産階級の一部は、米国からの資金援助を受けてストライキに打って出るようになった。問題の根本である信用封鎖に目を向けるのではなく、アジェンデの辞任を要求するようになったのだ。

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からなべデモ

右寄りの女性たちは、それ以前から積極的に行動を起こしていた。その最も有名なものが、1971年12月1日にサンティアゴで行われた「からなべ」デモである。これは、CIAの資金援助を受けてCIAに操られていた「婦人の力」という組織が敢行したもので、当時チリの各地で大歓迎されていたカストロに対抗する意味合いも帯びていた。このデモに先立って、CIA(および40委員会)はファシスト組織「祖国と自由」に70万ドル、そして『エル・メルクリオ』にも70万ドルを提供していた。

このデモの参加者たちは主として特権階級に属する婦人連だったが、彼女らは、自ら「飢え」と主張するものの象徴としての空の鍋を打ち叩きながら行進した。「祖国と自由」の護衛団と右派政党の代表が彼女らに付き添った。サンティアゴ市長は、デモのコースにカラビネーロス(国家警察隊)を配置した。

このデモが始まったとき、社会党所属の上院議員であるマリア・エレラ・カレラがアジェンデと連絡をとった。彼女が言うには、労働者の住宅街に数千名の婦人が集まっていて、市の中心部へ向けてデモ行進を始めようとしている。「からなべ」というものが本当はどういうものかブルジョアの婦人連に教えてやりたいからだ、とのことだった。これを聞いたアジェンデは、相手の狙いは市民の間に対立を生み出すことにある、そうすることで「秩序の回復」という口実のもとで軍に介入させよう(そして政府と対立させよう)としているのだ、と答えた。こうした理由からアジェンデはマリア・エレラ・カレラが提案したデモ行進を禁じ、カラビネーロスに対しては、慎重に行動するよう命じた。相手を挑発しようとの敵の意図をアジェンデは理解していたのだ。

「からなべ」デモの参加者たちは、イタリア広場から目的地の大統領官邸まで行進する間、お決まりの反共スローガンを唱えた。「よく聞けアジェンデ、我々女性は多数だ! チリはイエス、キューバはノー! フィデルは帰れ、地下牢へ! 肉がない、ハバナタバコを吸おう! 左の連中が我々から食べ物を奪った! 鍋の中には肉がない、それでも政府は知らんぷり!」といった具合だ。だが、デモ隊は大統領官邸には到達できなかった。出発して間もなく、デモ隊の男性護衛団がコースを変えようとして警察隊と衝突したのだ。たちまちのうちに街頭は騒然となり、茫然と立ちつくす婦人連を右翼の男たちが取り巻いた。

この「からなべ」デモは、100名以上の負傷者(ほとんどが男性)を出して終わった。当時チリに滞在していたカストロは、もちろんこの「からなべ」デモを目にしていた。彼は歓送集会の演説でこう語った。「今回の訪問で私は、革命過程にはファシズムの活動がつきものであることを再確認しました」と。彼は、ファシストがデモ行進するところを目にしたのだった。

この「からなべ」デモの狙いは、「すべての」チリ人女性がアジェンデに反対しているという印象を与えることにあった。この最初のデモには労働者階級の女性も参加していたが、先導役は上流階級の女性たちだった。その後、からなべデモは、チリの他の地域にも広がっていった。デモに参加した女性の中でも、貧困層の女性たちは実際に物不足に苦しめられていただろう。しかし、富裕層の参加者たちは、そういう「ふり」をしていただけだった。実際のところ、からなべデモの口実になった物不足も、デモそのものも、米国政府が仕組んだ陰謀に起因していたのだ。

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結束を強めるチリ野党

この「からなべ」デモのころからチリ右派の活動が活発になる。同デモの2日後の1971年12月3日、「民兵組織を支援している」との嘘を口実に、国会のキリスト教民主党議員がホセ・トア内相を弾劾する決議案を提出した。1972年1月には、国民党が「すべての非マルクス主義政党の統一戦線」を呼びかけた。そして1972年4月、キリスト教民主党(このころすでにフレイ派が実権を握っていた)および国民党その他の反アジェンデ勢力が「民主主義の行進」を演出して人民連合政府に対する抗議を示威した。このときキリスト教民主党のパトリシイオ・エイルウィン(党内フレイ派)は、こう言って反アジェンデの姿勢を明確にした。「我々の民主的権利が日々ますます脅威にさらされつつあります」。1971年1月12日から上院議長に就任していたエイルウィンは、アジェンデと激しく対立していたのだ。

1972年に入るころから、キリスト教民主党は国民党との関係を深めていた。同年6月、アジェンデはキリスト教民主党に対して議会での協力関係を提案した。キリスト教民主党の全国指導部はこれを受け入れる意向だったが、同党フレイ派の妨害に遭って交渉は頓挫した。そして1972年8月、国会の野党(キリスト教民主党、国民党、民主急進党、左翼急進党)により「民主同盟」が結成され、チリの政治情勢は以前の三極構造から「人民連合対民主同盟」という二極構造に変わった。また米国の40委員会は、チリの反政府活動を支援するための46,500ドルの資金供与を6月に承認していた。こうした状況の中、同年10月のトラック所有者ストへとなだれ込んでいくのだった。

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トラック所有者スト、社会混乱、「チリをもっと苦しめろ」

「からなべ」デモと同様に米国が民間に資金を注入して大きな成果をあげた陰謀として、1972年の10月と1973の7月にトラック業者(全国トラック所有者連盟)が決行した全国ストが挙げられる。その計画は半年前から練られていた。表向きの口実は、「チリ最南部向けの国営運輸会社を作るとの政府の提案に反対する」というものだった。実業界と国民党とキリスト教民主党が画策して支援し、CIAが大々的に資金援助した。

トラック所有者は「スト破り」を攻撃し、ファシスト組織「祖国と自由」は暴動を起こしてストを後押しした。アジェンデは、いくつかの州に非常事態宣言を出すと同時に、民衆の支援を呼びかけた。数十万という数の民衆が自発的に物資貯蔵所や鉄道の駅に出動し、食糧その他の物資の流れが止まらないよう努めた。しかし、チリの重要な拠点で何百という数のトラックがストップし、運輸のネットワークが麻痺状態に陥った。チリには大きな鉄道網がなかったため、トラック業者のストライキはチリ経済に大きな打撃を与えた。食糧をはじめとする生活必需品の配送がストップし、チリの経済は麻痺状態に陥った。

とはいえ、ストを決行するトラック業者の側にも生活の糧が必要である。これは有名な話だが、ストライキが続く中、豪勢な食事会を開いているトラック運転手の一団に、あるレポーターが尋ねた。「どこから金が入ってくるのか?」と。彼らは笑いながら答えた。「CIAからさ」

キッシンジャーは自著『Years of Upheaval』の中で、CIAがトラック業者に2,800ドルを提供したことを認めている。が、実際問題として、ストが長期間にわたって続いたことと、スト参加者の暮らしぶりが豪勢だったことを考えると、そのような額で済むわけがないのは明らかだ。実際、翌1973年の7月にもトラック所有者ストが決行されるが、そのときトラック所有者たちは、通常の一日の収益を超える額を毎日受け取るのだ。

この1972年10月のトラック所有者ストが始まって4日後の10月12日には、資本家団体である工業振興協会がストライキを開始した。こうしたストの蔓延と社会混乱をCIAは歓迎した。CIAは12日に次のように報告している。「この24時間における事態の進展がチリ軍部に大きな圧力を与えたことは間違いない。その圧力は、暴動の発生とストライキの成功によって、さらに強化されるだろう」

とはいえ、チリ軍部を実際に動かすには、まだまだ不十分だった。陸軍の反政府派は1972年7月ころから政治介入を考え始めていた。スト参加者たちは政府打倒を軍部に呼びかけた。米国の40委員会は1972年10月、142万ドルを野党に供与した。しかし、まだ機は熟していなかった。1972年10月17日の国務省の議事録には次のように記されている。「軍にクーデターを決意させるような合意が主要な反政府勢力(つまり軍、政党、民間部門)の間で得られるためには、アジェンデのもとでチリをもっと苦しめねばならない」。犠牲になるのは何の罪もないチリ民衆であることは国務省にも分かっていたはずだ。それも、チリではなく米国実業界の利益のために。

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アジェンデの足を引っ張る極左勢力

より広範な連合と中産階級の取り込みが必要不可欠と認識していたアジェンデは、何度もキリスト教民主党に協力を求めていた。が、1972年に入るころには、すでにキリスト教民主党は聞く耳を持っていなかった。米国からの惜しみない支援を受けた同党右派のフレイが、同党左派のトミックに代わって党を支配するにいたっていた。また、極左組織をアジェンデが抑え込めない点にも同党は苛立っていた。

MIRやMAPU(MAPUの場合はその主流派)といった組織は、工場や大農場の接収について、アジェンデ政権よりもずっと徹底したものを考えていた。彼ら過激左派は1971年の末ころから農場を勝手に占拠し始めた。その結果、生産活動が混乱し、小作農同士の争いも生まれた。こうした事態を受け、1971年11月4日の人民連合政府一周年記念演説にて、アジェンデは次のように言って非難した。「我々が必要としているのは、構造を変革するための社会秩序です。(中略)我々は、農場の勝手な占拠には反対です。それら占拠によって、生産活動の混乱がもたらされ、挙げ句の果ては小作農同士の争いが生まれているのです」

特にMIRはキューバ型の戦法を考えており、保守派にも政治的見解を表明する権利があるとするアジェンデの考えとは相容れないものがあった。共産党もMIRの言動に苛立っていた。ある共産党員はこう言った。「MIRは我々共産主義者をブルジョア的で非革命的だと攻撃するが、我々はもう何年も前から戦っているのだ。抑圧も経験している。労働者階級はもう百年も前から今のような状況を渇望してきたのに、MIRは3日たたかっただけでそれを投げ捨てようとしている」

MIRはアジェンデの姿勢に業を煮やし、「改革主義はファシズムへの扉を開く」、「懐柔政策くそくらえ」といったシュプレヒコールを繰り返した。アジェンデはなんとかして彼らを説得しようと試みたが、かなわなかった。それは、右からの攻撃がどれだけ凶暴になるかをMIRが理解していたからかもしれない。とはいえ、MIRの存在がCIAに利用されたことも確かだ。MIRによる暴力的活動をアジェンデによるものとするプロパガンダ作戦をCIAは展開できたからだ。

こうした過激左派の言動は、チリの軍部にも心理的影響を及ぼした。社会党の一部武闘派は独自の軍を創ろうとし、MIRは「人民軍」を結成する権利を主張していた。こうした動きが、CIAの資金援助を受けた反政府派メディアによって過大に喧伝された。それをチリ軍部の多くの将校が信じ込み、「人民軍」との内戦を予期した。彼らの目には、人民連合政府は過激左派に対して寛大すぎるように見えた。

チリ軍部の情報局も、過激左派のこうした動きを把握していた。とりわけ社会党武闘派の動きは、軍内部の反政府派にとって格好の宣伝材料になった。彼らはこの情報を利用し、態度のはっきりしない将校たちを騙すことができた。いずれは敵(政府)の武装部隊が攻撃を仕掛けてくるぞと。こうしてチリ軍部の反政府派は、自らの立場を正当化できると考えるようになった。アジェンデ政権の打倒は自国を救済するためだと。チリ軍部内でクーデター派が勢力を強めていく上で、こうした事情が大きく寄与したことは否めないだろう。

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MIRを見限るキューバ

キューバ政府は、アジェンデ政権に対するクーデターを予期し、兵器の提供および訓練という形でMIRを支援していた。ところがそのキューバも、MIRとアジェンデとの緊張関係が危機的な状態に近づくと、アジェンデの側についた。キューバのカルロス・ラファエル・ロドリゲス副首相は「人民連合政府とアジェンデ大統領に替わる革命家はいない」として、次のように言って社会党の武闘派党員を叱責した。「社会党と共産党が協力して先導している労働民衆勢力を分裂させるような政策は提案すべきではない。そのような政策は、より徹底した革命への道を開くのではなく、敵が侵入する裂け目を開くことになる」と。さらにキューバ政府は、MIRへの兵器類の提供をやめることもアジェンデに約束した。MIR戦闘員の訓練は続けるが、兵器類の提供はクーデターが勃発したときに限るとしたのだ。

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ピノチェト、プラッツ、CIA

CIAは、1971年の夏ごろからピノチェトに目を付けていたのだが、1972年の夏には、クーデターを主導しそうな人物の一人として期待をかけ始めていた。1972年9月、CIAは次のように報告している。「以前は厳格な立憲主義者だったピノチェトが、アジェンデを退陣させるか排除すべきだ(ピノチェト自身の言葉では『他に選択肢はない』)と考え直していることをしぶしぶながらも認めた」

そのピノチェトは、1972年9月、パナマ運河地帯の米国陸軍米州学校(現・西半球安全保障協力研究所)を訪問して戦車の調達を交渉した。その際に彼は、非常に重要な情報に接したようだ。CIAは、このときのことを次のように報告している(情報源はピノチェトの側近)。「ピノチェトはメキシコに来る前に、米国政府からの戦車の調達を交渉するためにパナマにいた。彼は愛想よくもてなされていると感じたようで、どのみち米国は戦車を提供してくれるだろうと信じて去って行った。パナマにいる間、彼は陸軍米州学校時代からの知り合いだった下級の将校たちと話を交わしたが、その際に、時期が来れば米国は『あらゆる手段を講じて』反アジェンデのクーデターを支援するだろうと伝えられた」

ところが、シュナイダー将軍の後を継いで陸軍総司令官の座に就いていたカルロス・プラッツ将軍は、シュナイダーと同じく、軍部は文民政府に服従すべきとの信念を抱いていた。彼が陸軍総司令官の座に就いているかぎり、反乱派将校たちにとってプラッツは邪魔者でしかなかったのだ。

そしてCIAは、チリの反乱派将校たち以上にクーデターを渇望していたようだ。1972年9月16日から20日までのチリは独立記念の祝日で、CIAはその間にクーデターが勃発することを期待していた。CIAサンティアゴ支局は15日、長官に宛てて次のように落胆と執念を報告している。「サンティアゴ支局の見解では、独立記念の休日にクーデターが勃発する可能性は48時間前よりも低下した模様。我々は今後も注意を怠ることなく本部に逐次報告する」

また、1972年10月17日のCIA秘密工作本部西半球局長の報告によると、この10月に「CIAの相応の人員」が本部に集まり、「現在のチリの情勢について、考え得るあらゆる角度から意見を出し合い」、「現在のチリの情勢をクーデターに向けて加速するためのさまざまな活動」を検討したが、「アジェンデ排除という目的の達成に決定的に資する活動というものはない」との結論にいたったとのことだ。

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アジェンデ、国連総会でチリの現状を世界に訴える

こうして陰謀が企まれている間、アジェンデはチリの現状と多国籍企業による謀略を国連総会の場で世界に訴えることを決意した。その20年前、イランのモサッデク首相が、イランの資源を支配し続ける外国企業を国連で糾弾していた。アジェンデのチリも、モサッデクのイランと同様に「資源の呪い」の犠牲者だった。彼らの国土に眠る富は外国企業の支配下に置かれ、その富を彼らが取り戻そうとすると、強大な力が彼らに襲いかかるのだった。

ここで、米国商務省による具体的な数字を紹介しておこう。1950年から1965年までの間、米国に拠点を置く多国籍企業は、ヨーロッパに対して81億ドルを投資して55億ドルの利益を得ていた。ラテンアメリカについては、それぞれ38億ドルと112億ドルである。アフリカについては、それぞれ52億ドルと143億ドルである。このように、天然資源に恵まれた国が強国の企業に搾取され、そこから生まれる利益によって強国はますます強大になるという「資源の呪い」の循環が生まれていたのだ。

1972年12月4日、アジェンデは国連総会で90分にわたる力強い演説を行った。その演説は、20年前のモサッデクの演説に不気味なほどに似ていた。外国の大企業と小国との関係が20年の間にほとんど変わっていないことを如実に表していた。アジェンデは次のように訴えた。「我々の経済は、もはや従属関係を容認できる状況にありません。輸出の80%以上が外国の一握りの大企業の支配下に置かれています。それら外国の大企業は常に、それが操業する国の利益よりも、自分たちの利益を優先してきました」

ケネコット社は、銅山の接収が決まると特別チリ法廷に訴えたが、同法廷はチリ政府を支持する判決を下した。ところがケネコット社はこの判決を受け入れることなく、ヨーロッパ諸国に対するチリの銅の輸出を妨害した。アジェンデは演説の中で、こうした行為を糾弾して次のように訴えた。「こうした行為は、一国の天然資源は、特にそれが当該国の血液となっている場合には、当該国のものであり、また当該国によって自由に活用されるとする国際法の基本原則に違反するものです」

また、アジェンデは統計データをもとに、ケネコット社とアナコンダ社の利潤が実際に過剰だったことを明らかにした。ケネコット社のチリ以外での年間の利益率が平均して10%未満だったのに対し、チリにおいては平均して52.8%だった。アナコンダ社の場合、チリ以外では3.6%だったのに対し、1955年から1970年までのチリにおいては21.5%だった。アジェンデは怒りを込めてこう訴えた。「これらの企業はチリの銅を長年にわたって搾取してきました。過去42年間だけで40億ドル以上の利益をチリから持ち出しましたが、彼らの初期投資は3000万ドルにすぎません。これがチリにとって何を意味するのかを示す痛ましい例を挙げましょう。我が国には、生まれて8か月の間に最低限の量のタンパク質が与えられなかったがゆえに通常の人間らしい生活を送ることが生涯できないであろう子供たちが60万人います。40億ドルもあれば完全にチリを変えることができるでしょう。その額のごく一部だけでも、我が国のすべての子供たちのタンパク質を確保するに十分なのです」

さらに、多国籍企業と外国政府機関による秘密工作も糾弾した。「我々は、薄暗がりの中で暗躍する勢力、強力な武器を使って戦う勢力、それも、標識を付けることもなく多様な影響中枢の奥深くに潜む勢力に直面しています。(中略)我々は、ほとんど感知できない工作活動の犠牲になっています。一般にそうした活動は、我が国の主権と尊厳を尊重するとの言葉と宣言によって偽装されています。(中略)商人に祖国はありません。どこへ行こうが、彼らは土地とのつながりを持ちません。彼らが気に掛けるのは利益の泉だけです。これは私自身の言葉ではありません。ジェファーソンの言葉です」

ITTについては、こう言って糾弾した。「(ITTは)その触手を我が国の深部に差し入れ、我が国の政治を支配しようと企てました。私は、我が国で内乱を引き起こそうとしたかどでITTを糾弾します」

このアジェンデの演説は聴衆のスタンディングオベーションをもって受け入れられた。ところが悲しいことに、国際社会はアジェンデを助けられるような状況にはなかった。ちなみに、このとき米国の国連大使だったジョージ・H・W・ブッシュもスタンディングオベーションに加わった。とはいえ、そのとき彼は自身の見解を次のように表明した。外国の民間企業が帝国主義的だとの非難に困惑している。米国を偉大で強力にしている要因のひとつなのだからと。ITTの反応も率直ではなかった。同社の広報担当者は次のように発表した。「ITTは、どういう方法であれチリの内政問題に干渉したことも妨害したこともありません。(中略)ITTは、ITTの資産を国有化したいとのホスト国の願望を常に尊重してきました」

皮肉なことに、このアジェンデの演説は、自身の政権の転覆を早める結果を招いたとも言える。翌1973年初頭、CIAはチリ人工作員に対して次のような指示を出した。「アジェンデ政権を追放して権力を掌握するよう、チリ軍内部の可能な限り多くの者たちをけしかけろ」と。

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対軍部支援を強化するニクソン政権

アジェンデの国連演説が各国代表の共感を得て大喝采を浴びていたころ、米国政府の高官たちは、クーデターの計画を詰めるだけでなく、その後のことも考えていた。1972年10月19日付のCIAサンティアゴ支局宛の公電の中には、次のような言葉が見られる。「どういう技術的困難が伴うのかを正確に把握するため、チリ特別委員会のメンバーは、アジェンデ後のチリ政府を支援するために取り得る手段をすべて洗い出すよう求められている。(中略)おそらく[黒塗り]の役割は、反政府勢力を後押しし、事態の進展を監視することに今後も限られるだろう。しかし、軍事クーデターという事態になれば、チリ軍部は以下のものを望むだろうと[黒塗り]は考えている。第一に、法と秩序を維持するための軍用装備品、第二に、新政権が有効に機能するうえで必要になる一定水準の流動資産を確保するための資金援助、そして第三に、食糧や融資などの面での従来型の援助を迅速に」。ここでは、クーデターを支援するかどうかは問題にされていない。何が必要になるかが具体的に検討されている。実際にクーデターが起きる1年ほど前の公電である。

上記の「黒塗り」の部分はおそらくCIAのことだろうと思われるが、チリの軍部がこのような気前よい支援を期待できた一方で、チリの正統なる政府には、そのような支援は期待できなかった。それどころか1973年に入っても、チリの対外債務の返済計画を見直すことをニクソン政権は拒否し続けた。とはいえ、それも軍部に関しては例外だった。1973年2月の国務省の文書には、次のような記述がある。「チリの米国に対する債務の返済遅延に関して、支払期限の来ている軍用融資の返済計画を見直す条件についてチリ政府と基本合意に達した。その取り決めに即座に署名するよう提案した」

チリ軍部に対するニクソン政権の贈り物は、返済計画の見直しだけではなかった。対外有償軍事援助(FMS:foreign military sales)(米国国防総省による対外軍事援助プログラム)向けの信用供与を提案していたのだ。これによりチリ軍部は、1972年度で1000万ドル、1973年度で1240万ドルのFMS信用を受けることになった。国務省も、チリ軍部のニーズを米国政府が十分に満たしてやることが必要不可欠だと認識していた。1973年2月22日付の国務省の覚書には次のように記されている。「チリ軍部が人民連合の革命に対して協力的になれば、米国の利益が損なわれるだろう。政策立案委員会の見解では、この時期にFMS信用を1240万ドル以下に削減すれば、そうした事態に十分なり得るとのこと」

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ソ連との経済支援交渉、不調に終わる

チリ軍部が米国からの気前良い支援を受け続けている間も、アジェンデは米国による金融封鎖に苦しんでいた。そんな彼はソ連に目を向けた。もともとソ連との関係に慎重だった彼も、ソ連の支援に頼るようになったのだ。

アジェンデは1972年12月、国連総会で多国籍企業を糾弾した後、ソ連を訪れた。そのとき彼は1億ドルの借款を申し込んだが、銅を返済に充てることを提案した。それに対してソ連はこう反応した。「ソ連が銅を必要とする理由がどこにあるのですか? シベリアの銅山に大々的な投資を行い、国内の需要には十分に応えられるというのに」。結局アジェンデは、4000万ドルの信用をソ連から受けるという成果を得るにとどまった(12月7日)。

アジェンデが提案した支援の条件が前代未聞だったということもあるが、当時のソ連にとっては、チリよりもデタントの方が優先課題になっていた。さらに、過激左派によるアジェンデ批判を見たソ連は、アジェンデの「チリの道」に懐疑的になっていたのだろう。

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1973.3 総選挙で人民連合躍進、「苦難が足りない、絶望が足りない」

1973年3月4日には国会議員選挙が行われた。これは、下院の全員と上院の半数とを改選する選挙だった。この選挙で反人民連合勢力は、CIAが目標としていた2/3の議席(アジェンデを罷免できる数)を獲得できなかった。54.7%の票を獲得した野党側の選挙後の議席数は、上院で50議席中30、下院で150議席中87となった。人民連合の得票率は43.4%だった。これは一見したところぱっとしない数字に思われるかもしれないが、1970年大統領選挙における36.6%という数字と比較すれば、大きな前進と言えるだろう。議席数で言うと、上院で3、下院で6の議席増である。米国からの干渉に起因する経済的混乱・社会不安の中にあっても、人民連合は広く大衆の支持を得ていたのだ。都市部でも地方でも、労働者階級からは特に強力な支持を得ていた。過激左派による批判も、全く人民連合に打撃を与えるに至っていなかった。

CIAサンティアゴ支局は「人民連合の政策はチリ有権者のかなりの部分に今も支持されている」との公電を打った。国務省出身のジャーナリストとしてアジェンデ政権下のチリを報じていたウィリアム・ブラムは、自著の中で次のように記している。チリにおいて、政権の座について2年以上を経過してから現職勢力が獲得した票の伸び率としては、前代未聞と言われたものだと。

ナオミ・クラインは、この選挙について自著の中で次のような内容のことを指摘している。それまでとは違う経済モデルを求める声が根強かった、そして、社会主義的な政策を求める声は日に日に大きくなっていた。一方で反アジェンデ陣営からすれば、単にアジェンデを追放するだけで済む問題ではない、もっと根本的な措置が必要だとの認識が広まったと。その「根本的な措置」とは、大衆からの抵抗を恐怖政治によって徹底的に抑え込み、その上でアジェンデとは正反対の経済体制つまり新自由主義的な経済体制を押し付けようとの計画であるが、それについては後ほど詳述する。

1970年にアジェンデが大統領に就任する以前に企まれた陰謀もそうだったが、ニクソン政権は、政治面および軍事面という2つの方面から陰謀を企てていた。だが、CIA内部の何名かは、この2方面からの陰謀に反対していた。チリの軍部と野党勢力の両方を資金援助すると、最終的には相互に悪影響を及ぼす可能性があったからだ。次のように論じるCIAの覚書(1973年4月17日付)が残っている。「我々の理解しているところでは、今後6か月から1年の間に軍事クーデターを引き起こすことを狙った政策では、政治的緊張を高めることと、経済的な苦難をより深刻なものにすることに努めるべきです。特に、国民の絶望という感覚が軍を動かすためにも、下層階級の間での経済的苦難が必要です。政治的野党、特にキリスト教民主党が計画している大衆運動に対する資金援助は、この絶望という感覚を打ち消してしまい、経済を救う結果につながる可能性があります」

背筋が凍るような冷酷さを感じさせるこの覚書を書いたCIA職員の頭の中には、1976年の大統領選挙まで待つという選択肢はなかった。彼は、脅迫するかのようにこう続けている。「おそらく1976年には人民連合が合法的に勝利を収めるでしょう。キリスト教民主党に勝利の見込みがあるというだけでは不十分です。そういう意味で、チリの状況は絶望的と言えるでしょう。そして米国政府は、必死の救済策に伴うリスクを冒すべきかどうかの決断を迫られています」

こうした「軍を動かす」ことによる解決、つまり軍事行動による解決を求める声が強まった要因の一つが、1973年3月総選挙における人民連合の前進にあったと考えて間違いないだろう。実際、複数のCIA文書が示しているのは、この選挙結果を受けて、CIAの多くの幹部が「プロパガンダ工作では目標を達成できなかった。チリ軍部が最終的な解決策になる」と確信するようになったということだ。そういう意味で、皮肉な選挙だったと言えよう。

とりわけ強硬に軍事行動路線を主張したのが、当時はレイ・ワーレンが支局長の座に就いていたCIAサンティアゴ支局だった。同支局は、3月14日に本部に宛てた公電の中で、「今後支局は、秘密活動に重点を置き、我々の連絡窓口、情報、能力を拡大すべきと考える。その目的は、以下の状況を達成することにある」として、以下の2点を挙げている。第一は、「現在の政権に反対して動く必要性についての軍部指導者たちのコンセンサス。アジェンデ政権を倒して後を引き継ぐよう、軍部の全員とは言わなくとも可能なかぎり多くの者たちをせきたてるべきと支局は考える」。第二は、「軍の計画グループと支局との、安定した意義ある関係。クーデター派の者たちが実際に真剣で能力があるということが我々の再調査で判明したなら、そうした者たちとの対話のための単一の安全なチャネルを支局は作りたい。そして、彼ら全体の能力に関する基本データが得られたなら、支局の役割を拡大すべく本部の承認を得たい」とのことだ。同時に支局は、クーデターの気運を作り出す必要性も再確認している。「選挙結果を考えると、軍の側に軍事介入のことを真剣に考えさせるためにも、政治不安と危機の切迫という雰囲気を改めて作り出す必要があると支局は認識している」と。

CIA秘密工作本部の西半球局でも、数多くの強硬派がサンティアゴ支局の姿勢を支持した。彼らは、1973年4月17日に西半球局長に宛てて書いた「チリのための政策目標」と題する覚書の中で、政治面での工作活動の継続に反対し、野党に対する秘密支援の打ち切りを要求した。「そうした支援のせいで野党は1976年選挙まで生き延びられると信じるようになった」と。その上で彼らは、政治面での活動を続ける代わりに、直接的に「軍事行動に好都合な情況を作り出す」活動に邁進すべきだと主張した。その一環として、「祖国と自由」や「国民党の武闘派」などチリのテロリストを「大々的に支援」すべきだとした。そして「その間に、経済的混乱と政治的緊張を煽り、絶望の雰囲気をかきたてるためのあらゆる努力を行う。その中で、キリスト教民主党や国民一般は軍事介入を望むようになる。こうして、政権を乗っ取るよう軍部を仕向けることに成功するだろう」と主張したのだ。

一方で、国務省とCIAの上級幹部の多くは慎重な姿勢をとった。当時はITTとCIAの秘密工作に関する上院での調査が進行中だったこともあり、早まった軍事行動を恐れたのだ。国務省では、デイヴィス大使もジャック・クビッシュ米州担当次官補も、1976年の大統領選挙での野党勝利に集中すべきだとの立場だった。CIA本部では、デヴィッド・アトリー・フィリップスなどの上級幹部はシュナイダー誘拐の失敗を覚えており、クーデターに対するチリ軍部の姿勢を懐疑的に見ていた。3月31日付の予算案の中でCIA本部は次のように主張している。「クーデターが軍部の大部分およびキリスト教民主党はじめチリの民主的野党から支持を得られることが明らかになるまではクーデターの試みを支持しないということを我々は明確にする必要がある」。そして5月1日には本部からサンティアゴ支局長に宛てて次のような公電が打たれている。「行動を起こす準備が軍にできていること、そしてキリスト教民主党はじめ反政府派がクーデターを支持することの明確な証拠が得られるまでは、軍の介入を引き起こすことを狙った行動計画を検討することは一切控えるように」。この文面から読み取れるのは、クーデターを引き起こすことに反対するのではなく、失敗を恐れる本部の姿である。これに対してサンティアゴ支局長は、「すべての反政府勢力の計画と行動は、1976年ではなく、直近の未来に焦点を合わせています。我々はこの流れの中で動くべきです。我々の作戦の方向と焦点は軍事介入に合わせるべきと考えます」と返信している。

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蔓延するストライキ

3月の総選挙で人民連合は躍進を遂げたものの、反人民連合勢力が主導するストライキの勢いは衰えなかった。4月に入ると、銅山の労働者たち(主として事務系・技術系)による大規模なストライキが勃発したのだ。

もともと彼ら銅山労働者は一般の労働者よりも比較的上層に属していたのだが、1972年10月にエル・テニエンテ銅山の労働者たちがインフレに見合うさらなる賃上げを要求したとき、アジェンデ政権はその要求を拒否した。通貨価値の下落を抑えたいということもあったが、当時の銅山労働者の賃金は、すでに最低賃金の数倍というレベルに達していたのだ。実際、アジェンデ政権の所得再分配政策により、1972年10月には、ごく一部の特権階級を除くチリ人の賃金は、前年の2倍近くに跳ね上がっていた。こうした状況は、米国が主導する経済封鎖と相まって、チリ経済に大きな打撃を与えた。さらなる物不足とインフレが後に続いたのだ。労働者の中でも上層に位置する者たちは不満の矛先を米国ではなく人民連合政府に向けた。

1973年4月18日、エル・テニエンテ銅山の労働者の一部が無期限ストに突入した。このストはキリスト教民主党が画策して主導したものだったが、そこに国民党および「祖国と自由」による支持が加わった。5月11日にはチュキカマタ銅山の労働者もストに突入した。スト派の労働者たちは、野党による支援をバックに、サンティアゴへ向けてデモ行進を開始した。右派メディアがこれを大々的に報道した。そして6月14日、サンティアゴに到着したスト派の労働者たちは大統領との面会を要求した。野党の指導者も政府の指導者も、彼らの面会要求をアジェンデが拒否するものと見ていた。ところが予想に反してアジェンデはスト派との面談に応じた。アジェンデのこの決定を社会・共産の両党は非難した。ところがアジェンデの姿勢は変わらなかった。彼は「政府に反対してストに訴える者も含めて、あらゆる派の労働者との話し合いに応じる決意を固めている」旨の声明を公式に発表した。この銅山ストは7月1日に一時金の支払いで妥協が成立した。74日間にわたるストが終わった。が、このストは銅産業を機能不全状態に追い込み、銅の輸出をストップさせた。チリ経済は大きな打撃を受けた。

ストライキは伝染病のごとく蔓延していった。1970年から1971年の間にストライキの件数は170%という増加率を示していたが、それ以降も増加が衰えることはなく、社会不安が広がり、秩序を求める声が日増しに高まっていった。1973年7月には、トラック所有者連盟が再びストに突入した。こうして、軍が行動を起こす口実が確実に現実味を帯びていった。

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1973.6 クーデター未遂事件

1973年3月総選挙の結果を受けて軍事行動路線を主張する強硬派が米国で徐々に勢力を増しつつあった1973年6月29日、サンティアゴの陸軍第二機甲連隊によるクーデター未遂事件が起きた。「タンカソ」と呼ばれるこの事件は、階級が低めの将校たちによる支離滅裂な反乱で、サンティアゴの街路を進む戦車が信号機の青を待つという有様だった。モネダ宮(大統領官邸)が砲撃されたが、陸軍総司令官のカルロス・プラッツ自らが先頭に立って反乱を鎮圧した。チリの右派メディアはこの事件を人民連合によるものにしようと目論み、第一面に「人民連合、クーデターを画策」といった見出しを大々的に掲げた。

この事件は、選挙で選出された政権に対してチリの兵士が実際に攻撃を仕掛けたという意味では42年ぶりの事件だった。また同時に、陸軍内でクーデター派が勢力を伸ばしつつある一方で、まだ準備が不十分であることを物語る事件でもあった。実際、この2日前の27日にもクーデターが予定されていたが、それも途中で発覚して失敗に終わっていた。クーデター派の指導者たちは、この29日の昼には、機が熟すまで実行を延期することを決定した。

この事件に関連して、ホアン・ガルセスは次のように論じている。この事件を機に反乱派の将校たちを退役させなかったことをアジェンデは後に残念がっていた。しかしこの時点で軍の粛清を行えば軍の反発を招くことは避けられなかった。軍内部の力関係から言って、反乱派を正面きって攻撃することはアジェンデにはできなかった。そして反乱派の側にも政府を倒すだけの力はないとアジェンデは見なしていたと。もちろん、アジェンデとしてもプラッツ総司令官としても、内戦ななんとしても避けたかったはずだ。難しい判断を迫られた瞬間だったと言えるだろう。

一方、すでに人民連合との決裂が決定的になっていたキリスト教民主党としては、戦車がモネダ宮を砲撃する間も、何の罪もない市民が巻き添えに遭っている間も、高みの見物を決め込むだけだった。いや、「高みの見物」は正確ではない。クーデターが成功して自分たちのところへ権力が転がり込むことを神に祈りながら事態を見守っていたことだろう。少なくとも、強硬な反アジェンデ派のエイルウィン党首は。エイルウィンは、クーデターが鎮圧されるとアジェンデのもとへ電話をかけてきて次のように告げた。「確固たる民主的意志と合法政権尊重の伝統をもつキリスト教民主党は、いかなるクーデターもこれを非難するものである」。同党が莫大な秘密の資金援助を米国から受けてきたことは、もちろんアジェンデも知っていたはずなのだが。

ニクソン政権内では、この29日のクーデター未遂事件を機に、慎重派が勢いを回復した。キッシンジャーは同日にニクソンに宛てた覚書の中で、「クーデターの企ては一部の者だけによる連係のまずいものだった」こと、そして、軍の全3部門の指揮官が「政府に忠実であり続けた」ことを報告している。

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勢力を強める軍内クーデター派

結局、キッシンジャー率いる40委員会は、政治面および軍事面という2方面からの謀略という方針を変えることなく、8月20日、野党と反政府派民間組織に対する100万ドルの秘密の資金援助を承認した。CIA自身の計算によれば、これにより、アジェンデの任期中にCIAが反アジェンデの隠密工作に費やした総額は650万ドルにのぼった。後に米国上院が実施した調査は、その額を800万ドルと見積もっており、1972年度だけで300万ドル以上が費やされたとしている。

とはいえ、キッシンジャーが(1976年ではなく)1973年にアジェンデを追放することにこだわっていたことは、CIAサンティアゴ支局との間の公電から読み取ることができる。CIAは、チリ軍部における立憲主義派と反乱派の間の勢力争いをかねてから細かく監視していたのだが、すでにこの時期には、クーデターに関する有望な報告がいくつか入っていた。西半球局長に就任したフィリップスがサンティアゴに派遣していた工作員からも、8月中旬に公電が送られてきた。「この数週間の間に、謀略に関する報告が増えています。クーデター実行の日付もさまざまに挙がっています」と。また別の報告は、軍のクーデター派が7月7日を決行の日に選んだものの、プラッツ総司令官の反対に遭って延期になったとして、次のように詳述していた。「軍のクーデター派にとっての主要な問題は、命令系統におけるこの障害をいかにして克服するかにあります。そのための方法の一つは、プラッツ将軍と会い、彼はもはや陸軍上層部の信頼を得ていないと告げて彼を排除することです。プラッツの後任候補としてクーデター派が考えているのは、マヌエル・トーレス。彼らは、陸軍で2番目の地位にあるアウグスト・ピノチェト将軍を、こうした状況における適切な後任とは見なしていません」

7月下旬には、サンティアゴ支局から次のような報告が入っていた。「プラッツ排除のための唯一の手段は誘拐か暗殺のように思われます。が、シュナイダー事件の記憶が心に残っているかぎり、クーデター派がそのような行為を実行に移す気になるのは難しいでしょう」。支局が本当に望んでいたのは、プラッツの退任ではなく誘拐もしくは暗殺だったのだ。

こうして、シュナイダーの後任として陸軍総司令官に就任していたプラッツ将軍の、政府に対する頑固なまでの忠誠心が、CIAにとっての関心の対象に、そしてチリ軍部のクーデター派にとっての最大の障害になっていた。1973年8月9日、アジェンデは防衛策の一環としてプラッツを国防相にも任命した。米国国防総省によると、そのプラッツは同年4月に「"命に代えても"軍を政治問題に関わらせないよう司令官たちに命じ」ていたのだった。

アジェンデは軍内外のクーデター派に対して断固たる措置をとるべきだったなんぞと無責任に論じる学者連は多い。だが、それをやるとクーデターを誘発する、あるいは内戦を招くことになるおそれがあった。プラッツはアジェンデに次のように助言していた。「12名から15名の将軍を解雇する必要があるでしょう。しかし、それをやれば内戦になります」。アジェンデは内戦の勃発を何よりも恐れたのかもしれない。彼はこう言って自身の立場を明確にしていた。「我々は常に法を尊重するために闘ってきました。なぜなら、民主主義国家においては、そうすることで独裁や専制を防止し、チリ人同士が相互に殺し合うという事態を回避し、労働者の勝利を確実にできるからです」。内戦になれば労働者の勝利どころでなくなる、自分たちのこれまでの何十年という努力も泡と消える。そうアジェンデは考えていたのではないだろうか。

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反アジェンデの姿勢を明確に示すキリスト教民主党

アジェンデ政権発足当初のキリスト教民主党は右と左に分裂していた。右を率いていたのがフレイ(前大統領)、左を率いていたのがトミック(1970年大統領選挙のキリスト教民主党候補)である。1970年大統領選挙のとき、人民連合(アジェンデ)の綱領とキリスト教民主党(トミック)の綱領との間には多くの共通点が見られた。銅の国有化、農地改革の継続、経済における国家の役割の拡大(キリスト教民主党は「共同体社会主義」と呼んでいた)などだ。したがって、トミック率いる同党左派は人民連合政府に対して協力的だった。彼らは、マルクス主義者とキリスト教徒との結束なしにアジェンデの革命は成功しないと確信していた。トミックもアジェンデも、チリの問題は資本主義の枠内では解決できないと考えていたのだ。そして、人民連合がキリスト教民主党と協力できなければチリの政治は機能しないと、トミックもアジェンデもフレイも認識していた。国会に占めるキリスト教民主党の勢力が大きかったからだ。

ところが、アジェンデの考えとは裏腹に、人民連合の指導部はキリスト教民主党との協力を拒否してしまった。フレイ政権期に同党がチリの左派に対して敵対的だったからということもあるが、人民連合の中核を成す社会党指導部が武装闘争志向だったということもあるだろう。なにしろ社会党指導部は、1971年2月に「革命の暴力は不可避かつ正当」と宣言していたのだ。特に、1971年初頭に社会党総書記に就任したカルロス・アルタミラーノは過激左派と同様の考えの持ち主で、アジェンデの「社会主義へのチリの道」とは相容れない人物だった。

まもなく、トミックはキリスト教民主党内部で力を失った。CIAによる資金援助が効果を上げ、フレイの右派が同党内で実権を握るようになった。そして、アジェンデ政権のイメージにMIRが悪影響を及ぼしていることを見てとったキリスト教民主党右派は、もはやアジェンデと協力しても何の利益も得られないと考えるようになった。

1971年7月、バルパライソ州で下院補欠選挙が行われた。このときアジェンデは、人民連合の候補を擁立することは控えてキリスト教民主党に協力することを提案した。ところが社会党指導部は社会党独自候補を擁立してしまった。結果、キリスト教民主党の候補が勝利して社会党候補は敗北を喫した。国民党がキリスト教民主党の候補を支持した結果、それまでの三極対決から二極対決となり、人民連合側は4月の地方選よりも得票率を伸ばしたにもかかわらず敗北を喫したのだ。これをきっかけに、それまでは議会においても人民連合に協力的だったキリスト教民主党が右傾化して人民連合から離れて行った。こうした事態は、米国政府にとって万々歳なことだった。キッシンジャー率いる40委員会は、この補選に先立って、キリスト教民主党の候補に15万ドルの秘密援助を与える決定を下していたのだ。

1971年12月17日、アジェンデは私邸にトミックを招いた。キリスト教民主党との対立を回避すべく会談を持ったのだ。アジェンデは、「キリスト教民主党はますます強硬になりつつあるが、それは危険なこと」と述べた上で、「キリスト教民主党左派に入閣してもらっても構わない」旨のことを伝えた。だが、トミックは「人民連合は我々に対する攻撃を続けている」、「我々は当初から人民連合との協力を願っていたのに、のけ者にされてきた」という主旨の主張を行った。結局、ふたりの会談は物別れに終わった。トミックには、人民連合政府との協力を検討する意志はなかった。いずれにせよこの時期には、キリスト教民主党の支配権はすでに党内右派に握られていた。二人の会談に同席した大統領政治顧問のホアン・ガルセスは「時機を失していた」としている。

1972年1月16日には、コルチャグア州で上院の補選が、そしてリナーレス州では下院の補選が実施された。このとき、前者では国民党がキリスト教民主党の候補に投票し、後者ではキリスト教民主党が国民党の候補に投票して勝利を収めたのだった。どちらの州でも人民連合は敗北を喫した。こうして1972年1月にはキリスト教民主党と国民党との同盟関係が確立し、それにより国会でホセ・トア内相が罷免されるに至った。トアは、野党との共存を主張していた。その彼を罷免するということは、人民連合との決裂を宣言する意味合いを持っていた。また、内相は閣僚の中でも最も重要なポストであるだけに、アジェンデ大統領に対する挑戦状としての意味合いも帯びていた。

もちろん、米国政府からの資金供与も効力を発揮していた。40委員会は1971年11月5日に81万5000ドル、12月15日には16万ドルの予算を承認したが、これは、キリスト教民主党右派が力をつけて人民連合からさらに離反することを狙ったものだった。これに限らず、米国は4月の地方選前からしきりにキリスト教民主党に援助資金を注ぎ込んでいたが、それらはもっぱら同党の右派に提供された。しかも、党の指導部に対してではなく、フレイの信頼を得た人物に対して直接に与えられたのだ。

トミックとの会談が失敗に終わった後も、アジェンデはキリスト教民主党指導部との接触を何度か試みた。しかし、合意に至ることはできなかった。そして1973年5月には、パトリシオ・エイルウィン元上院議長がキリスト教民主党の党首に就任した。彼は強硬な反アジェンデ派で、党内左派(数の上では党内で多数派を占めていた)を党の要職から排除していった。

こうした事態に直面したアジェンデは、エイルウィンと折り合いをつけるべく、ラウル・シルバ・エンリケス枢機卿に仲介役を依頼した。こうして枢機卿の後押しを得て、1973年7月から8月にかけてアジェンデは、枢機卿の自宅でエイルウィンと会談を持つことができた。だがエイルウィンは、政府との合意に向けて努力する姿を装うだけだった(ストに入っていた組合の指導者に対してストを中断するよう指示を出し、アジェンデとの交渉を継続することを約束した)。実際には、このころのキリスト教民主党は、クーデターに好適な条件を作る活動にいそしんでいた。つまりエイルウィンは、キリスト教民主党はクーデターを支持しないとアジェンデに思い込ませるという欺瞞を働いたのだ。ちなみにエンリケス枢機卿は後にピノチェト軍政を批判する先頭に立つことになる。一方、エイルウィンらキリスト教民主党フレイ派はクーデター勃発当初は軍事政権を支持するが、その後、ピノチェト批判に転向する。そしてトミックらキリスト教民主党左派は、投獄または亡命の憂き目に遭うことになる。

1973年8月22日、キリスト教民主党は、アジェンデ政権を違憲とする決議案を下院で可決させた。軍部の目から見れば、これによってアジェンデ政権の正当性はさらに揺らいだ。もちろんこの時点では、クーデターが起きた場合に軍部は即座にキリスト教民主党に権力の座を譲るものと同党は考えていた。その意味で、利己的権力欲とCIAの工作に振り回された結果としての右旋回と言えるだろう。

こうしたキリスト教民主党の頑なな態度を受け、アジェンデは最後の手段に訴えることを決意した。国民投票の実施である。それは、人民連合が提案していた憲法改革をめぐる国民投票であったが、実質的にはアジェンデ政権の信任を問う国民投票であった。だが、後述するように、この国民投票は日の目を見ないままに終わるのだった。

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プラッツ辞任、ピノチェト就任

チリの社会は緊迫の度合いを増していた。1973年7月27日、アジェンデの大統領付武官アルトゥーロ・アラヤ海軍大佐が銃で暗殺された。野党と『エル・メルクリオ』は、実行犯はGAP(大統領護衛団)のトップだとの説をしきりに喧伝して回った。アジェンデは調査を命令した。すると一人の社会党員が、自分とキューバ人グループとGAPのトップが関与したと自白した。ところが、これは虚偽の告白だった。実際に関与していたのは「祖国と自由」であり、その社会党員は拷問によって虚偽の告白を強要されていたのだ。社会党と大統領護衛団とキューバとを結び付けて印象づける試みだったと考えて間違いないだろう。

続いて、いよいよ陸軍総司令官のカルロス・プラッツがターゲットになった。6月29日のクーデターが失敗に終わった最大の要因はプラッツの存在にあるとの認識をクーデター派将校たちは共有していた。そのプラッツを追い出す作戦が始まったのだ。

まずは、プラッツを攻撃するための口実が必要だったが、この上なく奇妙な出来事が口実になった。プラッツが語ったところによると、6月27日、彼が「軍服を着て軍の車を走らせていると、4台か5台の車に分乗した者たちが私に向かって何度も不快な振る舞いを示し、挑発的な言葉を浴びせ続けた」。軍内部での陰謀を十分に承知していた彼は神経をとがらせた。彼は、その者たちがシュナイダーのように自分を殺害することを狙っているのではないかと恐れた。そのとき、アレハンドリナ・コックスという男のような外見をした女が、彼に向かって舌を突き出した。プラッツは、この女をクーデター派の組織の男性メンバーだと思い込み、ピストルを取り出して彼女の車に向けて発砲した。コックスに怪我はなかったが、自分の勘違いに気付いたプラッツは、辞任もやむなしと考えた。しかし、アジェンデが同意しなかった。プラッツは「女性だと知っていたなら発砲しませんでした。コックス夫人への謝罪を公式に繰り返します」との声明を出した。

『エル・メルクリオ』をはじめチリの右派は、反プラッツの大々的な中傷キャンペーンを繰り広げた。チリの反政府派将校たちもプラッツの恥辱を最大限に利用した。8月21日、彼らの夫人(1,000名以上と言われている)がプラッツ総司令官の公邸の前に集まり、抗議の声を上げた。先導したのはCIA工作員だった。夫人たちは罵声を浴びせかけた。石を投げる者もいた。彼女たちは、プラッツに辞任を迫る内容の手紙を受理するようプラッツ夫人に迫った。

翌22日、プラッツは最高司令部の将軍たちを招集して、夫人たちによるデモに関する見解を聴取した。6名の将軍がプラッツを支持し、その他数名が夫人デモを支持した。こうしてプラッツは、陸軍の分裂という危機に直面したのだった。ちなみにこのとき、ピノチェトは夫人デモではなくプラッツの方を支持した。

22日の夜、アジェンデはプラッツに近い最高司令部の将軍10名を食事に招待した。最高司令部の雰囲気がどのようなものなのかを直接知りたかったからだ。ホアン・ガルセスによると、その席でもピノチェトは、プラッツに対して尊敬と友情の念を抱いていること、政府に忠誠を尽くす決意を固めていること、軍部は憲法に即した機能を断固として遂行すべきであること、などを主張したとのことだ。その一方で、軍部の統一を維持して内戦を回避するにはプラッツの解任は不可避だと主張する将軍もいた。

翌23日の正午、プラッツはモネダ宮を訪れ、陸軍総司令官と国防相の職を辞する意向をアジェンデに伝えた。アジェンデはそれを認めた。ホアン・ガルセスはこの辞任劇に驚いたようで、辞任を認めるべきではなかったのではないかとアジェンデに問うた。するとアジェンデはこう答えた。「もうプラッツの命令に従う者は誰もいないのだ。それに、今のような重要な時期に、精神的にまいっている将軍には陸軍を統括することなどできないだろう」

そうは言いながらも、アジェンデはプラッツを軍人としてだけでなく政治家としても高く評価していた。アジェンデは8月31日の夜、ホアン・ガルセスに次のように言った。「プラッツがどういう役割を果たしたのか誰も分かっていないようだが、2、3か月後にはチリで最も重要な人物になってるよ」。ところが、そのプラッツの有能さが彼の命を奪うことになる。1974年9月、ピノチェト直属の秘密警察によってアルゼンチンで殺害されるのだ。

プラッツがアジェンデに提出した辞表には次のように記されていた。(1970年10月に陸軍総司令官の職を引き受けたとき)陸軍はもはや社会から隔離された安全地帯ではない、そして、政治からの独立という陸軍の伝統が圧力、緊張、抵抗といったものによって強く揺さぶられるだろうと自分は考えていたと。さらに、次のように続けている。自分を中傷してきた者たちが陸軍の規範を乱すことに成功した今、自分の責務は、確たる行動規範を身につけた兵士として、自らが軍の規律の崩壊や法治国家の転覆の要因とはならないようにすること、そして、合法政権の転覆を求める者たちにその口実を与えないようにすることにあるのだと。ここから読み取れるのは、政府支持で統一された陸軍を願うプラッツの姿である。その願いを胸に彼は自ら去って行った。もう一つ読み取れるのは、陸軍総司令官就任当初から陸軍の伝統の危機を予感していたプラッツの姿である。かつてCIAは、シュナイダー排除に向けてしきりとチリ陸軍内の者との接触を図っていた。そうした状況の中でプラッツは将来を不安視していたのだろう。

プラッツの辞表に対しては、アジェンデも思わず返書を書いてしまったようだ。次のような内容だ。貴殿の道徳的規範により、貴殿は市民の貴重な財産であり続けることだろう。祖国がまた、貴殿の協力を必要とする時が必ずやってくるだろうと。この返書が書かれたのは8月24日である。この時点でも、アジェンデの視野には明るい将来も入っていたのだ。

チリの反政府派の将校たちは、プラッツの後任としてマヌエル・トーレス将軍を望んでいた。9月11日のクーデター勃発時に3番目の地位にあった人物である。当時は陸軍内の立憲派に(表向きは)属していた陸軍No.2のピノチェトは、まだクーデター派将校たちの信頼を勝ち得ていなかった。7月7日付のCIAの報告も、「軍のクーデター派は、陸軍で2番目の地位にあるアウグスト・ピノチェト将軍を、こうした状況における適切な後任とは見なしていない」としている。しかし、プラッツは辞任に際して、自身の後任者としてピノチェトをアジェンデに推薦した。22日の会議でピノチェトが夫人デモではなくプラッツを支持したことが影響したのかどうか、その点は何とも言えない。だが、ピノチェトがプラッツを支持した裏でそういう計算が働いていたことは十分に考えられるだろう。

いずれにせよ24日、アウグスト・ピノチェトが陸軍総司令官に就任した。アジェンデはピノチェトを「立憲派」として信頼していた。国防相には、アジェンデの親しい仲間だったオルランド・レテリエルが任命された。軍部の苛立ちを感じ取っていたアジェンデは、彼をとおして軍部との関係改善を試みようとしたのだ。米国国防情報局(DIA)による25日の極秘報告書には、プラッツの辞任によって「クーデターの邪魔になる主要な要素が排除された」と記されている。チリ軍部の反政府派が望んでいた将軍とは別の(自称)立憲派の将軍が総司令官の座についたにもかかわらず、DIAはこのように報告した。おそらくこの時期には、米国の諜報機関はピノチェトの本性を見抜いていたのだろう。後述するように、8月24日にはCIAも、MIRに対するピノチェトの姿勢(「全滅させるつもり」)について報告している。

ところで前述したように、軍内部でクーデター派が勢力を伸ばしつつある中、プラッツはアジェンデにこう助言していた。「12名から15名の将軍を解雇する必要があるでしょう。しかし、それをやれば内戦になります」と。また、1972年末、将軍たちのミーティングの席でこう発言していた。「内戦になれば10万あるいは100万という数の死者が出るだろう」と。さらに1973年7月には、ディナーの席でアジェンデが「陸軍は忠実であり続けると思うか」と問うと、プラッツは回答を避けて1891年のことを示唆した。その年には、陸軍が忠実であり続けるうちに内戦に発展し、大量の血が流されたのだった。以上を総合して考えると、プラッツは、軍の分裂が流血の事態に発展することを何よりも恐れた、だから、軍の統一が保たれることに希望をつないで自ら身を引いた、と考えるのが妥当だろう。先に見たように、辞表の中でプラッツは「政府支持で」統一された陸軍を願う姿を見せている。が、それよりも彼が強く願っていたのは、政府支持かどうかに関係なく、とにかく分裂することなく統一された陸軍だったのではないだろうか? 大流血の事態を避けるために。

ピノチェトに関しても興味深い逸話が残っている。陸軍総司令官就任に際してピノチェトは政府に対する忠誠を誓った。アジェンデはそのピノチェトに対し、軍の反乱派の指導者6名を退役処分にするよう指示した。ピノチェトは6名の追放を確約した。実は、こうした措置には共産党のルイス・コルバラン書記長らが反対していた。軍部の反発を招くと思われたからだ。が、そうした懸念があることは当然ながらアジェンデも承知していたはずだ。すべてを覚悟した上での指示だった。だが、コルバランやアジェンデの懸念は全く不要だった。ピノチェトの辞書に「忠誠」も「誓い」も「確約」もなかった。彼はいろいろと理由を付けて処分を先延ばしにするばかりだったのだ。

ピノチェトは9月3日になっても忠誠を装っていた。オルランド・レテリエル国防相に対して次のような報告を行っているのだ。「軍の中には、たとえ10万の死者が出るとしても、今こそ決起すべきだと言う気狂いの集団があります。内戦ということになれば、100万にのぼる死者が出るからと言うのです。私は、かつてプラッツ将軍から命じられた、また、大統領から与えられた指示に従い、全力を尽くしてその阻止にあたるつもりです」

9月7日にもピノチェトは猫をかぶっていた。その日、前任者のプラッツ将軍に書簡をしたためるという行動に出たのだ。その書簡で彼は、合法政権を守るべく陸軍は全力をあげる決意である旨のことを書いている。クーデターの予定日が14日であるという報告をピノチェトが受けるのは、この日の夜のことである。

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軍内部の緊張・粛清と国民のアジェンデ支持

陸軍の総司令官に任命されたピノチェトが政府に対する忠誠を誓ったとしても、軍部の低い階級の者たちは、それ以前から強烈な緊張を感じていたはずだ。1973年8月初頭、チリ海軍は「不服従」の罪で100名以上を逮捕した。バルパライソの水兵たちが、海軍内部でクーデターの準備が進められているいことを、アルタミラーノ社会党総書記とMAPUの指導部に密告したのがきっかけだった。水兵の他に、民間の造船所の従業員までもが逮捕された。これら不運な人々は拷問にかけられた。人民連合に関する情報を引き出すことを目的とした拷問だった。彼らが逮捕されたのは、クーデターに反対していると見なされたからだった。その意味で、実際には海軍の方が不服従の罪を犯していたと言える。

逮捕された犠牲者たちは、一週間後に弁護士との面会を許されたとき、アジェンデに宛てて手紙を書いた。政府、憲法、法律、そして国民を守ることが犯罪なのか? 政府を倒すこと、法を侵害すること、そして何千もの人間の生涯を終わらせることが適法なのかと。「何千もの人間の生涯を終わらせる」事態に発展することを、すでに彼らは感じ取っていたのだろう。だが、この手紙に対するアジェンデの反応はなかった。その理由は明らかになっていないが、いずれにせよ、すでにチリ軍部の中でアジェンデを支持する者はごく少数になっていた。

もちろん米国政府はそれを十分に承知していた。「社会党員は実際にはロシアのスパイだ、母国の敵だ」などとするチリ軍部向け洗脳教育の先頭に立っていたのはCIAなのだから。8月31日、チリ陸軍内部の米軍関係者が次のように報告している。「チリ陸軍はクーデター支持で結束している。サンティアゴ連隊の主要な司令官たちは支持を誓った。陸海空三軍の間で協力関係を調整するための努力が進行中とのこと。クーデター決行の日付は決まっていない」。この報告は、もちろん米国政府の高官たちに伝わっていたはずだ。彼らは、8月末にはここまで詳細にチリ軍部の内情を知っていたのだ。

チリ軍部内での情勢とは関係なく、一般チリ国民の間では、アジェンデを支持する声は決して衰えていなかった。クーデターの一週間前(9月4日)には、およそ100万人のチリ国民が「アジェンデ!アジェンデ!国民はあなたを守るぞ!」とのシュプレヒコールを上げながら大統領官邸モネダ宮の前をデモ行進した。それは、チリ史上最多の参加者を集めたデモだった。しかし悲しいことに、主として労働者階級から成る熱心なアジェンデ支持者たちの力は、米国政府の支援を受けた軍部の力に及ぶはずもなかった。そして9月5日、チリ軍との合同演習を行うとの口実のもと、米海軍の艦隊がバルパライソ港に入ってきた。

トラック所有者たちは、CIAからの支援のもと、7月25日から再び全国的なストライキに入った。ストに参加したトラック所有者たちには、通常の一日の収益を超える額の支援金がCIAから毎日贈られた。それだけでなく、主要な道路を遮断したスト派は、通行を希望するドライバーたちから通行料を徴集した。カラビネーロス(国家警察隊)は、この行為を見て見ぬふりをした。

このストの結果、基本的な食料品を配給しなければならないにもかかわらず、倉庫の中で農作物や穀物が腐るという事態が生じるに至った。サンティアゴでは肉が入手不可能になった。物価が高騰して制御不能状態に陥った。地方の反政府組織が道路やトンネルや橋を爆破した。クーデターの気運が充ち満ちていた。ニクソン政権の狙いどおりに事態は進展していた。

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ニクソン政権によるピノチェト支援準備

ピノチェトが陸軍総司令官に就任した8月24日、CIAは次のように報告している。「[黒塗り]会合においてピノチェト将軍は、MIRには非常に厳しい姿勢で対処するつもりであることを明かした。陸軍はMIRを実質的に全滅させるつもりだと」。特定の政治団体に対して「厳しい姿勢で対処する」、「実質的に全滅させる」との発言は、政治不介入を本気で誓う者の言葉ではない。つまりCIAひいてはニクソン政権は、この時点で、つまりピノチェトが陸軍総司令官に就任した日には、彼がクーデター派に加わっていることを、さらには、左派を手荒く弾圧するであろうことを承知していたのだ。

さらにニクソン政権の側には、ピノチェトの恐怖の作戦を支援する用意ができていた。9月8日付の国務省の覚書には次のように記されている。「どういう形であれ軍部による干渉が起きれば、二国間軍事援助の要請が米国に対して出されるだろう。特に、暴動鎮圧装置、催涙ガス、それに医療支援と機動訓練部隊。実際、FMS信用での暴動鎮圧装置の購入に関しては、すでに公式ルートで伝えてきている。チリ側が過去からの未実行のFMS信用を利用するか現金で支払うのなら、なんらかの政権交代が起きる前にこの要請を処理しておくとよいだろう」

もちろんピノチェトの部隊は、MIRのような過激左派組織だけでなく、チリの憲法を守ろうとする者たちに対しても、暴動鎮圧装置を使うことができる。そのことをニクソン政権は十分に承知していたはずだ。だが、彼らにとって重要なのは、チリの軍部がアジェンデ政権を打倒することだけだった。8月1日付のCIA覚書には、次のように記されている。「いくらか、おそらくは相当量の血が流された後に、チリはアジェンデ政権下では見られなかった政治的社会的安定を最終的に達成できるだろう」。「相当量の血が流され」るであろうことを承知の上で、その血を流す装置を提供する用意を進めていたのだ。

いずれにせよCIAは、クーデターの「少なくとも」1日前には、9月11日にクーデターが勃発すること、そして、チリの陸海空三軍とカラビネーロス(国家警察隊)が関与しているということを知っていた。9月10日、ジャック・デヴァインという名のCIA工作員が本部にこう報告している。「クーデターは9月11日に始まる。軍の三部門とカラビネーロスが関与している。9月11日の午前7時にラジオ・アグリクルトゥーラで宣言書が読み上げられる。アジェンデ大統領を取り押さえる任務にはカラビネーロスが当たる」

クーデターの開始に際しては、CIAの側が独自に情報収集するまでもなく、チリ軍部の側からCIAに通知してくるとの了解が成立していたようだ。CIAの上級工作員だったドナルド・ウィンターズは、2000年にワシントンポストの記者にこう語った。「準備ができ次第、彼ら(チリ軍部)がやり、これから始まるということは直前に我々に通知するとの了解があった」

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踏みにじられた国民投票計画

クーデター勃発2日前の9月9日、ピノチェト将軍の娘の誕生パーティがピノチェトの私邸で開かれた。その最中にピノチェトは、ゲストの一人でチリ空軍司令官のグスタボ・レイ・グスマン将軍を別の部屋へ連れ込んだ。そこに待っていたのは、海軍司令官ホセ・トリビオ・メリノ将軍からの手紙を携えた二名の海軍将官だった。その手紙には、海軍は準備万端と書かれていた。陸軍と空軍も同様だった。カラビネーロス(国家警察隊)は、このときはまだ陰謀に加わっていなかった。

将軍たちは、クーデター決行の日をいくつか候補に挙げていた。彼らは9月11日の火曜日を選んだ。レイ将軍がメリノの手紙の裏に「了解」と書いて署名した。続いてピノチェトも署名した。

計画では、午前6時に海軍がバルパライソを制圧してバルパライソとサンティアゴの通信を遮断、午前8時に陸軍がサンティアゴに入り主要な施設を占拠、空軍が政府系のラジオ局(そして必要ならモネダ宮も)を攻撃、というシナリオだった。ピノチェトはサンティアゴ郊外にある陸軍通信センターで、他の2名はモネダ宮の向かいに位置する国防省で待機することになった。その国防省の建物の3つのフロアには、米国の軍事顧問団が陣取っていた。

興味深いことに、この9月9日、アジェンデは国民投票の実施を「近日中に」発表するつもりであることをピノチェトに伝えている。実質的に、自身の政権の信任を問う国民投票である。国民投票の実施を軍部が支持して保障してくれることが肝要だと考えて伝えたのだ。アジェンデが後にホアン・ガルセスに語ったところでは、このときピノチェトは大いに驚いたとのことだ。実はこのとき、陸軍は9月14日のパレードの際に決起すべく準備を整えていた。その日であれば、軍が動いても誰も不審に思わないと考えられたからだ。ところが、アジェンデから国民投票の話を聞き、ピノチェトは急遽予定を早めた。

アジェンデは10日の閣僚会議で、翌11日に国民投票の実施を発表することを提案した。11日の午後にはキリスト教民主党の全国大会が開かれる予定になっていたのだが、アジェンデとしては、その大会が始まる前に、キリスト教民主党の党員たちに自分の提案を聞いてもらいたいと考えたのだ。こうして、国民投票実施の発表は11日ということになった。

国民投票の話をアジェンデから聞いた翌日つまり10日の朝、ピノチェトはレテリエル国防相に次のように報告している。「軍部の情勢は落ち着いてきている」、「軍事パレードの準備は順調に進んでいる。今年は例年より簡素なものになる予定」、「6月29日のクーデターの首謀者とみられるソウペル少佐に対する軍事裁判は急ピッチで進められている。8月21日のプラッツに対する抗議デモに参加した将校の裁判も同様」といった具合だ。それまでピノチェトは、いつでもクーデターは起こりうるとしきりに言っていた。ところが、9日に国民投票のことをアジェンデから聞いた翌日の報告は、それまでとはがらっと内容が変わっている。これを読んだ者は誰でも、軍は忠誠派がしっかり掌握しているという印象を受けるだろう。

ところで、なぜピノチェトは国民投票の話を聞かされてクーデター計画を早めたのか? これは誰もが抱く疑問だろうが、本当の答は推測するしかない。この点については、ホアン・ガルセスも断言を避けている。国民投票の実施が発表されれば民間の反アジェンデ勢力が分裂する、軍もその影響を受ける、結果的にアジェンデ追放という希望もついえる可能性がある、そのあたりに理由があったのではないかと示唆するにとどめている。ただひとつ、確実に言えることがある。それは、国民投票でアジェンデが敗北するとピノチェトが読んでいたのなら、彼はクーデターを中止するだけでよかった、ということだ。彼の目的が単にアジェンデ排除にあったのなら。もちろん、最初から軍事独裁を狙っていた場合は別であるが。

実際のところ、この時期には「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれる経済学者たちがチリ社会を根底から作り変えることを狙い、チリ軍部と接触していた。自分たちが信奉するウルトラ・レッセフェール資本主義社会をチリで実現しようと渇望していたのだ。その経済政策は過度の苦痛を大衆に強いるものであっただけに、恐怖政治によってチリ大衆を沈黙させる必要があった。チリ軍部も彼らの政策に賛同し、政権を奪取した暁には彼らを経済顧問として迎え入れることを考えていた。したがって、この時点ですでに独裁・恐怖政治体制を敷くことを(ピノチェト個人ではなく)チリ軍部が考えていた可能性があるのだ。

軍事政権の経済政策については後で考察するとして、ここで一度、ピノチェトを主役とする時間軸に沿って事態の推移を整理しよう。これは確定的な(証明済みの)ものではない。9日にアジェンデは「11日に」発表すると伝えた、とする説もある。その他にも、証言者の勘違いや覚え違いなどもいろいろあるだろう。だが、9日にアジェンデがピノチェトに国民投票のことを告げたこと、そして、11日早朝に軍が蜂起したことは間違いないと考えてよさそうだ。となると、

ピノチェトの生涯を知る者には、彼が社会とか国民とかのために動く人間でないことは明らかだろう。彼が考えていたのはただ一つ、自分自身の名誉と利益である。以下は筆者の推測である。ピノチェトは9日、国民投票の実施が近日中に発表されることをアジェンデから聞かされた。日付は未定、いつか分からない。そこでピノチェトは、可能なかぎりクーデターの日付を早めようとした。国民投票の実施が発表されてからクーデターをやっても、「汚い人間」として軽蔑されるだけだ。自身の敗北を認めたことにもなる。彼はそれは避けたかった。自分自身が絶対君主としてあがめられないのなら、クーデターなどやる意味がない。目的は独裁である。カッコいい独裁である。アジェンデの追放ではない。というわけで、できるだけ早くクーデターを、ということで11日を選んだ。何かの事情で翌10日実行には危険が伴った。仮にアジェンデが10日に発表したなら、人民連合を挑発するなりして新たな口実を作るのみだ、、、 そして、海軍のメリノと空軍のレイも11日決行で合意した。準備はできている、大丈夫だと。

ガルセスが著書『アジェンデと人民連合』を発表したのは1976年のことである。彼がピノチェトの生涯を最後まで見届けてから第二版を書いたなら、筆者の見解に賛同してくれると思うのだが。

いずれにせよ、国民の信を問おうとのアジェンデの意志は国民に伝わることなく終わる。彼が最後の演説で述べるように、その意志は歴史に託されたのだ。

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カストロからの緊急援助の提案とアジェンデの反応

軍の上層部がクーデターの計画を練っていたとき、アジェンデはそのことを悟っていた。カストロも悟っていた。クーデターの勃発を予期したカストロは、大隊ひとつを維持するに十分な数の兵器類を大使館に保管してある旨をアジェンデに伝えた。しかしアジェンデは、その申し入れに飛びつかなかった。彼は共産党に対しては、キューバの兵器を受け入れることを認めた。しかし彼自身が所属する社会党に関しては、キューバの提案を受け入れる気になれなかった。彼ら社会党員が兵器に頼るようになることをアジェンデは恐れたのだろう。後にカストロは、「社会党員は武器を少しばかり手にした。しかし、私が彼らに与えようと考えていたよりもはるかに少なかった」と悲しげに語った。だが、カストロには分かっていたはずだ。大使館に保管してある兵器程度では、米国からの支援を受け続けてきたチリ軍部に対抗できるわけがないということを。

9月5日、アジェンデの政治顧問を務めていたホアン・ガルセスは、軍事行動によって民主的合法性を守っていく以外に政府が生き残る道はないとして、アジェンデに次のように助言した。危機を乗り越えるには、軍事面で政府が優位に立つ必要がある。それには陸軍の忠誠派の協力を得てサンティアゴの労働者を武装させる以外に方法はない。そして首府を軍事的に掌握して軍部からクーデター派を追放すべきだと。

これに対してアジェンデは次のように答えたという。「それには、そのために十分に動いてくれるような人物が陸軍総司令官でなければならないだろう」。このときの陸軍総司令官といえばピノチェトである。アジェンデは、ピノチェトの動きに不満を抱いていたのだろうか? 国民投票のことをアジェンデがピノチェトに打ち明けたのは9日のことである。したがって、この5日の時点ではアジェンデはピノチェトを信頼していたはずだ。後にガルセスは、このときのことを回想して次のように論じている。アジェンデにとって、軍事行動の必要性のことなどわかりきった問題だったと。だが、軍事的には反政府派の方が圧倒的に優位だった、だからアジェンデは(軍事的ではなく)政治的解決の道を求めざるを得なかったと。アジェンデは上記の言葉によって、「軍事的解決など有り得ない」と言いたかったのかもしれない。

アジェンデの最大の失敗は労働者を武装させなかった点にあるとする学者連は多い。だが、本当にそうだろうか? 労働者を武装させるメリットは本当にあっただろうか? チリ軍部に対するイデオロギー洗脳も軍事的訓練も資金援助も、遅くともケネディ時代には始まっていたのだ。それに、何としても内戦だけは避けたいとアジェンデは考えていた。労働者を武装させながら内戦を避けつつ、かつ軍部を抑止する。そんな芸当ができただろうか? アジェンデが就任当初から武力を放棄していたのも当然かつ必然のことだったと言えるだろう。

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クーデター前夜

9月10日の夜、レテリエル国防相やホアン・ガルセス大統領顧問など、人民連合のアジェンデに近い者たちは、トマス・モロ(大統領公邸)に集まって食事をともにした。アジェンデ夫人のテンチャと娘のイサベルも同席した。すると9時半になって、「兵隊を乗せた2台のトラックがバルパライソ州のロス・アンデス市を出てサンティアゴに向かっている」という主旨の報告が入ってきた。

食事が終わってテンチャとイサベルが部屋に下がり、残りの者たちが執務室に入ると、今度はアジェンデが海軍の動きについて報告した。ついに海軍がバルパライソを出たとのことだ。「多分大丈夫だと思う。軍全体が動いているわけではないから」とアジェンデは付け加えた。

その後、国民投票のことやキリスト教民主党との合意のことなどを話し合っていたが、11時になって、さきほどと同様の情報がモネダ宮から電話で入ってきた。ロス・アンデスを出発した2台のトラックのことだ。一同、何があったのかと不安な思いをつのらせた。レテリエル国防相が陸軍第二師団長に確認の電話を入れたが、トラックなどは見当たらないとのことだった。バルパライソ州もサンティアゴ州も、第二師団の管轄下にある。

日付が変わって11日の午前0時、今度は社会党のカルロス・アルタミラーノ書記長から電話があった。またもや、兵隊を乗せた2台のトラックがロス・アンデスを出たという情報だった。アジェンデはカラビネーロス(国家警察隊)長官代理のウルティア将軍に電話をかけ、何か情報が入っていないか問い合わせると同時に、警戒を怠らないよう命じた。

そうこうするうちに、11日午前2時近くになった。アジェンデは会議を解散し、皆に「お休み」を伝えた。が、その直後にモネダ宮から連絡が入った。サンティアゴに向かうトラックの話は本当だが、それは、サンティアゴの守備隊を助けに行くためであるとのことだった。11日には、2議員の議員権剥奪の件で、トラックや工場の占拠が考えられるからとのことだった。この情報は軍事次官の大佐が参謀本部の大佐と話し合った上で伝えたものであり、モネダ宮の報告主もその点を明確に説明した。

この報告を聞いたアジェンデは2時半、モネダ宮に電話をかけてこう言った。「もうだいぶ遅いから、皆、休むように。明日は長い、つらい日になるだろう」。アジェンデは「つらい日」と言った(その場に居合わせたホアン・ガルセス大統領顧問が現場で聞いた)。彼は何を意図してこう言ったのだろうか? 海軍の動きから不吉なものを感じ取っていたのだろうか? ちなみに、モネダ宮に電話をかける前にアジェンデは陸軍第二師団長と電話で話をしているが、その内容は明らかにされていない。

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9月11日

アジェンデに与えられた休息の時間はごくわずかだった。彼は午前4時から、受話器を片手に事態の把握に努めた。軍の奇妙な動きに関する報告が人民連合指導部のもとに入っていた。午前6時に海軍が反乱を起こした。コキンボ州(バルパライソの少し北)の沖では米軍の艦隊が待機している。兵隊を乗せた海軍のトラック6台がバルパライソからサンティアゴに向かったが、カラビネーロスによって制止された。陸海空三軍の総司令官は誰も電話に出ない。カラビネーロスの部隊がモネダ宮の防備に向かうところだった。このときアジェンデは、陸軍はクーデターに加わっていないと信じていた。ピノチェトのことについても、連絡が取れないのは、クーデター派につかまったせいではないかと考えたほどだ。

そうこうするうちに午前7時ころ、サンティアゴの労働者の一斉検挙を空軍が準備しているとの情報が入ってきた。ついにアジェンデはモネダ宮へ向かうことにした。7時20分、アジェンデを乗せた車が出発すると、それぞれ自動小銃を手にした23名の護衛団を乗せた3台の車と、武器を載せた2台の小型トラックが後に続いた。トマス・モロを守っていたカラビネーロスの2台の戦車もモネダ宮に向かった。アジェンデがモネダ宮に到着したのは7時半だった。彼はフィデル・カストロから贈られたAKMライフル銃を携えていた。その銃には、「闘いの友人にして同志サルバドルへ」との言葉が刻まれていた。

7時40分、アジェンデは再び三軍の総司令官に電話をかけた。しかし、誰も出なかった。このとき初めてアジェンデは、すべての総司令官が反乱に加わっているのではないかとの疑念を抱いた。

アジェンデは国民に向けてラジオでメッセージを送ることにした。執務室の3台の電話が、それぞれラジオ・コルポラシオン、ラジオ・ポルタレス、それにラジオ・マガジェネスにつながれた。

7時55分、アジェンデはラジオ・コルポラシオンにつながれた電話の受話器を手に取り、放送のスイッチを入れるよう求めた。そして彼はチリ国民に向けたラジオ演説を始めた。その中で彼は、海軍の一部が反乱を起こしたこと、そしてバルパライソが制圧されたことを国民に伝えた。その上で労働者たちに向けて、職場を占拠すること、工場に結集すること、そして平静を保つことを求めた。とりわけ、注意と警戒を怠らないことと、挑発に乗らないことを強調した。さらに、次のように言って希望の念を伝えた。「私はここにいます。私が代表する政府を民衆の意志によって守るために、ここに残ります」

8時10分、軍事次官の大佐が大統領執務室に入ってきて報告した。国防省の中に入ろうとしたが、陸軍に占拠されていて入れてくれないと。アジェンデはこのときまで、陸軍は政府に忠実だと見なしていた。だが、彼のもとに入った最初の陸軍関連情報は、このようなものだった。空軍の具体的な動きは、まだよくわかっていなかった。

8時15分、アジェンデは再びラジオを通じて国民に語りかけた。サンティアゴに来るよう忠誠派の部隊に要請した旨を伝えた上で、「忠実な部隊と組織された労働者たちが、我が国を脅かしているファシズムクーデターを粉砕するでしょう」との期待を伝えた。

アジェンデがこの2度目の演説を行っている最中に、空軍参謀本部長が大統領付武官経由で伝えてきた。「チリ国外への出国用の飛行機を国防省に用意してもいいが、どうだ?」とのことだった。それに対してアジェンデは、ラジオ演説が終わるとこう答えた。「チリ大統領は飛行機になど乗らない。君は軍人らしく振る舞うように」と。

このときアジェンデは、陸軍のことを最も気にしていた。この時点で分かっていたのは、カラビネーロス(国家警察隊)の長官であるホセ・マリア・セプルベダが政府の側についていて今もモネダ宮にいる、ということだけだった。これはアジェンデにとって非常に心強いことだった。何せカラビネーロスには、市街戦の訓練を受けた隊員が2万人もいる。しかも彼らは皆、そのための装備を身につけているのだ。

ところが8時20分ころ、カラビネーロスのセプルベダ長官が、サンティアゴ守備隊の地区代表と電話で口論を始めた。不穏な空気が漂った。セプルベダは叫んでいた。カラビネーロスの長官は自分である、カラビネーロスは常に政府と一体なのだと。これを聞いたアジェンは別の部屋から指示を出した。モネダ宮に来るようプラッツ将軍を迎えに行ってくれと。

8時30分、軍の声明がラジオを通じて発表された。次のような内容だ。「共和国大統領は、ただちに三軍およびカラビネーロスに対してその権限を移譲しなければならない。人民連合系の新聞、ラジオ、テレビは、ただちに活動を停止せよ。さもなくば空と地上から砲撃を行う。三軍・カラビネーロス軍事評議会」

電話にすら出ようとしなかった者たちは、こういう形で正体を現した。陸軍とカラビネーロスがクーデターに加わっていることが判明した。だが、カラビネーロスの部隊は今もモネダ宮を守っているし、セプルベダ長官もここモネダ宮にいる。カラビネーロス内部でクーデターが起きたのだ。ホアン・ガルセスはアジェンデに言った。「おそらく、レイ(空軍)とメリノ(海軍)が署名しているのでしょう。それに、カラビネーロス長官を名乗るメンドーサとピノチェトも」

アジェンデはこれに答えることなく、再び国民に事実を伝えた。「彼らは大統領の辞任を要求しています。しかし私は辞めません。約束を破って裏切ろうとしている兵士たちの信じられない態度を皆さんに伝えねばなりません。(中略)今この瞬間も航空機がモネダ宮の上空を飛んでいます。おそらく彼らはモネダ宮を機関銃で攻撃するでしょう。我々は静かで落ち着いています。我々が全滅させられたなら、それは、母国と国民を裏切った者たちの汚名として歴史に残るでしょう」。

ラジオによる軍の声明を受け、軍事次官がピノチェトに提案した。モネダ宮に来て自身の立場を明らかにしたらどうかと。この提案をピノチェトが受け入れるはずもなかった。プラッツ将軍の居所も相変わらず分からないままだった。たしかなことは、カラビネーロスの部隊がモネダ宮を守っていることだけだった。ところが9時前になって、それら部隊と戦車が退却を始めた。アジェンデはセプルベダ長官に説明を求めたが、セプルベダに打つ手はなかった。カラビネーロスの忠誠派も、とうとう敗北したのだった。

カラビネーロス内部でのクーデターがアジェンデにとっての決定的打撃になった。8時45分、彼はこの日4度目のラジオ演説を行った。その中で彼は自身の立場を明確に語った。そして、自分を裏切った者たちを糾弾すると同時に、未来へ向けての希望も国民に伝えた。「情勢は危機的です。我々はクーデターに直面しています。軍部の大多数が参加しています。この暗い時間に、私が1971年に述べた言葉を思い出していただきたい。私には使徒や救世主になる素質などないということです。殉教者になる素質もありません。私は、国民の皆さんから与えられた任務を成し遂げようとする社会戦士に過ぎません。しかし、チリの多数派を無視して歴史を逆戻りさせたがる者たちに知らしめてやります。殉教者になるどころか、私は一歩も引き下がらないと。彼らに知らしめてやります。彼らの心の中に刻み込んでやります。私がモネダ宮を去るのは、チリ国民によって与えられた任務を全うしたときだと。この政権とこの革命を私が守るのは、それが国民から与えられた任務だからです。私には、そうするしかないのです。彼らは、私に銃弾を浴びせることでしか、国民の計画を完遂しようとの意志を邪魔することができないでしょう。彼らが私を殺したとしても、チリ国民はその道を歩み続けるでしょう。(中略)社会の発展は、指導者がいなくなったからといって消えるものではありません。遅くなったり長引いたりすることはあるかもしれませんが、止めることはできないのです」

まもなく反政府派の声を代表するラジオ・アグリクルトゥーラが番組を中断し、クーデターの宣言を読み上げた。「まず第一に、現在のチリは、深刻な経済的・社会的・道徳的危機によって破壊されつつある。第二に、現在のチリ政府には、混乱の広がりを食い止める政策を講じることができない。第三に、非正規の武装集団が着々と勢力を強めている。(中略)こうした時局に鑑み、チリ軍部とカラビネーロスは、マルクス主義のくびきから母国を解放して秩序と合憲的統治を回復するための闘いという歴史的使命に一致団結して邁進するものである」

9時3分、アジェンデは5度目のラジオ演説を行った。今回は、まだ唯一残されていた共産党のラジオ・マガジャネスを通じての演説だ。ラジオ・コルポラシオンもラジオ・ポルタレスも、空軍によって爆撃されていたのだ。今や彼は、国民ひとりひとりを説得するかのように、将来への展望を熱く語っていた。「航空機が頭上を飛んでいます。彼らは我々を撃ち殺すかもしれません。しかし、彼らに教えてやりましょう、我々はここにいるのだと。少なくとも彼らは、自身の責務を全うする方法を知っている者たちがチリにいるということを、我々の行動から悟ることでしょう。(中略)国民の最も神聖なる利益のため、そして母国のため、私は皆さんに呼びかけます。信じましょうと。抑圧や犯罪といった手段で歴史を止めることはできません。今のこの局面は、いずれ打開されるでしょう。今日は困難でつらいでしょう。我々が踏みつぶされる可能性もあります。しかし、明日という日は、民衆のもの、労働者のものなのです。(中略)警戒と用心を怠ってはなりません。挑発に乗ってはなりません。虐殺されることがあってもなりません。同時に、民衆は自分が獲得したものを守る必要もあります。より品位のある生活を自分の努力によって築く権利も守らねばなりません」

6つの連隊が戦車でモネダ宮を包囲した。モネダ宮は、米国大使館のある憲法広場と米国の軍事顧問団(Milgroup)が入っている国防省とに挟まれたところに位置していた。モネダ宮内部の守備隊は、60名未満という規模だった。そのモネダ宮に、クーデター派の司令官から電話が入った。アジェンデはすぐに降伏して国防省へ行けとの内容だった。辞任するのなら国外へ出て行っても構わないとの提案も含まれていた。その提案をアジェンデは拒否した。「チリ大統領は降伏しない。大統領は人々をモネダで迎える。国防省に来いとピノチェトが言うのなら、そう臆病になるなと彼に伝えろ。彼自らここに来て私に会うのが筋だと」

9時15分、戦車がモネダ宮に向けて砲弾を浴びせる中、彼は6度目の(そして最後の)ラジオ演説を行った。モネダ宮の中にいた守備隊の大多数も集まって耳を傾けた。前回と同じくラジオ・マガジャネスを通じての演説だった。片手にラジオ局とつないだ受話器、片手にAKMライフル、頭に軍用ヘルメットという姿でアジェンデは語った。「おそらくこれが、皆さんにお話する最後の機会になるでしょう。空軍は、ラジオ・ポルタレスとラジオ・コルポラシオンの電波塔を爆破してしまいました。私の言葉に敵意はありません。あるのは失意だけです。誓いを破った者たちに対して、私の言葉が道徳上の罰となりますように」

「(中略)この歴史的瞬間にあって、私は国民の皆さんの誠実さに対して、生命をもって報いるつもりです。私は確信しています。無数のチリ国民の品位ある良心の中に我々がまいた種が破壊しつくされることは決してないと。彼らは武力を持っています。彼らは我々を圧倒するかもしれません。しかし、社会の発展は、犯罪によっても武力によっても止めることができません。歴史は我々のものであり、歴史を作るのは民衆なのです」

「我が国の労働者の皆さん。皆さんがいつも表明してくださった忠誠に対して感謝申し上げます。また、正義に対する皆さんの大きな渇望の通訳にすぎなかった男、憲法と法を尊重すると誓った男、そして実際に尊重した男に皆さんが託してくださった信頼に対して、感謝申し上げます。この決定的瞬間において、私が皆さんにお話しできる最後のこの瞬間において、皆さんが以下のことを戒めとされることを私は望んでいます。それは、反動と結びついた外国資本と帝国主義によって、軍がその伝統を破る気運が作り出されたということです」

「(中略)チリの男性、労働者、小作農、それに知識人の方々は、虐待されることでしょう。なぜなら、もう何時間にもわたってファシズムが我々の国に居座っているのです。そのファシズムは、テロ攻撃という形をとって、橋を爆破し、鉄道を遮断し、石油とガスのパイプラインを破壊しています。それも、行動を起こす責務を負う者たちが見ている前で。彼らもまた関与していたのです。彼らのことは歴史が判決を下すでしょう」

「ラジオ・マガジャネスも、もうすぐ通じなくなるでしょう。そうなると、私の穏やかな口調も皆さんのもとに届かなくなります。しかし、それはどうでもいいことです。私の声はいつまでも消えることはないでしょう。私はいつも皆さんとともにいます。少なくとも私に関する記憶は、母国に忠実だった品位ある男というものになるでしょう」

「民衆は自らを守らねばなりません。しかし、自らを犠牲にしてはなりません。民衆が打ちのめされたり撃ち殺されたりするといったことが起きてはなりません。民衆が屈辱を受けるといったことも、あってはなりません。我が国の労働者の皆さん、私はチリを、そしてチリの運命を信じています。裏切りが押し付けられようとしている今の暗くて苦い瞬間は、誰か他の人々によって克服されるでしょう。決して忘れないでください。よりよい社会を建設するために自由な男が歩む大通りは、すぐにでも再び開かれるということを。チリ万歳! 民衆万歳! 労働者万歳!」

「以上が私の最後の言葉です。私の犠牲が無駄にならないことを私は確信しています。少なくとも、卑劣と裏切りに対して道徳上の制裁が加えられることを確信しています」

これだけ何度もラジオで国民に語りかけながら、アジェンデは労働者たちに武器をとるよう呼びかけることはしなかった。その場に居合わせた政治顧問のホアン・ガルセスも、この点について「なぜ?」とアジェンデに迫ったという。だが、後に彼は次のように説明するに至っている。アジェンデは、軍との勝ち目のない戦いを呼びかけることはしなかった。それは、労働者に対する弾圧をできるだけ避けるためだったのだと。

アジェンデの言葉を聞いたピノチェトは、「モネダ宮を攻撃せよ。奴らを責め立てるのだ」との指令を出した。モネダ宮に対する包囲攻撃が激化した。モネダ宮の中からも銃による応戦が始まった。トマス・モロの大統領公邸が空爆を受けた。アジェンデが降伏しなければ11時にモネダ宮も空爆せよとの指令が出されたとの情報がラジオ経由でモネダ宮に入ってきた。アジェンデは犠牲を最小限にするため、モネダ宮内に配置されていたカラビネーロスの部隊の任務を解いた。

11時すぎ、おそらく電話の混線により、クーデター派のサンティアゴ作戦隊長の声をモネダ宮でも聞くことができた。彼はこう叫んでいた。「モネダ宮の連中は一人も残すな。アジェンデは特にだ。虫だと思って殲滅しろ。地上と空の両方からターゲットを破壊せよ」

このときモネダ宮の中にいたのは50名ほどだった。15名は社会党員、6名は大統領護衛団で、この21名だけが武器を持っていた。それ以外はアジェンデの側近たちだった。アジェンデは彼らを集め、どうするつもりなのかを尋ねた。「ここに踏みとどまるのが私たちの責務です」と側近たちは答えた。

正午少し前、2機のホーカーハンター戦闘機が空から轟音を轟かせながら急降下し、モネダ宮を攻撃した。その攻撃はきわめて正確だったので(ロケット弾の1つはモネダ宮の正面玄関を見事に貫通した)、後に何名かの専門家は、パイロットは米国人だったに違いないと示唆した。ロケット弾18発(正確な数字に関しては他にも諸説ある)による攻撃を受けたモネダ宮の古い建物は炎上した。建物の内部は煙と有毒ガスで満たされた。米国大使ナサニエル・デイヴィスの妻は、このときのホーカーハンターのことを後にこう語った。「どこからともなく現れて、不気味なほどに美しい光景だったわ。太陽の光が翼を照らしていたのよ」

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自殺論争

空爆に続いて、歩兵部隊が突撃を開始した。戦車による砲撃も続いた。地上と空の両方からの攻撃が続く中、アジェンデは自身の忠実な部下たちにモネダ宮を去るよう命じた。このとき、アジェンデの政治顧問を務めていたホアン・ガルセスには、「君には我々の政権のことを世界に伝えてほしい。今日ここで起きたことも」と告げた(後にガルセスは『アジェンデと人民連合:チリの経験の再検討』という本を刊行する)。アジェンデの主治医もアジェンデの言葉に従ってモネダ宮を去ろうとした。しかし彼は、ガスマスクを取りに戻ろうとしたときに陰惨な光景を目にした。肘掛け椅子の中で手足を伸ばしてぐったりしている大統領を見つけたのだ。右の頭蓋骨が砕けて脳がしたたり落ち、ヘルメットが床に転がっていた。膝の上にはマシンガンが危なっかしく乗っていた(モネダ宮内部の最終局面およびアジェンデの最期に関しては他にも諸説ある)。

アジェンデの死は、以後、議論の的になった。殺されたのか、それとも自殺なのかという議論だ。クーデターで成立した軍事政権は、自殺だったと発表した。アジェンデ支持派の人々は自殺説を受け入れたくなかっただろう。が、2011年に決着がついた。チリ司法当局がアジェンデの遺体を墓地から運び出し、複数の外国の専門家チームに検屍を委託した。結論は、アジェンデが自動小銃を膝に抱えて引き金をひいたというものだった。銃弾は2発発射されていた。

なお、アジェンデの自殺にまつわる興味深いエピソードが残っている。クーデターの直後、後にフランス大統領になるフランソワ・ミッテランが、1971年にモネダ宮を訪れたときのことを回想して語ったところでは、アジェンデはチリの元大統領ホセ・マヌエル・バルマセダを称賛していたとのことだ。バルマセダは1891年に自殺を遂げている。アジェンデはミッテランにこう語ったという。「いつの日か私がクーデターで追い出されるとしたら、私も同じことをやるでしょう」(1973年9月12日、AP通信)。1971年といえば人民連合政府の絶頂期である。その時期にアジェンデが「クーデター」という言葉を公然と口にしていたというのも興味深いが、その頃から「クーデターなら自殺」と決意していたのだろうか? シュナイダー暗殺事件が彼に与えた打撃の大きさを、また、敵の凶暴さに関する彼の認識の深さをうかがわせるエピソードではないだろうか?

いずれにせよ、アジェンデの頭の中には逃亡という選択肢はなかった。国外へ飛ぶというクーデター派の提案を受け入れていたとしても、生き延びることはなかったはずだ。国外脱出をアジェンデに提案したとき、ピノチェトは笑いながらこう言った。「その飛行機が着陸することはないだろう。奴を殺してゴミ掃除だ」

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イデオロギー戦争としての反アジェンデ政策

1964年のチリ大統領選挙でアジェンデが勝利を収めるのではないかと危惧したしたジョン・F・ケネディはこう言った。「共産主義は壁を築くことでしか権力を維持できないと我々が言っているときに、民主主義の国で共産主義者が選挙に勝つことになれば、我々にとって大きな痛手だ」

そして1970年の大統領選挙(一般投票)でアジェンデが勝利を収めた3日後、CIAは次のように報告した。「アジェンデの勝利は、米国側の心理的後退、マルクス主義イデオロギーの心理的前進になる」

東西冷戦の中で、「社会主義や共産主義は暴力革命を経ずして成立し得ない、そして、独裁や抑圧なしには存続できない」としきりに喧伝していた米国にとって、アジェンデ政権の成立と存続ほど都合の悪いものはなかった。当然ながら、第三世界や西側諸国の左派がアジェンデの成功から受ける刺激をニクソン政権は懸念したことだろう。「自由」世界の盟主たる米国としては、どうしても「民主的なアジェンデ政権」なるものを容認するわけにはいかなかった。米国が求心力を失うという事態は避けたかった。ではどうするか?

最も手っ取り早いのは、人民連合政府に武器をとらせることだろう。そこでニクソン政権は、アジェンデ就任当初からアジェンデおよび人民連合を挑発する作戦に出た。金融封鎖などでチリ経済を混乱させようとしたのには、人民連合政府が武力に頼るよう仕向ける狙いもあった。アジェンデの政治顧問を務めていたホアン・ガルセスも、米国の報復措置の狙いは、単に経済的に混乱させて軍が介入する口実を作るだけでなく、武力に頼らざるを得ない状況に人民連合政府を追い込む点にもあったと自著で指摘している。もちろん、その最終目的は軍が介入する口実を作ることにあったのだが、人民連合政府に泥を塗ってイデオロギー上の問題を解決したいとの狙いもあったはずだ。

ニクソン政権側の狙いは、決選投票前の1970年9月28日にCIA本部からサンティアゴ支局に宛てて打たれた公電に明確に表れている。「共産主義者どもが反応を起こさざるを得なくなるまで、公開の挑発的集会を、もっと大規模に集中的に開催すべし」というものだ。

ニクソン政権は、人民連合政府を挑発するための手段としてテロ行為も利用した。これも決選投票前のことだが、CIAのサンティアゴ支局が退役将軍のビオーおよびその手下の者たちをけしかけ、テロ活動を行わせたのだ。

アジェンデの大統領就任後は、金融封鎖をはじめとする経済攪乱作戦にニクソン政権は邁進した。物不足、インフレ、ストライキなどでチリ経済が混乱し、社会不安と大衆の不満が広がる。その不満を人民連合政府が暴力的に抑え込む、という筋書きだ。だが、そうした米国の作戦をアジェンデは十分に承知していた。結局、人民連合政府が挑発に乗ることはなかった。

ニクソン政権は、プロパガンダによってアジェンデに泥を塗るという工作もしきりに展開した。これも基本的には軍が動く口実を作るために行われたのだが、虚偽の情報が「真実」として世界に伝えられて「やはりそうか」という印象が生み出されることも狙っていたはずだ。

プロパガンダ工作として特に酷かったのが、1970年10月の『タイム』誌だった。表紙のデザインもどぎついが、「アジェンデが勝利者として認められれば、チリでは長い期間にわたって自由選挙が行われないことになるだろう」とのCIA製の論説もなかなかだ。さすが自由と資本主義の国、金にモノいわせて人を悪魔のごとく描きデマを流布するのも自由なのだ。

1971年2月のチリ社会党大会において同党指導部は「革命の暴力は不可避かつ正当であり、政治経済的権力掌握への唯一の道である」との決議を採択した。これはアジェンデの考えとは真っ向から対立するものだったが、CIAの支援を受けた右派メディアはこれに飛びついた。

1971年末にキューバの支援を受けて大統領護衛団GAPが創られると、CIAはこれを「アジェンデの影の軍隊」だとして喧伝した。

1972年4月には野党が「民主主義の行進」を演出したが、その際、このデモ行進を主導したキリスト教民主党のパトリシオ・エイルウィン上院議長は「我々の民主的権利が日々ますます脅威にさらされつつあります」との声明を出した。エイルウィンはキリスト教民主党のフレイ派に属していたが、このフレイ派に大々的に資金提供していたのが米国だった。

1973年7月27日、アジェンデの大統領付武官アルトゥーロ・アラヤ海軍大佐が暗殺された。このとき、ひとりの社会党員が「自分とキューバ人グループとGAPのトップがやった」との虚偽の自白を行うことを拷問によって強要された。実際の犯人はファシスト組織「祖国と自由」のメンバーだったが、その「祖国と自由」は遅くとも1971年末の「からなべ」デモのころにはCIAから資金援助を受けていた。

クーデターが成功して暫定軍事政権が樹立されると、今度は新政権のイメージアップ工作が始まる。その一例として、キリスト教民主党の要人たちがラテンアメリカおよびヨーロッパを回り、クーデターを正当なものとして説明する、という大々的な工作が行われた。この宣伝ツアーは1973年10月から一か月以上にわたって行われたが、当然ながらキリスト教民主党の要人たちは、「アジェンデ政権は倒されて当然」とする理由をさまざまにでっち上げただろう。そして、このツアーのための資金を秘密裡に提供したのがCIAだった。

他にも、アジェンデと人民連合を鬼として描く、あるいはソ連と結び付けて描くプロパガンダは、数え上げればきりがない。そして、武力に頼らざるを得ない状況にアジェンデ政権を追い込むことは、ニクソン政権の対チリ政策の一貫した基本方針だった。ところがアジェンデは挑発に乗らなかった。敵の狙いは自分たちを挑発することにあると彼は承知していた。武器をとっても勝ち目がないことも明らかだった。さらにアジェンデは、生まれ育った家庭環境に由来する生来の「内戦嫌い」だった。そんな彼は、自らの最期を覚悟した中での最後のラジオ演説においても、一度たりとも「武器をとれ」と国民に呼びかけることはしなかった。

挑発に乗らないアジェンデに苛立った軍内クーデター派はモネダ宮を徹底的に攻撃した。その一週間前の9月4日には、史上最多となる100万人がアジェンデ支持のデモに参加していた。クーデター派としては、一般大衆からの激しい反発が予想された。必然的に、大量殺戮に走るしかなかった。その意味で、追い込まれていたのはクーデター派の方だったのだ。

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第6章 ピノチェトを支援せよ

クーデター直後のワシントン

クーデターから45年を経た今日、サルバドル・アジェンデは悲劇の人物であると同時に崇敬の対象にもなっている。彼が自殺を遂げたモネダ宮(大統領官邸)から一歩外に出たところには、彼の像が建てられている。2008年、チリ国民は彼を歴史上最も偉大なチリ人に選んだ。

ところが1973年当時、ニクソン政権の高官たちは、アジェンデが後に歴史に占めることになる地位のことなど考えていなかった。アジェンデの死に感情を乱すこともなかった。それよりも、米国政府の関与を小さく見せることを目論んでいた様子がうかがえる。9月13日、キッシンジャーはケネス・ラッシュ国務副長官との会話(電話)の中で次のように語っている。「今日の説明会では、アジェンデ個人の悲運について遺憾の念を表明できると思う。もちろん、我々に敵対的な政権を転覆させたことについて謝罪せねばならないとしたら、それは馬鹿げたことだがね」。彼の頭の中には「謝罪」という言葉が一度は浮かんだ。そしてそれを打ち消したのだ。

9月16日にニクソンと電話で話をしたときのキッシンジャーも心の乱れを示さなかった。ニクソンも同様だった。ニクソンがキッシンジャーに「気になることは何も起きてないよな?」と電話で尋ねたとき、キッシンジャーは「とても気になることは何もありません」と答えた。ラテンアメリカの国で民主主義が蹂躙されたことは、北の自称民主主義者たちにとって問題ではなかったようだ。その会話の中で、キッシンジャーはニクソンにこうも言っている。「チリの件はもう安泰ですな。共産寄りの政権が倒されたもんだから、新聞は大騒ぎですが」。そして「祝杯でもあげてもらいたいところですが。アイゼンハワーの時代なら我々はヒーローですよ」と不平を漏らすと、ニクソンはこう答えた。「だがな、俺たちがやったんじゃないぜ。君も知ってのとおりだ。今回の件では、俺たちは日陰者だ」。するとキッシンジャーは念を押すかのように、「我々がやったのではありません。助けてやっただけです」と答えた。これに対しニクソンは次のように返した。「そのとおりだ。今回の件に関して、リベラルな連中の言葉に耳を貸す国民なんていないだろう。共産寄りの政権なんだから、ああなって当然なんだよ」。キッシンジャーが「そのとおりです。それに、カストロとも親しかったですしね」と言うと、ニクソンはこう付け加えた。「だがな、今回の件で重要だったのは、共産寄りだとかっていうことよりも、最初から最後まで反米だったっていうことだぜ」。キッシンジャーは「我々はヒーロー」だと言った。自分たちが本当の主役なのだと自認していた証拠とは言えないだろうか?

このころすでに暫定政権を牛耳っていたピノチェトは、米国が新政権をすぐには承認しない戦略に出ることを理解していた。デイヴィス米国大使はピノチェトについて次のようにワシントンに報告している。「彼は理解を示した。承認の問題に関しては楽観的な様子。我々が最初に承認すべきでないことは明白だと自ら申し出た。我々とのつながりを表沙汰にしない方がいいことも理解している」。このときは、ピノチェトの側からデイヴィスの代理人と会いたいと要請してきた。そして、「米国は最初に承認すべきでない」とピノチェトが自ら申し出たのだ。つまり、チリのことは米国政府にとって都合の悪いことだと、ピノチェト自身も認識していたということになる。ちなみに、米国が静かに承認したのは9月24日のことだった。正式に新政権を承認した国として11番目である。

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主役は誰だったのか?

その11か国は別として、国際社会からは一斉に非難の声があがった。数多くの政府が軍事クーデターを非難し、ラテンアメリカ中で大規模な抗議行動が起きた。当然のことながら、米国政府が非難を免れることはなく、その責任が指摘された。米国議会でも疑問の声が上がった。クーデターの翌日に開かれた国務長官指名承認公聴会の席でCIAの関与について質問を浴びせられたキッシンジャーは、次のように答えた。「CIAは1970年に非常に軽く関与しましたが、それ以後は我々はいかなるクーデターからも完全に距離を置いていました。チリでの我々の活動は、民主的な政党を強化し、1976年の選挙でそれら政党が勝利するための基礎固めをすることでした」

1973年9月4日にCIA長官の座についたばかりのウィリアム・コルビーは、9月13日、「1970年以降のチリにおけるCIAの秘密行動プログラム」と題する覚書をキッシンジャーに宛てて書いた。CIAの役割に関する質問に対応する際の指針を意図して書かれたものだった。そこには結論として、「CIAは、野党と反政府メディアが生き延びてアジェンデ政権に対する抵抗を維持するのに貢献しました。しかし、新たな軍事政権の樹立につながる一連の事件では直接的な役割を演じていません」と記されている。

ところが実際のところ、CIAその他の米国政府機関が、クーデターの気運を醸成することを目的とした工作に直接的に関与していたことは確かだ。秘密のプロパガンダ作戦、『エル・メルクリオ』を使った扇動、「祖国と自由」など過激右派に対する支援などだ。これらの工作については、CIA自身が「クーデターの舞台を用意する上で重要な役割を果たした」(1974年1月のCIA覚書より)としているのだ。

さらに、チリのクーデター派将校たちは米国の立場に疑いを抱いていなかった。彼らは、1970年にCIAが直接的にクーデターを煽ろうとしたこと(いわゆる「トラックII」)を知っていたからこそ、米国政府の支持が得られるものと理解していたのだ。CIAで秘密工作を統括する任務に当たっていたトマス・カラメシンズは、1975年、チャーチ委員会の場で次のように証言した。「トラックIIが本当に終わることはありませんでした。我々が行うよう告げられたのは、我々の活動を続けるということでした。警戒を怠るな、そして、トラックIIの目的と目標の最終的な達成に寄与するよう出来ることをやれと。1970年の活動でまかれた種が1973年に影響力を発揮したと私は確信しています。私の心の中で、その点に疑問の余地はありません」

米国政府からの支持なしにチリ軍部のクーデター派が動いたとは考えにくい。アジェンデ政権下で銅公社CODELCOの最高経営責任者を務めたアラテは、チリの運命を決定づけたのはワシントンの政府高官たちだと主張する。2005年、米国外交史の研究家でジャーナリストのルブナ・クレシとの対談の中で、彼は次のように語った。当時のチリのように二極化状態にある国が最終的にどうなるかは、影響力を持つ実力者によって左右される。その実力者の役割を担ったのが米国だった。そして、チリの右派も軍部も、米国の支援がなければ、あのような行動に出なかっただろうと。

後にピノチェトを起訴したフアン・グスマン判事も、調査に際して証拠を収集する間に次のような見解を抱くに至ったことを、2005年にルブナ・クレシに明かしている。自分の考えでは、米国からの支援が決定的だった。多くのチリ人も同意見だと思うと。

その米国からの支援は、ここで終わることなく続くことになる。その「支援」のせいでどれだけの血が流されようとも、どれだけの生命が奪われようとも。

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対『エル・メルクリオ』支援を続けるニクソン政権

軍事クーデターが成功した要因を考える際に忘れてならないのは、チリ最大の新聞『エル・メルクリオ』が果たした役割である。1970年9月にワシントンに飛んできてアジェンデ就任阻止をニクソン政権の高官たちに訴えたチリ人アグスティン・エドワーズが所有するこの右派新聞は、アジェンデ就任「阻止」のためのプロパガンダ作戦の中心地になった。そして同紙はアジェンデ就任後も、CIAによるアジェンデ「打倒」プロパガンダ作戦の重要な道具であり続けた。1971年初頭、CIAはホワイトハウスに次のように報告している。「エル・メルクリオは猛烈な反政府活動を続けている。アジェンデによる銀行の国有化、報道の自由の侵害、土地の没収を攻撃している」

そんな『エル・メルクリオ』も、1971年9月には財務上の危機に直面した。経営ミス、資金難、広告収入減、新聞印刷用紙の不足、労働争議などが主要因だったが、CIAとエドワーズは、この危機を人民連合政府のせいだとした。そして同紙がCIAに100万ドルの秘密支援を要請すると、ニクソンは1971年9月14日、同紙に対する70万ドルの秘密支援を認可した上で、自分たちの目的に資するのであれば70万ドルを超えても構わないとした。すぐに70万ドルが送られたが、10月にはキッシンジャーが追加の30万ドルを認可した。1972年4月には、さらに96万5000ドルを『エル・メルクリオ』向けの支援金としてCIAが要請して承認された。結局、半年ほどの間に195万ドルほどを『エル・メルクリオ』向けに出費したのだった。1973年3月には国会議員選挙が予定されていたので、その選挙で野党候補を支援するという意味でも重要性を持つ資金だった。こうして北のアメリカに支えられたエドワーズのメディア帝国は、反アジェンデの拡声器となり、チリ民主主義崩壊における最も重要な役割を担った。

クーデター後の1974年1月の覚書の中でも、CIA幹部たちは、プロパガンダ装置としての『エル・メルクリオ』を維持するための資金提供の継続が必要だと強調している。なにしろ、前述したようにCIAは、同紙が主役を演じたプロパガンダ作戦は「クーデターの舞台を用意する上で重要な役割を果たした」と結論づけていたのだ。結局、『エル・メルクリオ』に対する資金面での秘密の援助はクーデター後も続くことになる。新政権のイメージアップのためのプロパガンダ工作が必要だったからだが、それについては後述する。

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軍事政権による弾圧と秘密警察DINA

チリ国家に対する支配権を無慈悲かつ一方的に奪ったピノチェトらは軍事評議会を設置し、さっそく自国に対する事実上の戦争に乗り出した。この軍事評議会は、陸軍のアウグスト・ピノチェト、海軍のホセ・トリビオ・メリノ、空軍のグスタボ・レイ・グスマン、カラビネーロス(国家警察隊)のセサル・メンドーサ・ドゥランの4名から構成され、初代委員長にはピノチェトが就任した。

当初、キリスト教民主党の右派は、この軍事評議会による対内戦争が何を意味するのかを理解していなかった。1973年9月18日、同党のエドゥアルド・フレイは、軍事評議会が開いた「独立記念祭」に上院議長として出席したが、これは新政権の正当化につながった。そして10月には同党の党首パトリシオ・エイルウィンが軍事評議会と面談した。このとき彼はクーデターを支持し、党員も個人レベルで協力すると申し出た。権力が自分たちに渡されることを期待していたのだ。

だが、フレイやエイルウィンの思惑は的外れだった。軍事評議会は国会も地方議会も解散し、政党と労働者統一中央組織(CUT)を非合法化した。こうして、一世紀半の歴史を誇るチリの民主主義が蹂躙された。戒厳令が敷かれ、右派以外のメディアが閉鎖された。大学からは25パーセントから60パーセントにのぼる数の教官および学生が追放された。ピノチェト率いる新政権は、ナショナル・スタジアム、チリ・スタジアム、空軍学校、海軍学校などを強制収容所に変貌させ、政治的対抗勢力を即座に収容所送りにした。これら収容所は、またたく間に死の製造所と化したが、とりわけ悪名高いのがビジャ・グリマルディ収容所だった。そこでは、ひざまづくことも横になることもできない小部屋(「チリ室」と呼ばれた)に犠牲者は隔離された。

アジェンデ政権の高官たちは一斉検挙され、チリ最南端のドーソン島の収容所へ送られた。左派の政治活動家や労働組合の指導者なども真っ先に犠牲になった。とりわけ、軍事政権の新たな経済政策(これについては後述)の障害になると見なされた者たちが狙われた。だが、自分たちが権力の座にとどまるには、そして、新たな経済政策を押し付けるにはチリ国民全体を恐怖させる必要があると考えていた将軍たちは、それだけでは満足しなかった。数の上では、「ポブラシオン」と呼ばれる親アジェンデのスラム地区の方が多くの犠牲者を出した。暫定軍事政権は「過激派」や「狂信的チリ人」を見かけたら報告するようにとチリ国民に呼びかけた。10月8日の『ニューズウィーク』によると、サンティアゴの死体安置所にはクーデターの勃発以降2,796体の遺体が搬送されたが、その大多数は頭蓋骨を打ち砕かれているか、まるで銃殺刑に処されたかのように銃弾の穴が開いているとのことだった。チリ国民の間に恐怖が広まった。暴力的に権力を奪取した軍事政権は一般大衆にとって非常に過酷な新自由主義的経済政策を実行に移し始めたが、それに対する不満の声は上がらなかった。チリ国民は恐怖によって完全に沈黙を強いられた。

犠牲者数に関してはCIAも正確な数を把握できなかったようだ。サンティアゴ支局は、9月20日に「死者4,000」と報告したが、9月24日には「民間人の死者は2,000から1万」と報告している。また、9月21日には「厳しい抑圧が計画されている。軍部が早期に政治権力を手放すことを示すものは何もない」とも報告している。

この迫害行為を指揮したのが、チリの陸海空軍の諜報部門だった。その中でも悪名高いのが、陸軍のDINAと呼ばれる国家情報局(秘密警察)だった。この組織はクーデター直後に創設され、1974年6月14日に「国家の安全保障と開発の分野における系統的な情報を提供できる専門機関」として正式発足した。独立機関であり、ピノチェトからのみ命令を受け、ピノチェトにのみ報告する組織である。ピノチェトに異議を唱える者が軍内部にいたとしても、そういう者は誰であれDINAを使って脅すことができた。ピノチェトは、こうした機構のお陰で自身の権限をさらに強化できたのだった。1975年10月、チリの米国大使館は国務省に次のように報告している。「ピノチェトの権力の源泉の一つはDINAにある。その主要な任務は国内の治安維持にあるが、より広い活動分野に影響力を拡大しつつある。DINAはピノチェトに直接報告し、ピノチェトによってのみ支配されている」

クーデターの直後に創設されてチリ全土を恐怖の渦に巻き込んだDINAの活動や組織構造などは、当時の一般チリ国民には知られていなかったものの、米国の諜報機関にはしっかりと把握されていた。1974年1月、CIAはDINAについて、「チリ国防省が認知していない秘密の拘束をはじめ、チリ国防省も狼狽するような事件を引き起こしている」と報告している。米国大使館付き武官のウィリアム・ホン大佐は、「予想どおりではあるが、DINAはKGB型の組織に成長しつつあるように見受けられる」とワシントンに報告している。実際、1974年初頭の段階では700名程度とされていた工作員(主として警察隊、陸軍、ファシスト組織「祖国と自由」から引き抜かれていた)の数も、1975年の春には「正規メンバー2,000名ほどに膨れあがった」(米国国防情報局DIAによる報告)とのことだ。そんなDINAの長官の座に就いていたのが、1973年にピノチェトに任命されたマヌエル・コントレラスだった。

ピノチェトとコントレラスとの出会いは、1960年代中旬のチリ陸軍士官学校でのことだった。米国国防総省の記録によると、そこでコントレラスは教鞭をとり、ピノチェトは副学長を務めていた。二人は親密な関係になり、そのおかげでコントレラスはクーデター直後からピノチェトの助言者としての役割を務めていたのだった。米国国防情報局DIAはDINAが組織化される様子を逐一報告していたのだが、そのDIAはコントレラスについて、「ピノチェトに対する忠誠心が強く」、「強硬な反共反マルクス主義」で、「DINAの無慈悲な手段ゆえに目上にせよ同輩にせよ多くの者たちから大いに嫌われている」、そして「ピノチェトの個人的な支持があってはじめて昇格するので、ピノチェトの支持がなくなれば地位を失うと思われる」と、1978年に報告している。

DINAをはじめとするチリの諜報機関は、銃殺もしくは刺殺によって犠牲者たちを処刑した。処刑の方法が何であれ、その前に犠牲者たちは拷問を受けた。そうした犠牲者のひとりがエウヘニオ・ルイス・タグレだった。彼は1973年10月19日に殺されたのだが、彼の母親は遺体を見てすぐに平穏な死ではなかったことを悟った。彼女は後に真実和解委員会の場で、息子の遺体の様子を次のように説明した。片方の眼球がくり抜かれていた。鼻は切り取られ、片方の耳の下部が引き裂かれていた。首と顔には焦げ跡があった。口は膨れあがり、タバコの焦げ跡が見られた。頭部が奇妙な具合に曲がっていたが、首が折られていたのだろう、などなどと。

著名な音楽家のビクトル・ハラも犠牲者のひとりだった。チリ・スタジアムで処刑された後、彼の妻が遺体を見たときには、両手を打ち砕かれ、顔はずたずたに切り裂かれており、銃弾による傷が44か所も見つかったという。生前に彼が録音していたマスターテープも破棄された。言わば文化的抹殺である。こうすることで、アジェンデが最後の演説で言った「種」を絶やすことができるとピノチェトは考えたのだろう。

クーデター直後の1973年11月下旬にキッシンジャー(1973年9月22日に国務長官に就任していた)向けにCIAが作成した「チリの処刑」という特別秘密報告(ピノチェトによる虐殺を周恩来がキッシンジャーに抗議して作成を促したもの)によると、クーデターから6週間のうちに1,500名の民間人が殺されたが、そのうちの320名から360名が銃殺隊による即決処刑だった。数千名が国外への避難を余儀なくされた。貧困層よりも富裕層の側に立っていた暫定軍事政権は、とりわけサンティアゴの労働者階級の地域をターゲットにした。ある将軍は、脅しをかけるようにこう言った。「誰も自分の家を捜索されるのは望まないだろう。だが、中にスパイがいるなら、誰かがやってきて連れ去っていくから覚悟しろ」

前出のグスマン判事は、17年にわたる軍政の間に3,500名のチリ人が殺害されるか行方不明になったと見積もった。しかし、当時の遺体が次々と発見される中で、彼は決してこの数字を確定的とは見ていない。実際の死者数は4,000名にのぼる可能性もある。もちろん、夥しい数(約20万と言われている)の国外避難者はこの中に含まれていない。ちなみにクーデター勃発当時のチリの総人口は1000万ほどである。

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拷問犠牲者

幸運にも死を逃れた者たちも、拷問を逃れる幸運には恵まれなかった。チリ政治投獄拷問委員会の報告によると、少なくとも2万8千名が肉体的および精神的拷問を受けた。これら拷問犠牲者の大多数は、20才から30才までの若い男性だった。主として、社会党員、共産党員、労働組合員の他、非合法化された諸組織のメンバーである。

拷問では、一般的な技法のすべてが用いられた。そのすべてをここに挙げることはできないので、ごく一部の例を挙げるにとどめておこう。拳骨で殴った上で、足で蹴り上げる。目、鼻、口、首、膝、そして敏感な陰部に狙いを定めて、繰り返し打撃を与える。極度に不自然で苦痛を感じる姿勢をとらせるという手法も用いられた。

電気ショックも頻繁に用いられ、専用の装置が主要な収容所すべてに備え付けられていた。電流を通す方法は多様で、爪の下に針を差し込むといったことも行われた。トイレの利用が拒否されることもあった。チリ中南部カウティン州の収容所に拘留されていたある犠牲者は、およそ2メートル四方の小さな部屋に積み重ねにされて押し込まれたときの経験を証言した。トイレにも行かせてもらえず、その場でたれ流すしかなかった。苦痛と悪臭のあまり、嘔吐する者も多くいたと。

犠牲者は男性ばかりではなかった。女性には、精神的にも肉体的にもこたえる特殊な屈辱が与えられた。何年も経過してから、3,000名を超える女性が自身の強姦体験について証言した。性的暴力に伴う屈辱を考慮すると、まだまだ多くの女性が沈黙を守っていると考えらられる。

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独裁へと向かうピノチェト

もともと新政権(軍事評議会)は、陸海空の三軍とカラビネーロス(国家警察隊)のトップが対等な立場に立つ委員会で、委員長は持ち回りということになっていた。そして当初の取り決めに従い、最年長で陸軍のトップだったピノチェトが初代の委員長に任命されたのだった。クーデターが勃発してまもなく、ピノチェトは報道陣に対して次のように説明した。「私は最年長だから選ばれたのです。しばらくすればメリノ将軍、それからレイ将軍、といった具合になります。私は野心的な男ではないので。権力の強奪者だと思われたくないからね」

だが、彼は陸軍総司令官かつ軍事評議会のトップという2重の役割を利用して権力を自分に集中させていった。そして1974年6月には評議会の他のメンバーたちに法令527号に署名させ、これによって彼は「国家最高元首」となった。同年12月18日には「共和国大統領」と自称するようになった。結局ピノチェトは1990年1月までこの地位にとどまって独裁を続けることになる。

もちろん軍事評議会のメンバーの中には、こうしたピノチェトの動きを批判する者もいた。とりわけ空軍のグスタボ・レイ・グスマン将軍はクーデター勃発当初からピノチェトと対立していたのだが、1974年12月には「クーデターに加わるのが遅かったくせに全権を掌握しているかのように振る舞っている」とのピノチェト批判を行った。結局レイ将軍は、1978年に軍事評議会から追放されることになる。

クーデター勃発当初はピノチェトを支持していた軍部外の人々も、次第に彼の行動に戸惑いを感じ始める。後にピノチェトを起訴することになるグスマン判事も、当初はクーデターを好意的に見ていたようだ。2005年、彼はルブナ・クレシとの対談の中で次のように語った。自分たちは、アジェンデはこの国を統治する能力に欠けると見ていただけだった。そして、民主的な体制をもう一度機能させるための短期的な準備期間として暫定軍事政権を見なしていたのだと。ところが彼は徐々に新政権の本当の姿を悟り始める。当初は、軍は反乱者を抑え込んでいるだけと考えていた彼だったが、判事として、殺害された人たちの大多数が貧困者や老人たちで、子供も何人かいることを知り、これは本物の大量殺戮だと悟ったとのことだ。

チリ軍部のクーデター派が「大量殺戮」に走ったのには特別な理由があった。クーデター後の9月22日、クーデター派の指導者の一人である空軍司令官グスタボ・レイ・グスマン将軍は次のように語った。軍部全体を反乱の方向に動かす上で最大の障害になったのは、「合法的に選出された政府」を倒すという点にあったと。であるからチリ軍部クーデター派は既存の制度を根底から破壊し尽くさねばならなかった。合法性を云々できない状態、合法も違法もない状態を作り出さねばならなかったのだ。さらには、大衆からの大々的な反発・反撃が予想されたから暴力的に弾圧するしかなかった、という事情もあったはずだ。とりわけ考慮に入れねばならなかったのは、新政権の新自由主義的な経済政策に対する大衆の反発だった。この経済政策については後ほど詳述する。

前述のように当初は「この国を統治する能力に欠ける」とアジェンデを見なしていたグスマン判事だったが、アジェンデに対する彼の見解も徐々に変わったようだ。彼はこうも語っている。議会さえアジェンデの側についていたなら、彼はもっと有能な大統領になっていただろうと。では、その議会の中で最大の勢力を誇っていたキリスト教民主党、当初はアジェンデ政権に協力的だったキリスト教民主党が反アジェンデに転向したのはなぜか? 同党は、クーデターが起きた後は軍は自分たちに権力の座を譲るものと考えてクーデター支持に寝返った。つまり、キリスト教民主党の利己的権力欲と米国政府による不当な干渉(フレイ派に対する資金援助、対チリ軍部支援、クーデターに好都合な気運作りなど)が、議会とアジェンデ政権との間の軋轢を生んでいた。グスマンが言うようにアジェンデが「もっと有能な大統領」になれなかったとしても、その原因が当のアジェンデ本人にあったわけではないのだ。

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米国からピノチェトへのメッセージ

クーデターが勃発すると、ニクソン政権はそれを支持する旨のことを即座にピノチェトに伝えた。1973年9月13日にホワイトハウスのシチュエーションルームからサンティアゴの米国大使館に宛てて打たれた公電は、次のように大使に命じている。「チリと米国との絆を強化したいとのピノチェト将軍の言葉を我々は歓迎している。そのことを出来るだけ早くピノチェトに伝えるべし。(中略)暫定軍事政権を適切な方法で支援したい、協力したいと考えているということを、米国政府は明確に伝えたいと望んでいる」

これに対してナサニエル・デイヴィス大使は、翌日の14日、次のような公電を返した。「ピノチェトは心の底から感謝の念を表明し、内密に連絡をとり続けたいと言いました」

一方でホワイトハウスは、表向きはクーデターに中立の立場を装い続けた。9月17日の国務長官指名承認公聴会の席で、キッシンジャーは次のように述べた。「我々は、支持あるいは反対を暗示するようなことは一切言わないと決めました。1964年にはブラジルの新政権を真っ先に承認しましたが、そういうことは避けようとの決定です」

実際には、米国政府の高官たちは、チリ軍部による暴力的な政権奪取を自分たちが強く支持しているということを、公電を通じて秘かにチリ軍部指導層に請け合っていた。当時は、米国政府が秘密裡にクーデターに関与していたことに対して国際的にも米国連邦議会からも非難の声が上がっていたので、ニクソン政権はピノチェト支持の姿勢を隠そうとしたのだった。

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米国からピノチェトへの経済・軍事的支援

ニクソン政権がチリの軍事政権に提供したのは単なる言葉だけではなかった。経済面でも大々的な支援を提供したのだ。チリでクーデターが勃発すると、それから24時間もたたないうちに、北のアメリカでは「ワシントン特別行動グループ」(Washington Special Action Group)なるもののミーティングが開かれた。このワシントン特別行動グループというのは、さまざまな政府機関の高官から構成される特別委員会であるが、チリが要請してくると思われる支援について検討するためのミーティングを開いたのだ。並行してCIAは、チリの財政状況に関する情報を収集した。こうしてクーデターから一週間もたたないうちに、チリの経済的および軍事的要求を満たすための行動計画が立てられた。たとえば、9月17日付のワシントン特別行動グループミーティングの議事録には次のように記されている。「9月17日、ワシントンのチリ空軍武官から、以下の品目を運河地帯から至急届けてほしいとの要請があった。7.62mm砲弾100万発、照明弾2,000発、パラシュート1枚、鋼鉄ヘルメット1,000個、ライナー1,000着、パーカー1,000着。これらはすべて運河地帯で調達できる。チリへの輸送はチリ空軍機を使うことになるだろう。これら物資の提供の承認が望まれる」

さらに、ワシントン特別行動グループの9月20日のミーティングでは、「暫定政権と話合いを持ち、我々が好意を抱いている旨と、承認する意思があることと、緊急食糧支援が届く時期とを伝える」ようデイヴィス大使に指示を出し、「チリの中長期的経済ニーズについて暫定政権と話し合う権限を大使に与える」との決定が下された。

10月6日には、米国農務省がピノチェト政権に2400万ドルの商品借款を供与した。食糧不足に対処するためだった。農務省は11月にも2400万ドルの商品借款を認可した。こうした借款はアジェンデ政権時代には完全に拒否されていたものである。

こうした商品借款に加えて、米国国際開発庁(USAID)の「平和のための食糧」プログラム(Food for Peace Program)による恩恵もチリは大々的に受けた。クーデター前の3年間にこのプログラムでチリが受け取ったのが1470万ドルにすぎなかったのに対し、クーデター後の3年では1億3200万ドルに膨れあがった。ピノチェトの軍事政権はラテンアメリカのどの国よりも米国から優遇され、1975年度と1976年度には、チリの人口はラテンアメリカ全体の3%に過ぎないのに対し、「平和のための食糧」プログラムで受けた支援はラテンアメリカ全体の80%を占めるようになるのだった。

米国が牛耳る国際金融機関も対チリ融資を再開した。米州開発銀行(IDB)からの融資額は、1971年から1973年にかけては総計で1160万ドルだったのに対し、ピノチェト政権の最初の3年は総計で2億3780万ドルにのぼった。世界銀行については、アジェンデ政権時代はゼロだったのに対し、1974年から1976年にかけて承認された信用は総計6650万ドルになった。

チリの債務返済に関しても米国はピノチェトを優遇した。アジェンデ時代は返済の繰り延べ交渉を受け付けなかった米国も、ピノチェト時代になると何度も繰り延べ交渉を奨励した。当時の米州問題担当国務次官補ウィリアム・D・ロジャーズに宛てて書かれた極秘覚書には、「我々がパリクラブでの再スケジューリングの先頭に立ちました」と記されている。結局1975年、チリが米国の金融機関から借りていた1億ドル近くについて、返済を再スケジュールすることに米国は同意した。

米国からの大々的な援助を受けたピノチェトのチリは、次から次と米国から兵器を調達した。抑圧のための装備品も大量に米国に注文した。装甲人員運搬車、無反動ライフル、ジープ、トラック、暴動鎮圧装置、通信システムなどだ。結局、ピノチェトが権力を掌握してから3年の間に、チリは米国軍需品の輸入国として世界で第5位の地位についた。

ピノチェトは米国企業のことも忘れていなかった。クーデターから一年も経たないうちに、彼の政権はアナコンダ社との間の合意を発表した。その合意では、接収された資産の代償として同社は現金と約束手形で2億5300万ドルを受け取るとされた。ケネコット社は6690万ドルを受け取った。ITTとも、1億2520万ドルを支払うことで和解した。

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CIAによるプロパガンダ支援

もともとチリ軍部との繋がりが強かったCIAサンティアゴ支局は、クーデター後も隠密の支援を新政権に提供し続け、そうすることでピノチェトの権力固めに貢献することができた。1973年9月18日にCIA本部から発信された公電は、こうした支援活動を「新政権を強力かつ有能にするための活動」と表現している。秘密の政治工作、プロパガンダ、新たなスパイの育成などだ。またサンティアゴ支局は、ピノチェトの治安部隊との間で協力関係を築き、1973年末に秘密警察DINAが活動を始めた際には訓練などの支援も提供した。

クーデターの直後、サンティアゴ支局はチリの新政権に対し、物質的な支援も自ら申し出ていた。だが当時はクーデターへの関与に対する非難がCIAに浴びせられていたので、本部は直接的な支援の提供を先送りにした。10月3日、CIA秘密工作本部西半球局長のデヴィッド・アトリー・フィリップスはサンティアゴ支局に宛てて次のような公電を打っている。「チリにおけるCIAの活動が今では議会での調査の主要な対象になっている。暫定政権が採用している抑圧的な手法を非難する報道が増えている現状を考えると、しばらくは調査が続くと思われる。CIAは現在の工作活動に関する質問に正直に答えねばならないので、暫定政権を支援できない。今は物資を提供できない理由については、何かもっともらしい理由をでっちあげろ」。本当は支援したいのだが「今は」できない、けれどもピノチェトとの関係は大切に維持したいので「もっともらしい理由をでっちあげろ」ということだ。

当面は物質面での支援を諦めざるを得なかったCIAは、プロパガンダの面での支援に注力した。チリ国外でのイメージ改善とチリ国内での人気向上を狙ったプロパガンダ工作である。『チリ政権交代白書』と題する宣伝本の起草を手伝い、それを米国その他の国の報道陣や政治家にばらまいた。『エル・メルクリオ』に対する資金面での秘密の援助も相変わらず続いた。同紙は軍の「改革」を強調し、抑圧については最低限の報道にとどめた。

とりわけサンティアゴ支局と西半球局は、クーデター後におけるプロパガンダ工作の必要性を強硬に主張した。それに対して国務省は、クーデター前から行われているCIAの秘密工作は終わりにすべきとの立場だった。1974年1月9日、フィリップス西半球局長はCIA本部内の上司たちに宛てた覚書の中で次のように主張した。「プロパガンダプロジェクトは軍事クーデターの舞台を用意するうえで重要な役割を果たしたが、ピノチェト政権を支援するためのプロパガンダ活動も必要不可欠である」、「クーデター以来、これらメディア各局は軍事政権を支持してきた」、「彼らは暫定政権をチリ大衆に最大限肯定的に見せようとしてきた。また、チリの外国人ジャーナリストが現地の現実の状況を把握するのに力を貸してきた」、「したがって、このプロジェクトは、新政権に好意的なチリ世論を支局が作り上げる上で欠かすことができない」。結局、西半球局はプロパガンダ工作のための追加資金として17万6000ドルを要求して獲得した。

CIAは、チリのキリスト教民主党を使った新政権のイメージアップ工作にも秘密裡に資金提供した。もともとはデイヴィス大使が新政権の要人に提案して実現した工作であるが、チリのキリスト教民主党の著名な党員たちがラテンアメリカとヨーロッパを回り、公開の場でクーデターを正当なものとして説明するという作戦である。このツアーは1973年10月から一か月以上にわたって行われたが、当時のキリスト教民主党は資金難に陥っていたこともあり、CIAが秘密裡に資金援助したのだった。

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CIAとDINAの秘密の関係

CIAは、クーデター後にチリ全土を恐怖の渦に巻き込んだ秘密警察DINAに対する支援も惜しまなかった。チャーチ委員会による1975年の報告書『チリにおける秘密活動 1963-1973』はCIAとDINAの関係について、クーデター後にCIAはチリ政府の治安諜報部隊との連絡関係を回復したとだけ説明していた。この「連絡関係」について、CIAは2000年9月になって、ようやく少し詳細に説明した。「CIAは、国内での組織化と、国外からの転覆活動およびテロリズムに対抗するための訓練の点で、これら機関を支援した」と。ところがCIAが実際に提供した支援は、こうした言葉から連想されるような初歩的な支援をはるかに超えるものだった。クーデター後にDINA長官のコントレラスがあんなにも大規模で複雑な組織をあんなにも素早く構築できたのも、そしてDINAがあんなにも素早く勢力を確立できたのも、CIAの支援があったからこそと言えるのだ。

クーデターが成功するとまもなく、CIA副長官のヴァーノン・ウォルターズがサンティアゴへ飛び、CIAからの支援についてピノチェトと会談を持った。そのときピノチェトは「DINAの指導者としてコントレラスを選んだ」とウォルターズに伝えた。そしてサンティアゴ支局長のレイ・ワーレンはコントレラスに対し、計画、訓練、組織化に関わる支援を約束した。さらに1974年3月4日には、コントレラスがワシントンでのランチミーティングに招待された。そのミーティングはCIAの主催でCIA本部で開かれたもので、ウォルターズ副長官と西半球局の幹部たちがコントレラスを囲んだ。そのときのミーティングに関する報告がサンティアゴ支局に送られているが、そこには、CIAが提供できそうな協力分野がさまざまに記されている。そして1974年8月、CIAの専門家8名がDINA要員の訓練のためにサンティアゴへやってきた(その期間と訓練内容に関しては今も極秘扱いのままにされている)。

上記のミーティングの場でコントレラスに対して「国内での政治的抑圧と解釈される可能性のある活動向けの訓練と支援は提供できない」点を強調したと、本部はサンティアゴ支局に報告していた。2000年9月のCIAによる説明でも、「国外からの転覆活動およびテロリズムに対抗するための訓練の点で」支援したとされていた。だが、チャーチ委員会が調査した文書によると、チリの各種機関に対するCIAの支援のほとんどは国外からの転覆活動に対抗することを目的としていたものの、その支援は国内からの転覆活動を鎮圧するのにも適用可能であるということを、CIA幹部は理解していた。そういう理解のもとでCIAはDINAを支援していた。実際、CIAがDINAの抑圧に寄与しているとしてCIAが非難される可能性があるとの懸念を、米国政府高官の多くが何度も表明していたのだ。

結局CIAは、コントレラスがDINA長官の座についている間(1974年から1977年)、彼と密に連絡を取り合うことになる。とりわけコントレラスとの関係が親密だったのは、1974年春にサンティアゴ支局長に就任したスチュワート・バートンとウォルターズ副長官だった。そしてピノチェトとコントレラスは、こうした関係を最大限に利用した。

1975年7月、国連人権委員会(UNHRC)の調査団の入国をピノチェト軍事政権が突然拒否すると、チリの人権問題に関する議論が沸騰した。このときコントレラスはバートン支局長と連絡をとり、ワシントンでウォルターズCIA副長官と面会したい旨を伝えた。結局コントレラスは7月5日、バージニア州フォートマイヤーのCIAオフィスで秘密裡にウォルターズと面会することに成功した。このときコントレラスは国連人権委員会のメンバー5名に関するDINAの調査書をウォルターズに見せ、「彼らは明らかに左寄りであり、見解が偏っている。そのことを米国の政府高官たちに知ってほしい」と主張した。その上で、国連人権委員会による調査を拒否したことについての「理解」を求めるとともに、国連がチリを追放することがないよう米国に協力してもらいたいとの要求も伝えた。

コントレラスは7月9日に帰国したが、彼は米国滞在中にワシントンでのディナーパーティーに出席したようで、そのことが暴露されることを懸念する声がコントレラス帰国後のCIAと国務省とのミーティングの場で上がっている。当時すでにピノチェト政権による人権侵害は国際的にも米国連邦議会でも非難の的になっていたが、コントレラス個人についても、「国内抑圧で悪名高いので暴露されるとまずい」との共通認識があったのだろう。

コントレラスは、それから数週間後にも米国を訪れ、ワシントン、そしてラングレーのCIA本部でウォルターズ副長官と会談を持った。これら会談の目的に関する情報はすべて機密扱いになっているが、1999年、獄中のコントレラスはチリ人ジャーナリストからの質問に対して、「DINA内部にCIA工作員を配置することをウォルターズが提案した」という主旨のことを述べた。

このようにコントレラスがしきりと米国を訪れていたころ、実は彼はCIAから報酬を受け取っていた。CIAは1975年の晩春、ピノチェト政権の残虐な人権侵害の責任は主としてDINA長官のコントレラスにあると報告していた。ちょうどそのころにCIAサンティアゴ支局長のスチュワート・バートンは、コントレラスをCIAで雇うよう働きかけを始めていたのだ。その目的の一つは、ピノチェトに近い立場にあるコントレラスから情報を得ることだった。この点についてはCIAも後に認めたが、実は他にも秘かな動機があった。ナショナル・セキュリティ・アーカイブの上級アナリストのピーター・コーンブルーに元CIA幹部が後に語ったところでは、当時、バートン支局長はコントレラスの協力が欠かせないプロジェクトを進めており、その工作でコントレラスの助力を得ようとしたとのことだ。

米国人DINA工作員のマイケル・ヴァーノン・タウンリーは、1979年に獄中からチリ人DINA工作員に宛てて書いた手紙の中で次のように示唆している。コントレラスは当座預金口座を少なくとも1つは持っていて、それをCIAと共有していた。それは、CIAのために行った活動やCIAと共同で行った活動についてCIAがDINAに支払いを行うための口座だったと。またタウンリーがFBIに語ったところによると、コントレラスはリッグス銀行に2つの口座を持っていたとのことだ。ひとつは私的な口座で、もうひとつは「DINAサービス口座」だ。また、前出のピーター・コーンブルーの聞き取り調査によると、1975年の真夏にCIAはコントレラスに対する支払いとして、現在も機密扱いになっている額を秘密の口座に預け入れたとのことだ。リッグス銀行の記録では、1975年7月21日にコントレラスの私的な口座に6,000ドルが振り込まれている。振り込み元は「unknown」とされている。

ところが当時、CIAによる対チリ干渉が議会での調査の対象になっていた。また、チリ人数百名の行方不明にDINAが関与していたことが国際的な非難を集めていた。おそらくCIAは、一回だけコントレラスに支払いを行ったところで彼との雇用関係を破棄したのだろう。ただし、それはあくまでも個人的な金銭的報酬関係を断ったというだけのことで、CIAとコントレラスとの連絡関係が切れたというわけではない。ちなみにCIAは、コトンレラスに対する支払いに関する記録や公電を今も機密扱いにしている。

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フォード政権による欺瞞と隠蔽工作

1974年4月22日、当時のCIA長官ウィリアム・コルビー(1973年9月4日からCIA長官の座に就いていた)が下院軍事委員会の非公開審議の場で、CIAが1970年から1973年の間にチリで実行した秘密工作について、次のような主旨の報告を行った。チリにおけるCIAの活動はプロトタイプつまり実験として見なされていた。政府の評判を落として崩壊させる活動に対する大々的資金投入という技法の実験だったと。アジェンデ政権打倒を狙ったCIA向け秘密工作資金としてニクソン政権が1970年から1973年の間に800万ドル以上を承認したことも、CIAによる秘密工作はすべてキッシンジャーが議長を務める40委員会の認可を受けていたことも暴露した。こうした証言は、CIAがアジェンデ打倒を目論んだことはないとする米国政府高官たち、とりわけキッシンジャーとヘルムズ元CIA長官による証言と完全に矛盾するものだった。

この矛盾に気付いたマイケル・ハリントン下院議員は、米国政府高官たちが1973年の上院外交委員会の公聴会で嘘をついていたのではないかと考え、コルビーの証言内容(上記)について説明すると同時に特別調査を要求する内容の書簡を上院外交委員会の委員長ウィリアム・フルブライトに宛てて書いた。そしてその書簡のコピーが多国籍企業小委員会の主任顧問を務めていたジェローム・レヴィンソンのもとに届いた。

1974年9月初頭、レヴィンソンは当時はニューヨークタイムズ紙の記者だったシーモア・ハーシュと会い、ハリントンの書簡のコピーをハーシュに渡した。そして9月8日、「CIA長官の証言:反アジェンデ活動に800万ドル」と題するハーシュの記事がニューヨークタイムズ紙の第1面に掲載された。チリにおける秘密工作とニクソン政権による隠蔽について詳述する内容の記事だった。

ハーシュの記事は大きな反響を呼んだ。国外で卑劣な不正行為をはたらきながら国内向けには欺瞞行為を行っているとして、上院でも下院でも主要な議員が政府を非難した。一方、ニクソンの辞任を受けて1974年8月9日に大統領に昇格していたジェラルド・フォードは、9月16日の記者会見の場で、「あなたの政権の政策は、他国の民主政権を不安定にすることですか?」との記者からの質問に対して次のように答えた。「事実は、我々はクーデターそのものにはどういう形であれ一切関与していないということです。一時期、3、4年前のことですが、アジェンデ政権は反政府派のニュースメディアを封鎖しようとしました。反政府派の政党の撲滅も目論みました。今回の件で行われた活動は、反政府派のメディアと政党を保護することを意図したものでした」

その翌日すなわち1974年9月17日、フォード大統領は閣僚を招集して会議を開いた。その会議の場でフォードは、「我々にはCIAが必要であり、秘密活動が必要だ」と主張した。そして詳細を説明するようキッシンジャーに求めると、キッシンジャーは「トラックII」には触れることなく、米国は民主主義を守っただけだと主張した。反アジェンデの経済不安定化作戦のことも否定し、アジェンデの不手際と国有化・接収のせいだと説明した。これを受けてフォードは言った。「チリに関する決定は、法律に則って下された。この点を閣僚諸君に分かってもらいたかった」

フォード大統領は記者会見の場で「クーデターそのものには一切関与していない」と発表したが、それでもCIAの秘密工作をめぐる米国民および議会の怒りは鎮まらなかった。1975年1月初頭には、CIAが外国の要人を暗殺しようと企んでいたことがCBSの記者によって暴露された。その要人には、カストロ、ルムンバ、シュナイダーなどが含まれていた。この報道を受けて、CIAに対する風当たりはますます強くなった。

こうした状況に直面したフォードと米国政府高官たちは1975年1月4日にミーティングを開き、CIAの活動に関する特別委員会の設置をアナウンスすることに決めた。委員長はネルソン・ロックフェラー副大統領が務めることになった。この委員会の真の目的は、CIAの活動を調査することよりも、議会による独自調査を阻止することにあった。

だが、議会も動いた。上院は1975年1月27日、「情報活動調査特別委員会」(チャーチ委員会)の設置を決定した。そして2月19日には下院も続いた。「CIAの犯罪」を調査する特別委員会(パイク委員会)の設置を決定したのだ。前者の委員長は上院議員フランク・チャーチ、後者の委員長は下院議員のオーティス・パイクである。

こうした議会での調査に対し、フォード政権は一切協力しない方針をとった。キッシンジャー国務長官は国務省の文書に関して行政特権を主張して協力を拒否した。さらに、ホワイトハウスとCIAと国務省は、文書類の提出要請に対する応答を数か月にわたって先延ばしにした。その理由は「スタッフ不足のため」とのことだった。だが、当時のCIA長官ウィリアム・コルビーが後に語ったところでは、実際には「ホワイトハウスが協力しないよう通告してきた」とのことだ。最終的に、CIAは検閲済みバージョンの文書を提出することで委員会と合意に達した。ホワイトハウスは一部だけを引き渡した。

1975年の秋、ホワイトハウスはチャーチ委員会の活動を妨害するためのさらなる手段に打って出た。1975年10月31日、フォード大統領はチャーチ委員会の全委員に対し、強い語調の書簡を送りつけた。キューバ、コンゴ、ドミニカ共和国、ベトナム、そしてチリでの暗殺の企てに関しては、国家の安全を守るために報告書を機密扱いにしろと要求する内容のものだった。さらに翌11月1日には、チリにおける秘密工作に関する公聴会を開く計画に対抗する大統領令にフォードは署名したのだった。その理由は、「将来において、こうした工作で米国と協力しようとする国外の政党や政治家の意欲に悪影響が出る」(ホワイトハウス覚書)からだった。つまり、フォードおよびその政府高官らは、チリで行ったのと同様の工作が他の国々で繰り返される時のことを視野に入れていたのだ。

しかし、フォードの思惑どおりには行かなかった。1975年12月4日、チャーチ委員会は、政府による上記のような妨害に屈することなく、『チリにおける秘密活動 1963-1973』と題する報告書を発表した。それは、アジェンデの大統領就任を妨害するだけでなくアジェンデ政権を崩壊させようとするCIAの10年にわたる秘密の干渉の記録だった。そして12月4日から5日にかけてチャーチは、秘密工作に関する最初の公聴会を招集した。その開会の辞でチャーチは、「ありとあらゆる秘密工作を例示するものとして」、その公聴会ではチリについて集中的に審議すると述べた。続けてチャーチはこう述べた。「当委員会がこうした異例の措置を取ったのは、チリにおいて自分たちの政府によって何が企まれたのかを米国民は知って判断できる必要があると委員会が判断したからです。民主的に選出されたチリの政権を転覆させるうえで米国が果たした役割の性質と程度は、一般国民の深い関心の対象であり続けるべき問題です。事実を明確にする必要があります」

こうして、CIAによる対外干渉が米国民による議論の対象になった。米国連邦議会では人権が問題にされるようになった。また、米国の対外政策を米国社会の道徳規範に合わせろとの国民の要求も強まった。それでもフォード政権は、対ピノチェト支援をやめようとしなかった。人権と米国の対外政策をめぐり、行政と議会が対立する事態になった。

米国連邦議会は1974年から1976年にかけて、人権関連の法律を次から次と成立させていった。他国との関係において人権を重要な要素として見なす法律で、フォード政権による対ピノチェト支援を阻止することを狙ったものだった。米国政府による対ピノチェト支援をとりわけ辛辣に非難したのが、エドワード・ケネディ上院議員だった。彼は、ピノチェトを支援したとしてキッシンジャーを厳しく非難し、チリに対する経済・軍事支援を削減させるべく活発に動いた。1973年10月2日、彼は「チリ政府がすべての個人の人権を尊重していると判明するまで米国大統領に経済・軍事支援を拒否させる」決議案を提出した。そして1974年12月には、チリに対する経済支援に2500万ドルという上限を設けることに成功した。そして1976年7月、連邦議会は「ケネディ修正」を可決した。これは、チリに対する軍事援助、信用取引、それに兵器の現金販売をすべて禁止するものだった。

こうした動きに対して、ピノチェトは1975年1月、ポッパー大使に次のように言って不満を表した。「いつの日か米国は、チリが本当の友人であることを理解するでしょう。西半球でおそらく最良の、そしておそらく唯一の本当の友人だと。チリは、米国がチリの友人である以上に米国の良き友人です」。筆者は、この言葉にピノチェトの本心を見た。同時に、米国の本質に対する彼の洞察力も侮れない。「そのとおり!」と合いの手を入れたのは筆者だけだろうか?

国際社会からの批判がますます強まって国際的に孤立していく中、ピノチェトは、独裁的との米国内における自身のイメージを払拭する作戦に出た。米国内における隠密のプロパガンダとロビー活動を開始したのだ。この作戦を統括したのが「米チリ協議会」という名の委員会であり、作戦の内容は2人の右派米国人が考案した。その考案者の一人がもう一人に宛てた手紙には、次のような主旨のことが書かれていた。将来の米チリ関係のためにはチリの主張を米国民に分からせることが重要であるが、そのための方法の一つは、周到に計画された国際プロパガンダであると。

こうして米国内向けのプロパガンダ作戦が展開された。ロビイストを雇ってチリの人権侵害に対する非難に反論させる、ソ連の手先としてアジェンデ政権を描いたパンフレットを出版する、チリに関する定期報告書を主要な議員事務所や利益団体に送付する、保守系評論家たちによるサンティアゴ視察旅行を後援する、などといった作戦だ。こうした「米チリ協議会」の活動には、ピノチェト政権が数十万ドルを秘密裡に注ぎ込んだ。この「米チリ協議会」による工作活動は、1978年12月に米国司法省が停止を命じるまで続いた。その司法省が下した判断は、「米チリ協議会は、国会議員やジャーナリストや学者や米国民をチリの軍事独裁政権に同情的にすることを狙った秘密の違法なプロパガンダキャンペーンを行っていた」というものだった。

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人権問題軽視を続けるフォード政権

フォード政権は、チリに対する1975年度の経済支援の上限は2500万ドルとする議会の決定を無視し、食糧、物資、信用という形で1億1200万ドル相当をチリに送った。そうしたフォード政権の姿勢を先導したのがキッシンジャー国務長官だった。彼は1974年12月3日のホワイトハウスでのミーティングで、フォード大統領に次のように警告していた。「我々が兵器提供を打ちきれば、軍事政権は崩壊するでしょう。奴らもろくな連中じゃありませんが、そうしたことは絶対にできません」。政権が崩壊するかどうかを決めるほどに重要な支援を米国はピノチェトに提供していると自負していたのだ。さらに12月20日にもキッシンジャーはフォードに対して念を押すかのようにこう忠告していた。「対チリ支援の削減は悲惨な結果を招きます。兵器をチリに届けるためなら、出来ることは何であれやりたいものです」。なぜキッシンジャーはこう執拗に兵器提供の必要性を強調したのだろうか? ピノチェトの軍事政権が崩壊すれば自分の立場が危うくなると恐れたのか? それとも、米国の軍需産業を応援したかっただけだろうか? それとも、ピノチェトが推進していた新自由主義的な経済政策(後述)が頓挫して富裕層が失望するといった事態を避けたかったのか?

人権問題を軽視していたフォード政権は、ピノチェトを安心させることも忘れなかった。対チリ経済支援に上限を設けることを議会が決定した直後の1975年1月3日、ポッパー米国大使はピノチェトにこう伝えた。「フォード大統領以下米国政府は一貫してチリに関する制限法に反対してきた。この件に関してチリを支援すべく、国務省と大使館はあらゆる努力を払ってきた。我々は制限法を変えるべく努めるつもりでいる」

キッシンジャー国務長官は1975年9月に秘密裡にチリの高官たちと面会したが、そのとき彼は、軍事政権による残虐行為を批判するのではなく、人権問題を懸念する米国国務省の職員たちをけなした。彼はチリ外相のパトリシオ・カルバハルに次のようにこっそりと打ち明けたのだ。「このミーティング向けの報告書を読んでみたんだがね、人権のことだらけだったよ。国務省の職員は牧師に向いた連中ばかりだ。教会の数が足りないから奴らは国務省に来たんだろう」。その少し前の5月、同じくカルバハル外相との朝食会の場で、キッシンジャーはこう言っていた。「人権は外交の場にふさわしくないと私は固く信じている。ワシントンはこの件でチリを悩ますつもりはないからな」

このころ、キッシンジャー長官の姿勢を愚かだと見なす国務省職員が増えていた。「人権の保護を米国外交の第一の方針とすべし」として、対チリ政策の変更を主張する者が増えてきたのだ。チリの軍事政権を支持すれば、ピノチェトに対して批判的な西側同盟諸国との関係に亀裂が生じる、第三世界における米国の道義上の主導権が損なわれる、結果的に米国の国益を損ねることになる、というのが主な理由だった。サンティアゴの米国大使館の内部でも見解の相違が明確になった。1975年5月18日のポッパー大使の報告書は、「チリの現在の政権を維持し強化することが米国の最大の国益になる」として、キッシンジャーの立場を支持していた。ところが、これに対して4名の大使館員が異議を表明した。彼らは「友好的説得という政策は効かなかった」として、人権を米チリ関係における最大の問題として位置づけたのだ。それは、キッシンジャーに対する内部からの挑戦だった。

そして1975年7月、ピノチェトは国連人権委員会(UNHRC)の調査団の入国を拒否した。これをきっかけに、米国の対チリ政策を批判する側の立場が有利になった。続く1975年の夏から秋にかけて米国内で議論が続き、意見の対立が激化した。それでもポッパー大使は現状維持を擁護する報告書を書いた。人権問題が必要以上に注目を浴びているが、米国の国益という観点から言えば人権問題は「それほど重要ではない」として、対チリ政策の変更に反対したのだ。

キッシンジャー国務長官も同様だった。部下たちからの挑戦にひるむような男ではなかった。が、国民や議会や国内省庁からの圧力もあり、1976年6月にサンティアゴで開かれた米州機構(OAS)総会における演説ではチリの問題に触れざるを得なくなった。このときのOAS総会では、チリにおける人権侵害が問題になっていた。米州人権委員会もピノチェト政権に批判的な報告を行った。人間の身体的自由の権利がチリ政府によって無視され続けており、恣意的な投獄と迫害と拷問が今日に至るまで続いているとしたのだ。

キッシンジャーとしては、人権問題を云々するつもりはなかった。しかし、ロジャーズ国務次官補と大使館が「人権問題を避けることはできない」と説得した。「米国国務長官がチリにやってきて人権問題に言及しなければ、米国はチリに干渉しなかったとの主張も通らなくなるだろう」との懸念を表明する米国政府関係者も現れた。総会に先立つ5月26日、ロジャーズ国務次官補はキッシンジャーに宛てた報告書の中で次のように助言していた。「好むと好まざるとに関わらす、我々はピノチェト政権の起源として見なされており、だからこそピノチェト政権の行為に対する責任を問われています。それゆえ、人権問題を問われるような行動をチリ政府にとらせないことが、我が国の利益に大いに資することになります」

キッシンジャーは演説の前日の6月8日、ピノチェトと会談を持った。そのときのことについてキッシンジャーは、1999年刊行の回顧録『Years of Renewal』の中で次のように説明している。ピノチェトとの会談の中では相当の時間を人権に割いた、なぜなら、人権が我々の関係を複雑にしている問題であることをピノチェトに分からせる必要があったからと。だが、これは表向きの説明にすぎなかった。ロジャーズ国務次官補の助言も彼の頭の中を通り過ぎていた。

キッシンジャーがピノチェトとの会談の中で語った実際の言葉は次のようなものだった。「人権に関しては、世界的な観点から一般論を語るつもりだ。米州人権委員会によるチリに関する報告についても、二言くらいは言及しようと思ってる。人権問題のせいで米国とチリの関係がぎくしゃくしてるってことも言うつもりだ。これも一部には議会の動きのせいだがな。君が早いうちに障害を取り払ってくれることを期待してるとも言うつもりだ。それくらいは言っておかないと、議会が規制を課すような事態にもなりかねないだろう。私の演説は、チリに向けたものじゃないんだ。それを君に分かってほしい。君は、世界中の左派組織の犠牲者だ。(中略)共産寄りの政権が倒されたことを我々は歓迎している。君の立場が不利になることを我々は望んでないからな」

興味深いことに、この会談の中でピノチェトは、チリから米国に亡命していたオルランド・レテリエルについて不平を漏らした。レテリエルがピノチェト批判の先頭に立って米国連邦議会を惑わせていると主張したのだ。そのレテリエルは、3か月ほど後にDINA工作員によりワシントンで命を奪われることになる。それは、外国の政府機関の工作員が米国の首都で実行したテロ行為として、今も他に例を見ない事件であった。

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ピノチェトの経済政策:シカゴ・ボーイズの暗躍と失墜

ピノチェトが暴力でもって政権の座を奪い取ったとき、チリの経済は混迷の度合いを深めていた。米国実業界と米国政府が主導する経済不安定化作戦の結果、物不足とインフレにチリ経済は悩まされていた。ところが、軍事政権は経済問題を解決する知識を持ち合わせていなかった。そこでピノチェトは、「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれる経済学者たちに頼った。彼らシカゴ・ボーイズは、アジェンデ以前の状態に戻して民政移管するという考え(軍事評議会の中にはこうした考えの者もいた)に猛烈に反対し、徹底した自由市場経済でチリ社会を根底から作りかえるべきだと主張していた。ピノチェトの側に異論はなかった。彼は言った。「我々は単にマルクス主義を一掃して政治家どもに権力を返す掃除機ではないのだ」と。単に秩序を回復して出て行くという選択肢はピノチェトの頭の中にはなかった。そんな彼は、即座にシカゴ・ボーイズ数名を経済顧問に任命し、経済運営を彼らに任せた。

ここで「シカゴ・ボーイズ」について簡単に説明しておく必要があるだろう。話は1956年にさかのぼる。この年、米国国務省が「チリ・プロジェクト」なるものを正式発足させた。チリの学生をシカゴ大学の経済学部で学ばせ、新自由主義的なイデオロギーを植え付けた上で本国チリに送り返すという計画である。保守で有名なチリ・カトリック大学がこの計画に賛同した。こうして1957年から1970年までに約100名のチリ人学生がシカゴ大学でミルトン・フリードマンの自由市場経済理論を学んだ。費用を負担したのは、主としてフォード財団と米国国務省だった。フリードマンの教えは、規制撤廃、民営化、財政縮小の3本柱から成り、いわば究極のレッセフェールだった。すべてを市場に任せておけば市場が勝手に適切な状態を作るとの考えに彼は取り憑かれていたのだ。そんなフリードマンはケインズ主義を敵と見なし、政府による規制や貿易障壁などといった「障害」をすべて撤廃した「純粋な資本主義」「汚染されていない資本主義」の状態に社会を回帰させることを夢見ていた。彼のこうした理論は、明らかに大規模多国籍企業の利益と一致していた。しかし彼は、自身の過激な理論を実地に証明する機会を得られないでいた。

この「チリ・プロジェクト」で過激なレッセフェール経済学を学んだチリ人学生たちはチリのカトリック大学へ戻り、そこに経済学部を設立した。彼ら(後に「シカゴ・ボーイズ」"los Chicago Boys"と呼ばれるようになる)は、シカゴ大学と同じ教科書を使って、自らがシカゴ大学で学んだことをカトリック大学で教えるようになった。つまり、わざわざ米国まで行かなくてもシカゴ大学の経済学をチリで学べるようになったのだ。こうしてチリ・カトリック大学はラテンアメリカにおける新自由主義の中心地となっていった。

とはいえ、1960年代のラテンアメリカは左派の高揚期だった。とりわけ1970年のチリ大統領選挙において、シカゴ・ボーイズは惨敗を喫した。シカゴ・ボーイズの考え方は、チリ全体から言えば、まだまだ少数派にすぎなかったのだ。

とはいえ、ニクソン政権の対チリ工作を見たシカゴ・ボーイズは、そこに希望を見いだした。クーデターという事態になれば、自分たちの理論の正しさを実証する機会が得られるかもしれないとの希望を。そして、その頃から彼らは悟っていた。一般大衆に不人気な自分たちの理論を実地に試すには、民主主義では難しい、独裁の方が都合がよいと。

さて、希望を見いだしたシカゴ・ボーイズはどういう行動に出たか? ジャーナリストのナオミ・クラインは自著の中で次のように指摘している。アジェンデが大統領に当選してまもなく、チリ・カトリック大学が「クーデターの気運」作りの中心地となったと(情報源は1970年9月27日付CIA本部からの公電)。シカゴ・ボーイズは、黙って事態を見守るだけでは飽き足らなかった。自ら進んで打倒アジェンデ・打倒民主主義に立ち上がったのだ。

実業界の大物たちも緊急会合を開き、アジェンデ政権を倒すしかないとの結論に至った。さらに彼らは、アジェンデ政権の経済計画に代わる具体的な計画を立案し、それをチリ軍部に渡そうとの決定を下した。その計画書の作成を依頼されたのが、シカゴ・ボーイズだった。シカゴ・ボーイズはこの提案を受け、新自由主義の路線に沿ってチリ社会を根底から作り変えるための詳細な計画書を作成する作業にとりかかった。そして、後のチャーチ委員会の報告によると、そのための資金の75パーセント以上をCIAが負担した。こうして、実業界とシカゴ・ボーイズとCIAとの三者協力関係が築かれたのだった。そしてシカゴ・ボーイズは、自分たちの経済計画を短く要約したものを海軍に送った。海軍はそれに同意した。こうして四者協力関係ができあがり、シカゴ・ボーイズは来るクーデターへ向けて猛然と計画書作成に邁進した。この計画書は9.11のクーデター勃発の直前に完成した。それは500ページから成る分厚いもので、後に「レンガ」と呼ばれることになる。その内容はフリードマンの『資本主義と自由』にそっくりで、民営化、規制撤廃、社会支出の削減の三点が強調されていた。この「レンガ」が、ピノチェト軍事政権を成立当初から導くことになる。ピノチェトは宣言した。「チリをプロレタリアの国ではなく起業家の国にする」と。

ここで一つの疑問が頭に浮かぶ。クーデターとその後の恐怖独裁体制の確立においてシカゴ・ボーイズが果たした役割である。なにしろ、彼らの新自由主義的な政策は一般大衆に甚大な苦痛を強いるものであった。それを押し付けようとすれば恐怖政治を利用して一般大衆を沈黙させる必要があると彼らは認識していたはずだ。実際のところ彼らは、自分たちの目的のためには独裁が好都合だと認識していた。問題は、ピノチェトがあのような残忍な抑圧体制を敷くにあたって、シカゴ・ボーイズがどういう役割を果たしたのか、である。つまり、ピノチェトの抑圧体制にシカゴ・ボーイズは「便乗」しただけなのか、それとも抑圧体制を敷くべくピノチェトを「導いた」のか?

残念ながらこの点に関して、筆者は確たる結論に至ることができなかった。ただ、彼らが作成した「レンガ」は海軍の承認を得ていた。となると、シカゴ・ボーイズがチリ軍部となんらかの接触を持っていたと考えてよさそうだ。そして前述したように、ピノチェトが陸軍総司令官に就任した8月24日には、ピノチェトが本当はクーデターを望んでいるということをCIAは察知していた。CIAが知っていたのなら、そのCIAが協力していたシカゴ・ボーイズもその旨の報告をCIAから受けていたと考えていいだろう。しかし、8月24日よりも前となると、ピノチェトの本心を誰がどこまで見抜いていたのかを示す証拠を筆者は見つけられなかった。たしかに1972年9月にCIAは「アジェンデを排除すべきだと『考え直している』ことをピノチェトが『しぶしぶ』認めた」という主旨の報告を行っている。だが、これだけのことを根拠に「ピノチェトの本心はクーデター支持」と決めつけるほどCIAは軽率ではないだろう。

ピノチェトはクーデター勃発当初から軍事評議会を牛耳ったが、陸軍は大衆を恐怖させる作戦を展開する上で最も重要な鍵を握っていたはずだ。とはいえ、すでに述べたように、プラッツが陸軍総司令官を辞任した時点で、軍部のクーデター派の将校たちはピノチェトとは別の人物をプラッツの後任として望んでいた。そうした状況の中で、仲間たちから確固たる信頼を得ていなかったピノチェトに対して「我々の経済計画を実行に移すには断固とした弾圧が必要です」などとシカゴ・ボーイズが示唆しただろうか? そして、それをピノチェトが理解して納得しただろうか? それも、ピノチェトが陸軍総司令官に就任した8月24日からクーデターが勃発した9月11日までの2週間ほどの間に。

この点に関しては何とも言えないが、この問題は結論から言えば、どちらでもよい問題なのである(深い関心の対象になるべき問題ではあるが)。というのも、いずれにせよ「民主主義の優等生」であるチリにおいて軍事クーデターで民主政権が打倒されるとなれば、それも、大衆からの支持が大きかったアジェンデ政権が打倒されるとなれば、一般大衆による大規模な反発が起きることを軍部は予期していたはずだ。となると、シカゴ・ボーイズからの示唆があろうがなかろうが、徹底した弾圧が必要であるとのコンセンサスが軍部内で形成されていたと考えるのが妥当だろう。そしてピノチェトの底なしの権力欲は独裁体制を要求する。こう考えると、シカゴ・ボーイズにとって万々歳な展開が最初から用意されていたということになる。

権力を掌握し、「レンガ」という手引書も入手したピノチェトは、さっそくシカゴ・ボーイズ数名を経済顧問に任命した。そしてその後の一年半にわたって、シカゴ・ボーイズからの助言に彼は忠実に従った。国営企業の民営化、関税の引き下げ、政府支出の削減、価格統制の廃止などといった措置をとった。そしてシカゴ・ボーイズは、これでインフレは魔法のように消え去るだろうと請け合った。ところが、さっそく1974年にチリは375パーセントというインフレに見舞われた。安価な輸入品がどんどん入ってきたため、失業率も記録的な数字を示した。ところがシカゴ・ボーイズは「理論に問題があるのではなく、迅速さと徹底さが足りないからだ」、「過去における政府の干渉に起因する歪みが残っている。その歪みを取り除かねばならない」などと言って、自分たちの失敗を認めようとしなかった。ところが、外国企業と投機家ばかりがシカゴ・ボーイズの政策から利益を得ていることを見て取った者たちから「投機ではなく生産的な投資に資金を回せ」との不満の声が上がった。そこでシカゴ・ボーイズはフリードマンに助けを求めることにした。こうして1975年3月、当のフリードマン大先生がチリを訪れた。

チリにやってきたフリードマンは結局は一週間にわたってチリに滞在した。その間、講演やインタビューなどで経済「ショック療法」の必要性を強調し、「これが唯一の治療薬だ」と述べた。失業など苦痛を伴うショックを素早く意図的に与えることで経済の「歪み」を取り除くしかないと主張したのだ。フリードマンはチリから米国へ帰国した後も、書簡でしつこくピノチェトをせきたてた。政府の支出をもっと削減すると同時に、「完全なる自由貿易」を目指すべきだと。インフレについても、「チリのように月に10-20%という割合でインフレが猛威を振るっている国については、漸進主義ではダメだ。ドイツやブラジルなどの経験が示しているのは、ショック治療が適切ということだ」と、「ショック」の重要性を強調した。その上で、自分の助言に従えば、数か月のうちにインフレは終息し、失業問題も数か月という短期間で解決すると請け合った。

このフリードマンの言葉に勇気を得たピノチェトは、即座に政権の刷新を図った。現職の経済相を退任させ、シカゴ・ボーイズのリーダー的存在だったセルヒオ・デ・カストロを新たな経済相に任命した。そしてこの新任経済相は自分の仲間のシカゴ・ボーイズ多数を政権内に招き入れた。こうしてピノチェト軍事政権の経済部門はシカゴ一色に染まった。

その後、ピノチェトとデ・カストロはフリードマンの言葉に忠実に従った。公共支出の削減、国営企業の民営化、貿易障壁の撤去といった措置をとり続けた。ところが、フリードマンが予言したような成果は一向に上がらなかった。フリードマンが「数か月で解決する」と予言した失業率は予言の一年後に20パーセントに達し、その後も危機的な様相を呈し続けた。チリ経済は深刻な不況に見舞われた。軍事政権の財務相は「これが病気を治す唯一の道だ」と開き直った。

かつてのフリードマンの教え子で、その後に反フリードマンに転向していたアンドレ・グンダー・フランク(アジェンデ政権で経済顧問を務めていた)は、1976年6月、フリードマンのショック療法を批判する公開書簡を書いた。それによると、フリードマンが処方した「治療」のせいでチリ人家庭の収入の74パーセントがパンの購入に消え、牛乳や職場へのバス代といった「贅沢品」は諦めざるを得ない状況になっているとのことだった。またフランクは、フリードマンの処方はあまりにも苦痛を伴うため、軍の力と恐怖政治なしには実現不可能だった、とも指摘した。

1982年、フリードマンとシカゴ・ボーイズの助言に厳格に従ってきたにもかかわらず、チリ経済は崩壊した。インフレは再燃し、失業率は30%に達した。ついにピノチェトはシカゴに見切りをつけた。彼は企業の多く(銀行7行を含む)を国有化し、シカゴ・ボーイズを政権から追い出したのだ。ちなみにアジェンデ時代に国有化されていた銅山をピノチェトは民営化していなかった。銅は、チリの輸出収入の85%を占め、ピノチェト時代もチリの経済を支えていたのだ。そして1985年ころからチリ経済は安定した成長を見せ始めた。フリードマンは自ら「チリの奇跡」("Miracle of Chile")と言って宣伝し、チリ経済の成長を自らの手柄であるかのように見せようとしたが、それは現在では疑惑の目をもって見られている。チリ経済が成長を見せ始めるのは、ピノチェトがシカゴ・ボーイズを政権から追放し、経済政策を経済成長重視へとシフトさせてからのことである。そして国営の銅産業がチリ経済の完全崩壊を防止する役割を果たしていたのだ。いったん国有化した企業を後にピノチェトは再び民営化した、だからフリードマンは間違っていなかったと主張する学者連も中にはいるようだが、それはお門違いというものだ。銅産業に限っては、ピノチェトは一度たりとも民営化していない(補償金の支払いは行ったが)。であるから、チリは一度たりともフリードマンが言うような「自由市場の実験場」であったためしがなかったのである。そういう意味で、フリードマンにはチリ経済を云々する資格が最初からなかったのだ。

そんなフリードマン大先生は、2000年にインタビューに応えて次のようにのたまうことによって、自身の論理的数学的思考回路の優秀さを証明なさった。「最終的には、中央政府(軍事政権)は民主的社会に取って代わられた。であるから、チリに関して最も重要なのは、自由市場がついには自由社会をもたらしたということだ」

ナオミ・クラインは自著の中で次のような数字を挙げている。チリ経済が安定した成長を示し始めていた1988年、チリ人口の45%が貧困ライン以下のレベルで生活していた。一方で、チリ人の上位10%の所得は83パーセント増大していたと。その上で彼女は次のように示唆している。フリードマンの「ショック療法」は経済を健全化するのではなく、富裕層をさらに富ませ、さらには中間層を消滅させることを意図していたのではないかと。たしかに前述したように、シカゴ・ボーイズと実業界は密接な協力関係にあった。シカゴ・ボーイズの本拠地であるカトリック大学は反アジェンデの「クーデタ-の気運」作りの中心地だった。アジェンデの経済計画に代わる新たな経済計画の作成をシカゴ・ボーイズに依頼したのは、アジェンデ打倒を狙う実業家たちだった。そして、その新たな経済計画の作成にはCIAが協力していた。そのCIAを動かしていたのは、米国多国籍企業だった。どうやらシカゴ・ボーイズと実業界との協力関係は、チリ国内に限定されたものではなかったようだ。

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恐怖のブーメラン

アジェンデ政権のもとで駐米大使、外相、内相、国防相の職を歴任したオルランド・レテリエルは、クーデター勃発から一年間、ドーソン島をはじめさまざまな収容所へ送られた。が、その後1974年9月、国際的ロビー活動のおかげで、即座に国外に出るとの条件のもとで解放された。彼はカラカス(ベネズエラ)を経て、1975年にはワシントンD.C.へ移った。彼はそこで、進歩的なシンクタンクである政策研究所(Institute for Policy Studies)に勤務しつつ、ピノチェト軍事政権を批判する活動の先頭に立っていた。

当時、国際社会はピノチェトの人権侵害を非難していたが、シカゴ・ボーイズが主導する経済ショック療法に関しては沈黙していた。ピノチェトの恐怖政治と新自由主義的な経済政策とを結び付けて見ようとはしなかったのだ。レテリエルはそうしたスタンスに異議を唱え、両者は表裏一体の関係にあると主張してピノチェト軍事政権を批判した。彼は『ネーション』誌(1976年8月28日号)にて、次のような主旨の記事を書いた。「人権侵害も残忍性も抑圧も、自由市場政策と切り離して語られている」、「フリードマンの経済計画は押し付けを必要とした。その計画は、チリでは大量虐殺と強制収容所と投獄なくしては実現できなかった」といった具合だ。実際、ピノチェト軍政の経済相を務めていたセルヒオ・デ・カストロも、「ピノチェトの圧制なしにショック療法は実施できなかった」という主旨の発言を行っている。レテリエルはまた、ピノチェト軍政下において富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなったが、こうした現象は偶然に起きたのではなく、あらかじめ計画されていた、という主旨の告発も行った。

そんなレテリエルは、1976年9月21日、車で職場に向かう途中、自動車爆弾によって命を奪われた。彼が座っていた運転席の下に仕掛けられていた遠隔操作爆弾が爆発したのだ。彼は両足を吹き飛ばされて病院に搬送されたが、間もなく息を引き取った。助手席に同乗していた仕事仲間のロニー・モフィット(米国人)も病院で死亡し、彼女の夫でレテリエルの助手を務めていたマイケル・モフィット(後部座席に座っていた)は負傷を負った。DINA(チリ国家情報局)がレテリエル殺害を狙って彼の車に爆弾を仕込んでいたのだ。レテリエルがピノチェト批判の記事を『ネーション』誌上で発表してから一月も経たないときのことだった。ちなみに彼は、殺害の10日ほど前の9月10日にチリ国籍を奪われていた。

チリ外務省はこの事件を受け、左派による犯行を示唆する声明を出した。サンティアゴのポッパー米国大使は、次のようなどっちつかずの公電をワシントンに宛てて打った。「最も疑わしいのはDINAです。レテリエルを黙らせれば、他の亡命チリ人たちによる反ピノチェトの声も記事も計略も抑え込むことができるでしょう。しかし、DINAが米国の領土で活動していることを示すものは何もありません。DINAの指導者たちがいくら狂信的だと言っても、ワシントンでのテロ行為に関与する気になるとは考えにくいことです」。CIAは、DINAは無関係だと主張した。米国国防情報局(DIA)もピノチェトが背後にいる可能性に疑問を呈した。「おそらくDINAは米国までは手を伸ばさない。この事件によってチリのイメージ再建の努力は無に帰すだろうから。ニューヨークで国連総会が開かれているときで、タイミングもチリ政府にとって都合が悪すぎる」というのがその論拠だった。ピノチェトは、「我が政権を困らせるために左派が殉教者を作った」との主張を展開した。だが、ピノチェトがレテリエル殺害を命令したこと、そしてそのことをCIAが知っていたことは、1978年4月28日付のCIA報告が示している。キッシンジャーもすぐに勘づいたはずだ。なにしろ、3か月前にピノチェトがレテリエルについて不平を漏らしているのを直接に聞いていたのだから。

当時、DINAはチリ国内だけでなく国外にも触手を伸ばしていた。DINAには国外で活動を行う部門があったのだ。それは、国外のピノチェト批判者を監視して国際テロ行為を遂行することを意図した部門だった。この国外部門は、世界中のチリ大使館や国際空港や航空会社に工作員とスパイを潜り込ませていた。また、CIAを真似てDINA支局を各地に開設することを計画し、1976年には米国フロリダ州マイアミにも支局を開設しようとしていた。

そんなDINA国外部門のメンバーの一人に、マイケル・ヴァーノン・タウンリーという米国人がいた。彼は1967年にマイアミに転居すると、そこのカストロ嫌いの亡命キューバ人たちと親しくなった。チリでアジェンデ政権が成立すると、亡命キューバ人たちは、CIAと連絡をとってチリでスパイとして活動するようタウンリーに勧めた。彼は1970年12月にCIAと接触し、その後はチリのファシスト組織「祖国と自由」の工作員として反アジェンデ活動を率いるようになった。彼はアジェンデ政権期に殺人罪で指名手配されるとマイアミへ逃亡したが、アジェンデ政権が崩壊すると再びチリに戻って「祖国と自由」と合流した。

チリに戻ったタウンリーは、殺人罪のことなどなかったかのように米国領事のフレデリック・パーディに歓迎され、新たなパスポートの給付を受けた。その後、1974年春にはDINA工作員に採用された。DINAにとってタウンリーは利用価値のある人物だった。米国人だったのでいつでも米国に行けるというメリットを持っていたからだ。

そのタウンリーは、DINAの国外部門のメンバーとして次から次と国外での重要任務を任されるようになった。まずは1974年9月、アルゼンチンに亡命していた元陸軍総司令官のカルロス・プラッツ将軍(ピノチェトの前任者)とその妻を自動車爆弾により殺害した。プラッツは当時、アジェンデ時代の回顧録をしたため、ヨーロッパ行きのビザを申請していたのだが、その情報がピノチェトのもとに入った。この情報を受けてピノチェトがプラッツ暗殺を指示し、コントレラスがDINAアルゼンチン支局に暗殺を指示していたのだ。続いてタウンリーは1975年春、メキシコに亡命していた元アジェンデ政権の要人たちが集まっていたメキシコシティの会議場を爆破しようとしたが、これは失敗に終わった。そして1976年9月、いよいよ母国の首都ワシントンにテロを持ち込み、オルランド・レテリエルを殺害したのだった。

キッシンジャーもニクソンもフォードも、チリの独裁政権を支援することが自分たちの利益につながると信じていたかもしれない。しかし実際のところ、その独裁政権はアジェンデ政権よりもはるかに米国の安全保障にとって有害だった。ポッパー大使やDIAが想定していた以上に凶暴で危険だったのだ。

フォードの後継者として1977年1月に大統領の座に就いたジミー・カーターは人権外交を標榜していたものの、ピノチェトに対して強い態度で臨むことはなかった。彼は1977年9月、新パナマ運河条約の調印に際して他のラテンアメリカ諸国の代表ともどもピノチェトをワシントンに招いた。このとき二人はホワイトハウスで一対一の会談をもったが、このときもカーターはレテリエル事件の話題は避け、人権問題について穏やかに圧力をかけるにとどめた。当時はCIAもFBIも、ピノチェトとDINAをレテリエル暗殺事件の容疑者として注視していたにもかかわらず、である。

カーターの後を継いで1981年1月に大統領に就任したロナルド・レーガンは、積極的にピノチェトを抱擁した。なにしろ彼は1978年に、レテリエルを「国際マルクス主義テロ組織とつながりのある外国人工作員だ」としてラジオ番組で非難し、「レテリエル暗殺は左派の仕業」とのピノチェトの言説を自ら広めようとしていたほどである。また、レーガン政権のジーン・カークパトリック国連大使は、「ピノチェトは米国の利益に好意的な穏健独裁者の典型」とすると同時にカーターの人権外交を批判する論説を『コメンタリー』誌(1979年11月)に発表していた。さらに経済面では、レーガン政権は自由市場経済政策のモデル国家としてチリを見なした。国際的に孤立していたピノチェトの側も、これを歓迎した。当時、米国はエルサルバドルやニカラグアの内戦で極右テロを支援する工作を進めており、そうした工作でピノチェトの協力を得たいとの思惑もレーガンの側にはあった。こうして、カーター政権時代にぎくしゃくしていた米チリ関係がレーガン時代に修復され、両国の協力関係が回復した。

だが、ピノチェトの存在は徐々に米国にとって疎ましいものになっていく。きっかけになったのは、チリ国内の経済問題だった。1982年中旬、チリは世界大恐慌以来最悪の不況に見舞われた。GDPは14%落ち込み、失業率は30%にのぼった。対外債務の額は一人当たり換算で世界最大になった。フリードマンとシカゴ・ボーイズが主導してきた自由市場経済政策は完全に信用を失った。この経済危機をきっかけに、反ピノチェト派勢力による抗議活動が活気づいた。労働組合と政党も復活した。左派の政治活動が活発になり、共産党が支持基盤を全国に広げた。ピノチェトは抗議の声に抑圧でもって対処した。1983年の5月から9月にかけて、85名の抗議者が射殺され、5,000名以上が逮捕された。チリの政治情勢が不安定の度合いを深めた。

ピノチェト政権の穏健保守派の内相は共産を除く政党連合と話合いを持ち、事態の打開を図った。しかし、政党連合の側が民主化の加速化とピノチェトの辞任と秘密警察の解散を求めると、交渉は決裂した。そして1985年2月、独裁にしがみつくピノチェトは内相を解任し、民政移管を要求する勢力との交渉をすべて打ち切った。

レーガン政権は、ピノチェト独裁をどう扱うかという難題を抱えることになった。議会との関係において、チリの問題が大きな障害になっていた。ピノチェトに対して民政移管を積極的に働きかけようとしないレーガン政権に対して、議会から批判の声が上がった。チリ国内では反乱の気運が蔓延し、左派勢力が活気づいていたが、これもレーガン政権にとって不安の種になった。

1985年の夏ころになると、レーガン政権は反ピノチェトの姿勢を強めた。7月に米州問題担当国務次官補に就任したエリオット・エイブラムズは、民政移管を強くピノチェト政権に迫った。国際金融機関の米国代表は、対チリ融資に関して棄権するようになった。9月6日には、オーバルオフィスでのミーティングでジョージ・シュルツ国務長官が次のようにレーガンに報告した。「民政への平和的移管の面で、ピノチェトが米国の利益の邪魔になっています。(中略)ピノチェトはいつまでも権力の座にしがみつこうとしており、平和的移管における我々の国益との間に亀裂が生じています」。そして11月、レーガンは「将来の両国の協力関係は民主主義に向けた進展が条件になる」とするピノチェト宛の書簡をチリ駐在米国大使に届けさせた。

ピノチェトと米国政府との決裂を決定的にしたのは、ロドリゴ・ロハスという19歳のチリ人青年カメラマンの「火あぶり事件」だった。ロハスは1977年、10歳のときに母および弟とともに亡命者としてワシントンにやってきて、合法的居住者として反ピノチェト活動を始めた。そして1986年5月、サンティアゴへ戻ってフリーランスのカメラマンとして反政府活動に参加するようになった。ところが同年7月2日、抗議デモに参加している最中に同僚の一人とともに陸軍のパトロール隊に拘束された。二人は激しく殴打された末にガソリンをかけられ火をつけられた。その後、生きたまま道路脇の溝に投げ捨てられた。結局、同僚は命をとりとめたものの、ロハスは7月6日に息をひきとった。

この事件は、その残虐さゆえに、また犠牲者が合法的米国居住者だったということもあり、米国民の、そして世界の非難を集めた。米国連邦議会でもピノチェトを批判する声が一気に高まった。ピノチェトは二人を「テロリスト」だとした上で、「誤って自ら火をかぶった」と主張した。

7月11日に執り行われたロハスの葬儀には5,000名ほどが参列したが、前年11月からチリ駐在米国大使を務めていたハリー・バーンズも参列した。それは、ピノチェトに対する抗議の表明だった。この葬儀の列を軍の部隊が放水銃と催涙ガスで襲撃した。そしてピノチェトは米国を嘲るかのように「世紀末まで権力の座にとどまる」との声明を出した。こうして、ピノチェトと米国政府との長い長い蜜月関係の終焉が決定的になった。

エイブラムズ国務次官補は、葬儀の前日10日に、ニュース番組でこう発言した。「そもそも最も重要なのは、あれは選挙で選ばれた政権ではないということだ」。はて、米国による画策で政治生命も肉体生命も奪われたアジェンデは、選挙で選ばれたのではなかったのか? 翌11日、エイブラムズはシュルツ国務長官に宛てた極秘覚書の中で次のように記している。「チリにおける状況は我々にとって不利になりつつあります。影響力を持つあらゆる手段を使って我々の利益を守る必要があります」。はて、米国は「我々の利益」を守るためにアジェンデ政権を葬り去ったのではなかったのか? 「あらゆる手段」に訴えたのではなかったのか? その結果として生まれたのがピノチェト独裁だったのではなかったのか? そしてそれを米国は寵愛したのではなかったのか?

国の対外政策がその国に跳ね返ってくるのは当然のことだ。チリ・クーデターから28年を経た2001年、世界貿易センターとペンタゴンに旅客機がつっこんだ。奇しくもチリ・クーデターと同じ日付(9月11日)、同じ曜日(火曜日)のことだった。アングロアメリカからラテンアメリカへ向けて放たれた恐怖の矢は、身勝手な欲望に導かれて中東へと向かい、恨みと敵がい心と使命感に包まれて故郷を目指すのだった。

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あとがき

いつのころからか、秘かに心に決めていた。「あのことの真実を描いた本を世に出すまでは死ねない」と。「あのこと」とは、1973年のチリ・クーデターと、そこに至るまでの外国からの干渉の歴史である。しかしそれは、まだまだ先のこと、現役を引退した後にじっくりと腰を落ち着けて取り組むことのはずだった。ところが今から2年半ほど前のこと、右眼中心部に視野欠損が発覚した。緑内障である。左眼は15年以上前からの緑内障で、すでにほとんど見えていなかった。視野欠損の進行を遅らせることはできても完全に停止させることはできないことを過去の経験から知っていた私は、即座にすべての仕事をキャンセルし、「あのこと」に集中することにした。

そのころ、紙媒体の本は非常に読みにくくなっていた。特殊なルーペを使えば読めたが、読む速度が大いに落ちる。だが幸いなことに、PCのモニターを「黒地に白」に設定すれば、書くことも読むことも、それほど不自由なくできた。したがって、紙媒体でしか残っていない資料は読めなくても、PC中のファイルと電子版の書籍とWebは読めた。幸いにして、過去に読んだ本の中でも重要な何冊かについては、その内容を電子媒体でメモとして残していた。私はさっそく、それらメモをあれやこれやと参照しながら筆を進めていった。比較的最近出版された洋書に関しては電子版が入手できたので、演説や公文書などの内容については、電子版とWebを参考にできた。結局、2年半というきわめて短期間の間に本書を書き上げた。まさに時間との闘い、眼の病気との競争だった。

筆を進めるに当たっては、2つの点に留意した。第一は、北のアメリカに視点を置くこと、第二は、なるべく時間軸に沿って書くということである。

書き上げた原稿は、セルフ・パブリッシングという形で世に出すことになるだろう。この世は資本主義社会である。何よりも、どれだけ売れるかが出版社にとっての評価基準になるということは、これまでの経験から分かっているつもりだ。チリ・クーデターなんぞという日本人に馴染みの薄いテーマを扱った本を引き受けてくれる出版社はないだろう。また、紙媒体となると校正ができない。読者諸氏からの問い合わせに十分に応えることもできないだろう。したがって、電子版限定で出すことになるはずだ。ただし、セルフ・パブリッシングとなると、まだこれから編集作業が待っている。その作業が終わるまで眼がもってくれることを祈るのみである。

というわけで、当初想定していたような「じっくりと腰を落ち着けて」というわけには行かなかった。本当は、大昔に読んだ紙の資料などにもすべて目を通した上で書きたかったのだが、そうは行かなかったのが残念である。とりわけ、シカゴ・ボーイズが果たした役割に関しては、自分なりの確たる結論を出すに至らぬうちに時間切れとなってしまった。この点に関しては、今後の課題とさせていただきたい。

最後になったが、こうしたテーマに関心を向けるべく学生時代に私を(図らずも)導いてくださった東京外国語大学スペイン科の先生方に、この場を借りて感謝申し上げたい。

2019年4月12日
もう二度と帰れないであろう瀬戸内の故郷に思いを馳せながら
筆者記す

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参考資料

本書の執筆にあたって参考にした資料は以下のとおり。

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年表





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著者略歴

安藤慶一(あんどう けいいち)
1983年、東京外国語大学スペイン科(中南米事情専攻)卒業。コンピュータープログラマーとして生計を立てつつ、細々と米国史の研究に勤しむ。プログラミング関連の訳書・記事多数。

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© 2019 Keiichi Ando
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