冷たい風にふかれて 夜明けの町を一人行く
悪いのは僕のほうさ 君じゃない


堺正章「さらば恋人」(lyrics:北山修)

ボンビー社長への茨の道(完結編)

実のことを言うと、小生が大学に入学して1年後、とんでもない事件が起きておりました。その時点でバックバンドどころではなくなっていたわけです。その事件はあまりに大きすぎて、やはりここでは書けませんでした。というわけで、続きは小説にて。(完)

ボンビー社長への茨の道(11)

高校を出て東京に行くとき、親戚からさんざん言われていたことがあった。大学を出たら京都に戻ってこい、とのことだった。音楽の道を進むのであれば、「それでは仕事ができない」と説得できた。実際、従兄弟は今も東京で音楽制作の仕事に従事している。しかし、その言い訳が通らなくなってしまった以上、「自分は京都に帰る運命のもとに生まれてきたんだ」との妄想に取り憑かれた。今から思えば、そんなことは無視してもよかったのだが、まだまだ世間を見る目の視野が狭かった者にとって、それは宿命のように心にのしかかった。結局、数学が好きだったのでコンピュータの世界に進むことにした。就職するに当たっては、「関西に行かせてもらえる」ことが条件だった。そして数年後、無事に京都に帰ることができた。ところが、関西には仕事がない。ないことはないが、ロクな仕事がない。結局は独立の道を選んだ。その会社の関西支社は、今はもうない。つぶれたのだ。こうして一人の社長が生まれたのだった。(まだまだ続く)

ボンビー社長への茨の道(10)

我らが社長は、三流大学を出て某ソフトハウスに就職してからもボンビーだった。靴の革がパクパクとして、美人秘書に借金することもあった。職場の同期の人たちは、特に由紀子さんは喜んで一万(円単位である)も貸してくれた。ところが、なんとも不幸なことに、会社にも嫉み深い人間はいるものだ。いくら人が金がなくて靴ウラのパクパクする靴を履いていても、何を血迷ったか東大(本当に優秀な人間で東大に行く者はいない。彼らはコンプレックスを克服したくて東大を目指す。ワタクシの知る限り、本当に優秀な人間は東大や京大には行かない。一橋か外語か阪大に行くものである)なんぞを出た同じプロジェクトのキツネ目の「モテナイ君」は言った。「うるさいから、いい加減買い換えろよな!」とさ。彼は、単なる先輩ではなく、小生にとってはOJTの指導者の立場にあった。その男が、こんなことを言ったのである。同じ世代でも、吉田さんや加藤さんなど、会社の他の人は皆、人格が出来ていたのにな。ちなみに、東大の経済、医学、工学に行く連中は、我々の高校(洛星)では徹底的にバカにされていたっけ。特に関西では「経済イコール京大」という時代である。わざわざ東大なんぞにまで入って経済学をやろうという乱心を起こした者の名前は、一人も思い出せない。よっぽど地味な方々だったんだろう。何はともあれ、嫉みほと恐ろしいものはないということを、あとのとき悟ったのである。

ボンビー社長への茨の道(9)

アグネス・チャンのバックバンドどころではなくなっていた。それどころか,人前で楽器が弾けなくなるという不安が徐々に高じていたその頃,アコギを買った。無謀にもオベーションのグレン・キャンベルモデルを買ってしまった。見た目が格好良かったからである。中世のリュートを思い出させるデザインで決めてしまった。20万円のものを24回払いで買った。それは無謀であった。実家から離れて下宿生活するボンビー学生にとっては,確実に無謀であった。とにかくあの頃は超ボンビーだった。夏になると,学生食堂の隣にあるジュースの自動販売機がうらめしかった。コカコーラを思いっきり飲むのが夢だった。そんなボンビー学生にとって,毎月1万円の借金は,確実に無謀だった。(まだまだ続く)

社長への茨の道(8)

あれは確か大学の3回生の時だったと思う。当時私は東京芸大の大学院に在籍していたコントラバス奏者の西澤誠治氏に師事していた。師事していたというのはウソで,あの頃は,先輩も後輩もみんな西澤氏に教わっていたので,ワタクシも破格の値段で指導を受けることにしたのだった。で,その西澤氏が小生に宿題を出されなすった。「一週間でこれをやってこい」とのこと。それは,コントラバスの世界に於ける最も難関と言われている曲だったそうな(曲名は忘れた)。何はともかく,小生は一週間練習して(ワタクシなりには結構まじめにやったつもりぞよ)西澤氏の前で弾いてみた。すると,その西澤先生が土下座してしまった。「恐れ入ります。負けました」と。冗談なのかまじめなのかは分からなかったが,とにかく,このとき,小生は,西澤氏とは全く違うことを考えていた。いくらここでは弾けても,ステージでは弾けないんだ,と。
ちなみにこの西澤先生,毎日下宿先の部屋から近所の女子高生のブルマー姿を見て,興奮しておられましたとさ。

社長への茨の道(7)

すべては順調に進んでいた。自分が考えたことで実現しなかったことはなかった。ところがある日,悪夢が訪れた。確か,二回生の時,コンパの席であった。別にそれほど緊張していたわけでもないのに,グラスを持つ手が震えたのである。それを見た指揮者の小田野宏之氏(当時は東京芸大の指揮科だった。最近は関西方面のホールでたまに見かけるぞ。ちなみに髪型はあの頃から未だに変わっていない)に,「おまえ,手が震えてるぞ」とからかわれたのである。があ〜〜ん!であった。我が人生での最初の挫折であった。頭の上から,真っ黒な闇が襲ってきたのである。それ以来,楽器に触るのが怖くなった。リラックスと柔軟性を最も求められる楽器演奏にとって,これは致命的であった。プロの演奏家としての人生を,すべて否定されてしまったような気がした。しかも,将来音楽を生業とするであろう人物の何気ない一言がきっかけになった。我が人生の転換点がここにあった。

社長への茨の道(6)

「その時である,があ〜〜〜ん!。。。」とは言ってみたものの、いったい何がいいたかったのか忘れた。で,しかたなくボ〜っとしていると,カカトが20センチもあろうかというサンダルを穿いたにいちゃんがやって来た。「何だ?新人か?」と言う。「はあ,そうですが」と答える。「じゃあ,ちょっと弾いてみな」とサンダルのにいちゃんが言うのでコントラバスを持ってみた。コンバスを触るのは初めてだったが,エレキベースを弾いていた関係で上からG-D-A-Eのチューニングであることは知っていたので,適当にアランフェス協奏曲を弾いてみた。そこへ,ゲゲゲの鬼太郎のような別のにいちゃんがやってきた。「おいソネ,新人が入ったぞ。結構センはいいみたい。。。」とサンダルのにいちゃんが言った。このサンダルのにいちゃんは「ウチダくん」という名前だった。自分ではハンサムボーイのつもりだったらしいが,どこに行っても,決してサンダルを脱ごうとはしなかった。身長が20センチ縮むから。

社長への茨の道(5)

下宿をさっさと決めた私は,再度大学のオーケストラの部室に行ってみた。今度は賑やかだった。ゴキブリみたいな顔でチェロを弾くキド氏が最初に話しかけてきた。「君,新入生かね?ちゃんと仕事は割り当てられてる?」と言う。「仕事」って何や?と思いつつ無視していたら,どうやら他の部員もキド氏のことは無視しているようである。まあいいか,と安心していると,どうやら大掃除をしているようである。掃除は嫌いなので,そのまま放っておいて,目当てのコントラバスに触ろうとした。その時である,があ〜〜〜ん!。。。

社長への茨の道(4)

ちょっと話はそれたが,とにかく私は東京の三流大学にもぐりこんだ。さっそく近所に下宿を借りた。確か,1万円くらいだったと思う。巣鴨4丁目のTという家である。この家というか一家は,なかなか骨太なところがあって,主人は高校しか出ていないのに立派に出世した人で,長男の息子も父親のことを「なかなかなやっちゃ」と言っていた。ところで,この長男の息子というのが「アキヒロ」といういっちょまえの名前をもっているのであるが,別名を「放蕩息子」と言う。何故かというと,放蕩息子だからである。年は私と同じであるが,私が下宿していた4年の間に,「大学」の話をしたことがない。「予備校」「ジャズ喫茶」の話はさんざん聞かされた。しかも,夜中に人が寝ている間に,勝手に部屋に入ってきて,たばこを吸い出して,なんだかんだと話し始めるのである。極度の寂しがりやと言えば,はずれではない。この放蕩息子が,吸いたくもないたばこをいろいろと薦める。しかたがないので,付き合いのつもりで吸ってやった。あまりうまいとは思わなかったが,まあ,これで相手が満足するなら,これも善だなあなんぞと考えながら,吹かしていた。吸っていたのではない。

社長への茨の道(3)

東京都北区のおんぼろアパート街にある三流大学になんとかもぐりこんだ私は,さっそく大学のオーケストラ部の部室を尋ねた。ウッドベースを弾きたかったからである。「オケ」に入れば,楽器もある,練習場所にも困らない,と考えたのである。オケの部室は平屋の古い建物であった。その建物の周りを一周してみたが,妙に静かだ。「どうしたんだろ?」と思いながら扉を開けて入って行くと,小柄な美人のお姉さんが「あら?新入生の人?」と話しかけてきた。後で分かったことだが,「ケムンパス」というあだ名で呼ばれていた。ケムンパスみたいだったからである。「早く楽器が弾きたくて」と言うと,「あらそうなの?みんな今合宿に行ってるのよ」とケムンパスが言う。考えてみると,まだ春休みだったのである。道理で静かなはずである。念のために入試発表を見に来たついでだったのである。つまり,まだ正式な学生にはなっていなかったのだ。

社長への茨の道(2)

1973年春,テレビの歌番組から「季節の扉のすきまから〜」という歌声が聞こえてきた。まるで天使の歌声であった。見ると,あの「おっかのうえひっなげし〜」と歌っていた人が歌っているではないか?一瞬,目を疑った。まるで白痴のごとき歌い方をしていたあの中国人娘が,このような得も言われぬ歌を歌っている....。その歌とは、松山猛作詞/加藤和彦作曲の『妖精の詩』であった。昔から音楽だけは好きだった私は,その瞬間に直観した。「僕は将来,この人のバックでこの歌を演奏するんだ」と。こうして,当時中学2年だった私は,アグネス・チャンのバックバンドを作ることだけを考え,毎日毎日朝から晩までピアノの練習に励んだ。学校の授業中は,机の下で指の訓練。家に帰ると,寝るまでピアノに向かっていた。近所迷惑になるというので,ピアノのハンマーと弦の間に毛布をつっこみ,音が出ないようにして指だけを動かしていた。そして5年後,なんとか高校卒業の資格を取得した私は,音楽をやるために東京に出た。とりあえず授業に出なくてもいい文系の三流大学を選んだ。東京の大学であればどこでもよかったのである。今から思うと,これがボンビー社長への第1歩だったのである。そう、この『妖精の詩』という曲こそが、我らが社長の人生を決定したのだった。

新連載:社長への茨の道(1)

1995年夏,新宿の高良医院を退院したばかりの私は,当時勤めていたソフトハウスの関西営業所長に辞表を提出した。所長は言った。「不安はないのか?」。私は言った。「何の不安ですか?」。所長は口ごもりながら言った。「つまりだなあ,一人でやっていくことに対する不安だなあ」。会社を辞めるということは,会社の将来と上司の力量に不安を持っていることの表明であると当然のごとく考えていた私には,それが何を意味するのかが理解できなかった。「なぜ一人だと不安なのですか?」。所長は言った。「それじゃあ仕方ないなあ」。関東に自宅を持ちながら単身で関西に赴任し,朝から晩まで「図解!はじめてのMicrosoft Word」と格闘していたこの「動かざること山のごとき」サラリーマン所長は,それから2年後,業績不振を理由に,見事に関西赴任から解放された。見事な世渡り術を見せてくれた。なにはともあれ、小生の社長人生が始まった瞬間であった。