京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報


(2000年4月号 掲載)
講 演

                             
河内園子さんの講演(後編)

1999. 11. 27.   

 いろいろな体験が役に立つということの集大成のような「夏木の迷子事件」というのが2つあるんです。1つはね、小学校の高学年の頃、東京へ行って迷子になった話。

 東京におじいちゃん、おばあちゃんが住んでいて、お正月には必ず行くことになっているのです。いとこ達もみんな集まる。ちょうど前の年は、子ども達はお年玉をもらっていたから、うちのお父さんがいとこ達をみんな買い物に連れて行ったのです。1軒だけ開いていた店へ、青梅街道を通って、にぎやかな通りを通って、踏切を越えて行ったわけです。次の年は、お年玉をもらったけれども子ども達も大きくなったものだから、すぐにお金を使いたいと騒がなかったのですよ。そして、こっちでは大人達がおしゃべりをしていて、向こうでは子ども達が遊んでいてという中で、夏木はどちらかにいると思っていたのですね。子ども達を見ていたおばちゃんは大人のグループにいるだろうと思っていて、大人達は子どもと遊んでいるだろうと思っていたのです。そしたら外から電話がかかってきて、おばちゃんがとったら夏木からでした。

 「おばちゃん、分からなくなっちゃった」。「どこにいるの?」と聞くと、「迷子だから分からないでしょ!」と言うんです。「そこに見える物、言ってごらん」と言うと、漢字が読めたから「すみともでんこう」というのと、「・・・印刷」が見えたというので、この辺で住友電工はないか、印刷屋さんはないかとみんなで1時間ぐらい探しまわりました。するとまた電話がかかって来て、今度は警察の交番からで、その交番はかなり離れているのですが、「河内夏木さんという人がいますが・・」ということで一件落着しました。交番へ行って「調書なんか書くのですか?」と聞くと、「いや、自分で出頭して来たからいいんです」ということでした。

 自分でその交番へ行き、おじちゃんの家の電話番号が言えたのでよかったのです。帰りの車でどこで電話をかけたのか聞くと、ずーっと青梅街道を1km程走って「思い違いじゃないの」という頃に、「あ、ここ」というのでその電話ボックスに入って見たら、電柱に“住友電工”って書いてある。反対側を見ると、はめ板に“○○印刷”と。その家は印刷屋さんではなくて、はめ板に広告で書いてあるのです。「おじちゃんの家の電話番号がどうしてわかったの?」と聞くと、電話ボックスの中にある厚い電話帳の中から調べたそうです。何年か前に、おばちゃんと散歩に出た時に、おばちゃんが赤ちゃんを抱いていたので疲れてしまって迎えに来てもらおうと電話をした。その時に、おばちゃんが電話ボックスに入り、電話帳で番号を調べていたのが頭にあったようです。おじちゃんへは時々手紙を書いていたので住所は覚えていた。それで電話番号を調べて電話をかけ、交番へ行った時にも電話番号を覚えていて言えた。TVの事件物が好きなもので、交番に行けばいいと思って、交番を探してずーっと歩いたようです。

 そういう危機的な状況になった時には、あらゆる知恵をしぼり出してやっていくものだなぁと思いました。それまでのすべてが経験ですよね。そこに思い至ったというのはすごいなと思います。「電話をかけた時にはお金はどうしたの?」と聞くと、「歩いている人に、迷子になっちゃった、電話をかけたいと言ったら10円くれた」と言うのです。夏木は見ればわかるようなダウン症なんですよ。背も小さいし。その子が迷子になったと言っているのに、都会の人って冷たいなと思いました。でも夏木にはそれは言えないし、「貸してくれた人がいてよかったね。でも道を通る人から10円を借りたら後で返せないから、これからは借りるんだったら、お店のような所で借りようね」と言いました。お店で借りれば、そこのお店まで迎えに行けるからという思いがこちらにはあるわけです。

 もう1つの迷子事件というのは、もう大きくなってからです。社会に出て、いろんな事が出来てくるようになって、新幹線に乗ってみたい、一人で東京へ行ってみたい、という体験もやりおおせました。妹が大学へ行って、「大学祭に来る?」と誘ってくれました。妹もよく友だちに夏木の話をするものだから、夏木にぜひ会いたいという友達もいるから、大学祭に出て来てと言われて、じゃ東京駅で待っていてね、ということで新幹線に一人で乗って行ったのです。

 ちょうどその時、ハンドベルを指導しているお友達が浜松という静岡から新幹線で30分くらいの所に転勤になったので、そのお友達の所にも行きたいと思って、住所を見ればすぐに行けちゃうというのが彼女の特技なものですから、電車に乗ったりバスに乗ったりして行ったのです。だけどその友達の家はアパートで、その近くまでは行ったらしいのですが分からなくて、交番で「このアパートはどこにある?」と聞こうと思ったらしいのです。交番に入ったらおまわりさんはびっくりして、「どこから来たの?」ということになって。彼女は小さいけれども20才は過ぎているのだけれど、彼女が「静岡から」と答えると、こりゃ大変だということで、理由も聞かずに迷子状態です(笑)。

 それで本署に連れて行かれて、うちに電話をしてきたのですが、私たちはその時はもう放ったらかしでしたから、うちには誰もいない。おばあちゃんの所に電話をしたら、「一人で帰れるから、帰して下さい」とおばあちゃんは言ったのだけれど、「保護者が来なければ帰せません」と言われて、私たちにようやく連絡がついたのが夜の8時。その時にも「一人で帰れますから電車で帰して下さい」と言って、ようやく無罪放免になったのです。夏木は9時半頃に静岡に着きました。駅まで迎えに行って、その時に「晩ごはん食べたの?」と聞くと「食べてない」、お茶も飲んでないということでした。お昼ごろに保護されたのですが、お茶もお弁当も晩ごはんもなしで9時過ぎまで。迷子で保護したのなら最後まで迷子として面倒を見ろ、と言いたくなります。お茶も出してもらえないで9時過ぎに帰ってきて、私は腹がたったのですが、彼女はあまり腹を立てていないのですね。「けっこう楽しかったよ」と言って。その時に、「新幹線で帰ってくればよかったね」と私がポロッと言っちゃったんです。その言葉が彼女の頭にちゃんとイップットされていて、次のおもちゃ図書館の日に私が起きたら、もう彼女はいなかったんですよ。

 おもちゃ図書館は10時から始まるのだけれど、10時になっても彼女は来なくて、いろんな人から「夏木ちゃんに県庁前で会ったよ」とか、いろいろな所を歩いているのを見られているわけです。おもちゃ図書館には10時半頃にやってきて、「どこに行って来たの?」と聞くと「浜松まで」と。朝の6時に家を出て、バスに乗って藤枝まで行き、藤枝から電車に乗って浜松まで行って、そこでサンドイッチを買って、療育手帳を見せて割引で切符を買って新幹線に乗って、その中で朝ごはんを食べて帰ってきたとういのです。これでいいというわけです。新幹線で帰って来るということを体験したのだから(笑)。  こういうふうにして、彼女はいろんな事を使い切って、自分が疑問に思ったことはちゃんと体験して満足しているわけです。私たちからすると、非常にまわりくどいやり方なのだけれど、それで1つずつ消化していく。性格だろうとは思うのですが、でもいろんな所に連れ出して行って、見ることの楽しさとか、新しいことに出会う楽しさということを身につけていると、家にいることよりもどこかで何かを探したいという気持ちになっていくのかなぁと思います。決して夏木の失敗していることが好ましいからやらせろということではなくて、これは悪い例で言っているのですが。まあ、そういうことをやる人もいれば、やることを恐れて何も出来なくなってしまう人もいる。だけど、手放してみると、それなりに自分が生きる為のいろんな工夫をしていくものだということをみんなにお話ししたかったわけです。

 お母さん達を見ていると、非常に心あたたかく育てていらっしゃるわけですが、もう少し冒険してもいいかなという所がありますね。決まった親戚の家に一人で行かせるとか、学校に行くとか。それから、待ち合わせ場所はいつもここと決めておいて、お友達と待ち合わせるのには一人で行けるとかね。全部を使いこなすことは無理かもしれませんが、自分の身のまわりにある病院だとか、図書館だとか、体育館だとか、そういう行く回数の多い所は一人で行けるようにしておくといいと思います。一人だとちゃんと信号も見て渡らなければいけないし、自分で身を守ることをするようになると、それだけ頭もクリアになっていくから、いろんなことも入ってきますよね。そういう体験をたくさんしておいたら、親から離れても大丈夫、やって行けるという自信がついてくるのではないかと思います。

 昨年一年間、私は大変な病気をして寝込んだのですが、その時にベッドの中から見ながら、あ、いろんな事をこの人は出来るのだと改めて思いました。私もえらそうな事を言っていますが、親としてまだ今だに半信半疑な所がいっぱいあるのです。私の入院中、父親が帰ると夏木がハンバーグを作っていました。「肉なんかあったの?」と聞くと、自分でひき肉を買いに行ったということでした。塩を入れるのを忘れちゃったとか言っていましたけれど。ご飯を炊くのは彼女の仕事で、それは今まで続けてくれたので、とても助かっています。洗濯物とか、私が病気の時はきれいにたたんでくれて、これなら看護婦さんの補助が出来るなーと思いました。病気の時は昼間の私のご飯の支度はヘルパーさんをたのんでいたのですが、夏木とヘルパーさんとのやりとりを聞きながら、もしも夏木が一人で住みたいといったら、ヘルパーさんを上手に使って生活することも出来ると思いました。これからは知的障害者の介護保険があるわけですから、ヘルパーさんをうまく利用してご飯の支度の部分は見てもらえるとかしておけば、必ず施設とかグループホームとかではなくても地域でヘルパーさんの助けを借りながら一人で生活するという道もあると思うのです。

生活の全部が出来る必要はないと思うのです。ただ、誰かが作ってくれたご飯も、心地よく食べられるとか。私は重度の子どもさんと接していて、何も出来ない子どもさんもいるわけです。そういう人達にとってどういうのが自立かというと、やはりお母さん以外の人から食べられるという生活。例えばお母さんが病気になってその子どもさんが寮に入った時に、子どもさん自身が胃潰瘍になったということもあります。障害のある子どもさんにとって、お母さんと離れることはすごいショック、ストレスになる。そのすごいストレスを持ち合わせるというのは非常に不幸なことですよね。そんなストレスを味わわせない練習を小さい頃からしておくということがとても大事なことだと思います。

 脳性マヒの子どもさんたちは緊張してしまうでしょ。緊張してくる子どもさんも慣れてくると誰が抱っこしても緊張しなくなる。緊張しなくする為には、最初はお母さんじゃなければだめだと言っているけれどもそれも、練習しないとね、と言っています。誰に抱っこされても大丈夫になるという、それも自立の為の1つの体験です。


授産所の『ゆにーく』を作る時の経緯について
 一番最初にダウン症の会を始める時に、企業に就職しても中途でダメになってしまうのがダウン症の人に多いというのを新聞で読んで、ダウン症の人は職場で眠ってしまうだとか。東京でもそういうことが話題になっているということは、同じ学校教育を受けながら、なんでダウン症の人だけがダメだと言われるのかなということで、学校でも特別のやり方があるのかなとか、みんなで協力して将来を考えていこうということで「静岡ダウン症の将来を考える会」を作りました。

 夏木は心臓が悪くて外に出られないかもしれないというのもあって、作業場を見て歩いたのです。その時に興味をもったのが織物です。織物というのはとても綺麗だし、いろんな工程がある。さき織りをする時は、さくだけが好きな人もいるし、音だけが好きでやっている人もいるんです。そういう工程がいろいろあるということは、いろんな人がかかわれるし、工程の1カ所でかかわるだけでも、そこにかかわったことになるますよね。

 JDSがもっと前「子やぎの会」といっていた時に、その最初の方の会報に紅梅学園の話が載っていて、そこはバーもあって、土曜日にはそこでお酒を飲める。障害者の施設としては、20年、30年前にはものすごい画期的なことだったのです。ぜひ見たいと思って、そのニュースを心に温めていました。それで夏木が中3ぐらいの時に見学に行きました。すばらしいなぁーと思って。それでボランティア協会へ論文を出す機会があって、私がこういうことをやりたいと織物のことを書いたんです。そうしたら、しばらくたってから、「寄付を30万円くれたら織物機を買うと言っていたけれど、いる?」と聞かれたもので、「いるいる」と手を挙げちゃったんですね。

 そうしたら、織物機が来たけれど置き場所がないということで、ダウンの会の人達に置き場所をどこかさがして欲しいと言っていたら、たまたま会員の方に廃屋を貸していただけたのです。3年くらい貸していただけるということで、みんなでカベから何から水洗いをして、畳も張り替えてやったんです。そうして織物機を置く場所を作って、親が織物を勉強しようということで先生をよんで、4人の親が習いたいということで技術を身につけたのです。それで「ワークハウス」と名前をつけて、みんなが集まれる場にしました。春休みには織物をやったり、手芸の好きなお母さんは手芸をやったりという形で、そこで過ごす時間を作ったのです。

 そして、「織物を利用してみんなが集まっています」ということを寄付していただいた団体に報告したら、そんなに喜んでもらえるなら、もう1台といって、もう1台下さったんです。2台になって、せっかく2台あるのだからと養護学校の実習も受けました。養護学校では、企業に実習にいけない人は学校に残って仕事をしてたんですね。せっかく学校に残るのだったら、実習の場所として「ワークハウス」を利用して欲しいということで、その実習の期間だけはダウンの会のみんなが時間を繰り合わせて親が出ていくようにしました。織物というのは結構めずらしいものだからマスコミが目をつけるじゃないですか。親たちが集まってこういうことをしてますということが新聞に載ったり、TVが取材に来たりで、県の方から授産所にしないかという話が入ってきたんです。

 でも、私たちは補助金といただくと、その市の人しか利用できないとしばられるのはイヤだから補助金なんかいらないと勝手なことを言って黙っていました。その家は3年間しか借りられなかったので、市の方に市営住宅を貸して欲しいとお願いしていたのが、ちょうど消防署の廃屋があるということで。見に行ったのですが、宿直室はあるし、雨風しのげればいいから、ここを使わせて下さいと言ったんです。じゃ、使うのだったら、どうせ取り壊すのだから、福祉課のものにして、そこに授産所を建てたらどうかとトントン拍子で決まっちゃったんです。

 それで、市の土地に建物を建てていただいて、ダウンの会で運営していたのですが、市から補助金をもらうとなると市内の人しか通えなくなりますよね。その頃は県下の人達も手伝っていたのですが、こういう形で県下に広がればいいから、1つの試金石として補助金をいただいて出発しようということになりました。手をつなぐ育成会に登録するという形で、市の授産所になったのです。でも、授産所として出発するにあたってやはり指導員として残ってやるかというとみんな手を引いてしまって、ボランティアではやれるけれど指導員は出来ないということで。流れ作業の下請けということではなくて、この人達の個性を行かした作業所としてやりたいという思いを伝えて行くのに、私にやれというので、1週間に1回しか出られないということで引き受けたのです。結局、深入りして今は2日は出ているんですけれど。他の指導員の方にもやっていただいていますが、やはり親が一人入って思いを伝えていくことは必要だと思います。10年たってもまだ伝え足りないことがあるので、討論しながらやっているのですけれども、もう少し変えていきたい所もあるし、全部やるのは難しいと思っています。

 ちょうど10年たったので、そうとう織れる人も出来てきたし、このまま進めていけるかな、もう少し力の弱い車イスの人達もかかわれないかなと思っています。そういう作業は車イスの人は無理だろうと学校の方で切ってしまう所があるものですから。そうじゃなくて、来てくれればその人に合わせた作業を考えていこうと思っています。

 もう1つ、手をつなぐ育成会で作業所をたち上げることになっています。市の方から補助金が出るのですが、どういうものにしたら一番弱い人達も通える授産所になるかということで、そちらの方を来年から準備をしようと思っています。でも、作業場をする時には、自分も楽しめる所、自分も一緒にやって生き甲斐のある所にしていかないと長くは続かないと思います。

 昨年「ゆにーく」では、市のホールを借りてファッションショーをやりました。音楽だとかアナウンサーとか、みんなボランティアさんでやっていただきました。「ゆにーく」の仲間達がモデルになって、買って下さる方が一番似合うものでなくてはいけないのだらということで、お客さんもモデルにして。とても評判のいいファッションショーが出来ました。2週間後にはバザーをやったのですが、それもたくさん売れました。この間も街の真ん中でギャラリー展をやって、これも3日間で80万程売りました。


☆★☆質疑応答☆★☆

−−夏木さんも一緒にここへ来ていらっしゃるのですか?
河内:
 いえ、夏木も来ればいいなと思ったのですが、卒業した時に紹介して下さった企業へ勤めているのです。勤めて11年目ですが、それが続いているので、夏木は最初から全然来ないです。

−−夏木さんは何時に出勤されているのですか?
河内:
 今は会社が9時から始まるので8時に家を出ています。今は仕事がうすいということで(電気関係)、12時で仕事が終わってしまうのです。お昼に帰ってきて、その後、福祉センターに寄って社協のお手伝いをしたり、自分の好きなことをやっています。体力的にはそれくらいで丁度いいかなと思います。
 最初に勤めた時には、勤務時間が朝9時から午後5時までで、通勤に1時間はかかりますから、真っ暗になってから帰ってきていたのです。帰って来た時には、もう玄関で「疲れたー」と寝込むくらいの時もあって、こりゃ大変だと思っていました。体力もずい分ついてきたし、昨年は3時までで、今年はまた仕事が減って12時までになっちゃって。でも、毎日定期的に行ける所があるだけでもいいかなと思っています。お友達の中にはリストラされた人も多いので。

−−仕事は具体的に何をしていらっしゃるのですか?
河内:
 仕事ですか。エアコンや冷蔵庫を作る会社の下請けの会社にいます。
エアコンのカバーをたたんだりとか、冷蔵庫の型ぬきをしたりとかのようです。よく飽きないあーと思います。毎日毎日、あんなに電気製品が売れるのかしら、と思うくらい。障害のある人は、みんなで6人ぐらいが部所の違う所で働いています。従業員が60人くらいの企業なので、そのくらいの所だと力が足りなくても誰かがカバーしてくれるし、4人以上いると社員が1人やとえるような補助が会社にはある様です。

 彼女はちゃんと社会保険に入っていて、健康保険も本人ですし、雇用保険もあり、もしやめた時には失業保険も出ます。1万何千円かを給料から引かれています。最低賃金除外申請というのを出すんですよ。年2回のボーナスと交通手当ても出てます。でも最初に勤めた時から比べると、お給料は4分の1になりました。時間数が少ないから。最初は8万くらいもらっていたのですが、今は2〜3万というところです。

−−それでも作業所よりは企業にいる方がいいのですね?
河内:
 そうですね。それでも授産所よりはもらって来ますし、社会保険を引いての金額ですからね。一般の社会の中にいる事は、相手にとって大事なことだと思います。

−−医療費はタダではないのですか?
河内:
 医療費はタダです。働いているから健康保険料、厚生年金保険料は払うけれど。障害ということでは保障してもらうけども、労働者としては負担の義務は果たすということだから。あと、障害者年金を20才からいただけますので、障害者年金が月に7万円くらいになりますよね。働いている時には両方あわせると一応生活できるという形になっています。

−−そのお金の管理は?
河内:
 管理は私がしています。お金の管理はまだちょっと難しいですね。2万円か3万円はお小遣いということで、自分のことに使ったり、お茶の月謝を払うだとかはしています。「今日はちょっと買いすぎた」とかは言っていますが、お金のことは、千円出しておつりをもらってくるというぐらいですね。計算してその分を出すというのではなくて。雑誌か何かを買うのに「お金がない、お金がない」というので、「夏木、持ってたじゃない」と言って、サイフを見ると1万円札しか入っていなくて、「1万円札買えるのに」というと、千円札の方が彼女には価値があった。そういう感覚です。

 就職した最初の頃はお金の価値もあまり分からなくて、お金の大切さを分からせる為に、給料をもらうと自分の洋服を買ったり、ハンカチを買ったりしては「夏木が買ったんですよ−」と私がみんなに宣伝して歩くのです。そうしたら、人は「偉いね」と言ってくれる。でも本人は全然分からなかった。そのうちに、自分で買うことはいいことなんだということが分かるようになってきました。だから、持っているものは全部お小遣いではなくて、くつ下は自分で買うとかね。自分の生活の為に必要ということで働いている、お金がこういうことに必要なんだということを根づかせていかないとと思っています。今は恵まれていますから。

−−バスとか電車、新幹線等に乗る時にはどれくらいいるとか、理解しないといけないですけど、行動範囲が広がっていくということと、その辺のことは平行ですか?
河内:
 そうですね、やはりお金は必要と思っている。電車に乗るのにお金がいる。CDを買うよりはたくさんのお金がいるというのは、だんだん分かってきた。近くに福祉センターとデパートがあるのですが、ご飯を食べる時も福祉センターまで歩いて行って食べていて、「どうして?」と聞くと、「福祉センターの方が安いもん」と言うのです。自分のお金がたくさんある時にはおおらかなんですが、少なくなると、その価値がよく分かってくるみたいです。だから、変な所で安いと言ったり、高いと言ったり、何を基準にして言っているのかと思いますけれど。

−−今後はどうなさるのですか?
河内:
 今後ねえ、それを聞かれるのが一番こわいのです。何も考えてないから。今は3人暮らしなのですが、本人に聞くと下宿はしたいと言ったものだから、下宿したいのだったら、家には玄関から自分の部屋に入れるドアがあるので、こっちのドアを閉じて、部屋にいく時は玄関から直接入るようにするといいじゃない、と言ったのですが、絶対にイヤだというんです。だから、ちょっとイヤみたい。

−−一人で暮らさせたいと思うけれど、まだまだと思ってる。
河内:
 そうそう。

−−そういうのは、時期ですよね。
河内:
 そうですね。やはり自分一人で暮らしたいと言ったら、させたいし、みんなと一緒に住みたいと言ったら、一緒でもいいかと思っています。
 今日はお父さんが横浜に行って、私は京都なんですよ。で、こちらへ来る時に、「じゃさよなら、晩ごはんは一人でやらなくちゃね」と言ったら、やはりとても緊張しているようでした。市内に両親がいないとなると火の元を気をつけるとか、晩ごはんは何にするとか、一生懸命自分で考えているから。でも、それもだんだん練習をしてみようかと思っています。

−−異性関係はどうですか?
河内:
 うちの娘は結婚しないと言ってますね。

−−好きな子とかは?
河内:
 好きな子はいます。前も高校の時につき合っていた男性がいまして、その彼とはワークキャンプで一緒になって。その彼がとてもいい子で、修学旅行で広島に行くと絵ハガキを送ってくれたり。夏休みに帰ってくると、デートしようといって図書館の所で待ち合わせをしてお茶を飲んだりして、うちのお兄ちゃんや妹もうらやましがっていました。

 で、彼が結婚する時に、非常に悲しかったのだろうけれど、それは私には絶対に言わなかったんです。結婚したというのは、私は風伝えに聞いていたんですよ。夏木は知っているのかなーと思っていたのですが、言わなかったんですね。そしたら、彼も自分が言ってないから夏木にはどうしようと言って、ちょうど夏木が入院した時に彼がお見舞いに来てくれて、その時に「結婚したんだよ」と言ったら、「知ってたよ!」と言ったんですって。それをちゃかす為に一緒にいた友達が「彼、今日ね夫婦喧嘩してお小遣いもらえないんだって」と言ったら、ふとんをかぶって、「けんかしちゃダメだよ」と言ったそうです。

 しばらくして夏木も元気になって、ある駐車場で彼にバッタリ会ったんですよ。彼と奥さんが一緒で。彼が「あ、こんにちは」と車から下りてきて、私と彼が話している時に夏木がタッタッターと車の所へ行って奥さんと話していたから「何を話たの?」と聞いたら、「ケンカしてもお小遣いあげてね」って(笑)。

 その彼が高3で夏木が高2の時知り合って、彼が大学に行ってもそのままおつきあいをしていました。次の年、夏木が高3のワークキャンプでは高3の子と一緒になったんですよ。みんなが言うのには「夏ちゃんはすごいメンクイだ」って。とてもステキな人と仲良くなるそうです。そしたらこの人とも文通を始めて、前の年の彼がヤキモチをやいて、「夏ちゃんはずるい」と言うんです。「○○くんとも付き合ってる」って。私は、「そりゃ、あなたは夏木と結婚するという所まで考えていないと思うよ。それで、あなたは誰かと結婚するかもしれないと思ってる。そしたら夏木は一人ぼっちになっちゃうよ。だから夏木にはいろんなお友達が必要だから、許してよ」って言ったら、「分かった」と言ってくれました。今は社協の同じ年くらいの男性ともつき合ってます。みんなもけっこう、「夏木さーん」とか言って、写真を撮ってくれたり、誘ってくれたり。

 今、夏木は同年令のお友達がいっぱいいることはすごく幸せだと思います。

−−5年生の女の子なのですが、普通の学級に入れているのですが、「自分は障害者と違う」と言い出したのです。学校でそういう話をされた後も、私、障害者と違うと言う。この間のダウン症フォーラムでも「私、障害の子やないけれど出るねん」と言ったりしているのです。
河内:
 私はダウン症イコール障害とは思わないけれど、ダウン症だということは知っていてほしいと思う。彼女は生きていくためには今、障害はなんにもないんです。生きていく為に障害があるから障害をもつ人となるわけです。だから、彼女は障害者ではない。だけど、ダウン症というものを持っているということは知っててもいいと思うんですね。うちの娘もダウン症だということは自分は知ってたけれども、イコール障害とは思ってなかった。「お母さん、ダウン症って障害者?」と聞かれたことがあります。「障害者の番組でダウン症の人が出てくるから」って。

 ダウン症の人って自分はダウン症だと分かるんですよ。「あの子はダウン症だね」と言うし、「私と一緒だね」ということはちゃんと認識している。それは大事なことだと思います。

 「障害があるということは、みんなにいろんな事を助けてもらわないと生きていくのに大変なこと。夏木も妹がいるのだけれども、たまに助けてもらうことがあるでしょ。夏木の方がお姉さんなのだけれど彼女の方が出来て助けてもらうね。そういうのを世の中では“障害”っていうふうに言うんだよ」って言ったら、「あ、そうか、分かった」と言っていました。だから障害をマイナス面で受け止めていると障害じゃないよと言わなくてはいけないし、彼女は障害ではないんですよ。だから世の中がきちんとなっていれば障害は少ないのです。

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