京都ダウン症児を育てる親の会 代表 佐々木和子 厚生省が厚生科学審議会を設置し、その部会である先端医療技術評価部会で、「当面、生殖医療に関する分野について、検討を進める」という情報を得た時から、私達、当事者団体は繰り返し、情報を公開してほしい、できれば、議論の中に入れてほしい旨、伝えてきました。それゆえ、部会、及び議事録の公開、さらには、この度の意見の募集と大変、画期的なこと受け止めております。 私が「出生前診断」という言葉を知ったのは、我が子がダウン症と診断されました15年前になります。それ以来、私、個人といたしましては「出生前診断」だけでなく、「生殖補助医療技術」につきましても、強い関心を持ち続けてきました。 2年前より「母体血清によるマーカー検査」が、検査の持つ意味を十分理解されているとは思えないまま、一般社会に広がり始め、検査の結果、胎児がダウン症と診断された殆どの妊婦が中絶していることを、検査会社が発表しております。 私は、親の会を結成して13年目になります。結成当時から、「出生前診断」だけでなく、ダウン症に関する情報、合併症のこと、子育ての不安と多岐に渡る相談活動を通じ、また、実際にダウン症の我が子を育てながら、他の障害を持つ子どもや障害を持っていても地域の中で生活し、子どもを育てている人達と交流しながら、ダウン症をはじめ、障害を持つ子どもが生まれない方が良い、という感想を持ったことがありません。 むしろ、親や家族は子育てを通して多くのことを学び、豊かな生活を手に入れているという実感を持っていました。 その事実と、障害を持つ子どもを育てている親や家族を取り巻く、医療現場や社会的背景の実態を正確に把握するために、私達、京都ダウン症児を育てる親の会は、1996年6月に、『出生前診断』及び『母体血清によるマーカー検査』に関するアンケート調査を行い、237部の回答を得ました(回収率51%)。ダウン症児を育てている家族からは141の回答を得、81%の家族がダウン症を産んで良かったと答えています。 人は大抵、待ち望んだ子どもに障害があるとわかるとショックを受けます。私も例外ではありませんでした。それではどうしてショックを受けるのでしょう。アンケートの中で一般的に知的ハンディキャップを持つ人がどのように理解されているかの質問に86%の人が、正しく理解されていない、かわいそう、差別的と回答しています。これは、出産した本人も生むまではそう考えていたということです。それが、社会通念として、根強く、人の意識を支配しているのです。だから、ショックを受けたのです。しかし、それが、育てることによって81%の人が産んで良かったと思うようになるのです。 '96/6月の朝日新聞論壇で古川哲雄氏(東京医科歯科大教授)が「未来を予見することは、自分の努力によってある程度変えることができる未来を、それが不可能な未来にしてしまうことである。未来は過去と違って、自分で築くことができるという点にこそ、われわれは生きがいを感じているのである。人間だれしも未来に不安を持っている。しかし、未来を予見することは、この不安を恐怖にかえることである。」と書いています。 まさしく、「出生前診断」で胎児がダウン症とわかった人の殆どが中絶をしているのは、このダウン症という障害に対する、不安が恐怖に変わったことを指すのでしょう。そして、自分で未来を築いたのが、知らずに産み育てた私達です。 古川氏は、「知ることができる状態に置かれれば、たとえ、自分が不利になることでも知ろうとせざるを得ないのが人間である。これを理性で押さえきれるはど人間は強くはない。本人が納得したからやりました、ではすまされないのである。」とも書いています。 知ることができる状態とは、妊婦本人だけでなく、夫も家族も知ることができるという状態にあるということです。検査があるという情報が、本人がどうしたいと思うかとは別に、家族が知りたいという思いや、社会が持つ障害に対するマイナスのイメージも加わって、受けなければならないという圧力になったのでは、本当の意味での自己決定にはならないということです。日本の伝統的な家族概念や出産、育児、家事に対する社会的概念は十分に圧力に成り得るものです。また、医師と患者(妊婦)の関係も対等にならない限り、患者(妊婦)が自己決定をしたとは言えません。 私達は、「母体血清によるマーカー検査」が一般に普及し始め、実際に胎児がダウン症であったことを理由に中絶している事実が情報として届いてくることで、どんなにか傷つけられてきました。検査を勧めた医師はダウン症だけでなく障害についてどれほど知っていたのでしょう。そして、中絶を選んだ人は医師からダウン症についてどのような説明を受けたのでしょう。 アンケート調査から、出産した産婦人科の医師から、ダウン症について告知を含む、きちんとした説明を受け、医師に対してプラスのイメージを持った人は、わずか9人で全体の7%しかありません。また、検査の窓口になる産婦人科医は、挨査及び検査結果について適切な助言が出来るかという質問にも、助言出来ない(83%)、検査するべきでない(11%)、安直な中絶が増える(6%)となり、医師にもよると答えたのは2%しかありません。これは、ダウン症や染色体異常の子どもを産み、実際に産婦人科の医師と深くかかわった人の経験の中からの数字であることを強く認識していただきたいと思います。 アンケート調査から、医師だけでなく一般社会が、いかに障害を持っている人の生活を知らずに、「障害=不幸=生まれない方が幸せ」という図式を立てているかがわかります。 確かに遺伝相談をしている医師は、診察室におとずれる患者の悩みを聞き、何とかしてあげたい、何とかしなければならないと本当に思っておられることもわかります。だからといって、その悩みの解決方法が予防という名のもとに命を選別する事であったり、法律の中に胎児に障害があるとわかった場合に、中絶を認める胎児条項を入れることでは、現在生きている人の存在を否定し、切り捨てることになります。 自然の中で、人はもともと多様なあり方で社会を構成してきました。その構成を人為的に変えてしまうということに危機感を覚える人は多いと思います。むしろ、障害を持ったままの命をいかに社会が受け止めていくか、現在の社会の在り方そのものを変えていくことの方が先決です。 また、診察室の中でのことは、その人の生活の中のごく限られた特殊な状態であることを医師は知ってほしいと思います。そして、障害を持っていても、障害を持つ子どもを産んでも、その事実と向かい合い、ありのままに生きることで幸せを勝ち取り、診察室へ相談に行く必要のない多くの人が社会を支えているということも知ってほしいと思います。 子どもを産むと言うことについて、山田 真氏(小児科医)はこう言っています。 「子どもを産むということは一定のリスクを伴うものです。子どもを育てることにもまたリスクがあります。そのリスクは「子どもが健常でなかったら」といったことだけではありません。健常な子どもであっても、親の苦労の種になることはあり得ます。たとえば、成長して犯罪を犯すこともあれば、極端な場合には親を殺してしまうことだってあります。そう考えると、健常な子どもを産めばその先は平坦であると考えるのも幻想と言ってよいでしょう」と。 子育てだけではありません。人は生きていれば、いろんなことがあります。起こるであろう全てのアクシデントに対して、予防線を張ることは不可能です。それならば、逃げずに向かい合う姿勢を持つことが必要なのではないでしょうか。 人は、実際に目の前に起こることに対しては立ち向かう、知恵とやさしさと強さを、思いの他持っているのも事実です。私は自分の経験も含めて、そういう多くの人達を知っています。 治療することを最大の目的にしている「医療技術」の進歩は、個人に多大な利益を与えてきました。引いては社会の発展に大きく貢献してきたことは周知の事実です。 しかし、一つのことがわかる事によって二つ検査ができるようになり、二つの検査から四つのことがわかりと鼠算式にわかるようになり、人の遺伝子、全てが解析されるのも時間の問題となってしまった今、本当に、先端医療技術は人に幸せをもたらすのでしょうか。 「出生前診断」は本来、早期発見、早期治療することを目的に行われるものです。しかし、現実は障害を持つ子どもを社会から抹殺するための検査になろうとしています。まして、「手軽な検査」という宣伝文句のもと、検査会社の商業ベースに乗ろうとしていることは、大変な社会問題であると言えます。 先端医療が技術先行型で進められた為に、技術が社会に与える影響を考慮されず、倫理的な議論もされることなく、一般社会に広まってきています。自分に与えられた情報が、「命」という大変、重い課題であるにもかかわらず、早急に結論を要求されてしまうのが「出生前診断」なのです。今まで、医療の中でも教育の中でも一般社会の中でも、「命」について、また、すべての人が障害を持つ可能性があること、そして人が必ず迎える「死」についても論じられてはきませんでした。 その結果、今、現在も「生まれようとしている命」が、ダウン症だけでなく障害を持っているということを理由に中絶されているのです。この事実に対して、私達、ダウン症児を育てている親は、許し難い思いを抱いております。 「出生前診断」又は、胎児条項の適応について、必ず言われる『重篤』な障害という線の引き方は、何をもってして『重篤』とするのでしょうか。医学的に軽微と思われても、診断された親がそのことについて感じた不安を恐怖に変えたならば、軽微と思われる障害が重篤に判断されてしまうことは、容易に想像できます。また、親が我が子の障害は重篤と思っていても、本人は全く思っていない例もたくさん見てきました。それ程、『重篤』という言葉の定義もあいまいであり、当事者に対して、大変、失礼な言葉なのです。 ましてや、法で「命」の質を定義するなどということは、社会的にも、倫理的にもしてはならないことなのです。 先端医療技術の研究及び臨床応用が、すべての命を守り、一人、一人の人権を守るために、そして、国民のコンセンサスを得られたものであるように今後も時間をかけて繰り返し議論されていくことを切に顧っております。 |