京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報


(2001年8月号 掲載)
中根氏が、おしゃべり会での講演を会報用に原稿にしてくださいました。

 トライアングルのみなさま、こんにちは。立命館大学で助手だったり大学院生だったりする中根成寿(なかねなるひさ)と申します。
 私のことを知っておられる方、こんにちは。あったことあるけど忘れそうになってしまっている方、覚えておられますか?未だお会いできない方、お会いできたらよろしく。

 私は、昨年からトライアングルに出入りさせていただいて、自分の関心を親たちにぶつけ、お話を聞きながら、研究をしております。「障害って何?」「親って何?」「自分の子どもに障害があるってわかるとどうして人はとまどうんだろう?」極めて素朴で、なおかつ大きな問いだと思っています。
 今日は今年度の総会で少し話をさせていただきました内容を簡単に紹介しようと思います。おつきあいください。


 私の学問的立場は「社会学」です。残念ながら社会学と聞いて「あ、だいたいこんなことやってるんだな」と想像してもらえることはまずありません。「医学」や「法律学」とちがって、社会学は世間に、マスコミにあまり認知されていません。未だに「(小学校の科目の)社会の先生になられるんですか?」と言われることもしばしばあります。社会学の認知度の低さはメディアへの露出度が多分に影響していると思いますが、他にも学問としての権力関係がその根底にあります。

 現在日本では、ほぼ下の図のような学問間の権力関係が固定化しています。医学が一番上にあることに驚かれるかもしれません。しかし私たちの生活において一番権力を握っている学問は、実は医学、とりわけ精神医学なんです。受験生の気になる偏差値も、医学部は総じて高いですね。お国からでる予算も医学分野はたくさん援助を受けています。

 どうしてこの順位がついたのでしょう?ここからは僕の私見でして、偉い先生がおっしゃったわけではないのですが、この順位は「対象を規定する力が強い順番」に並んでいると思います。

 ようするに「障害とはなにか?」を社会学は定義できません。あえて定義するなら、「その時代、その社会において障害者と呼ばれ、そう扱われている人」という定義になります。ちょっと消極的な定義な気もしますね。

 でも医学は「どこそこの機能が、標準値に対してどれだけ劣っているか」をしっかりと定義できます。ニュースや報道で精神医学や心理学の診断で登場する病名、つい最近まで聞いたことのない病名が多いです。実際に精神医学の辞書は毎年確実に厚くなっていきます。これはいったいどういうことでしょうか?

 おそらく病気の人が増えた…のではないでしょう。単純に病気の名前が増えたということです。そして病気や障害であるという名付けられる人が増えたと言うことでもあります。人は自分の理解できないことを恐れます。だからどうしても説明できる言葉がほしいのです。でもその言葉が時に人を苦しめることもあります。


 私はこうした見方になにかしら「障害とは何か」と「親はなぜとまどうのか」という答えがある気がしています。実際に「障害児の親」という存在にはいくつかの典型的なまなざしが存在しています。子どもの障害に思い悩み、いつしか自分の心まで病んでしまう人、子どもの発達に力を注ぎ一生懸命に療育活動に励む人、パートナーやその両親の理解を得られず、家族の中で孤立していく人、一生懸命に子どもを愛するけれど、いつしか子ども自身に反発を受けてしまう人…実にさまざまなことが言われています。当てはまる人もいるでしょう。でも当てはまらない人、当てはまりたくない人ももっとたくさんいるはずです。

 私は今あげた「障害児の親」を語る言葉(学問的な用語では「言説discourse」といいます)は、実に一方的で乱暴だと思います。しかし同時に社会に間違いなく存在していると思います。だから私は「社会によって作られた存在なら、それを壊すことも可能なはずだ」と考えています。これを読んで、「自分はそうじゃない」と思った方もおられると思いますが、「自分にも当てはまるかもしれない」と思わず思いかえした方もおられるかもしれません。

 女性学(フェミニズム)も同じやり方をしてきました。女性とは家庭の中で「主人」や「子ども」を愛し育む「母性的」な存在である、という言説を女性学は批判し、ある程度の相対化に成功しています。

 多くの人々は社会の中に生きている以上、社会が作り上げた言説を自分の中に内面化しています。だから支配的な言説と戦うときには、社会は抵抗します。「女性らしく」ない女性、「男性らしくない」男性、同性を愛する人は、社会の中で有形無形の制裁を加えられます。「障害児の親」らしく振る舞わない親も時々「常識」に抵抗されます。


 しかし、一人だけで「支配的な言説」を相対化していくのはとても難しいです。自分だけで思いこんでいてもなかなか人は満たされません。自分の思いを話し、認められる場所が必要です。トライアングルもその役目を果たしていると思います。


 では私が行うべきことはいったいなんでしょうか。ただ話を聞くだけなら誰でもできるじゃないか、という批判がでます。また、「親でもないおまえになにがわかるの?」「男性に母親の話が聞けるの?」という挑発的な批判もよく同僚から受けます。だから私は「親でもないし、母にもなれない私だからこそ、何にも知らない私だからこそ、私と話す親はゼロから話し始めなければならない。ゼロから改めて話すことで親自身が何かを見つけることもあるはずだ」と言い返すことにしています。先ほど話した「世間の常識」も、すべて壊したところから話を聞くことができます。「常識」はそれをよく知り、なおかつそれを相対化する技術を持っているものだけ、壊すことができます。だから親は世間の常識から自由になって、「自分自身の物語」を作っていくことができます。それを手助けし、聞き役に回り、物語の共著者になることが社会学者にできることではないか、と考えています。


 「自分をないがしろにするストーリーを他者から無理に与えられ、その中に生活することを強いられてきた人が、それと反対にもし自分には自分のストーリーを書き直す資格があることに気付き、その資格を取り戻し、「自分のストーリーを語る権利」を得たら、いったいどういう変化がその人に起こるだろうか。」

 「私たちの文化においては人々は辛い経験をすると、自分たち自身が問題であると見なしたり、なんらかの欠損があるのだと見なしたりして、自分たち自身を「失敗」ないし「非難すべき」存在だとするドミナントなストーリーを信じ込むように誘導されることが多い。(中略)人が問題を経験すれば、そのこと自体、当事者の性格、特質、それに価値においてネガティヴなものがある証拠だとみなされることになる。「人」と「問題」は同一視されるに至る。」


 こうした試みを「ナラティヴ・セラピー」と言います。セラピーという言葉があまりに大衆化してしまい、日本語に訳すとうまい訳がないのですが、「語ることによってその人の世界を再構成する」という意味で私は使っています。


 今まで、障害の問題は非常に狭いところで論じられてきました。医学的な側面、福祉的な側面が非常に多いです。これらはいずれも「方法」に関する側面です。もっと「意味」に積極的にアプローチする研究が必要だと思います。物質的な援助だけでなく、「もっと私のことを知ってほしい、もっと私たちが抱えている問題について理解してほしい」という当事者やその家族の視点を日本の学問はあまり重視してきませんでした。障害に関する問題は、お金やものだけを与えてはいおしまい、という問題では決してないのです。

人が人を理解する、自分自身を理解するという試みをもう少し「社会学」立場から行う必要があるのではないかと思っています。


 今後もトライアングルの中でいろいろな方にお話を聞きたいと思っています。特に今度は「お父さん」にもお話を是非聞きたいと思っています。生物学的な条件、日本の家族構造の違いから、なかなか父親であることの困難、男であることの困難が社会の中には存在しています。

 でもそんな中に、母親と違った言葉や理解を持っているのではないか、母親とは違った質の悩みを抱えているのではないか、と考えています。一般に「男」と言われる人々は、自分のことを語るのが下手だったり恥ずかしかったりします。だからこそ、男性の声はとても希少価値を持ちます。またこっそりと近づいていって、お話を聞くこともあるかもしれませんが、いやな顔をせずに、是非ご協力ください。


 今回の総会では、僕自身も話すことで整理できたこともあります。まだまだ貫禄や雰囲気がついてきませんが、いつかは「おにーさん」と呼ばれなくなるまでがんばっていこうと思います。学究の徒としては未熟者ですが、末永くおつきあいください。

中根成寿   


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