京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報


(2003年8月号 掲載)
講 演

                             
 6月22日の和田佳代子さんの講演、『あたりまえに生きる』のテープおこしです。
                             
和田佳代子さんの講演、『あたりまえに生きる』
2003.6.22   

 みなさん、こんにちは。赤ちゃんを見るとなつかしい気がします。典子はもう、29才になりますから、本当にもう30年近く前ですね。うらやましいような、もう1回やりなおしたい気がします。今度はうまく育てるのにと思うのですけれど、もう育ってしまいましたので、その中でできるだけいい人生が送れるようにしてあげたいと思います。

 お配りしたプリントに、「生い立ち」というのがあります。1973年に生まれまして、地域の小学校と中学校を卒業し、私は枚方に住んでおりますけれど、宇治市の洋裁の専門学校に3年間通いました。そこは高校の資格がとれるのですね。もちろん勉強の方はあれですけれど、音楽とか体育とか、この人の好きなものがあったということで、ちょっとごり押しで入れていただいたようなわけです。そこを出まして、大学の年令ですから、みんなと同じようにさせたいという思いがあって、いろんな大学をはしごしました。最初に行ったのが桃山学院大学で、二人で聴講生として入りました。障害福祉科の北野先生の講演を聞いてお願いをしてみようと思い、「来てもいいよ」とおっしゃっていただいて、そこで一年間私も一緒に勉強させて頂きましたし、学生達も障害をもった人たちと関わろうとしているクラスですから、非常にいい勉強になったと思います。あと、龍谷大学のサークルだとか、大谷大学は今現在も行っていますが、そこでは陶芸の勉強をさせてもらっています。

 生まれてすぐにダウン症と診断されて、大変落ち込んだ時期がありました。子どもの将来が全く見えないのが不安で、30年前ですから、まわりに障害を持った方がいらっしゃるような情景はなかったんですね。だから、どうやってこの子を育てていったらいいのかと思ったときに、京都駅の前あたりで、障害をもった人たち40人くらいの集団が、手をつないで、周りを先生のような人たちに囲まれながら来られたんですね。障害を持った人たちがかたまってそういうふうにすると、私達は道をあけるわけです。あれを見た時に、「あー、うちの子も将来はこのコースなんや」と思ったと同時に、もう本当に「こうさせてはいけない」と感じたのです。今日のテーマも『あたりまえに生きる』と書いていただいていますけれど、『あたりまえに生きる』というのはどういうことかということがその時から頭にへばりついてなかなか離れなくて、ずっと考えつづけていたわけです。

 まず障害というのは、自分の子どもだけを育てている間は、「この子は障害児だ」という思いがないわけです。いろんなアクシデントはありますが、それなりに子どもは可愛く成長していきますから。けれど、社会に出たらそういうふうに、人が身をよけるような情景があるのだろうと思うわけです。そうすると、『普通に育てる』ということは、保育所、小学校、中学校、高校と学校のプロセスをふんでいく中で大事なことだと思うようになって、それで市の方に相談に行きました。当時は本当に障害児を見ませんでしたから、どこに、どうして住んではるのかということをまず調べたいと思いました。

 障害福祉課では施設とか、作業所とか、そういう所を教えていただくにとどまりまして、保育所に入れたいと申しましたけれど、当時はまだ保育所が障害を持った子を受け入れる態勢ではなかったわけですね。市の方では、療育園を紹介してくれるわけです。それで、「障害を持った子は手厚く保護されて育っていくことで伸びるんですよ」と。そういう話は皆さんもさんざんお聞きになったかもしれませんが、当時はそれしかなかったわけです。だから、「そういうものじゃないだろうな」という気はしながら、個人で市と対話すると言い含められるのですね。それで、「仲間集めをしなきゃダメだ」と思いまして、私の住んでいる地区に4つの小学校があるのですが、その小学校を訪ねて、障害を持った子どもさんがおられないかという調査を始めたわけです。そうすると、結構いらっしゃるんですね。大きい方は養護学校に行っていましたし、在宅で学校に行かないというお子さんもいました。うちの子よりも1、2年上とか、小さいお子さんもいらっしゃって、とりあえず、その子ども達と一緒に保育を勝ち取ろうと、「保育をすすめる会」を作りまして、対市交渉をやったわけです。それでやっと、学校へ行く前の1年半くらいの間、保育所へ入れていただくことができました。それで、どうにか普通のお子さんと遊べるというところにきたのですが、本当に障害を持つということは、家の中ではあたりまえにしているのに、外に行くと、あっちでダメ、こっちでダメと言われることが一杯あって、これは社会が障害を助長していくんだなぁと切実に感じました。

 それで、小学校はもうどんな事があっても普通の地域の小学校に行くんだという思いがあって、小学校にも行かせてほしいと市の方に言いに行ったわけですが、小学校に入る年の1979年に、養護学校義務化というのが完璧にできたのです。それまで在宅だった人たちもみんな養護学校なら入れますよ、養護学校を充実させて、どんな地域のお子さんもバスで送迎してきめ細かな教育をしますよ、という義務化ですね。市の方では、養護学校へ安心して来てくださいと。いかにもいいお話のようには聞こえますけれど、「そんな事したら大変ね」ということで、保育をすすめる会の人たちと一緒にいろいろかけ合いまして、どうにか小学校は入れていただきました。小学校に入った時は障害児がうちの子一人だったので、それなりに大変でした。PTAの会報とか、いろんなものに載せてもらったり、教材もなにもなくて多くの方に手伝ってもらって私達の方でやりました。

 どうにか小学校は卒業して、中学校も、もちろん地域の中学校と小学校6年間に言い続けてきてますから、その時はすんなりと入れてくれました。今度は高校です。高校は本当に大変です。今は、大阪の方では公立高校で少し入れる所もありますが、一般の高校生の扱いではなくて、特別枠というような形でしか入れません。中学校の3年の時の先生はよく理解してくれていて、一緒に学校を探し回ってくださいました。それでどうにか専門学校に入れていただいて、無事に卒業をしたのですが、中学校ぐらいからずっと、「卒業したらどうなるんやろう」と、それは考え続けてきました。

 当時、市民運動みたいな形で、市に公民館を設立してほしいという要望を出しておりまして、くずは公民館が出来ることになって、そこを私達が十分に利用させていただくことにして、いろんな活動を始めるわけですが、お祭りとかなにかがあるたびに、喫茶をするんですね。それはいつも私達、障害を持った子の親が準備をして、コーヒーをだしたり、ケーキを焼いてきたりという活動をずっと続けてきたわけです。これが障害を持つ子の就労の場にならないだろうかということに発展していきました。公民館ができて10年目くらいにやっと喫茶「わお」を設立することができ、今年で10年目に入ったのですが、これは自分達だけでやるというわけにはいきませんので、市の方に障害者事業協会というのができて、そちらが管理することになって、どこにも行っていない障害をもつ人たちが運営することになったんです。昨年そこが、やっと障害者就労の場となったのですが、そこで4日働いています。4日といいましても半日が1回ありますし、後の時間をどう使うかということで、いろいろ検討してきました。

 大学へ行っている間から、織りを習っていまして、さっき(展示品を見て)「さおり織ですか?」とおっしゃっていましたけれど、さおり織は障害をもつ人たちが織ることでよく浸透していますね。最初はさおりを始めたのですが、商品化を考えると仕事としてやっていくにはしんどいかなと思いました。それで、旅行で東北に行った時に着物や洋服のボロを裂いて織り込むという「さき織」をやっているおばあちゃんに出会いまして、「あ〜、こんな古い物が何度も何度もこうやってよみがえるんだ」と本当に感動しました。それは地域とのつながりにもなるだろうし、リサイクルにもなる、それに糸代がかからない、いいことばっかりみたいな気がして、すぐにさき織に取り組みました。それが今まで続いています。大学時代にやりました陶芸も今も続いています。今までいろんなことを体験してきました。パンを作ってみたりとか、ケーキ屋さんにはつとまらないかとか、この人が学校に行っている時からいろんなところに行って、いろんなことをしましたが、結局今残っているのは、織と陶芸です。
 たくさんの経験と、多くの選択肢を用意することは大切なことと思います。

 障害福祉課とか社協には結構出入りしまして、在宅扱いの子ですから、いろんな情報が入らないのです。この人がまだ小学校の時代に、「であいの会」というのを創立しました。それは、「言葉を育てる教室」という言語訓練を宮崎龍太郎さんがおやりになっていて、宮崎さんは「子どもは地域で育てるべきだ」とおっしゃって、そこへ通う障害をもった子のお母さん達の思いが重なって、その教えに乗って「であいの会」というのをつくりました。その頃、在宅の重度な障害があって、中学校を出たけれどどこも行く場所がないという男の子がいたのですが、その子をなんとか地域で生きられるように考えようということで、「であいの会」というのを発足して頑張ってきたわけです。「であいの会」はくずはだけでなく枚方全市から人が集まって立ち上げましたから、各小学校に、お米を配達したり、自然食の販売をしたり、私達もまだ若かったですから、身を粉にして働きました。それで結構お金を得まして、そして「であいの家」を作ったのです。

 その頃、みんな子ども達も大きくなってきていますから、中学を出ている子が多かったのですが、段々人間が増えていって、そこに来てくださる専従者の人たちも増えてきて、自然食を売るぐらいでは給料が出せないのです。やはり皆さん子どもが大きくなってくると、とにかく安心したいものを作りたいわけですよね。そこで、法人化を取って、建物を建ててもらって、そこで子ども達が将来安心して暮らせるようにしようという話になって、「であいの会」は、会員としては300人ぐらいいたのですが、その中で障害を持った人達は50人ぐらいいて、その人たちのほとんどが、そういう形でやって行きたいとなって、それで「であい共生舎」というのを設立しちゃったわけです。そうやって大きな物を建てて施設化すると、お金がたくさんつぎ込まれるのが一目瞭然ですね。こつこつとやってきたことを活かしたいという思いもあって、そこにはいかず、「喫茶わお」で就業の最低賃金の保障まで頑張るという思いでやっています。

 話が前後しますが、障害福祉課の人たちとの話の中で、うちの子はやっぱり自立を考えているし、兄弟姉妹がいないものですから、できるだけ早く精神的に自立をさせたいというのをずーっと言い続けてきて、7年ほど前ですけれど、この人が23才くらいの時に、「初めての女性のグループホームをやりますから、参加しませんか?」というお誘いを受けたのです。グループホームは4人でやっていて、夕方に世話人さんが来て、一緒にお食事を作ったりして、一晩泊まられて、次の日の朝、その子が作業所に行くというパターンなのです。グループホームの話がきた時に、「どうする?」と聞いたら、「やってみる」というので、一応訓練をさせましょうと思って行かせました。そしたら、帰ってきて、やっぱり「イヤ!」って言うのです。「グループホームより、私は一人暮らしがしたい」と言うのです。私達は仰天しました。「一人暮らし」って、トレンディドラマの中では格好いい一人暮らしは見ますけれど、本人ができるかどうか、しばらくは躊躇していたのですが、夫が「今なら失敗してもいいやないか」と後押ししてくれたものですから、それで近くにアパートを探しまして、一人で暮らす事を始めたわけです。やはりいろいろサポートしていただかないとやっていけませんので、ホームヘルパーさんに週に3日来てもらって、あとは家に帰っておいでネという感じで始めたわけです。それで今年で5年目ぐらいになるのですが、どうにかやっています。2年ぐらいそのアパートで暮らしまして、「これはやっていけるな」と思ったものですから、駅に近い、マーケットに近い、ずっと暮らしていけるような場所を一生懸命探しまして、現在はそこに住んでいます。5年間、織の仕事や食事には帰ってきますが、夜は必ず自分の家にかえって行きます。

 ちょっとビデオを見ていただこうかしら。
    ―ビデオ上映―

 こういう生活をしているというところを見ていただきました。できるだけ普通に近くという感じです。結局、今までずっとやってきた小さな出会いとか、その時に大事だと思ったこと、ずっとつなげていきたいという思いでやってきたことが、今つながっている。だから、昔からの友達とか、小学校、中学校、高校とみんなつながっていますので、そういうつながりを小さな間から心がけていらしたら、きっと世界も広がると思います。

 自立は、みなさんどういうふうに思ってらっしゃるかわからないですが、やはり小さい時は、「20才くらいになったら、うちの子はどんなになるんやろう」というのが一番心配な事ですよね。それで、私もいろんな所で大人の生活を見せていただいたのですが、やはり作業所、施設、授産所というようなところばかりなのですね。そういうところで単純作業をして、年金で生活している人が多かったです。今は作業所もよくなっていますが、まだまだしんどいところもあるみたいです。だから、行政にはできるだけ自分達のしたい生活を、あかんでもともとですから、何度も何度もお願いに行ったらいいと思います。

 「自立」ってすごくこわいのですね。自分もそういうふうに育てたいと思いつつ、いざ子どもから「ひとりで暮らしたい」と言われたらオタオタしたという経験があります。「自立」ということを考えてみますと、やはり「自活」ではないのです。「自活」というのは自分でお金を稼いで生活するわけですけれど、日本の企業ではまだなかなか雇ってもらえないという現実がありますから。そういう所で働くのをめざす障害を持った方がたくさんいて、そのほとんどが自立なんてできないですから、そこをこれから破っていかなければいけないのでしょう。うちの場合、収入は障害者年金と、喫茶の仕事で3万円近く。時間給でまだ360円です。これを早く最低賃金まで持っていくのが今からの仕事です。それから、典子の作品は「アトリエ NON」というブランドを立ち上げて、1年に1、2回、いろんなボランティアの人にも関わってもらって販売をしています。縫製の人にもお金を支払いしてきちんと縫って頂いておりますので、障害を持った人が作ったにしては高いものを売っております。商品を見て頂いたらわかると思うのですが。その作品の収入とかで、今のところかつかつの生活ですが、出来ています。もちろん、持ち出しもずい分あります。本当に自活するというのはとても難しいことです。

 社会の中で障害者は障害を克服することでもないと思うのですね。障害を持った人たちはいっぱい、できない、どうしてもダメというところがあると思うのです。この人も、お料理だってひとりではできないと思います。できない部分を何かの形で補える社会というか、自治体なり国なりが補ってくれるような。今、ホームヘルパーさんに週に3日、2時間ずつ入ってもらっていますけれど、後はたくさん作った物を冷凍・解凍して食べたり、うちの家に来たりというような生活で、日々食べる方はすごしていますね。ですから、こんな重い障害の人は絶対自立できないわ、というのではなくて、重ければ重いなりの保障というか、サポートをしていただけるような社会になれば、私はきっと皆さん自立できるのではないかと思っています。だけど、それで私が楽になったかというと逆ですね。離れていたら、ヘルパーさんにどうなっているか聞かなくてはいけないし、こうやってほしいということもお願いしなければいけないので大変なのです。まあ、そういうことも将来につながることだと思ってやっていかなければと思っています。それで、ずっとこのまま一人でやっていけるのかなぁという不安もあるのですが、本当に親がいなくなったらどうするんだろうなぁという思いは、もう皆様の中にもあると思いますけれど、いくら自立したってまったく一人で生きていけるとは思っていませんので、介護の人とか、ルームメイトと暮らすとか、いろんな暮らし方があると思いますので、あまり自立っていうのは一人で過ごさせるんだという気負いを持つとかえってしんどいかなぁと思います。

 トライアングルの会報の中で、立命館大学の中根先生がお書きになっていることが、本当に丁度30年前の私が感じたことにもうピッタリで、すごく参考になったので、読んでみます。

 「自分がいなくなった後、誰が子どもの面倒を見てくれるんだ、と「障害をもつ子の親」が必ず考える問いにも少しずつですが答えが出されてきています。その答えを出しつつあるのは、この30年間で自立生活を進めてきた当事者たちであり、その親たちです。研究者たちは彼らの実践に学び、生活の様子を記述することで「変わりつつある現実」を表現しようとしてきました。その作業はまだまだ続いています。」

 本当にその通りで、まだまだ完全にフォローが出来る状態にあるかといったらそうではありません。だから本当に、今からどうやって支えていくのかを考えていかねばならないと思います。ボランティアの人たちも結構まわりに集まってくれていますし、公的に補っていただく部分は多いので、その辺の充実をこれからやっていかなければいけないと思っています。ただ親から離れたからいいやというのではなくて、障害を持った人って、「明日に夢をはせる」というようなところがなかなかないんですね。うちの子だって、自分で一人で電話をかけてどこかに遊びに行ったりということはなかなか出来ないのですが、今までの出会いを大事にすることによって、中学校の友達に誘ってもらって映画やUSJに行ったりしますので、やはりこれは地域の学校に行ったからやわーという思いがあります。この年令の方は皆さんお忙しいですから、おばさんになってヒマになったらまた誘ってもらう事も増えるかしらと思ったり。

 自立生活については、孤立させないことが大事ではないかと思います。それと、本人にも少しずつ責任感を持たせないといけないとも思います。「安全」については私も本当に不安でした。ガスや鍵のことも心配でしたけれども、それを恐れていたら何もできないんじゃないかなぁ。本当にいい加減な親なのですが、少しずつ、その場その場で教えていくことが自立につながると思います。まだ若いですから、可能性はまだまだあると思いますので、「明日に夢をはせる」ような生活が送れたらと思います。たくさんの人の力をお借りしたいし、、公的な援助を受けたいし、できるだけたくさんの人と出会える場をまだまだこれから設定していきたいと思っています。

 一番心配なことはお金のことですね。お金の管理というのは本当にできません。さっきも(ビデオで)レジを打っていましたけれど、あれもやっと打てるようになって、結構大変みたいで、打ち間違えということもあります。自分で、「これはいくらで」というようなお買い物もなかなかできません。ですから、お買い物の部分はそんなに急がなくてもいいと思っているので、フォローしてもらえる人に一緒につきあってもらって、少しずつできていくこともあると思います。このあいだも、市の方とお話して、「お金の管理については、「後見人」という制度もあるから、大阪弁護士会で一度お聞きになったどうですか?」という話があったのですが、あまり早くから自由を束縛するような。ある一人暮らしをしていらっしゃる方に聞くと、そういうのを頼んでいると、月々いくらというふうにお金をもらってその中でやりくりをするようで、自由がないかなぁと思ったりして、踏み切れないのが現状です。

 まあ、いろんな可能性を見つけて、いろんな人に声をかけたり、公的なところを利用して、どういうところを補ってあげればいいかということできちんと子どもをみていかなければいけないと思います。今はまだ、ここを出たらここというふうに、少ない選択肢しかないので、この選択肢をたくさん作ってあげる。ピープルファーストという当事者運動がありますが、障害を持った人たちが自分で選択して決定してということができるような、そういう育て方を、小さいお子さんをお持ちのお母さん達は心がけていただけたらなーと思います。


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