京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報


(2003年8月号 掲載)
「敦の選択」

大坂田久美

 「母さん、ぼく高校へいくわ」という一言から、本格的な行動が始まった。
 中学3年生になった敦に育成学級の担任から意思確認が求められ、養護学校ではない高校への進学希望が、敦の口から発せられたと聞いた時、私は内心「やった!」と叫んだ。日常の会話の中で、折りにふれ高校に付いての話題が出る時にも、あえてどの学校もひいきせずに、話してきたつもりだった。
あくまでも、敦自信が決定すれば良い事だというのが方針だった。

 2つ年上の姉がいるが、彼女の高校進学の決定の時と同様だった。進学したのはいいけれど、慣れない生活で落ち込んだり、イヤ気が差した時「自分で決めた事」というせりふで思い止まらせる方法があるからだった。現に姉も1年生の5月頃、思いの外厳しい校風に「止めたい」ともらした事があった。

 敦に関しても、入学当初、自らをアピールしたい気持ちが大げさな態度に表れると、学年主任から連絡があった。 自分の決めた高校の先生の言われる事には、素直に耳を傾ける様に注意した。その後は、特に連絡が無く過ごしている所を見ると、何とかクリアしたのだろうと思う。
 しかし、直前になってきた個人懇談会では、どんな話が出てくるかはわからないが...

 昨年のちょうど今頃から敦は担任や私を含めた中で、根気強く各校への訪問を始めた。中学入学前、小学校の担任から、一度中学の育成学級の先生に会う事を勧められた。もちろん、私も小学校の苦い経験から、中学ではできるだけの交流を希望するために行くつもりだった。

 いざ、訪問してみて、自分の勉強不足や認識の無さを改めて、反省した。地元の中学は統合教育の最たるものだと言う事を、全く知らなかったからだ。これは思いもよらぬ、うれしい誤算だった。普通学級で過ごさせてやりたいという私の必死の思いを「あたりまえ」と、とらえてもらえたし、「私とお母さんの考えは同じですね。安心しました。」とも言って下さった。この時の先生の姿は、一生忘れられないものとなった。

 それから過ごした3年間、一歩一歩の敦の確実な成長をこの先生は普通学級の教室の外から見ていて下さった。とても、心強かった。本当に運のいい子だと改めて思った。

 高校への訪問は敦の興味や得意な事を活かせる学校、プロが見て、手厚く目の届く指導がなされるであろうという学校、そして、通学可能で受け入れの可能性があるであろうという学校へ行ってみた。合計で5校位だったと記憶している。

 その中には養護学校も含まれていた。人から聞いた話では印象が今一つだったが、実際多くのハンディキャップをもった子供たちが通っている所はどんなところなのか、百聞は一聞にしかず、という意味で。
 校内の見学を終えた後、質疑応答の場が設けられた。ちょうど2年後、新制度に変わるという事で、率直に質問してみたが、何一つ満足のいく回答はしてもらえず、不満を残すだけの時間となってしまった。
 後々このことが問題となり、中学校から抗議がなされ、説明にきた担当者の対応の横柄さに、校長が一喝したという経緯があった。敦は養護学校への見学さえ乗り気ではなかったし、これはダメだ、全く縁がないなと、内心思った。

 受験校を決定した理由は、敦が一番気に入った事、進路指導の先生と担任が予想外に良いと勧めて下さった事、体験入学に付き添った私も、先生方の手厚い対応が強く感じられた事だった。
 商業系の専門学校が発端のこの学校で、敦がやっていけるかを案じはしたが、よく考えてみれば、中学校の時も、テストで「0」じゃない点数がついていた時には、「やったあ」と大喜びしていたのだから、そのノリで学校が承知であれば、何の心配もいらないのだ。

 推薦入学試験を受ける事になった敦は担任と2人3脚で、他のクラスメートと同じ立場で、緊張と不安を体験する事となった。 面接と作文が与えられた課題だった。作文はテーマが決まっており、400字詰原稿用紙を、ほぼ一杯うめなければいけなかった。 毎日毎日、学校でも家でも、イヤがるそぶりを見せずに一生懸命机に向かって、原稿用紙に文字を埋める作業が続いた。試験が近づく頃には、用紙のどの部分にどの文字がくるかまで、憶えている様になっていた。

 学校では、試験のリハーサルもされた。時間内に書き上げる事が出来ない時もあったらしい。落ち込む敦を根気強く、励まし続けて下さった先生方に感謝している。敦と一緒に願書も出しに行った。早く行けば、面接の順番が早くなり、当日の待ち時間が短くなるだけ有利だからと教えられた。朝早く出たら、見事に受験番号は「1番」だった。この日は道路が凍結するほど寒い朝で、敦にすべるから気をつけなさいと言いながら、学校の前で私ガ尻もちをついた。それを見た敦は大喜びで声を上げて笑いながら「母さん、大丈夫か」と言った。

 試験の当日、担任と共に出掛けた。生徒だけの入室だったので、終了後の様子のみ知らせてもらえた.「全部かけた」そうだ。 合否の結果は中学校へ連絡があり、合格を聞いた敦は,私に電話をくれた。担任の配慮である。とても興奮した口調だった。「母さん合格やて」と。
 仕事中だったので、一言二言だったが、ガッツポーズの敦が想像できた。まるで、ボーリングでストライクを取った時のような。 他の先生方からもきっと、祝福されて、苦労が報われた喜びをかみ締めていたにちがいない。

 夜、中学入学前、会った先生から電話を頂いた。敦が2年を終える時,定年退職されていたからだ。「敦くんなら、やると思っていました。あんまり嬉しいので、電話させて頂きました。」と。
思えば、この先生が、地元の中学に居られなければ,こんな結果があったかどうかわからない。深く深く感謝した。この先生は、現在、在職中には好きにさせてもらったのでと、ご両親の介護をしておられる。

 高校を卒業すれば、次は社会へと旅立つ事になる。
敦は例にもれず、一人ぐらしが夢らしい。先日の総会終了後、来られた和田さん親子の姿に私も夢がふくらむ。 子供の人格を尊重して,やりたい事を現実にされてきた。お母さんの努力が、娘さんに一つ一つ引き継がれているのが、伝わってきた。お母さんの発言に共感させられる事が多かったし、これからも、自分の考えでがんばっていこうと、力がわいてきた。
とても、すがすがしい空気を頂いた。

 実はこの原稿を書き始めてから、数日が経つ。その間,高校の個人懇談会があった。この日を含めた高校生活については長くなるので、生意気ですが次の機会がまたあれば、続けたいと思っています。


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