京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報


(2010年8月号 掲載)
東京に引っ越しました

千田 真理子

 このたび滋賀県の大津市から東京に引っ越しました。4才1ケ月になるわんぱく坊主、侑輝の母です。事務局に引越しの報告をした際に原稿の依頼を受け、何を書いたらいいものかと悩んだ末、トライアングルの思い出と引越し後の侑輝について書かせていただくことにしました。

 トライアングルに入会し、初めて幼児教室にお伺いしたのが、侑輝が6ケ月になった頃、それから約3年半お世話になっています。幸い侑輝には合併症がなかったので、幼児教室にお伺いしたときの質問は、この子に何をすれば…、どんな療育があるのかなど、先のことばかり質問していたように記憶 しています。今思えば、あの頃は、何かしなければという気持ちばかりだったように思います。つい先日、歩き出してから侑輝の表情が明るく、自信に満ちた顔をするようになりましたと島崎さんにお話したら、島崎さんから「それは、おかあちゃんが明るくなったからや」と言われ、私ってそんなに、暗い顔をしていたんだと今頃になって知りました。

 トライアングルでは、いろいろな行事に参加し、先輩の親御さんや大きくなった当事者の方々等から沢山学ばせて頂きました。なかでも安積遊歩さんの講演会でお聞きした「歩けなければ歩かなくても、車椅子があればいろんなところに行ける…」という一言や長谷川先生の講演会では普通に育てることの大切さを学び、「発達を促そうとすると、かえって障害を育ててしまう」という言葉が印象に残っています。また、侑輝の成長を一緒に見守ってくださる専門家の先生や先輩・同年代の親御さんができたことは、大きな財産であり、そして侑輝にとっては、悩んだとき等の心の拠所になるのではないかと思っています。

 さて、主人の転勤は、侑輝の育て方に私なりの方針が定まり、私自身も今の仕事を辞め、授産施設でお菓子の生産・販売をしている知人のお手伝いをしようかと将来を見据えだした矢先のことでした。転勤で一番の気がかりは侑輝のこと、自我が育ち、伝えたい思いや気持ちを言葉にして伝えようとしだし、伝わらなくても諦めずに繰り返し伝えようとする姿が見られだした大切なこの時期、「なぜ、今なの」というのが正直な気持ちでした。それに関東から引っ越して来たお友達から、引越し後ホームシックにかかり一ケ月程大変だったという話も聞いていたので…、でも悩んだ末、「家族一緒が一番」という言葉に後押しされ、引っ越すことにしました。

 引越し後の侑輝はといえば、親の心配をよそに、保育園の一日目(入園式)こそ様子を伺い母のそばを離れませんでしたが、翌日からは朝の別れ際も泣かず、「バイバイ」と手をふり、あっさりしたものです。慣らし保育で昼食後にお迎えに行ったときも、まだご飯を食べていたのでそばに近づくと「ママ後ろ」、「座って」と言いながらちょっと離れた位置を指差し寄せつけず、でかい態度でパクパク食べている始末。あたかも、ずっとこの保育園にいたかのように自分らしくふるまっていました。今ではクラスの中に溶け込んで、楽しく過ごしているようです。思い過ごしかもしれませんが、侑輝は堂々と自分らしくふるまうことでお友達に自分を認めさせ、対等な関係を自ら築こうとしていたのではないかと感じます。また、対等にかわわりあえる友達に飢えていたのだと思います。侑輝には大人が整えた環境ではなく、自らが築きあげる環境がこの時期には必要みたいで、親が考える以上に、逞しく育ち、自ら成長しようとしているみたいです。

 こないだも、お友達と一緒にままごとをしようと思うと、子どもたちの中でルールがあり、「入れて」と言わないと入れてもらえないみたいで、なかなか「入れて」がいえなかったのですが、ついに、「入れて」と言え、お友達が先生に、「侑ちゃん、入れてと言ったよ」と報告してくれました。お友達が成長させるというのはこういうことなんだなと、改めて実感したできごとでした。

 東京都の福祉は、区や市によってさまざまなので一概にはいえませんが、進んでいるとはいいがたいように感じます。しかし、中央官庁に近く、お金があり、人が集まるこの街には何かあるように思い、ついつい期待してしまいます。侑輝も保育園の年少クラス、就学に向けた情報収集や習い事、病院など、東京生活にも慣れてきたのでそろそろ探し始めようかなと思う今日この頃、侑輝の成長は侑輝に任せておけばいいのに懲りない母は、頑張るのでした。(ばかな母です、苦笑。)

 最後に、この原稿を書きながら、改めて、今の私があるのは沢山の方々に支えられてきたお陰であること感じました。この場をおかりしてお礼申し上げます。どうもありがとうございました。

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