青年期を考える bP トライアングルも創立31年目にはいり、私たちの子どもたちの多くが20代、30代と成長してきました。そんな中、学校に通っていた時とはまた違った、いくつもの問題が出てきて、困っている本人や親たちの声が時々聞こえてくるようになりました。そこで、今回から、「青年期を考える」コーナーを作り、役に立ちそうな記事を載せてゆこうと思います。お困りのことがあれば、相談もお寄せください。みんなで考えてゆきたいと思います。 第1回は、1999年11月に講演して下さった静岡の河内園子さんが持って来てくださった原稿を再度載せます。 20年近く経った今でも、ちっとも古びていないことに驚きます。 できる限り、原稿の中のAさんのお母さんのようでいたいものです。(島嵜) 河内園子 近年,ダウン症の青年におきている問題について, “退行”とか“落ち込み”という言葉で表現されている行動の変化が話題になる事が増えてきました。今までの行動表現と比較してみると,動作が緩慢になったり,今までできていた日常生活がスムーズにゆかなかったり,言葉を失ったように無口になったり,囁くような小さな声で話したり,言葉の数が減少したりの状態をみせます。しかし,この彼らの状況を説明する表現として“退行”“落ち込み”という言葉が使われる事にはあえて異論を唱えたいと思います。これは彼らの立場にたっての表現ではなく,家族,特にまわりの人達が彼らの状態を表現している言葉だとおもうからです。それは,親(まわりの人達もふくめて,代表として“親”とします)にとって,今までの彼らの行動とは違って,理解しにくく,日常生活に支障を来す原因になる行動を指して言われているのではないでしょうか。このような彼らの行動の変化に出会って,親が戸惑うことは当たり前のことです。何とか以前の,親達にとっては理解しやすい行動に戻そうと,あちこち“治療”のために奔走します.しかし,“ちょっと待ってください”と私は言いたいのです.彼らにとっては,当たり前の行動,そうせざるを得ない行動なのかもしれません。 私たちが彼らのことで戸惑う時,いつもその“源”は彼らの側にあると考えてしまうのではないでしょうか。思い出してみてください.このような親たちの思考回路と行動は,私たちがはじめてわが子に“ダウン症”という診断をされた時の,そしてそれからの数年間の行動に似ていませんか。 彼らには彼らの通りたい道,やりたいこと,行動したいやりかたがあるのではないでしょうか。 今まで彼らがあるいてきた道は,親をはじめ学校やまわりの人達が,愛情をもって,彼らに示してきた道でした.彼らも楽しく,ある時はがんばってやってきたのです。そして今,彼らが直面しているのは,これまでの道筋が間違っていたというのではなく,彼らが“いままでの在り方では違うなあ”“ちょっと待って”と自分のことを考えなおす必要な時間なのではないかとおもいます。 人生を旅行の行程に置き換えてみてください。目的地につくまでには,山あり谷あり河ありと地形の変化があり,手段としては,特急電車や急行,鈍行列車の旅があるでしょう.彼らが子どもの頃,私は彼らの子育てについての捉え方に,鈍行列車の旅,各駅停車ののんびりとした旅の良さを,よく譬えとしてきかされました。こうしてみると,私たちは乗り物での旅しか考えられなくなっている時代なのだと気づかされます。しかし,彼らの旅にはもう一つ,徒歩での旅も選択肢の中にあったかもしれません。 もし,今の彼らの行動を,すべてがストップしたり,後退したり,あるいはトンネルの中にいるような状態と感じられるのであれば,それが何故なのかを考えてみてはどうでしょう。 彼らは次の町へ行くのに,列車の旅ではなく,便利なトンネルを利用するのでもなく,この山を,峠をこえて,歩いて行きたかったのかもしれません。もし,トンネルの中に入ってから,“これではいやだ”と気づいて足がすくんでいるなら,じっと見守っているだけでなく,少し手がかりをあたえて,手をひいてゆっくりとトンネルの出口まで導いてあげればよいのではないでしょうか。 人生を“旅”だと考え,現在の状態をその1ショットとして捉えると,トンネルに入る前の景色と,出てからの景色は当然違うはずです。彼らの行動を,以前の彼らの姿に戻そうとすることは意味がないのではないでしょうか.トンネルを抜け出た時,そこには以前の彼らとは違う姿があるはずです.きっと彼らにとって必要な時間なのです。 彼らのひとつひとつの行動を“親”の基準に合わせて「今日はよかった」「きのうより今日は元気がない」と観察しているのではなく「今日はお話が楽しかったね」「今日は静かに過ごしたね」と,ひとつづつ肯定してゆくこと,彼らの行動のひとつひとつに意味のあることを考えてあげたいとおもいます。 これを機会に,私たちの子どもへの接し方について考える良い機会だと捉えてみませんか。彼らの行動について考える時,親やまわりの人が,今までの生活から推し量って,彼らのことは全て理解していると錯覚して,彼らの言いたいことであろうことを先取りしてしまうことはありませんか。 私の出会ったこんな場面からも教えられることがありました。 Aさんは私に,次の日の予定について伝えたいとおもっていました。いつもお話をしているお母さんには,多分,彼女の話し方ですべて通じたのではないかとおもうのですが,私にはなかなか聞き取れず,こんな会話になりました。 Aさん「あしたね,お〜〜〜ね」 私「ええ,おもちゃ図書館ね,よろしくお願いします」 Aさんはいつもボランティアをしてくださるので,私は勝手にそう返事をかえしてしまいました。するとAさんは,「そうじゃなくて,あしたね,〜〜〜〜だから」 〜〜〜〜の部分が私には聞き取れません。何回か繰り返して,“ピアノがあるから”がわかりました。早とちりな私はまたもや,「お休みなのね」,と,Aさん「そうじゃなくて,ピアノあるから,おひるから行きます」と,何回かの問い直しの後,私が「あしたのおもちゃ図書館には,ピアノのお稽古があるから,午後から来てくださるのね」と,判ったときの彼女の満面の笑みと大きく頷いた姿にとても感動しました。何回もの問い直しにもかかわらず,いやな顔も見せず,そして自分の伝えたいことが正しく伝わるまで,根気よく対応してくださった事と,その間,側にいらしたお母さんが,しずかに見守っていてくださったことにとても感謝しました。 こんな場合もあります.ここしばらく言葉の数が減っていたBさんが久しぶりに,私の耳元で囁くように話しかけてくれました。「〜〜〜〜〜」何回かこの繰り返しがあって“ディズニーの”が聞き取れて次のことばを探っていた時,そばでじっと二人の会話に耳をすませていたお母さんが,「実はね・・・」と,彼女がディズニーランドがすきなので,その歌のCDを楽器屋で見つけたと,彼女が何を話したいのかを察して,その日の出来事を説明してくれました。彼女は,黙ってそのまま脇で,私とお母さんの話を聞くはめになりました.これは私たちのよくやるパターンではないでしょうか。 Aさんは自分の思いを自分の力で,自分の納得のゆくまで根気よく解決の努力をする事を身につけたのだとおもいます。Bさんの場合は,ことばの足りない部分については,誰かが補ってくれる経験が多かったといえるのではないかとおもいます。 ことばの面を譬えにつかいましたが,これはよくあることです。先日もこんな場面に出くわしました。子どもが自分で靴を脱ごうとしていると,お母さんが現れて靴を脱がそうと手をのばしたのです。すると子どもは,せっかく自分でぬごうとしていたのに,さっさと止めてしまったのです。気がついたお母さんが手を引っ込めたのですが,もう子どもは自分でぬぐことは止めて,お母さんに脱がせてとグズグズ言って,結局お母さんが脱がせるはめになりました。おかあさんは「無意識に手が出ているのよね」と反省しきりでした。そんな積み重ねが,いつか子どもの自信をも失わせていくのではないでしょうか。 同じような考え方で育てていても、微妙に違う親の行動パターンのくせは子育ての上では顕著にあらわれます。特に成長に時間のかかる子どもたちにとっては、その影響は大です。ちょっと生活の不都合が生じたとき、まず相手の言動をとやかく言ってしまいがちですが、なぜ相手がそのような言動にならざるを得なかったかを考えられる思考回路を磨いてゆきたいものです。 自分と子どもとの間で起こった不都合なことは、“ちょっと立ち止まって考えてごらん”という信号ととらえるように心がけてみましょう。それまでにやってきたことも、それはそれで良かれと思ってしてきたことなのですから、失敗と考えるのではなく、これからの生き方を考えるきっかけととらえてみてはどうでしょうか。人生に後戻りはないのです。私は常に前進あるのみと思っています。 私はここ1年ほど体調を崩してしまいました。いつも元気がとりえだと思っていた自分が、体調を崩してみると、彼らの気持ちがわかるような気がします。音楽ひとつ聴くのにも、元気なときにうけいれられた楽しいと感じたリズムを苦痛に感じたり、ピアノの演奏より弦楽の方が受け入れられたり、この指揮者の演奏よりこちらの指揮者の方が心地よく聞こえたりするのです。また、光の全てがまぶしくて、ほとんど目を閉じていたかったり、健康な時には何時間も平気で見ていたテレビをブラウン管の光が目に入るのもつらく感じたり、本当に健康な時には考えられないくらい要求が細分化されるのです。人の心は不思議なものです。 1999.11.16 (これは、平成10年4月の成人の会での提言に加筆したのもです。) |