京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報


(2001年12月号 掲載)

立命館大学社会学研究科中根成寿さんの

連続講座 その3 「ひなたぼっこ」編


 この連載(?)も3回目になりました。また少しの間おつきあい下さいませ。

 今回は11月10日に行われた「ひなたぼっこ」上映会に関してです。上映一週間前、ある方から「チケットの売れ行きが…」とお聞きして、少し心配していました。私自身も自分の周りに映画の告知をして回りましたが、チケットを売ることは本当に難しい!みなさまも本当に苦労なさったことと思います。
でも!ふたを開けてびっくり。遅れて会場にたどり着いて館内を見渡すと、実に多くの人がスクリーンに向かって座っているのを見て、一安心しました。上映会の成功、本当によかった。スタッフのみなさま、ボランティアの方々、本当にご苦労さまでした。

 さて、映画の内容から話を始めることにします。この映画を最後まで見て、最初に思ったことは「なんて家族が登場しないドキュメントだろう」ということです。その代わり家族以外の人々とのつながりが映画の重要なテーマだと感じられました。
 この「家族以外」ということは口で言うのは簡単ですが、日々それを実践していくことはなかなか難しいものです。ですが、家族だけ(とりわけ母親だけ)としかつながりがないと、親も、子も、家族全体も苦しくなって、いつかは共倒れしてしまいます。
 日本の福祉の政策や教育の政策は、まだまだ家族に依存する部分が多いです。「社会」福祉、「社会」保障といっても、まだまだその「社会」が「家族」とほぼ重なっていることが現状です。一方で、家族の教育力、介護力が失われているとか言う人がいます。いやいや、失われたのは家族の力ではなくて、家族同士がつながりあう力ではないのでしょうか。そもそも家族にはもともと力があったのではなくて、力のない家族がつながり助け合って何とかやっていたのではないでしょうか。いつの間にか、隣の家族の様子が見えなくなり、自分のうち以外の子どもがしかれなくなってきてしまいました。これは家族の力が弱ったのではなくて、家族がより「家族らしく」親密になり他から孤立してしまっているのではないでしょうか。だから必要なのは「家族の絆を取り戻す」ことではなく、「家族以外の人々ともうまくつながること、連帯すること」なのではないでしょうか。

 「ひなたぼっこ」の中では、多くの人々がそれぞれの生徒たちと生活を共に送っていました。学校の友人、先生、大学生のボランティア、学童の小学生…。しかも「支える」といった感じの一方的な関係ではなく、援助しているはずの側が、実は多くのことを学んでいるのではないかということを映画の中で感じました。定時制高校に通うヤンキー兄ちゃんは、彼らの姿を見ることでどんな感情を持ったでしょうか。肯定的なもの、否定的なもの入り交じった実に多面的な感情のはずです。それは障害を持っているからといって子どもを家族の中に押し込めていては、決して湧き起こることのなかったはずの感情です。そういった「感情の摩擦」が起こること、まさにそれが「いろいろあるけど一緒の社会で生きていく」ことの第一歩だと思います。

 この映画を見終わった親御さんたちから「できないことを怒ってもしゃーない」という言葉が何度か聞かれました。自分の子どもだから、できないとよけいにいらいらしてしまうでしょう。それが忙しいときだとなおさらです。 昨年、ある親の方にじっくり話を聞いたとき「私なんかもともとすごいせっかちな性格だから、(あの子は)せっかちも許してくれないわけでね、待たなきゃいけない。(でも)待ってる間に見えてくる風景とかね…」と話してくれたことがあります。「できないことを怒ってもしゃーない」の具体的な例ですよね。 ともすれば、世間は「自分でできることが大事」「自立を目標に」と背中を叩きます。「弱い」ことを良くないこととし、「強い」ことを良いこととします。それは「もっと早く」「もっと上手に」という気持ちとつながり、お互いにしんどいおもいをします。「這えば立て、立てば歩めの親心」と昔からいいますが、「親」とは昔から身勝手なものです。私にはまだ親の経験はありませんが、子ども心に「なんて身勝手な親だ」とよく思いました。そんな身勝手さを自分の中に見つけたときは、ゆっくり深呼吸をして「ひなたぼっこな風景」を思い出しましょう。

 最後に、一冊本を紹介します。鷲田清一さんという哲学の先生がかかれたものですが、全然小難しくありません。それでいて哲学の根っこである「人間とは何か」についてすごく丁寧に、身近な事例をもとに語っています。学術書ではありませんので、ぜひ手にとって読んでみてください。帯に書いてある文章を引用します。

 それらの≪ホスピタブルな光景≫にはしかし、いつも、どんな場面でも、ある反転が起こっていた。存在の繕いを、あるいは支えを必要としている人に傍らから関わるその行為の中で、ケアにあたる人がケアを必要としている人に、逆に、ときにより深くケアされ返すという反転が。より強いとされる者がより弱いとされる者に、かぎりなく弱いとおもわれざるをえない者に、深くケアされるということが、ケアの場面では常に起こるのである。(鷲田清一『弱さのちから−ホスピタブルな光景』講談社、2001、p175)

 ホスピタルという言葉は、日本語では「病院」というイメージがありますが、ここでの意味は、「人と人が共にいて支え合うこと、看取ること」という意味です。
 自立よりも、家族以外の人々にもちょっとずつ依存しあって、影響を与えあっていったほうが、家族も、本人も、周りもすこしずつ「ケアされる」のではないでしょうか。桐野監督からのメッセージを私はそんな風にうけとりました。 この映画と、この上映会に関わったみなさま、本当にお疲れさまでした。そして、これからもよろしく。

中根成寿(naruhisa@pob.org)


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