京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報


(2007年12月号 掲載)
安積遊歩さん 講演会

『自分を愛することは、世界を愛すること ―排除から共生へ―』

テープおこし(前編)
2007.10.28

 こんにちは。東京の国立という所から来ました。“安積遊歩(あさかゆうほ)”という名前を、今はつけています。親がつけた名前は“純子”といいます。ずっと骨折を続けた幼児期だったので、“純子”と呼ばれると痛みに耐えかねて泣き叫んでいる自分の姿が浮かびます。遊び歩くのが昔からの夢でした。いつか世界を遊び歩いてみたいものだと、誰でも思うのでしょうが、私の場合は激しく思いました。小さい時に20回くらい骨折していて、胸までギブスに入って固められた中にいて、暑いも寒いもまるで調節もききませんでした。とにかくその状況から飛び出してみたいものだと思ってきました。再評価カウンセリングを学んでから、「自分で自分の名前をつけていいんだ」ということに気がつき、今は“遊歩”と名乗っています。まだ20年にならない新しい名前ですが、どうぞ“遊歩”と呼んでください。

 今日は私の大先輩の庵原さんが来て下さっています。彼女はすばらしい朗読者なので、後ほど朗読をしていただきますね。私は東京で自立生活センターの代表をしていまして、そこでも彼女に朗読をしてもらいました。その時にお話を聞かせて頂いたら、うらやましいことに、彼女は一度もギブスには入っていないそうです。同じ障がいなのにいろんな人生があるものだなと思いました。小さいときの環境が一人一人の人生に決定的な大きい影響を与えていますね。骨折を繰り返すのがこの病気の特徴なのですが、私は小さいときから医療にすごく関わらされてきました。それも実験的な医療で、モルモット的な扱われ方をしたと思います。福島の医大病院というところだったのですが、生後40日目から男性ホルモンを注射されました。同じ障がいを持つ仲間で男性ホルモンの投与を受けたというのは聞いたことがなくて、私だけです。それが2年間続いたと母から聞きました。1日おきだったそうです。小さい時は超貧しい家庭だったのですが、私の注射にお金がかかっていました。家計簿をマメにつける母親でしたので、その時の涙に滲んだ家計簿が残っているのですが、そこに1本150円と記されています。あの時、卵が1個10円ぐらいの時代に、150円の注射はどれだけ高かったかと思います。医療費が高いにもかかわらず、注射が効かないというということが2年後に分かってきました。レントゲンの様子が変わらなかったのだと思います。このレントゲンもね、あまりにもおびただしい数のレントゲンをとられて、医大病院の棚が落ちたという伝説があるくらいです。

 何故、男性ホルモンを投与したかというと、骨が弱いのだから男の子みたいな骨にすれば強くなるんじゃないかという、医学でも科学でもなく占いみたいなものですね。当たるも八卦当たらぬも八卦みたいな。そしたらやはり当たらなかったみたいで、止めようということになったのが2年後。2年後に妹が生まれているのですが、母は医者の言うことを本当によく信じて、妹をお腹に抱えたまま私をおぶって、3歳年上の腕白な兄の手を引いて、バスや電車で病院に通ったと思います。お腹が膨らんできて本当にしんどそうな母の状態を見かねて、レントゲンの様子も変わらないし、投与を止めようということになったのだと思います。妹のお陰かなとも思います。私自身も良く泣きわめいていました。私が注射をされてすごく泣きわめいたことと、妹がお腹にいたことの2つで男性ホルモン注射を止められたのではないかと思います。今となっては母も亡くなっていますから、確かめるすべはないのですが。医者の良心もあったのかなと思いたいですが、あまりそうは思えないですね、残念ながら。その後も相変わらず治療は続いていくわけですから。

 6歳の時に初めての手術を受けました。手術というのは、命がなくなるかも知れないというギリギリの極限ですべきことではないかと思います。でも、私にされた手術は、曲がった骨をまっすぐにしたほうが折れないかもしれないというリスクの問題と、曲がっているよりは真っ直ぐなほうが美しいという美意識のこの2点だったと思うのです。命に関わらない手術だったので、私の中ですごい混乱を生みました。体を傷つけてこんなに痛い思いをする必要があるのかということがずっと私の中にあり、専門家主義とか、医学の進歩とかに非常に問題意識を持ちました。問題意識の塊になりましたね。そういう目で見ると、何故、人間の味方をする医療や科学ではなく、人間をモルモット扱いする医療や科学になったのかということを考えざるを得ないです。私の中の結論は、“戦争”にあります。日本は広島と長崎に落ちた原爆によって凄まじい被害を受けた被害国ではありますが、自分たちの加害国としての責任を非常にあいまいにして、自分たちが何をしたかということをきちんと見つめられなかったということが、医学にも影響してきたと思います。

 七三一部隊というのがあります。七三一部隊という言葉を初めて聞いた方はどれくらいいらっしゃいますか? 日本が中国に侵略して満州国を作り、戦争の末期に細菌戦を企てていたのですね。細菌戦を企てるときに何が必要かというと、実験です。何の罪もない中国の人たちを捕虜にして、中国人の生きた体を細菌戦の実験に使ったのが七三一部隊です。石井四郎という人が七三一部隊を指揮指導したのです。2年ぐらい前に、軍医として中国に行った湯浅謙さんという92歳になられる方にそこでの生体解剖の話を聞く機会がありました。湯浅さんは、日本の戦争責任ということを600回以上も講演して歩いている方です。もうご高齢なので今はしていらっしゃいませんけど。編集者の私の友人が湯浅さんの講演のブックレットを作ったのですが、私と湯浅さんが座談会をして、それもブックレットに含まれました。

 七三一部隊の医者たちは軍医として満州へ行き、生体実験を繰り返しさせられたわけです。生体実験というのは物凄く恐ろしい殺人です。外地では盲腸になる人が多かったそうなのですが、軍医さんは全員が外科医ではないから、眼科医や内科医たちが盲腸の手術をする。爆弾で手足が吹っ飛んだりするときの外科手術、吹っ飛んだ手足をつけられるのなら付けてみたりとか、切断されたところの傷を手当する。そいうことをいちいち勉強している暇はないから、何の罪もない中国の人たちを捕まえて来て、盲腸でもない人のお腹の中をぐちゃぐちゃにしたり、手足がついている人の手を切り取って殺したわけです。負傷した日本兵をどう治療するかということをやるために捕虜を切り刻んでいくわけです。その軍医たちが日本に帰って来てどうなったかというと、あまりの恐ろしさに多くの人が自分が何をしたかというとことを忘れるそうです。また、そういうことをしても中国人は人間ではないから許されるのだという教育があったのです。天皇の日本による同化政策では、大東亜共栄圏を作るためには中国人は人間ではないという教育でしたから、心が痛まないでいたわけです。日本に帰ってきた石井四郎以下七三一部隊は、戦争犯罪人を裁判した東京裁判にかけられることもなかった。医学に貢献する膨大な資料をアメリカに出すならば、君たちを許そうという密約があったそうです。罪に問われなかったから悪いとも思わずに、多くの七三一部隊の医者たちは何の反省も無く製薬会社や大学病院に復帰していったのです。湯浅さんは何故、人間としてやってはいけないことなのだという反省ができたかというと、中国で捕虜になった経験によるものです。中国は捕虜に対して人間としての処遇をしました。見張りの人より美味しいものを捕虜に食べさせ、床屋さんにも行かせてもらえ、お風呂にも入らせてもらえたそうです。そして、自分が何をしたか忘れないように反省文を徹底的に書かせられました。ウソを書いて出すと何回も突き返されました。そして、自分はこういう生体解剖をしましたと書いたときに、生体解剖をされた人のお母さんからの手紙が湯浅さんに届けられました。それを読んで初めて自分が人間としてやってはいけないことをした、中国の人も自分と同じ人間だということに気づいたそうです。

 私はその話を聞いて、しみじみ思いました。日本の医療というのはそういうところから始まっているから、人間の命ではない命がある、大事にすべき命ではない命がある。私たちの社会は、医療や医学の後ろに人として価値のある命と価値のない命があると言う考え方を持ってきたのだなと確信したわけです。それを優生思想といいます。私は障がいを持って生まれたので、特にそれはすごくよく分かります。

 中学の時に衝撃を受けた法律に『優生保護法』というのがあります。父が本屋だったので、いろんな本がいっぱいあった中に優生保護法というのがあって、パラパラと見たらすごい事が書かれていました。第1条は「この法律は母性の保護と不良な子孫の出生を予防するものである」というものです。「不良な子孫」という言葉を見たときに、誰のことかとすぐに見当がつきました。すごく衝撃を受けてびくびく震えながら後ろのほうを読んでいくと、別表というのがあって、不妊手術をしてもいいという障がい名が羅列されていたのですが、その中に自分の障がいと良く似た特徴の障がい名がありました。不良な子孫の出生を予防するということですから、生まれないほうがいいということなのだとすごく衝撃を受けました。中学生の時です。


 皆さんはどうでしょうか? おかしな法律は自分たちで変えられる、変えていくべきだと心の底から思っていますか? おかしな法律やおかしな社会は、自分の力やみんなの力、多くの人に呼びかけながら社会を変えられると思っているどうかが、それが民主主義のはかりになります。一人の市民として、社会を変える責任と自由が全ての人にあるのです。私は勿論、その時にはそんなふうにはまるで思えていませんでした。ただただ衝撃を受けて、障がいを持つ人は「不良な子孫」だと法律から言っているわけですから私たちのような人は必要ないのだと、どんどん落ち込んでいきました。

 周り中が、テレビでもなんでもそうですが、すべてが女の子はプロポーションが良くて、顔が良くてみたいなそういう世界なわけですから、プロポーションとかは全く関係の無い世界にいる私としては、死んだほうがいいのだと思い、自殺未遂を繰り返すようになりました。でも、死にませんでした。あまりにも医療に関わっていた経験から、ガス栓をひねってみたらこれが全身麻酔の臭いと同じでした。今は子どもの麻酔には、怖くないようにストロベリーやバナナの匂いを混ぜておくそうですが、あの頃は普通のガスの匂いでした。十代までに全身麻酔を何回もされていましたので、「このガスの匂いは全身麻酔と同じだ。全身麻酔されたくない」と、死のうと思っているのにそう思って、それも止めました。手首を麻酔も無く切ったら痛くてイヤだとかね。あまりにも痛みを学んでいたから、すべての自殺未遂を深刻化することなく止めたのだなと、今だと笑って思えます。

 中学の頃、一人ぼっちになった時期があります。地域の普通学校へということが今でこそ言われています。世界的にはすごく当たり前なのですが、日本ではまだまだ文部省の排除主義が強くて、人間にレッテルを貼って、細分化して、この人にはこういう学校がいいみたいな、困った時代が続いています。私は小学校4年まで地域の学校にいて、小学校5、6年、中学校1年の2学期までを養護学校で過ごし、中学校1年の3学期から地域の学校に転校しようと思ったのです。すぐに戻れると思ったら、「あなたには養護学校が合うのだから来ないで下さい」と地域の中学校の校長先生から断られ、地域の中学校に行けない3ケ月がありました。その時がもっとも自殺を考えていたと思います。その後、校長先生が替わったのですね。私を拒否した校長先生は退職して、新しい校長先生が来る前に、教頭先生以下全員が私の受け入れを決めてくれました。新しい校長先生は、私の顔を見たらホントにイヤそうでした。困りますね。校長先生があんなにまともに、「子どもを排除します。嫌いです」みたいに顔で示していいんでしょうか? よくないですね。つらいです。強い立場の人が人間的でないということで、子ども達は本当に傷つけられます。というわけで 私も非常に傷つきました。でも、担任も決まっていたので、中学の2,3年は地域の学校に行きました。

 高校は通信教育でした。障がいを持っているということで、様々な権利を奪われてしまうことが本当に間違いなのです。障がいを持っている人もお年よりも子どもたちも、いわゆるハンディをかかえさせられている人たちが、そうでない人たちと一緒に共に生きていける社会が本当の意味で豊かな、あるべき社会なのです。それを実現させる為に、知性があります。だけどその頃はあまりの差別に追い詰められていました。高校に行くのに送迎が出来ないと親に言われ、中学を卒業して2年くらい家にいました。だんだんつまらなくなってきて通信教育を始めました。20歳の頃に障がい者運動に出会いました。私の学びの場は、通信教育ではなく、本当の意味で人との出会いに満ち溢れていた障がい者運動の中にありました。


 学校教育にはいろんな意味でがっかりしています。障がいを持っている人を過酷に排除する場であったし、そこを通りぬけてやっとの思いで入ったとしても、凄まじい競争の場になっています。“受験戦争”なんていう言葉を何気なく使っていますが、良く考えると、子ども時代に戦争という言葉が使われる時期があるということ自体、日本は平和な社会ではないのです。すごく残酷な社会だと私は思います。受験戦争は十代の時に起こるわけだから、そこで競争しか学ばないとしたら、心の平和を失うのは当然です。若い人がイジメにあったり、殺し合ったり、親を殺したり、凶悪化しているという報道がありますが、あれはウソです。ただ、若い人が精神的に追い詰められて自殺を選んだりしていることはおおいにあると思います。受験戦争でぼろぼろに傷つき、薬を飲んだり自殺したりする若い人が多くなっています。

 私は1956年生まれです。戦争という名の競争を学校教育の中に持ち込まれたので、私たちはすごく混乱して育った世代です。高度経済成長の中で「命よりもお金の方が大事」というような社会をつくってきたのです。その私たちの世代の子ども達は、混乱に加えて疲弊し、自分をすぐに追い詰めてしまいます。

 私の関わった障がい者グループは、「青い芝の会」といって、20歳くらいから6年間ぐらい地域で過激に戦いました。今でこそ介助料の制度がぼちぼち出来ていますが、私が自立したのはもう30年前の頃、22歳で家を出たのですが、介助料の「か」の字もありませんでした。まず、ビラをまいてボランティアを募ったんですね。皆さんどう思われますか? チラシを100枚まいてどれくらいのボランティアが来ると思いますか? (会場:「2〜3人ですか?」) それ位は期待したいですよね。しかし、2〜3人をゲットするには1000枚以上まかないとダメなんです。大変でした。言語障害の重い仲間や、手足が震えるような付随運動があると、1000枚まくというのはすごい大変なのです。そこで、こういう集会や映画会をやり、来てくれた人が熱心だとその人との関わりが深くなって、その人の人生が変わるほど負担が集中してしまったものです。6年間やってうんざりしてきました。「毎日、介助者集めをすることが自立と言えるのだろうか?」という気持ちになってきて、そこで葛藤しました。その頃、アメリカには自立生活センターというのがあるという記事を読み、そこに行きたいと思っていたのですが、私が住んでいたのは東北の福島で、アメリカに行くなんて夢のまた夢でした。ミスタードーナッツがアメリカで障がい者のリーダーシップトレーニングプログラムを行っているという話を聞き、ラッキーなことに1983年に行くことができたのです。

 面接試験の時に、すごくがんばりました。皆さんに、英語の面接をどうクリアするかという秘伝をお教えします。面接では、聞かれるから自分が英語が出来ないことがバレてしまいます。聞かれないようにするにはどうしたらいいか、要するにしゃべりまくることなのです。しゃべりまくっているとそれを抑えてまで質問はしてこない、と思ったのです。英語の面接を乗り切る秘伝は丸暗記です。アメリカ行ったら何がしたいかとか、自分はどんな障がいかとか、聞かれるだろうと思うことを全部書き出して暗記しました。面接では、聞かれてから答えるのがダメという戦略ですから、「How Are you!」と元気に入っていきました。それから一気にまくし立てました。聞かれてもいないのに、「私の目的は…」とか、15分で面接は終わりますから一人で全部しゃべりました。あっちもポカーンとして見ていましたね。それまで面接する人は、下を向いて質問されるまで何もしゃべらない人がほとんどだったので、とても驚かれました。しかし、15分が終わって「良かった−」と思っていたら、やっぱり聞くんですね。(笑) 絶対質問されるまいと思っていたけれど、残念ながら1つだけ質問されました。「それで、あなたは新幹線で来たの?」と聞かれたのです。「新幹線」だけは日本語で言ってくれたので「新幹線で来たの?」と聞いているなと解りました。新幹線は東北にはなかった時代で、急行で行っていたので、「No!」と大きな声で叫んだのです。そしたら、元気なことはいい事で、英語はダメらしいけど、積極的で、「YES・NO」だけはっきりできればアメリカでは通用するだろうと思われたらしく、行けることになりました。

 しかし、アメリカでは、すごく孤独でした。なんといっても英語が出来ないのですから。それで送り帰されそうになりました。強制送還ですね。日本から一緒に行った仲間が3,4人いたのですが、私はせっかくここまで来たのだから、毎日仲間と日本語をしゃべって英語が分からないままでは帰りたくないと思ったのです。思ったのはいいのですが、ただただ孤独になって行くだけでした。自立生活センターというところに研修に行ったのですが、あまりにも英語が出来ないから、1ケ月後には所長さんがミスタードーナッツに「もう帰す」と手紙を書いたそうです。するとミスタードーナッツは、「私たちの威信にかけて送りこんだので、もう少し様子を見て下さい」ということで、もう50万円だか100万円だか、家庭教師を雇う費用を出して下さったのです。いい企業でしたね。親会社のダスキンインダストリーがお金を出してくれたのです。チュウーター(家庭教師)をつけてくれたのが良かったです。そのチュウーターが私の興味にぴったりの人でした。まずレズビアン、それからベジタリアン、自然食が大好きで、エコロジストでフェミニスト。私が会いたいと思っていた人でしたので、もうその人の言うことだけは、大げさでなくたちどころに分かるようになりました。不思議ですね。本当にしゃべりたいとさえ思えば、中学3年までの英語で十分です。動機が引き出されればいいのです。

 同姓愛者のこととか、フェミニストのこととか。アメリカはアメリカンドリームでいい国だとか言うけれど本当はこうなのよ、と次々聞いて、「うーん」とうなりまくりの5ケ月でした。半年間の研修中、障がい者の自立生活センターへは毎日行って色々研修しましたけれど、言葉が分かるようになってからは非常に面白くなりました。例えば何をしたかというと、学生街で結構モーテルが多くて、モーテルのバリアフリーのチェックに行ったり、介助料の制度がすでにあったから、介助者を雇うときの面接に立ち会ったりとか。それはそれで面白かったのですけれど、チュウーターの先生としゃべるのが一番楽しかたったです。私は彼女に、こういう日本人もいるんだとカルチャーショックを与えた最初の人だそうです。彼女がいうには、「日本人は勉強家で、覚えがいいけれど、おとなしくて自分を食事に誘うなんて人はこれまで一人もいなかった」そうなのです。しかし、私はしゃべりたくてしょうがないから、彼女に「ロレインの時間はいつ空いているの?」といつも聞いていました。それで、「一緒にディナーに行こう」「ブランチに行こう」と空いている時に勝手に予定を入れるので、彼女は私が可愛くなったらしくて、本当にいい友達になったのです。今でもお付き合いしています。

 アメリカでは、色んな「違い」ということに対しての豊かさを見ました。アメリカの留学で徹底的に学んだ事は、「違う」ということは本当に面白いということです。「違う」というのは、まったくマイナスではないということです。人は違うから面白くて、違うから豊かで、違いがあるからこそ学びがあるわけです。みんなが同じだったら、何にも学ぶ必要がないわけです。何の創意工夫もなく単調な毎日でつまらなくなるでしょう? 言葉が同じなら英語を学ぶ努力もないだろうし。本当に「違う」ということがいいなぁと思った日々でした。バークレーという所は、違う人がいっぱいいた街でした。郵便局に行って10人程並んでいるとしたら、日本だったら、肌の色も同じ言葉も同じ、ほとんど健常者で、年齢がちょっと違うくらいですよね。でも、バークレーの郵便局の10人というのは、まず肌の色は違う、言葉は違う、松葉杖の人、盲導犬を連れた人、電動車イスの人、もう色んな違いがありました。格好も、私たちは冬は冬の、夏は夏の服を着ますけれど、驚いたのは、分厚いオーバーなんか着ている人が、次の瞬間にはノースリーブになっていたりするのです。ルイ14世みたいな人が道に立って望遠鏡で私を見ていたり、精神障がいを持ったホームレスの人がカートに自分の荷物を載せて、物凄く大きな犬を連れていたり。日本でも、今でこそホームレスの人がカートを引いているのをたまに見かけますが、大きい犬を飼っている人は全くいません。バークレーのホームレスの人はみんな犬を飼っていました。その犬がお行儀悪くてあっちこっちウンチをするものですから、私の電動車イスはしょっちゅうウンチをひいて大変でした。そのくらい、色んな違い性のある人が共に生きていました。

 アメリカの電動車イスはスピードが時速15キロも出るのです。日本は6キロ、あの当時は4.5キロしか出ませんでした。電動車イスを持って行ってたのですが、私の車椅子はカタツムリのスピード。彼らのは15、6キロで進むから、彼らにつかまって走ると面白いですけど怖かったです。(笑) 15キロだと歩いている人よりずっと早いので、皆で食事に行こうということになって、「あそこのレストラン、今日は休みだったかも」というと、車イスの人が「ちょっと見てくる」と行って走り出し、歩ける人が待っているわけです。どっちが障がい者か分からなくなります。

 レズビアンの友達が出来て、すごく優しくされました。「可愛い、可愛い」と言われて、「こっちへ来てレズビアンになったら?」とか言われたりしました。最初は言葉が分からなくて何でも「うん、うん」と言ってたんですけど、だんだん分かるようになってからは、日本では地方出身ということ、障がいを持っているということ、女であるという差別だけでも十分なのに、その上同姓愛者という差別も担うと大変だなと頭が回るようになって、選択的レズビアンの道は止めました。本当に豊かな出会いがありました。人とのコミュニケーションを諦めず、大事にし合う関係を作れれば、どこででも生きられるんだということがすごく良く分かりました。言葉が分からないときに辛かったのは、分かってくれようとしない人の前にいること。分かろうとしないだけでなくて、もう聞かないと決めている時は最悪です。「こいつは英語が分からないから聞かない」と決められていたら、すごく辛いです。英語が分からなくても、「貴方のことを大事に思っているから何でも言って」と、聞こうとする人の前にいればどんなことでもわかり合えるのです。アメリカですごかったのは、私に道を聞く人がいたことです。私は28歳でアメリカに行ったのですが、28歳まで日本にいて、1回も道を聞かれたためしがありませんでした。そして街頭カンパ活動とかでカンパをしてもらったことはあっても、自分がお金をねだられたことは全くなかったです。ところがアメリカに行ったら、半年の間に3回お金をねだられました。あまりにも嬉しくて、すぐあげちゃいました。(笑) 3回目にはやっと警戒して、「周りの人はどうしてるんだろう」と見たら、あげている人とあげていない人がいたので、私も「3回目だから止めよう」とか思ったのです。道を聞かれるのも嬉しいし、お金をねだられるのも嬉しかったのは、「違う」ということに対して皆が何の警戒というか、排除というのがなかったからです。

 今、日本で一番腹が立つのが、「不審者対策」というものです。最初はお互い誰でも不審者でしょう? 不審者対策ということで、「人は危険なんだ」という壁を徹底的に作っています。人は仲良く出来るんだよという私たちが当たり前に培ってきた人間の本質に基づいた気持ちを、不審者対策というのでバシッ、バシッっと切りまくられています。私がアメリカにいる時には、もう不審者だらけですよ。人に近づく時には「お互いにわからないから聞くんだよ」とか、「お金がないからちょっと貸してよ」という気持ちが動機です。日本みたいに、ホームレスの人しかお金をねだらないとか、声をかけてくるのは怪しい人だとか言ったら、互いに知り合うことが怖くなるばかりです。色んなまなざしで縛りあうのはやめたいですね。あるカテゴリーに人を追い詰めて、その人は危ないとか不審者だと見なしたら、本当に終わりです。

 不審者対策で生きにくい人たちがいっぱい出てきました。多様性を喜びあう社会こそ豊かな社会なのに、逆行しようとしています。私の友達の友達がイギリス人で、彼女は南米の人と結婚して東京で暮らし始めたのです。南米の人が日本に来て、2、3日のうちに「不審者現る」と近くの小学校区にチラシが撒かれ、彼の人相や風体が書かれていました。一週間後、彼はそれを全く知らず、子どもが大好きなので、カメラで日本の子どもの写真を撮りました。ただちにパトカーで連衡されました。彼はまだ日本語を一言もしゃべれなかったので、自分を弁護できずに文化が違うだけなのに酷い目にあいました。

 アメリカでは「ピア・カウンセリング」を学んできたので、それを日本でやりたいと思いました。「ピア」というのは「PEER」と書き、「仲間」ということです。専門家主導のワン・ウェイ(一方通行)のカウンセリングではなくて、仲間同士で支えあったほうがずっと効果的だということ。自分たちが日本でやっていたことはピア・カウンセリングの活動だったんだなと思いました。当事者の必要を一番知っている当事者同士が助け合う。これが「ピア・カウンセリング」だということを学んで、これをやってみたいと思ったのですね。それで、日本に帰ってきて、カウンセリングの勉強会とか講習会とかにいっぱい行きました。フロイトとかロジャースとか折衷派とか、いわゆる専門家のカウンセリングがあるのですけれど、結構差別的でショックでした。専門家が聞けば困ったことを言う人だと思われるかもしれませんが、私からすれば、人と人とが助け合うときに、心の問題であれば特に、そんなにすごい専門性はいらないと考えています。それが、社会的にカウンセリングが必要だとされる側としての結論です。人間は対等です。どの人も助けて欲しいときがあるし、助けてあげたいときがあって、それが両方あって人間です。話し手と聞き手のどちらかだけでやり続けたら本当にくたびれて、心も体も壊れます。

 職業の満足度調査というのがあるのですが、1番満足している人の職業と、1番満足していない職業は何だと思われますか? 満足度トップはどんな職業だと思いますか? (会場の声:「看護師さん」) 看護師さんはあまりにもシステムがきつ過ぎて、満足度は低いのです。 (会場:「エンジニア、技術かな」) そうですね。技術関係なのですが、答えは「大工さん」です。なるほどと思いますよね。自分が作った家がどんどん建って、「この家は僕が作った」と目に見えますから。1番満足度が低いのは専門職でもあるのですが、何だと思いますか? (会場の声:「ケアー・マネージャ」) そうですね。ケア・マネさんの過労死や自殺率が一番高いと聞いたことがあります。カウンセラーとか精神科医の人たちの満足度もすごく低いそうです。カウンセラーとか精神科医で、お薬を飲んでいる方はすごく多いです。カウンセラーや精神科医のワン・ウェイのカウンセリングでは、いっぱい聞いてあげて、ちょっと元気になったかな−と思っても、2〜3日後に「うちの娘は自殺しました」なんて電話をもらったりするわけです。「あんなに元気だったけれど、また病院に行かざるをえません」とか、そういうこともあるわけです。

 人の心を扱うときに一方的なのはすごくきついだろうということで、ピア・カウンセリングを学んだのです。「お互いにやる」ということ、そこで何かピア・カウンセリングを応援してくれるものという事で、「コウ・カウンセリング」、またの名を「再評価カウンセリング」というのを、アメリカから帰って来てから東京で学びました。


 では、休憩の後にコウ・カウンセリングの話をして、今日は私の連れ合いが車イスを押して来ているので10分くらい話してもらい、最後に庵原さんに朗読をしていただきます。私の本も売っていますので、今日買ってもらった人にはサインをします。貧しいフィリピンの子供たちに救援物資を送る為の郵送費にあてていますので、ぜひ買って下さい。

会報No.133のindexへもどる
会報バックナンバーのindexへもどる

homeへもどる