京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報


(2015年12月号 掲載)
 木村真理子より
 
 みなさんスピーチを聞いてくれてありがとうございました。読んでる時に緊張でふるえてしまいました。声もふるえてしまいほんとうに緊張したけど最後まで言えてよかったと思いました。私の話を聞いてくれてみなさんがこんなに感動してくれたのは初めてでした。やっぱり30年は楽しいし、トライアングルは30周年を迎えることができました。私も30歳になりました。
 


真理子、スピーチを終えて

木村純子

 トラフェスで、真理子がスピーチをさせて頂くことが決まり、まず最初にしたことはタイトルを決めることでした。仕事帰りの車中で真理子に「スピーチのタイトル考えといてな〜」と言ったところ、数分後に「私の30年、ダウン症について」という言葉が後部座席から聞こえてきました。何日かかかると思っていたタイトルはすぐに決まりました。
 
 北九州洋舞コンクール出演のため8月末に北九州へ行くことが決まっていたのでスピーチ文作りをいつ頃から始めればいいのか悩みました。でもコンクールが終わってからだと間に合わないと思ったのでとりあえず北九州へ行く前に真理子に聞いてみました。真理子の仕事が休みの日で落ち着いている時に「想像してみ〜 みやこめっせで大勢の人が真理子のスピーチを聞かはるけどまず初めになんて言う?」と。
 
 そうしたら少し考えて「みなさん こんにちは・・・・・」と言うとそこからは、ほぼ最後まで一気に真理子の口から言葉が出てきました。私は「もう少しゆっくり言って」と言いながら次から次へと出てくる言葉を必死でスマホにメモ書きしました。それを主人がパソコンで打って真理子のスピーチ文が思っていたよりも早く完成しました。
 
 練習は北九州から帰った9月から始めました。いつも週2〜3回しているピアノ練習のあとにスピーチ練習を3回する。真理子が決めたこの練習方法は最後まで変わりませんでした。私は毎回聞き役に回りました。(たまにごまかして寝ていましたが)
 
 いよいよ当日!ヘアメイクをしてもらい、スーツに着替える手伝いと仕上げのメイクは妹の絵里子がしてくれました。そしてスピーチが始まりました。(やばい!緊張で手が震えてる、原稿がブルブルしてる、大丈夫か・・・・)私はステージのそででマイクの高さ調整をしてくれた司会のあゆみちゃんとぬけている言葉はないか確認しながら聞いていました。そばで伊藤先生が「大丈夫、大丈夫!」と言ってくれていたのも心強かったです。予定より2分もオーバーしましたがなんとか無事終わりました。
 
 私は真理子の思いがみなさんにちゃんと伝わったのかあまりにも近い存在すぎてよくわかりませんでした。緊張しすぎてか最後まで涙も出ませんでした。が、周りを見ると川邉さんと島嵜さんが泣いていました。
 
 たくさんの方が「真理ちゃん よかったよ 感動したわ」と言ってくれて「あぁ〜思いは伝わったんだなぁ」とそこで初めてほっとしました。  よかった〜!!!
 
 私は800人もの人の前でスピーチをすることなんて、絶対に出来ません。
私は絵も書けないし、ダンスも踊れないし、パソコンも出来ません。でも、真理子は絵も書けるし、ダンスも踊れるし、パソコンも私よりはうんと知っています。
私よりも出来ることがいっぱいあってすごいのに、真理子は障害者と言われ、私は健常者と言われます。
障害っていったい何なんやろ〜?!と、スピーチを終えて強く思いました。
 

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