京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報


(2002年2月号 掲載)

立命館大学社会学研究科中根成寿さんの

連続講座 その4 「幼児教室で考えたこと」編


 さてさて、こうして会報に文章を寄せるのももう四度目、トライアングルのイベントに参加したときに、「会報読んでいます」と声をかけていただけることも多くなりました。光栄の極みです。

 いつもイベントに参加して、その際に感じたことを文章にし、そこからお父さんお母さんへのメッセージを考えています。今回参加したイベントは、幼児教室です。大学で比較的早起きしなくてもいい生活をしている私ですので、日曜の朝10時という時間は前日から準備をしておかないと起きることができません。毎朝早起きしているお父様お母様方、起こらないでくださいね。

 ただ、僕にとって幼児教室とは実は体力勝負の場です。せっかく親御さんたちが普段聞けない疑問をみんなに聞いてもらえる場ですので、少しでも子どもたちを親御さんから引き離してあげたいと思い、いろいろ遊んでみてはいるのですがなかなかどうして、ちょっと目を離すと姿が見えなくなってしまっていたりします。子どもを「見守り続ける」ことが簡単そうで難しいと感じます。


 今回の幼児教室では、子どもを保育園に預けることについて、相談が行われていました。成長するたびにかわいくなる子どもを一時的にとはいえ、「他者に預けるのは心配」、「なんだかんだ言ってダウン症という障害を持っているんだから心配」、という正直だけど切実な疑問が佐々木さんと島崎さんに向けられていました。

 そんな親たちの疑問に佐々木さんがおっしゃる答えは一貫しています。「あんたのできることなんてたかがしれている」という強烈だけども真実性と優しさに満ちた一言だと思います。子どもに障害があれば、いや、いつだって親は子どものことを心配に思うものです。その心配が、子どもに障害があれば、よりいっそう強くなります。ついつい、子どもの行く先々に「先回り」してあげたくなります。
 ただ、果たしていつまで先回りできるでしょうか?そして本当のところ、先回りを望んでいるのは誰なのでしょうか?佐々木さんの言葉は、その答えを提示してくれていると思います。

 昨年の総会で、私は「近づくことも、遠ざかることも」というタイトルでお話をさせていただきました。これは障害を持つ子どもの親たちがたたされている立場を表現したいと思い、こういうタイトルを付けました。新聞等でよく見る言葉である「障害の受容」とは、子どもを愛するが故に子どもに近づくことのみしか表現していないと思います。親たちは子どもを愛していて子どもの将来のことを考えるが故に、先回りをがまんすること、すなわち子どもからいったん遠ざかることも、子どもに近づくことと平行して行っていかなければならないのです。

 ちょっと不適切な表現も出てしまうかもしれませんが、ひとつだけ考えて欲しいことがあります。幾人かの親たちが、出産時に医者から「この子どもはあなたよりも長く生きない」と言われてショックを受けたエピソードを聞いたことがあります。このメッセージには、「あなたがこの子を残して死ぬことはないから、一生懸命子どもの世話をしなさい」という意味が込められています。とんでもない言葉だと思います。それはこの子のために一生先回りをして、この子にべったりしていなさい、の意味です。そんなの子どもにとっても親にとっても好ましいことではありません。

 ところが、最近こうした傾向が崩れている傾向があります。つまり、医療技術の正の効果(負の効果は…みなさん想像がつきますよね?)によりダウン症の障害を持つ人が、親より長く生きるということがだんだん増えて生きているそうです。これは果たして何を意味するのでしょうか。 それは、親が一生子どもの面倒を見きれない、という単純な事実を表しています。子どもが中年を迎える頃には、親は自身が他者の手を借りながら生活しているかもしれません。そのときの親に、果たして子どもの生活の先回りをしている余力があるでしょうか。


 今回の原稿の結論は、「親御さん方、もっと自分を中心に据えた考え方をしてもよいのでは?」ということです。親と子は、異なる存在なのだからお互いの利益が異なって当たり前なんです。同じ家族なら、家族はみんな同じ利益を追求している、と昔から考えられてきました。ようするに家族というのは構成員に共通した利益があり、その利益を追求することが家族の役割だと家族社会学は考えてきました。

 ところが、近年、家族の中にこういう考え方では対応できない問題が生じてきました。すなわち、「ケア」に関わる問題です。子どもを見ること、介護が必要な人を世話すること、家族の中にある日常(だと思われてきたこと)に虐待という事象が存在することがクローズアップされてきました。家族であることの温かさや情緒性の裏側には、家族が抱える危険性、問題性があることがだんだんと明らかになってきました。

 そんなとき、家族の中の人々はどうするべきでしょうか。いままではどうやら我慢してきたようです。ところが、その我慢を支える仕組み(親どうし近所づきあいや子どもどうしの異年齢集団)が少なくなり、家族の中ですべてを処理するような事態が生じてきたのです。 だからいま家族の中に必要なことは、「私さえがんばれば大丈夫」というがんばりかたではなくて、「私個人の要求や望みは何だろう?」ということを十分に考え、それを周りや社会の支援を受けながら実現していくこと田と思います。

 これが前にもはなした「主語は私」という考えたです。「子どものため、家族のため」という時の「主語が私」でなくなった時にはどこかで無理が生じてきます。その無理が利くうちはいいのですが、いつかそれが破綻したときに、その状況を助けてくれる周りが存在しなかったら…ちょっと想像するのが怖いですね。

 家族の構成員みんなが、無理なく過ごしていけるために、今から「生き方の戦略」を模索していくことが必要ではないでしょうか。そのためには考えることが必要です。人に教えてもらったことと自分の考えをくっつけて、「私の問題」を考えていってください。


 最後に、トライアングルのメーリングリストに正直で、素敵なメッセージがあったので、ご本人さんの許可を得て引用させていただきます。


 最近ふと、あの告知の日の事を思い出します。「何でショックやったんやろう?」と思い返すと、私の場合きっと自分の事がかわいそうで、ショックだったのだと分かりました。自分が障害児を持つ事がかわいそうで、落ち込んだだけだったのですね。結局自分が一番にしか考えられず、「自分が…、自分が…」でした。でも、最初から○○のことは可愛くって、それは告知されようが変わりませんでした。 で、「それなら何がかわいそうなんやろう?」と考えると、何も見当たらず、落ち込むのが馬鹿らしく思えてきてやめました。
 告知の時のショックを、自分の言葉で整理しています。そしてそれが、自分のことがかわいそう、という正直な言葉で表現されています。僕は思います。「自分のことで悩むことは間違っていない」と。自分の目線で悩むことは、親と子どもが違った存在であることを再認識できます。そして親と子どもの利益が常に一緒とは限らない、ということも知るることができます。

 「どうして私は苦しいんだろう?」「私はいったい何を望んでいるんだろう?」という問いは、子どもの成長の過程の中で何度も繰り返す問いだと思います。この悩みを自分の目線ではなく、常に「子ども」や「家族」の利益だけで考えすぎると、自分に負担が返ってきます。「子どものためだから」と自分の悩みを封じ込めないでください。考えることをさけないでください。そして考えるときは、誰かに話しながら考えてください。一人で悩んでいると心によくありません。人に話すことで、あなたの考えは形をなしてきます。


 もっと悩んで、もっと人に話してください。あなたの周りにはきっとあなたを助けてくれる人がいるはずです。僕もその一人になれれば、これに勝る光栄はありません。ちょっとかっこつけすぎですね…(反省)。



中根成寿(naruhisa@pob.org


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