京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報


(2008年2月号 掲載)
安積遊歩さん 講演会

『自分を愛することは、世界を愛すること ―排除から共生へ―』

テープおこし(後編)
2007.10.28

再評価カウンセリングについて

 「カウンセリング」という言い方は、本当はあまり好きではありません。「再評価カウンセリング(またの名をコウ・カウンセリング)」というのは、ハビー・ジャキンズという人が考えたのです。彼も自分で、カウンセリングと言っていいのかどうかということを言っていたのですが、もうそういうふうに広まっているので、「再評価カウンセリング(コウ・カウンセリング)」という言葉を使っていきたいと思います。コウ・カウンセリングの「コウ」は「CO」と書き、「共同の」という意味です。コープマーケットの「コウ」ですが、「協力し合って」という意味でもあります。「共同の」、「平等の」、「対等の」ということで、時間を分けて聞き合います。5分ずつとか、10分ずつとか、勿論1時間ずつでもいいのです。お互いにカウンセラーとクライアント役になって、自分がクライアント役の時に自分の問題を話します。再評価カウンセリングの「再評価」というのはどういうことかというと、自分の人生を再評価するということです。自分が思い込んでいて、すごく苦しいことがいっぱいあると思います。自分にとっては真実でも、苦しいこと。動きにくいこと。考えを遮断してしまうこと。自分にとってはそうなのだけど、そう思い続けるのは苦しいことの数々を再評価するということです。

幼い頃の私と母

 私は小さいときに余りにも痛かったので、泣くことがすごく大事でした。私の母は、私が泣くよりも先に泣いているくらい涙もろい人だったので、泣くことが日常の中にいっぱいある家族だったのです。特に私と母は、泣かない日はないくらい、泣いて泣いて生き延びた二人だったのですね。泣くことが、めめしいとかダメなことだとか世の中では悪く言われても、私の現実では泣くことはすごく大事で、いいことだということを知っていました。でも、頭では違っていたのです。私は泣き喚いていたにもかかわらず、母親が泣くのをすごく怒っていました。母親は泣くのですが、私のように泣きわめくわけじゃない。私は余りにも痛くて、泣き喚きながら「やぶ医者出てけ!」とか叫んでいました。すごい子ですよね。「やぶ医者出てけ!」と言われてうれしい人はいないようで、「やぶ医者」と言われた医者は、母親を怒るんですね。嫌ですね。八つ当たりの八つ当たりです。

 私は、痛みを泣きわめくことで表現していたわけです。「痛いよ、お母ちゃん」と真っ直ぐに言うのでなく、「やぶ医者」と叫ぶことを母は止めずに泣きわめかせてくれたのです。けれど、そう言われた人は母親に、「こんなに生意気な子を黙らせないでどうするんだ」みたいな眼差しを向けるわけです。「ホントにわがままな子ですね」みたいな。そうすると母親は、怒られる前から、私が痛いと言った瞬間からポロポロ泣いているような人だったのです。その泣き方が細々泣いているので、「めめしい女だ」というふうに、「やぶ医者出てけ」と言った言葉で母親を怒っていたわけです。「めめしい」というのは、「女女しい」と書くのですが、本当に女性差別の極みの言葉です。それを母親にぶつけていたのです。私自身は、めめしい泣き方では戦えないと思っていましたから。母は何故、私を医者から奪い返して逃げないのかと思っていました。

涙は悲しみからの回復

 私は泣くということに対してそれほどの抵抗感や違和感はなかったのですが、決してほめられることではないと体に染み込んでいます。「泣いていいよ」というのは、これまでの人生において聞かない言葉だったのです。ところが最初にこの方法を学んだ時、ティーチャーが、「泣いていいよ」と言ってくれたのです。何にもしゃべってないのにですよ。フェミニストでイギリス人のティーチャーだった彼女から最初に聞いた言葉が、「It’s OK to cry(泣いていいよ)」だったのです。それですごい衝撃を受けて、一気に涙が出てきて、すごく泣きました。ものすごく泣いて泣いて思ったことは、「泣いていいよ」と言われて泣きながらも、何故泣いているのか自分で考えているということです。子どもが泣いていたら、何も考えてないと決めつけないで下さい。泣きながらも考えたり、感じたりしています。泣いているというのは、悲しみから立ち上がるプロセスなのです。私は泣きながら、何故泣いているのかと考えました。

 それで思い当たったのは、中年の男性がすごく嫌だと思っていたことに対して泣いていて、その中年の人は誰かというと、「医者かも知れないな」と、泣きながらもすごく頭はまわって考えて感じていったわけです。それで泣き終わった時に、「何でこんなにいっぱい泣いたんだろう」ということに答えが出ました。医者から受けた治療に怒りと悲しみを感じていたのだということが、よくわかりました。

 泣き終わった後というのはスゴいです。15分たったら、ティーチャーから「終わりです」と言われるんですね。これにはびっくりしました。泣くのをやめなさいとは言われませんが、「終わりです」と言われたら止まるんですね。(笑)みなさん、本当ですよ。感情はコントロール出来ないという間違ったメッセージがありますが、そんなことはまったくありませんから。

 母と父が死んだ時、余りにも悲しいからいっぱい泣いてみようと思ったのです。けれど、お葬式は忙しいですよね。母親の顔に死に化粧をほどこしながらいっぱい泣くのだけれど、おばちゃんたちから「純子、あれしてこれして」と言われると涙が止まるのです。現実に引き戻されると、どんなに泣いていても涙は止まるし、感情はコントロールできる。だけど、涙が何故出るかという訳を知らないから、私たちはすごく混乱しています。涙は、悲しみから立ち上がるために出るんですね。だから、誰かとつらい別れをしたら涙が出るのは当たり前で、泣き切らなかったら病気になります。感情によって起こる病気だらけです。病は気からですから。悲しみがたまっていたり、何かこだわるものを持っていたら、病気にもなると思います。本当に悲しいことが起こったときには、そこに向かい合うのが自然治癒力なので、涙を止めないで下さい。

再評価カウンセリングの始まり

 ハビーがコウ・カウンセリングを組み立てるキッカケになったのも、いつも泣いてばかりいる仲間がいたからでした。コウ・カウンセリングは1950年代にシアトルで始まったのですけれど、その時代のシアトルの精神病院はとてもひどくて、素っ裸にしてクサリにつないでおくような場所だったそうです。

 その時に、ハビーは、仲間があまりにも泣いてばかりいるから、このままだと精神病院に連れて行かれるから、自分の家で泣けるだけ泣いてもらおうと思ったんですね。しかし実は、本当は涙を止めようして、止めよう、止めようとしても止まらなかった。ただ、精神病院じゃないから鎖につなぐこともなく、ずっと聞きまくったら一ヶ月くらいの間に、涙の後には笑い、笑いの後には欠伸をしていきました。欠伸はいいのですからね、欠伸はしてはいけないと思わないで下さい。欠伸は疲れや緊張からの回復の体のサインですから。というわけで、欠伸をしまくったら、その仲間がすごく元気になったそうです。欠伸も笑いも涙も、決して止めてはいけないと思ったそうです。ふるえや汗もそうです。汗もすごく大事な気持ちの自然治癒力、回復力なんです。私もそれを18年前に学んで、その後に母親と父親が死に、それを適用しました。それを毎日やるようになって、色んなことをよく考えられるようになりました。毎日やるためには、まず仲間を作らないとダメなのです。聞いてくれる人を育てる。聞き合える人を育てるのが、今の私の一番大きな仕事としてやっています。聞き合える仲間を育てることによって、良く考えることができ、娘も産むことが出来ました。

娘を産んだこととバリアフリー

 娘は同じ障がいを持っています。これがなかなか、世の中にはつらいと言われることでね。世の中では言われることですが、私にとっては、娘が同じ障がいを持ってもよかったなと思う気持ちもあります。障がいのない方は障がいのない子を産んだほうが分かり易くていいと思うのですよ。それと同じで私は私と似た体と状況を持って産まれてくれた娘を育てることは、それなりにわかりやすくて安心できる気持ちもあるわけです。ただし、障がいを持つということが社会からこれほど排除的に扱かわれていなければ、です。これほどの差別が社会に蔓延していなければ、気持ち全部で「障がいをもつ赤ちゃんで良かった」と心から受け止められると思います。実際、私は自分の周りを聞ける仲間にしたし、自分が街に出ることによって、これだけエレベーターを付けさせてきたと思います。京都は初めからエレベーターが付いている所も多かったと思うのですが、東京はひどかった。福島もとてもひどかった。

 私は30年間の外に対する働きかけとして、駅にエレベーターが出来たことが、目に見える成果としてものすごく嬉しいのです。ありとあらゆるところで、周りの人に「手を貸して下さい」と叫び続けてきました。「貴方が必要です!」と言われて嬉しくない人はいないですから、それで階段を上ったり下ったり。腰痛の人からは断られたりしますけど、断られても他の人にまた頼めばいいのだから、それはそれでよかった。駅員から「俺、飯食べているから、こんな時間には来るな!」みたいに言われたこともあります。そんな駅員さんとも話しをして人間的な関係を作って、エレベーターを増やしてきたことが、外に対する働きかけとしては、ホントに良くやってきたと思うのです。そして、自分の中にある自分を差別する気持ちに対しては、再評価カウンセリングを使って、自己信頼を回復し、同じ障がいを持っている自分の子を生まれて欲しいと願い産めたことは、すごく大きい革命的なことだと信じています。

遺伝と医者ついて

 遺伝的な障がいというのは、差別の中でも特に差別がひどいです。私の母は同じ障がいはありませんでしたから、いわゆる突然変異みたいなことで、眼差しは私みたいにはきつくなかったと思います。でも私の場合は2分の1の確率で同じ障がいを持つ子どもが生まれるのだから、すごく嫌味な言い方で、やはり「生まないほうがいいよ」という提案やアドバイスを、二十代の頃に何度か受けました。私は今51歳になりますが、私と同じ年代の私と同じ障がいのある母親たちは、中絶を勧められていない人はいません。

 私の友達は、「あなたはすでにご主人に迷惑を掛けているのに、子どもを生んでもっと障がいの重い子だったら、さらにご主人に迷惑を掛けるのよ。何を考えているの」と医者に言われ、結局彼女は泣きの涙で中絶したのです。そこと戦うにはあまりにも厳しい状況だったのでしょうね。二人は10年ぐらい頑張りましたけれど、別れてしまいました。別の友達は、彼女は脳性マヒで遺伝的障がいではないのですよ。だけど病院に行ったら中絶を勧められたので、カトリッツクの病院に逃げ込んで産んだのです。本当に、物凄いドラマが、一人一人にあります。

 私は娘がお腹にいると分かったときに、絶対この子には差別的な言葉は聞かせないと決断しました。中絶を迫られるような場所に絶対彼女を置かないと思いましたから、大病院には行かず町医者に行ったのです。しかし、私も自分が非常に自立的な人間だと信じていた割には、その医者にすごくバカなこと、「私、産めるでしょうか?」と聞いたんです。私は妊娠しているという確信を持っていたにも関わらず、ですね。不安だったんでしょうね。そしたらその町医者が正直に「私は分かりません」と言ったのです。医者はこうあるべきだと思いますね。分からないことは分からないと言ってくれないとね。

 私は13歳の時からほとんど医者にはかからないと決断して、自分の体は自分で診てきたのです。自然療法とか、民間療法とか、東洋医学とか、針灸とか。自分の体は自分で診るということを使命にしてきたのです。癌や余命の少ない病気とかになると、「貴方の命はあと5ヶ月です」とか言われますが、いい加減なことは言うな、と思うのです。しかし、医者にこういう風に言わせているのは、周りの責任でもあります。医者というだけで確かなこと言うだろうと周りが思っているのは、止めたほうがいいです。私は「分かりません」という一言で目が覚めて、「私はどこで診てもらうのがいいと思いますか?」と聞いたら、「総合的に、小児科とか整形外科とか麻酔科とか、全部あったほうがいいと思います」と言われました。それはそうだと思って、病院を探しました。 その時気をつけたのは、この社会が「遺伝的な子どもは産むべきではない」と法律(優性保護法)から言ってるのだから、これ以上差別的な言葉はお腹の子には、絶対に聞かせたくないと思ったわけです。

優性保護法とコウ・カウンセリングのこと

 それで、1996年に5月に娘を産んだのですが、いろんな人の運動もあり、私も少しは頑張って活動したこともあって、その年に優性保護法はなくなりました。1994年にはエジプトにまで行って優性保護法がいかに差別的かを発言しました。エジプトで「人口と開発世界会議」という人口調整を考える会議があって、これは物凄く差別的な会議なのですけど、差別的な会議だから行かないのではなくて、だからこそ行こうと思って行きました。参加者の中で車イスの人は私一人だけだったのです。そこですごく頑張って発言して、「日本の優性保護法が障がいを持っている人を追い詰めているのだ」ということを言いまくったので、私の発言もちょっとは影響して、優性保護法がなくなりました。まだまだ優性思想はありますけれどね。

 娘が生まれた年に優性保護法が、「不良な子孫の出生を予防するものである」という文言だけはとにかく無くなりました。
 私が娘を産めたというのは、そういう活動と同時に、再評価カウンセリングの中で、とにかくいっぱい泣きました。コウ・カウンセリングで聞き方を学んで、涙や笑いやふるえをいかに止めないか? 止めないだけでなく、長続きするように聞いてあげるかというのがコツなのですね。そうすると回復のプロセスが働くから、良く考えられるようになるのです。いっぱい笑ったり泣いたりして、傷ついた感情を外に出すことで、良く考えられるようになり、再評価が始まるということで、これが「再評価カウンセリング」と言われる所以なのです。人生を再評価できるんですね。ピア・カウンセリングもこの方法でやっているので、深めてみたいなと思われたらお声をかけていただければいいかなと思います。

終わりに

 では、質問とかもお受けしたいし、庵原さんの朗読も聴いていただきたいので、このくらいで私の話は終わって、今日は私の連れ合いも来ているので話してもらいますね。

 彼は本当に純粋な人なのです。世の中に障がい者差別がいっぱいということが、彼にとっては信じ難い世界でいたからこそ、娘に障がいがあっても、子どもが大好きだという一点で娘を迎えられたという人です。私は私で「そんな男がいる訳ないだろう」と思ったので、いつ逃げるのかなぁといつも思い続けて11年経ちました。まだ逃げていませんね(笑)。妊娠したときに、「これはシングルマザーの運命だ。行くぞ!」と思っていたんですが、いつまで経ってもシングルマザーにならないのです。それではよろしく。



石丸さん こんにちは。石丸と申します。石丸偉丈と言いまして、「偉い」と言う字と「丈夫」の「丈」と書いてヒデタケと読みます。これは音読みすると「イジョウ」と読めるから、昔、子どものキャンプ団体でボランティアをやっていたのですが、イジョウのアブノーマルだから「アブノー」とあだ名が付いて、長い間呼ばれていました。本も何冊かあるんですけれども、その中で僕は「アブノー」と出てます。

 娘が生まれた頃のことを話しておこうかなと思います。娘はもうすぐここへ来る予定です。最後ぐらいに滑り込みでくると思います。もう11歳になりました。彼女も同じ障がいを持っていて、左足の大腿骨を初期の段階で骨折したので、それで折れやすいと言うかカクドがついて、これまで十数回手術をしています。だから痛いですしね。そういうときはかわいそうですが、基本的にはすごく元気に幸せそうに楽しんで生きています。

 僕の大学4年のときなのですが、彼女から、妊娠したかも知れないと電話がきました。それは、95年の10月でした。僕は、横浜に住んでいました。生まれは神戸なんです。母は神戸で、僕は徳島生まれの神戸育ちで、ちょっと関西弁も出たりします。その頃は、横浜に住んでいて、国立から2時間くらいの所でした。ある日、家に帰ったら、「遊歩さんから至急連絡が欲しい」という母の置き手紙がありました。その頃、母親には彼女と付き合っていると、数ヶ月前にかろうじて言った後だったのです。僕今35歳なのですけが、彼女51歳ですから、16歳違いです。僕はその時は23歳で大学の4年で、子どもキャンプ団体と学童保育ボランティアやっていて、どっちに就職しようかなと思っていたのです。子ども関係のことをやろうと思っていました。それで電話したら、「アブノー、子どもが出来たかも知れない!」と言われて、びっくりしました。「ガーンガーン」と頭の中で「これからお前の人生はじまるぞ!!本気だせよ!」と鐘が鳴ったような気がしたんです。びっくりして、母親に「遊歩が調子が悪い」と「介助に行かんといかん。だから、僕は家には帰れないだろうけれど心配なく。」と、事実の言いやすい半分だけを伝えて、夜の9時ぐらいに家を飛び出ました。そして行ったら、友達と二人で六畳一間に住んでいたんですが、部屋を暗くしてぶるぶる震えていたんですね。自分の体が持つかどうかと。骨がね弱いので、自然分娩絶対に無理で、帝王切開をしたのですが。実際、カルシュウムが定着しないので、普通の方でも妊娠中に爪がもろくなったり、歯が弱くなったりします。彼女にとってはすごい負担で、かなりのリスクをおうのですね。彼女は今も話していたように、絶対に自分は子どもは出来ないと思っていたし、僕も出来ないと聞いていたのですっかりそう思っていました。人生なにがあるか分かりませんね。

 僕は子どもが好きですから、それに、教育をもっと違う形でできたらいいなと思っていて、競争でなく、一人一人が持っている力を発揮できたらいいなと思っていたけど、自分自身でどうすればいいか見えなくて、色々勉強したりとか体験学習をしていたんです。この機会に、子どもを授かればそれはそれで学びになるだろうと、父親業に就職することにしました。それで、次の日に産婦人科に行ったら、先ほどにも話にあったように、「僕はわからない、僕はわからない」という不安そうな男の先生の言葉を聞きました。とりあえず妊娠をしていることは分かったので、それ以来彼女から宣戦布告されて、『車イスからの宣戦布告』と『女から選ばれる男たち』いう本があるのですが、かなり克明に書かれています。私は万年床で、母親が食事は作ってくれ全部してくれていたので、まー気の利かない家事の全然出来ない人間でしたので、怒られ怒られ、5年間は家事のことで文句のない日はなかったですね。ある日、「あ、昨日は家事のことで文句を言われなかった」と思ったら涙出ましたね(笑)。忘れもしない夏の日ですが。自分でもだいぶ頑張りましたね。お互いですね。ここまで言ったら根を上げて出て行くだろうというくらい、むちゃくちゃな精神状態でやり続けたみたいでしたね。

安積さん 彼は、シーツっていつの間にか洗われていると思っていた。シーツもバスマットも洗うものだと知らなかった。ある日「シーツ洗って」と言ったら、「え、シーツって洗うの?」と言われ、「それじゃ、シーツは一生洗わないものだと思っていたの?」と、こっちがびっくりしました。

石丸さん 要するに、僕の人生に「シーツを洗う」という現実が欠落していたのです。皆さん、シーツというのは洗うものだと男の子に教えてあげて下さい(笑)。 今は男の子も女の子も家事が出来なくなっていますね。彼女は立教大学で非常勤講師をやっているのですが、僕が学生さんを呼んで家で一緒にご飯を食べたり、僕が女の子に家事を教えていることがあります。男も女もなく、家事がわからなくなっているなーと思います。今の、勉強さえ出来ればいいとか、成績さえ取れればいいとかいうのは非常にアンバランスな状態ですね。やはり生きていくことの基盤に生活があるのですから、これからの時代には、普通に生きられるように、生活の基盤を小さい時から覚えていくといいですね。

 話を戻しまして、10月18日に妊娠が分かって、1ケ月ぐらいは親には言えなかったのです。それで彼女が「早く言ってくれ」と言うようになって、僕も「そうだな、ここは腹を決めて勇気を出そう」と思ったのですが、なかなか勇気が出なくて。僕もカウンセリングを学び始めていて、その中にロール・プレイというのがあるのですが、役割劇で練習をしました。

 まず父親役があって、「お前、これから就職はどうするんだ」とか、考えられるいくつかのポイントを言ってもらうわけです。それで僕は、「僕らは共働きやし、彼女のほうが稼げるようなところもあるし、僕も障がいを持っている人の介助をやってある程度稼げるし、食うていけるから」と答える。母親役には、「子どもも同じ障がいだったら、どないしてやっていくの?」と言ってもらう。そういえば母は本当に「あんたの両肩に障がいを持つ妻と子どもがぶら下がっているのが、可哀想で」と、「“おしん”のようだ」と言ってましたね(笑)。それを言われたときは僕は、「彼女は自立生活センターの代表をしていて、人の家に介助者を派遣するような仕事もしている。家にも毎日介助者が来ている。だから、僕だけでやるわけではないし、大丈夫だ」みたいに話をして、練習したわけです。それで、11月の下旬頃だった思いますが、「よし!」と決心して電話を握りしめて、ダイヤルをしていたら、人間怖いと寝ることがあるんですね。

安積さん これも驚きましたね(笑)。怖いと寝るという人いますか? 眠くなる方はいるみたいですけど、実際に怖くて寝るというのを目の前で見たのは初めてだったので驚きました。

石丸さん 聖書の中にも、ペテロが眠くなって寝たと書いてある。昔から同じだなーと思いました。もう僕ね、昏睡です。ダイヤルを押し切らないうちに受話器を持ったまま昏睡して、1時間ぐらい寝ていたみたいです。それで揺り起こされて。夢の中で電話してたので、その勢いで電話したんです。そしたら、母親が電話に出たのです。それで、さっきの彼女の英語法と同じで、何も言わせない勢いで話しました。母親のびっくりした顔が目に見えるようでした。そしたら、父親が代わって出てきたんですね。僕の父親は銀行員で、朝の6時に出て夜中の1時に帰ってくるような仕事バリバリの人で、僕のことを、「宇宙人みたいだ。理解できん」と言っていたんですね。僕が、「こういうことで、実は子どもが出来たのだけれど、絶対にやっていけるし」みたいなことを言うと、父が最後になんと言ったかというと、「じゃあ、遊歩さんの体を大事にしてやれよ」と一言。もう、僕はびっくりして、電話切ってからぼろぼろ涙が出て感動してたら、彼女は人生の百戦練磨で、「揺り戻しがあるよ」と言われました(笑)。「あんた嫌なこと言うなー」と言っていたら、本当に1週間後に揺り戻しましてね。「偉丈、家族会議やるから帰っていらっしゃい」と、かなりドスの聞いた声で母親に言われました。

 横浜まで行って。そしたら、やっぱり「絶対反対」だと言われました。「就職も中途半端だし、障がいを持っている子どもだったらやっていけるわけない。絶対反対。絶対おろせ。」と。アニキも反対。妹だけ「お兄ちゃんの考えはいいと思う」と言ってくれました。こちらから関係を切るというのは止めようと思っていたのですが、「今まで有難うございました。これからは自分たちでやっていくから、大丈夫です。」と、それだけ言って出てきて、そのまま国立で共同生活したんです。そしたら、1週間後ぐらいに母親が来るわけです。「親としての筋とうしに来た」と。「貴方、どの筋の人ですか」と思ったのですが、観念して、、僕ら二人と国立の駅で会うことになったのです。彼女は今までに色んな悲惨な経験をしていて、前の前の恋人の時に、相手の家族の方から「親子を殺すぞ」とか脅されていた経験があったから、「爆弾持って来るに違いない」とか、「家に火を付けに来る」とか言うのですよ。

 とにかく 国立の喫茶店で会いました。後で母から聞くと、二人の着ているものがあまりにみすぼらしくて、涙が出てきたと言ってました。母は、僕たちきょうだい三人を都会で育ててノイローゼ気味になったし、僕の父親の両親を介護したことも辛かった。家事、育児、介護の3本立てをあんたがいっぺんにするのは絶対に大変だと、泣きながら言うわけです。(ああ、この人は自分が大変だったんだな)と二人でカウンセリングして(笑)。

 母は最後には、「もうこの子は変わらへんわ」と悟ったようで、1時間くらいして帰って行きました。それから数週間して母が家に来て、色んな人が来て家事を一緒にやってくれたりとか助け合っているのを見て、帰るときには、「あんたのとこは羨ましいわ。私もそんなに風やったら良かった」と言いました。自分が 家事、育児、介護を助けもなくやってきてきつかったけれど、僕たちがそれを覆すような生活をしているのは、羨ましかったみたいです。
 そんなこんなで、11年も経ちました。

安積さん 私は誰からも、彼女の命を否定的に言われたくないと思っていましたからね。とても悲しかったです。今はもう、うみちゃんに対して「ばあばは、ばあばをすることをやめます」というハガキをくれるくらい仲良しです。

 ウチでは、社会的な役割を押し付け合わなくて、父親はこうあるべき、母親はこうあるべき、子どもはこうあるべき、というのを止めたいと思っています。女はこうあるべき、男はこうあるべき、障がい者はこうあるべきとか、余計なお世話だと思っています。娘は私たちのことを「遊歩」「偉丈、タケさん」と呼ぶんですね。だけどお母さんは、(私は「しがこさん」と呼びたいのだけど、「お母さんと呼んで」と言われて、それ以来「お母さん」と言っているんですけど)彼女は、「お母さんを遊歩と呼んではいけないわよ」と言っていたんですね。娘はそれが嫌で、「ばあばの言うこと良く分からない」と言って。それで母も気づいてくれて、謝りのハガキをくれました。「ばあばは、ばあばをすることをやめます。うみちゃんゴメンね」と書いてありました。役割をやめるというのは、役割で生きてきた人にとっては、すごく大変なことだろうなと思って、私も少しは妥協して「お母さん」と呼んでお付き合いしています。

 私たちの家はいつも家族以外の人たちを受け入れているので、今は一緒に暮らしている20代の男性が二人いて、今日はお留守番をしてくれています。血族ではない家族というか、新しい人間関係を身の回りにいっぱい作っていきたいなという暮らしをしています。

 では庵さんを紹介して、朗読をしてもらいたいと思います。
 私は、自分の障がいがあまり長生き出来ないと医者にずーと言われてきたので、彼女は今年70歳になったのですが、会うたびに「あ〜良かった」と思うのです。「彼女がいてくれるから私も絶対生きられる」と思うのです。
 彼女が素晴らしい朗読をしてくれます。戦争に関係するお話で、私は泣きながら聞いていたのですが、皆さんともこの感動を分かち合いたいと思います。 よろしくお願いします。

庵原さん 皆さん、こんにちは。庵原マキコです。安積さんとは20年くらい前に、安積純子として会いました。私が東京へ行くたびに友達が「貴方に似た人がいる。一回会わせたい」と言っていたのです。会ったら、大きな違いがありました。お若いのと、美人であること、頭がいい。「いやぁ、もう大きな違いやな」と思いました。私と同じ障がいではあっても、戦争があって、私は戦前で医学も違ったから、違う道を歩いてきたなと思います。
 では聞いてください。

朗読
 「すみれ島」今西祐行
 「かぜのなかのおかあさん」阪田寛夫




質疑応答

島崎さん:夫婦関係のことですが。私たちはみんな(みんなかどうかわかりませんが)連れ合いにいろいろ不満を持っているわけですが、コウ・カウンセリングを、連れ合いに向かって聞いてもらう、喧嘩じゃなく、連れ合いとのカウンセリングというのもあるのですか?

安積さん:私も正直に言って、彼の怒りを長い時間聞くのは難しいです。彼以外の人の怒りだといくらでも聞けるのですが、彼の激しい怒りは2〜3分が限度ですね。(笑) 理論的には可能なので私も是非やりたいと思っているのですが、彼が「貴方は僕の怒りは聞けないからダメだ」と言ってやってもらえないです。今後、是非トライしたいと私は思っています。

石丸さん:かつては彼女からガンガン言われることが多かったので、かなりうんざりしました。感情を生に引き受けるというのは生活の中で十分です。同じことをさらに時間決めて聞き合うというのは難しいですね。「貴方が問題よ」と言ってることの「貴方」というのは実は氷山の一角で、その下にもっと大きな氷の塊があるのです。昔、不満だったこととか、これまでのいろいろな経験の中での積もっているものまでぶつけられと、やっぱり聞けませんね。今の問題だけでカウンセリングするなら聞けると思いますが。

安積さん:私にとっては、彼は母親だったりするんですね。私は母親に対して、まるで姑みたいだったんですよ。小さい私がいつも彼女の家事にケチをつけていたのです。「何でちゃんと埃をとらないの」とかね。ホウレン草の洗い方が悪いとか。母親にガンガン言っていたんですね。それは本当は、「痛くてつらいよ」ということを聞いて欲しかったし、「お医者さんに連れて行かないで」ということを聞いてもらえなかったのをそういうにぶつけていたのです。だから、母親に対するつらい気持ちとかが、彼に再刺激というのですが、投影されて、彼に対することではないのだけれど、ガンガン言いたくなるというような時があるのです。

 最初の頃は、彼はほんとに優しい人だから、じーっとこらえて聞いてくれていたのです。お腹が大きくなった頃も辛かったし、生まれてからも回復のために すごく時間がかかって、うみちゃんを産んで、その2,3年はほとんど記憶にないくらい辛かったんです。出ないと思っていたおっぱいも出たし、歯がすごく弱いので1年目で歯も全部なくなってしまった。その間はずーと聞き続けてくれました。2〜3年目ぐらいかな、私が「そんなに辛かったら、言い返せばいいじゃない。自分の権利のために立ち上がれ。自分を守るんだ」と言って怒っていたのを覚えています。ここ最近は、実に自分の権利のために立ち上がってくれています。実際は「うるさい!」とか怒鳴ってるんだけど。

 私は3人兄弟の中で唯一、父親が怒鳴るのを平気で聞けた子だったのです。父親が怒鳴ったら3倍ぐらい怒鳴り返す。疲れて帰ってきた父親が「誰が食わせてやってるんだ!」と。あの年代の男の人はこの言葉が得意ですね。私は、「日本憲法知らないのか!!親が子に食わせるのは当然だ。もっと旨い物食わせろ!」と言い返しました。すごいでしょ! こんなことを小学校4年生で言ったのだから、エライよねー。(笑)まるで漫才のようでしょ。妹は布団の中で泣いてたそうです。言い合ってる本人はあっけらかんとしてますから全部忘れてましたが、妹が教えてくれました。そしたら父親も負けずに「障がいを持つ子はドブに捨てる親もいるんだぞ。それに比べたら、お父ちゃんはなんていいお父ちゃんだ!」と。そしたら私がまた言い返したそうです。「そんな親と比べて恥ずかしくないのか!恥を知れ!恥を!!」とね。(笑)父は戦争に行ってますから、「恥」という言葉にはギクっとしたらしく、「いや〜、まいったまいった」と言って頭をかいているシーンだけは覚えています。そのくらいなんでも言えた親子関係でした。

 私は医者にひどい目に合わされたから、子どもの私にとって、医者はどんなに抵抗しても私をひどい目にあわせる存在でした。医者に抵抗することをしていた中では、父親への抵抗はたいした事なかったんですね。でも、娘はすごく愛されて育っているから、父親が怒鳴ってくるというのは、驚きの現実です。でも対等な関係ですから、怒鳴ると「うるさい。やめて」と言います。しかも私ばかりにね。私は自分のイライラする気持ちを誰にも止めてもらえなかったけど、娘だけは止めてくれます。娘もコウ・カウンセリングを学んで、カウンセリングをするんですよ。「遊歩も混ぜて」とか言うと、「あなたは聞けないからダメ」と言われます。「カウンセラーのときはいいんだけど、どうしてヒデタケの前だとそんなに我慢が出来ないんだろうね」とか言われたこともあります。(笑) だから夫婦間のカウンセリングは理論的には可能なんですが、実際にはまだまだですね。でも、やってみたいです。

巽さん:私は大学で遺伝カウンセラー養成科の教員をしてまして、先ほどの中絶を勧めるという話にビクっとしました。本来はそうあるべきではないはずで、遺伝カウンセラーというのは中立的な情報を相手に与えて、自立的に決定してもらおうという役割なんですけど。ただ、その人の持っている背景とか、そういうもので影響されるものが大きいと思いつつ、どうしていくかと考えていたのです。

 遺伝カウンセラーの役割は、与えるということが多くて、聞くということが軽視されているような気がして、今聞いていて、「聞く」というのはすごいことだな〜と思ったのです。ロール・プレイを授業の中でもやるのですが、しゃべるほうが主になって聞くことができない。10秒でも黙っていると落ち着かなくなるんですね。学生を見てるとそう思えてくるのです。「聞く」ことを、どうしたら出来るのかなと思います。

安積さん:そのとおりです。質問の中で答えを言ってくださったのです。聞くことの一番最初の学びは、「いかに黙れるか」ということです。「どれだけ黙って聞くか」ということを、まず学びます。黙って、でも「ちゃんと聞いてるよ」というサインを出しながら、眼差しとか、うなずきとか、そういうことをちゃんとしながら黙り続けること。自分の意見を言わないこと、自分の思いを言わないことが聞くことの最初です。これが出来たら、ほぼ出来ます。そういう意味では、赤ちゃんとか子ども達とか、言葉を知らない人たちがいかに良いカウンセラーかということです。言葉を持たないものたちがすごく聞いてくれていますよね。森や林などの自然もそうです。まず黙るということをいかに学ぶかですね。

 私たちは成長の過程で、「しっかり話しなさい」とか「ちゃんと自分で言ってごらん」とか言われ続けているでしょう。だから、自分は言わなくちゃいけないと思っているから、黙れないのです。黙ったらダメなんじゃないかと。そして、「ちゃんと話しなさい」というメッセージがあまりに大きすぎて、「one of them」という大きなものの中の一人になると直ぐ黙ってしまうしね。1対1の本当に助けを求めてくる人の前でどれだけ黙れるかということですよ。

 私の友達も遺伝カウンセラーに行って、ものすごく傷つけられて泣きながら帰って来て、「もう絶対あそこには行かない」と言って、彼と赤ちゃんを産みました。「そりゃ、生まないほうがいいよ」と簡単に言われたそうです。「貴方、米袋持てるか」と言われて、「そんな人間が赤ちゃん抱けないだろう」と言われたそうです。びっくりですよね。

 友達で遺伝カウセリングに行きたい人がいたら、まずその前に黙って40分、50分は聞いて下さい。後2〜3回質問するだけでいい。はっきり言って、誰でも出来るのよ。情報提供というのは、今はインターネットでも出来るから、遺伝カウンセリングに行ったら、黙って優しい眼差しでみてもらうというのがいいですね。それを期待して行くわけですね。現実はあまりにも厳しいから。「貴方の考えが最高にいいと思うよ」といえたら、3日以内に自分で答えを出しますよ。 でも、あなたが講演に来てくださって本当に嬉しいです。

中根さん:男は良いカウンセラーになれますか。

安積さん:それはもう最高のカウセラーになれますよ。これを発見した人は男性だし、彼(ヒデタケさん)は私にも他の人にもすごく良いカウンセラーです。男の人はいっぱい傷つけられているから、そのことを自分で気づいていけば人を大事にしていける人です。ただ、自分が傷ついているということを気づくのが、すごくつらいと思います。

中根さん:自分の夫婦間でもそうです。分析をしたり、解決方法を考えてしまって、黙って話を聞くというのがとても難しいのです。男性のこれまでの生き方で、黙って聞くというのが文化としてないのではないかと思ってですね。しゃべる方は、解決法は求めてなかったり、説明して欲しいわけではないのですね。ただ聞いて欲しいのだと頭では分かっているのですが。近しい関係になると特にそうですね。ここに父親が少ないというのも、そういう理由からだと思います。ただ黙って聞くのが苦手で、引いたら責められるのじゃないかと怖がっているのだと思います。プログラムの中に男性向けのアドバイスがあればお願いします。

安積さん:そこまで知っているだけで、良いカウンセラーですね。じゃあ、彼からアドバイスを。

石丸さん:僕は国立に住んでいるんですが、以前、ラブホテルで3人の破産した中小企業の社長が別々の部屋で酒を飲んで死んだのですが、それがすごく象徴的だと思ったんです。男性と女性では自殺する率が4倍ぐらい違うんですね。女性は死のうと思ったときに人に言うんですね。男性は言わない。言わないで本当に実行しちゃう。男性って鈍感で大丈夫なように見えるんですけど、実はそうではなくて、いろんなことを抱えながらも言えないということが多いと思うのです。このぐらいは大丈夫だろうと。

 よくある話で、蛙を沸騰した中に入れたら驚いて飛び出すけど、水の中に入れてだんだん熱していったら、熱さに気づかないで死んじゃう、みたいな。僕はそれがすごく恐ろしいなと思うのですが、そういうことが結構あると思うのですね。男は「弱音吐くな」と助言されてきて、子どもでも「もう男だから泣くんじゃない」とか言われてますよ。弱音を出すことが恥ずかしいとか、涙を見せるなんてありえないということがあるわけです。

 男性が弱み出すということが許される文化ではないので、カウンセリングで男同士で集まることは日本ではまだ少ないです。1割弱ですね。アメリカではもう少し多いです。これからはもっと増える必要があると思うし、もっと男でも辛いときは辛いと言えるようになるといいですね。

安積さん:彼女の話を聞いてあげる前に、聞いてあげながらも、自分が今日はどうだったかとか、5分とか10分とか自分のことを話す時間を持ったらいいと思います。人の話を聞いて分析したり、解決したりするのでなくて、「貴方も黙って聞いてくれたら、僕も黙って聞けるようになると思うよ」と言ってみて。

石丸さん:そうやって僕らも生きのびてきたのです。男性って、分析して、自分の気持ちを整理してきたのです。ほんまに解決した気はしないけど、とりあえずこれはこれで済んだ、みたいな。カウンセリングをしていたら、本当はあの時に言いたかったと涙が出たりします。

安積さん:今度は 彼女に頼んでみてくださいね。

中根さん:「黙って聞いてください」ってね。

安積さん:そうそう。「黙って聞いて。そしたら僕もますます上手になるよ」と。

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