京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報


(1999年2月号 掲載)

 97年春より、厚生科学審議会先端医療技術評価部会が「母体血清マーカー検査」について審議をはじめました。トライアングルとしても意見書を提出し、検査の結果、胎児がダウン症であることを理由に中絶されている事実に対し、怒りの意を訴えてきました。

 その後、部会で審議しなければならない項目が増えてきたために、より、出生前診断に詳しい専門家を集めた「出生前診断に関する専門委員会」が98年秋に設置されました。委員の中には、トライアングルと深く関わってくださっている、武部先生、長谷川先生もおられます。

 第一回の委員会は10月23日に開かれ、「母体血清マーカー検査」に関する見解案のたたきだいを作る小委員会もできました。
 12月9日の第二回専門委員会の後「母体血清マーカー検査」に関する見解(報告)案が公開され、広く一般の意見を募集しております。

 99年1月19日の公開ヒアリングには佐々木が指名され、日本ダウン症協会理事長の玉井氏とともに、意見を述べてきました。

 以下は「厚生科学審議会先端医療技術評価部会出生前診断に関する専門委員会、母体血清マーカー検査に関する見解(報告)(案)」と、見解案に対してヒアリングの時に述べた意見です。




「厚生科学審議会先端医療技術評価部会出生前診断に関する専門委員会
母体血清マーカー検査に関する見解(報告)(案)」に対する意見

佐々木和子   
日本ダウン症協会理事
京都ダウン症児を育てる親の会代表

 私達は「母体血清マーカー検査」の対象であるダウン症の子どもを育てる親として、この検査のもつ問題及び検査の後、ダウン症であることのみを理由に中絶されている事実に対し怒りの意を訴えてきました。
 その私達の意を汲んでいただきまして、今日、この場にいますことを大変、嬉しく思い感謝しております。

 私は、子どもがダウン症を診断された時から、多くの障害を持つ人達とつきあってきました。その人達が自分の生存権をかけて、多岐に渡る運動をしていることに対し、尊敬の念を持ち、追随するべく、活動してまいりました。
 今、私がここにこうしてこの場にいることは、その人達の努力の結果であることを肝に命じ、意見を述べたいと思います。

 1月12日付けで私の意見書を提出しておりますが、12月9日の議事録が3日前の16日に手元に届き、それについても意見を述べさせていただきたい思いますので、少し長くなるかも知れません。急いで述べますので、分かりにくいところはご質問いただければ嬉しいです。

 今回、公開されました、出生前診断に関する専門委員会の出された「母体血清マーカー検査に関する見解案」に対して、私は一定の評価をしたいと思っております。
 見解案の中の、lll.母体血清マーカー検査の問題点と対応の基本的考え方、1.問題点の中で述べられている「胎児の疾患が発見されても母体保護法上は胎児の疾患や出生前診断を理由として人工妊娠中絶をすることは許されていない。また、現在、我が国においても、また、国際的にも、障害者を障害のない者と同様に生活し、活動する社会を目指すノーマライゼーションの理念は広く合意されている。胎児であっても障害を有する者もそうでない者も同様に命が尊重さるべきことは自明であり、この技術は胎児の疾患を発見し、排除することを目的として行われるべきでない」という内容、また、2.対応の基本的な考え方の中で述べられている「この検査は、医師が妊婦に対してその存在を積極的に知らせる必要はなく、検査を受けることを勧めるべきでもない。また、医師や企業はこの検査を勧める文書などを作成または配布すべきではない。」という記載は、優生保護法という、世界でも類を見ない優性思想にもとずいた法律を長く用いていたことに対しての反省を込めた内容で、この見解案の柱となるものとして理解し、国が出す文章としては、画期的な内容として高く評価し、この理念に則り、見解案につて意見を述べさせていただきます。

1)見解案の中で、何度も繰り返し述べられている問題点として、「この検査に関する事前の説明が不十分」「検査の内容や結果について十分な認識をもたず」「この検査の特質の十分な説明と理解がないまま」という表現は、不十分な説明しかできない医師及び、認識も理解もないまま中絶を選択する妊婦を指すものと思われます。検査に直接関わり、この検査によって、利害を受ける当事者たちが、この見解案の柱をなしている理念から程遠いところにいることが、この見解案の文章で明らかにされています。

 その上、母体血清マーカー検査についてはこの見解案の中で、「不特定多数の妊婦を対象に胎児の疾患の発見を目的としたマススクリーニング(ふるい分け)検査として行われる危険性がある」、また「妊婦が検査結果の解釈を巡り誤解と不安を生じる場合がある」等、問題点が上げられているのみで、メリットが示されていません。
 妊婦にとっても、本来持たなくてもいい不安をつのらせるだけの検査は、意味が無いのではないでしょうか。

 意味のない検査に加えて、十分に説明が出来ていないことを自覚していない医師、検査の内容や結果について十分な認識を持っていないことを自覚していない妊婦(この場合、妊婦が悪いという意味ではなく、もともと、大半の一般生活者は情報がなさすぎる中で生活しているので自覚しにくい)に対して、チェック機能を示していないこの見解案は、どれほどの効力なり効果があると思われるのでしょうか。

 また、十分な説明のできる医師を育てる機関を地域格差なく設置するための予算の投入等や、十分な説明のできるように育った医師が、実感をもって相談にのれるよう、説明することに対して義務と責任を持てるための手段(カウンセリングの保険点数等)の実現、妊婦だけでなく、一般にこの見解案の柱である理念を理解するための手段(例えば、ノーマライゼーションを実現するための統合教育の実現等)や、障害を持つ人達が差別を受けることなく当たり前に地域で生きるための福祉施策及び支援について(今の予算では、国の福祉施策は地域の中で十分に機能していないことが、私達の実態調査で明らかになっております)、それらをどのような形で進めるのか、を具体的に示さなければ、全てが絵に描いた餅になってしまいます。

 この見解案の柱になる理念を実現し、具体的に機能するシステムを示すべきです。
もし、現時点で専門的な機関の数が限られている等、具体的に示すことが困難であるならば、国が母体血清マーカー検査の実施を容認するべきではないと考えます。


2)この見解案では、「母体血清マーカー検査は21トリソミー等である可能性を単に確率で示すもので、検査を希望する場合には、妊娠前又は妊娠の極めた初期に遺伝相談を行い」と示されていますが、21トリソミーは遺伝ではなく、見解案に示される遺伝相談という表現は、先天異常=遺伝という誤解を招き、21トリソミーについて、正確に理解することを妨げ、不適切と考えます。

 遺伝という言葉は日本社会において、まだ、差別と偏見があり、遺伝であれば全て否定されかねない状況も残っております。遺伝相談という表現の仕方は遺伝に対する必要以上の不安感をあおり、遺伝疾患をもつ人達に対しても差別を助長しかねないことになる可能性があります。

 全ての人が遺伝についての正しい知識を学ぶことができるよう取り計らうとともに、先天異常であっても、遺伝性疾患であっても、人としての多様な現れ方の一つであるだけのことを広く一般に知らせるべきであると思います。

 また、「母体血清マーカー検査は21トリソミー等である可能性を単に確率で示すもので」とあるように、この検査が実施されることにより、検査の対象となった21トリソミー(ダウン症候群)が、まるで、検査をして排除されなければならない疾患であるかのような誤解を招いてきました。

 これまでも、繰り返し、私達はダウン症の子どもを育てながら、産んでよかったと思っており、子どもと生活する中で、全ての命をいとおしく思い、人として何を大切にして生きていかなければならないかを学んできたことを訴えてきました。
 ダウン症の子どもを家族として、ごく普通に生活を営んでいる私達にとって、この検査は、私達の生活、全てを否定しかねないものです。

 ここで12月9日の中で議論されている「障害者の生きる権利を否定することにつながることの指摘もあり」及び、「その存在を積極的に知らせる必要はなく」という2点が、大変関連してきますので意見を述べさせていただきます。

 この検査は障害者の生きる権利を明らかに否定したものです。
 なぜなら、検査の結果、障害があることを理由にその時点で、育とうとしている『命』そのものを断ち切って、その後の存在を否定しているのが事実だからです。
 命は受精したその時から育ち続けます。全ての命、人だけでなく全ての命はそうプログラムされていることは、専門家である先生方の方がよく御存知なはずです。

 胎児が自らの死を望んだ時のみ、望んだという言葉が適当かは、分かりませんが、片方では、親の望み(ニーズ)という言い方がありますから、あえて、そういう言い方をしますが、その時のみ、流産という形でその命を全うするのです。出産した後、1日で亡くなっても10日で亡くなっても、子どもの間でも、成人してからでも、天寿を全うしても、自然な経過の中で死を迎えるという意味ではどの時点でも同じ、人に公平に与えられた死で生存権の否定ではありません。しかし、人が自らの手で命の質を選び、障害を理由にその生存を途中で断ち切ることは(こらは、比喩でもなく、可能性でもなく、事実なのです)生存権の否定でではなくて何なのでしょうか。

 妊婦に対して、「この検査をすれば、あのような障害を持った子を産まなくて済むんですよ」というに等しい、検査の存在そのものが、「感じ」とか「比喩」とか「意識の上」ではなく「生存権を否定」しているのです。
 この見解案はそういう「生存権を否定しているこの検査」についてどうするかということを言っているわけですから、当然、「障害者の生きる権利を否定することにもなり」と入れるべきです。
 その結果、「知らせる必要のない検査」とするべきです。

 私は、先日、京大病院遺伝子診療セミナー、母体血清マーカーテストをめぐって、に参加しました。そこで、松田先生がこの見解案にふれ、「原則として、情報は全て、知らせるべきである、なぜなら、今後、遺伝子に関する検査などがどんどんでてきた時に、全ての情報を知らせ、その上で、個人が選択していかなければならない、そういう時期がもう、すぐそこに来ているから」と話されました。一見、納得しそうな内容ですが、大変な落とし穴が有るように思います。先生のお話は先端医療技術なり、新しい検査なりを実施することを大前提にしているということです。どんどん開発される検査や技術を一般生活の中に入り込ませることが、本当に生活者にとってメリットがあるのでしょうか。

 医療者側からの情報提供が生活からかけ離れた一面的な情報であることを専門家として認識して頂きたいと思います。
また、そのことについて、検査の対象となる一般生活者と正確な情報のもとに、議論をしたのでしょうか。また、するのでしょうか。自分の遺伝子を、また、病気について、知りたくない権利が、どう守られるのでしょう。溢れ返る情報の中で、弱者はどの様に守られていくのでしょう。

 私達は、到底、守られるとは思えない現実の中で、胎児の生存権、障害を持つ人の生存権、障害を持つ子どもとの生活を守るために、改めて「母体血清マーカー検査の実施を国が容認してはならない」と要望いたします。

 もう一つ、手短に。私は資料にも提出され、議事録にも出てきます、京都の裁判を傍聴しておりました。専門的なことはわかりませんが、医師の告知義務違反を争う裁判と思い推移を見守っていたのですが、途中から様子が変わり、原告の母親の尋問のところから、一体、何を争うのか、何が言いたいのか分からなくなってきて、裁判というのは、こんなに争点が曖昧でもいいのかと素人の私でも思うくらいでした。原告の父親への尋問も却下され、早々と判決が出て、控訴もせず結審しました。判決は後半からは判断しにくかった今の日本の社会状況をとてもよく見極めた上での判決で、私はとても納得した内容でしたが、何故、控訴しないのか不思議でした。その後、信濃毎日新聞の記者の取材を受け、この裁判の話になり、その記者は直接、原告である両親を取材し控訴しなかった理由を聞いて私に知らせてくれました。お母さんが子どもが可愛くなってきている、日に日に愛情が強くなっているのも控訴しなかった一因だということでした。これを聞いた時、尋問されていた時のお母さんのハッキリしない困惑した様子や、裁判が継続していかなかった理由が理解できたように思いました。

 この検査で控訴の話がよく外国の例とともにでてきますが、文化的背景が違う、外国の例を日本に当てはめて話すのは、先端医療技術の臨床応用も含めて、慎重にしていただきたいと思います。

 そして、以後の審議を傍聴させていただけますよう、重ねてお願い致します。

以上   


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