京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報


(1996年6月号 掲載)
オーストラリア報告−その1

報告:トライアングル会員京都市左京区在住 巽 純子

  -はじめに-

 今回のオーストラリア訪問は、夫が一ヶ月間ほどオーストラリアのアデレード市にあるアデレード大学に共同研究者として招待されたのを機に、子供も保育園を卒園するし、春休みをゆっくりと遊んでくるか、といった軽い気持ちでした。ところが、あるときインターネット上で世界のダウン症の会がいろいろとホームページを開設しているのを見ていましたら、オーストラリアのアデレードにオーストラリアのダウン症協会があること、第1回のアジアー太平洋ダウン症会議(Asia-Pacific Down Syndrome Conference)がオーストラリアのダーウィンで開かれたことが掲載されておりました。この記事を見て、私の見たい、聞きたい熱が出てきて、ぜひとも訪問したいと思ったのでした。インターネット上に掲載されていた会議の世話人のDr.Trumble(メルボルン、モナーシュ大学医学部、発達医学)にe-mailを送り、会って、出生前診断(スクリーニングも含めて)とそのカウンセリングについて日頃、障害者と接している医者の立場からの話を聞きたい旨を伝えましたら、快諾してもらえました。また、オーストラリアのダウン症協会(親の会)にもFAXを送って、オーストラリアの統合教育について知りたいと伝えましたら、南オーストラリア州の州立ダウン症協会(これは親の会ではなく、州の公的機関)の州立ダウン症協会の発達学習プログラムを担当している部局の局長さんを紹介してくれました。このように日本では考えられないくらいスムーズに事が運び、いろいろな人と話ができ、資料も山のようにもらってくることができました。今回は、まず統合教育についての報告を致します。
 私は、このオーストラリア訪問を経験する前は、どちらかというと育成学級派だったかもしれません。その子、その子にあった教育をきめ細かく指導してくれる小人数集団における教育の方がきっと、わが子の能力を引き出してくれるのだと思っていました。しかし、分離した障害児のみの小集団では、実際の子供社会のエネルギシュな活動が体感できません。読み、書き、算術もさることながら、将来の社会的自立を考えるなら、普通の社会を、毎日日常的に、健常児と接しながら感じ取らせることが大切なのではないかと思いました。しかしながら、日本のように(京都市だけなのかもしれませんが)、普通クラスにダウン児を入れると放りっぱなしで、何にも適切な指導が与えられないというものでは、ほんとうに困ります。その点、個人の発達に応じた学習プログラムを統合教育のに、うまく取り入れているオーストラリアの現状は、私の考えを180度変えてくれました。

           -南オーストラリア州立ダウン症協会の発達学習プログラム-

 アデレードの中心から約20分程の郊外にあるヘクタービル小学校の敷地内に、州立ダウン症協会の発達学習プログラム局の事務所はありました。そこで、私は局長のVicki Brownさんにあいました。真っ赤なマニュキュアをした元気なおばさんでした(きっと日本では、役所のスタッフが真っ赤なマニュキュアをしていたらヒンシュクものかもしれないな?でも、オーストラリアではごく自然)。
 オーストラリアの教育に関する知識ゼロの私は、まず、義務教育のシステムから教えてもらいました。オーストラリアでは、教育については各州ごとにシステムが違っているそうで、ここで把握しているのは南オーストラリア州についてのみということで、以下に述べることは全て、南オーストラリア州のものです。

プレスクール(小学校入学以前の教育をするところ)4ー5才、通常1年間
低学年用小学校:5歳の誕生日から遅くとも6歳の誕生日までに入学する。通常3年間。
高学年用小学校:12歳からおそくとも13歳までで終了する。
中学校:12歳からおそくとも13歳までには入学する。

 小学校入学が5歳の誕生日からというと、日本の感覚では奇異に感じるかもしれませんが、あとで5歳児の教室に行ってみて納得しました。日本のように全員に一斉に施す授業形態ではなく、もちろん読み方や書き方、体育、音楽の時間というのもはあるけれど、それぞれに応じたものをやらせている場合もあり、適宜、先生が指導したり、友達同士が教え合いをしたりといった具合。それで、5歳の誕生日にクラスに入ってきて、6歳の誕生日に次の学年のクラスに移っても、一向に構わないのです。
 ダウン症児の場合、もちろん0歳児からの療育がありますし幼稚園も行けますが、4歳になると普通のプレスクールに行きます。健常児と一緒の統合教育が始まります。そこで、自立した行動を促され、また集団生活に慣れたり、読み書きのごく初歩を学んだりします。ダウン症児の場合、その段階で時間がかかる子もいるので、半年から1年まで小学校への入学が猶予される場合もあるそうです。でも、遅くとも6歳までに、小学校へ進みます。小学校へ入学する際、6カ月前から十分な準備を行います。まず、受け入れるクラスの担任にダウン症児についての教育を、発達学習プログラムの障害児教育の専門家が教育をすることになります。つまり、身体的、行動的特徴、発達具合に関する知識、何を援助してやればよいのかについて総論だけでなく、個々の子供の状況についても(プレスクールでの細かいチェックリストがあり、何がどこまでできているかについて、記載されるようになっている。保育園での状況が学校側に伝えられるシステムが無い京都市と大違いで、連続的な指導が可能である。)担任教師が発達プログラムの専門家から教育を受けます。これを、担任教師が理解し、入る予定のクラスの子供たちにも、子供たちがわかるように担任教師から話をしておくそうです。(私は、しばしば、我が子のまわりの子供達から「どうして、ゆきちゃんはしゃべれないの。」とか「ゆきちゃんは、ダメと言っているのに、なんでしはんの。」とかいった質問を受ける。なかなか一言では理解してもらえないので、つい口を濁してしまう。もし、同じクラスの仲間が十分にわかってくれていれば問題が起きないのだろうが。)また、親と発達学習プログラムのスタッフおよび、担任教師の間で、その子の教育についての話し合いがもたれ、相互の意思疎通が行われるとのこと。(親の意思が十分に子供の教育に反映されるという点は大変良いと思う。)
 入学してからは、1週間に5時間、補助の人(assistant person)がつくけれども、教育は、すべて担任の教師がすることになっているそうです。補助の人は教師ではなくて、体育、遠出の学習、行事など子供の安全を確保しなければならないとき、援助が必要な学習の時につくそうです。ちなみに、低学年のクラスはほぼ22ー3人の規模で、高学年は30人が限度なのです(日本は40人学級、受け持つ子供の人数をぜひ減らしてほしいものです)。また、1学校の規模は150人から200人までだそうです。小さな学校なので、1階建てでした。(容れ物は、日本の小学校のように、鉄筋コンクリートの建物ほどりっぱではありませんでしたが、人的配置は、十分でした。担任教師以外に外国語と音楽の専門の先生がいます。日本は容れ物はりっぱにしても中身(人的配置)を充実しません。)
 ごく普通の教師がダウン症児を教育するため、担任教師を指導する際には次のことを強調しているとのこと。
 ダウン症児の発達はゆっくりしているので、健常児と同じ基準で発達を見てはいけない、細かい1つ1つの過程を見逃さないように。例えば、はさみの使い方ひとつでも、健常児は丸く切りなさいといえば、すぐにできるようになる、しかしダウン症児の場合は、いつまでたってもメチャクチャに切っているだけだと目に映るかもしれないが、よく見なさい、はさみの持ち方が最初の時とは違うはずだし、手の返し方もだんだんできてきているはずです、といった具合に。
 実際に、その教師用のダウン症児専用学習指導書(5歳児クラスでは、はさみの使い方、読み、書き、行動用がある)を見ると、実に丁寧に細かいことが絵入りでわかりやすく指導してあるのです。また、子供の能力を引き出すコツのようなことまでも。それぞれの課題に対する子供の発達具合のチェックリストも細かいのです。(日本で、こんなのあるかしら?わたしは、まだ目にしたことはありませんが。)発達のチェックリストにしたがって、担任教師は10週間に1度、報告書を書き、校長と両親に見せなければならないそうです。(担任の先生は大変!)
 発達学習プログラムのスタッフは、ダウン症児が在籍している学校に適宜巡回し、担任教師が困っていることについて、相談にのったり、ほかの問題点がないかを、見て回ります。教師用の学習資料は事務所に揃っていて、教師自身が来て、教育用のキット(絵カード、文字カード、数字カード、ゲーム類とか)を購入したり、ダウン児の教育関係の文献も揃えてありますし、相談をしていったりもできます。専門家(言語、心理、医者など)への紹介もします。(京都市立の育成学級の無い小学校に、うちの子は、この4月から通学しております。担任の先生はよくやって下さるほうだと思いますが、彼女がうちの子に適した指導をしようとして、何かそのようなダウン症児むけ学習指導書はないかと、育成学級を担任したことのある先生に聞いてたり、永松記念教育センター(京都市の教師の学習センター)に行ってみたりしても、そんなものはなかったとか。また、彼女は今まで、障害児を持ったことも無いし、専門的な知識も無いので、いろいろ相談にのってもらいたいと思っているそうですが、残念ながらそのような機関が無いとか。永松記念に相談に行けば、京都市の方針として、もともと普通学級の知識レベルに達していない子は、養護、育成へと振り分けているわけですから、当然その子に適した教育機関へ行くようにと勧められるのに決まっているということです。南オーストラリア州のように担任教師の相談機関を作って欲しいものです。この事務所は、永松記念のようなりっぱな建物ではありませんでしたが、中身は充実していました。)

-オーストラリアの障害児教育は人権意識の高まりの大きな渦に巻き込まれた-

 私は、Vickiさんに、どうして統合教育のほうがよいという方針なのですかと、と聞きましたら、彼女は、ダウン症児は、外からの色々な刺激がよい効果を生むということがわかってきたし、たとえ知恵の発達が3歳児レベルとしても、生活年齢としてはすでにいろいろと経験してきているのだから、6歳の子が3歳と同じであるわけが無い、同じ年齢集団に入れてやらなければ、その子の生活にとって十分ではない、分離しないで一緒の場で教育(決して、等質ということではなく、その子に合った教育にも配慮しながら)をすることがよいと信じているとの答えでした。南オーストラリア州では、真の統合教育を目指していて、障害児を分離したり、別にして、障害児教育用の教師が直接教えるのではなく、同じクラスの仲間と一緒に担任が教えていくという形をとっています。中学校も基本は統合教育だそうです。今では、通常の学校教育の場やその後の生活でダウン症児は”Welcome”されているそうです。
 それは、大変良いと、我々には思われるのですが、問題点もあるようです。大学で障害児教育を専攻しても、実際に障害児に接して教えることができないので、そういう教師にとっては少し、もの足らないところらしいのです。まだ、この教育体制は過渡期にあって、障害児教育教師は当然、障害児を教育しようと思って、大学に入ったのですが、卒業してみると、障害児には間接的にしか接することができない矛盾をかかえています。
 オーストラリアは、政治的にも思想的にも20数年前とかなり異なってきているらしいのです。急激な社会の変革にともなって、障害児教育体制も変貌をとげたのです。1970年代以前は白豪主義を掲げて白人優位で、原住民のアボリジニを追いやり、ヨーロッパ系以外の移民を厳しく制限するなど人権はあまり尊重されてはいませんでした。しかし、その反省にたち、1974年以降白豪主義の撤廃、人権尊重、ベトナム難民の積極的受け入れ、アボリジニへの支援など、大きな渦にまきこまれて、障害児教育も、分離教育から真の統合教育へと変わってきたのです。20数年前には、ダウン症児が生まれると生まれてすぐ施設に入れて、兄弟の子たちには、死産だったと伝えていたということを聞くと、今の状況が信じられないくらいです。そのせいか、オーストラリアダウン症協会(親の会の方)の啓蒙活動は非常にアクティブで、毎年、カラーポスターを作成し、掲載したり、企業の支援や、政府の援助資金をもらってきたりしています。
 人権意識が高い国なので、私が見学した小学校でビデオやカメラを撮ろうとすると、校長先生が待った!をかけました。親の許可を得ていないから、ダウン症児に限らず、どの子も撮影してはならないとのこと。(日本では、こんなことないだろうなと思いました。)そこで、残念ながら写真はありません。あしからず。

-アセルストン低学年小学校にて-

 小学校は、緑の森に囲まれた芝生の小高い場所にたっていました。近接して高学年小学校もあります。でも、組織は別で、校長先生が違います。入り口(門も何もない)すぐに、受け付けのおばさんがいました。そのすぐ後ろの小部屋が校長室でした。日本の小学校の校長室とは違い、ほんとに小さな部屋です。(日本の学校の校長室は広くてりっぱすぎる!うちの教授の部屋の3倍はある。)Cynthia Reddingさんというやさしそうな品の良い白髪の老婦人が校長先生でした。
 ちょうどうちの子と同年齢の子がいる教室を見学しました。私が入っていくと、声をそろえて「Good morning, Mrs. Tatsumi」とあいさつをしてくれました。机、椅子は後ろの方に押やられていて、先生を囲んで、これから行われる体育の授業についての説明を受けている途中でした。先生のすぐ横にダウン症の女の子が座っていました。教室には、日本と同じように、各種の注意事項が書いて貼ってありました。児童の作品は、日本のよりももっとはではでしく、天井からもつり下げられています。その日はプールの授業だったので、補助の人も来ていました。プールは日本のように全ての学校にあるわけではないらしく、大きな市民プール(これは、ほんとに大きかった、温水プールや普通のプール、飛び込み用プール、幼児用プール、サウナ、温泉。)へ、貸切バスで移動して授業でした。プールでは、プールにいる指導員の人も一緒に泳ぎを教えてくれていました。(日本では、各学校に1つのプールがあるけれど、夏場しか使えないし、管理も大変、無駄ではないでしょうか。そんなお金があるなら、人をつけてください。)
 ダウンちゃんもみんなにまじって、楽しそうでした。
 担任の先生は、この子は、とてもよくクラスに馴染んでいて、何の問題もない、何でも自分でできる、とても良い子です。と言っていました。(私は、わが子を普段から見知っているので、そんなのあたりまえだと思いましたが。)
 もっと、時間があれば他の子とか、色々な授業を見たりしたかったのですが、ちょっと、時間不足でした。(オーストラリアは広い!思ったより移動に時間がかかりました。)

-オーストラリアダウン症協会にて-

 翌々日、親の会であるオーストラリアダウン症協会の事務所を訪ねました。そこでの詳しい話(主に、出生前診断とカウンセリング、妊娠中絶の問題についての話をしたので)は次号に書きますが、そこで親の会の会長のPenny Robertsonさんに会いました。このかたも、えらく元気のよいおばさんで(私ももうおばさんなのですが、お世辞かどうかわかりませんが、26歳くらいに見えると言われました。思わず、にんまり)、14歳のダウン症の女の子がいるそうです。彼女は、アジアだけでなく、世界のダウン症関係の会議にも出席したり、講演をしたりもしています。
 ともかく、そこで親の会が出しているニュースレター「Down Syndrome Down Under」をもらってきましたので、一部翻訳したものを、ここに掲載します。ちなみに、ニュースレターのタイトルのDown Syndrome Down Under というのは、オーストラリアは本国のイギリスから見るとちょうど地球の反対側にあるので、「地球の反対側のダウン症」という意味になります。ダウン症の人達も生き生きと社会の中で暮らしている姿がわかります。
 統合教育は、各人の良いところを伸ばして社会に出そうという、このような将来を見据えているからこそ、自信を持って行われているのでしょう。(日本のように養護学校の中等、高等部における作業実習に偏重したものは、教育とはいえないのです。また、保育園、小学校、中学校やその上の学校の各々の教育の場では、日本の場合、その場しのぎで、次の学校に送り込めばそれでよいといったような具合で、教育の流れが断絶しています。オーストラリアのように一つの機関が連続して、障害児の教育を見守るようにして欲しいと思います。)
 そしてさらに、ニュースレターでは盛んに社会の支援と理解を呼びかけています。行動としても全国ダウン症週間で、支援や助成を募り、理解を求めています。社会の受け入れ方が変われば、当然教育の在り方も変わるし、その前の段階の出生前診断に関する感じ方も違ってくるのだなあと実感しました。

---オーストラリアダウン症協会のニュースレター「Down Syndrome Down Under」より転載---

   -ヘルパーのニッキイはローズパーク幼稚園の子供らの友人です-
 26歳のニコラ・ハーゼルは、彼女の4歳の友人達よりパズルを終えるのが、ときどき長くかかってしまいますし、書くことがうまくありませんが、ローズパーク幼稚園にやってくるや、有能なヘルパーとなります。
 トーアク街に住むニッキイ(ニコラの愛称)は、過去6年間幼稚園でボランティアとして働いています。毎週1日半、彼女は電話に出たり、おやつの用意をしたり、皿を洗ったりの手伝いや、子供達が絵を描いたり、ぬりえをしたり、ジグゾーパズルに熱中しているときの遊び相手になっています。  ニッキイはダウン症として生まれましたが、幼稚園内の本当の試練はそんなことではありません。どんなふうに子供の遊び相手をするかです。「私は子供がとっても好きです。みんなすごくかわいい。だから、とっても面白いの。」と、彼女は言っています。
 幼稚園の園長のジュリー・ブレイさんはニッキイの熱心さについて話しています。「彼女は子供にとってとても素晴しい人です。彼女はここにいるだけで良いものを得られるし、また我々も彼女から得られます。」
 ニッキイはまた週に1度づつビクトリア女王産科病院と老人のためのレストヘブンのリーブルック・デイケアセンターでボランテイアとして働いています。
 しかし、彼女のたくさんの大人の友人達がたとえどんなに彼女を賞賛しようとも、ニッキイの一番大きなファンは一番小さい人達です。「ニッキイの歌が一番うまいよ。」と幼稚園児のジャックは言っています。「ニッキイはパズルが一番うまいと思うよ。」とテッドが付け加えました。

幼稚園のヘルパー、ニッキイと幼稚園児の友人達、クライアー、テイラー、アグリサリ、スザンヌ、エミリ、ジャック、サム、ティム、サラ。(左)
 


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