京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報
(1996年6月号 掲載)
『共に生きる明日−生命を選べますか』(NHK教育)を観て
島崎 明子
「いまどき障害児の母親物語」(ぶどう社)という本は、とてもいい本だった。“障害のある子を育てている”というりきみが、ど〜してもすぐ前に出てきてしまいそうになる私には、とりわけ「ハイ、もっと肩の力を抜いてエ」と言ってくれている気のしたステキな本だった。中でも一番良かったのは、障害のある女の子を2人育てている女性が、「この子たちのいることは、自然なことなのです」と何度か語っておられるところだ。「そう、そうなんや!」思わず叫んでしまったワタシ。健常な子が“自然”で、ダウン症児やその他いろんな障害を持つ子が産まれてくることが“不自然”なのじゃない。いろんな子が生まれてくることが“自然”なのだ。そうなのだ、自然というのは、そんなに人間の目先の都合のいいことばかりじゃないんだ!
そんなふうにいろいろ思っていたところに4月29日、1:00pm〜、NHK教育放送で「共に生きる明日−生命を選べますか」の再放送を観た。倫理でもなく、論理でもなく、「お金」のために、充分な論議もつくされないまま、又、日本は恐ろしい選択をしようとしている−−というが第一印象だった。今までダウン症児を持つ親、高齢出産者など、ごく一部の人のみを対象に、アンダーグラウンド的に行われていた出生前診断が、『トリプルマーカ』という検査薬の出現によって、全ての妊婦を対象になされようとしているというのだ。検査費用10,000円以上。検査薬会社の企画部長だったかが、「町の産婦人科医にとっては、てっとり早いメシのタネになりますよ」と言っていた。そうだろう、血友病患者に非加熱製剤を使い続けることが、誰かの金もうけのためには必要だったと同じように!
番組は良心的に作られていた。元気に普通学級に通うダウンちゃんの一家を紹介しながら、「この子たちは明るく、元気に、ちゃんと生きているじゃないか。最初っから存在を否定されるような子たちじゃない」と呼びかけていた。にもかかわらず、日本が選びとろうとしている方向、そして何人かの発言者の意見は、見終わったあとも長く長く腹立たしさを残した。「障害を持って生まれてきた子は負の存在なのか! 生まれなかった方がよかった子たちなのか!」くり返しくり返し、くやしさがこみ上げてくる。
我が家の次女みゆきは只今3才3ケ月。彼女がど〜んなにかわいいか、やんちゃしようとする時の瞳がどんなにキラキラ輝くか、周りの人のちょっとした不用意な言葉や行為に、どんなに傷つくか・・。そして、私自身の人生も、彼女と共に生きることで、どんなに豊かに輝きだしたか・・(そりゃあ、疲れる時もありますが)。彼女が生まれてから、たくさんの障害を持って生まれてきた子たちとの出会いがありました。寝たっきりのYちゃんがプールに入るとどんなにうれしそうな顔するか、ずりばいで寄ってきて「だっこして」と言いたげなNちゃんの甘えた顔のかわいいこと・・・。
この子たちは断じて「いない方がよかった子」なんかじゃない! 競争、競争の世の中、経済効率ばかりが優先され、「もっと早く、もっと多く、もっと正確に」ばかりを求められてきた日本は今、まるで高速道路を猛スピードで走ることをみんなに要求しているようです。しかも、サービスエリアもトイレさえもない高速道路を。そういうものの対極にいるのが障害のある子たちだという気がします。彼らはたしかに強くはないかもしれません。優しい目差しが、暖かい根気強い手助けがなければ、何でも一人でやってのけることはむつかしいかもしれません。でも、だからこそ、猛スピードで走ってばかりでは分からない“生きる”ということの意味を、“生命”というもののありようを、立ち止まって考えさせてくれる存在だという気がします。
このままの方向で、時代が進んで(???!)、ダウン症児や、いくつもいくつもの障害を持った子が生まれない社会になったとしたら、日本はますます競争と経済効率ばかりを追いかける、人間らしさを否定しなければ生きてゆけない、“豊かさ”とはほど遠い社会になるに違いないという気がします。
オーストラリアから戻ったばかりの巽さんは「オーストラリアでは、全ての妊婦に対してスクリーニングが行われているけれど、ダウン症だと分かって中絶する人は2%」と言ってました。社会的な環境が整っているオーストラリアでは、残りの98%の人は胎児がダウン症だと分かっても産むというのです。
「障害を持って生まれてきたことが不幸なのではなく、障害を持って生まれてきたことを不幸としか思えない日本の社会が不幸なのだ」と玉井真理子さんが書いていたのは『てのひらのなかの命』(ゆみる出版)の中だったでしょうか。
日本だって「トリプルマーカー」を紹介する前に、もっともっと障害のある人の暮らし易い条件を整えることの方が先のはずです。オーストラリアのように、ダウン症であることが分かってもなお、ほとんどの人が産む決心のできる日がきたら、番組の中で言われていた「妊婦の知る権利」も「選ぶ権利」もすなおにうなづけるようになると思いますが、今の日本の状況でその言葉を聞いた時、「ちがう!」と思ったの、私だけじゃなかったと思います。
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