京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報


(2001年8月号 掲載)

立命館大学社会学研究科中根成寿さんの

連続講座 その2 合宿編


 トライアングルのみなさま、こんにちは。中根成寿と申します。前回の会報から連投になりますが、みなさまどうぞおつきあいくださいませ。

 去る9月8日、9日と恒例合宿に単身参加させていただきました。僕自身、2度目の参加となりまして、親御さんと子どもたちの顔と名前もほぼ完全に一致しまして、昨年よりかはだいぶ力を抜いて参加することができました。敬称が「中根さん」から「中根先生」に変わっていたのはちょいとびっくりしましたが、トライアングルのみなさまは「先生」という言葉に、実にいろいろな意味合いを込めていらっしゃるので、複雑な心境でもありましたけど…。

 この合宿では、ボラさんたちが子どもたちの遊び相手をしてくださるので、僕も親御さんたちとまとまった話ができる数少ない機会です。特にお父さんたちには、野外で夕食の準備をしながらたわいのない話をしつつも、僕なりにたくさん考えさせられる言葉をいただきました。

 夜の懇談会では、僭越かと思いながらも少し突っ込んだ話をさせていただきました。今年のキーワードは「主語は私」でした。

ボラさんに一言
 まずはボラさんに、この言葉を投げかけました。少し補足します。僕自身も学部の時には、ボランティアの経験があります。ただ僕の場合は、どうしてもボランティアが長続きしませんでした。ボランティアに参加した後はたいていへこんでいました。それはおそらく「ボランティアという行為が成り立ってしまう関係の孕むもの」にうっすらと気付いていたからだと思います。ともすれば、福祉やボランティアには無条件の賞賛が向けられます。この賞賛は24時間テレビで毎年繰り返される光景ともつながっています(24時間テレビが好きな人いたらごめんなさい)。

 福祉やボランティアに無条件の賞賛が向けられる影には、「弱者」や「我々」といった聞き慣れてはいるけど、どこかおかしい言葉が隠れています。それは「関係の歪み」を無視して、立場の固定化を行っているからです。社会学の考え方では、「アイデンティティ」や「属性」というのは、カテゴリ間の関係でしか成立しないことになっています(国籍、人種、健康状態、性別等)。その中では「私」という主語は限りなく縮小されていく傾向があります。

 話がやや抽象的になりました。整理します。これから大学で学ぶ際、ボランティアにに参加する際、なにかしらの感情が生じたら絶対にそれから逃げないでください。自分への嫌悪感、相手への「異」和感、ボランティアという行為そのものへの疑問…それが生じたときに、大きな主語でその感情を封じ込めないでください。常に「私は」で始まる疑問を友人や自分と話し合ってください。おそらく自分でもびっくりするような強烈な言葉や、言うのがはばかられるような感情がでてくるはずです。でもそれから逃げないでください。そこから逃げることが、不平等な関係の再生産につながります。自分や相手との関係を問うことを常に行ってください。その時の主語はいつも「私」であってください。

 あと、せっかくの合宿の夜なのだからいつもは話せない親御さんたちと話してはどうでしょうか。自分の担当した子どものことや、親御さんの子どもに対する気持ちを聴くことは、子どもたちと接しているだけでは見えてこないものに気付くきっかけになるかもしれませんよ。特に1,2回生のボラさんを見ていてそう思いました。

 いつも伊藤先生がおっしゃることようなことを代弁させていただきました。ボラさん必読文献として、岡原正幸『ホモ・アフェクトス−感情社会学的に自己表現する』世界思想社、p230「生理的嫌悪感」の項参照。

親の会について
 もうひとつ、今回の合宿の中で繰り返し行われてきた問いとして「親の会の目的とは何か」、「親の会への参加メンバーの固定化」というものがあります。これは千葉で親の会を育てていらっしゃる下鳥さんの抱えた疑問とも直接つながる問いでもあります。この問い自体に今の僕が答えることはできません。だから現段階で思っていることを書きます。

 僕は親の会を含め、あらゆる当事者団体(セルフ・ヘルプ・グループ)の目的は、「参加者が生きやすい関係や状態を生み出す」ことだと思っています。トライアングルでいえば、「親が生きやすい関係や状態をみんなで探す」ことだと思います。僕が昨年みなさんから話を聞き、まとめた論文の中の基本的な主張として、「障害を持った子とその親は全く別の存在であり、時として利害関係にすらある」というものがあります。極端な話、子どものためにがんばることが子どもを抑圧し、親自身も苦しめるというケースすら存在すると言うことです。だから、親の会の第一の目的とは「子どものためにがんばる」ことでもなく、「子どもの権利を社会に訴えていくこと」でもなく「親自身が自分の生きやすいような生き方を一緒に考えてくれること」ではないかと思い始めています。

 ある人から見れば、すごく消極的で自分勝手な目的だと思われるかもしれません。でも「子どものために」や「子どもの権利」という時の主語は、子どもであって親ではない。主語が私でなくなっていると、何か大事なものまで隠蔽してしまう可能性を抱えているのだと思います。「私の悩み」や「私の問題」を共有し、自分の言葉で話し、それを一緒に考えてくれるのが親の会の、当事者組織の目的であると思います。

 これは私見ですが、こういった役割は家族には限界があると考えています。確かに家族は支え合い、助け合っていくことは良いことです。うまくいっている家族があることも間違いありません。ただ、家族は万能ではありません。家族は一心同体ではなく、個々の構成員の微妙なバランスの上に成り立っている非常に繊細な関係なのです。だから、家族の中で起こった問題を家族の中だけで解決することは非常に難しくなってきています。家族であるからできることもあります。でも実際は家族であるからできないことの方が、意外と多いのではないかと思います。

 やはり家族は特別な関係です。だからいったん家族の問題がこじれると問題は果てしなく広がってしまいます。家族構成員すべての人生全部に問題が影響を与えます。にもかかわらず、家族の内部だけでは解決できない問題がほとんどです。家庭内の暴力(児童虐待、夫婦間暴力)や介護(老親介護、高齢介護)などの問題は、家族の中で起こっているからこそ、根が深いのです。

 話が少しそれました。整理しましょう。親の会の目的とは「親である私が、親としてまた自分自身として生きやすい関係や状況を一緒に考えてくれる場所」であると思います。それは、子どもの成長を喜び合ったり、専門家に対する愚痴をこぼしたり、自分の子どもの将来を想像して不安になってしまったりする気持ちを理解してくれる場所ではないかと思います。

 だから僕は親の会が政治的な活動を行うことは、二の次だと思っています。確かに子どもの存在を世に訴えかけ、よりよい制度や権利を獲得することは大事なことです。でも親の会に参加する人たちは、障害を持った子の親になった時から、社会がいかにデコボコしていて、頑固であるかを経験してきたはずです。そのたびに幻滅したり、奮い立ったりしてきたとも思います。だけど、だけどですよ、親の会だけはそういう闘争の政治とは無関係であってもいいのではないかと思っています。みんなそれぞれ疲れている。子どもの存在を否定しかねないような決定的な迷いがあったりする。親の会はそれを許せる場所であっていいと思います。

 社会に訴えかけると言うことは、主語は私ではなくなります。迷いを否定することは、私の感情を押し殺すことになります。親の会の中で交わされた言葉が、そのまま社会の言葉になることはまずないでしょう。社会に流通していく言葉というものは、そこそこ角が取れていて、誰にでも受け入れられやすいものでないと、社会の存在そのものを揺るがしかねないものになってしまいます。ただ、社会の言葉では絶対に表現しきれないものも、この社会には存在しています。親の会がその言葉を見つけられる場所である良いなと思っています。僕の興味も、社会の言葉では絶対に掬い上げられないものを表現できる言葉をもっと知りたい、教えてほしいという点にあります。


 非常に駆け足でしたが、僕なりにこの合宿で感じたことを書いてみました。親の会の参加メンバーの固定化については、もう少し時間をください。まだよくわからないのです。ただ、今日書いていたような「親の会の目的とはなにか」という問いとつながっているような気がしています。

 個々に書いてあることは、昨年から親の会で話をしながら漠然と考えてきたことでもあります。今回の合宿でいろいろな親御さんから「雰囲気変わったね」「落ち着きが出てきた」というお褒めの言葉をいただきました。大学に戻れば、厳しい指導教員にきついことを言われへこむ毎日ですが、もし僕が成長したならば、それはみなさんの協力のおかげで自分の迷いや疑問に少しずつ言葉を与えていけているのだと思っています。 今後ともよろしくお願いしますね。では次の機会に。

立命館大学産業社会学部助手
   中根成寿(なかねなるひさ)


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