京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報


(2002年10月号 掲載)
「家族のこと、障害のこと、社会のこと」

〜今年の合宿で学んだこと〜

立命館大学社会学研究科  中根成寿

 トライアングルの皆様、こんにちは。今回も文章を寄せさせていただきます。今回は、京北町で行われた合宿の中で僕が話したこと、感じたこと、聞いたことの中から書いてみようと思います。今回の合宿では、いくつかの名言が飛び出しました。

 今回で、僕が合宿に参加するのも3回目です。ということは、トライアングルとのおつきあいももう3年を超えた、ということですね。最初の目的も忘れてしまうくらい、トライアングルにきて、親御さんとお話をすることが非常におもしろくなってしまいました。

 今回の合宿で、「社会学とはどんな学問なのですか?」とあるお父さんから質問をうけました。僕がいつも使う説明ですが、「極端に言えば、心理学とは正反対にある学問です」と答えました。(もちろん、心理学にもいろいろな学派や方法があり、必ずしもすべてに当てはまるわけではないことをお断りしておきます)ある問題や事象の原因を、個人の内部に求めるのが、心理学的アプローチ、個人と社会や環境に求めるのが社会学的アプローチです。ですから、社会学は個人の内部には直接介入せず、その人と集団の関係、その人とグループの関係をちょっと変えたりして、問いを進めていきます。医療が発達し、「人間科学」が優勢を極める近代社会だからこそ、関係やつながりへの視点が重要になっていきます。僕が最初にトライアングルという親の会にきたのも、ここに人と人、家族と家族のつながりがあるからだと思います。それと、障害をもつ子の親にしか見えない社会の形とはなんだろう、障害をもつ子どもの親になるってどんなことだろう、という問の答えの手がかりがほしくて僕はトライアングルと関わっています。

 今回の合宿での名言その1は、あるお父さんの「マイカーと乗り合いバス」の話です。マイカーが家族の夢と言われた時代から数十年たちましたが、それとはちょっと違う角度から話してみます。
 現代ほど、「家族」が強調される時代は未だかつてありませんでした。テレビの番組覧を見ても、「家族会議を開こう!」や「家族で笑ってますか…?」という家族を強調した番組が定期的に見られます。

 (ちょっと脱線ですが、「家族で笑ってますか…?」は今年の日本テレビの24時間テレビの統一テーマです。ちなみに昨年は、「家族って何?」でした。ちなみに1991年までのテーマの中に数多く登場するのは、「お年寄り」「障害者」「アジア・アフリカ」です。1991年以降はこの3つの言葉はいっさい登場しません。経済がすべて、だとは思いませんが、目線が外から内側へ向いてきたのはどうやら間違いなさそうです。テレビは世相を映すとはよく言ったものです。)

 不況の影響もあるのでしょう、自由経済の価値観が社会全体を浸していく中で、家族はその最後の砦、のように言われます。個人主義の時代、と最近ではあんまり言われなくなりましたが、フランスの社会史学者フリップ・アリエスは、「勝利したのは個人ではなく、家族なのだ」と明確に予言していました。

 家族の愛情や暖かさが強調されます。その一方で家族の敷居が高くなり、家族の純化がすすみました。よそのおうちの子どもがしかれなくなった、というのもその一例です。家族は崩壊どころか、その凝集力を増し、家族成員同士の距離は遠ざかるよりも近づいていっていると言えるでしょう。これをあるお父さんの言葉を借りて「家族のマイカー化」と名付けましょう。

   マイカーは家族ごとに仕切られた密室です。確かに調子のよいときは居心地がよいし、目的地にも一直線にいける。ただ、何か問題が起こったときは、家族成員の距離が近すぎて何が問題かを突き止めるのにも一苦労…。児童虐待、高齢者介護、DV(夫婦間暴力)、アルコール依存症、引きこもり、不登校…など、現在、社会病理学の教科書に載っているテーマの多くは密室化した家族の中で起こります。これらの問題を改善するためには、どうしても家族の外からの働きかけが必要になります。

 なぜなら、これらの問題が起こっている家族は、「よい家族、よい親、よい子ども」を演じようとしている場合が非常に多いからです。何か問題があった場合に、「親の愛情が足りない」「家族の絆が切れている」と言われてしまう「家族のマイカー化」が進んだ社会です。だから、何か問題があるたびに、当事者の家族も「わたしがもっとかんばらなければ!」とよい家族を作り上げようとします。それがよけいに問題をこじらせます。

 この場合、ひょっとしたら必要なのは「家族の限界を認めること」なのかもしれません。一つの家族ができることには限界があり、無理をしすぎると家族全体が疲れてしまいます。「私ががんばったらなんとかなる」ではなくて、「私一人でやれることには限界があるから、周りの人、協力して」と言えることが必要となるのではないかでしょうか。

 そこで登場するのが、「乗り合いバス」です。自分たちの家族以外のメンバーも乗っています。ボランティアさんも乗っています。何が目的は自分でもよくわかっていないような未熟な研究者の卵も乗っています。自分が行きたい場所まで行ってくれるわけではありません。自分の目的地へ最短距離で向かうとは限りません。途中から乗ってくる人もいるだろうし、途中で降りる人もいます。それが「乗り合いバス」=当事者集団だと思います。たまたま縁があって乗り合わせたけど、それぞれが生きてきた背景も違う。今抱えている悩みや問題も異なる。長く乗っている人は新しく乗ってきた人にいままでの経験を話し、もっている情報を話す。新しく乗ってきた人は、長く乗って生きている人を見ることで、不安な将来にぼんやりだけどイメージを持つことができる…。つきあいにくい人も乗っているかもしれない、自分とは意見が異なる人がいるかもしれない。でもそれがマイカーとは違う選択肢を提供してくれるかもしれない。つながることの最大のメリットだと思います。

 そして名言その2です。あるボラさんの言葉です。「子どもの相手をしているときに、親の目線を気にしてしまう自分に気づいた。果たして自分はちゃんとできているのだろうか?」というものです。すばらしい言葉だと思います。昨年から僕が繰り返し話してきた「主語は私」のよいお手本です。子どもと時間を過ごす中で自分にわき上がった感情を言語化する、これは非常に必要なことです。もっとよいのは、車座になってボラさん同士でこれを行うともっとよいと思います。自分一人ではわき上がった感情や違和感に言葉を与えられなかったとしても、それを聞いてくれた人が同じような経験をしているかもしれない。そこでその言葉にできなかった感情に言葉を与えられるかもしれない。これも「乗り合いバス=当事者集団」だからできることだと思います。

 そしてこのボラさんの言葉を聞いて、僕自身も気づいたことがありました。おそらく親御さんはボラさんに親の役割をしてほしいのではないんだろうな、ということです。いくらがんばっても立場が違うのだから、同じ役割なんて担えるわけはないんです。これは僕にも同じことが言えます。いくら親に共感しても決して同じ立場には立てないんです。さらに言うなら、親だって子どもの立場には立てないんです。だからあくまで、ボランティアとして、社会学するものとして、親として、それぞれの当事者と関わっていくしかないんです。相手を不快にさせたりすることもあるでしょう。でもいいんです。なぜ相手が不快になったか、という問いから逃げたりさえしなければ、その感情の摩擦から逃げたりさえしなければ、その摩擦もきっとなにか新しい知見を与えてくれると思います。

 子どもからしてみれば、ボラさんは親と違いわがままを聞いてくれる人かもしれないし、逆に親ならいつも読みとってくれる要求がうまく伝わらない人なのかもしれない。大事なのは「いつもと違う」ということだと思います。子どもに「いつもとちがうな」と思わせたらそれは一つの成功なのではないでしょうか。これもマイカーじゃなくて乗り合いバスのよいところですね。

 今回はここまでです。抽象的な文章で申し訳ありません。よく言われることですが、社会学は問題解決能力が乏しい学問だ、と言われます。難しい概念をこねくり回して、抽象的な表現で事象を説明しはするけれども、「で、どうしたらいいの?」の問いにものすごく弱いのです。医学や心理学の自然科学系の学問は「問題発見→原因究明→治療介入」のプロセスがはっきりと確立されています。だから「役に立つランキング」では社会学よりも遙かに上にランキングされているんですね。(誰がつけたランキングかはわかりませんけど…)

 合宿で「いつも読んでいますよ」の声をかけていただいた皆様、ありがとうございます。これからもより具体的に、読んで楽しい文章を書いていけたらと思います。 。

中根成寿(naruhisa@pob.org
お手紙の場合は事務局までお願いします。


会報No.102のindexへもどる
会報バックナンバーのindexへもどる

homeへもどる