京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報


(2004年10月号 掲載)
「家族のこと、障害のこと、社会のこと」
−最近はこんなこと考えていました−

立命館大学社会学研究科  中根成寿

 トライアングルの皆様、こんにちは。今回の合宿にも参加させて頂きました、中根と申します。昔はボラさんと見分けがつかないと言われていた僕もいつしか、父親たちの集団の中にすっかりとけ込んでしまい、うれしいやらちょっとだけ切ないやら…。今回の合宿のキーワードは「自己責任」でした。大きな壁の前で悩む親御さんたちの話から話させて頂きます。

5歳の選択
 夜に行われた親たちの懇談会では、例年になく「5歳の選択」問題が活発に話し合われました。つまり学校選び、の選択です。地域の学校か、養護学校かという、親が社会の存在を肌で感じる瞬間です。僕もこれまで何人もの親御さんからこの選択にまつわるエピソードをお聞きしました。どちらがいい、という答えを僕はもっていません。一つだけ言えるのは、地域の学校ではきっとたくさんの「摩擦」がおこるだろう、ということです。この「摩擦」を僕はとてもいい意味で使っています。親も子も、これまで経験したことのない他者のむき出しの気持ち、素直な疑問、失礼な優しさなどにふれることになるでしょう。おそらくそれは養護学校に行くよりも遙かに多く、家族の前に現れてくるでしょう。この大きな選択の答えが出るのは、子どもが高校を卒業するくらいだと思います。学校が終わり、さてどうしよう、思ったときに支援費制度以外の選択肢がどれくらい周りにあるか、ということではないかと思います。地域の学校に行くことで得られた人との繋がりが日中活動に結びつくかも知れません。養護学校にいくことで得られたスキルが就業に結びつくかも知れません。答えは誰にもわからないのです。

 ただひと言だけ、この問題は「自己責任」などという品のない論理が当てはまらない領域であることだけは言わせてください。日本社会がいつからこんなに「自己責任」という言葉が好きになったのか僕には疑問です。自己責任論は、せいぜい市場原理の領域で貫徹していただいておいて欲しいものです(ところが現実は…福祉も医療も教育も全部自己責任!)。学校の選択が親の「自己責任」だという人に出会うかもしれません。そんな人に出会ったら「いーえ、親だけではなくて、学校にも先生にも子どもにも同級生にも、みんなに責任を背負ってもらいます!違う人間と同じ社会で暮らすって言うのはそういうことでしょ?」と言いましょう。自己責任の強調は、個人と個人の繋がりを切断し、連帯を弱くさせます。自己責任論がはびこる社会は、他者への想像力を貧弱にさせ、自分や家族の生活を守ることだけに目が向きがちです。自己責任を強調する人には警報を発令しましょう。「私らがいるやん、なんとかなるって」と言ってくれる人に甘えましょう。


 この自己責任論が日本を揺るがしたのが、ご存じのイラク人質事件です。意図的な情報操作があったとはいえ、この国に急速に浸透しつつある「新自由主義」をひしひしと感じました。同居人が年の半分を海外で暮らす、しかもお世辞にも治安がいいとは言えない国ですので、とても人ごととは思えませんでした。何かあったら人質家族としてテレビ出演しないと行けないのかな、どんなコメントをしたらメディアに好意的に描いてもらえるかな、などと真剣に話し合ったりもしました(ここ笑うところです)。「新自由主義」は社会が責任を取るべき領域まで、個人の責任に押しつけてきます。老いや障害は個人の責任ではなく、それに対応できる社会の仕組みを作ることが当然です。個人がとれない責任は、社会が責任を取るのが当然です。

 しかし、毎日毎日、責任や自由や権利、という堅苦しい言葉を考えていては楽しくありません。子どもを通じて広がった社会と緩やかに繋がりながら、「いまここ」に流れる時間、「いまここ」にある現実を楽しく恙なく過ごすという考えも必要だと思います。この「恙なく過ごす」ということについてはまた次の機会にお話しさせてください。

 毎年行われる合宿、新しい家族、新しいボラさんと出会うたびに、そして年々確実に成長していく子ども、家族を見るたびにうれしい気持ちを覚えます。この合宿に関わった皆さん、そして今年はこられなかった皆さん、また来年お会いしましょう!
 松谷さん、霜中さんのアウトドアに強いお父さん方に今年は完全におんぶにだっこ、だったことをちょっと反省しております…来年も甘えちゃっていいですか?

中根成寿(naruhisa@pob.org


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