中根成寿 著 『知的障害者家族の臨床社会学−社会と家族でケアを分有するために』 (明石書店 2006年) 京都府立大学福祉社会学部 中根成寿 ダウン症児のことを勉強しよう。そう思ったのは大学を卒業してすぐのことでした。でも「ダウン症児のこと」ってなんだろう。発達のこと?教育のこと?制度のこと?それともちょうどそのころ話題になっていた出生前診断のこと? たくさん本を読んではみたものの、「ダウン症児の〜」と書いてある本には、あまり興味を引かれませんでした。 なぜ興味を引かれなかったのか、それがようやく今になってはっきりわかります。@「ダウン症児の〜」系の本は、ダウン症という医学的な障害をもつ個人ばっかりみている。A「ダウン症児の〜」系の本は、「点としての時間」のことを中心に書いてあり、「線としての時間」があまり書かれていない、からです。 障害児個人に注目するよりも、ちょっとカメラを引いて、一所に生活している家族や親、兄弟に焦点を当てよう。障害児個人だけに注目するよりも、家族や社会との関係に注目しよう…。そんなことを考えているときに、トライアングルの存在を知りました。幾人かの親御さんに話を聞くうちに、自分が考えていたことがだんだんとかたちを成していくような経験をしました。例えるなら、ただの丸太の棒でしかなかった僕の思考素材が、親御さんたちの言葉によって削られ、仏像になっていく感じでしょうか。この本は、そんな風にしてできあがった本です。 この本に書いてあることは、実はとても歯切れが悪いことです。1990年代頃から日本の福祉は「社会福祉基礎構造改革」という方針を進めています。その中の方針の一つに「家族依存型福祉から地域での社会福祉へ」というものがあります。日本はケアを必要とする人を施設と家族に閉じこめてきたから、施設を減らして、家族からも自立させよう、という考えです。確かに、これは理念としては絶対的に正しい。方向性としても正しい…はずです。 しかし、親御さんの話を聞いているうちにこの理念がいかに乱暴で不安なものか、ということに気づきました。子どもの時から身体を精一杯使ってケアをしてきた親と子の間には、一所独特の「身体感覚」が生まれるのです。障害をもつ子とそうでない子の間には、身体の距離、精神的な距離に大きな差が生まれます。これは父親、母親関係なく形成されます。この身体感覚、本の中では「ケアへ向かう力」と名付けられています。この感覚を持った親は制度の一方的な「家族・施設から地域へ」という方向性に違和感を感じます。「子どもや家族を一方的に追い出した社会をそんなにすぐに信用できない」のです。 でも、子どもも成長し、親も年老いていきます。「線としての時間」が流れていきます。「親を続けたい」「子どもを誰かにゆだねて死にたい」この二つのジレンマを解消するには…やはり社会を信頼できる存在に育てないといけません。それは政治の仕事であり、家族の仕事であり、社会の仕事です。 その仕事のことをこの本では「ケアの社会的分有」と整理しました。つまり、家族だけがするのでも、社会にまるごとゆだねてしまうのでもなく、社会(制度)も、親も、本人も、ボランティアも、兄弟も、どこか一カ所に過度に負担をかけずに、関係を大切にしながら、一所に年齢を重ねていけるシステムです。そのためには、きっと税金とその分け方、働き方、家族のあり方、学校、企業など、全てを包括的に考えないといけないでしょう。 でもここまでできれば、きっと障害児、障害者個人や家族だけでなく、高齢の親を介護する人、シングルペアレント、育児がうまくいかなくて悩んでいる人、仕事をつづけるのが苦手な人、その家族にも、この「ケアの社会的分有」という考えは役立つはずです。僕が障害をもつ子どもとその家族から学んだことは、家族だけに強い負担をかけすぎた日本の社会の弱点だったのです。 自分の大好きな人が長生きすることを素直に喜べる、そんな当たり前の社会に今はなっているでしょうか。社会全体が回るスピードが急速に速くなり、多くの人が遠心力ではじき飛ばされているような気がします。みんなが同じスピードで走るなんて無茶だし、はじき飛ばされても生きていけるのが「あたりまえ」です。 この本は、こんなことがとても難しい言葉で書かれていますが、根っこにあるのは親たちからもらった言葉です。今後も、家族から障害や社会を考えていこうと思います。 |