http://web.kyoto-inet.or.jp/people/angle-3/Oct97-9.html
triangle-Oct97-講演
京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報
(1997年10月号 掲載)
講 演
「障害をもつ子どもたちの素敵な親になるために」(後編)
−谷口明広さんの講演のテープおこし−
自立心を育んでいくために為すべきことをレジメに5つ上げています。
まず、「愛することと過保護とは違う」ということ。
「過保護にしてはいけませんよ」とよく言われますが、これを勘違いして、かわいがってはいけないと思ってしまうお母さんがいるのです。これは違いますね。「甘やかしてはいけない」とよく言いますが、かわいがってはいけないと思うのです。それをいつまでにするかの問題です。子どもが40才になって、お母さんが65才で甘えてきたら、メチャメチャ気持ち悪いですね。皆さんのお子さんは小さいですから性の問題なんて、まだあまり出てこないですよね。特に小学校では、まだ性の問題は出てこないですね。中学のお子さんは、ちょっとするかもしれません。お母さんの中には、障害をもっている子どもだから大丈夫だと思ってしまう方が多いようです。高校生になってても、お母さんのオッパイをさわらせたり、寝る時にオッパイをさわってないとねれない子どもがいたり、お母さんがことわると、おばあさんの所に行って、おばあちゃんから悩み事の相談を受けたことがあります。それをどこで止めるかの問題なのです。
それとリスクを冒す自由を与えてあげてください。これは子どもたちにも冒険をさせてあげて下さいということです。なんでもお母さんがかわりにすると、子どもはいつまでたっても自立心が出てこないのです。例えば、「向こうのスーパーマーケットまでアイスクリームを買いに行くから、おこずかいをちょうだい」と子どもが言ったとたんに、「交差点2つも渡らなあかん、あぶないから行かなくていい」、それだけでいいのに、「お父ちゃんに聞いてみなさい」ということで、お父ちゃんは「おまえ行くんやったら、ワシこずかいやらへんワ」と言う。これで、ころばぬ先の杖が2本です。おばあちゃんは「おまえ一人でいかすのはアレやから、わたしがついていく」これで3本、おじいちゃんは「おまえが行くなら、ワシを殺してからにしてくれ」これで4本、こんなん10本くらいすぐです。10本の杖をたてられてみて下さい、こけられませんよ。やはり人間こけないと、おぼえないですよね。
失敗しないといけない、これはむずかしいですね。知的障害の子どもに失敗を失敗だと思わせるようにもっていかないとダメなのです。わりと皆さん逆でしょう? 失敗しても、お母さん達がみんなカバーして、「失敗と違うのよ−」と言います。失敗の時は失敗だと言ってあげる必要があると思います。それが命にかかわるような失敗はダメですよ。「この子、一回崖から落ちないとわからない」それはいけません。それ以外のちょっとヒザにケガするくらいの失敗は別にいいではないですか。それができるか、できないかによって、違うのではないかなと思います。
「おこるという意味(親の感情のみで叱っていませんか?)」
これはよくあります。お母さん方は自分の子ども達のお名前を一日に何回呼んでいますか? 10回ですまないんじゃないでしょうか。私が昔住んでいた家の3軒となりに知的障害のお子さんが住んでいたのです。その子が「はじめちゃん」という名前のお子さんで、それで1日中、お母さんが「はじめ−」と呼んでいたわけです。そうしたら、ちょうど真ん中の家に九官鳥がいまして、この九官鳥が覚えました。九官鳥が「はじめ−」って言うんです。それくらい呼んでいるということです。お母さん達、心あたりがあると思います。呼ぶのは別にいいと思います。お母さんに一回、ためしてもらったことがあります。おこらないで下さい。子どもが何をしても、ふすま1枚くらいボロボロになってもいいから、1ケ月怒らずに我慢して下さい。「素敵な親になるための講座」で皆に約束して、試してもらったのです。そうしたら、お母さん、3日目で禁断症状が出てきて、耐えられないのです。それでも何とか1週間ガマンしたお母さんがいました。知的障害の重度な子で今までに悪いことばかりしてあばれていたお子さんが、1週間目くらいで「なんでかな?」と思ったらしいです。「お母さん何か変わったわ」と思って、それからお子さんが少し変わり、2週間、3週間とたつうちに、子どもが落ちついてきたと言うのです。
お母さんが、障害をもっていない子どもを怒るのと同じくらい怒るのはいいのですが、知的障害、身体障害をもっている子は怒られやすいのです。近くにいるから、すぐ怒られる。僕のお母さんが弟に僕と同じくらい怒っていたら、弟はもっとえらいヤツになってます。「なんで僕ばっかり怒るのかなぁ」って子どもごころに思ったことがあります。母は今だに言います、「お前の方がしゃべりやすいし、おこりやすい」。私一回言ったことがあります。「将来、弟に面倒を見てもらおうと思っているから、怒れへんのと違うか、僕には面倒を見てもらおうと思ってないから、怒れるのと違うか」と。怒るということも大事です。けど、うちのおふくろを見てても、なんでおこってるのやろ−、おこるためにおこっているのと違うかと思う時があります。お父ちゃんへのいかりがこっちにとんで来たりね。
怒るということを、1週間辛抱してみて下さい。今、やってみようと思われるお母さん、多いと思います。でも、禁断症状が出ますよ。こんな時に、お父さんが協力してくれるのとくれないのとでは、ずい分違ってきます。今日はお父さんは一人も来られてないのですか。これ、いつでもいかんと言っています。お父さも半分責任がある。「おやじも出てこいよ!」といつも言うんです。本当は、お父さんだけの集まりをやりましょうよって言っているのです。他の所で1回したことがあります。お父さん達は子どもの障害について、本当に知りませんね。だから、一から叩きなおさないとあかんと思っているんです。
「子どもの障害を理解していますか」
レジメに書いてありますが、「子どもの重度自慢をしていませんか」。障害をもっている方々のお母さん達が集まりますと、こういう話にすぐなってしまうんですね。「イヤ−、うちの子はこれもできないし、あれもできないし、おたくはこれもできるし、あれもできるし、いいよね」逆に、そのお母さんは「そんなこと言うけど、うちの子はこれもできないし、あれもできない」そうして話しているお母さんの横で子どもが聞いていると、「僕はなんにも出来ないのと違うだろうか」と思ってくるのです。同じ障害の方々が集まっている場合はいいのですが、違う団体と一緒になるとこういう状態が露骨に出てきます。「うちの子は歩けないけど、おたくの子は歩けるからいいよね」とか、そういう話になってくると、まとまりがつかないのです。私は今、宝塚の方でいろんな障害者の団体の方が同じテーブルに集まって障害者支援センターというのを作っていく計画の相談役になっていまして、一番最初にお約束したのは、「このテーブルについたからには、絶対自分のお子さんの重度自慢はやめましょうね」ということです。
次に子どもさんの「他の兄弟、姉妹の関係を考える」。
うちのお母さんが偉かったと思うのは、弟には絶対「将来、お兄ちゃんの面倒をみてね」とは言いませんでした。弟には弟の人生があるし、僕には僕の人生があります。今になって周りの状況をみると、一番嫌な思いをしているのは兄弟と住んでいる人です。兄弟と住んでいる障害をもった人ほど、つらい思いをしている人はいないなぁと思います。すごい遠慮があるんですね。親よりも兄弟の方が遠慮します。私は今、田舎からお米を送ってもらっているのですが、電話で「お米ないから送って!」と言う時も、電話口に弟が出たら言いにくい。兄弟も結婚しますでしょ。お兄さんの奥さんとか、めちゃめちゃ気にしますヨ。兄弟の方は「面倒を見る」という思いが強くて、「お母さんが死んだら、私がこの子を守っていかなあかん」と、ガチガチに守ってしまう場合があると思います。そうなると、自由がなくなります。僕も今、奥さんが出ていって、弟に面倒をみてもらわなあかんということになったら、私は絶対、施設に行きます。その方が気がラクなんです。
お母さんがお姉さんとかに、「この子の面倒をみてね」とか言ってると、そのお母さんとお姉さんの関係がイビツになってきますね。「この子に弟の将来を頼まないとあかんねんから」とか思うと、言いたいことも言えなかったりする場合があります。まだ皆さんのお子さんは小さいですが、他の兄弟姉妹にあまりプレッシャーをかけないように、他の兄弟姉妹には自分たちの人生があります。本人には本人の人生があります。
「親が成長していくことが自立への近道(リアクションとしての自己決定)」
「知的障害をもった方の自己決定というのは、何ですか」とよく聞かれます。知的障害をもっておられる方が自分から発していく自己決定というのは、すごくむずかしい人が多いのではないかな、と思っているのですね。たとえば、ここにお菓子があますよね。ポッキーを食べるか、クラッカーを食べるか、コアラのマーチを食べるかという時に、私だったらコアラのマーチを食べよって思う。これが自分から発する自己決定です。けれど、知的障害の人がどれを食べよか? それくらいはだいたいできます。座った段階でもうすでに食べてる人もいますよね。もっと難しい決定の場合、自分から発する自己決定というのは、すごくむずかしい。でもリアクション、人に何か聞かれて答える自己決定というのは、わりとできる人が多いんじゃないかと思います。
「ここにコアラのマーチとポッキーとクラッカーがあるやんか。ポッキーはちょっと甘いかもしれない。クラッカーはちょっとからいかもしれない。コアラのマーチは中からトロ〜と出てくる。何が食べたい?」と聞いたら、考えますね。それでコアラのマーチを食べようかなっていう、これが知的障害をもった方々の自己決定に近づく1つではないかなと思っています。
そうしたら、ここで大事になってくるのは、親の成長なのです。聞き方によって全然違うでしょ。たとえば、親がこの子にクラッカーを食べさせようと思ったら、「ポッキーもあるし、コアラのマーチもあるけどなぁ、クラッカーがおいしいで」って言ったら、クラッカーを食べようかということになる。だからお母さん達にいろんな勉強をしてほしいんです。何を食べるか、ぐらいだったらいいですよ。たとえば働きたいのか、もっと違う遊びのことをやりたいのか、という選択がある。親が働くことが一番いいんだと思っていたら、そっちの方にいってしまいます。いくら自己決定、自己決定と言っても、親の思い通りに動くロボットを作っちゃうようだったら、親がいなくなったら、決定できなくなります。だから、お母さんがフラットに「どれに決めてもいいんだよ」という環境を、どれくらい作っていけるか、という風なところで変わってくるのではないでしょうか。「リアクションとしての自己決定」ということを、お母さん方、もう少し考えて下さい。「うちの子は自分で何も決められませんから」ではなく。
僕は今、やっと身体障害者の自立生活というのが働くというところからはなれたと思います。もっと人生を豊かにというところに生活の基盤が動いていると思います。知的障害をもった方は、まだまだ労働ということにすごいこだわりがあります。ここにいる土屋くん(介助の方)がよく言うのですが、「一生、ごきげんな生活を送れたらいいのではないか」。だけど論文で「ごきげんな生活」という言葉を使って、そんな言葉は論文に適さないとおこられたらしいです。僕は適さないとは思いませんが。私はこの頃、「ごきげんな生活」という言葉をよく使います。ごきげんな生活というのが送れたらいいと思います。
最近、知的障害者に年金が出るようになりました。この年金というのは国からもらっているお給料なのです。昭和64年の法律改定で所得計算されるようになりましたので。それまでは所得計算されませんでしたから「おこずかい」だったのです。そのかわり、昭和64年からは年金の額もガバッと上がって、だから全員ある程度の収入はある。年金にも所得税がつきます。ですから、私は国からもらっているお給料だと思っています。そうしたら、障害をもっている方々は国家公務員ということになります。それ以上、働いたら罪になる。だから本当に軽作業でいいのです。
「個人別プログラム計画」の意味と重要性ということについて。
私は『自立生活は楽しく具体的に』(かもがわ出版)という本を出版しておりまして、これは家でも自立に向かえるような個人別のプログラムをつくっていきましょう、という内容です。これは今、だんだん注目されてきています。皆さんが最近よく耳にされるIEP(個人教育プログラム)という言葉がありますが、その母体になっているのがこのIPP(Individual Program Plan )という「個人別プログラム計画」です。お母さんや、養護学校の先生、施設の職員さんなどに向けて、私とうちの主任研究員の武田の二人で書いた本です。
今までは、施設や学校では集団プログラムです。朝10時になって1時間目がはじまったら、皆で同じ教室へドーッと行って、昼休みになったら食堂へドーッと行って、というような集団プログラムではもうダメで、家でも学校でも、その子にあったプログラムをつくっていかないと本当の成長はない、というようなことがここに書いてあります。アメリカでは70年代からやられていた考え方です。日本に伝わってくるのが遅いですね。日本では集団でやった方がラクでしょ。これからは変わっていくと思います。
「自立生活の実現のために必要なもの」を4つあげます。
まず1つは「人権擁護の問題」です。この人権擁護というのは、「禁治産」という制度がありましたね。この「禁治産」から離れた成人後見人制度を求めることが大事だということが最近よく言われてます。今、日本の場合では禁治産宣告を受けないと後見人はつけられない。禁治産になりますと選挙権はなくなりますし、いろんなものに制限を受けます。それだったら、後見人がついて後をやってくれるというのがあるのです。ヨーロッパやアメリカではそんなことはないのです。ヨーロッパでは人権をそのままもった形でのアドボケーターという考え方があるのです。個人の人権を本当に守る、財産管理から全てをその人に全部任せられる。東京都でも、その制度をつくろうということで今、動いています。関西では、この動きがまだありません。この、禁治産宣告を受けないと動けないというのは、これから変わっていかないといけない制度です。
次に「所得の保障」というのがあります。これも生活保護ではない経済的保障を求めていかなければいけないと思います。アメリカ、ヨーロッパなど先進国では、障害をもつ人だけの生活保障というのがちゃんと出るようになっています。日本には年金というのがありますが、足りないですよね。今、私たちのもらっている年金は、月々85,000円くらいです。私ぐらい身体障害が重くなりますと、重度障害者手当というのも出ます。全面介助になりますと、これが25,000円くらい。ですから、私は今 110,000円くらいの年金が確保されています。けれども、足りないですよね。そうしたら、生活保護ということに一般の障害をもつ方はなるのですが、生活保護の基本的な考え方というのは、「一時的な給付である」ということが書いてあります。ですから、仕事についたりすると切りますヨ、ということになります。でも、障害をもった方で生活保護をとって、いつかは障害がなくなるってことは絶対ないので、一生を通した生活保障、所得保障というのが、これから大事になってくると思います。
3つ目に「人的資源の整備と確保」ということで、ガーディアン制度やアテンダント制度の整備というのがあります。京都ではまだ悲しいことに知的障害の介護ヘルパーという制度がないのです。大阪ではあります。けれど、大阪にあって京都にない制度がいっぱいあります。なかなか天王山を越えないんです。あの天王山、険しいですね。「制度の天王山」と言われまして、あそこをこえない制度がいっぱいあります。
知的障害をもっている子ども達でも、大人達でも、介護というのは必要です。今、介護福祉の学校というのがいっぱいできていますよね。そこの実習で知的障害者の施設とかは認められないんですね。だから厚生省は基本的には知的障害の人たちには介護はいらないと思っている。ですから、いろんな社教へいっても、車イスの講習会とか、手話講習会,目の不自由な人の手引きとかの講習会はあっても、知的障害者の介護講習会というのはひとつもありません。これは難しいんですよ。僕らもよく知的障害の人たちとお話したり、こうして一緒にシンポジウムしたりしたのですが、短時間で知的障害をもつ人たちとの魅力をボランティアにつたえていくことは、すごくむずかしいことです。だから、もっともっと時間をかけて知的障害者のボランティアの育成をしていかないといけないんですね。これからの知的障害者の関係者の人たちの大きな1つの課題だと思います。
最後に「福祉制度の整備と充実」ということで、ディサービスやレスパイトの充実と書いてあります。レスパイトとディサービス、これは同じことなんです。間違わないで下さいね。お母さん方から見たらレスパイトで、障害をもっている人達の方から見たらディサービスとか、ナイトサービスとか、ショートスティとか言います。レスパイトが新しいものというのではありません。
お子さんのこれから自立心を育てていくためには、いつ親から離すか。精神的にね、別に横に置いといてもいいんですよ、一緒に住んでいても。うちの母もよく言ってました「おまえは私にとっての身体の一部や」。それは僕、ウソやと思います。そしたら、何か? お母さんたちはおこるかもしれないけど、障害をもった子ども達は、お母さんにとっての「パンツ」みたいなものとよく言っています。なぜかというと、何かはいてないとスースーする。それで、はきなれてくると、なじんでくるので、できればかえたくない。ずーっと肌につけていたい。けど、だんだんよごれてきます。パンツって不思議なもので、自分でぬがないと勝手にぬいでいってくれない。私の場合は、アメリカに一人でとんでいってしまいました。自分でパンツのゴムを切って、とんでいってしまいました。それで、うちのお母さんは次のパンツをはいてくれた。そういうきっかけがないと、パンツがぬげないですよ。でも、お母さんからぬいでいただかないと、パンツはぬげない。パンツくんたちも、きれいにあらってもらって、できれば次の場所にいきたいわけです。次の人にはいてもらいたい。でも、はく人、イヤですよね。人のはいたパンツ。そのためには、お母さん達が別のパンツをはいてもらわないといけないんです。お母さん達が早く自分のパンツを洗濯して次の違うパンツにかえてもらう、ということを、精神的にはなるべく早い段階でやっていただいたら、どのようなお子さんであっても、自立に向かうのではないかと思います。
私はダウン症のお子さんは非常に好きです。いい子が多いですよね。奈良のタンポポの家という施設があるのですが、そこは知的障害の子も身体障害の子も通ってきてくれるのですが、そこに知的障害のえりちゃんという22才の子がいます。私は1ケ月に2回くらいしか行かないのですが、行くたびに寄ってきてくれて、抱きついてくれて、ほっぺたにチュッ! としてくれるんです。僕もダウン症関係の本をグループホーム関係ですけれど書かせていただいたりして、非常に興味がありますので、又、何かご協力できることがあったら、と思います。
質疑応答
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質問
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レスパイトサービスについて。滋賀県の知的障害者の為の24時間在宅サースについて、どういうものかご存じですか。
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谷口
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障害者プランを受けて、甲西町を中心として7町村が県からの助成金を受けて知的障害者の人たちの24時間サービスをつくってつこうという動きがあります。滋賀県の県庁の中にある障害福祉課か、民生局の障害福祉課に聞いて下さい。「障害者福祉計画」と言います。民間と行政と第3セクター、あらゆるものを使って、24時間ディサービスやナイトサービス、ショートスティなど、をやろうという内容です。滋賀県では知的障害者関係では一番充実している。でも、今始まったばかりです。興味があれば、一回行ってこられたらいいと思います。
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質問
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IEPのことですが、私は最近インターネットでいろいろ見ていると、IEPのホームページがありました。カナダですが。アメリカでは70年代からやられていると書かれています。日本では教育関係者の人に聞いてもあまり知らないようで、どうして入って来なかったのでしょう。
文部省が管理教育がいいと思っているから、全然そういうところに先生を派遣したりしなかったからでしょうか。
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谷口
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それが一番の大きな原因だと思いますね。日本の場合は、みんなと同じことをしているのがいいんだという教育方針でずーっときましたから。それと、個人別にやると、お金と時間がかかると思っているからです。実際はそうではなく、私の本にも書かれていますが、50人の人達を5人の指導員で見るよりは、10人を1人の指導員で見た方が効率はずい分あがる。指導者がサボっていられないんですヨ。50人を5人の人が見ている時は、一人ぐらい居眠りしていてもわからない。けれど、10人の障害をもっている人がいて、そこに1人の指導員だったら、ねてられないでょう。アメリカなんかではそういう効率を考えますから、そしたら5つのプログラムを平行して動かした方が個人にあってくるのではないか、1つのプログラムで5人が50人を見るよりは、5つのプログラムでそれぞれに1人の責任者をつけて10人づつやった方がいいのではないか。日本も変わっていくはずです。変わっていかなければいけないんですけど、やっぱりなかなかかわらない、ということです。
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質問
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いつも教育関係の人と話をすると、すれ違います。
京都では普通中学へ行けば、養護学校の高等部へは行けません。高等部の先生が言うには、障害児学級や養護学校から来た子どもはタイムカードをおすのにも慣れていて、全然違うと言うのです。職業訓練の作業をさせるのに手間取らない。普通学級の子は面倒をみきれない。だから障害児学級や養護学校へ行かせた方がいいと言うのです。自分も普通学級で障害児をもったことがあるが、まわりの子どものためには良かったけれど、その子のためには、ひとつもよくなかったと言うんです。むしろ、ほったらかしでケアできなかったから、本当にその障害児の子のことを思うならば、障害児学級でちゃんとケアしてもらうほうがいいのよと私に言うのです。そこがすれ違いの原因なのです。なぜ、その子のことを見てないのかって思います。まわりの子どもに与えた影響、その側からしか判断できない。教育者というのはそういう風な観点からしかみてないのかなあと思いました。
先生が言われる話とまったく符合するなぁと思って、ウンウンとうなずきながら聞いていました。
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谷口
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実際、デンマークの統合教育では、1クラス28人にしているんです。日本の場合は40人でしょ。最近は少し減ってきましたけれど。今、京都でも廃校が増えてきていますよね。廃校にしなくても、もう少し生徒の数をへらしてでも、個人的な教育ができるようなシステムができないかなぁと思います。やはり経済的に無理なのでしょうね。京都では地下鉄をつくったりばっかりに、お金がなくなりましたから。
皆さんのお子さんの年齢ではやはり学校が大事なのですね。中学・高校と未来的な観点をもって動きを考えていかないといけないと思います。皆さんのお子さんはまだ小さいですが、高校を卒業した方やその親御さんによく話を聞くと、「養護学校へ行っている間が一番幸せでした」と言われます。そのような年配のお母さん方の話を聞くと、卒業してからもいい人生を送れるような生活をしていっていただきたいと思います。
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